アンダンテの速さ

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「アンダンテの速さ」

ピアノの音を悪くしてほしい。

安井千歌は依頼文を読んで、そう解釈した。音大を卒業して働いたピアノメーカーの頃も、退職してフリーとして活動している今も、音を悪くしてほしいと思わせる依頼を受けた覚えはない。

依頼者宅の最寄り駅である荻窪に降り立つと梅雨入り前なのにも拘わらず、空はもう梅雨が過ぎ去ったように青い。

いつもは工具箱で塞がっている手は自由。背負ったリュックには書類などの最低限の荷物しか入っておらず、不思議なまでに肩は軽い。他の依頼と同じように下見をするために、足を運んだ。が、ずっと気が重い。音が悪くなってしまうかもしれないピアノのことを考えると、尚更だ。

依頼者である冨田雅子の家はここからそれなりに距離があり、雅子からは当日駅まで車で迎えに行きましょうか、と気遣われた。安井は、断った。考える時間が欲しかったのだ。考え、納得する時間が。

雅子から依頼のメールは本題に至るまでに時候や安井を気遣う文章が続き、本題を終えてからも丁寧な文章が続いたが、要約すると短いものだった。

半年前に自宅のピアノをメーカーに依頼して調律したが、まだ音が正しくないように感じるので確認してほしい、と。

どういうふうにピアノを扱っているか分からないが、半年でピアノの音が変わるということは考えにくい。温度や湿度の関係で音が変わった可能性があるが、その可能性であれば同じピアノ調律師に依頼するだろう。しかし、雅子が選んだのは、フリーで活動している初対面の安井。メーカーのピアノ調律師がピアノの音を正しく調律しないということは有り得ない。ならば、安井に求められることは、ピアノの音を悪くしてほしい、ということなのだろうか。

が、安井にできることはあるのだろうか。もし本当に依頼者がピアノの音を悪くしてほしいといえば、安井は選択するのだろうか。安井がピアノの音を悪くすれば、ピアノは正しい音を取り戻すのだろうか。

どうであれピアノの状態を確認しないで断るのは失礼だろうと思って、まずは下見をしてからという旨の返事を送った。

しかし今の段階でもう、引き受けようと思っている。この依頼がうまくいけば、新たな顧客を得られるだろう。

ピアノの音がおかしくなるとほとんどの場合、雅子のようにまずはメーカーに連絡を入れる。そしてほとんどの場合はそこで解決される。安井のようなフリーのピアノ調律師に依頼されるのは、メーカーでの対応が難しいもの。

昔からの知り合いであったり、メーカー勤務時代に独立を顧客に仄めかしたことにより何人かは安井に依頼の連絡を入れてくれることはあるが。今回のようにインターネットを通じて、新しい依頼が来るのは非常に珍しいことである。

安井は胸の高鳴りを覚えながら、やはり不安を拭いきれない。調律師がピアノの音を悪くするなど考えたことがなかった。

雅子の家は荻窪駅から遠く、ゆるやかに続く坂を登ったところにあった。安井は額に貼り付いた前髪を払い、息を整え手に持っていたジャケットを羽織りなおして、呼び鈴を鳴らす。

メールの内容からもイメージできたような物腰の柔らかい、背の低い女性が出迎える。短い髪には白髪が見えるが、目元や口元に自然と穏やかな笑みが浮かんでいる。

雅子は安井の額や肩に目を移すと一瞬驚いたように目を見開くと、すぐに労いの言葉をかける。この声も目元の笑い皺と同じように柔らかい。

「遠くからわざわざありがとうございます。もしかしてですけど、駅からは歩いていらっしゃいました?」

手短な挨拶の後、雅子は安井を中へと招き入れ、長い廊下を先に歩む。玄関には女性の靴しか見当たらない。

ブラウンを基調にした室内はどこも微かに暗いためか、人の気配が感じにくく、廊下の突き当たりのドアの向こうにある横長の窓から伸びてくる陽の光が眩く感じる。

「お陰で良い運動になりました」

「そうですか? でも、この陽射しは堪えるでしょうし、帰りは駅前までお送りさせてください」

「わざわざ済みません、ありがとうございます」

「ピアノはこちらに置いてます」

廊下の突き当たりに位置している部屋は、右手には部屋全体を見渡せるオープンキッチンがあり、左手には明るいリビングが広がっている。食卓の近く、窓から入る光が届かないところにピアノは置かれていた。小学校や中学校に置いてあるような黒いグランドピアノであるが、家に置くことを考慮したのか少し奥行がコンパクトな作りになっている。

安井はピアノを見るな否や尋ねた。

「早速ですが、音を確認させてもらってもよろしいでしょうか?」

音は間違っていないだろうし、確認を済ませて、どういうふうに調律をしたらいいのか考える時間が欲しい。

雅子はきょとんとした顔を安井に向けていた。どうされましたか、と安井が訊くよりも早く、雅子が安井の額を見上げながら訊く。

「何か飲まれますか?」

「……ありがとうございます、でしたら何か冷たいものを」

「コーヒーはお好きですか?」

「よく飲みます」

「ミルクやシロップはどうされます?」

「ブラックでお願いします」

キッチンへと向かう冨田の背中を見ながら、安井は困ったような笑みを浮かべる。一人の客人として家に招かれたことは事実だが、こうしてもてなされるとピアノの確認が遅くなり、今回の場合は時間が惜しいため困る。かといって断ってしまうのは、初めて会っている雅子の厚意を無下に扱ってしまったようで申しわけなく感じる。そういう依頼者がいないわけではなかったが、車での迎えのことといいそこまで気遣われるとは思っていなかった。急いでピアノの調律をしなければならないと考えているのは安井一人だけのように見て取れた。

安井は一瞬の逡巡の後にピアノが置かれている影の中へと進み、背つきの椅子に座る。磨き上げられた外装は艶やかだった。

大きく開かれたピアノの黒い屋根の左手側に、横に長い窓が広がっており、食卓にだけ光が届くように設計されていた。窓の向こうに見える中庭の木々は、近づく梅雨の気配を感じさせない強い陽の光を受け輝いている。濃い緑の葉が風を浴び、揺れる。

食卓の奥にあるキッチンへと視線を移せば、雅子の大きな声が飛んできた。

「お好きなんですね」

何について問われているのか分からず、安井は鍵盤蓋を持ち上げる動きを止めた。

「……お好き、とは?」

「ピアノです」

安井は硬い声で謝ったが、雅子からは微笑ましい声が返ってくるだけだった。

「良いんですよ、どうぞ確認してください」

雅子に促され、安井は蓋を開け、真白な鍵盤と向き合う。安井の心持ちが穏やかではないことを示すように硬い顔が、反射していた。

安井は気持ちを切り替えるようにピアノが使われた過去を思い描き、どういう音が求められるのか考える。

楽器を弾ける者を呼んで、演奏会を楽しんだことがあったのかもしれない。駅からも隣の家からも遠いこの家は、演奏会を楽しむ場として最適なように思われる。

ジャケットを脱ぎ、腕時計を外し、手首を軽く保ち、柔らかく動くように意識する。

長い指を鍵盤に添える。調律の前後に音を奏でるこの瞬間は、いつも緊張する。

調律の前に音を確認する時はいつも、自分がこれから行う調律の予定を考える。文章で得た音の情報を思い出し、ピアノがどのような場面で弾かれるかを想像する。調律を終えて音を確認する時は作業中にイメージしていた音と同じかどうかを意識する。

音大のピアノ科に籍を置き続けられなかった安井だが、この緊張を味わう瞬間はかつての日々と変わらない。もしかすれば、どのような音が鳴るか分からないことを考慮すれば、あの一刻も早く忘れたかったかつての日々よりも緊張を味わっているのかもしれない。

安井は思い出しかけていた過去を断ち切るように指先にそっと力を加える。ピアノは安井の込めた力を受けて、ラの音を響かせる。変わったところはない。音叉を使わなくても、安井の耳はラの音を正確に聞き取れた。一つ、二つ、三つと段々と音を増やし、オクターブを確認するもおかしなところはない。三本のペダルも確認するが、正確な音色を奏でる。

半年前に調律したとメールに書かれていた通り、音がおかしい感じはなく、音のブレもない。平均的な、これといった特色がない普通のピアノだ。一般家庭で奏でるには十分で、メーカーの調律に問題はない。

けれども、その調律は雅子にとって良いものではなかった。何度か弾いた時に違和感を覚えたのだろう。時間を空けずに再びメーカーに調律の依頼をするのは失礼だろうと思い、安井に白羽の矢が立った。そう考えるのが、妥当だろう。

安井は手早くピアノの音を確認すると食卓へと歩み、雅子の正面に座るとアイスコーヒーを手にする。小さなグラスを、安井は大きく長い片手に持つ。冨田は小さな両手でグラスを包むように持っていた。

確認を終えて得た情報を、安井は正直に伝える。

「失礼かもしれませんが、おかしなところは……」

「そう、ですよね……」

雅子の眉が不安気に寄る。

安井は雅子の反応を見て、彼女以外の誰かがピアノを弾くのだろうと察した。今の音では満足して

おらず、その誰かの感覚に合わせて調律すれば依頼は終わる。しかし、そんなことは依頼文のどこにも書かれていなかった。雅子がピアノを弾くことは書かれていたが。

雅子が意図的に伏せていることを、今日初めて会った安井が明らかにしていいのだろうか。仕事で必要な情報であるが、どう伝えればスムーズに事を運べるだろうか。

安井がどう踏み込もうか悩んでいると、雅子が沈黙に堪えられなくなったように口を開けた。

「そうですよね……」

落ち着いた調子とは裏腹に、わずかに伏せられた目は翳る。安井はこの時になって、ようやく口を開けた。

「もしかしてですが別の方が、この音ではない、と?」

「娘が綺麗過ぎる、と……」

音色に関する相談を、安井を始めとしたピアノ調律師を受けることがある。よくされる相談は、音を明るくしてほしいというものであり、高音の響きを解決すれば良い。しかし、音が綺麗過ぎるので何かしてほしいという相談を受けたことはなかった。

「娘さんが?」

「はい……本人はそう言っています」

「具体的にはどうとお聞きですか?」

「そこまでは……」

歯切れの悪い調子に、安井は何となく雅子と娘との関係を思い描くことができてしまい、深く踏み入ることを避けた。

こういう仕事をしていると個人宅にピアノの調律に赴くことは何度かあり、そこでは似たような親の顔を見受けられる。どこか緊張したものを絶えず顔のどこかに帯びさせ、全てを話すことはなく聞き手に察することを希う表情。

つまり、雅子と娘の関係は良くない。雅子がピアノを弾けるため、親と子の関係だけではなく、先生と生徒という関係を家庭に持ち込んでしまったのだろう。

雅子の娘はこの音に違和感を覚えているかもしれないが、安井の耳はこの音を正しいと判断している。正しい音を違うと言われてしまえば、この依頼は一人のピアノ調律師として解決するのが難しい。もっと別の、適切なところに相談を持ちかけた方が良いだろう。

断った方が良いのだが、一縷の希望として選ばれたことを踏まえると断りにくい。加えて安井はまだ雅子の娘から、このピアノのどこが悪いのか、何が違うのか具体的に聞いていない。違和感を覚えるのがピアノの音であるならば、ピアノ調律師としてできることは存在する。まだ可能性が残っているのにも拘らず断ることが、安井にはできない。

「娘さんはよくピアノを?」

「帰ってきた時に、時々弾く程度で……。先程の安井さんのように、鳴らして確認するんですが、音が違うようでして、すぐにやめてしまいます」

「娘さんはピアノを弾く職業に就いておられますか?」

「多分ですがそういう職には就いていないかと……」

娘はもう成人していて、この家を出て、お盆休みや年末年始などに帰ってきた時に時々弾くのかもしれないと思った。もしピアノを弾く仕事に就いているのであれば、普段弾いているピアノとの違いに違和感を覚え、神経的に違うと言ってしまったのかもしれない。

音の違いは非常に言語化しにくい部分であり、もしそうであれば話は早かったのだが、どうやらそういうわけではないらしい。音にこだわりがないのではあれば、こういう普遍的な音色で良いのではないだろうか。しかし、娘は納得していない。

安井がピアノを調律する時、よく弾く人間の手に合わせて調律する。弾き手の指先に合う調律を探す。鍵盤を押した時の感触、音の響き……。可能であれば、よく弾く奏者の手に合わせたい。雅子か娘のどちらがよく弾くのかと考えれば、きっと雅子だろう。けれども、娘が弾かない理由が本当に音の違いであるならば、そこも考慮したい。音が悪いから弾きたくないと思わせたくない。弾いていて心地良いものにしたい。

娘が弾いている時の感覚は、雅子では分からない。直接会って、聞いてみないことには分からない。安井は家に案内されてから見かけていない娘について尋ねる。

「娘さんは今どちらに?」

「入院しております」

安井は娘が入院していると聞かされても驚くような素振りは見せず、念を押すように尋ね返す。

「お会いすることは難しいでしょうか?」

雅子は安井の顔に訝しむ視線を送る。どうしてそこまでするのだろうか、と語る瞳。遠慮してほしいと言いたげな調子で確認される。

「病院へ行かれるということでしょうか?」

「退院されてからでも大丈夫ですが……」

「それはピアノの調律と関係あるのでしょうか?」

安井は雅子と娘の仲を裂かないように言葉を選びながら推論を述べる。

「私も今し方確認しましたが、このピアノの音は間違っていません。ですが、娘さんは違うと仰っている。もしかすれば、音の問題ではないのかもしれません。鍵盤を押した際の感覚、音が鳴らされるまでの間……。そういう微かな違和感は、私達では分かりません。奏者だけが持つ、非常に微細な感覚です。その感覚は、言語化が難しく、何となく違うような気がする……という感覚に近いです。ですので、娘さんに直接話を聞きたいと思います」

依頼を正式に受けるかどうかはそれからにしたいです、と付け加えると、雅子は娘の入院している病院を教えてくれた。

安井はその病院名を聞き、思わず反射的に訊き返した。ここから少し遠かったのもあるが、その病院の名前がかつて同じ中高一貫校で学んだ女の名前を冠していたから。

「丸岡総合病院? あの? 最近テレビで見るあの丸岡先生がおられる……?」

「その丸岡先生がおられる病院です」

そうして、安井は再び丸岡総合病院へと足を運ぶことになった。東京・赤坂にある、あの広くて明るい、物々しい病院の雰囲気を感じさせない病院へと。

安井千歌と丸岡みゆきの関係を説明するのは難しい。同級生、同じピアノ教室で知り合った友達、奏者、ピアノをやめた裏切り者。最も最近の関係にクライアントとコントラクターがあるが、どういう言葉を用いても、微妙に二人の関係のピントはずれる。精々、顔馴染み、程度であろう。

安井と丸岡は大学の進学先が違うこともあり、高校の卒業式以降は会っていなかった。双方が社会人になってから再会したのは、丸岡総合病院のロビーに置いてあるピアノの調律を依頼されたからである。それで話が終われば良かったのだが、ロビーに置かれているピアノはその特殊な内部構造から週に一度は弾く必要があり、本来の音を蘇らせる依頼も任された。

丸岡の依頼を引き受けた当初は、病人でもないのに病院に足を運ぶことに違和感を覚えていたが、週に一度は足を運ぶと仕事のために来ていると意識できるようになり、今では勝手知ったる場とすら思えるようになった。依頼を引き受けた当初は探そうとしなかった喫煙所に真っ先に向かう程度には、この病院に慣れ親しんでしまっている。

丸岡総合病院の喫煙所は、中庭を抜けて、病棟から最も遠く、一階と二階からも見えにくい、人目の付きにくい日当たりの悪い場所にある。ブラウンの高い天井から明るい照明が降り注ぐロビーとは大違いだ。ロビーの真ん中には高価なグランドピアノが置かれており、クリスマスの時期などには奏者を呼び、患者に憩いの一時を与えている。

一方で喫煙所へと続く道に屋根はなく、喫煙所にも屋根はない。テーブルもなければベンチもなく、ピアノの音も聞こえてこない。縦長の灰皿と煙の流れを制御するようなアクリル板があるだけ。

煙と独特な臭いが満ちる喫煙所に溶け込むように安井の姿はあり、不釣り合いなように明るいライトブルーのスカートスーツに身を包む丸岡の姿があった。

テレビで見かける時や院内で見かける時は白衣を着ているのだが、ここで遭遇する時はいつも白衣を着ていない。臭いが移るのがいけないと言っていたが、スーツに移るのは構わないらしい。煙草の臭いがする医者はどうなのかと言ったことはあるが、医者だからって煙草を我慢する必要はないでしょ、と返されるだけだった。

二人は喫煙所の出入り口で目が合い、互いのことを認識しても一声もかけなかった。一本目の煙草を吸い終わるまでは何も話しかけないという暗黙の了解があった。

丸岡は突然の安井の来訪に驚く素振りも見せず、涼し気な横顔。眼鏡の向こうのブラウンの瞳は、全く安井の存在を気にかけない。安井も丸岡が喫煙所に居ても驚かず、むしろ居る方が自然だろうと思って気にかけない。

安井が煙草に火を点けても、丸岡が持っていた煙草の灰を灰皿に落としても二人は当たり前のように無言だった。

たっぷり一本分の無言を双方が楽しむと、丸岡はスマホを確認した後、ようやく口を開けた。色の薄い肌と同じように体温も低く、情にも薄いのだろうと思わせる淡々とした調子。梅雨が明け、夏が本番を迎えた頃に聞くとひんやりとして心地良さを覚えるかもしれない声音。

「調律の仕事は明後日じゃない?」

形の良い眉は安井の来訪の不思議さを抑えきれないように眉間に寄っている。安井は手短に別件よ、とだけ答えると丸岡の眉間から力が抜けた。

「あなたがお見舞いに来るような方はいないと思うけれど」

「いるのよこれが」

「意外ね」

「冨田涼子、母親に頼まれたのよ」

名前を告げると、わずかな沈黙が流れた。丸岡の眉が上がり、煙を短く吐く。

「家族以外の面会は受け付けてないわ」

丸岡のパンプスが地面を叩き、硬い音を響かせる。露骨に明確な拒絶。声の冷たさも手伝って、何かいけないことをしているような気分を覚える。

「外科で診たの?」

「聞いてないの?」

「それでまだ面会が許されないわけ?」

丸岡総合病院が友人の面会を許さない決まりはなかったはずだ。丸岡は冷ややかな視線を安井に送るだけで答える気配はない。もう伝えるべきことは伝えたということなのだろう。

面会できないのであれば、病院に足を運んだ意味がない。黙っている丸岡を乞うように下から見上げて尋ねてみる。

丸岡は同じ言葉を繰り返すのに嫌気が差したのか、ただ頷くだけ。白い頬にも眼鏡越しの瞳にも変わった色は宿らない。安井は溜め息を零すように煙草の煙を地面へと吐く。

雅子から娘が入院していると聞かされた時、安井は骨折とかそういうちょっとした事故や怪我により入院が必要になったのだろうと思っていた。安井の友達がこの病院に入院した時、見舞いに行ったことはあるし、話をしたこともある。友人が面会できないということはないだろう。

「丸岡総合病院はいつからそんなにお見舞いに厳しくなったの?」

丸岡は無言のまま安井の顔を見る。

情報を得られないのならば用事がないため、いつまでもここに居る必要はない。この煙草を吸い終えたら帰ろう。そんなことを考えていたら、丸岡が一つの規則を教えてくれる。

「精神科の病棟はいつもこうよ」

「そうだったっけ?」

「そうよ」

「だったら仕方ないわね。お見舞いしても良いようになったら教えてちょうだい」

涼子は外科で診てもらい、今は精神科の病棟で入院している。冨田家のある荻窪から遠い赤坂の病院で。

何がどうなってそうなったのか、安井には分からない。兎に角、涼子は丸岡総合病院に入院している。家族以外とは面会が許されない状態で。会って、話して、ピアノの調律の方向性や手掛かりを得ようと思ったが、早々に詰まった。

涼子は今のピアノと違う音色を求めていることしか分からない。

どのようにピアノの音を整えようかと考えていると、丸岡は冷めた瞳を安井に向け、心の内を見透すように訊く。

「冨田家のピアノの調律?」

丸岡が涼子のことを話してくれないのであれば、安井もクライアントのことを話す気はないのだが、丸岡に与えた情報が多過ぎた。

諦めたように頷くと丸岡の口元に薄らと弧が描かれる。新しい煙草に火を点け、一つの情報を明らかにしてくれた。

「冨田涼子はピアノを弾かないわよ」

安井は情報を明らかにしてくれた礼の代わりのように、三つの数字を丸岡に伝える。

「十二、十五、十八」

「何の数字?」

「ピアノをやめる傾向がある年齢」

「私みたいに?」

「あなたの家にピアノは置いてある?」

「置いてないわ」

「あなたみたいにピアノをやめたわけでも、やめさせられたわけでもないのよ。そして、弾かなくなったわけでもないってこと」

安井と丸岡は同じピアノ教室で知り合った。ピアノ教室だけのはずだった関わりは中高一貫の私立で再会したことで、同じ時間を過ごす機会が増えた。安井の方が丸岡よりもピアノが上手く弾けた。コンクールで入賞するのはいつも安井であり、その下に丸岡の名前が並ぶ。そんな関係。

安井は丸岡の弾くピアノは決して嫌いではなかった。しかし、安井は不必要だと思っていた。ピアノをやめることはないだろうと安井は無邪気にも信じていたし期待していた。

が、丸岡は十八の時にピアノをやめた。はじめから、そうだったらしい。医者の家に生まれた決まりだと言っていた。受験までならば続けてもいい、そんな約束。医師として働き、将来的には家族が役員をしている病院の経営に携わる。そんな運命を、丸岡は背負っている。結婚も親に決められるかもしれないと言っていたような気がする。

丸岡は同じようにピアノを続けるだろうと勝手に思っていた。安井より上手くはないが、光るものが彼女にはあった。

しかし、丸岡は容易くピアノをやめて、医師として生きる道を選んだ。体温の低い、白く冷たい声でさよならも告げずに。

二十二年前のことを、まるで昨日のことのように思い出せてしまうのが悔しい。

安井は高校を卒業してからもピアノを続け、音大ピアノ科に入学してピアノを弾き続けた。安井には、人より長い指の他にピアノを弾き続けるのに優位なものがあった。音を聞き分けられる耳、譜面を覚える記憶力、長時間弾き続けられる体力。そして、ピアニストとしてピアノを弾き続けるには致命的な欠点も有していた。一般的に、個性と呼ばれるそれ。

安井が言った三つの年齢、それはすなわち中学校や高校や大学に入学する時である。その時に、やめる。

ピアノを弾かなくなれば、家にピアノを置くこともない。売りに出される。あるいは、どこかに寄贈される。雅子は弾くらしいが、彼女自身が依頼文で書いていた通り、時々という程度。置いているスペースも費用も、頻度に対してかかり過ぎている。それでも家に置いているということは、何かの可能性を信じているのだろう。

安井は雅子の胸中を察するように、希望的観測を口にする。

「今は弾かないだけでしょうね」

希望を打ち砕くような速さと冷たさで、丸岡は繰り返す。

「今は?」

安井の考えが間違っていると言いたげな調子が感じ取れる。

「きっとピアノの音が直れば、また弾くと思うわ」

「……本当にそう思って?」

「まだ引き受けるか悩んでいるんだから、そう言わないで」

安井がそう答えると、丸岡は病院の上から下を眺めた後に慰めるように言う。

「耳鼻科は二階だけど診てもらう?」

「耳は大丈夫よ」

「それじゃ悩むことなんてないじゃない」

「仕事自体に不安な場合は?」

「精神科の初診は予約が必要だから今日は無理よ」

雅子の言葉を信じるのならば、涼子は今でも家でピアノを弾こうとすることがあるらしい。しかし、音が綺麗過ぎると言って、弾かなくなる。

安井がピアノを涼子の希望通りに調整できれば、涼子はまた弾くと思う。少なくとも安井は、心のどこかでそう信じている。雅子もそう信じているのだろう。しかし果たして涼子自身は、そう思っているのか分からない。

「ところで、冨田涼子の入院って初めて?」

丸岡は煙草を咥えたまま答えない。安井は気にすることなく、続ける。

「多分だけれど、何度目かの入院なんじゃない? ここ以外も何度か入院歴があると思うのよ」

眼鏡の向こうで佇む丸岡の瞳が、すっと細くなる。冷たさに磨きがかかり、安井は落ち着かせるように笑う。

「勝手な想像だから気にしないで」

安井は雅子から涼子が度々入院しているかどうか通院しているかどうかなど聞いていない。仮に聞かされたところで、丸岡に話すことはないだろうし、そんなことは丸岡は既に知っていることだろう。しかし全く無根拠に、涼子が入退院を繰り返していると思ったわけではない。

雅子と話している時に、安井は引っかかるものがあった。すなわち、時々、という言葉。安井は雅子の言った通り、時々ピアノを弾いたり、年末年始などは家に帰っているのだと思った。

母親との関係が普通ではない娘が、わざわざ母親の暮らす家に帰るだろうか。涼子が一人で暮らしているのか既に家庭を持っているのかは分からないが、外科で緊急で診る必要があり精神科の病棟で入院している者が、一般的な生活を送れているかは想像しにくい。一人で生活するのが難しく、かといって自宅で生活を続けるのも難しい。身の安全のために入院する、ということになってもおかしくないような気がする。

「勝手な想像を聞かされる身にもなってほしいわ」

丸岡の声が珍しく低くなった。これ以上、踏み込むのは良くないと安井は即座に判断した。ここから先は、医師である丸岡と対峙する必要がある。顔馴染みであるピアノ調律師と話す丸岡ではなく、一人の医師として患者や家族と向き合う丸岡と。

「ごめんなさい、出過ぎた真似だった」

安井は静かに謝り、煙草の火を灰皿に押し付けて揉み消す。家族以外の面会を受け付けていない涼子と会うのは難しいだろう。涼子がピアノを昔弾いたことがあるのならば、安井にもできることがある。幸いにも、この病院のロビーの真ん中には自分が調律したピアノが置いてある。好きなように調律していい、あなたが一番弾くことになるのだからあなたの手に合うように調律していいとクライアントである丸岡から言われたピアノが。

良い音を耳にした時、人は不意に足を止める。その演奏に耳を傾けたいと思うように、ピアノに近づく。ピアニストも当然、その例に漏れない。むしろ、ピアニストの方が顕著だ。この聞いたことがない音を弾いているのは誰なのだろうか、どんな人間なのだろうかと興味を持つ。そういうふうになっている。

涼子もそういう一人だと、安井は信じている。こちらから出向けないのであれば、向こうから来てもらえばいい。足を運ぶのが難しいのならば、安井の演奏を耳にしてその感想を看護師や医師に話すことだろう。そういう演奏を、安井はする。

「ピアノ、弾いてもいい?」

丸岡は安井の目に何か企みがあることを見抜いたが、気にかける様子を見せずに全然別のことを口にする。安井に言うのを飽き飽きとした調子で。

「私、あなたのピアノ嫌いなのよね……」

「まだ嫌いなの? 譜面通り弾けてるでしょ?」

「だから嫌いなのよ」

安井は音大でピアノ科に籍を置いていたが音に個性というものが宿せず自身の限界を知り、ピアノ調律科に転科した。そのことは丸岡とこの病院でクライアントとコントラクターとして再会した時に既に話している。丸岡は安井がピアノの演奏をやめたと聞かされた時、世間話に相槌を打つように、そ、という返事を返しただけだった。

安井はピアノを弾きたいか弾きたくないかという単純な質問には、弾きたくないと答える。病院でピアノを弾いている時に言われるリクエストは、全て断っている。安井の仕事はピアノの音を整えることであり、ピアノを弾くことではない。良い演奏を、聴衆に届けたいと思う人間ではない。安井にとってピアノは道具でしかない。

安井は丸岡と共にピアノ教室に通っていた日々を思い出しながら訊く。

「エチュード、どれが難しかった?」

「ショパンの革命」

「あれが?」

安井がショパンの革命を弾いていいと先生に言われたのは中学生に上がる前だった。中学生の演奏会で弾いたことがあり、楽しい曲のイメージがある。三分程度で終わる楽曲だったが気をつけなければならないところが多い。特に左手が奏でるピアノの音を意識しなければ、聞かせられるものにならない。丸岡がこの曲を弾いていいと許可されたのは、安井がコンクールで弾いた後。丸岡の左手は音を弾き飛ばすことがあり、安井は度々そのことを指摘した。

薄い煙の向こうで、丸岡の刺々しい声が返ってきた。

「できるあなたと一緒にしないで」

安井は丸岡の言葉を否定するように、すぐに神経を逆撫でするような言葉を並べる。

「じゃ、凡人の丸岡みゆきさんに訊くけれど、冨田涼子も躓いたと思う?」

丸岡は涼しげに口元に微笑を浮かべるだけだった。

「聞いたことないから分からないわ」

「もう少し患者と関わりを持っても良いんじゃない? 共通点もあるし話しやすいと思うわよ」

「ピアノをやめるきっかけなんて、誰にでもあるでしょう」

そんなことを話していると丸岡はスーツの内ポケットからピッチを取り出し、喫煙所を出て行った。

安井は新しい煙草に火を点し、これから弾くピアノの曲の譜面や指の動きを思い出していた。左手の動き、開始四秒で実力が露わにされること……。
安井は煙草を吸い終えると、すぐにロビーの真ん中に置かれているピアノの前に腰を下ろした。鍵盤の端が黒く塗られているピアノ。

ジャケットを脱いで、腕時計を外し、手首を軽く保ち、手首を柔らかく動かすように意識する。

高いブラウンの天井、辺りを明るく照らす照明の数々。所々から聞こえる足音。自分に注目されているのではないかと錯覚できるような程よい静けさ。一人の奏者としてピアノの前に座っていた記憶が蘇る。

今の安井は奏者としてピアノの前に座っているのではない。ただ、ピアノ調律師がピアノの調子を確認する一環で弾くだけ。それが偶然、エチュードとして非常に難易度の高いショパンの革命なだけ。

涼子がいつピアノをやめたのかは分からない。この曲を練習する前にやめたかもしれない。しかし、涼子がこの曲を聞いたことがないとは思えない。

はじめましての挨拶として弾く曲は、テンポの速く短い曲であり似合わないもののように思われる。が、それで良いような気がした。今、安井の演奏に求められるのは、冨田涼子が奏者の元に来たがる音。

安井は最初の音を鳴らし、続けてピアノの鍵盤の上で指を動かす。自分の指に合うように調律したピアノは、寸分の狂いなく最適なタイミングで音を奏でてくれる。他のグランドピアノとは違う柔らかな音は、このピアノ特有の音色だった。

安井の奏でる楽曲は無色透明で正確無比。ソリストとして活躍できなくても、ピアノが置いてあるバーなどで上手に弾ける女性として重宝されたことだろう。そういう未来を、安井は選び取らなかった。安井が籍を置いていた音大ピアノ科の生徒達は、そういう道を歩むことを逃げと思っており、安井自身も同調圧力のように逃げと思っていた。望むのはソリストのみ。

そんな環境で、安井は無色透明で正確無比な演奏を続けた。しかし、安井の演奏はソリストになれる演奏ではなかった。安井ははじめて才能の壁を感じた。安井のピアノは上手かった。上手いだけであった。

革命を弾き終えた安井は、いくつもの拍手が囲まれていた。ようやくといった様子で周りに視線を投げたが、どこにも冨田雅子に似た姿は見当たらなかった。自分のピアノには人を動かすものがないと痛感していた。

 

安井は涼子に会えず、どういうふうにピアノの調律をすればいいのか悩んでいた。現状、安井にできることはないように思えた。時間だけが無意味に過ぎ去って行くのを拒むように、安井は冨田家のピアノの状態を綺麗に維持し、細かい部分は涼子が退院してから詰めていくことにした。

折角持って来た工具箱も普段のように扱われることはない。調律の必要はなく、整調も整音も現段階では必要ではない。

外装と鍵盤も外し、本体からアクションを外し、各々のピンの状態を確認したが、綺麗に磨かれており、鍵盤の動きも鈍くない。フロントホールもバランスホールもしっかりと調整されている。半年前に行われた調律のお陰で、どこもかしこも綺麗な状態を維持してある。

確認程度で済む数々の作業に、本来であれば静寂を求める作業の合間で安井の方から雅子に声をかけることが何度もあった。

ピアノの調律が進んでいるようで進んでいないことを悟られないようにしながらも、安井は雅子の口からも涼子という人間がどういう人間なのか教えてほしかった。話題が涼子のことに移ると、雅子はそれまで上手く話していたのが嘘のように、沈黙を生み出しがちだった。安井にとって、気がかりな沈黙。

沈黙が生まれると安井は調律が進んでいることを示すように、雅子にピアノを弾いてもらうように声をかけ、雅子をピアノの前に座らせる。

涼子がどう弾くか分からないが、双方の指先の感覚が合う部分を探し当てる必要があり、その手がかりとして、雅子の弾くピアノの音色が必要だった。短いエチュードであり簡単な子犬のワルツやエリーゼのためになどが、家に響く。

雅子のピアノは下手なわけではなかったが、その小さな手で弾くのは安井が考えているよりも多くの技術が必要なようで、独特な癖となって音に現れていた。可もなく不可もない音色に漂うそれ。ただ安井にとっては、不必要と思えるものであり、自分がそう弾くのであれば弾きにくさを感じさせるものである。譜面に書かれていないものだったから。

雅子の癖は音の大小とハンマーが音を鳴らす速度を変えることで調整できそうだった。

雅子の手と指は、一般的なピアノで楽曲を奏でるために癖を得た。涼子もそういう癖を持っているのだろうか。もしそうであれば、安井がその癖を治すように調律してしまえば、確実にブレが発生する。奏者の思う音と奏でられる音に違いが生まれる。調律師としては避けなければならない。しかし、調整はできる。安井がやらなければならないことは、ある。

安井はピアノの側で立ったまま、鍵盤を見下ろし、さきほどの雅子の演奏を思い出す。癖に合わせて悪く調整をしようと思えばできる。

視界の端で、梅雨入りがまた一歩近づくような灰色の曇り空が広がっている。

「安井さんは、ピアノをまだ続けてますか?」

雅子は、そんな質問で沈黙を破った。

安井は顔を上げ、食卓のテーブルに座る雅子を見遣る。温厚な雅子の顔に、薄らと緊張が帯びている。

まだという言葉に引っ掛かりを覚えた。雅子の中で、安井は今もピアノを弾き続けている者に映っているのだろうか。音大を卒業し、メーカー勤務後にフリーランスとして活動していることをインターネットで公開していることを思い出し、そう捉えてもおかしくないだろうと思った。

「大学を卒業してからは弾いてません」

安井は正直に答えた。家に置いていたピアノは、もう随分前に売却した。雅子は安井の返答が意外だったのか、そっと触れにくいものに触れるように尋ねる。

「そんなふうにやめられるものなんでしょうか? 時々弾きたいと思うことも?」

雅子が涼子のことを話したがらないように、安井も自身の過去について多くを語ろうとしなかった。ピアノをやめる理由は年齢や環境の変化以外にも存在していることは、雅子も知っていることだろう。

「ピアノを弾き続ける道もあったと思います。もしかすれば、今からでもその道に戻れるかもしれません。ですが、そうなればピアノを嫌いになります」

安井は穏やかに微笑して、そう答える。雅子は安井の言っていることが分からないのか、小さな声で、嫌いに、と口にする。

「……上手く弾けないとかそういうことから来るストレスによるんでしょうか?」

「上手く弾けないなんてよくあることですし、それで嫌いになることはありません。そうですねぇ……」

安井はそこで一度、言葉を区切り、考える。どう説明すればいいのか分からなかったのだ。誰かとピアノの話をすることはあったが、こうして過去を振り返り、自らのことを話すことは全くなく、あった場合でも先のピアノを嫌いになる、という説明をしてしまえばそれで終わる。追求されなくなる。

雅子がこうして踏み込んできたのは、きっと娘である涼子のことがあるのだろう。涼子がピアノをやめたのか、やめたがっているのかは安井には分からない。が、続けたくない気でいることは分かる。

安井は涼子と近しい立場であるがゆえに、解決の糸口になるのではないか、と雅子は考えているのだろうか。

安井はそういう親子の面倒事に巻き込まれたくなかった。

安井は肩の力を抜いて笑った。

「私の場合はですが、飽きたんだと思います」

「飽きた?」

「ええ」

「ピアノを弾くことに、ですか?」

「そうです。ずっと弾いてきたからこそ。ですので、弾きたいな、と思うこともありません」

ピアノを弾くことに飽きたということが理由ではないことは、安井自身分かっている。それでもそう答えたのは、もうそんな昔のことを思い出して語りたくなかった一方で、涼子の場合と当てはまらない可能性が高過ぎたと判断した。安井の理由をちゃんと説明しても、涼子を理解する手助けになるかといえば、全然そんなことはないような気がしたのである。

安井は雅子の目を正面から見て訊く。

「娘さんはいつまでピアノを?」

わずかな沈黙の後、雅子は強張った顔つきで答える。

「中学の途中からは時々弾くようになりました」

意外と早い年齢。安井は拍子抜けしたように驚いた。

「途中で?」

「ピアノより友達と遊ぶ方が好きでして」

安井は涼子がやめた理由を聞き、心からの賞賛を彼女に送りたかった。良い選択をした、と言いたくなる。

ピアノを上手く弾こうと思えば、小さな時からピアノを弾き続けなければならない。物覚えがどうとか絶対音感を身につけるとかそういうことではなく、ピアノを弾くのに適した筋力や指の動かし方を学ぶのは早い方が良い。歳を重ねてから学ぶこともできるのだが、形作られた腕で弾くのも、新しいことを覚えるのも難しい。

安井はピアノよりも優先したいものがあれば、そちらを優先した方が良いと考えている。我慢してピアノを弾かなければならない環境であれば、涼子はもっとピアノを続けさせられていたことだろう。雅子はそうさせたかもしれないが、涼子は従わなかったのかもしれない。涼子はピアノよりも優先したいものがあったのである。素直な感情が、安井の唇から零れ落ちた。

「良いですね……」

「良い?」

「ちゃんとピアノと別れられて」

「他の子とは違うものがあっても、ですか?」

雅子の眉が神経的に眉間に寄る。

安井はピアノの前に置かれている背つきの椅子に腰を落ち着かせ、自身の半生を思い出しながら雅子の質問に答える。

「その子がピアノをやめたいと言うのあれば、やめさせた方が良いと思います」

どれほどの言葉を尽くし説明したところで、今もピアノを弾いている雅子には理解できないことのように思われた。安井はピアノをやめた人間であり、涼子に近しい立場に立っているが、安井は結婚をしていなければ子供がいるわけでもない。雅子とは全く違う立場の人間であるため、雅子の過去の行いや涼子との現在の関係について何か言えることはない。安井はただのピアノを調律するために、この家に足を運んだだけなのである。

安井は理由を話す前に、ショパンの木枯らしを弾いた。

誰が聞いても間違っていないと頷かせるような音色で、自信たっぷりに弾いた。才能や他の子供とは違う何かがあるという可能性、それら全てを奪い去るように。癖もない、譜面通りの正しい演奏を。

雅子が何か言うよりも早く、安井は言い切った。

「これだけ弾けるようになっても、ピアニストになれません」

雅子は唇が何かに堪えているように震えた。安井は続ける。

「ですから現実を見るのは、早い方が良いです」

雅子の目が自身の手へと落ちた。震えた息が、雅子の唇から零れた。

「娘は仔犬ワルツですら、手が届かなくて上手く弾けませんでした。私は、私なりに色々な曲を上手く弾く方法も技術も持ってました……」

雅子の行いが、指導方法が間違っていたかどうかなど、安井には分からない。雅子に訊かれても、安井は分からないと答える気でいる。

ピアノを譜面通り正しく弾くべきであると考える者もいれば、そうとは考えない者もいる。平行線を辿る両者であるが、その領分に、親と子という関係で入り込んでしまえば、答えは一つしかない。親の言う通りに弾くことが答えになる。

涼子が上手く弾けないのが悪いといえばそれまでの話だが、涼子は涼子なりに上手く弾こうと努めたことだろう。が、上手く弾けないことを親に指摘され続ける環境は、幼い涼子からすれば堪ったものではないだろう。

「私、信じてたんです。正しいことを教えれば、間違わずに続けてくれる、と。あの子は私より耳が良いので、自分の間違いによく気づきました。ですので技術をちゃんと得られれば、続けられると思ってました。でも、やめてしまって。間違ったのは私でした……」

安井は雅子に言えることはいくつもあった。が、一つも口に出さず黙って、彼女の言葉に耳を傾けていた。

「……やはり依頼は受けられませんか?」

不意に話題が安井の話せる分野へと戻ってきて、安井は気遣うように尋ねる。

「どうしてそのようにお考えなのでしょうか?」

雅子は穏やかに笑う。

「安井さんも今弾かれた通り、音はどこもおかしくないじゃありませんか。ピアノの調律の問題ではないことは、もう気づいているんじゃありませんか?」

「私はまだ、娘さんが音が違うと言ったことは嘘ではないと思います」

安井は即座に言った。今何かを考えるために口を閉ざすのが、雅子にとって何かの答えを導かせるのに十分だと分かっていたから。

安井の言葉は本当でもあれば、嘘でもあった。安井も雅子も、このピアノの音は正しいと分かっている。涼子だけがおかしいと言っている。涼子の耳が正しい音を捉えられないと考えた方が自然であるが、安井は涼子と会ったこともなければ、話したこともない。ピアノを弾いている姿を見たこともない。雅子の発言と安井の感覚だけで調律を終わらせるわけにはいかない。もしこのピアノを弾くのが雅子だけならば、調律する必要はないだろうし、安井はこの依頼を断ったと思う。涼子も弾くのであり、違うと言った以上は、無視できない。ピアノ調律師として、音が狂っているかもしれない現状を突きつけられてしまったのだから、最後まで付き合う必要がある。

「どうしてそこまで信じようとされているんですか?」

安井は決して、涼子のことを信じているわけではない。むしろ、疑っている方である。

「ピアノの音が正しいからです。正しい音を否定したい何かが娘さんにある以上、私はピアノ調律師として付き合う必要があると考えてます」

 

安井は丸岡総合病院へと足を運んでいた。曇天が続いていたが、病院の中は変わらず明るく、広い。自分の指定席はそこであるかのように、ロビーの中心に置かれているピアノ椅子の前に座る。ロビーはどこもかしこも人の往来で忙しなかったが、このピアノの周りだけは不思議と喧騒から遠いところにあるように思えた。

本来であればこの日にロビーに置かれているピアノの調整を予定していた。今週はもう弾いたのだから来なくても良かったのだが、丸岡からそういう連絡は来ず、自分からそういう連絡を入れるのはなんだかおかしいような気がした。きっと今日、喫煙所で会っていれば、どうして来たのか、と冷ややかな声で問われたことだろう。安井がこの病院に週に二度も来ることは稀なことだったから。しかもその両日が仕事であるなど、安井自身も考えたことがなかった。

安井は手短に一曲を弾き終えると、一度鍵盤から指を下ろした。ロビーには影が目立つようになり、雨が降り出す予感を覚えた。流れるように立ち上がると、病院の奥にある喫煙所へと向かう。

ここの喫煙所は雨が降ればそのまま濡れるだろうし腰掛けるところもないし狭いしと改善点ばかりが目につくスペースであるが、病院の裏手にあるということは悪くないように思えた。舞台の袖で待機をしている時のあの時の感覚に近い。

だから、そこに丸岡の姿があってもおかしくなかった。ただこうして短い間隔で会うと考えたことがなく、丸岡のすらりとした立ち姿を見上げて、一瞬黙った。

丸岡は今し方煙草に火を点けたのか長いまま煙草を手にしたまま、安井を涼しげな目で見つめ、安井が一本目を吸い終わると平坦な声で告げる。安井が連日姿を見せたことに驚くこともなければ慌てる素振りはない。

「二つ、言いたいことがあるの」

安井は灰皿を挟んで、丸岡の正面に立ち、首を傾げる。

「たった二つ?」

「もしかすれば三つや四つに増える覚悟はしておいて」

「それで言いたいことって?」

安井は新しい煙草に火を点し、丸岡を促す。

「冨田涼子から伝言」

「伝言?」

思ってもいなかった名前と言葉が丸岡の口から飛び出し、安井は首を傾げる。

「随分と人を苛々させるピアノを弾くんですねって」

どの曲のどういう演奏に対するものなのか、安井はすぐに分かった。涼子がここに入院していると知らされた時に弾いた革命について言われている。安井は楽しげに笑い、丸岡に頼む。

「ねぇ、私からも伝言を頼んでいい?」

「嫌よ」

「冨田涼子のお願いは聞くのに?」

「精神科でも運動は必要だし、館内の散歩の許可は近いうちに出るでしょ」

説明を終えた丸岡は不思議そうに安井に問いかける。

「それにしても今更言う?」

「何よ、今更って?」

「あなたのピアノを聞くの、今日が初めてじゃないのよ」

「今日の演奏じゃないわよ。それ」

「いつの?」

「革命の感想よ、それ」

「……今更じゃない」

呆れたと言いたげな丸岡の表情に、安井は口の端を少し持ち上げ、そういうことになっているのよ、と呟いた。丸岡は安井の言葉に納得ができていないように灰を落とす。片眉を釣り上げ、矢継ぎ早に安井の言葉を繰り返す。

「そういうことになっている?」

感情的になっている丸岡を宥めるように安井は優しく答える。その説明で丸岡が納得しないだろうと理解していても。

「良い音を耳にしたら、一つ二つ言わないと納得しない。そういうふうになっているのよ」

丸岡はまだ納得していないのがその顔からも見て取れたが、安井がそれ以上の説明をしないことは分かっているようで黙って煙草を吸う。短い沈黙の後、丸岡は、二つ目のことだけれど、と前置きして言う。

「まだあれほど弾けるのね、流石ね安井さん」

安井は丸岡の発言の真意を汲み取ることができず、まだ? と尋ね返そうとした。口元に冷たい微笑を浮かべ、挑発を受けてみようと思った。

しかし、その瞳が冷ややかな色を帯びているだけではなく、はっきりとした戸惑いと寂しさを帯びているのを目撃し、堪らず口を閉ざした。

そんな目をされると思ってなかった。ピアノを弾いて嫌われることには慣れてしまっていたが、そんな目をされることはなかった。安井も丸岡もピアノを弾くことから遠ざかったが、二人が同じ理由で同じ時期にやめたのではない。安井は大学在学中に自身の能力に限界を覚え、丸岡は高校卒業と同時に奪われた。丸岡は運命の二文字で片付けたが、ならばどうしてそのような視線を、安井に向けるのだろうか。

安井は困ったように口元に微笑を浮かべ、小さく謝ることにした。そういうふうに答えるのが正しいのか分からなかったが、そういうふうに言うしかなかった。必要に迫れれば弾くわよと答えた時には感じなかった罪悪感が、安井の胸にはある。

「ごめんなさいね、まだ弾けて」

丸岡は静かに訊く。

「どうして?」

丸岡の質問が何を意味しているのか分からず訊き返すと、丸岡は事を明らかにするには随分と遠いところから質問を投げかけてきた。

「あなたの家にピアノはあるの?」

安井は飽き飽きとした口調で言う。

「やめたのに置く必要ある?」

「誰かに教えてもらったりした?」

「大学を卒業してからは誰にも教わってないわ」

練習もしていないのに腕が落ちていないことへの賞賛なのだろうか。丸岡の言い方はそういう単純なものではないような気がした。もし単純な賞賛であれば、こんなふうに問われることはないだろう。安井の嫌な予感を証明するように、丸岡は短く確認する。

「だったら、あんなふうに弾く必要ないんじゃない?」

安井が音大でピアノを弾くことを好めなかったのは、こういう演奏の解釈の部分だった。奏者と聞き手の間で発生するブレが、安井には分からなかった。安井の弾く音は譜面的に正しくブレていないのだが、作曲者の想定するものとは遠いところにあるらしい。

安井は忌々しい過去を思い出し、露骨に両眉を寄せて訊く。自分の好みではないということを伝えるためにそれほど言葉を並べる丸岡も、やはり好きになれない。こんなふうに言葉を並べ立てるのならば、涼子のように正直に話してほしい。

「お気に召さなかったかしら?」

丸岡は安井の露わになった怒りを前にしても動じることなく、体温の低さや感情の起伏の乏しさを思わせる声で答える。

「逆よ」

「何が?」

「上手かったから驚いた」

丸岡の素直な感想に、安井はどういうふうに反応すればいいのか悩んだ。悩んだ末に出てきたのは、唸り声が一つ。それから遅れて照れ隠しのような調子で断言する。

「おかしくなかったでしょ」

「ええ、昔より上手くなっていたわ」

「……そうかもしれないわね」

安井の耳には、この前の革命は、昔と何も変わらない演奏のように聞こえた。大学時代や高校時代の演奏と比べることはなくても、この病院のピアノの週に一回弾く時のものと変わらないように聞こえた。今でもそう思っている。しかし、丸岡の耳には全く別のように聞こえているようだった。安井は深く追求しようと思わなかった。分からない分野であることは音大に在籍している間に十分過ぎるほどに痛感している。正しい音で譜面通りに演奏しているのだから、聞こえ方が変わるということは有り得ない。そう信じている。

深く追求したくなかったが、冨田家のピアノの調律のことを考えると、無視できない。涼子は正しい音を違うと断言した。丸岡はそこまで愚かな発言はしないが、安井は何か近しいものがあるのではないか、と考えている。つまり彼女達は、正しい音よりも優先する何かがあるらしい。

安井は苛立ちをぶつけるように煙草の火をもみ消して、薄い煙をまとう丸岡の顔を見据える。

「昔と何が違うの?」

丸岡は安井の真面目な調子に驚いたように少し目を丸くする。

「……本気で訊いてる?」

安井は無言で頷いた。丸岡の答えは極めて簡潔だった。

「音が違うじゃない」

「使ってるピアノが違うから音が違うのは当然でしょ」

「そういう理由じゃないのよ。何て言ったら良いのかしら……綺麗なのよ、昔と比べて?」

「訊かれても分からないけど?」

「もしかして、称賛を正面から受け止められないタイプ?」

丸岡にピアノを褒められたことはほとんどなかったと記憶している。弾き方のコツとか譜面の覚え方とかそういうことを訊かれることが多かったように思う。平行線を辿ると判断した安井は、これ以上この話題を続けるのを避けるように、分かりやすく丸岡の神経を逆撫でするように答えた。

「私より下手な人の言葉は特に」

丸岡は口元にだけ笑みを作り、その提案を受け話を別方向へと展開させる。

「損な性格ね。でも、だからかしら、あなたはピアノをやめないと思ってた」

「そう?」

「あなたはピアノをよくやめる年齢の時でも続けたじゃない」

十二、十五、十八と丸岡は三つの数字を並べる。

「だから、ずっと続けると思ってた。そういう道を歩むんだって。私とは違う人なんだなって」

「あなたも続けると思ってたわ」

丸岡が全く無根拠に安井の将来を思い描いたように、安井もまた丸岡が同じ道を歩み続けるだろうと思っていた。ただ二人とも、互いが思い描いた道を歩まなかった。片方は医者となり、片方はピアノ調律師という道を選んだ。互いに互いのことを話すこともなく、違う道を歩むようになった。

もっと早く、こんなふうに話せていれば、安井と丸岡の関係はもっと穏やかで、断絶することなく付き合いが続く友達になっていたのかもしれない。

丸岡は諦めたようにため息と煙を吐き出す。

「私が? 無理よ。続けられるわけないじゃない」

「そんなことないと思うけど?」

「ずっと優秀な成績を納めている人と万年その下な人。どっちが続けると思う?」

「一概には言えないでしょ」

「言い方を変えましょうか。どっちがやめさせやすいと思う?」

梅雨入りを告げるように微かな雨が、安井の髪に触れた。丸岡はかけている眼鏡に雨粒が落ちたのか、不快そうに空を見上げる。安井も釣られるように空を見上げた。暗い雲が辺りに広がり、今にも激しい雨が降り出しそうだった。

安井は丸岡の問いかけに答えられなかった。質問に答える代わりに、丸岡に訊いた。

「もし、……あなたの方が上手かったら、あなたはやめなかった?」

丸岡は降り出しそうな雨から逃れるように病院の中へと戻ろうとする。さらりとした声を喫煙所に残して。

「分からないわね。でもきっともしかすれば、……もしかしたら、やめましょう、こんな昔話。何も生み出さないわ。冨田家のピアノの調律、頑張ってちょうだい」
東京の梅雨入りが発表され連日雨が降り続くが、丸岡総合病院の中は変わらず快適だった。

安井は仕事の前に喫煙所で不愉快な雨風に晒されるか一瞬考えたが、ここに置かれているピアノは特に湿度や温度に注意しなければならないため、ぐっと堪えて、手早く仕事を終わらせることにした。

ロビーの中央に置かれているピアノの前に、病院で貸し出されている緑のガウンを着た女の背中を目にした。背の低く、色の白い、明るい髪色の女。ガウンから覗ける腕には包帯が巻かれている。包帯をしていない方の腕には、入院患者がつけている白いリストバンドをつけている。

安井は足を止め、女の背中に声をかけるかどうか迷った。ロビーに置かれているピアノは、誰が弾いてもいいようになっている。何も知らない人が見れば、弾かれるのを待っているだけのピアノのように見えるだろう。

この女がピアノを弾くのであれば、安井の本日の役目はないように思えた。調整の一環として弾かなければならないが、それは安井に任された依頼というわけではない。誰かが弾けば良いのだが、誰も弾かないので安井が弾いているだけだ。丸岡も弾けるので、この調整の話を聞いた時、丸岡が弾けばいいのではないかと言えば、忙しいから無理、と言い切られた。

安井は痺れを切らしたように、女に声をかける。

「弾かないのかしら?」

女は驚いたように振り向き、包帯の巻かれた腕へと気まずそうに視線を落とす。安井の視線は腕からその下の手や指へと流れた。小さい手、短い指。腕を怪我していなくても、ピアノを弾くには必要以上の技術を習得しなければならない手。

安井はピアノの前へと歩みながら、女に労いの言葉をかける。

「早く治った方が良いけど、時間は巻き戻らないから無理しないようにね」

女は安井の大きな、怪我一つしてこなかった手を見る。

「怪我したことあるんですか?」

「見たことあるだけよ」

安井は女がピアノを弾かないことが分かるとピアノの前の椅子を陣取る。話はそれで終わり、と言いたげに。

蓋を開け、いくつもの音を鳴らしてみる。梅雨の時分であろうと変わらない音。女の躊躇いがちな声が、ピアノの音の間に割り込んでくる。

「あの、丸岡先生が言ってたんですけど」

安井は、そのどこかで耳にしたような言葉を聞き、丸岡が預かったという涼子の伝言を思い出した。

「伝言?」

安井が一声で訊き返すと女の声から躊躇いが消え、穏やかな調子になる。

「あ、いや、伝言じゃないです」

「丸岡先生が私に言うことなんてあったからしら?」

「あなたにじゃないです。私宛てです」

「……それ、私が聞く必要ある?」

安井が首を傾げると、女は困ったように笑う。

「多分、あると思いますけど」

安井は今日はどの曲をどんなふうに弾こうかと考えながら、音を鳴らさないように鍵盤の上で手を動かしながら、女の返答に耳を傾ける。

「それで何て言ってたの?」

「ロビーのピアノは調整中だから触らないようにって言われました」

女は最初こそ躊躇っていたが、安井が話していいと分かれば慌てることも焦ることなく、一定の調子で穏やかに応じていた。安井は手を止め、女を見上げる。女は突然の沈黙の中でも、いつもそうしているように目元や頬を微かに持ち上げ笑みを浮かべている。その微笑が、冨田雅子を思わせる。

安井は確信に至る前に女の発言を思い出し、訊く。

「丸岡先生から言われたの?」

「丸岡先生からです」

常日頃から不機嫌そうな、人の仕事に興味がなさそうな丸岡が、こんなふうに手を回してくれるとは思わなかった。本人からしてみれば患者にする説明の一環の内に過ぎないのかもしれないが。そう考えても、疑問は残り、安井は求める答えが返ってこないと分かっても尋ねざるを得なかった。

「どうして?」

「見かけたら弾くって思ったんですかね?」

「そうなの?」

「違いますけど?」

「……弾きたいの? 全然代わるけど?」

質問を質問で返すように話していると、女が少し声を張る。

「あの、だからです」

「だから?」

「このピアノ、調整中なんです」

「弾かない方が良いってことかしら?」

女は安井の確認に無言で頷く。安井は微笑を零して、ピアノを弾き始めた。その音色が時々耳にするピアノの音色と同じだったことに女は気づいたらしい。革命の時のように弾いた音も聞き分けられたらしくその時は露骨に機嫌が悪くなった。

安井は自慢げに胸を張り、女の言葉を訂正する。

「だから、私が弾いてるのよ」

「私、あなたのことが嫌いです」

言い切った女に、安井は笑い声を上げそうになった。

「隠す気はなかったのよ」

安井は正直な人間を嫌いになれないところがある。自分の好悪をはっきりと言う人間と付き合うのは楽だし面白い。譜面のように意図や意味や解釈について考える必要はない。だから女から嫌いと正直に告げられても、安井は彼女のことを嫌いになれそうになかった。

どうして嫌いになったのかとか何故そう思ったのかという疑問符を声にすることはない。ピアノを弾いて人に嫌われるのは、今日が初めてではない。丸岡と初めてピアノ教室で会った時にも言われたことがあったから。

「ピアニストですか?」

入院患者は弾けないが、安井は弾いてもいいとなれば、安井の職業は自ずとそこに行き着くように思われた。丸岡と親しい間柄にあるピアニストと思っているのかもしれない。

「残念だけどピアニストじゃないの」

女は安井の発言を耳にして、反射的に片眉を上げる。

「その腕で……?」

安井は音大時代に同級生や先生から言われた言葉を思い出し、淡々とした口調でその内容を伝える。

「ピアニストがピアノを上手に弾けるのは当たり前のことで当然なこと。求められるのは、もっと別次元な能力」

女の表情が変わった。驚いたかと思えば、ふっと柔らかい表情を浮かべる。安心した、と語る顔。和らいだ目元が柔らかそうな微笑を描いており、雅子を思わせる。

女は首を傾げ、ピアノを弾くのが上手い職業と思われる最後の選択肢を口にする。その声も穏やかなものに変わっていた。

「それじゃ、先生ですか?」

安井の就職先の一つにはピアノを教える先生という道は確かに存在していた。が、安井は何よりも先に先生にならないことに決めた。安井には分からなかった。弾けない人間の気持ちが。

「先生になれるほど、物を教えるのが得意じゃないの」

安井は自虐的に言って立ち上がり、女に手を差し出す。

「でも、ここの病院の道案内はできるわ。よく来るから。病室まで送りましょうか? 冨田涼子さん?」

涼子は驚いたように安井を見たが、すぐに自分のしている白いリストバンドに視線を落とし、恥ずかしそうに笑う。

涼子の顔や手足から緊張は完全に消え去り、母親によく似た穏やかな微笑を浮かべる。この時になって、安井はようやく涼子が自分よりもずっと年下で、年相応の表情を見せてくれたように思われた。

涼子は安井の手を取らず、安井を見つめ、当然といった疑問を口にする。

「じゃ、どうして弾くんですか?」

そういう依頼であり、それで金を得て、日々生活している。そういうことを説明すれば、涼子は理解し納得するのだろうか。理解し納得してくれるだろうと思ったが、安井はそう答えず、気まずそうな沈黙を生み出した。

安井は自身がピアノ調律師であり、涼子の母親である雅子から調律の依頼を引き受けたということを、涼子にまだ明らかにしたくなかった。というのも、冨田の家にあるピアノの音が間違っていないことは、安井も自らの耳で確かめて知っている。が、涼子は認めず、頑なに間違っていると言っている。正しい音以外の何かが、必要になる。

ここで安井が自らの職業を明らかにしてしまえば、また雅子がピアノ調律師を依頼したのか、と警戒されるかもしれない。あるいは失望されるかもしれない。兎に角、安井は自分の素性を知られるのを現状では得策ではないと判断した。依頼が失敗に終わる可能性が高いと踏んだのである。

安井の生み出した沈黙に涼子はようやく事の重大さに気づいたといった様子で、その愛嬌のある顔に段々と焦りの色が見え始めた。何かまずいことを訊いたのかもしれない、と。安井はふっと微笑を浮かべて、涼子の質問に合うであろう言葉を並べたのと涼子が、ごめんなさいと謝ったのはほとんど同じだった。それでも少しだけ安井の返事は遅かったようで、病院の広いロビーに無機質に響く。

「嫌いになれなかったから」

安井がピアノと決別できる機会は少なくとも、二度あった。一つはピアノ調律科に転科する時、もう一つは就職する時。

安井はその二つの時に、いずれもピアノから離れなかった。離れられなかったという方が適切なのかもしれない。転科の時には両親から音大中退をして今までのことはどうするのかと言われた。就職する時にはピアノを完全に捨てられなかった。今にしてみれば、あの時、あの瞬間にピアノを捨て去れなかったのは、子供の頃から続けてきたピアノを捨て去り社会に出るのが恐ろしいと思っていたからなのだと分かる。

安井の人生の多くの時間は、ピアノを弾くために注ぎ込まれていた。大学を卒業して、社会に出て働くとなった段階で別れられるものではない。そういう選択を採っても良かったかもしれないが、採りたくなかったのは、きっと丸岡の影響があったかもしれない。ピアノと別れる時は、ちゃんと自分の意思でやめたかった。

正しい音を耳にして違うと言い切れる涼子のような強烈なエゴが安井にあれば、どこかでピアノをやめていたのだろうか。きっと、ピアノ科に籍を置きピアノを弾き続けることに限界を感じたあの瞬間、両親に話したあの時に、安井はそのエゴを剥き出しにしたのだろうか。しかしその強烈なエゴがあれば、安井はピアノをもっと貪欲に弾き続けたと思う。もっと別の音色を奏でられたのかもしれない。もしかすればその強烈なエゴが、安井の演奏に欠けていた決定的なものなのかもしれない。

あるいはピアノを嫌いになれていれば、安井はピアノを弾くことをやめるのだろうか。

「長話しちゃってごめんなさいね。また弾きに来るから」

安井は追求を避けるかのように微笑して話を断ち切ると、ロビーから去ろうと涼子に背を向ける。涼子はどういう言葉をかけていいのか迷っているのか、無言のままだった。安井が涼子に背を向け、モカシンの靴音を響かせた頃、

「あの」

と、涼子が声を上げた。病院であるため控えめな声だったが、安井を呼び止めるには十分な声量。

安井は足を止め、ピアノの前へと戻る。

涼子の独り言に近しい言葉が、病院のロビーに滑り落ちた。雨音が響く院内でも、嫌に大きく聞こえた。

「そんなに嫌いになる必要があるんですか……?」

嫌いになる必要はない、という言葉は煙草を吸った時のように胸の中へと落ちていく。ピアノをやめる理由はいくらでもある。嫌いにならなくてもやめる理由はある。安井の場合は、自分でどうするか選ぶ必要があり、嫌いになれず今の今までいる。もしかすれば、そういう好きや嫌いで考える段階はもうとっくに過ぎ去っていたのかもしれない。

仕事としてピアノに関わることを選んでいる以上、好きや嫌いで選ぶのはおかしなことだった。好きであろうと嫌いであろうとピアノの調律は続けるし、続けたい。ピアノに罪はない。ピアノはただ、奏者の込めた力に反応して音を鳴らしているだけだ。罪があるとすれば、奏者の方でしかない。

安井はピアノを見下ろし、涼子の戸惑っている瞳と向き合い訊く。

「あなたは?」

「私ですか?」

「あなたはピアノ、弾かないの?」

涼子が腕を怪我して弾けないのは今に限ったこと。安井が問いかけたのは、もっと先のことだった。腕が治り、ピアノを弾けるようになってからのこと。涼子はピアノを弾けるようになっても、弾くのだろうか。安井個人としては、涼子がピアノを再び弾くようになろうがなかろうが、どちらでも良かった。

それでも尋ねたのは、ピアノを調整したけれど涼子が弾かなくなったので処分したい、という未来が容易く思い描けたからである。ピアノを調律することとそのピアノが弾かれ続けることを結びつけるわけではないが、調律されたピアノが使われなくなってしまうのは避けてほしかった。

「弾かないと思います」

安井の気持ちを裏切るような返答だった。しかし安井は、そう答えるだろうと分かっていたように落ち着いた調子で理由を訊く。

「怪我のせい?」

「あなたの家にピアノありますか?」

「……昔はあったわ」

「よく弾いてましたか?」

「ずっと弾いてたわ」

思い返すと家でピアノを弾いていた記憶ばかりが蘇る。家にいても家族と話すより、ピアノを弾いていた時間の方が長かったようにすら思う。涼子の目に羨望のような色が宿り、落胆するように言う。

「私は、全然弾いてません」

「そういう時があっても良いと思うわ」

「理由、聞かないんですね」

安井は指を折りながら、弾かない理由を並べ立てる。

「何となく弾きたくない、今練習している曲が難しい、手が痛い、やる気が出ない、今日は休む予定だった、先生がうるさくて集中できない……」

「私はそのどれでもないんです」

安井は驚きを装い、他の理由を口にする。職業柄、つい口にしてしまったことを。

「ピアノの調子が悪いとか?」

「ピアノは調律師の方に診てもらっているようで、ちゃんとしてます」

涼子はそう答えて、一度口を閉ざした。口元に手を添え、何か考えている様子だった。安井は何も言わずに見守り、ただ自分の職業が明らかになったと察した。涼子の声が正解に辿り着き、少し声が高くなる。

「調律師ですか?」

もっと早くに涼子は察すると思っていた。その長さは丁度、涼子がピアノを弾くこと、ピアノとは縁遠い生活を送っていることを明らかにする長さのように思えた。

「安井千歌、フリーのピアノ調律師よ」

雅子に依頼され、涼子の家に置かれているピアノの調律を依頼されていることは話さなかった。いずれ明らかになることであるが、まだ説明する時ではないだろうと判断した。

涼子に訝しむ視線を送られても、安井は涼しい顔で答える。

「フリーランスの人に依頼することってあるんですか?」

「なかったらもう廃業してるわ」

安井はこれ以上自身のことを詮索されるのを拒むように、涼子へと話を戻す。

「……あなたの家のピアノは大丈夫?」

涼子ははっきりとした調子で言い切る。

「弾いてないので分かりません、知りません」

今まで聞いたことのない強い調子に、安井は少なからず驚いた。

このピアノの前に立っていた涼子は、時間が経てば弾く気配を有していた。腕の包帯が取れて、満足に動かせるようになったら弾く。そんな気配があった。しかし今の涼子に、そんな気配は微塵も感じられない。弾かないという強い意志すら見て取れる。

家でピアノを弾きたくないという意志が、涼子にはある。それほどまでに、雅子と涼子の関係は修復できなくなってしまったのだろうか。安井は何も知らないように慎重に訊く。

「家で弾きたくない理由があるのかしら?」

涼子の視線が空中を泳ぎ、ピアノへと落ちた。

「私は誰にも邪魔されず弾きたいだけです。先生も……お母さんも、私のピアノにいりません」

安井はただ、立派な理由だわ、と答えるだけに留めた。ピアノをやめるのに人それぞれな理由があるように、ピアノをはじめるのにもそれぞれの理由がある。涼子は、かつての安井のように一日の大半や一年のほとんどをピアノに費やすようなタイプではなく、適度に休みながらほどほどに弾くタイプなのだろう。

「否定しないんですね」

「私の仕事はピアノの調律で、ピアノの弾き方や曲の演奏方法を教える先生じゃないから」

安井はピアニストではなく、ピアノを教えている先生でもない。涼子がどういう理由であれピアノを弾こうと考えているのであれば、それで良かった。弾くのであれば必要な時に必要な依頼が来るだろう。

安井はその日の夜に、雅子に依頼を正式に受ける連絡を入れ、かかる費用や時間について相談した。ただその依頼の性質上、すぐにピアノの調律を行うことが難しいこと、もしかすればピアノの音が悪くなることを説明し、了承を得た。

 

東京の梅雨明けが発表された。暗い雲はずっと向こうへと流され、雲一つない青空が広がる。真夏の容赦ない陽射しが降り注ぐ。

涼子は退院し、安井は再び冨田家を訪れることになった。ラフな格好で寛いでいてたのであろう涼子は玄関の前で立っている安井の額を見上げ、何を言えばいいのか迷っているように黙っている。

涼子の腕は片方は全然傷一つなく白いものだったが、もう片方は手首に切り傷の痕がある。安井は傷痕を見ても何も言わず、自身の額に浮かぶ汗に不快感を露わにする。

涼子はそっと声をかける。

「……えっと、何か冷たい物でも飲みますか?」

「ええ、是非。コーヒーを一つ。ブラックで」

安井は最初にこの家を訪れた時のようにピアノの前に座らなかった。食卓の椅子へと腰掛け、涼子が飲み物を用意してくれるのを待つ。涼子はどこか緊張した面持ちで、安井に一つ一つ確認をしながらアイスコーヒーを用意する。

「あの、安井さんって言葉足らずって言われません?」

「初めて言われたけど、どうしたの?」

「私達、病院で会ってますよね?」

「そうね、会っているわ」

「ですよね。それで、どうしてうちに?」

「ご両親から聞いてない?」

「二人とも、仕事で忙しいですし……ちょっと前に言ってたかも?」

涼子は記憶を探るように指でキッチンを数度叩く。音が聞こえなくなったかと思えば、涼子は安井を真っ直ぐ見つめる。丸い瞳を大きく開かせている。

「ピアノの調律?」

「他に何があると思ったのよ?」

「どうしてあの時、言ってくれなかったんですか?」

「あの時は依頼を引き受けるかどうか分からなかったから」

「そんなに難しいんですか?」

「お母さんは何て言っていたの?」

「今日、ピアノ調律師さんが来るからお願いって」

「それだけ?」

「はい」

「ピアノがどう悪いとか聞いてたりは?」

「私、もう弾いてないですから」

そう言った涼子の声は少し沈んでいた。安井を見ていた目はいつの間にか安井の奥に置かれているピアノへと移っていた。日陰へと置かれている今のピアノを見ているようで、ずっと昔にそこにあるピアノを見ているようにも感じ取れる。

涼子はアイスコーヒーを二つ持って、安井の前へと座る。安井はどういうふうに切り出せば良いのか悩んでいたが、正直に話すことにした。涼子にはそうした方が良いだろうと思った。

「あなたが音が綺麗過ぎるって言うから、私に依頼されたの」

涼子はアイスコーヒーを一口飲むと、面倒臭そうに溜め息を零す。安井は涼子が何か言うのを待たずに続けて話す。

「あのピアノの音を確認したけど、おかしなところはなかった。でも、奏者が望む音ではなかったのなら、調律をし直す必要があるわ。単刀直入に訊くわ。どう綺麗なの?」

涼子の頬に誤魔化すような微笑が浮かぶ。

「音は普通です、綺麗でも何でもありません。普通の音色です」

安井は涼子が嘘を言っているのだろうと分かったが、その嘘を嘘だと断言して正直に話すように働きかけることはしなかった。一方で、涼子が嘘を言っていない可能性も考慮した。もしかすれば、音が違うと言ったのは、その言葉が涼子の中で最も違和感を伝えやすい言葉かもしれなかったから。指先から伝わる極々微妙な違和感は、言語化しにくいところがある。一人のピアノ調律師として穏やかに話す。

「でも、あなたがピアノを弾いて違和感を覚えた。それは事実でしょう?」

「そうですけど……あの、怒らないんですか?」

「……怒った方が良かった?」

「え、いや、怖いのでやめてください」

「こんなことで怒ってたら、仕事にならないでしょ」

きっと、仕事以外の場で彼女に会っていれば、その違和感を音が違うと言い換えたことに怒ったかもしれない。音が正しいのは、安井も耳にしているし涼子も分かっている。悪いのは音ではなく、もっと別の部分だ、と言っただろう。

今はピアノ調律師として彼女と会っている。ピアノを弾く者は頑固で我儘で負けず嫌いでこだわりが強い。それに、言葉に関する感覚を磨くより音に関する感覚を磨き続けたため、言葉でのコミュニケーションが難しい部分がある。こんなことで苛々していたら、すぐに体調を崩してしまうし、仕事を長く続けることはできない。

ヒアリングを続けても涼子の求めるものが分かりづらいと思った安井は、ピアノに視線を移して提案する。

「何か一曲、弾いてくれない?」

涼子の丸い目が一層丸くなる。

「なんで、そうなるんですか?」

「手っ取り早いから」

「はい?」

納得していないように訊き返す涼子だったが、少し考えて、まぁそこまで言うのでしたら、とリビングから出て行く。安井は遠ざかる涼子の背中に優しく言う。

「覚えてる曲で良いわよ?」

「覚えられるほど弾いてません」

自虐のような笑い声を残し、涼子は楽譜を取りに行った。

安井は涼子がピアノを弾いたとしても、瞬時にどこが悪いのか、涼子が言っている音の違いを見抜くことはできないと理解している。けれども、涼子の求める音がピアノのどこかにあることだけは確かに分かる。言葉よりも確実に分かる。

涼子の求める音が、涼子がピアノを弾いていた過去のどこかに転がっていることが、分かる。その音を前後して、母親との仲が悪くなったことも。

涼子が胸に抱き締めるように持ってきた楽譜本は、所々が折れ曲がっていた。ピアノの前に座る涼子の顔は、何度か話した時に見た柔らかなものではなく、強張ったものに変わっている。安井は余計な口を挟むことはなく、テーブルに頬杖を突いて、涼子が音を奏でるのを待った。

涼子は安井を窺うように見る。

「あの、弾く前に一つだけ良いですか?」

「何かしら?」

「私、人前で弾くのすごく久し振りです」

「良いんじゃないの?」

「あの、だから、きっと下手ですけど……」

「いいわよ。別にコンクールでも何でもないんだから好きに弾いて。心配しないで、途中で止めたりなんてことはしないから」

どうぞ、と安井は空いている手を涼子に向けて弾くように促した。涼子は頷いたが、指先は鍵盤を押す気配を見せない。

きっと、安井が一つ一つの音を鳴らし、涼子に確認した方が良いのだろう。多くのピアノ調律師はそうするかもしれない。あるいはもっとヒアリングを重ねて、具体的にどういう時に違和感を覚えるのか確認をするだろう。独立する前の安井だったら、そういうふうに調律をしたと思う。その方が手間暇がかからず、早かったから。

安井が今回、そういう方法を採用しなかったのは、早く仕事を終わらせるよりも考えなければならないことがあるからだ。

安井は雅子や涼子から訊く気はないが、ある一つの推測を立てている。涼子が、かつての安井のように、ピアノから離れたがっているのではないかということ。そんな人間に対して、ピアノのことを話させるのはあまりに酷なことであり、弾かせるのはもっと酷だと分かっていたが、安井はある可能性を感じていた。涼子は少なからず弾くことに対してかつての安井ほど諦めていないということ。ただ、弾くことによって諦めたいという気配を漂わせている。実力が露わになって、自分が弾くに値しないと分からせるような。

ピアノはいつまでも音を鳴らす様子を見せなかった。安井が涼子の緊張を解くように、丸岡もはじめは上手くなかったということを話そうとしたが、涼子は意を決したように息を吐くと、楽譜を睨むように見て、音を鳴らす。

悪くない音だった。涼子の表情に変化はない。涼子の視線が一瞬、楽譜を離れ、安井に移る。何かを確かめるような視線。安井は次の音を奏でるのを待っているように微笑を浮かべるだけだった。

そうして、涼子は仔犬のワルツを弾きはじめた。一分で終わる演奏だが、涼子の演奏は明確なブランクを感じさせる。冒頭の音の響きが不揃いである部分などは、特に。手首の動きも、左右の手の動きも硬さがある。それらに加え、指が届かない部分があるようで誤魔化している部分もある。ブランクを感じさせるというよりも、この曲を弾く技術が足りていないと言い切った方が適切なように思われる。そう言い切って良かったかもしれないが、曲の節々に未成熟であるが雅子の癖が感じ取れた。音の響きや大きさや奏でる速さは、雅子の癖の輪郭を描いている。

安井はピアノを弾かせるのを止めない。自分が止めないと言ったのを守っているのではなく、涼子の顔が緊張から解放され、柔らかく穏やかになっているのを見て、止められなくなった。下手だとか技術不足であるだとか楽譜通りに弾けていないからという理由で彼女の演奏を止めてしまえば、彼女の表情が演奏前のあの固く重たいものに戻ってしまうのは明白。レッスンであれば、安井は止めたが、今はそういう場ではなかった。

ピアノを弾くことに違和感を覚えていない涼子の演奏を止める術を、安井は持ち合わせていない。

涼子の音が遅くなる。涼子の手が鍵盤を離れ、楽譜へと伸びる。安井は思い出したかのように急いで立ち上がり、ピアノの側へと歩み寄る。涼子の目が怯えたように震える。安井は楽譜を捲るのを手伝い、涼子に続きを弾くように促す。涼子は安心したように頷き、曲は引き続き、奏でられる。

一分間のワルツを弾き終えると、熱くなった指先を冷ますように、涼子は自身の指先を見ていた。安井は最後まで弾いた涼子に拍手を送る。

「悪くないじゃない」

涼子の頬に恥ずかしそうな笑みが浮かぶ。見上げられた瞳には、全ての奏者が満足した時に浮かべる喜びと興奮があった。

「この曲を最後まで弾いたのは、今日が初めてです」

「言ったでしょ、止めないって」

「こっちに来た時、絶対止めると思いました」

きっとこういう時間を、涼子は雅子に求めたのかもしれない。間違った箇所で演奏を止めさせ、一つ一つ指摘するようなものではなく、ただ演奏するピアノを聞く。それだけで良かったのかもしれない。

「私、そんなに信用されてない?」

「安井さんは上手いですから。上手くて、でも、人をちょっと不安にさせます。何があったんだろう? って駆け寄りたくなります」

全然聞いたことのない言葉で感想を口にされ、安井は今の立場を忘れて訊き返す。

「不安?」

「しません? 革命の時にすごく思いました。でもよくよく考えたら、そういうふうに思わせる演奏で、だから、苛々しました。丸岡先生は、あの人は性格悪いからって笑ってましたけど。私、安井さんの演奏が嫌いです」

「でも、正しい音だったでしょ?」

「それはそれ、これはこれです」

安井は話を涼子の弾いたピアノへと戻す。

「それで、そのピアノに違和感はあった?」

「分かりません」

満足気に笑う涼子に、安井は溜め息をつきたくなるのを堪えて、食卓へと戻り、腰掛け、コーヒーを飲み込んだ後に問う。

「一つ、訊いてもいい?」

「何でしょうか?」

「どうして、音が違うなんて言ったの?」

涼子はピアノの前から安井の正面へと戻ってきて、椅子に座ると言う。

「安井さんはピアノ、好きですか?」

「好きになったり嫌いになったりしたわ」

「私は嫌いです」

言い切った涼子だったが、安井は先程までの涼子の顔を思い出し、それが本心からのようで微妙にズレているのが分かった。嫌いな人間は、あんなふうに弾けない。

安井は涼子の感情をピアノ以外へと導く。

「ピアノが、じゃないでしょ」

「……そういうことにしてくれません?」

「でも、ピアノにせいにするのはピアノが可哀想じゃない?」

「安井さんって変わってますね」

「ピアノに愛着が湧いてるだけよ、職業柄ね」

「別にお母さんの全てが嫌いってわけじゃないんです。私が上手く弾けないのは、私が悪いと思います。でも、やっぱり、お母さんには先生みたいにじゃなくて、普通に聞いてほしいです」

「あの人も弾けるからアドバイスをしたくなっちゃったんだと思うわ」

「それでも酷くありません?」

「今からでも反抗期は遅くないわよ?」

「絶賛ずっと反抗中です」

自慢気に胸を張る涼子に、安井は同情的に笑う。

「良いと思うわ」

「……悪いって言わないんですね」

「私の子じゃないのに言うわけないでしょ」

「私、お母さんの弾くこの曲が好きです。自分のものにして弾いていたお母さんは凄かったです。ああいうふうに弾きたかったんです。でも教えてくれるお母さんは、そんな方法を教えてくれませんでした」

雅子が自分の弾くピアノに癖があると自覚しているのかどうかは分からない。他人の演奏を耳にした時、初めて浮き彫りになったのかもしれない。まだ技術として確立させられていない涼子のピアノから、譜面に書かれていない音を耳にした。音の強さ、響き方、広がり方、残し方、一瞬の指の跳ね方……。そういう雅子の癖を、涼子は学び、自身のものにしようと試みた。しかし、雅子の求めた音ではなかった。涼子の悪い癖となって、雅子の耳に届いた。雅子が涼子の悪い癖を直そうとしたが、涼子から癖は抜けることなく、涼子はピアノを続けたくなくなった。

音大ピアノ科を中退したい旨を親と話し合っていたあの頃の自分を、安井は涼子に見出している。ピアノに向けられた時間も期待も注ぎ込まれた金額も何もかもが違うが、ピアノを続けたくないという部分や、やめさせてくれない部分は同じだった。

ピアノを弾くこと、弾き続けることは涼子の自由であるが、安井は可能であれば、一人のピアノ調律師として涼子にピアノを弾いてほしいと希っている。しかしその願いは、安井のエゴであり、今の涼子には関係のないことで伝えることではない。ただこのまま雅子と涼子が平行線の関係を辿るのは、芳しくない。

涼子が反抗期を続けるのであれば、ピアノの音は永遠に元に戻らないことだろう。安井にはピアノ調律師としての立場があり、音が戻らないのは避けたい。

先程の演奏を聞いて、涼子の手に合わせられる部分はあることに気づいた。涼子の手に合わせれば、雅子が弾いた時に違和感を生じさせてしまう。かといって雅子の癖に合わせたままでは、涼子の求める音ではない。合わせるのならば、涼子の手に合わせた方が良い。今の音を変えてしまえば、雅子がピアノを弾いた時の感覚が変わる。

雅子が弾いても、涼子が弾いても違和感を覚えない調律が、このピアノに求められる正しい音であろう。奏者の手に合うようにピアノを調律するということが、ピアノ調律師である安井の役目であり、依頼されたことである。二人が心地良く弾けるように、合わせられる。

「調律していい?」

答えを待たずに調律に取り掛かる。涼子はきゅっと唇を結んで、安井が音を聞き逃さない環境を作る。安井は涼子の気遣うに対して、そっと微笑を送る。

「まだそんなに静かにしておく必要はないわよ」

「あ、そうなんですか?」

「別に話しながらでもできる作業だから」

安井は鍵盤の沈む深さを調整を行う。

全ての鍵盤の沈む深さは統一されている。統一されていることで音程や音量を一定に保ち、良い弾き心地を生み出すのだが、二人の場合はその深さが合わない。二人の奏でる音にはおそらく無意識であろうが指先に力が籠ることが度々見られる。小さな手で半ば勢いに任せたような音。手の動きが固く、強さがそのまま音になる。

厚みの異なる紙をピンセットを用い、一鍵ずつ出し入れを繰り返す。全ての基準となるラの深さは変えない。音を確認する時に鳴らすラの音に違和感を覚えてしまえば、曲を弾くことはない。オクターブを奏でた時に、曲として弾いた時に、違和感を覚えないように調整を重ねる。一ミリにも満たない極々わずかな深さを調整する。

全ての基盤となる鍵盤の調整を終えると、内部であるアクション部分の調整に入る。鍵盤を押すと音が鳴り、離すと音が止まる内部は非常に多くの部品が連動しており、調整を行う箇所が多い。室内はいつの間にか、安井が道具を扱う音しかしない。

ハンマーの接近距離を近づけたり、ハンマーストップの距離を狭くする。フォルテシモが出にくくなることか弾き心地、どちらを優先するかを考え、安井は後者を選択した。弾き心地を軽くすることで、力が入りがちの音をコントロールする。ハンマーのネジを締めたり緩めたりしながら、二人にとって中間点となる弾き心地を探し出す。

 

冨田家のピアノの調律を終えたその足で、安井は丸岡総合病院のピアノを弾き、喫煙所で煙草を吸っていた。いつも吸っている煙草が、今日は格別に美味しく感じる。首筋に感じる強い陽射しも、蝉の甲高い鳴き声も今日は不思議と心地良く思える。

上機嫌な安井とは裏腹に、灰皿を挟んだ向こうにいる丸岡は普段よりもずっと不機嫌そうだった。忙しいからとか暑いからとかそういうことが理由であるようで、全然違うかもしれない。

丸岡は一本目の煙草を吸い終えると、不機嫌さを安井にぶつけるように声を上げる。夏に聞けば心地良いだろうと思っていた凛とした声は、随分と荒々しい。

「ねぇ」

安井は何かを言われるより早く、丸岡の釣り上がりそうな形の良い眉を見遣る。

「アンガーマネジメントって、やってないの?」

丸岡は二本目の煙草に火を点けることなく、安井を見つめ、六秒の沈黙を生み出した。それから、やはり棘のある調子で問う。

「嫌がらせ?」

改めて怒りをぶつけられても、安井は動じることもなく、かといって怒りをぶつけることもせずに平静と問う。何も分かっていないと言うように。

「何がよ?」

丸岡が不機嫌な理由を、安井は全く分からないわけではなかった。丸岡が不機嫌な理由には、きっと関わっているのだろうなと思える自覚があった。しかし、そういうことを口にしてしまえば、丸岡の怒りに火を注いでしまいそうで自分から言わない。

丸岡は二本目の煙草に火を点け、短く煙を吐き捨てる。

「今更、子犬のワルツなんて簡単なエチュード弾いて、何が目的よ。別にあのピアノに必要な曲でもないでしょ」

安井の予想は当たっていた。安井は新しい煙草に火を点す素振りで口元を隠し、そっと笑みを浮かべる。

寸分の狂いも癖も自信もない、ただただ譜面通りに弾かれた曲を、安井は丸岡総合病院のピアノで弾いた。そういう曲を弾きたかったのだ。自分の指に合う、良い音を奏でるピアノで。

安井は清々しく言い切る。

「そういう気分だったの、二人共、下手だったから」

丸岡の力の入った眉間が、ふっと柔らかいものになる。

「二人共?」

「冨田親子」

丸岡の顔が穏やかになり、安井の目から雲一つない青々とした空に向く。白く細長い煙も、丸岡の動きに従い、もくもくと昇る。

丸岡は真っ直ぐ安井を見て、言う。

「冨田涼子は、弾いたのね」

丸岡の瞳が微かに震えたように見えたのは、きっと夏の強い陽射しのせいだろう。眼鏡に反射した光が、そう見させたのかもしれない。〈了〉


 

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