「半分」
柊由紀は女湯の暖簾をくぐり、軒下へと出た。屋根には雨が集まっていた。黒いパンプスの踵がコンクリートを叩いた。風が吹いた。頬や髪の毛を包んでいた湯気が、瞬く間に辺りへと吹き飛ばされた。白い息が上がる。
「……え、あ、降っている?」
由紀はバックパックを下ろし、腕にかけていた黒いダウンジャケットに袖を通し、赤いマフラーや手袋を手早く身につける。
「降っている」
由紀の右側から、平坦な男の声が返ってきた。由紀の肩が大きく跳ね、頬に熱が帯びる。湯船で額に浮かんでいた汗が再び、全身に広がる。視線を声の返ってきた方に向ける。
「え、どうして居るの」
シャツもパンツも丈の短いジャケットも黒で統一されており、背後に広がる暗闇と重なり合っている。平らな黒い髪が目元に掛かっており、眼鏡の縁に触れている。八嶋純は軒下の端から動くことなく、由紀を一瞥する。
「先に帰るのは変じゃない?」
「え?」
「え?」
「いや、別に全然先に帰っていても良かったけど」
「ホテルの場所って覚えている?」
由紀は純の居る場所とは反対の方向に、赤い手袋を包んだ指先を真っ直ぐと向ける。
「あっちでしょ?」
銭湯の前のアスファルトはもう雨の影響を受けて濃い色に変わっており、小さな水たまりができている。等間隔に並んだ街灯や自販機の白い光がぽつりと見える。マンションやアパートが見えるが、どの部屋も光一つ漏れ出ていない。時折、正面の街路樹の向こうに広がっている通りを走る車の音が、聞こえてくる。
「そう。それで?」
由紀は胸を張って、答えた。
「それで、とりあえず大通りまで真っ直ぐ行って、右」
純の呆れた笑い声が、由紀の耳朶を揺らした。
「右は駅」
「え、嘘」
「本当。ホテルは左」
由紀は純に視線を向ける。
「……よく覚えているね」
由紀は声を出さずに笑った。思い描いた地図や歩いてきた道筋を思い出したが、曲がり角を曲がった記憶は由紀にはないように思えた。純の背中についていったら、ここまで辿り着いた。
「俺はここらへん近所だし」
「私が住んでいた時は、ここらへんは、もっと低かったから」
「ホテルとか色々建ったしね」
「だよね、景色変わった」
「だから迷うのも当然って?」
「後、暗いし、お酒飲んでいるし」
純は由紀の言い訳を聞いて、笑った。
「そっか……それで歩いて帰る予定?」
「まぁ、その予定だけど」
「傘は?」
「ない」
由紀は純の両手を順番に見た。片方の手には、衣類やタオルなどが入った小さな鞄を持っている。もう片方の手には、銭湯の前で別れる時には持っていなかった白いカップを持っている。カップにはロゴが印刷されており、由紀も見たことのあるコンビニのロゴが描かれている。
「それは?」
純の目が、由紀と同じところに落ちた。
「これ?」
「うん」
「これは、カフェラテ」
純はカップを持っている手を軽く回す。中に残っているカフェラテが揺れて、音を立てたような気がした。由紀は首を左右に振る。
「ごめん私の訊き方が悪かった」
「え?」
「コンビニに寄ったなら、傘を買っても良かったんじゃない?」
「あぁ、確かに。でも、俺が寄った時は降ってなかったんだよ」
「……ってことは、通り雨?」
「じゃない?」
由紀はバックパックにしまっていたスマホを取り出し、天気を確認する。晴れ間を選んだはずなのだが、予想は大きく外れてしまったようだ。
「どう? やみそう?」
「……朝には?」
「雨ってことか」
「どうする?」
「まぁ帰るでしょ」
細い糸がずっと降り続いているように見える。屋根に集まる雨音は、先ほどより多くなっているように思えた。
「この雨の中を? もしかして、走って帰るつもり?」
「え、いや、全然。やむまで様子見る」
「やむと思う?」
「……そんなに早く結論付ける必要はないでしょ。あ、ホテル門限ある?」
「ない」
「なら、まぁ大丈夫か」
由紀の声音が荒くなる。
「え、大丈夫じゃなくない?」
純はすぐに別の案を提案した。
「タクシー呼ぶ」
「この距離で?」
「なら、待つ?」
由紀は自分達の背後に視線を向ける。
「戻る? 理由話したら、居ても良さそうじゃない?」
純は腕時計に視線を落とした。
「閉店までもう間もなくだよ」
「マジか」
「マジ」
由紀はずっと向こうまで広がっている暗い雲を見上げる。
「ホテルまで走る必要あるわけか。嫌だなぁ、乾くかなぁ」
「俺も濡れたくない」
「別に家帰ってシャワー浴びたら良くない?」
「給湯器壊れた話したじゃん?」
そんな話を飲み会の最初でしたような覚えが、今更のように由紀の脳裏を過ぎった。
「あっ、そっか……いつまで?」
「週明けには、修理に来てくれる予定」
「こういう時って緊急じゃないの?」
「管理会社的には、水道止まったわけじゃないしって感じらしい」
由紀の背後にある引き戸が開き、また来るわ、という声が聞こえた。老婆が出てきた。
「え、あ、本格的に降ってきたわ」
開けられたままの引き戸から、番頭が顔を出す。老婆と番頭は二人揃って、動く気配のない暗い雨雲を見上げていた。
「傘、ある?」
「あるわ」
老婆は下駄箱の側に置かれている傘立てから自分の持ってきた傘を持って、由紀と純の間を通り抜ける。
番頭は純を見かけると訊く。
「え、あ、八嶋くん、雨宿り」
純は愛想の良い笑みを顔に浮かべ、引き戸の側まで歩み寄る。
「そうなんですよ。やみそうですかね?」
「難しいと思うよ」
「そうですよね。濡れて帰るのもあれですし、何とかしたいんですよね」
番頭は、暖簾の内側に姿を消した。次に二人の前に現れた時、手にある物を持っていた。
「これあげるわ」
「良いんですか? ありがとうございます。また返しに来ます」
「返しに来なくていいよ。お客さんの忘れ物だから。風邪引かずに」
「え、いや、それは悪いですよ」
「もう何年も前から置いてあるから、良いよ。番頭判断」
「あ、じゃ、明日返しに来ますね」
「まだお湯出ないの?」
「出ないんですよ」
「大変ね。洗い物とか大丈夫?」
「コンビニとか外食ばかりですよ」
中から番頭を呼ぶ声がした。番頭は、あっと声を上げると、また、と純に声をかけて、暖簾の奥へと姿を消した。
純は顔に浮かべていた笑みをそのままにして、首を傾げて、由紀を見る。
「……どうする」
由紀は純の手元を眺める。
「何が」
純の手には、一本の透明なビニール傘が握られている。
「一本だけじゃん」
「うん」
「どうやって帰る?」
「ごめん、ちゃんと説明して?」
「二つの方法がある」
「二つ? 何と何?」
「一つは、俺だけがこの傘で家に帰って、自分の傘を持ってきて、ここまで戻ってきて、二本の傘で帰る」
「……もう一つは?」
「察しているかもしれないけれど、柊がホテルまで帰って、自分の傘かホテルの傘で戻ってきて、帰る」
由紀は即座に声を上げる。
「え、嫌」
「名案だと思ったんだけれど?」
「妙案の間違いでしょ」
「コンビニってどこ?」
「通りの向こう」
「近い?」
「十分も掛からない」
「買ってきて」
「俺が?」
「うん」
純の足は動く気配が見えない。由紀の眉間に皺が寄る。
「ちょっと」
「うん?」
「聞いてた?」
「あ、うん」
「買ってこないわけ?」
「家の方が近いし。ちょっと無駄使いしたくない」
「私が出すじゃん、それくらい」
「だったら、明日のご飯奢ってくれるとかの方が良い」
「確かに?」
「まぁ、でも、そろそろいい加減、真面目に帰り方考えないといけない」
純の視線が腕時計へと落ち、由紀もスマホで時間を確認する。
「もうこんな時間、か」
純はカップを一度軒下に置いた。ビニール傘の留め具を外し、開ける。照明の下で、丸い花のように傘が開いた。純の指先は、夜風を受け続け、赤くなっている。純は傘を頭上へと掲げ、空いている手でカップを持った。
「そろそろ行こうか」
「これで?」
純は軒下から一歩、二歩と歩き出す。傘の端が屋根から出て、雨を掠める。
「そう、これで。……そんなに嫌?」
由紀は一歩も動かない。
「嫌ってわけじゃないんだけど、濡れるし」
「そっちを多めにするじゃん?」
「そうしたら、そっちが濡れるじゃん?」
「そういうものじゃない?」
「そういうものだから、嫌」
純は笑った。
「難しい問題だ。まぁ、上手いことするし、一旦どう? そこまでさ」
「そこまでってどこまで」
「泊まってるホテルまで」
「八嶋の家、通り過ぎるよ」
「うん、通り過ぎる。でも、だからといって、方向音痴な柊を一人でこの雨の中、夜に帰らせるのは、俺が嫌だ」
由紀の顔から力が抜けた。
「今日なんだか、随分と嫌いって言うね」
「え、そんなに言ってる?」
「飲み会の時から数えてみたら?」
純は恥ずかしそうに言う。
「酔ってるってことでここは一つ」
由紀は歯を見せて笑った。
「酔っ払いに送られるのは不安なんだけど?」
「もう酔っていない」
「一番信用できない言葉」
「そろそろちゃんと帰らないと、番台さんが心配するよ」
「あ、こら、一人で先に行かない。私が濡れるじゃん」
傘へと降り注ぐ雨は、先ほどより弱まっているかのように感じられた。しかし半分しかない傘では、外側の肩やパンツや背中などが濡れることを避けられなかった。
「風邪引くよ」
純の唇から小さく動いたかと思えば、感想が零れ落ちてきた。
「……思ったより小さい」
「狭いってこと?」
「いや、全然。歩きにくくない?」
「大丈夫。あ、それ、持っておく」
「中身もうほとんどないけど?」
「両手塞がってたら困るじゃん?」
由紀は純の片手からカップを奪った。思ったよりずっと軽かった。
「俺のこと、五歳児か何かと思ってる?」
「少しは……?」
「え、酷い。柊さん、今夜の俺、結構中々に大人してましたよね?」
「し、してた……かも?」
由紀の視線が夜道を泳ぐ。
「ホテルも飲みも候補出したの俺だし、悪くないラインナップだったでしょ?」
純の言い分に、由紀は思わず言い返す。
「いやそう言うけど、私も探したからね、ちゃんと」
「でも、最終的に俺の案に乗ってくれたじゃん?」
「まぁそれはそうだけど……。ありがとう」
「……こちらこそ」
純と由紀は無言で歩く。二人の靴が水たまりを踏んだ。裾が濡れた。そのままホテルまで言葉を交わすことがないのだろうと思っていた由紀だったが、純が尋ねる。
「明日、帰る」
「うん。明日、帰る。お昼頃の新幹線で」
「随分とゆっくり」
「お土産買う時間欲しいから」
「職場の人用?」
「……他にある?」
「あ、いや、ってなると、やっぱり甘い物とか良さそう」
「良いね。色々あると思う」
純が足を止めた。由紀も足を止めた。通りはまだ真っ直ぐと続いているが、左手にも道が伸びている。
「これさ左から行った方が近いって知ってる? 信号ないし」
由紀は左の道に顔を向ける。
「ちょっと暗いし危なくない? 道も狭いし」
「近道しない?」
「しない」
「そんなに急いで帰る必要ない」
「その肩で?」
「人のこと言える?」
「そんなに?」
「うん酷いよ」
純は自分の全身を確認する。
「まぁこんなの拭いて乾かしたら大丈夫大丈夫」
由紀と純は再び歩き出す。
「ところでさ」
「うん?」
「もう酔ってないってさっき言ったじゃん」
「言ったね」
「証明とかした方が良いよね」
由紀は笑う。
「え、何、政治とか経済の話でもする気? 嫌だよ、そんなの学生時代だけで十分」
「俺がそんな話するタイプに見える?」
「だったら、何を?」
純は足を止めた。由紀も足を止めた。どこかの通りで、車が走っている。
「急に止まらない」
「あ、ごめんごめん」
「何かあった?」
純は何かを考えているらしく、口を閉ざしている。由紀が催促しようとしたが、それよりも早く、純が言う。
「俺、学生時代から好きでさ」
「やっぱり酔ってんじゃん」
「え、嘘?」
「本当」
「それで、学生時代から何が好きなの? 旅行?」
「柊のこと」
「私のこと?」
「友達としてではなく、一人の女性として、好き」
由紀の胸が跳ねた。
「そんなに、すらっと言う? こう、もっと、あるじゃん?」
「ロマンティックなのが良かった感じ?」
「いや、それはそれで……」
「そっか」
「うん」
「何だか、急」
「俺からしたら、かなり待った」
「そっか」
「うん」
沈黙が降ってきた。純は言う。
「答えは……今、答えにくかったら、明日とか明後日とか、何なら帰ってからでも良い」
由紀は訊く。
「明日、暇」
「あ、うん。休み。予定ない」
「私、地元に帰ってきたの久し振りだし、どれが良いとか人気とか分からないし、お土産選ぶの、手伝って」
「俺で良いの?」
「あなたじゃないとこんなこと頼んでない」
それからの二人はもう話すことが尽きたのか、示し合わせたように口を閉ざしていた。由紀の泊まっているホテルへと辿り着いた。駅前は、随分と明るかった。
「それじゃ、おやすみ。また明日」
「うん、また明日」
由紀はホテルの中へと戻ろうとしたが踵を返し、去ろうする純の背中に声をかける。
「ねぇ」
純は足を止めた。
「何?」
純は由紀が雨に濡れないように少し傘を傾けた。純はもう、ほとんど傘をさしていないのと同じように、夜の雨を受けていた。由紀は身につけていたマフラーを外すと純の首に掛けた。手袋も外し、純へと差し出す。
「明日、返して」〈了〉