黒、赤、青

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「黒、赤、青」


 セピア色の原稿用紙に書きつけられているブルーブラックのインクが、升目や罫線の枠を超えて動いているように見える。文字の端の掠れや跳ねに勢いが増しており、山の中の林や木々に飛び交う虫のように思えた。太田英子は目が乾き、頭の片隅に痛みを覚え、原稿用紙から目を離す。

 天井を見上げると、眼鏡のレンズの向こうに、自分の家と同じくらい気に入っている宿の高い天井がある。原稿用紙に似たような色合いの灯りが、洋間を柔らかく照らしている。痛みが和らいでいく。

 テーブルの前の窓からは、一階のロビーを囲むように広がっている庭園が見下ろせる。庭の木々はかつては紅葉で賑やかなものになっていたのだが、今では細い木々を露わにしている。英子の目は風を受けて揺れる木々の端々に、先ほどまで自分が追いかけていたブルーブラックのインクが飛んでいるように見えた。

 英子は席を立ち、背後に置いてあるベッドに飛び込もうと見下ろす。消し忘れていたらしいベッド側の丸い照明が、眠りを誘うようにぼんやりと光っている。ここで一眠りして気分を切り替えれば、この夏に老衰で亡くなった加藤という作家の書いた随筆や断片は元のように見えるのだろうか。

 椅子の下に投げ捨てていた白いスリッパを履き、洋間と和室の間に伸びている固い廊下を歩く。和室の黒檀の広い机に積まれている原稿を視界に入れないように。キッチンの前を通り過ぎ、寝巻きからクローゼットにしまっている洋服に着替える。

 白いシャツのボタンを全て留め、厚手で同じ色のカーディガンを羽織り、タイトなベージュのパンツに足を通す。鏡の前で黒く丸みの帯びたショートカットを櫛で整えようとして手を止める。

 同じ作業をしている鮎川雅史も、この違和感の渦の中にいるのだろうか。それとももう脱して、読み進めているのだろうか。彼は英子と異なり、未完の小説や草稿を担当している。雅史はどこまで作業を進めているのだろうか。もし彼が多くの整理を終えているのならば、英子は急がなければならない。

 そもそも、遺稿の整理は妻や親族の手によって済ませられるのだろうと思っていた。しかし、妻や家族や出版社、同業者に向けられた複数の遺言書に英子と雅史の名前が書かれており、続けて遺稿の整理を任せる旨が記されていた。出版社から送られた遺稿の量が多かったため、二人で互いに相談し、手分けして整理することにした。どんな些細な違和感であろうと自分一人で片付けるわけにはいかない。加藤一の遺稿集という書籍の出版は余裕のあるスケジュールが組まれている。が、担当編集者が一日でも早く原稿が欲しいという空気を醸し出しているのは、小説家である英子と鮎川には嫌というほど伝わってくる。

 英子は軽く髪を整えると部屋を出る。

 こういう時、部屋に内線用の電話すらないのは不便だと痛感する。三階建てのこの温泉旅館は、一週間以上からの長期滞在者しか泊まれず、彼等の快適な宿泊のために電波は届かない山奥に建っている。外部と連絡が取れる手段は、一階のフロントにある電話を借りるしかない。不便極まりないと思うのだが、英子や雅史には誰にも邪魔されない環境が必要な時が多く、この環境に助けられているところは大きい。

 スリッパの軽い音を立てながら螺旋状の広い階段で一階まで降り、目当ての人物を探す。絨毯の敷かれた室内は、足音一つ立たない。革張りのソファと低いテーブルが何脚もセットで揃えており、それらは全て庭園へと向けられている。暖炉の前では薪が燃える低い音の中に混ざって、人の話し声が聞こえる。

 レストランや温泉への案内が景観へと溶け込むように端に並んでいる。フロントの従業員に雅史の所在を尋ねようとして、見知った姿を見かけた。

 テーブルを挟んで並んでいる奥のソファに、一人の男が座っている。客室に備え付けられている黒を思わせる濃紺の和服に袖を通し、落ち着いたように足を組んでいる。手前に座っている女性と話をしている。何か面白いことを聞いたのか男は歯を見せて笑う。ずれた眼鏡を肉付きの良い指先で直す。

 整えられた長い眉が吊り上がるのが、英子自身でも分かった。歩調が一気に荒くなる。男の正面で、立ち塞がるように足を止めた。

 英子が何か言うよりも早く、男が声を上げる。

「……失礼」

 その一言は英子に向けられたものではなく、談笑相手に向けられたものだった。男は談笑相手に広い手の平を見せて遮ると、ようやく英子へと視線を上げる。男の動きに合わせて、後ろでまとめた黒い髪が揺れる。落ち着いた低い声が、英子の耳朶を揺らす。

「英子先生、どうされました?」

 男と談笑していた女性は英子の顔を見て、慌てたように席を譲る。英子は短く礼を言い、大胆に腰を落とす。流れるように足を組んだ。

「何でもないわ。鮎川くん」

 英子の怒りを全然気にしないように、雅史は豊かに肉の乗った頬を上げる。

「それなら安心しました」

 英子は落ち着こうと高い天井を見上げる。部屋と変わらないセピア色が広がっている。天井の端にある黒い影がブルーブラックのインクのようだった。英子は目を閉じ、深く息を吐く。

「……進捗の確認に来たの」

「英子先生」

「どうしたの、そんなに改めて」

 嫌な予感を覚えて、英子は視線を戻す。雅史の顔から、微笑が消えている。しかしその声音は、先程までの柔らかなものを引きずっている。

「昨日の今日で変わりませんよ。先生の遺稿だからと根を詰めすぎのように思えますよ? 随筆や断片なんですから、もっと余裕を持った方が良いです」

 ここに滞在してから、ほとんどの時間を加藤の遺稿と向き合っている。雅史のように部屋を出てということは温泉に浸かる時ぐらいだった。

「そうかしら?」

「鏡、貸しましょうか?」

「結構よ」

「とりあえず一休みをおすすめしますよ、僕は」

「鮎川くんは、しっかり休んだ?」

 英子はこの時になってようやく、左手にはめている細い腕時計に視線を落とす。

「ええ、しっかりと。でしたら、息抜きにお昼でも一緒にどうです? その様子だとまだでしょう? それに、積もる話もありそうですしね」

「長くなるけれど、良い?」

「ええ、丁度、小説以外の言葉に触れたかったところでしたので。朝は食べられましたか? 食堂で見かけませんでしたが?」

「洋食派だから、部屋で済ませたの」

 雅史の視線が、英子の細い手首や足先へと落ちた。英子は雅史の視線を跳ね除けるように言う。

「心配しないでちょうだい」

「体調管理も仕事の一部、でしょう? 加藤先生の受け入りの」

「鮎川くんもそうでしょう?」

「当然です。お昼も洋食派ですか?」

「お昼は和食が良いわ」

 雅史は腰を上げ、英子の先を歩く。英子は雅史の案内に従い、彼の後ろを歩く。

「ご案内しますよ、こちらです」

「私の紹介で訪れたのに、随分じゃない?」

「英子先生のように部屋に閉じこもってませんので」

「仕事はしてる?」

「もちろんですよ。先生の書く小説はやはりいつでも良いです。軽やかに伸びる筆が気持ち良いです」

「……本当に言って?」

「これでも加藤先生から任命されたんですよ、僕も。先生の沢山のお知り合いの中からね。まぁ、英子先生の名前が先に書かれていましたが」

「私の方がデビュー早いから」

 鮎川との間に沈黙が落ちた。後ろでまとめられた黒髪が、雅史の歩く度に上下に房のように揺れる。

「僕も、新人賞で先生に読まれたかったです」

「受賞したじゃない?」

「結果論ですよそれは」

「でも受賞したことに変わりはないじゃない」

「先生が選考委員を辞退されてから、ですがね」

 過去へと引きずりそうな話題から、英子は本題へと戻す。

「それで、どうして私達が任命されたと思う?」

 鮎川はすぐに答え、レストランのドアを開けた。

「英子先生、それはメインディッシュと共に話しませんか?」
 

 ※
 

 鮎川は鉄火丼を食べ、赤だしを啜る。英子はいつ手をつけようか迷っていた赤身の刺身をようやく口にする。

「それで、僕達が任命された理由ですがね」

「鮎川くんから話すのね」

「英子先生から話しますか?」

 英子は箸を置き、日に焼けていない白い手の平を上に向けて鮎川へと差し出し、赤い唇の端を持ち上げて応じる。

「お先にどうぞ。私は会話の主導権を握られても抵抗ないから」

「お心遣い、ありがとうございます」

 鮎川は動じることなく礼を口にして、茶を口にしてから簡単に言った。

「僕達が加藤先生のことを他の先生方より知っているからです」

「……どの辺りが?」

「先生の遺言書が示してくれているじゃないですか。僕達からしてみれば先生のことは分からないかもしれません。ですが、先生からしてみますと僕達二人ならば知っていると判断した。他にどんな説明が必要になります?」

「随分と大胆じゃない?」

「信じているんですよ、先生のことを」

 雅史の目が、英子の心の内側を覗き込むように光った。

「一体、英子先生はどういう不安をお持ちで?」

 英子は眼鏡を外し、眉間に寄りそうになった力を緩めるように指を添える。軽く揉みながら、雅史の言葉の一部分を、不安という言葉を口の中で繰り返す。

「不安……不安なのかしら?」

 いつの間にか、はっきりとした呟きとなっていた。雅史は何も聞いていないというように口を挟まずに英子の言葉を待っている。

 英子の脳内で、加藤の文字が蘇る。万年筆の重みを頼りに綴られる数々の文字。年を重ねて弱々しくなった筆跡というよりも、文字を書くのに不必要な力を必要としなくなり、漢字は省略が目立つようになり、連綿と書かれることが多いひらがなは、一本の細い川のようであった。川の流れのようなブルーブラックの中に、削られていない岩のような、堰き止める何かを英子は見出している。

「一人だと思う?」

 雅史は自分に問われているのだと理解し、すぐに詳細を求めた。

「加藤先生が、ですか? それとももっと他のことでしょうか?」

「鮎川くんの考えていることを教えてくれない?」

「分かりました。でしたら、僕の考えていることを話しますね。物を書く時はいつだって独りですよ」

「そうなんだけれど……加藤さんの場合はそうじゃない気がするの。そんな気、しない?」

 晩年の加藤は病院への入院や施設への入所を断り、妻と共に生活を続けていた。その妻も、加藤が亡くなって周囲のことが落ち着いた頃を見計らったかのように息を引き取った。病床の中でありながらも懸命に身体を起こし書き物をしている加藤の姿や彼を支えるように生きた妻の姿は、英子の中で鮮やかに存在している。

「僕の預かっている分の小説では、現時点ではそういう影はありませんでした」

 雅史は続ける。

「僕達には分からない感覚ですが、加藤先生はもう先が長くないと悟ったんじゃないでしょうか」

 だからという言葉とその続きは、英子の胸の内にのみ留められた。

「鮎川くんだったら、どうする?」

 あまりに広い範囲の言葉を投げかけていることを、英子はすぐに反省した。雅史は、英子の謝りたい気持ちを喉元へと呼び起こすように首を傾げる。

「どう……ですか?」

「ごめんなさい、気になっただけ」

 英子が具体的なことを口にするよりも早く、雅史は答える。

「きっと僕も英子先生と同じ行動をしていると思います」

「小説でも?」

「だからこそです」

 雅史の真剣な眼差しに、英子は頬に宿っていた固いものが柔らかくなるのを感じた。

「そう、そうよね、そうなのよ」

 英子は目元を柔らかく緩めて笑った。

「ありがとう、助かったわ」

 雅史は残っている茶を飲み干し、目尻を下げて、赤い頬を英子と同じように緩めて笑う。

「こちらこそ、良いお話をありがとうございます」


 昼食を終えた英子は真っ直ぐに部屋へと戻り、再び加藤の遺稿と向き合う。違和感だと思っていた文字の端々に感じられたものは、今では濃い影として、英子の前に存在していた。

 英子はノートとボールペンを手に、洋間のテーブルに置いていた原稿用紙の違和感をまとめる。漢字の止めや跳ねに勢いが増している、と。

 スリッパを脱ぎ、畳へと上がる。傍らにノートを置き、黒檀の机に積み上げられている原稿用紙の文字を追いかける。加藤の書く文字の中に紛れている、不自然な筆圧や流れを探す。

 一文字ではなく、一文と見つけられれば遺稿をどう扱うかという話が浮上する。

 原稿用紙の言葉を点検するように追いかけると、インクの掠れが続く中に瑞々しいインクが紛れている箇所がある。インクが切れたから途中で足したと考えるには無理がある力強さと鮮やかさがある。連綿と書かれるひらがなの中に、万年筆の重みを制御しようとして不自然に流れたような固さが見える。英子はそれらの情報をノートへと書き連ねる。

 一文や随筆一つを加藤以外の誰かが書いた痕跡は見当たらない。書き足されている言葉はいずれも、加藤の書いた文章の続きを補うかのようだった。原稿用紙の末に記されている書き上げた日時が加藤の亡くなった日に近づけば近づく度に、その痕跡の量は増えている。

 最期の時まで加藤の側にいた妻の顔が、英子の脳裏に過ぎる。しかし、あの人がそういうことをするようには、英子には思えなかった。あらぬ疑いをかけたくない英子は静かに首を横に振り、原稿用紙の文字を追いかけることに集中する。

 断片には、加藤以外の誰かが書き足したものは見当たらなかった。随筆の中にのみ、加藤ともう一人の息遣いが感じられた。英子は細い息を吐き出し、まとめたノートと原稿用紙の束を持って、部屋を出た。窓の外から見下ろせるのは、もう夜の闇ばかりであった。
 

 ※
 


 英子を部屋に招いた雅史は何も訊かずに、空いている洋間の椅子を勧め、自分はそこが定位置であるというように畳に上がる。黒檀の机の前で正座をし、背筋を伸ばして黙々と加藤の遺した小説を読み進めている。

「読んでちょうだい」

 英子は彼の前に、まとめた情報を滑り込ませ、洋間の椅子に腰掛けた。

「これは?」

「読めば分かるわ」

 全てを読み終えた雅史は口を閉ざしたまま、腰を上げた。英子の側を通り抜け、キッチンまで歩み、インスタントのコーヒーを二人分用意する。マグカップを選び取る指先も小さなスプーンを扱う手先もお湯を入れる手の動きも、普段と変わらない落ち着いたものだった。

 英子は短く礼を言って、微かに震える指先で、マグカップを受け取る。口をつけようとしたコーヒーは白い湯気が立ち、熱かった。雅史は畳の上に座り、熱いブラックコーヒーを冷ますことなく飲んだ。低い声が、部屋に広がった。

「英子先生のお考えは?」

 英子は重たい頭を支えるように額に指を添える。

「掲載を見送る、かしら」

「それは、全てですか?」

「違うわ、該当部分だけよ」

「一つの判断としては良いかもしれませんね」

 英子は少し冷めたコーヒーを口にして、雅史に訊く。

「鮎川くんの考えは?」

「僕は、全てを加藤先生の名前で掲載するべきだと考えています」

「……詳しく聞かせて」

「分かりました。お話をする前に二つほど質問しても良いですか?」

「何かしら?」

「英子先生は、誰がこれをやったのかご存知ですか?」

「……二つ目は?」

「その人に確認を取れたり、動機や理由を話してもらうことは可能ですか?」

「裏が取れないのであれば先生の名前で掲載しても良い、と?」

 語気を荒らげないように努めた英子の声は自分が想像しているよりもずっと張り詰めた、固い声だった。雅史は静かに首を横に振った。

「そこまでは言ってません。勘違いさせてしまったのでしたら、謝ります。申しわけありません」

「謝罪はいいから、鮎川くんの考えを聞かせて」

「僕の方では、英子先生が見つけられたような筆跡は確認できてません。小説ではそのようなことができず、随筆では行えたという可能性が浮上しています。この第三者が、小説家である加藤先生よりも、……もっと別の加藤先生をご存知からだと思われます」

 雅史の脳裏には誰の顔が浮かんでいるのだろうか。英子と同じ、年老いた、柔和に笑うあの女性の顔が浮かんでいるのだろうか。

「かもしれないわね」

「英子先生、一つ考えてほしいのですが、遺稿に手を加える方法は、こういう手段を用いなくても良くありませんか? それこそ、英子先生が行ったように別紙でまとめる、とか。注釈を加えるということも可能だと思います。ですが、そういう方法を採用しなかった」

「……そういう方法を知らなかった可能性はあるんじゃない?」

「有り得るかもしれません。ただ仮に知らなかったとしても、遺言書に従って遺稿を整理する僕達に一言声をかければ解決したはずではないでしょうか? 書きかけの部分には注釈を加えてほしいとか。それもなかった。この方がやったことは、加藤先生の筆跡を模倣して、加藤先生が書いたようにした」

「それで?」

「英子先生は、この第三者の行為が、いつから始まったとお考えですか?」

「いつ? そうね……先生が亡くなってからじゃないかしら?」

「たとえ身内であろうと他人の筆跡を模倣するのは簡単なことではないと思います。それに普段は使わない万年筆で、しかも作家の癖のある力加減や言葉の流れを真似するとなれば、もっと時間が必要なのではないでしょうか?」

 雅史に問われ、英子の背中に汗が伝う。

「ちょっと待ってちょうだい。つまり、鮎川くんは、こう考えているのかしら。先生が存命の時から、書き足しが行われたのではないか、って?」

 雅史は一瞬、何かを噛み締めるように唇を噛んだ。ゆっくりと、英子に問う。

「もっと言えば、加藤先生も同意の上だったのではないでしょうか?」

 そんなこと有り得ないでしょという言葉は声にならず、震えた息だけが、英子の唇から零れ落ちた。

「仮に、仮にそうであったとして……」

 英子の動揺を誘うように、雅史は続けて言う。

「僕達や出版社が確認できない、加藤先生が直筆で書いた書面が一通だけあります」

「……奥さん宛の遺言書」

 雅史は首を縦に振る。どうして、という誰に向けたら正しい答えが返ってくるのか分からない言葉を、英子は口にする。雅史は英子の迷いに気づいたように、分かりません、と小さく答えた。英子は震える瞳を、雅史に向ける。

「ねぇ、鮎川くん。もし私がここで、やっぱり先生の名前で掲載しましょうって言ったら、そうしてくれる?」

「申しわけありませんが、その気持ちにお応えすることはできません」

「それじゃ、掲載を見送りましょうって意地になったら?」

「一緒に頭を冷やす時間を作ります」

「……ありがとう」

 遺稿の整理は、英子と雅史二人に委ねられているものである。英子だけが該当箇所の掲載を見送ると決めたところで、雅史だけが加藤の名前で掲載すると言ったところで、意味を成さない。二人が納得できるものが必要だった。英子はぬるくなったコーヒーを口にする。口の中が苦味で満たされる。

「今夜見たことは一切全て、夢や幻の類ってことにする?」

 雅史は机の上に広がっている英子のノートに視線を移す。英子は自嘲するように言う。

「一階の暖炉で燃やしてくるからバレないわよ」

「英子先生……」

「そんなことはしないから大丈夫よ」

 加藤が第三者が自分の文章に手を加えることに同意の上だったどうかなどは、もう、英子達の手の届かないところにある。第三者がどうしてそのような行動を採ったのかも分からない。そして、第三者が誰なのかも分からない。英子達の前には、ただ加藤の遺稿が広がっているだけだった。これを整理する役目を任された。加藤本人から。

 本来の目的を思い返した英子は、

「だからじゃない?」

 と自分に言い聞かせるように呟いた。雅史に向けて、改めて問う。

「だから遺稿の整理が、私達なんじゃないかしら?」

 雅史は英子の発言の真意を汲み取れないらしく、首を傾げる。

「英子先生、もう少し分かりやすくお願いします」

「該当箇所だけ掲載の見送るようなことはしないわ。でもだからといって、加藤さんの名前で掲載をまとめることもしない」

「妙案がある、と?」

「注釈を入れるわ。どこまでが加藤さんの文章で、どこからが違うか。そして、何者かが加藤さんの文章に手を加えたことを私の名前で書くわ」

「良いと思います。ただ一点、良いですか?」

「何かしら?」

「僕の名前も並べておいてください」

「当然じゃない」
 

 ※
 


 遺稿の整理を終えた二人はレストランのバイキングで並んで和食を選んでいた。雅史は欠伸を零し、英子に訊く。

「朝食は洋食派では?」

 英子は赤い目をこすり、短く答えた。

「まだ夜よ」

 英子は味噌汁と俵のおにぎりを盆に乗せると雅史の隣を通り過ぎる。

 英子は、宿泊客で賑わうレストランの隙間を縫うように歩き、奥の席に腰掛けた。

 ゆっくりと味噌汁を飲む。夜通し活動を続けた頭の先から足先まで、じんわりと暖かくなる。雅史は山盛りの白ご飯、出汁巻き卵や切り干し大根や温泉卵などを乗せた盆を持って、英子の前に腰を下ろした。

「もうこんな徹夜はごめんだわ」

「僕は楽しかったですよ」

 英子は重たい瞼に力を加える。

「私はあなたよりずっと大変だったのよ」

「本当にお疲れ様です」

「共に、ね」

「僕の時はこうはならないので安心してください」

「そう?」

「ええ。未完の作品は残さない主義ですので」

 雅史の発言に驚きながら、英子は笑った。

「潔いのね。それじゃあ、私はちゃんと指名してあげるわ」〈了〉


 

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