「乱調の美」
伊藤忠は大輪を咲き誇らせる花弁の裏側を覗き込んだ時のような気まずさが、妻である美代の丸みを帯びた細い両肩に覆い被さっているように見えた。真昼間が近くなり、白いレースの向こうからリビングに入ってくる陽の光の中にいる美代は、一輪の花のようにすらりと立ち、リビングとキッチンの間を、ルームシューズを柔らかく滑らせ、遅い昼食を用意してくれている。黒いランチョンマットの上にはフォークと小さいスプーンが並べられており、白い皿の中央には、湯気の立つ赤褐色のソースがかけられたパスタが盛り付けられていた。挽肉の焦げた香ばしさと、煮詰めたトマトや玉ねぎの甘みが溶け合い、湯気となって鼻先をくすぐる。
手に入れた休日は、輝かしいはずだった。
「なぁ」
キッチンの奥では、スープを温め直しているようだった。コンロ周りが熱くなっています、という単調な音声が、忠と美代の間に広がる。忠に声をかけられた美代は短い声を振り向くことなく、冷蔵庫の中を探している。
「今週末、長沼と食事でもどうだ?」
食卓の椅子に座る忠がそんな言葉を続けたのは何も偶然ではなかった。
美代は薄いカーディガンから透けて見える背中越しに、今週末? と確かめるように、笑みを含んだ、さらりとした声を上げる。冷蔵庫からタッパーを取り出し、振り向く。長い黒髪が揺れ、ピンで片方に寄せて見える額が白く輝く。丸い小振りな皿にレタスや薄くスライスされた玉ねぎ、小さな丸いトマトが取り分けられる。
「長沼くんと? 私が?」
色白な頬に乗ったわずかな肉には、先程の微笑の存在を感じさせるように赤い口角と共に上がっている。長い睫毛に縁取られ、一際目立つ潤んだ大きな黒い瞳が、忠の目を見ている。
「長沼から聞いていない?」
「何にも。結婚してから全然連絡取ってないわ」
忠は自然と首を傾げ、眉を顰めて記憶を辿ったが、脳裏に描かれるのは長沼との会話ではなかった。忠と長沼との間にそのような会話をしていないことを、忠自身知っていた。忠が今、唐突に美代へと提案したのである。
忠の脳裏に描かれているのは、五年前の、丁度結婚したばかりの美代の姿だった。あの頃と現在の美代を比べると変わりはないように見える。しかし、忠は美代の変化の手触りを感じている。このまま自分との生活を続けていけば、その変化は手触りで済むだけではないような気がした。
「俺には言ってくれたんだかな」
美代は用意したサラダをテーブルに並べる。
「私と食事したい、って?」
忠は椅子から立ち上がり、コーンのポタージュをカップに注ぐ。
「違う違う。ほら、駅前のホテルのレストランあるだろう?」
「新しくできた、あのホテル?」
「そう。あそこのディナーの食事券が当たったらしくてな」
「長沼くんが?」
忠は二人分のスープを、食卓へと運ぶ。
「忘年会の抽選で当たったらしい。ペアのやつが」
「それで、私達にってこと?」
「相手がいないし、どう? と俺達にな」
椅子に掛けている美代は、スープが置かれるとありがとうと礼を口にする。微かに目に力を込めて睨むように忠を見上げる。
「あなたと一緒じゃ駄目なの?」
忠は椅子に座り、いただきます、と手を合わせて、昼食に手をつける。熱い黄色いスープを一口飲み、美代の提案から逃れるように予定を共有する。
「プロジェクトの締め切りが週末だからなぁ……。行けたらいいけれど難しいかもしれない」
「土曜日も日曜日も両方?」
「クライアントは週明けからサービスを使いたいから、どっちも対応に追われる可能性が高い」
「残念ね」
美代は忠を労うように、形の良い眉を下げる。彼女の細長い指先はテーブルの上で組まれ、絡み合い動き出す気配を見せない。忠はパスタをフォークで巻き付けながら、言う。
「冷めないうちに食べないか?」
美代はレタスにフォークを突き刺し、きっぱりと涼しげに明るく言う。
「なら行かないわ」
「有効期限が切れるらしい」
「だったらそれで良いんじゃない?」
会社の忘年会で手に入れたものなどそんなふうな扱いになっても良いのではないか、という口振りだった。もし本当に長沼が忘年会で手に入れたのであれば、忠も美代と同じようなことを口にしていることだろう。しかし今回は、違う。忠は友達を気遣うように優しく声をかける。
「久し振りに会ってやるのも悪くないんじゃないか?」
「あなたはお仕事なのに?」
「俺が仕事だからだよ。一人で家で食事をするより良くないか?」
「それで長沼くんと?」
「ああ」
「それ、長沼くんには言ったの?」
「まだ」
「話はそれからじゃない?」
「長沼が良いって言ったら行くのか?」
忠は自分の声が、彼女に念を押すように力強くなっているのが分かった。美代は忠の腹の底に響くような声を聞いても驚いたり、たじろいだりする素振りを見せない。短く穏やかに、まるで忠を落ち着かせるように微笑を浮かべ、答える。
「ええ」
忠は美代に気づかれないように胸の内の空気を外へと漏らす。
「近いうちに話しておくよ」
美代はパスタを食べる手を止め、訊く。
「もし、長沼くんが断ったらどうするの?」
「それはないんじゃないか?」
「どうして?」
美代は何も知らないといった様子で小首を傾げる。忠は小さく笑って、
「あいつはそういう男だから」
と言い切る。美代は忠の言葉を聞いて、頬を瞬間的に膨らませ、ぷっと短い破裂音を立てる。
「そんなに付き合いあった?」
「あったよ」
「意外」
「意外ってなんだ?」
「長沼くんとあなたって正反対っぽく見えるから。ほら、彼、真面目そうじゃない?」
「俺が不真面目みたいな言い方じゃないか」
「そんなことないわよ。あ、ほら、冷めないうちにお昼、頂いちゃいましょう? 全然進んでないじゃない?」
忠は言い返すことなく美代の言葉に従い、昼食を食べる。
※
ラベンダーグレーの足首程度まで隠れる丈のシフォンワンピースを身に纏い、久し振りに足を通したミドルヒールの黒いパンプスは、ヒールの高さの分だけ、美代を長沼へと近づけさせた。
ホテルの高い天井にぶら下がっているペンダントライトの明かりを受け、耳につけた小振りなイヤリングや手に提げた黒いハンドバックの金具が輝く。左手の薬指にはめた銀の指輪が光を弾く。ワンピースから、白い肩の輪郭が透けて浮かび上がりそうだった。視線を感じ、美代は低い位置でまとめた黒い髪によって晒される首筋などを隠すように白いショールを羽織る。一歩踏み出す度に、磨き上げられたグレータイルが硬さと冷たい音を返す。
フロントで待ち合わせをしていることを告げると、右手のエントランスの奥でお待ちです、と教えられた。
エントランスには大きな壺が置かれ、季節を先取りした薔薇やダリアが扇のように広げられている。美代の鼻先に、豪奢な甘い香りが掠めたような気がした。大きな黒いソファが何脚も並んでおり、キャリーケースを脇に置いて談笑している者もいれば、スマートフォンを眺めている者の姿もある。その中に、見渡せるような位置のソファに深く腰掛けている男がいた。男の視線はエントランスやロビーに行き交う人々を見ていないようで、ぼんやりと景色を楽しんでいるように感じられる。しかし彼等の顔や装いを一つ一つしっかりと確認している鋭さがある。
仕立ての良さそうなブラウンのスリーピースのスーツを着た男は、美代の足音に反応したように顔を向ける。黒い瞳と目が合う。美代は瞬間的に足を止めた。男の視線の鋭さが瞬く間に姿を消した。黒いツーブロックを手で少し整えると、ジャケットのボタンを留め、美代の方へと間合いを測るように歩んでくる。スーツと同じ色のストレートチップの表面が輝いた。
「久し振り」
低く、艶のある声音は言葉の音一つ一つを滑らかに響かせ、聞く者の胸に柔らかな安らぎを灯す。忠と歳が近いのに、歯を見せて笑顔を浮かべると途端に子供っぽく見えるこの男こそ、長沼だった。
美代は一層白い頬に差した普段は使わないローズレッドのチークやリップが崩れないように、ゆっくりと口を動かす。
「相変わらず、良い声だこと。結婚式以来かしら?」
自分の立場を思い出し、そっと警戒心を瞳に乗せる。丁寧に整えられた睫毛の奥にある、大きな黒い瞳を、アイボリーのシャツの上で結ばれる赤いスプライトのネクタイの辺りに向ける。ほっそりとした顎が、視界の端で笑顔と共に柔らかく緩んでいるのが分かった。
「美代さんも相変わらず、美しい」
「ありがとう。お誘いを受けたから」
「場所がここじゃなくても変わらないだろう?」
「さあ? それで、立ち話を続ける気?」
「俺は全然立食に変更でも良いけれど?」
「私が嫌よ」
長沼は美代の脇を通り、
「こちらです」
と、畏まった調子で先を歩く。美代は長沼の後ろを着いていく。
ロビーを通り抜け、エレベーターへと向かう長い廊下を歩む。幅の広い廊下には現代アートらしい抽象画が何枚も眩い光の中にある。
ホテルの名前が胸元に刺繍された清潔な白いリネンの寝巻きを着ている者達は廊下に置かれているチェアに並んで腰掛け、喋っている。その声は大きく、もう酒を沢山飲んでいるような丸い調子だった。
ホテルマンは美代達を見かけると口元に笑みを浮かべ、恭しく頭を下げる。挨拶の後、何か困ったことはありませんか? と尋ねられる。美代が小さく首を横に振ると、ホテルマンは廊下の傍に寄る。
ホテルの大きな窓に映る外はどこも深い群青色で塗りつぶされ、ただ美代の目元や口元、鮮やかに見える耳の端に浮かんでいる怪訝な色を映すばかりだった。
長沼の後ろを追いかけていたようだったが、いつの間には距離が開いていた。美代は大きく足を動かし、長沼の高い背に追いつく。高いヒールの音が立て続けに鳴る。
「ねぇ」
「なに?」
「私以外の誰かと来てもよかったんじゃない?」
長沼は廊下の途中で足を止めて、美代と向き合う。射抜くような切れ味の良い視線が、ホテルの広く、長い空間を走ったように見えた。
美代は竦むように足を止め、彼の顔を確かめるように見上げる。その顔には意識的な軽さが口角や眉に滲んでいる。
「俺が?」
「うん」
長沼は何も分からないといったように大袈裟に首を傾げる。
「どうして?」
「いないの? そういう人」
美代は周りの者達に聞き取られないように声の調子を落とし、長沼の形の良い耳に顔を寄せる。
「あ、もしかして、……最近上手くいってなかったり?」
横目で見上げる長沼の眉が少しだけ眉間に寄り、乾いた笑い声を上げる。
「あの、美代さん」
美代は長沼の胸中を察したように、目元を柔らかく下げる。
「あ、いいのよ。別に答えにくかったら」
「だったら……」
長沼の呆れたように吐き出された息と共に露わになった言葉尻を逃さないように、美代が同じ言葉を繰り返す。
「だったら?」
長沼はすぐに笑顔を浮かべて答える。
「伊藤からはもっと別の連絡が来るよ」
「食事以外の?」
長沼は笑顔で頷く。
そう言い切られると、確かにその通りのように思われた。
「それもそうね」
長沼は美代に背を向ける。
「食事前の準備運動はこれで満足?」
美代は長沼に見えないように笑う。
「ええ。お陰で、美味しい食事が食べられそうだわ」
「それは良かった」
長沼は再び歩き出し、美代は彼の後ろを追いかける。慣れた手つきでエレベーターのボタンを押す長沼の動きに合わせて、ジャケットの袖口からアイボリーのカフスが覗く。小さく丸い黒曜石が、光を受けて濡れたように艶めいている。
エレベーターに乗る者は他のエレベーターを使ったらしく、長沼と美代しか乗客がいない。
長沼が乗り込み、ボタンパネルのすぐ側に立つ。美代は長沼と対角線となるような所に立つために、ヒールの音を響かせる。
「良いカフスね」
「美代さんのイヤリングも良いよ」
レストランは地上の喧騒とは遠いところにあるようで、見る見る上昇していく。
忠とこういう場所に訪れるとことはあるのだろうか。結婚記念日や誕生日にこういう場所で食事をするのだろうか。あるいは宿泊するのだろうか。しかし、こういう場所は美代の趣味ではあるが、忠の趣味ではなかった。彼ならば、もう少し心身がリラックスできるような温泉や旅館の方が良い。美代としてはそういう落ち着いた所も嫌いではないが、そういうところはまだ自分の年齢では十二分に楽しめないように思う。
エレベーターは目的の階で止まり、軽い音を立てる。ドアが開く。
それまで歩んできた廊下と違い、真夜中のようにひっそりとしている廊下だった。柱や天井の所々にあるらしい間接照明の光は、今の美代には物足りないように映る。
真っ直ぐ伸びる廊下の先に、自らの存在を明らかにするかのよう光り輝くレストランの文字がある。絨毯の敷かれた廊下は、長沼と美代の靴音を吸い取る。美代は自然と長沼の横顔に自分の顔を寄せて、小さな声で言う。美代の予想を裏切るように弾んだ声。
「良い所ね」
長沼は美代の耳元に顔を寄せて、楽しげに言う。
「良い所だ」
長沼とレストランの前まで歩みを進めると、大きな両開きのドアが開かれた。赤ワインの渋みのある香りが鼻腔をくすぐり、ソースに絡んだ肉の香りが漂ってくる。どこかで焼かれているパンの香ばしさも混ざっている。
美代の足が固くなる。爪先が冷たく、一瞬痛みのようなものを覚えた。結婚式の時のことが脳裏を過ぎる。人生の中で最も美しく着飾った瞬間。
長沼の引き締まった横顔を見上げると彼の視線は前を向いており、扉の前に立つホテルマンとは異なる制服のスタッフの姿がある。
「お待ちしておりました。長沼様とお連れ様ですね。こちらへどうぞ」
店内は廊下よりも明るいように思われたが、所々に黒い影が目立つ。人影なのか本当の影なのか一瞬、判断を迫られる。白いテーブルクロスが敷かれた円卓は一脚一脚が余裕のある距離を取っている。窓際の席に案内されると、店内を小さく流れる管弦楽の演奏の隙間を滑るように、前後左右から聞こえる他の客の声は、言葉の端だけがふと耳に触れる程度しか聞こえない。
窓から見下ろした地上では、光が星のように輝いては駆けていく。忠は、この時間でもまだ仕事をしているのだろうか。そんな予感だけは、胸の端を通り過ぎた。
「美代さん、食前酒は飲む?」
長沼はウエイターの持ってきた酒のリストを、美代の方へと滑らせる。暗い光の中に浮かぶ長沼の顔は、エントランスや廊下という明るい所で見た時よりもどこか冷たく見える。が、リストを滑らせた指の端に震えるような力が宿っているのを、美代は見逃さなかった。
忠が長沼との食事の話をした時、最後にこう確認していた。長沼が良いって言ったら行くのか、と。念を押すような力強さがあった。
美代としては長沼が良いと言っても、スケジュールの都合で難しくなったと断る気でいたのだが、あそこまで夫から念を押されると妻としての立ち振る舞いを強要されているのではないか、と思った。美代の知らないところで、話はもう進んでいたのかもしれない。長沼の付き合いがあったと忠が言い切れたのも納得できる。
美代は長沼から酒のリストを受け取った。ざっと目を通してリストを閉じる。
「カンパリオレンジをください」
とウエイターに頼む。
「長沼くんは?」
美代はリストをウエイターに返そうとして、長沼が頼んでいないことを思い出し、彼に差し出す。長沼はリストを受け取ると目を通すことなく、ウエイターに差し出した。
「俺も食前酒を、と言いたいところなんだけれど、あんまり強くなくてね。トニックをオレンジで割ったものをください」
ウエイターは、かしこまりました、と頭を下げて、美代達のテーブルを離れる。美代は記憶を探っている間、長沼の言葉を繰り返す。
「強くない?」
美代の記憶が正しければ、彼は新郎の友人のテーブルで、酒を飲み続けていた記憶がある。ハメを外すような豪快な飲み方ではなく、式の雰囲気を守るように少しずつ、それでも確実にビールなどを飲んでいた。
「俺だって、場の空気ぐらい読むよ」
「今こそ読む時じゃない?」
長沼は自分の飲み物に口は付けず、言う。
「だったら、メインの肉料理が来た時に合いそうなボルドーの赤を一本頼む?」
美代は目の前に置かれたカンパリオレンジの苦味を楽しむように、口角だけを持ち上げる。
「あら、選べないの?」
「魚料理派だった?」
「いや、お肉の方が嬉しいけれど? てっきり選べるコースだと思ってた」
長沼は微笑を浮かべて、渇いた喉を潤すようにオレンジを飲む。
「ここは選べない。五品全て決まっているイタリアンのコースだから」
前菜であるカプリーゼ風の盛り合わせが二人の前に置かれた。グラスのような透明な器の中央には、白く柔らかな袋状のブッラータ。周囲には艶やかな赤いフルーツトマトと薄く透ける生ハムがあしらわれ、皿には筆で引いたようなバジルソースが流れている。
美代はナイフとフォークを手に取り、そっとブッラータの表面に刃を入れる。中から、とろりとした生クリームが静かに溢れ出した。バターのように濃厚なチーズとトマトの酸味が丁度良かった。美代の頬は自然と柔らかな弧を描く。
「美味しいわ」
「うん、美味しい」
調子を合わせるように長沼は言う。けれども、その頬は美代と再会した時に同じ時のように緩やかな角度だった。
「主人が仕事だったのが残念ね」
「相変わらず真面目な社会人をしている?」
「ええ、今日もお休みなのに仕事だったわ」
薄い生ハムを一口で食べられるようにカットしていた長沼の手が止まる。
「休日なのに?」
「ええ、何だかお客さんと大事なお話があるみたい?」
長沼の口元に忠に同情するような微笑が零れた。美代に見せる、他人を試したりするようなものではなく、友人を労う純粋な微笑。
「大変だ。休日出勤をするような仕事じゃなかったと思ったのに」
「昇進したのよ」
「流石、伊藤だ。やっぱりか。あいつは人の上に立った方が良い人間だから」
「それ褒めているの?」
「うん、とっても。人を動かすのが上手いからね、あいつは」
「そんな人と付き合うのは大変じゃない?」
長沼は歯を見せて笑う。
「全然。分かりやすくて助かる。あ、これ、伊藤には内緒にしておいて」
長沼は長い指を一本立てて、濡れた口元に添える。美代は笑うか迷った。が、音となった口から発せられたものは随分と真面目な調子だった。
「言わないから安心して」
「ありがとう、助かったよ」
「そういうことは思っていても言わない方が良いんじゃない?」
「だから出世とか縁がないわけ」
美代は広々とした店内を微かに見渡すように視線を動かす。
「運は良いのに?」
長沼はトマトやソースの刺激に咳払いを一つ零し、トニックを飲んだ。
「……否定はできないかもしれない」
前菜の器が下げられ、パスタ料理が運ばれてきた。平らな皿に丘のようにふんわりと盛られ、淡いクリーム色の細いパスタの端々に薄く切られたレモンの皮が春の花のように散らばっている。黒胡椒の香りが、鼻先を刺激する。
冷たいトマトの酸味やチーズを味わった後には合わないように思えたのだが、口に運ぶと温かなチーズの奥から、柑橘類の爽やかさが漂ってきた。
長沼の小さな、自分に言い聞かせるように言った言葉は、美代の耳朶を揺らす。美代は自然と彼の言葉で頷く。
「……合う」
「うん、合う」
聞かれていると思ってなかったらしく、長沼の頬が赤みを帯びたように見える。長沼は落ち着いた声を上げる。
「それで」
美代は目尻を下げて応じる。
「何かしら?」
「メインが来る前に、何か赤でも頼む?」
美代はフォークを操る指先を一旦止めて、長沼の目を見る。エントランスや廊下で見た時と違う、深い色が帯びている。見つめていると、その深い色の中に美代自身が映っているのが分かる。引き締めていると思っていた自分の頬に波のような笑みが浮かんでいる。
美代は汗のかいたカンパリオレンジのグラスを手にして、残っている分を飲み干す。冷たい苦味が喉を通ったが、美代の頭や胸にはしっかりとした熱があった。
「良いんじゃないかしら、一本空けましょう」
長沼は近くに立つウエイターに視線を送り、ワインのリストを持ってきてもらうように頼む。ワインに詳しくない美代は、さっぱりとした赤を、という希望だけを伝え、残りは長沼とウエイターに任せることにした。
「ブルゴーニュの軽めのピノ・ノワールを」
長沼が提案し、ウエイターが頷いた。
パスタの皿が下げられ、グラスとワインが運ばれる。ラベルの確認を済ませ、香りや色味の確認をした長沼は頷く。
「結構です」
長沼の言葉が合図となり、ワインが美代のグラスに注がれ、長沼のグラスにも注がれる。長沼がグラスを持ち、視線の高さまで掲げる。美代も線の細いグラスの脚を持ち、同じ高さまで掲げる。ワインの口にする前から、美代は自分の頬に熱が灯るのを覚えていた。
「良い夜になることを、乾杯」
「ええ、乾杯」
※
忠が目覚めると、家の中はどこもひっそりとしていた。自分の寝ているベッドと並んでいるベッドには誰の姿もない。スマートフォンを確認するが、連絡が届いているような通知は一つもない。寝惚けていた頭に激しい喜びが駆け巡り、瞬く間に覚醒する。
寝巻きのまま寝室を出る。ドアノブを握る手に汗が浮かんでいて、微かに震えていた。期待を隠しきれない、熱い笑い声が、忠の口の端から漏れる。リビングへと通じる廊下のドアが閉ざされていたが、誰かが起きているらしく、明かりが灯っている。
ドアを開けると、白い光の中に、瑞々しい花が今し方大輪の花を咲き誇らせていた。
薄いカーディガンを羽織った美代がキッチンに立ち、二つ並べたマグカップにコーヒーを淹れているところだった。美代は手を止めることなく、上目で忠を見た。目の下に薄い影があった。
涙を湛えたように潤んだ大きな瞳は、忠を惑わすような深さを帯びている。見る者を瞬間的に虜にさせる、深い色だった。
美代の赤い唇が、そっと動く。
「おはよう」
美代は、乾燥で喉を痛めたように少し掠れた声を忠にかける。
忠は驚いたように美代を見つめていた。美代はコーヒーを注ぎ終えると、今までと変わらないように柔らかな頬を少し持ち上げて笑って見せる。
「あなた? まだ寝惚けているんじゃない?」
忠は心に大きな波が立ち上がった。
「……ああ、おはよう。多分、そうかもしれない。ちょっと顔でも洗ってくるよ」
洗面所へ歩もうと背を向けて、思い出したかのように再び美代を見る。
「美代」
美代は小首を傾げる。
「どうしたの? シャワーでも良いし、顔を洗ってでもいいけれど?」
忠は笑った。
「お帰り」
美代はマグカップを持とうとした手を止めた。
「……ただいま」〈了〉
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