知りたい?

PDFファイル版(文庫サイズ・縦書き)

 

※本作は「木曜日の使い方」、「明日のことを考えないように」に登場する二人の物語となっております。

事前に一読されると、一層楽しめると思われます。

 

「知りたい?」

柳田京子は、悩んでいた。二月に入り毎週日曜日になると顔を合わせている宮内あきという女に贈るプレゼントを。あきは普段は社会人として平日の五日は働いており、休日の日曜日になると京子の仕事の一部を手伝ってくれている。

お礼に、焼き菓子の詰め合わせや紅茶や珈琲のギフトセットなどを送っていたが、あきに手伝ってもらっている頻度が増えると贈り物を探すのも難しくなり、食事を奢ることもあった。今夜のように。

「置いとくわよ」

とん、とキャベツやニラが盛られた小鉢が、京子の前に置かれる。野菜の間から、この鍋の主役であるモツが白く輝いている。

「奉行……」

「あなたがやる?」

「いや、いい。眼鏡曇るし」

京子の自宅で会う時は絶えず厳しい顔をしているあきの頬は今では柔らかく、赤い。慣れた手付きで徳利を傾け、猪口に注いでいる。並々と注がれた透明な酒が、暖房の風で揺れる。あきはゆっくりと慎重に持ち上げ、少しずつ飲む。先程から同じ飲み方を続けて一滴も零していないのを、京子は何度も見ていた。

京子にとっても、あきとの食事は他の人との食事と比べて楽だ。この食事代が、会議費なのか接待費なのか福利厚生費なのか京子が考えなくていいのも、心休まるものになっている。

京子が宮内あきと出会い、とある会社の経理部として働いていると知ったのは友達の結婚披露宴で、新婦の友人が集った席でのことだった。他の人とも色々喋った覚えがあるのだが、京子はあきによく喋っていた。

彼女ならば、京子の毎年の苦労を取り除いてくれるのではないだろうか、と思ったためだ。フリーのイラストレーターとして活動している京子は、毎年確定申告をする必要がある。領収書は保管しているが、その領収書が経費のどれに当てはまり、仕分け、計算するのが得意ではない。どんぶり勘定を続け、追徴課税を受けたくない。税理士に丸投げするのが得策だということは分かっているのだが、それほど稼いでいるわけではない。

年が明けた頃から、友達に頼り、手伝ってもらっていたのだが最近ではその友達を捕まえることができなかった。仕方なしに一人で仕事の傍らで続けていたのだが、資料の山から領収書が見つかることもあれば、参考文献の隙間から領収書が滑り落ちてくることもあった。作業と作業の合間に面倒な計算をする必要に迫られ、限界を迎え、いよいよもってあきに泣きついた。非常にまずい、終わらせられる気がしない、と。

あきは最初が綺麗な笑顔を浮かべて京子を責め立てたが、何だかんだと手伝ってくれる。それからは日曜日の昼間から夜にかけて顔を合わせるようになっている。お陰で、少しずつであるが着実に作業は進行している。進捗どうですか? という同業者からの煽りも、簡単に言い返せる。

会う回数が増え、手伝ってくれる頻度が上がると、お返しとして渡せる物の候補が尽きてくる。もう少しあきのことを知っていれば彼女の趣味や嗜好に合ったものを渡せるのならば、日曜日にしか会わないあきのことを、京子はよく知らない。

「宮内って、普段は何してるの?」

「仕事だけど?」

「あ、いや、そういう普段じゃなくて、土曜日」

「土曜日?」

「あ、うん。そもそもだけど、土曜日って休みよね?」

「うちは完全週休二日。まぁたまに違うけど」

「たまに?」

「色々あるのよ」

「大変なのねぇ……。そう、それで土曜日」

「土曜日? 月曜日のこと、考えてるけど」

想定外の返答を和やかな調子で返してきて、京子は黙ってモツを噛んでいる。は? という一文字は、声にならなかった。それで良いだろうか、と京子は考えようとする。

「次、何にする?」

あきはメニューの地酒の一覧を眺めながら、京子の少なくなっているビールジョッキのグラスに視線を投げる。

話が流れそうな気配がテーブルに漂う。

京子は個人事業主として働いているため、日々の作業の裁量は京子自身に委ねられる。締め切りから逆算することもあれば、ぱっと浮かんだアイデアをスケッチブックに留めておいたり、過去のスケッチやメモ帳からイラストを膨らませる作業に時間を費やすこともある。月曜日であろうと火曜日であろうと水曜日であろうと変わらない。木曜日や週末の金曜日だからといって変えることもなければ、土曜日と日曜日だからといって休むこともない。自分で休む時や日や場所を決めなければ、休めない。

しかしあきは違う。土曜日というのは完全な休みだ。金曜日の仕事を終えた休みでなければ、日曜日のような明日の朝から再び仕事をしなければならないような憂鬱さを味わうようなものでもない。普通の社会人にとって、またとない休日なのではないだろうか。その機会を、あきは月曜日のことを考えていることに使っている。日曜日のことであれば京子は申しわけない気持ちになるのだが、月曜日のこととなると、それはおかしいのではないかという気持ちが芽生える。大丈夫なのだろうか、という心配が勝ってくる。

いつの間にかモツを飲み込んでいて、少し俯きメニューを眺めているあきの額を流れる黒い髪を見ていた。あきは京子が口を閉ざしていたことにようやく気づいたといった調子で視線を上げる。少し茶色みを帯びて、常に余裕を感じさせるような笑みを揺蕩わせている瞳が、京子を見る。何? と口に出すこともなければ、京子が話すのを待っているわけでもなさそうだった。

この瞳の余裕は、日曜日に作られるのだろうかという雑念が京子の脳裏を過ぎる。それならばそれで良いかもしれないと思ったが、それはあまりに個人的な嗜好であり興味に過ぎない。不思議な、愉快ともいえる沈黙が、京子とあきの間を駆け抜ける。

会話を修正するのは京子の役目のように思われ、ようやく首を傾げる。

「それ、休めてるの?」

あきの弁明は意外な方向から展開される。

「平日の方が長いから」

「……長いから?」

「休日も平日みたいに過ごしているだけ」

あきはテーブルに備え付けられている呼び出しボタンを押して、店員を呼ぶ。新しい地酒を頼み、そっちは? と尋ねられる。京子は適当に生ビールのおかわりを頼んだ。

京子には全然理解できないものが、あきの休日を支配しているように思えた。京子も一日のタイムスケジュールを決めて、週末に振り返ったり、週頭に調整することがあるため、あきの過ごし方に違和感を覚えることは少ない。が、京子がそういう過ごし方をしているのは自分で仕事をコントロールしないといけないためだ。あきのように出社する必要もなければ、タイムカードを押す必要もなく、残業を申請することもなければ、退勤する必要もない。

会社員のあきが京子のように過ごす必要は全くないのである。会社員にとって、休日というのは平日の仕事とは離れた、リフレッシュのために存在するのではないだろうか。

新しい徳利と猪口とジョッキグラスが、テーブルに置かれる。京子は冷たいジョッキを包むように持つ。火照った身体が指先から冷たくなる。

「え、何、副業してる?」

あきは新しい徳利と猪口を自分の方へ引き寄せ、小さく笑う。先程と同じように並々と猪口へ注ぎ、ゆっくりと持ち上げ、口元に運ぶ。

「日曜日に近いことしてるのに、どうして土曜日もそんなことしないといけないわけ?」

「それもそうね」

「そうでしょう?」

「でもだから土曜日は休んだ方が良いと思うわ」

「休んでるわよ」

「……ん?」

「え?」

「今の会話のどこに休んでいると思われる部分があったのよ」

かたん、と猪口がテーブルに置かれる。あきは唇を尖らせ、答えることに飽き飽きとした様子で溜め息をつく。

「得意じゃないの」

「何が?」

「休むの」

思ってもなかった返答に、京子は目を丸くした。

「え、真面目過ぎない?」

「真面目じゃなかったら手伝ってないと思うけど?」

「はいその節は大変誠に感謝しております」

京子は新たに盛られたモツやニラをビールで流し込む。

「こう、ないの。趣味とか」

「……料理とか?」

あきの語尾が上擦っていて、京子は大仰に笑う。趣味はあるらしい。ワーカーホリックという人種は、趣味が仕事でありオンもオフもなく働き続けられる。あきはどうやらそういうタイプではないらしい。

あきは、でもと続けようとする。京子は手に持っていたジョッキグラスをテーブルへ戻し、少し身構える。

「普段からやってることよ」

「良いじゃない、惰性でも」

趣味がない社会人というのを、京子は何人か知っている。仕事が忙しくて暇に割く時間がないらしい。時間はあっても身体も精神にも疲労が溜まっており、趣味を楽しむ余裕がない。つまり、仕事が悪い。

「学生の時からそんな感じなの?」

京子は返ってくる答えを既に分かっていた。あきから仕事が忙しいとかそういう話を聞いたことがなく、日曜日に会う時もいつも月曜日の朝のように、涼としたものがある。仕事が何か、あきの生活を悪さしているというものはない。

「そうね」

「凄いわね」

「……褒めてる?」

「少しは?」

曇っていたあきの眉が晴れ、口角がわずかに上がる。肩の力を抜くように息を吐き、額に流れる髪を横へと流す。

「安心するのよ」

京子には想像しにくい感覚だったが、否定することはしない。安心というのが、どれほど日常において重要なのか京子自身知っている。しかしその安心が、平日のように休日を過ごすことから生み出されるとなると、首を傾げたくなる。

「平日みたいに過ごすことが?」

「そう、変わらないから。あなただって、そうじゃない?」

「私が?」

「一日、絵を描くでしょ?」

「いや、描かない」

京子はきっぱりと否定した。

「あ、そうなの?」

「理想は確かに一日中絵を描けることかもしれないけど、犠牲にしてるからね。そういうのって」

「自分のこととか?」

「睡眠とか腰とか背中とか手首とか……健康的じゃないわね」

「クリエイターらしいじゃない?」

「まぁそうかもしれないけど、私は長く続けたいから」

だから京子には休みが必要だった。絵を描くということから離れるためにも。一日の全てを絵を描くために費やすのではなく、必ず休憩を挟んでいる。絵を描くことから離れる時間を作っている。室内でストレッチなどで身体を動かすこともあれば、散歩に出ることもあったり、銭湯に出かけたり、少し凝った料理を作ることもある。余裕がない時は、椅子に座ったまま五分の間、目を閉じて何もしない時間を作ったり、歯を磨いたりする。

そういうのが、あきにも必要なのではないだろうか。安心を得られる平日のような休日とは違う、日常を遠くに置き、再確認する。

京子があきに贈れるプレゼントというのは、物だけではないのではないだろうか。体験や経験というものも、プレゼントとして贈れるのではないだろうか。無難ではなく人を選ぶものであるが。

「ねぇ、宮内」

「何よ、改めて」

「確定申告が終わったらさ、ぱぁっと旅行しない? 一泊二日ぐらいでさ。温泉旅行とかどう?」

「嫌よ」

「え、あれ、嘘。なんで?」

「三月は忙しいから」

「え、じゃ、終わってからは?」

「一つ、訊いていい?」

「どうぞどうぞ」

「どうしてそんなに旅行がしたいの?」

京子は答えに詰まった。唸り声が漏れる。京子としては、あきのためを思っているのだが、あきは全くそんなふうに思っていないらしい。旅行が、あきの思う安心や安定から遠くなるからだろう。その理屈は京子も理解できるのだが、だからこそ、と思うのである。

羽根を伸ばす、暇を暇として暇のまま享受する。そういう時間が、あきには必要なのだと考えた。そういう理論を筋道立てて、あきに説明したところで、あきの答えは、嫌よ、という一言でまとめられるのが分かる。

情には情で訴えた方が良いこともある。京子はあきにどういうふうに情に訴え掛ければいいのか分からない。

「あなたのことを、もっとよく知りたいから」

あきは徳利を傾け、猪口に注ごうとする。徳利は中身は空なようで、猪口には一滴も酒が注がれない。白い陶器に、青で描かれた二重の円が露わになっている。

常に笑みを含み余裕を湛えているあきの瞳が、水面のように揺れる。

「そんなに知りたいわけ?」

京子は笑顔で頷いた。三月最終週の土曜日と日曜日の予定が埋まった。〈了〉

 


 

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