・描写ができているのか? という疑問
小説を書いておりますが、最近は描写について悩んでおります。
自作の中で、
のような(に)
という表現が頻出していることに気づきました。以下に、直近で書いた短編小説「夢の値段」と「ア・テンポへの戻し方」の中から例として挙げておきます。
冷房の風が頬を撫でるが、単調な作動音は辺りの暗闇に吸い込まれているかのように耳に届かない。
きっぱりと拒むように伝えたのが、松井の表情や声音に何一つ変化はない。
「夢の値段」より引用。
原田の空いている長い指が、何かの曲を思い出すかのようにテーブルの縁で動く。
原田の顔は安井の言葉を受けたところで、頬が柔らかく弧を描いたり、互いの過去を知った上で優しく語りかけるように唇が動くわけではなく、微かに笑おうとして動いただけだった。
安井は原田の目を見たまま、自分達の過去を慰めるような弱々しい声で沈黙を破った。
「ア・テンポへの戻し方」より引用。
これで描写できていると思っていたのですが、果たしてこれは本当に描写できているのだろうか? と疑うようになっています。
描写についてあれやこれやと考える前に、描写という表現について今一度辞書を引いて確認してみます。
新明解国語辞典第七版より引用します。
*びょう(オ) しゃ⓪ 【描写】
━する(他サ)
〔小説・絵画・音楽などで〕表現の対象とする状態や情景をあたかも現実の世界の事象であるかのように表わすこと。
「心理━・人物━・内面━・━力③」
僕は描写というものをそれだけではなく、読者が描写を読むことで、この表現の他に何を読むか、すなわち書かれていない部分に読者が自らの意思で踏み込み、解釈する、というふうに捉えています。
描写をこのように捉えているのは、僕が書く小説の分野が主に純文学と呼ばれるものだからです。純文学と呼ばれている分野は、通俗文学や大衆文学に求められるような物語性よりも、純粋な芸術性に重きを置いています。
純粋な芸術性というのが何なのか僕自身よく分かりません。分かろうと進むと、本筋から大いに外れてしまいますので、ここでは触れずに進みます。
ただ、純粋な芸術性というものはもしかしたら描写にあるのではないか、描写というものが何かしらのキーを握っているのではないか、と思います。
そこで今一度、描写というものを改めて考えようと思った次第です。
この記事では主に、僕の書いている文章の中で半ば悪癖のように出てきている二つの表現について注目します。
・のような(に)+名詞
・形容詞+名詞
この二つです。
これからこの二つの表現について色々と書きますが、この二つの表現が悪いわけではありません。
これが描写であると判断し、この表現しか用いられない、場面場面に応じて適切な言葉を探し出せないことが難があります。
過去に「小説における「説明」と「描写」について今一度見つめ直す話」という記事を書きました。いくつか重複する部分はあると思いますが、ご了承ください。
・そもそも描写は必要なのか? 小説の文章に存在する幾つかの役割と機能
描写について考える前に、小説の文章という大きな枠組みについて触れておきます。
ここを触れずに描写に進みますと、そもそも何のために描写というものをしているのか? と首を傾げたくなると思いますので。
小説の文章は絶えず一つの方向に進んでいます。
終わりに向けて、です。
小説が始まり、終わるまで以下のような図で表すこともできるでしょう。
始まり→終わり
この矢印の中で色々な言葉が紡がれ、表現が生まれ、描写されます。
そして小説というのは映画のように、何秒間この場面を映して、役者達の言動を撮って……などという時間の制約があるものでありませんので、始まりから終わりに至るまでの時間は作者が自由にコントロールできます。
その時間をどのように作者はコントロールしているのかといいますと、小説の中で書かれる言葉でコントロールしています。
本論を貫く描写というものも、表現の対象とする状態や情景をあたかも現実の世界の事象であるかのように表わすというものであれながら、同時に時間軸をコントロールしております。描写の他に、場面と説明があります。
それぞれは、物語が終わりへと向かう進行時間に対して以下のような関係を持っています。
・場面=進行時間
場面の進行と物語が終わりまで向かう進行時間が等しいです。登場人物同士が会話や対話を重ねているシーンなどは、場面と言えるでしょう。
・説明>進行時間
説明の進行と物語が終わりに向かうまでの進行時間は、説明の方が広い範囲を扱います。
こう書きますと抽象的に感じられますが、特定の作品について誰かと話している時に、向こうから、それってどういう作品なの? と訊かれた時に、あの作品は何々で、と要約して答えている時があると思います。あれはまさしく説明です。
あるいは、可愛い人という表現も説明になるでしょう。詳しくは後述しますが、形容詞により人を修飾し、語り手の評価や感覚を伝えています。
どのような部分や言動によって可愛い人だったのか、まで書くと描写になります。
物語が終わりに向かう進行時間より広い範囲を扱い、読者に広い範囲の物事を伝えているのが分かると思います。
・描写<進行時間
描写の進行と物語が終わりに向かうまでの進行時間は、描写の場合は他の二つと比べて非常にゆっくりとなります。
色々と言葉が書き連ねているけれど、全然物語が進んでいない、という体験をした方がおられると思いますが、あの時です。
時間にすれば十分の出来事を、何枚あるいは何十枚というページを割けば描写に近づくでしょうし、一行で書けば説明に近づくことでしょう。
これら三つの関係は、別の見方をすると以下のように整理することもできます。
物語が終わりに向かうまでの時間÷文字量
図として表しますと以下のように整理できます。

この比率が小さくなればなるほど、描写が多い、と考えられます。
これは描写というものが、対象を具に描くためです。説明と違い、詳らかに書きますので、詳細です。説明が何かを伝えることを最優先事項にしているのでしたら、描写は、どのようにというのを伝えるのが最優先事項と言えるでしょう。
これら三つを自由に組み合わせ、言葉の意味以外の役割や機能を持たせて、小説は終わりに向かいます。
・ような(に)+名詞は何を描写しているのか? あるいは何を描写できていないのか
描写というものが小説の文章の中でどのような役割を持っているのか明らかにしましたので、それでは本題である僕の悪癖の解剖に進みます。
まずは、のような(に)+名詞です。
例として冒頭以外にも、幾つかの表現を自作から引っ張ってきました。
楓は控えめに笑って、健二の心の縁を撫でるかのように訊く。 「三が日が過ぎても」
川の流れのようなブルーブラックの中に、削られていない岩のような、堰き止める何かを英子は見出している。
雅史は、英子の謝りたい気持ちを喉元へと呼び起こすように首を傾げる。
「黒、赤、青」
それまで歩んできた廊下と違い、真夜中のようにひっそりとしている廊下だった。 「乱調の美」
一見すれば、描写ができているように見えます。直喩のように見えるかもしれませんが、作者は直喩として、これらの表現を使用しておりません。
日本語の文法に従って、この表現に注目してみたいと思います。
これらの文章は、以下のような品詞で構成されております。
の 格助詞
ような(に) 助動詞
名詞 体言
修飾語と被修飾語の関係で見てみますと、のような(に)の部分は全て名詞に掛かっており、名詞を修飾していることが明らかです。
名詞というものが、どういう状態や性質であるのかを、のような(に)で繋ぎ、一つの文章にしているのです。分かりやすく伝えるための表現で悪くないように思えるかもしれませんが、ここで僕が描写というものをどんなふうに捉えているのか思い出していただきたいです。
読者が描写を読むことで、この表現の他に何を読むか、すなわち書かれていない部分に読者が自らの意思で踏み込み、解釈する、というふうに捉えています。
のような(に)という部分は全く別の言葉で置き換えた方が適切です。読者の読みの範囲を、のような(に)という表現で限定してしまう可能性があります。
しかし一方で、こうとも考えられます。描写というものが、表現の対象とする状態や情景をあたかも現実の世界の事象であるかのように表わすことであるならば、この描写でも良いのではないか。読者に伝えることを考えるのであれば、そういう描写でも良いのではないか。
良いかもしれませんが、改めて考えてみてください。この描写を書くことで作者は読者に何を伝えたいのだろうか、と。この描写を読者が読むことで、この状態の奥にある描かれていないものを読む幅を狭めていないだろうか、と。
僕は作者であり読者ではありませんので想像の域を出ませんが、おそらく読みの幅を無意識のうちに狭めていると思われます。
・形容詞+名詞は何を描写しているのか? 果たしてそれは本当に描写として機能しているのか?
形容詞+名詞と書くと難しい話のように聞こえるかもしれませんが、可愛い顔、冷たい手、明るい部屋などのことを指しています。
のような(に)の時と同じように、修飾・被修飾語の関係から確認していこうと思います。
ここまで描写というものについて色々と書いてきましたので、もうお気づきの方もおられると思いますが、形容詞+名詞は説明に近しい性質を持っています。
名詞を形容詞で修飾しているのだから、修飾という機能が、説明に近しい性質を持つのは当然ではないか、と思われるかもしれません。形容詞という性質上、誰かが何かを評価しているのだから、説明に近しくなるのではないか。それは僕も否定しません。
ここで問題なのは、どのように、という部分が描いて(描けて)いないのに、描写した気になっている、という部分です。
形容詞+名詞が一切描写できていないと言いたいわけではありませんが、できている部分もあります。冷たい手など、触覚の描写として成り立つこともあるでしょう。明るい部屋など、視覚の描写として成り立っていると思われます。
描写というのは、形容詞+名詞だけではありません。もっと沢山の方法があります。そういうものを考慮せずに、形容詞+名詞だけを使って良いのだろうか。
描写することによって、読者の読みをどんなふうに誘発したいのか。そこまで考える必要が作者にはあります。
少なくとも、純文学の小説を書いているのでありましたら、意識的に引き受ける部分だと考えております。
・描写は作者が書いているのか? 語り手と描写の関係性について。どうして僕は説明を減らしたいと考えているのか
これまで描写について色々と書いてきましたが、最後は、その描写が書かれる前の段階について考えてみたいと思います。
明るい部屋、という形容詞+名詞の表現が、小説の中で登場した時、こんなふうな疑問を懐くことができます。
この「明るい」は、誰のどういう感覚によりもたらされたのだろうか、と。これは何も、「明るい」などといった形容詞だけに限った話ではありません。
何故、その表現が使われたのだろうか、と全ての文章に言えます。
作者が頭の中で想像した時に「明るい」だったから、「明るい」という語を用いた。
しかし、小説の中の登場人物に作者は登場していません。作者は、語り手という存在を通して、物語を進展させています。
「私」や「僕」などで進む一人称視点での小説でも同じです。
僕は作者と一人称視点での小説における私や僕を同一の人物でなく、小説を終わりまで展開させるための存在、語り手であると考えています。
その語り手が、言葉を選び、小説を終わりまで進めている。そのように解釈しています。
明るい、可愛いなどの形容詞は、誰かの感覚の元で判断され、用いられます。のような(に)も同じように、判断を先回りして名詞の前に置かれています。
以上のことから、語り手が、明るい、可愛いといった言葉を用いて描写をしているのか。それとも、作者が語り手のことまで考えず、直感的な判断を下し、安易な表現として描写しているだけなのか。
そういうふうに分けて考えることができます。
僕の書いている描写は、作者である僕ではなく、語り手や登場人物の感覚を描くためです。そして、その描写を読者が読むことで、登場人物の理解を深めてもらうことを考えています。
分かりやすく伝える技術は必要です。必要ですが、全てを分かりやすく伝える必要はないと考えております。小説というものは論文や評論文のように明確な何かを伝えるためのものではありません。語り手が存在し、その語り手が読者を小説の終わりまで導きます。
時には、難しく、分かりにくく、抽象的な、遠回りした描写も必要だと考えております。読者が文章を読み、そこに書かれた物事を考えるためにも。
だから僕は、説明を減らしたいのではなく、語り手の判断や描写を読者に返したいのです。描写とは、語り手の感覚を通して、読者の解釈を誘発するものでありますので。