ア・テンポへの戻し方

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「ア・テンポへの戻し方」

 安井千歌は立ったままグランドピアノに視線を落とし、鍵盤に触れる。指の腹に触れた白鍵は、安井が調律のために触れる他のピアノ達の鍵盤に比べて、重たい。安井の指の関節が曲がる。音は真っ直ぐ伸びない。湿度や気温による歪みとは考えにくい。奏者が力任せに、勢いと体重を半ば強引にかけなければ、こうはならないのではないだろうか。

 安井は屋根と譜面台の隙間から奥へと視線を向ける。依頼者である原田菜緒が、リビングの椅子に腰掛け、書類に目を通している。ちょっと、と声をかけ、子供達にどのように教えているのか尋ねようとして、ようやく、自分が何か話しかけられたのではないかと思った。

 原田の声が聞こえたような気がした。独り言と言い切るには悩ましい大きさの落ち着いた声が。何? という歯切れの良い短い疑問符は、安井の唇から滑り落ちることなく、口の中に留まる。舌の先が歯の裏に当たった。

 原田の空いている長い指が、何かの曲を思い出すかのようにテーブルの縁で動く。リズムは一定で崩れることはなく、強弱が生まれる。左手の薬指につけられた銀のシンプルな指輪が、天井からの光を周りへと振り撒く。ロングスカートの先から伸びている足が、スリッパ越しにペダルを押すように、フローリングを押す。

 安井の頭の中で、原田の奏でる音を追いかけ、その曲が形作られている。安井は腕時計を外し、側に置いていたバックパックにしまう。音叉やチューニングハンマーやチップとレンチなどといった器具を取り出すと安井はピアノの前の椅子に腰を下ろし、姿勢を伸ばす。短く息を吸い、長く吐き出す。両方の手首が軽く動くことを意識するように、軽く回す。

「四時には終わるから」

 原田の視線が書類から離れ、テーブルに置かれている時計を見た。ベートーヴェンの第二十三番を奏でていた手足の動きが止まった。

 細いフレームの眼鏡を外し、安井へと視線を移す。セミロングの髪と同じ色のモカブラウンの丸い瞳が、安井の瞳を見つめる。

 安井の心に段々と波が立つ。何か不満でも? と尋ねようとした時、赤いリップが薄く塗られた原田の唇が動いた。感想のような、安井の仕事振りを評しているような、短い言葉。

「早いのね」

 こうやって話す人だった、と安井は記憶の底から掘り返す。ようやく、驚きが胸の端から滲む。過去の記憶に引きずられることなく、一人の調律師として淡々と伝える。

「部分的なものだから」

「そう」

「今日のレッスンには間に合うから安心して」

「今日のレッスンは念のため、休みにしているから心配しなくても大丈夫よ」

「休み?」

「ええ」

「一日休むと取り戻すのに大変じゃない?」

「ピアノを弾くことが、演奏の全てではないはずでしょ?」

「私、あなたみたいな先生には教えられたくないわ」

「そうね。私もあの子達みたいに若かったら、多分……いや絶対嫌だと思うわ」

「嫌な先生」

「早めに気づけるように教えてあげてるのよ」

「やっぱり嫌な先生じゃない」

 沈黙が、安井の頬や指先に刺さる。外装を外す。屋根を壁に立てかけているところでも、原田の視線を感じる。本格的な作業に取り掛かる前に、安井は唇の端を持ち上げた。形の良い笑みが、頬に張りつく。広くなった視界の先には、原田の背後にあるキッチンもよく見えた。食器棚も冷蔵庫も磨かれている。

「話したいことがあるなら、話して」

 原田は安井の目を見たまま、はっきりと鍛える。

「いいわ」

「どっちの意味?」

 原田は笑う。

「耳を使う仕事だから、邪魔しちゃうでしょう」

「大丈夫よ」

 原田の声が揺れる。

「本当?」

「ええ、集中力を乱される方が嫌いだから」

「そういうところ変わらないのね」

 原田の瞳や頬が小さな弧を描く。天井から降り掛かる照明とは全然違う、秋の暮れ方に辺りを茜色に染める西陽のような眩さが、原田の笑顔を彩っている。

 安井の知っている原田は、そんな笑顔を見せたことはなかった。どんな顔をしていたのか今では思い出せないが、そんなふうに笑顔を見せる人間ではなかったことは覚えている。そっちも全然変わってないじゃない、という言葉は、安井の胸底へと沈んでいく。

 安井は全ての鍵盤の音を鳴らし、指先へと返ってくる重みを改めて知る。鍵盤の端の方も、全身の体重を使い、勢いでそのまま押し込んだような疲労がある。

「そうかしら?」

 安井の疑問は、先程の原田の言葉のように独り言と呼ぶには大きく、誰かに語りかけるには早い。原田の返事は返ってこない。今の原田奈緒ではなくずっと昔の彼女に語りかけているかのようだった。安井は薄く目を閉じ、ゆっくりと深く息を吸い、吐き出す。安井は目を開け、自らの役目を思い出し、自分の仕事に取り掛かる。

 鍵盤を盤面の内部を小さな箒で清掃する。鍵盤バランスボールが固くなっており、バランスピンやプロントピンを研磨し、ボールを調整する。

 原田の返事が返ってきた。

「ええ」

「そ」

 短い言葉の応酬の後に降り掛かる沈黙を、原田が拒む。

「ピアノ、辞めてると思ったから」

 同じ言葉を、先程耳にしていたことを、安井はこの時になって思い出した。ピアノ内部のネジが乾燥により、緩んでいた。ネジを締め直し、タッチ感に関わる整調へと移る。

 原田の感覚に合わせるのではなく、この場で教わっている生徒達の感覚に合わせる。一人、二人とこの家を訪れる生徒達のことを。背中を少し丸め、大きくない手で譜面を追いかける。何時間も何日も続ける。安井の記憶が、自分の過去に触れそうになる。

「辞めてるわ」

「え?」

「ピアノ、辞めたの」

 原田の声が、安井の返答を疑うように高くなる。

「そう?」

「ええ」

「どこで弾いてないの?」

「ない」

 原田の視線が、安井の耳や指先へと集まる。

「その手で?」

 安井は自分の片眉の端が、吊り上がったのを感じた。堪えきれなくなった言葉が口を衝く。

「嫌味?」

 原田は動じることなく、続ける。

「全然。私、あなたはプロになると思ってたわ」

「その言葉、そっくりそのまま返すわ」

 張り詰めた沈黙がリビングに満ちる。安井は程よい緊張感を胸に、ピアノのチューニングを始める。チューナーで合わせてピッチを決める。音階を作っていき、一音に対して張られた三本の弦の音程が全て同じようになるように整える。チューニングピンを調整する。黙々と作業を続ける。

 歪んでいた音は真っ直ぐに変わった。満足げに笑う。

「終わったわ」

 明るく伸びのある声をかけた安井は、自分の頬がすぐに下がったのを知った。言葉を続けようとしたが、乾燥した喉に張り付いたままだった。

「そう、ありがとう。時間以内ね」

 時計に視線を落とした原田の頬には、夕暮れのような微笑が浮かんでいた。安井は本来伝えるべき言葉とは別の言葉を口にする。歯切れの良い音になるように唇を動かしたのだが、思ったよりも小さな声となった。

「一つ教えてほしいことがあるんだけれど、良い?」

 原田が視線を安井に向ける。

「何かしら?」

 そういうふうに話す人だと分かっているはずなのだが、心臓が嫌に跳ね、背中に汗が広がる。

「あなたは?」

「何が?」

「ピアノ、辞めたの?」

 原田は空いている目の前の席に手の平を向ける。

「こっちで何か飲みましょう」

 安井はバックパックにしまった腕時計を手首に巻き直す。原田の側に置かれている時計と変わらない時刻を差していた。自分で振った話だが、安井は眉を寄せる。

「ありがたいけれど、そういうのは受けないようにしているの」

「仕事熱心なのね」

「ええ。次の依頼もあるから」

「昔の友達が話す時でも?」

 安井はピアノの前の椅子に戻ろうとした足を止め、今日の今後の予定を思い返した。原田の方へと向けて歩き出す。

 原田の前に座ろうとした時、彼女を見下ろす形になった。白いブラウスをまとう肩は、これほど細かっただろうか。背中はこれほど薄かっただろうか。細いや薄いというのは適切ではないような気がした。原田奈緒という女性は、これほど小さかっただろう。テーブルの上に置かれた大きな手、短く整えられた爪や長い指が安井の記憶と一致した。

 安井は椅子を引き、腰を降ろす。

「長居はできないから」

 真面目から見つめる原田の目は丸々としており、長く上を向いた睫毛がよく見える。額や目元には少しカールされた前髪が掛かっている。

「ありがとう。何にする?」

「アイスコーヒーある?」

「ホットじゃなくていい?」

「猫舌なの」

 原田の整えられた眉が眉間に寄る。声に陰りが宿った。

「……初めて聞いただけれど?」

 安井は冗談とも真面目とも悟られない調子で頷く。

「そうね」

 原田は椅子から立ち上がり、奥にあるキッチンへと歩む。冷蔵庫や戸棚を開けたり、ミルがコーヒー豆を粉砕する豪快な音や食器棚からグラスを取り出す以外の音は、安井の耳に届かない。

「ガムシロップとミルクは?」

「入れておいて」

「ブラック派じゃなかった?」

「今日はそういう気分なのよ。甘過ぎない程度に入れておいて」

「難しい注文」

 原田が盆を両手に持ち、戻ってきた。氷の入った二つのグラスには、透明なストローが刺さっており、原田の髪や瞳の色のような色合いのコーヒーが注がれていた。

 一口飲むと、爽やかな苦味が口の中に広がる。

「ありがとう。美味しいわ。随分と本格的なのね」

 安井の前に戻った原田の視線が、一瞬、左手の薬指に落ちた。

「そうなっちゃったの」

「結婚、大変みたいね」

「大変よ。普通の人にならないといけないから。あなたは?」

「独り身よ」

「考えたことは?」

「ないない。無理」

 原田は白い歯を見せて笑う。

「言い切るわね」

「もちろん」

「子供が欲しいと思ったことは?」

 安井は首を横に振る。

「自分が母親になっているのが想像できないの」

「そう? 良い母親になれると思うけれど?」

「先生になってしまいそう」

 原田の低い声が落ちてきた。

「……ああ」

「だから、もう諦めたわ」

「良い選択だと思う」

「ありがとう。それで、あなたはどうしてピアノを辞めたの?」

 原田奈緒という奏者の噂は、数少ない共通の友達を通じて安井の元まで届いていた。

「パリまで留学したんでしょ?」

 原田は自分の過去を話すより先に、安井の過去に触れる。

「前から気になっていたんだけれど、あなたって大学卒業した?」

「したわよ」

「ピアノ科にはいなかったけれど?」

「転科したの」

「転科?」

「そう」

「どこに?」

「ピアノ科からピアノ調律科に」

「ピアノ調律科?」

「あるのよ」

「いつ?」

「二年の時」

「どうして?」

 安井は蘇ってくる過去を冷めた目で見ていた。

「神童も二十歳過ぎれば、ってやつよ」

 原田の丸い目が一段と丸くなる。

「クラコン連覇できたのに?」

「それとこれは別の話」

「別なの?」

「メンタルの問題だったから」

「続ければ何とかなったんじゃない?」

「……そうかもしれないわね」

「続ければ良かったじゃない」

「あの時でも同じこと、言える?」

 原田はそれまでの柔らかい声とは全然違う声で言い切った。

「言わない」

 安井は原田の答えを受けても、口元に浅い笑みを引っ掛けるだけだった。

「ライバルが一人減って良かった、でしょ」

 原田は笑う。

「そう」

「過酷な環境から離れたかった。自分を見つめ直す機会が欲しかったんだでしょうね」

「それ本心?」

「少しは?」

「もし過去に戻れるとしたら、ピアノ科に在籍している?」

 安井は自分の腕を眺め、手先へと視線を移す。今の安井はピアノを弾く人間ではなく、調律を終えた時に試奏する程度しか弾かない。この指で譜面通り弾くのではなく、音が間違っていないか確認する程度だ。

「今の腕前だと、ついていけないわ」

「昔のままだったら?」

「昔のままで、今の精神性ってこと?」

「そう」

「それでも無理でしょうね」

「無理なの?」

「ええ」

「どうして?」

 下手になっているから、という安井の自嘲は、どちらの耳にも入らなかった。唇の端から零れた乾いた声は、どちらのものだったのだろうか。

 原田は安井を真っ直ぐ見つめたまま、全くの躊躇いなく、はっきりとした声で言う。

「私は、戻りたい」

 テーブルに置かれた原田の手が拳に変わる。強く握っているのか手が赤くなり、震えている。原田の瞳の奥底は揺らめている。揺らめく度に、正面に立つ安井の姿が左右に揺れる。

「気持ちは、分かるわ」

 安井は原田の目を見たまま、自分達の過去を慰めるような弱々しい声で沈黙を破った。原田の顔は安井の言葉を受けたところで、頬が柔らかく弧を描いたり、互いの過去を知った上で優しく語りかけるように唇が動くわけではなく、微かに笑おうとして動いただけだった。

「気持ちだけ、でしょ」

「そうね」

 原田の口が大きく動き、口元に濃い笑みを作る。

「私、不思議だったの。どうしてあなたはピアノを辞められたんだろう、と」

「さっきも言ったでしょ。挫折したからよ。自分より高みのいる人間に届かないって分かったの」

「私が知りたいのは、そんな理由ではなくて、もっと別よ」

「別?」

 原田の質問の意図が読みきれず、安井は眉間に皺を作る。口から飛び出した声は強い勢いを保っていた。

「そう」

「何?」

「あなたにとって、ピアニストってその程度だったの?」

 突きつけられた質問だったが、安井は口を大きく開けて笑った。

「厳しいわね」

「ごめんなさい、あなたと再会するの久し振りだから」

「良いわよ、別に。あなたってそういえば、そういう人だった、と改めて思い出せたから」

「そう。なら良かったわ」

「それが本当に訊きたいことなわけ?」

「私達の代で、純粋なピアニストは出なかった」

「兼業でもピアニストとして生活できているだけでも良いじゃない」

「慰めてほしいわけではないのよ」

「慰めているわけじゃないのよ。ただの感想」

「私は、手の届く距離にあったの。でも、掴めなかった。一人で、一人で……。もっと……」

 言葉の最後は涙に濡れ、聞き取ることができなかった。荒い呼吸が、リビングに広がる。原田は顔を伏せ、拳を震える程に握っている。叩きつけるのだろうと思っていた拳は、その場で震え続けているだけだった。原田の歯軋りが、テーブルの端からフローリングへと滑り落ちた。

 原田の震える肩や髪先を眺めながら、安井はあの頃の自分に足りなかったものが何なのか薄っすらと思い出していた。安井は原田の前から離れ、腕時計を外し、バックパックにしまうとピアノの前に腰を下ろす。背筋を伸ばし、両方の手首が軽やかに動くのをイメージし、ゆっくりと回す。

 試奏として弾くには何が良いだろうかと考え、記憶を探る。安井の指先が白い鍵の上に乗り、背筋が少し丸くなる。指先が、頭の中にある譜面を追いかけ、鍵盤の上を駆け巡る。安井の力を受けた鍵盤はズレることなく反応を返す。真っ直ぐと伸びのある音。歪みなく、波のように室内へと広がる。

 安井の頭の中に残っている譜面は、過去の栄光で輝かせるかのように隅々まで明らかで、速度指示も強弱も、音符も全てが指先に宿っている。

 原田の肩が跳ね上がり、赤く腫れ上がった目が安井に向けられる。

「ベートーヴェン第二十三番第一章」

 試奏を終えた安井は、言う。

「調律の試奏には向いていない曲だったわ」

「今でも、それだけ弾けるのね」

「あの頃に比べたら全然よ」

「もっと練習すれば、有り得るんじゃない?」

「ピアニストの夢は諦めたの。譜面通りにしか弾けないから。でも、だからかしら、自分が何のためにピアノと接しているのか考えた」

「……綺麗事」

「そうね。でも、私はそれで良かった」

「あなたは変われたのね。羨ましい限りだわ」

「私は、別にそういう生き方があっても良いと思うわ」

「あなたって、思ったよりずっと優しいのね」

「あなたに比べたらね」〈了〉


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