「三が日が過ぎて」
「どうして年賀状を?」
早川楓の疑問は、大学の冬休みが終わりへと近づく週末に、白い息と共にようやく人混みへと流れた。隣から、上擦った声や詰まった声の一つや二つは返ってくるだろうと思ったが、何の言葉も返ってこない。全然知らない人達とすれ違い、話し声や笑い声が楓の耳の後ろに触れた。
「……健二くん?」
石の階段を登っていた足を止めると、黒いブーツの踵が固い音を響かせた。
晴れ渡った青空に吹き荒ぶ風は冷たく、華やかなチークを入れた頬や鼻先が痛む。手袋で包んだ指先にも冷たい風が入り込んできて、かじかむ。コートのポケットに両方の手を入れる。呼吸で眼鏡のレンズが曇った。
眼鏡のレンズをハンカチで拭いて振り返ると、人混みの中に、サークルやバイト先で一緒の二つ下の後輩の姿がある。黒いダウンジャケットの上に巻いたマフラーを結び直している高橋健二。楓と目が合うと、黒い目を大きく輝かせ、タイトな黒いパンツから伸びる足がすぐに動く。普段のスニーカーとは違い、固い革靴が小気味良い音を立て続けに奏でる。
「それで」
「え、あ、駄目でした?」
健二の眉が下がり、黒い目の端が縮む。
白い息が震え、楓の顔の前まで昇ってきた。楓は咄嗟に答える。
「え、あ、いや、そうじゃなくて」
聞くはずだった上擦った声は、楓の口から零れた。
「急だったしびっくりしただけで……年賀状もらうなんて久し振りだったし」
最後に友達から年賀状を貰ったのは、小学生の頃のような気がする。そういうのが流行っていて、楓も送った覚えがある。
沈んだ声が、隣から聞こえる。
「ですよね……」
二人は並んで階段を登り、朱色の大きな鳥居をくぐり、石畳を歩く。痛々しい沈黙が二人を取り巻いているようで、楓は冷静に訊く。
「いや、そんなに落ち込む必要なくない?」
「そうですけど。いや、何か、……そうですよね」
繰り返される言葉に、楓は空気を変えようと笑いかける。
「あ、自己解決した」
健二は首を真横に振る。黒いマッシュヘアが左右に揺れる。
「いや全然です」
「律儀で丁寧なんだなってちょっと見直したんだよ?」
健二の声は瞬く間に大きく明るいものに変わった。
「早川さん、それマジで言ってます?」
健二は胸の前で拳を握っている。
楓は声量に驚き、一瞬眉が寄った。
「うん」
すぐに健二を慰めるように柔らかく笑う。
石畳はいつの間にか終わり、砂利道が続いていた。細い影がいくつも落ちている。視線を上げると葉の落ちた木や枝が空を覆うように広がっているのが見えた。砂利道の端には、綿菓子や唐揚げやお汁粉など祭の時に見たことのある屋台が並んでおり、参拝客が列を作っていた。どこかで何か肉類を焼いているのか胡椒や油の香ばしい香りが風に乗っている。
大きな声を上げた健二は視線を集めており、声を潜める。近づいてきた横顔には、楓の言葉をまだ信じていないような疑惑の色が見て取れた。
「重いとかではなく?」
思い掛けない健二の言葉に、楓は首を傾げる。思わず先輩としての仮面が壊された。楓は一瞬足を止め、健二の目を見つめる。健二の瞳の奥に、楓の硬直した顔が映っている。
「……急にどうした?」
健二も足を止めていた。視線が宙をさまよう。楓の言葉に答えようと言葉を探しているのか、手袋に包まれた手がジャケットの裾を叩いている。
「何か重くないですか?」
楓は心の中で平常心という言葉を繰り返し唱え、歩き出す。
「年賀状を送るのが?」
「そうです」
「どうして急にまた」
「スマホでできるじゃないですか」
「確かに?」
「それをわざわざアナログでやるのは……」
悲観的な方向に沈んていく健二に、楓は助け舟を出す。口角を心持ち大きく持ち上げ、軽やかに伝える。
「日記を紙とペンでやる人だっているし、良くない? そんなに気にすることじゃないよ」
「そんなものなんですかね……」
弱々しい返答に、マフラーの中に隠れた楓の頬が固くなる。
楓が健二と初詣に来ることになったのは、年が明けて数日経ってから送られて来た健二の年賀状に、初詣に行きませんか? と書かれていたからである。年末年始をアルバイトで過ごした楓は初詣に行けておらず、行く? と返事を送った。
鋭い視線を健二の顔に投げる。
「え、何、返事を書いた私も重いって言いたいわけ?」
次第に低くなっていく楓の声に、健二の姿勢が真っ直ぐ伸びていき、声に覇気が宿る。
「いえ、全然全く! 早川さんには本当に助かりました。ありがとうございます。遅い初詣、本当嬉しいです!」
楓は力強く笑い、健二の背中や肩を軽く叩く。
「よしよし、良い後輩だ」
「先輩に、何か温かい物、買ってきましょうか?」
「あ、そのキャラ貫くんだ……。ありがたいけれど、お参りとかおみくじ引くのが先じゃない?」
健二は顔を上げ、背伸びをして、列の先頭を探し出そうとする。
「まだ先みたいですし、何か買ってきます。あ、希望あります?」
「暖かいお茶を。優しい先輩なので、ここは私が出すよ」
楓は肩に掛けていた小さな鞄から、財布を取り出し、幾らかの現金を健二に手渡す。
「え、あ、良いんすか?」
健二に直接言いたいことは、まだある。年賀状が送られたどうこうよりも、このことはしっかりと言葉にしたかった。楓はきゅっと頬を上げ、口角に角度をつける。穏やかな声に、しっかりと恨みを込めることを忘れない。
「誰かさんのお陰で、バイト代に年末年始の手当てついたからね」
健二の顔に、苦い笑みが瞬く間に広がる。
「その節は……。え、バイト代、早くないですか?」
「店長が手渡しでくれた」
「太っ腹ですね」
「そう。だから、今年の年末は、健二くんがお願いね」
健二はすぐさま短い声を上げた。
「え」
楓は睨むように視線を上げる。健二の目は左右へと泳いでいた。
「何、嫌なの?」
「いや、嫌とかそういうわけでは……心の準備が」
「私だって、できてなかったよ?」
「それは本当に仰る通りです」
「四年の年末年始ぐらいゆっくりしたいわけ。もう家族にも、来年はちゃんと帰るからって言ったし……。まぁゆっくりできるかどうかは分からないけれどね」
「それもそうですね! じゃ、何か買ってきます」
健二の大きな背中を、楓は見送る。
周りからは、明るい声が響いてくる。
楓は手袋を外し、鞄にしまっていたスマホを取り出した。冷たくなる指先を動かす。健二に、バイトのこと本気にしなくていいよとメッセージを送ろうとしたが、すぐに全ての文章を削除した。別の言葉を、励ますような言葉を送ろうと、文章を打ち込む。送信を押そうとした時、健二からメッセージが届いた。
――ベビーカステラとか食べます?
楓は小さな笑みを零し、自分の書いた言葉を全て消して、食べたい、と返事を送る。既読がすぐにつき、スタンプが返って来た。列は少しずつ進む。楓は小さな歩調で前に進む。
「お待たせしました」
健二が楓の元に戻って来たのはすぐだった。息を弾ませ、肩を上下させている。
「早くない?」
健二は片手に紅白に彩られた小さな紙袋を持ち、もう片手には同じ色合いの紙コップを持っている。
楓の見開かれた目が、紙コップに落ちる。
「それは?」
中には、串に刺さった唐揚げが三つ、焼き鳥のように並んでいる。
「唐揚げです。あ、ちゃんと、先輩のお使いもしてきましたよ」
健二はそう言って、片方の手で器用に紙袋と紙コップを持ち、ダウンのポケットから、ペットボトルの茶を取り出す。
「ありがとう、それにしても早くない? 空いてた?」
受け取ると寒空に晒した指先が、じんわりと暖かくなる。
健二は清々しく笑い、少し胸を張る。その顔を注意深く見ると、マッシュの髪の隙間から辛うじて覗ける額に、汗が滲んでいるように見えた。
「走りました」
「そんなに急ぐ必要なかったんじゃない?」
健二は唐揚げの串にかぶりつく。白い息と湯気が、二人の間を昇る。
「一人で待っているのって、心細くありません?」
自分の心の中を覗かれたような気がして、楓の肩が少し跳ねた。虚を突かれたように唇を閉ざす。濡れた両の唇はどちらも固い。
健二はその沈黙に堪えられないのか、言葉を並べる。
「え、いや、あ、え、なりません? 俺はなるんですけど……」
楓は控えめに笑って、健二を心の縁を撫でるかのように訊く。
「もしかして、私から年賀状待っている間、そんなふうに思った?」
健二は大きく頷く。
「無茶苦茶そんな気でした」
「気にし過ぎ」
歯を見せるように大きく笑って、健二の片手にあるベビーカステラが入っている紙袋を奪い、一つ二つと摘む。熱かったが、それよりも口の中一杯に広がる甘さが、楓の細い心に染み渡った。熱い茶が喉を通り過ぎると、これもまた心に染み渡った。白い息が輪のように広がる。
「これ食べると、何か特別な気がする」
「あ、それ分かります。屋台でしか買えない食べ物筆頭ですもんね」
「綿菓子とか林檎飴は夏の食べ物なんだよね」
「暖かいかどうかっていうのはありそうですね」
「健二くんのそれも、お祭り感あるね」
「……今ちょっと小馬鹿にしました?」
「いや全然。わんぱくだなぁって」
「絶対馬鹿にしてますよね。先輩には分からないかもしれませんけど、この唐揚げだって串に刺さって、紙コップで食べる分、特別ですからね」
「そんなに力説しなくても聞こえているから」
そんなことを話していると手水舎の前に辿り着いた。視界が開け、手水舎の向こうに、立派な拝殿が見えた。木々や屋台の姿はなく、雲一つない澄んだ青空の下に、そびえている。今年の干支が、大きな絵馬に描かれている。拝殿の左右には、お守りやおみくじや絵馬などが売られている。それまでの会話がぴたりと止む。屋台で買った物をすぐに食べ終え、ゴミ箱に捨てる。
手と口を清めると、瞬く間に指先が赤くなり、痛みが走った。
拝殿へと赴き、賽銭箱に小銭を投げ入れる。
楓は二度頭を下げ、二度手を鳴らし、一度礼をする。目を薄く閉じ、祈願する。叶えたいことは、幾つもある。全てを叶えてもらうことは困難を極めるだろう。どれが一番叶えてほしいかと考えを巡らせ、楓は祈願することを一つに絞った。
顔を伏せたまま、隣に薄っすらと視線を向けると、目を閉じ、静かに手を合わせている。熱心に祈願しているらしく、眉間には皺が寄っている。マフラーを外し、赤い唇が小さく動いている。
※
「あ、ぜんざいとほうじ茶のセットをください」
「同じので」
かしこまりました、とお店の方が座敷から離れる。
楓は足を座敷の下へと伸ばす。掘り炬燵になっているらしく、冷えた足先が温まる。貸し出された膝掛けで覆うと更に心地良かった。
張り詰めた肩や背中をほぐすようにゆっくりと息を吐く。息を吸うと甘い香りや茶の香りが鼻先をくすぐる。腹の虫が鳴った。後ろの座敷や周りのテーブルから、気軽な話し声が聞こえる。楓も彼等を真似するように気軽に言う。
「空いてて良かったね」
健二は空になったグラスに水を注ぐ。
「そうですね」
「もしかして、緊張してる?」
健二は視線を周りに向ける。楓は彼の視線を追いかけるように周りを見る。座敷とテーブル席があり、どこも人で埋まっている。引き戸が開くと上部に取り付けられた鈴が鳴り、お店の方が満席であることを説明している。
「え、あ、はい。こういうところあんまり来たことなくて」
健二の緊張を和らげようと笑いかける。
「バイト先のカフェと変わらないよ?」
健二は楓の言葉を聞き、笑った。
「え、いや、和洋の違いはありますよ」
「そう?」
「早川さんはよく来るんですか?」
楓は顔の前で手を横に振る。
「いや、全然。年に一回来れたら良い方」
健二の目が丸くなる。
「……その割には随分と落ち着いているように見えますけど?」
「和風のカフェって思ったら、大丈夫」
「肝座ってますよね、そういうところ」
「褒めてる?」
「褒めてます」
「ならば良し」
お待たせいたしましたと声をかけられ、黒い丸盆が、楓と健二の前に置かれる。丸盆の端には今年の干支の箸置きに紅色の箸が揃えられている。黒く塗られた大きな椀の中には、粒あんの中に四角い餅が二つ入っている。隣のごつごつとした茶碗には、琥珀色のほうじ茶が注がれている。
楓と健二は自然と小さく手を合わせる。砂糖とあんこの甘さに、頬が落ちる。餅は思いの外伸び、白い線を顔の前に作り出す。両手で茶碗を持つと、思ったよりも重かった。
「わ、思ったより重い」
健二は悠々と大きな手で茶碗を持っていた。
「本当ですね。あ、ほうじ茶、熱いですよ」
「大丈夫、熱いの得意だから」
「……そうなんですね」
楓は慎重に茶碗を口元に運ぶ。上品な香りに迎えられた。
健二の顔も楓と同じように柔らかくなっていた。健二の口がすらすらと動く。
「何をお願いしたんですか?」
「え」
「何だか随分と熱心でしたので」
楓の頬が熱を帯びる。隠すように茶碗の茶を啜る。
「……見たの?」
「え、あ、済みません。見えました」
真面目な調子が返ってきて、楓は健二を気遣うように明るく楽しげに笑った。
「そんなに真面目に謝る必要ないよ。そんなに真剣だった?」
「はい」
「そっか。いや別に大したこと……いや、大したことか」
冗談のように軽い調子で言おうとしたが、将来のことを考えると声は自然と沈んでいった。溜め息が零れる。
「ほら、もうすぐ四年じゃん?」
「そうですね」
「それでまぁ、卒論もそうだけれど就活とかあって忙しくなるわけじゃん?」
「インターンとか行ってましたし、そこで決まりじゃないんですか?」
今年の夏は、就活の準備で潰れた休みが多かった。暑い日でも普段と変わらず仕事をしている方々を見ると頭が下がる思いだった。あんなふうに自分が働いている姿を想像できない。
「……まぁ、どうなんだろうね」
「え、あそこ、ブラックなんですか?」
「いやいや、そういうわけじゃないよ。インターン行ったからって、即決定ってわけじゃないってだけ」
「とりあえず内定持っていたら、楽じゃないですか?」
「それはそうだけれど、そもそも卒業できるかって問題も当然あるしね」
健二の驚嘆が、座敷へと滑り落ちる。
「え、そんなに単位取れてないんですか?」
楓は即座に真面目な調子で否定した。
「取れてる取れてる。単位の問題じゃなくて、卒論」
「何なくできてそうなイメージなんですけど……?」
「長い文章書くの得意じゃないの」
ゼミでは何とかなる、大丈夫と言われているが、いざ文字に起こしてみると難しいものがある。これを発表するとなれば、どんな言葉を浴びせられるか分かったものではない。過去の研究を継ぎ接ぎしているだけで、これが自分のしたい研究なのだろうかと思う。独創的で画期的でもなく、全然研究というものに向いていないのだと痛感する。もう少し頭が良ければ、大学院への進学という道もあったのだろうか。
健二は気遣うように笑う。
「あぁ……でも、そこらへんは書き進めたりしたら何とかなるんじゃないですか?」
「何とかなってほしいから、どちらか片方は神頼みしようってわけ」
「卒論か就活を、ですか」
「そう」
「ちなみにどちらを?」
「就活かな、やっぱり。面接とかグループディスカッションでよく知らない人と話す機会増えるし。上手くいきますように、って」
「早川さんだったら、いけますよ」
楓は健二の全然自分のことと思っていない無責任な言葉に言い返した言葉はいくつかあった。しかし、それを口にしてしまえば、楓の思考も良くない方向に転がっていく気配がある。
「健二くんは何を願ったの?」
健二は自分に訊かれると思ってなかったらしく、高い声を上げる。
「え、俺ですか?」
「うん。私より、随分と熱心にお願いしてたように見えたからさ」
「……見てたんですね」
「見えちゃったの」
「そうですか」
「それで、何を?」
健二は楓の視線から逃れるように、顔を天井に向ける。柔らかい沈黙だったが、肌に触れると冷たいものがある。健二は顔を下ろし、真っ直ぐに楓を見つめる。店内の照明の加減か、黒い瞳は澄み切っている。
「今は、言えません」
慌てたり、焦ったりしない、はっきりとした言葉だった。思ってもなかった言葉に、軽口や冗談を返すようなこともできない。素直な疑問が、小さな声になる。
「……なにそれ?」
健二は恥ずかしげに笑う。
「早川さんのに比べたら、自分のはまだまだなんで」
「え、いや、そこまで言われると気になるけど?」
「あ、いや、まだ言いたくないだけで、ちゃんと教えますよ」
「本当?」
「本当です」
「帰るまでには教えてくれる?」
健二は大きく首を縦に振る。
「それは勿論。約束します」
「良かった、約束だよ」
茶屋を出て、朱色の大きな鳥居を再び潜り、二人は帰路を歩む。日は随分と高いところに昇っており、アスファルトの上を歩き続けていると背中に薄らと汗が広がる。手袋やマフラーを外すと、外気の冷たさが心地良い。
神社から最寄りの駅までは小さなアーケードとなっており、左右には土産物屋や飲食店が並んでいる。人混みは神社の中に比べれば緩やかになったが、他の人の肩や背中がぶつかりそうになる。足が止まりかけると、土産物屋や飲食店で声をかけられる。
後ろから、健二の声が届く。
「あの、早川さん」
楓は人混みに流され振り向けず、声だけを返す。
「ん?」
思ったよりも近くにいるらしく、すぐに声が返ってきた。
「さっきのことなんですけど」
「さっきのこと?」
アーケードが終わり、歩道の向こうに駅舎が見えた。赤信号が灯り、楓は足を止める。追いついた健二が隣に立つ。
「何を願ったのか、っていうあれです」
「あ、はいはい。何、もう教えてくれるの?」
「はい」
「本当に教えてくれるんだ」
「約束ですし」
「ちゃんと守れて偉いね」
「小さい約束でも守った方が良いって育てられたので」
「それで何を願ったの?」
信号は青になった。周りの人達は歩道を歩く。健二はまだ歩かない。楓は青になった信号を見上げ、言う。止まっている二人を急かすように、信号機が単調な音を発する。もうすぐ赤に変わるらしい。
「青だよ」
楓は健二の先を歩もうと足を動かす。その足を引き止めるように、健二が言う。
「もう少しだけ」
楓は健二の言葉を聞き逃さないように、隣に戻る。
健二は続けて言う。
「もう少しだけ、早川楓さんと一緒にいたい。そう願いました」
楓は言葉を失い、健二を見上げる。何かを言おうと口を繰り返し動かしていると、耳まで赤くなっていくのが自分でも分かった。
信号はいつの間にか赤へと戻っていた。
楓の手を、不意に温かいものが覆った。角張った、固い骨を感じさせる大きな手に包まれる。楓の指が、その中で一瞬跳ね上がる。が、すぐに、その熱を逃さないように自分の指を絡めた。
楓は小さく、声を上げた。
「少し、遠回りしようか?」
「え、良いんですか!」
健二の喜びに満ちた叫び声を上げる。空いているもう片方の手で拳を作る。楓を追い越すように健二が歩き出そうとする。楓は先を行こうとする背中に、笑いながらそっと声をかける。
「そんなに急ぐ必要ないよ」
歩道を渡らず、二人は並んで歩き出した。〈了〉