薄氷の下は

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「薄氷の下は」


 鉄のように固く見える濃い藍色の夜空が、ビル群の隙間から西田昴へと降り注ぐ。昴はビルとビルの隙間に停めていた自転車の鍵を解錠する。片手で自転車を押し、大きな通りを目指す。空いている手でスマートフォンを取り出す。白く強い明かりが顔を照らす。来るかもしれないと思っていた相手からの返事はない。自分が最後に送ったスタンプに、既読の文字がついているだけだった。

「既読無視……?」

 昴は足を止めた。

 自分から改めて、バーでのアルバイトが終わったと連絡を入れようとする。送信を押そうとして、事務的過ぎるような気がしたため、アルバイトが終わったことやこれから帰るというテキストを打っては全てを消してということを数回繰り返す。何度目かの入力中に、もうとっくに日付が変わり、二時になろうとしていたことに気がついた。もう寝ているだろうと思い、すぐにバックパックにスマートフォンをしまう。

 通りを出て自転車に跨り、タクシーの列を抜かして、帰路を急ぐ。乾いた冷たい風が全身をなでる。長かった夏がようやく過ぎ去り、秋の到来を告げているようだった。自転車を漕ぐ速度を上げると身体に触れる風は強さを増し、鋭くなる。

 自転車の後ろへと流れたビル群はどこも暗いが、重たいドアの向こうでは、煙草を片手に酒を飲んで盛り上がっている人達がいることを、昴は知っている。

 まだ酒も煙草も嗜んではいけない年齢である周りの友達よりも、一つ早く大人になっているような気がする。後一つ年を重ねれば、自分もああいうふうにお酒を飲んで話すのだろうか。今の昴には全然想像できなかった。

 大学進学から一年が経ち、同じ年数分、一人暮らしを続けているが、昴に生じた変化や高校生の頃には想像できなかったことはいくつもある。バーでアルバイトをするようになったのもその一つになるのであろうし、自炊や洗濯や掃除の大変さが身に染みて分かったこともその中の一つ。最も大きな変化、高校生の頃には想像できなかったことは、大学の内外で異性と連絡を取る頻度が格段に増えたことだ。

 自分が借りているマンションが近づき、通りから部屋を見上げる。カーテンは端から端まで丁寧に閉ざされており、光一つ漏れ出ているのが見えない。昴は自転車を漕ぐ速度を緩め、駐輪所にそっと自転車を停め、ゆっくりと音が響かないように鍵をかける。

 エントランスに人影もなく、エレベーターで一緒になる人もいない。目的の階で降りると等間隔に並んだ蛍光灯の下にドアが左右にずらりと並んでいる。左右の突き当たりには非常口があり階段が設置されている。
 昴の履く革靴が廊下を叩く度、冷たく固い音が誰もいない廊下に木霊する。

 自分の家の鍵を開ける。がちゃっと大きな音が立ち、昴の胸は少し跳ねる。ドアノブに手をかけ、そっと引き開けようとした。微かにドアが開いたのと、

「え、あ、うっそ、西田くん、ちょっとストップ!」

 少女の焦り混じりの悲鳴に似たような高い声が廊下に響いたのは、ほぼ同時だった。

 昴は訳も分からず、急いでドアを閉めた。誰もいない廊下に戻り、ドアノブを握ったまま昴は一人で考える。

 自分は何かとんでもなく良くないタイミングで帰宅してしまったのではないだろうか。風呂上がりだとか着替えるタイミングだとか、そういう人に見られたくないタイミングだったのかもしれない。しかし、昴は自分の鼻先を掠めた香りを思い出す。焼いた醤油の香ばしい匂い。昴が思っているような最悪な状況ではないのかもしれない。しかし、少女が一人でいるところに男である自分が帰るということを考えると、連絡の一つぐらい送った方が良かったのかもしれない。たとえそれで彼女の眠りを妨げることになったとしても。

 自分の家に帰っているはずなのに拘らず、他人の家に上がったような違和感があった。こうなることは、彼女の話を聞いた時から分かっていたはずである。分かっていたはずなのだが、こういうことが生じると昴としても思うところがある。この思うところは、迷惑と分かっても家に帰る時は連絡を送る、ということで落ち着く。

 昴は、彼女に、自分の家に帰った方が良いと言えない。言ってしまえば、この遠慮した生活とは離れられるのだが、昴は心のどこかでこの生活を完璧に心苦しいと思っていない。

 昴は、好きではない異性と同棲している。大学生の同級生から同棲者に立場を変えた持田茜。大学や通学中に度々見かけた時、茜は今までの自分の世界にいない人だと思った。憧れ、高嶺の花、住んでいる世界が違う人……そういう人と、昴は同じ家で寝食を共にしている。

 昴はスマートフォンを取り出し、入ってもいいかとメッセージを送るとすぐに既読が付き、スタンプが返ってきた。さっきよりそっと静かにドアを開ける。

 昴の狭い視界の先には、細くて、使いづらいキッチンが広がり、奥にワンルームがある。その細いキッチンに、背の低い茜がエプロンをつけて立っている。普段は背中まで流れている長い黒髪を、今は後頭部の辺りで一つにまとめて団子を作っている。流しの上の照明を受けて、黒い団子は艶やかに輝いていた。普段は分厚く作っている前髪もまとめられ、白い額も同じように輝いている。背中ではエプロンの紐が蝶のように結ばれており、茜が何か音楽に合わせて身体を左右に動かすと動きに合わせて少し揺れる。エプロンの下には、襟元に飾りの入ったチョコレート色のルームウェアを着ている。茜の背中側にあるバスルームへと繋がるドアは閉ざされており、照明が落ちている。

 昴が一瞬想像してしまった姿とは全然違う。昴は一安心を覚え、土間へと歩む。靴を脱ぎ、彼女とは色違いのルームシューズに足を通す。

 彼女の左手にはガスコンロで火に掛けられているフライパンの柄が握られており、右手にはフライ返しが握られている。じゅう、という何かを焼いている音が、二人の間で広がる。

 茜は昴を見上げ、微笑する。黒眼鏡の奥にある大きな、深い夜色の瞳が輝き、柔らかな曲線を描かれる。ほっそりとした白い頬と薄い唇の端がぎゅっと持ち上がる。

「おかえり」

 昴は勘違いしてしまいそうな熱が心の端で芽吹いてしまいそうなのを堪える。
「ただいま」

 この同棲は、どちらかがどちらかのことに好意を懐いているから生じたことではなく、茜の困り事を解決するために昴という人間が選ばれたからに過ぎない。ある種の条件付きの同棲である。茜の困り事が解決されれば、同棲は解消され、二人は普通の大学生に戻る。困り事の解決は早ければ早いほど良いと昴は考えている。ゆえに、ここで茜に好意を懐いてしまえば、昴と茜の生活は元には戻れない。

「……夜食?」

 昴は茜の手元を覗き込む。三角形のおにぎりに醤油がかけられ、茶色になっている。休憩中にパンとコーヒーを流し込んだだけの昴の腹の虫が鳴る。

 茜はにんまりと笑う。慣れた手つきで、おにぎりをひっくり返す。

「これだけじゃないよ」

「何、もう一品作る気?」

「もうあるから大丈夫。冷蔵庫開けてみて」

 茜は流しの上に設置されている食器棚を開け、小皿と味噌汁用の茶碗を二つずつ取り出す。

 茜の後ろを通り抜け、昴はキッチンの端に置いてある冷蔵庫を開ける。野菜や小分けにされた魚介類や肉類が、棚の色々なところにしまってある。自分でやった覚えがないため、茜がやったのだろう。中段の棚には、昴が主に汁物を作る時に使っていた小さな片手鍋がガラスの蓋がされた状態でしまってある。

 片手鍋を取り出すと少し重みを覚える。昴は中身をこぼさないように柄を両手で持つ。ガラスの蓋が越しに見るに、味噌汁か何からしい。昴であればコンロの上に置いておくだけにしているのだが、茜は違うらしい。

「これ?」

「それ」

 昴は空いたコンロに片手鍋を置き、蓋を開ける。大葉と生姜の香りは、夜明け前の夏を思わせる清々しさがある。

 昴は少し屈み、コンロのスイッチを捻ろうとした。その手首を、茜が無言で掴む。洗い物を終えて濡れたままの茜の手は、冷たかった。

「え……? 何、どうしたの?」

 昴が訊いても、茜は聞こえなかったのか無言のままだ。茜の目は見開かれ、昴の動きを一つも見逃さないように注意深い視線を送っている。

 昴はその迫力に驚いた。

「温めない?」

「あっためない」

「なんで?」

「冷や汁だから」

「冷や汁?」

「うん、そう」

「温めて食べるものじゃない?」

「え、冷や汁をもしかして知らない?」

「……知らない」

 茜は昴の手を離し、少し首を傾げ、何か納得したように呆れたような溜め息をついた。キッチンへと顔を背けた茜の耳たぶは、赤みを帯びているように見える。茜はその手にお玉を持つと、汁物の茶碗に冷や汁を注ぐ。

「え、何その反応」

「うちで夏によく出るから、皆知っているもんだと思った」

「あ、そういうこと……。俺はあんまり帰らないんだよなぁ。遠いし何もないし」

「帰ってこいみたいな連絡ない?」

「ないなぁ……。仕送り送ったとかそんな感じ」

「男の子だからかな?」

「多分そうだと思う」

 昴は話を戻す。

「それで、冷や汁はどう食べるのが良い?」

「冷たいまま。熱々のおにぎりと一緒に!」

 茜は用意した夜食を持ってワンルームへと歩む。昴はその小さな背中を追いかけることなく、キッチンで立ったまま冷や汁に口をつける。口の中に、夏の末の朝が広がる。

「美味しい」

 部屋の手前と奥を区切るように置かれた、ブルーの長いローソファに座る茜が非難の声を上げる。

「西田くん、行儀悪い」

 茜は目の前のローテーブルに食器を置き、手を合わせてから食べる。ルームウェアから覗く細い足首が、テーブルの下からカーペットへと伸びている。小さな足先は、オレンジのペディキュアが施されていた。昴は何も見なかったように流しへと向き直し、半分に割られたおにぎりを頬張る。

「夜食はこんくらい気軽に食べるのが正解なの」

「……もしかして、ラーメンとかお蕎麦とかおうどんとか鍋から食べる人?」

「え、そうだけど?」

「食器の意味……」

「洗い物減るじゃん」

「たった一つだよ?」

「されど一つ」

 何かを言いたげなけれども言ったところで意味がないと思わせる茜の視線を感じ、昴は話題を尤もらしい方向に逸らす。

「それにしても夜食とか珍しくない?」

 昴が記憶している限り、この時間帯に茜が起きていることはなかった。同棲が始まるまで昴が使っていた、部屋の奥にあるシングルのベッドで寝息を立てている。昴は茜を起こさないように手前のフローリングに布団を敷いて眠る。

 沈黙と呼ぶには錯覚と思わせる静けさが、二人の間に広がる。茜は、沈黙をやはり錯覚だったと思わせる明るさで答える。

「明日、家に荷物取りに行きたくて……付き合ってくれる?」

 昴はすぐに答えた。急なことと思ったが、口にはしない。

「良いよ」

 茜は大学に電車一本で通えて、セキュリティーの高いマンションに住んでいる。茜曰く、親が家賃を全額支払うのならば、そういうマンションしか許さなかったらしい。

 茜とこういう生活をするようになり、昴は時々、彼女の家まで荷物を取りに行ったりするのに付き添っているが、そのセキュリティーの高さには未だに慣れていない。エントランスは常時オートロックで、入るのにカードキーが必要となっている。宅配ボックスもあって、コンシェルジュサービスも使えるらしい。廊下には監視カメラが何台もあり、エレベーターで目的の階に上がるのにも別のカードキーが必要となっている。家には鍵が二つあり、防犯ブザーもある。

「食べたら出る?」

「朝になってからの方が安全じゃない?」

「それじゃ、それで」

 そんな茜が住んでいるマンション周辺でストーカーが出没するという噂が立っている。。茜は視線を感じたり、マンションの近くまで付き纏われているような感じがするらしい。

 噂であるため警察に相談してもアドバイスをされる程度。今後もし明確な被害があれば、動いてくれるらしい。家族は遠方に住んでいるため助けを借りるのは難しい。同性の友達を頼るべきだと昴は今でも思っているのだが、女友達の多くが学生寮で暮らしている茜には、それができない。どうやら寮の規約に引っかかるらしい。今の茜には恋人もいない。恋人でも何でもない男友達の家に転がり込むのは、ストーカーよりも危ないことを、茜は理解しているらしい。

 そんな彼女が頼りにしたのが昴だった。夜から真夜中にかけてアルバイトで出かけたり、時にはアルバイト終わりにそのまま朝まで店長達や客と食事に付き合う昴は、他の男達と違って、夜を共にすることが少ないという点でまだ安全だろうと踏んだのである。

 昴は当然、こういう生活の先に存在する二人だけの夜のことを考えた。その夜のことを考えると、茜からの頼み事を断った方が良かった。しかし、理由が理由なので突っぱねることができなかった。かといって、その危険性を理解しているのかどうかと踏み込むこともできず、西田くんしか頼れる人がいなくて……と言われてしまい、昴は意を決した。

 意を決したが、今その意がどういうものなのか、と考えると昴はそれ以上思考を巡らせたくなかった。あの時の昴は、困っている人を助けるというような感覚で決めた。全く後先を考えなかったわけではない。あの時の自分なりに考えたのである。

 自分なりに考えたわけだが、自分の家に茜という女の子が連日いることが、どれほど自分を悩ませるかまでは想像できなかった。幻や想像ではなく、実際に茜がいることが、これほど昴を悩ませるとは思わなかった。今も視線をソファへと流せば、スマートフォンで何かを調べている茜の姿が見える。頭の上でまとめられていた黒い団子は解かれており、白い頸を隠す川のように黒い髪が背中を流れている。白い照明を受けて輝くさまは、陽を受けて輝く水面のようであった。昴は自分を落ち着かせるように、ゆっくりと気づかれないように息を吐く。茜の姿を見ないように流しへと向き直り、空になった食器を洗う。

 二人の寝床を区切るように置いてあるソファやテーブルを乗り越えようと考えたことは度々あった。そういう行動を起こした時、今の関係が崩壊してしまうことは理解できた。茜を一層傷つけてしまうことも。ストーカーされているかもしれないという影に怯える茜に、もっと明確で分かりやすい傷を与えてしまうことは分かる。それだけは避けたいことだった。

 茜に好きだと告白すれば、事は全て納得できるようなところに落ち着くだろうと思う。恋人が恋人の家に身を寄せているということは、何もおかしくない。しかし、今、そういうことを告白しまうのは、卑怯だと昴は考えている。

 茜は昴の告白を断われないのではないだろうか。告白を受け入れられないのであれば同棲はできないと茜が考えてしまうのではないだろうか。ゆえに、このままの関係を続ける方が茜のためである。茜のためではあるが、昴自身のためではない。昴自身のことを考えれば、告白した方が良い。あるいは、ストーカーの一件が落ち着き、茜が茜自身の家に帰るのが一番である。昴と茜の関係というのは、今まで通りの、大学の友達という関係に戻るのが一番良いように思えた。そうして告白すれば、事は全て良い方向に落ち着くのではないだろうか。

 昴がそれまでこの同棲生活を続けられることに耐えられるかは、昴自身分からなかった。茜は耐えられるのであろうか。耐えられないのであれば、それで良いのかもしれない。ストーカーの影に怯えながら、一人暮らしを続けるという選択を採れるのであれば、それで良い。大学の男友達に迷惑をかけるよりも、自分が我慢すれば良いという判断をしたのであれば、それで良いのかもしれないと昴は強く思う。そこから先のことは、昴という他人が踏み入るのは難しい部分だろう。

 そもそも、と昴は全ての事の発端であるストーカーの存在を考える。ストーカーというのは、存在しているのだろうか。昴は茜と共に、茜の住んでいるマンションに度々足を運んでいる。ストーカーらしき人物と遭遇したことはない。ストーカーという存在自体、茜の思い込みなのではないだろうか。

 ストーカーという者は存在しないので気にせず、茜は茜の家で住み続ければ良い。全く無責任で無関心な言葉を、茜に伝えられれば、昴はどれほど楽になれただろうか。
 
 

 ※
 

「何にする?」

 正面に座る女性がテーブルに置いたメニューを見るために俯いた時、額に黒い髪がかかった。女性の声は、今日仕事があったことを昴に思わせないように力があった。バーカウンター越しに聞いている素っ気なく、つんとした声とは違う。

「……ウーロン茶で」

 女性は慣れた様子で指先で前髪を払うと、昴の注文する飲み物を聞いて笑った。

「別に生とかレモンサワーとか頼んでも良いわよ?」

「いや、自分はまだ……」

 昴はどうしてこういうことになったのか思い出しながら、遠慮がちに手を横に振る。女性は昴の反応に、切れ
長の目を細めて笑う。

「一杯ぐらい飲んでも大丈夫でしょ。今まで飲んだことないってわけでもないでしょう?」

 大学に入学してから、バーでアルバイトをするようになってから、飲める機会はあった。場の流れに任せれば、酒を飲めることもできただろう。しかし昴は今まで、一滴も飲んでいない。飲んでみたいと思ったことはあるのだが、後々のことを考えると理性が優った。

「飲ませた側の責任にもなりません?」

「真面目ねぇ」

 高田みゆきと西田昴の関係は、バーの客と店員という関係であったはずだ。だといういのに、みゆきと昴は、バーの外、焼き肉屋で顔を合わせている。そろそろ陽が暮れ始め、辺りが淡い夜色に包まれる頃である。

 水曜日ないし木曜日の夜にバーを訪れるみゆきと大体の日のシフトに入っている昴は、度々顔を合わせる。そうしてバーカウンターを挟んで話している間に、昴が大学生の十九歳ということがみゆきに伝わり、何故か連絡先を交換することになり、夜遅くまでバイトに精を出す昴のために何かご馳走してあげる、ということが度々起きる。

 昴は断りたかった。みゆきがどうこうというのではなく、昴はバーカウンターを超えて、客と会うのが苦手だった。バーカウンターを超えてしまえば、バーの店員と客という関係ではなくなってしまう。大学生と社会人という関係になる。昴はその状態で、歳上の社会人と話すのが得意ではない。昴には歳上の社会人を楽しませるような話術はなければ、経験もない。

 シフトを理由に断ろうとしたのだが、オーナーと店長により調整されてしまい、断る術も理由も失った。茜のことを口にしてしまえば、みゆきに食事をご馳走になるということは避けられたかもしれないが、ここで茜のことを、異性と同棲していることを口にしてしまうのは、茜に迷惑がかかるような気がしてできなかった。茜にはアルバイト先の人に食事をご馳走してもらう、と話した。みゆきという年上の社会人の女性に、という情報を伏せたのは、何か勘違いをされてしまいそうだったので、そこまでは話せなかった。

 みゆきは店員を呼び、生ビールや烏龍茶を頼み、すぐに出てくるキムチの盛り合わせやタン塩などを頼む。何品も注文が積み重なる中で、昴が口を挟む。

「あ、ライスください。大で」

 みゆきの頬が心持ち上がったように見える。

「白ご飯、食べる人?」

「え、あ、はい」

「それじゃ、ライス大を一つ。とりあえず、以上で」

 昴とみゆきの間に置かれているテーブルに、すぐに生ビールが届き、キムチの盛り合わせが届き、タン塩や大盛りのライスなどが続く。

 みゆきは大きなジョッキグラスに注がれた生ビールをすぐに飲み、キムチをつまみ、トングを片手にタン塩を焼き始める。

「昴くんは適当に食べてればそれで良いから」

 昴は目の前に置かれたライスに手をつけず、煙や匂いを恐れないミッドナイトブルーのスーツに身を包む女性に訊く。

「あの、一つ訊いても良いですか?」

「ん? どうぞ?」

「どうして毎回こうしてご馳走してくれるんです?」

 みゆきはタン塩を裏返しながら、何を今更と言いたげな調子で眉を軽く持ち上げる。

「え、そこ?」

「そこです」

「言わなかった?」

「美味しいものを食べに行こうというのは聞きましたけど、それだけなんですか?」

「それだけ」

 みゆきは自信に満ちた調子で言い切る。昴には全然理解できなかった。眉を寄せ、顔全体に納得していない様子を出していたのか、みゆきは焼けたタン塩を双方の取り皿に分けながら言う。

「働いているとね、ちょっと忘れがちになるのよ。こう、何のために働いているんだっけってことをさ」

「よく分かりません」

 みゆきを拒むように答えたのだが、逆効果のようだった。みゆきは張りのある声を上げて笑う。レモンを絞り、みゆきは大きな口を開けて、肉を食べる。

「はっきり分からないって言ってくれるの、良いね。……昴くんはない? 大学の講義とかでさ、何のために勉強してるんだ? って思うこと」

「ありますけど……まぁ単位取得とか卒業のためですかね」

「私達には、そういうのないのよね。ある案件が一区切りしたら、また別の案件に向けて働く。その連続、終わりはない」

 みゆきがバーで訪れている時の会話を思い出すと、確か彼女はどこかの企業でコンサルタントとして働いている。昴はコンサルタントという職業がどういう仕事をしているのか想像できないが、何か得るものがあるのではないだろうか。

「スキルアップとかできるなら、良いんじゃないですか?」

「スキルアップするために仕事しているわけじゃないからね。案件……依頼者の課題や問題解決のために仕事しているだけ」

 ビールで濡れた赤い唇から零れた言葉は、昴には想像できない冷たさの塊だった。昴はどういう言葉や態度で、みゆきに接すればいいのか分からなくなった。昴が大学生として大学で講義に出席している間、バーでアルバイトをしている間、みゆきはずっと仕事をしている。これからも、そういう生活を続けるというのが、彼女の口振りから容易に想像できる。果たして、それで良いのだろうか、と昴が全く身勝手に思うことができるが、口にする勇気はない。もし今、みゆきとバーカウンター越しに会話をしていれば、彼女を労うような言葉をかけられたのかもしれない。それが彼女の求めるような返答ではなかったとしても、バーテンダーとして求められるような立ち振る舞いを優先できたかもしれない。

「だから、美味しいものを食べて、ぱっとお金を使わないといけないわけ。そうやったら、働いている意味とか意義とかあるじゃない? そう、言わばストレス解消なの」

 みゆきは晴々とした顔で笑う。昴はみゆきの笑顔を受けて、頬を固く持ち上げ強引に笑う。みゆきの中ではそんなふうに結論付けられた今夜の食事であるが、誘われた側の昴としては、でしたらご馳走になります、とは思いづらい。みゆきの言葉通りならば、昴は今、みゆきのストレス解消に付き合わされているだけである。別に今夜の食事の相手は、昴でなければならなかったというわけではない。バーの店長でもオーナーでも誰でも良かったのである。

 むしろ、お酒が飲める人と一緒の方が、みゆきとしては良かったのではないだろうか。気を遣うということが、なくなるように思う。

 好意的に解釈するとすれば、昴だったらストレス解消に付き合わしても良いとみゆきが判断した。喜ばしいことかもしれないが、昴は納得できない。

「その相手は僕より、店長とかの方が適任だと思います」

「それが全く全然、そんなことないのよ昴くん。私がもしあの人を食事に誘ったら、かなり面倒なのよ」

 みゆきは両方の眉を眉間に寄せて、唇を尖らせる。ここにも昴には想像できない理屈や理由が存在しているようだった。

「女の私から、店長を食事に誘ったら私がそう思っていなくても、気があるように思われるじゃない。しかも、お酒を一緒に飲むってなると勘違いされてもおかしくないのよ」

「でも店長、彼女いますよ?」

「知ってるわよ。良い子よね、あの子。だからこそよ。まぁでも、ちょっと仕事の付き合いで、って説明すれば、彼女は納得せざるを得ないでしょうね」

「そういうものなんです?」

「そういうものになるから、私としては嫌ね。損な役回りになっちゃうの好きじゃないの」

「損な役回り……?」

「お互いに成人して社会人として働いてお酒を飲めるし色々話せるのに、一夜の過ちを犯さないためにソフトドリンクを飲むの。損よ」

「でしたら、バーで飲まれた方が」

 昴がアルバイトしているバーでは、バーテンダーに客がお酒を奢るシステムがある。オーナーや店長はそのシステムを駆使して、よくお酒を飲んでいる場面を目撃している。

 昴の提案を、みゆきは笑って切り捨てる。

「お店の売り上げとかを気にせず普通に飲んで、対等に話したい時だってあるのよ」

 そうして選ばれたのが、昴なのだろう。喜んでいいのかどうか分からない。居心地の悪さだけが一段と積み重なったように思う。社会人のみゆきには、昴にはまだ分からない理論や理屈があるようだった。そうやって無理に納得しようと試みる。

「冷めないうちに食べた方が美味しいわ」

 みゆきの目が、動かない昴の手に落ちており、ライスや焼かれた肉に注がれている。昴は腑に落ちない気持ちを飲み込むように、肉やライスを掻っ込む。

 ビールが追加で頼まれ、ロースやカルビが頼まれる。昴はみゆきに促されるように、食べ続ける。

 昴は不意に茜がストーカーされているかもしれない、と告白した気持ちが少し分かったような気がした。

 みゆきのこの行動は、本人の言葉通りであれば、ストレス解消である。仕事をしている意味や意義を見つけ出すために、昴と食事を共にしている。そこに昴の意思はない。全く無遠慮な、好意と呼ぶことすら難しいものを、ぶつけられている。昴のことを全く思っていない。それでも確かに、みゆきの思いや考えは存在している。

 昴にはみゆきという相手が存在しているが、茜のストーカーは相手が存在しているかどうかすら分からない。ただそれでも昴と茜には、共通しているものがある。自分達のことを考えられず、相手からの一方的な好意に晒されている、というものだ。茜がその好意から逃げ出したくなり、昴を頼った。茜にとってしてみれば、相手からのそれは好意ではなく畏怖や恐怖の対象でしかなかった。昴は僅かながらみゆきのことを知っているため、畏怖や恐怖の対象になっていないが、それでも居心地の悪さは絶えずある。焼かれた肉により腹は満たされるが、心はそういう具合にはならない。

 昴がバーで働き、みゆきが客として訪れる間はこういうことが続くのだろうか。口直しにみゆきが頼んだ、葡萄のシャーベットを待ちながら、昴はそんなことを思った。

 今後は断った方が良いのかもしれない。しかし、断る理由が作れない。こういう食事に付き合わされるのは得意でもなければ好きでもないという本音を口にできれば良かったのだが、そういうことを口にしてしまえば、高田みゆきという客を失ってしまいそうな予感を覚えた。昴の言動で客が一人減るということは、アルバイトである昴には関係ないかもしれないのだが、この機会を用意してくれたオーナーや店長に申しわけなく思う。

 アルバイトという身分であるのだから、昴はバーを辞めることができる。そうすれば、みゆきとの関係も終わる。しかしそうしてしまえば、昴は、他の大学生と変わらない。茜が男友達の大学生の中から、あえて昴を選んだ理由が消失してしまう。また別のバーでアルバイトをすれば良いのかもしれないが、二十歳を迎えるまでは雑用や店の雰囲気に慣れるようになってほしいと説明し、酒を提供できない昴を雇ってくれたオーナーや翌日に一限から講義がある時には日付が変わると退勤させてくれたり、クローズの作業を全て引き受けてくれる店長を裏切るような真似はしたくない。恩を仇で返すようなことはしたくない。

 もし仮に辞めるとしたら二十歳を超えてからの方が筋が通る。他のバーでも経験を積みたいので、などという理由になる。今辞めてしまえば、連日家にいる茜に、バーを辞めて、別のバーでのアルバイト先を探しているということは言いづらい。シフトに入っていないという嘘はいつまでも使えない。

 昴は一体、何を優先すれば良いのだろうか。考えることから逃げるように、目の前に置かれた紫のシャーベッドを口にする。火照った頭に心地良い冷たさを与えてくれる。

 みゆきの赤く染まった頬を見ながら、昴は言う。

「あの、高田さん」

「どうしたの急に改まって?」

「……ストレス解消になりましたか?」

「ええ、とっても。ありがとう、助かったわ」

「……でしたら、良かったです」

 そういうふうに礼を言われ、感謝されると昴は余計に困った。まるで自分が何か良い行いをしたかのように思えてしまう。自分のこれまでの苦労を水に流そうかとすら思う。そうして次の機会が近づいた頃に、どうやって断れば良いのだろうか、と考えてしまう。そういう未来が見て取れる。

「訊きたいことはそれで終わり?」

 みゆきはじっと昴を見る。まるで昴を試すように。力強く、明るい瞳が、長い睫毛に包まれて黒々と輝いている。バーカウンター越しでは見たことのない瞳をしている。みゆきの瞳は見ていて、昴は何故か心地良さを覚えていた。頭の片隅で、自分は今、この人に試されていると理解できる。昴には不思議とそれが嫌いではなかった。みゆきの分かりやすい価値観が、その瞳から十二分に感じ取れる。社会に出て戦い続けている人の熱意や決意がある。利害関係を見極める強い瞳。

 その瞳を見つめ返していると、段々と燃えたぎるような怒りや焦りがちらちらと姿を表そうとしているのが見て取れた。昴は急速に身を縮こまらせた。

「えっと、まぁ、……はい、終わりです」

 茜の夜色の瞳は、今こうして見ているみゆきの瞳とは明らかに違うものがある。茜の瞳には昴を初めとした見る者を鮮やかに吸い取る力。波のように昴達の足に絡まれば、思わぬ力で昴達を深い海原へと引き摺り込むようなものが、茜の瞳にはある。あの瞳に比べると、みゆきの瞳は随分と優しいもののように感じられた。

 みゆきの瞳から力が抜ける。

「え?」

「え、はい、もうないです」

「本当に?」

「はい」

 そっかとみゆきが安心したように笑ったかと思えば、赤い唇が昴の心を惑わすように弧を描く。

「てっきり告白されるのかなって思った」

 昴は耳に熱さを覚えた。

「……はい?」

「そういう間だったから、つい」

 唐突に自分が悪者になったように思え、昴は弁明を繰り返す。

「え、あ、いえ、別に、そういうわけではなくて……。あ、いや、それは何も高田さんが好きではないというわけではなくて、ですね」

 分かってるわよ、とみゆきは温かく笑う。

「ちなみに断る予定だったから安心してちょうだい」

 昴が言葉と息を同時に吐き出すように言う。

「安心して良いんですかね、それは」

「学生は学生と付き合った方が良いわよ。社会人と学生は違うからね、当たり前だけれど。金銭面とかで相手に頼ったり、甘えたりしちゃうのは仕方ないことだけれど、いつしかそれが当然のように思えちゃうのよ。それって、恋人同士としてどうなのかしらね」

 昴は自分の胸に、刃を突きつけられたような気がした。胸のあたりが瞬時に冷たくなり、逃げ場を作り出すように汗が流れる。昴の家に、茜がいることを見透かされたような発言だった。

 昴は社会人ではないので、茜から金銭面で甘えられることはない。しかし今、茜が昴に甘えているということは事実に違いない。昴がバーでアルバイトをしており、夜に家に居ないため他の異性より安全と判断されている。近い将来、茜は昴の厚意を当然と処理し、勝手気ままに振る舞うのだろうか。まるで自分の家のように。

 昴は弱々しい反論を繰り広げる。

「でもそれは、仕方ないことじゃないですか? 学生と社会人なんですし……」

「そうね。でもその二人は、少なくともどちらか片方が、どちら片方のことが好きだからという前提があるから存在しているのよ。その前提がなくなれば、どちらか片方の行為は奉仕になっちゃうわね」

「奉仕じゃいけないってことですか」

「いけないわけじゃないのよ。ただ、恋愛と奉仕は全く別ってだけ」

「奉仕から恋愛に発展することもあると思います」

「逆もまた然りじゃない? 告白できるなら、した方が良いわよ。好きです、恋人として付き合ってくださいって。そうすることでしか、奉仕から脱する方法はないから」

 昴は家に居る茜のことを思い描きながら、彼女を好きだと言えない自分を守るように言う。

「それは、卑怯のように思います」

「何も卑怯じゃないわよ。好きだから告白する。当然じゃなくて?」

 みゆきならば、相手がストーカーに悩んでいるかもしれないと相談を受けて、自宅で避難させるようなことをする前に、告白するのだろう。好きです、と。恋人として相手のことを守る選択を採れるのだろう。そうして自宅で、事が落ち着くまで一緒に暮らさせるのだろう。

「そうかもしれませんが、相手のこともあるんじゃないですか?」

「相手のこと?」

「相手の都合というか、立場というか……」

「昴くんは随分な美徳を持っているのね。相手のことを気にして、相手の状況が落ち着くのを待って、良いと思うわ。でも、他の人に相手が取られたらどうするの? 捨てられて終わりじゃない」

 茜が誰かの元に行くということを、昴は考えていなかった。茜が昴を頼っている現状があるのだから、どうして他の誰かの元へ行くことがあるのだろうか。昴がこうしてみゆきと食事を共にしている今、茜が他の人の元へ行こうとしていることは、全く有り得ないことではない。昴に迷惑をかけないということを考えれば、茜のそういう行動は限りなく正しい行為のように思える。

「そうかもしれません」

「でしょう? 好きな人に捨てられるのは流石に嫌じゃない?」

「嫌です」

「だったら告白して、恋人になるしかないわね」

「短絡的過ぎません?」

「恋や愛には人を盲目にして夢中にさせる力があるんだから、短絡的になるのは当然じゃない」

 
 

 ※
 
 みゆきと別れても、夜は全然浅かった。紺碧な空の下で、赤い提灯やネオンが星のように灯っており、スーツを着た社会人達が赤い顔で調子のはずれた大きな声を上げて、二軒目をどうするかと話している。昴は彼等の隙間を縫って自転車を自宅まで走らせるか悩んだ。昴はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、茜に連絡を入れようかと考える。

 今家に帰れば、茜が家で寛いでいる頃だろう。そこに昴が帰ってくるのは、まずいように思えた。昴と茜が二人揃って、夜が更けるのを過ごすというのは、良くない。かといって、まだ十九歳の昴では、これからの夜を上手く外で過ごすのは難しい。アルバイト先のバーに足を運んで、コーラやジンジャーエールなどを飲みながら、みゆきとのことを話しても良いのかもしれない。けれども酒も煙草も嗜まない昴に、バーでの居場所はないように思えた。

 みゆきとの会話が、蘇る。昴が家に居ない間、茜は何をしているのだろうか。茜に、これから帰るという連絡を入れると少しして既読のマークがついて、スタンプが返ってきた。
 
「西田くん、あなた、焼肉をご馳走になりましたね?」

 茜は自分が使っているシングルベッドと昴の敷布団を区切るように置かれているローソファでうつ伏せになっていた。無造作にスマートフォンを操作していた彼女は、顔を上げると小さな鼻を動かし言う。眼鏡の奥で輝く目が何かを確かめるように瞬きを繰り返したり、鼻が膨らんだりする様子は、小さな犬のようだった。昴が横になれば足や頭が端からはみ出るのだが、茜が寝転ぶと丁度良いサイズのようだった。

 夜風で十分に流れたと思っていた服には、まだ炭と油の臭いが残っていたらしい。

「え、あ、うん」

 昴はそう答えながら玄関で上着に消臭剤をスプレーする。茜はソファの上に座り直すと、側に置いているローテーブルにスマートフォンを置き、羨ましそうに昴を見上げる。

「え、良いな。私もそういうのやりたい」

「そういうのって……?」

「バイト先の人達とかと仲良くなってご飯に行くとか、そういうやつ」

 キッチンの端に置いていたスツールを流しの前に置いて腰掛ける。茜に臭いが移らないように。

「飲食でバイトとかしたら、あるんじゃない?」

「うち、親が厳しいんだよねぇ」

「……もしかして、バイトしたことない?」

 探るように訊くと、茜は昴の様子など気にせずに明るく言い切る。

「ない」

「高校の時も?」

「うん」

「どうして?」

「お父さんが、そんなことしなくても生活できるように仕事してきたつもりだ、って怒ってさぁ。女は家事をちゃんとしろ、って」

 高校に入学してすぐにアルバイトをしていた昴からしてみれば考えられない環境だった。

「……マジで?」

「凄いらしいね、私の家って」

 大学進学を機に実家から出てきた茜は、実家や親のことを既に周りの友達に話している様子だった。

「え、じゃ、今もバイトとかしてないわけ?」

「うん、そうだよ」

「え、じゃ、生活は?」

「仕送りで何とか」

 こういうふうに知り合う前から茜を見かけていた昴だが、大学や通学中に度々見かけた時、茜は今までの自分の世界にいない人、住んでいる世界が違う人と思っていたのは間違えではなかったようだ。

「凄いな……」

 賞賛と憧れが混ざった昴の呟きが、横に長いキッチンへと滑り落ちる。親からの仕送りで暮らすことができ、アルバイトをせずに学生生活を送ることができる茜。昴と同じように大学進学を機に上京し一人暮らしをしているが、茜の父親がそういうことを許したのは想像しにくかった。

「そんな環境で、よく上京して一人暮らしできたね。なんか勝手な偏見だけど、大学は地元で、卒業を機に適当に結婚してとか、そういうこと言いそう」

 茜は驚いたように笑う。

「え、凄い。その通りだよ、大体そんなこと言ってた。私はそんなふうに大人になるのが嫌だったから、家族総出でお父さん説得してもらって、何とかなったんだよ」

 茜と実家の関係を聞いて、昴はふとある一つの疑問に辿り着いた。

「もしかしてだけど、ストーカーの件、実家に言ってない?」

 部屋の空気が軋んだような気がした。茜は重たくなった空気を混ぜ返すように、明るく言い放つ。

「うん、言ってない。いや、というか、言えないのが適切かなぁ……。実家に連れ戻されそうだし、お父さんとかこっち来るとかありそうだし。それはちょっと、かなり、困る。折角の一人暮らしなんだしね」

 昴が何か言おうとするより早く、茜は柔らかい声で続けて言う。

「だから、西田くんには凄く助かってるよ。ありがとう」

 黒眼鏡の奥にある大きな、深い夜色の瞳が恥ずかしそうに細められていたが、昴が見つめていると次第に逃げるように顔を俯かせる。茜を守るように、分厚い前髪が垂れ落ちる。毛先が流れる白い頬は赤みが帯びているのが一層見て取れる。

 昴は茜のその顔を見ると、自分の心配事が全て杞憂のように思えた。彼女が自分を捨てるような選択を採ることはなく、また他の人の所へ行こうと企てることもない。事が落ち着くまで、茜は昴の元を離れることはない。そういう確信が、昴の胸に芽生える。昴と茜の関係は、奉仕という上下関係があるものでもなければ恋愛のように対等な関係でもない。二人だけが示し合わせたように知っている、不可思議な、薄氷の上で成り立っている関係だった。

 気まずい沈黙を破るように、昴は言う。

「あ、いや、俺は全然普通のことをしてるだけだから……」

「西田くんのそういうところ、凄く良いと思う」

 そういうところ、が何を意味するのか昴には分からなかった。茜が自分の座っているローソファーの端に身体を動かすのを見ていると、全然別の言葉が昴の口から零れる。

「持田?」

「でも、やっぱり一人暮らしは寂しいね」

 茜が、度々実家に帰っているのは、彼女のこれまでの口振りから想像できる。それが実家から帰ってこいと催促されたのか彼女が心から帰りたいと思って帰っているのかは分からないが。父親や母親達に囲まれ、何不自由なく、甘え、頼り、暮らしている茜を想像することは容易にできる。

「ねぇ、西田くん」

 昴は茜の柔らかく流れる赤い唇が波のようにざわめくのを見て、不安に思った。自分の身を守るかのように慎重に言葉を並べる。

「……どうした?」

 空いてできたスペースを、茜は小さな手で叩く。乾いた音がして、茜の指先に塗られたオレンジのマニキュアが輝く。

「こっち来てゆっくりしたら?」

 鮮やかな夜色の瞳が、昴を見る。潤む瞳は、夜の海で波が寄り、引いていく豊かな静けさを思わせる。じっと見られていると夜色の瞳の中に、固まった表情を浮かべている昴自身の姿が見て取れる。リビングの白い照明が瞳の中で輝いていて、満月のような眩む光を広げている。

 昴は茜の瞳に、身体が吸い込まれそうになった。茜の瞳に吸い込まれたい欲動に駆られる。この欲に取り憑かれた者が、茜を付きまとうのだろうと昴は理解した。茜の無自覚的といえる距離の詰め方、家族や親しい者に見せる甘え方、そしてこの夜を思わせる瞳が、昴達を惑わす。道を外させても良い、と思わせる。

 この時、昴は全く自分が悪いと思わなかった。茜がそういう態度を取るのならば、自分はその態度に対して正しいと思われる行動を取るだけだ。昴は喉元まで競り上がってきた言葉と共に、唾を飲む。喉が鳴った。

 昴の脳裏に残っている僅かな理性が訴えかける。昴が茜の隣に歩んだ時、二人の下に広がる薄氷は耐えられるのだろうか。薄氷の下に何が広がっているのか、昴も茜も分からない。昴や茜が見たことも感じたこともない世界が、この氷の下には広がっている。氷が割れてしまえば、昴も茜も無事ではない。

 それでも良い、と茜は言っているようだった。きっと茜はそういうことを理解して、昴の家に身を寄せている。

 スツールが、がたっと音を立てて狭いキッチンで倒れた。昴の心臓は痛むほど激しく脈打つ。怒りに似たような激しさで昴は、茜の側まで歩み寄る。茜の丸い顔が強張ったように見える。夜色の瞳が、猫のように縦へと長くなる。

「西田くん……?」

 昴と茜しかいない部屋で、茜の温かな、昴の心の内を確かめようとする声音は昴へと届いたはずだった。しかし昴は全然茜のことを気にかけることなく、彼女の隣へと腰を下ろした。二人分の重みに、ローソファのスプリングが軋む。茜が昴との距離を取るように身体を動かしたような気がした。

 甘い香りが、昴の鼻先をくすぐる。バーで嗅ぐオレンジやピーチといったフルーツとは違う香り。茜の長い髪が広がる花の香り。昴の心臓が一段と五月蝿く音を立てる。

 昴は茜が逃げないように彼女の細い肩を引き寄せる。薄い皮膚の下にある固い骨が、昴の手の平に当たる。茜は身体をたじろわせることなく、大人しくしている。昴が少し視線を下せば、あれほど遠ざけていた茜の姿がある。

 茜は何も言うことなく、ただ黙って昴を見上げている。透き通るような夜色の瞳と視線がぶつかる。微かに揺れる瞳の中に、激しい欲望に晒され平静さを失った昴の姿があった。昴は不意に強い恥ずかしさを覚えた。

 何から生じたのか分からない恥ずかしさを捨て去るように、茜の瞳から逃げるように、その白い身体を抱きしめる。茜の身体は昴と同じような熱を持ち、昴と比べられないほど細い。気をつけて扱わなければ、昴の腕の中で壊れてしまいそうな柔らかさと脆さを併せ持っている。昴の腹へ、茜の囁くような声が落ちる。

「痛いのは、嫌」

 茜の言葉には、昴の頭や心の端に僅かにでも残っていた理性を粉砕するには十分過ぎるほどの力を有していた。昴は自分の両腕の中にいる茜を前髪を掻き分け、白い額に優しく唇を落とす。茜の言葉に同意を示すように。
 


 ※
 

 昴が布団から目覚めると、ベッドに茜の姿はなかった。掛け布団は綺麗に畳まれ、足元に置かれ、シーツに皺一つない。けれども昴は焦ることも慌てることもなく、平然とその誰もいないベッドを見つめる。昨夜まで茜がそこで寝ていたことは知っており、茜が昴の家から別のところに行く必要はないことを知っている。

 ベッドの奥にあるカーテンが開けられ白いレース越しから、陽の光が部屋に入ってくる。狭い台所にもあの小さな背中は見えない。スマートフォンを確認しても、連絡は届いていない。どこかへ出かけているのだろうと思って、昴はいつものようにアルバイトに備えて再び眠る。

 次に昴が目覚めても、茜の姿はなかった。レースの向こうから陽の光が射し込んでくることはなく、夜が広がっている。ベッドの片隅には茜の荷物が置かれている。スマートフォンを確認するも茜から連絡はない。昴は不安や苛立ちを覚えながら、アルバイトに行ってくる、といつものように連絡を送る。既読はすぐについた。

「既読無視、か」

 昴の独り言が、フローリングへと落ちた。反応はどこからも返ってこない。昴は続けて何か連絡を入れようと思ったが、どういう言葉を続ければいいのか分からず、バックパックにスマートフォンを投げ入れるようにしまい、バーへと向かう。

 昴がバーで働いている間に茜は帰ってくるだろう。昴と茜は、そういう関係なのである。最初からそういう関係であることを思い出す。

 昴がバーで夜遅くまで働いているから、その間に茜は昴の家で深夜を安心して過ごすことができる。ストーカーにも、他の男にも会わず、一人でいることができる。

 しかしそういう関係は、昴が一線を超えないから存在している関係である。

 昴はあの夜、一線を超えた。茜と昴の関係は、特別ではないのだろうか。茜にとって、昴は他の男と変わらないような男に変わったのだろうか。昴と茜の関係に変化が生じたため、茜は昴の家を出たというのだろうか。昴の胸に細波が立つ。小さな波は大きな不安を連れてくる。昴はすぐに不安をベッドの片隅に置かれた荷物を思い出し打ち消した。加えて、茜の同意の元、二人は一線を超えたのではないだろうか、と昴は当然のように思う。

 昴は再び、しかし、と思う。

 もう遠い昔のこととなっているある夜、昴は似たようなことを考えたことがあった。昴から一線を越えようとした時、茜は断る術を持っていないのではないか。断ってしまえば、茜はストーカーから身を隠す場所を失ってしまう。だから、昴から一線を越えようとされた時、茜は昴に身を委ねるしかない。あの瞬間、茜は考えたのである。自分の身を守るためには、どちらが良いのか、ということに。

 昴は茜にどういう言葉を伝えれば良いのだろうか。謝るべきだということは分かる。しかし、果たしてそれだけで十分なのだろうか。そもそも、そういう機会は昴に与えられるのだろうか。一線を超えた昴が負わなければならない責任があるはずなのだが、その機会は永遠に奪われてしまった。茜に連絡を入れても、返事はなかった。

 クローズ作業を終えた昴に、鉄のように固く見える濃い藍色の夜空が降り注ぐ。昴はビルとビルの隙間に停めていた自転車の鍵を開錠する。片手で自転車を押し、空いている手でスマートフォンを取り出す。夜中の二時を過ぎていたが、茜からの連絡はない。昴の唇から零れた舌打ちが、夜空へと吸い込まれる。

 昴は大通りへ出ると自転車に跨り、夜道を駆ける。風はいつの間にかそのどこにも夏の装いを見せず、冬に近づこうとする厳しい冷たさを帯びている。昴は真正面から、その風を受けた。手袋や帽子といった防寒着を覆っているはずなのに、身体に直接触れているように冷たい。昴はペダルを踏む足に力を加え、帰路を急ぐ。

 自分が借りているマンションが近づき、通りから自分の部屋を見上げる。誰かが眠っているようにカーテンは端から端まで丁寧に閉ざされており、光一つ漏れ出ているのが見えない。

 昴は自転車を漕ぐ速度を緩めることなく、駐輪所の端にぶつけるように強引に自転車を止める。高いブレーキの音が静寂を引き裂くように響く。投げ捨てるように自転車から降り、走る。

 エントランスに人影もなく、エレベーターで一緒になる人もいない。目的の階で降りる。昴の乱れた息が、誰もいない廊下に木霊する。

 自分の家の鍵を開ける。

 部屋は暗かった。目を凝らし、部屋の奥まで見通そうとするが、辺りには暗闇が広がっているだけだった。昴は、まだ一縷の可能性に縋ろうと試みる。今までの自分の行動を反省するように、そっと語りかけるように声を上げる。

「ごめん、起こした……?」

 耳を澄ましてみたが、明るい声は返ってこない。部屋の奥に置いてあるベッドからは寝息一つ聞こえてこない。

 昴は台所の電気のスイッチを入れる。すぐに電気が灯った。慣れない眩しさに一瞬、目が眩み、視界を閉ざす。次に目を開けた時、そこに茜がいると信じてみたかったが、台所には誰の姿も見えない。ベッドと布団を区切るように置かれたローソファに人影はない。

 昴はスマートフォンを取り出し、茜に、どこにいるのか、と確認の連絡を入れる。既読の文字が画面に表示され、すぐに、話したいことがある、というテキストを打つ。いいよ、という極々短いに昴は心底安堵を覚えた。

 昴は、自分の定位置となっているような台所のスツールに腰掛けると、震える指先に力を込めて、茜に電話をかけた。何回かの呼び出し音の後、茜の温かな声が、昴の耳たぶを打つ。

「それで、話したいことって?」

 昴は大きな不安の渦に飲み込まれそうになる。自分の心臓の鼓動が、嫌に大きく、速い。昴は落ち着かせるように大きく息を吸ってから謝る。

「ごめん」

 昴と茜の間に、沈黙が広がる。昴は続けて言葉を並べる。

「あの夜、俺、自分のことしか考えてなくて……ごめん。持田のことなんか微塵も考えてなかった」

「うん、怖かった。西田くんが西田くんじゃなくなったように思えて……でも」

 どういう言葉が続くのか分かって、昴は茜の言葉を奪うように言う。

「悪いのは俺だから。持田は何も悪くないよ」

 けれども茜は昴の制止を振り切って、昴を刺すように言い切る。

「もし断ったら、私、ここに居られないような気がして……怖くなって」

「ごめん」

「西田くん、変わったね」

「多分、そうだと思う」

 茜が、か細い声を上げる。

「私の方も、ごめんね」

「え?」

 茜の口から飛び出た言葉に、昴は驚いた。どうして茜が謝る必要があるのか全然分からなかった。

「私、全然西田くんのこと気にしてなかった。西田くんが優しくて、甘えてた……。ごめん」

「持田は今、大変なんだぜ? 自分の身を守るためだから、良いよ」

「卑怯だよ。西田くんに苦しい思いをさせたのに、私はそういう理由で自分が傷つかないようにしてる」

「持田はもう傷ついているよ。自分からわざわざ苦しみに行く必要はないよ」

「私達、おかしい関係だったんだよ。付き合ってもないのに、男の子の家に居て、それが続いて、当たり前だと思ってた。でも、違った。西田くんが我慢して、気にしないようにしてたから続いただけだったんだよね。そんな当たり前のことに気づいてなかった。私達、二人共、傷ついて、傷つけて、ようやく元に戻ったんだよ」

 違う、と否定できなかった。昴にとって、茜の言葉はどうしようもないほどに事実であった。真実であった。昴が懸命に、茜との仲を大学の友達と思うことによって、その関係を超えないようにしていた。

 昴は震える声で、茜の言葉に頷く。

「そうだよ」

「ごめん……」

 昴も茜も、互いのことを苦しめないと思うあまりに一層苦しんでいた。そうして昴が一線を超えたことにより、互いを傷つけ、傷つけられた。

 互いに傷を負ったままで良いのだろうか。傷をつけるだけではなく、傷が塞がり、治るまでできることが、昴にはあるのではないだろうか。昴は茜のために、自分の奥底に眠っている勇気を振り絞った。

「なぁ、持田。もう一つ、俺の話も聞いてくれる?」

「怒ってない?」

「ちょっと突然のことでびっくりしてる」

「怒らない?」

「怒らない」

「それじゃ、聞く」

「俺は持田と一緒に過ごせて良かったけど、持田はどうだった? 辛かったり、苦しかったした?」

 茜が昴との日々を思い返すような沈黙が生まれた。

「そんなことない」

 昴は明るい声で笑った。

「良かった。それじゃ、もう一つ、言ってもいい?」

「……なに?」

「俺、持田のこと好きだよ。友達じゃなくて、一人の女の子として、好きです。付き合ってください」

 電話口で息を呑む間があった。手に持っているスマートフォンを握り直したような気配があった。茜の涙で濡れた声が、昴の耳に滑り込んできた。

「私で良いの?」

 昴は力強い声で頷く。

「持田が良い」

 茜の喜びで震えた声が、昴の胸に広がる。
「私達、やっと普通の恋人になれたね」

 昴は喜びを噛み締め、スツールから立ち上がる。靴を履きながら、茜に言う。

「早速なんだけど、一つ、我が儘聞いてほしい」

「我が儘?」

「駄目?」

「……内容によるかもしれない?」

 昴は家を出て、しんとした廊下を歩く。

「持田の家、何か夜食ある?」

 茜の温かな声が、返ってきた。

「いいよ、何か作ってあげる。……待ってる」〈了〉


 

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