※本作は「エチュードを弾くために」・「アンダンテの速さ」に登場する人物の物語となっております。
事前に一読されると、一層楽しめると思われます。
「モデラートの生き方」
安井千歌は左手にはめていた腕時計を外し、音楽室の隅に置いたバックパックにしまう。手首を軽く保ち、柔らかく動くように意識する。クーラーはつけられたばかりで大きな稼働音は虚しいように、全然部屋を冷やさない。安井の額に浮かんだ汗が頬を伝う。鍵盤に落ちないようにハンカチで拭う。
グランドピアノの前に置かれた椅子が少し高く、心持ち前屈みになる。極々わずかではあるが、普段よりも指先に力が宿る瞬間が早くなり、安井の奏でたいタイミングとピアノが音を奏でるタイミングがずれるだろう。
長い指を鍵盤に添える。そっと力を加える。思っていたのとは違った、不自然な鍵盤の重さが、安井の指先に伝わる。安井の目が微かに細められ、眉間に力が入る。
右手に並ぶ窓から射し込む夏をたっぷりと吸い込んだグランドピアノは、人が項垂れた時に発する声のように、普段の調子とはかけ離れた音を出す。二つ、三つと続け様に確認するように音を鳴らし、それから残りの音も耳にしてみたが、どれも求められる音とは程遠いものだった。
「凄いわね……」
鍵盤から指を離した安井の口から、思わず、そういう言葉が漏れた。鍵盤蓋を外し、チューニングピンの緩みをハンマーで確認する。所々に捻れがあった。
ピアノは木と金属で構成されている。鍵盤や屋根部分といった目につきやすい外側のフレーム部分は金属が使われているが、側板や内部の響板やアクション部分は木が使われている。高温多湿の環境に弱い。梅雨から夏場にかけての湿度と気温の変化、冬場の低い湿度の時などは驚くほど素直に変化を受ける。人の喉や皮膚がその変化を機敏に味わうように。冬場は木が変化を味わい、夏場は金属部分である弦などが変化を味わいやすい。
今年の梅雨は短かったこともあり夏が早く訪れた。安井の元に普段とは異なるタイミングで、ピアノの音がおかしくなったという依頼が舞い込むようになったのは、きっとそのせいだ。フリーのピアノ調律師として働く以上、依頼が途切れないのは生活をしていく上で嬉しいことなのだが、こうも各地を回ることになると夏に対して思うところの一つや二つはある。
ピンを回し、適切な張力になるように調整する。指先に伝わる張られた弦の強さから、求めている音に近づく瞬間を掴み取る。二百三十本全てのピンの調整を終えた時、安井は満足気に短い息を吐く。すぼまった唇はそのまま昔奏でていた楽曲の音色に変わる。手首に痛みを覚えるが、安井は気にかける様子を見せず、バックパックの中からポーチを取り出す。その中にしまってある煙草の箱から一本、手にする。口に咥えて、校内が禁煙であるとここまで案内してくれた教師に言われたことを思い出す。安井がこの中高一貫の女子校に通っている頃は全然どこでも煙草を吸っている先生がいたのだが……。急に手首が重くなり、痛みを思い出した。
この痛みを覚える度に、電動のドリルドライバーを経費で買うか考える。が、手作業の方が、チューニングピンを支えているピン板に不自然な負担を加えてしまわないだろうと思って、購入を踏み留まる。
「あの」
目が眩むような陽の光が入る窓とは反対側、音楽室の入り口から、教師とは違う、遠慮がちな細い声がした。人との距離を明確に避けるような、冷たい声。安井は火の点いていない煙草を口にしたまま、視線を向ける。
紺色の襟に細いホワイトのラインが何本か入った白い半袖のシャツに、高校三年生を象徴する赤いネクタイ。両手でしっかりと黒いスクールバックの持ち手を握っている。折り目の正しい紺色のスカートが、膝下まで伸びている。脛の辺りまで黒い靴下に包まれており、爪先は白い上履きで覆われている。安井が通っていた時と変わらない、地味で大人しそうな夏服。長い黒髪が、クーラーの風を受け、揺れる。狭い額とおどおどとした様子で安井を見る張りのある黒い瞳。
安井は昔の記憶を辿りながら、女子生徒がここに居る理由を問いかける。
「夏休みの補習は終わった?」
「禁煙です」
安井の軽口に付き合わないように、女子生徒ははっきりと言う。安井は、彼女の言動に何も言わず、ただ一言謝って、口にしていた煙草をポーチに戻し、バックパックへとしまう。寂しくなった口元を紛らわせるように、バックパックのサイドポケットに入れていたペットボトルの水を飲む。安井の方から切り出す。彼女がここに訪れたのは、安井にそういうことを伝えるためではないだろうと察せられた。
「それで一体、どういったご用件かしら?」
女子生徒の瞳が、鍵盤蓋が外され、内部が露わになっているピアノに移った。安井はペットボトルをしまい、口元だけを持ち上げ簡単に、気遣うように笑う。
「もう少しで終わるわ」
「待っていても良いですか?」
「お好きにどうぞ」
女子生徒は安井の許可が降りると、入り口からほど近いところ、陽の光を避けるように辛うじて広がっている影の中に椅子を置く。音楽室の壁に沿うように。
腰掛ける彼女は、背もたれにもたれることなく、拳一つ分程度空けているように浅く座っている。綺麗に揃えられているだろうと思っていた足は、膝を少し開き、黒いスクールバックをスカートの上に乗せている。安井もそういうふうに座ることがある。ピアノを弾く時の姿勢が、それだった。
スクールバックの上で揃っていた彼女の細長い指が開かれる。右手が飛び跳ねるように動く。左手の小指と親指が、何かを確かめるように数回、動く。空耳かと思わせるように乾いた音がした。左手の二本の指の動きには、待っている時の癖とまとめるには難しい、リズムと弱さがあった。安井の耳に心地良い十六分音符の連続。何度か乾いた音が続いたかと思えば、右手が左手を飛び越え、跳ねるような音が続く。見かけとは裏腹に、彼女の指は自信に満ち、迷うことなく、時折力強い響きを有する。一定のリズムを刻み続けていた左手が、右手と交差し、分厚い、聴き手によっては不協と思えるような和音を繰り広げる。……。
約五分後、彼女の指は動きを止めた。鍵盤蓋をはめる作業を終えていた安井はピアノの前の椅子に座り、小さく拍手を送る。彼女と目が合ったかと思えば、恥ずかしそうに視線を宙に泳がせる。開いていた足が揃えられる。
「プロコフィエフ作曲、トッカータ、二短調作品十一。コンクールの自由曲かしら?」
「邪魔をしてしまいましたか」
「全然。良い演奏だったわ」
「ありがとうございます」
女子生徒の表情が固くなる。
「お世辞じゃないわ」
「あ、いえ、そう思っているのではなく……」
謝り、恐縮している固い声音は、先ほどの自信に溢れた演奏とは遠い。不自然な沈黙が、女子生徒と安井との間に広がる。
安井は彼女にピアノを教えるような先生でもなければ、同じようにコンクールに向けて自由曲を練習しているような関係でもない。ただのピアノ調律師であり、他人である。安井の作業は終わったのだから、それじゃ、と去れば良いのではないだろうか。自由曲の練習を感張ってちょうだい、などと適当に労いの言葉をかけて去ればいいのではないだろうか。しかし、安井の腰は上がらない。ピアノの前に腰を落ち着かせ、弾くことなく、女子生徒と共に沈黙を守っている。
彼女のようにこの学校に通っている時のことを、安井は不意に思い出していた。
彼女は、きっとピアノを弾く気でここに来た。後で先生で見つかって叱られたりするかもしれないが。あるいはもしかすれば、ピアノを弾くつもりがなかったが、ここに足を運んだ。中高と六年間通った学び舎に、郷愁のようなものを覚えたのかもしれない。
が、あの指の動きから、後者であるとは考えにくい。昨日も今日も明日も明後日も、自由曲の練習を続けることに何一つ抵抗がない、続けることが当然だと思っている。そういう確信が、彼女の指先には宿り、音となって、安井の耳に伝わっていた。
そうであるならば、学校の音楽室のピアノではなく、もっと適した環境のピアノが、彼女を待っているのではないだろうか。
「何かあった?」
長いようで短い沈黙を、安井は自分が思っているよりもずっと柔らかい調子で破った。女子生徒から返ってきたのは、怪訝な声だった。
「はい?」
「あ、いや、そんな予感がしたから」
「予感、ですか?」
「あなたを待っているのは、ここのピアノじゃないでしょう?」
安井はそう言って、左手の小指と親指を使い、彼女の弾いた小節を繰り返す。誰でも弾けることを考慮した音楽室のピアノは、単調で、癖のない、角が削られ、丸みの帯びた音を室内に広げる。
彼女の弾いた音よりも、ずっと弱々しい、囁きのような十六分音符の連続。しかしそれらの音は確固として各々が各々の形を有している。小指と親指はそれぞれ同じ音を繰り返すのだが、音同士がくっつくことはない。ピアノを弾き続ける人が聞けば、それだけで上手いと分かる音色。
女子生徒の頬が少し紅潮したように見える。
「お上手なんですね」
「まぁそこらへんの人よりかはね。音大も出てるから」
安井にはそう言える自信があった。安井も彼女のように学生の頃にはコンクールに出ていた。自由曲も課題曲も持ち前の技術で弾き、一番であり続けた。音大のピアノ科にも入学できる能力が、あった。
「辞めるのなら、今の内よ」
あの時、誰にもかけられなかった言葉を、安井は冷然と口にする。もしかすれば、誰かにそういう言葉をかけられるのを心のどこかで望んていたのかもしれない昔の自分に言うように。
こんな言葉をかけられて、あの時の安井がピアノを辞めたかどうかは分からない。同年代の女の子や友達が次々とピアノを辞めて、各々の進路に進むのを、心のどこかに逃げだと思っていた安井に、届くことはないだろう。
時期が悪かったのかもしれない。高校二年生の冬、三年生に進級する前に、そういう一言をかけられていれば、何かが変わったのかもしれない。少なくとも、自分と同じようにピアノを弾いていた少女を責め立てるような真似はしなかったのかもしれない。辞める、一度舞台から降りるという選択肢があることを教えられていたのであれば……。
女子生徒の瞳に暗い色が広がる。
「調律師さんは、音大に進学できたのに、ピアノを辞めたんですか?」
「続けられなかっただけ」
「続けようと思わなかったんですか?」
「そうね、才能がなかったから」
「本当に、そう思っているんですか?」
「ええ。私より才能ある人ばっかりだったから」
高校三年生の十八歳と音大ピアノ科に入学した二十一歳とでは、背負っているものが違う。学費のこともあるし、将来のこともある。ピアノを辞めようと思っても、辞められる環境が整っていない。ピアノを辞めてどうするのか、と問われた時、安井は何も答えられなかった。別の道で何かしようと考えていたのだが、その別に道に具体性はなく、口を閉ざすことしかできなかった。
「コンクールで優勝できるくらい才能があっても、ですか?」
女子生徒に同情するように、安井は笑った。
「コンクールが終わりじゃないから。始まりでもない、か……。まぁ兎に角、区切りとかないのよ。ずっとピアノのことを考えて、弾き続けられるような人しか、いない。向いているとか向いてないとか才能の有無とか、そんなことを考える時間は勿体ない」
音大には、安井よりピアノを弾くのが上手く、才能に恵まれた生徒がいた一方で、安井よりピアノを弾くのが上手くない、才能に恵まれてなかったと言っていい生徒もいた。才能に恵まれなかった生徒は、安井のように他の科に移ることなく、音大ピアノ科を卒業している。安井にはない眩いものを、あの生徒達は有していた。
女子生徒の白い頬が一層白く見える。窓から容赦なく射し込んでくる強い陽の光のせいだろう。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことじゃないわ。ただの昔話だから」
女子生徒が意を決したように、訊く。大きく潤む瞳が、安井を見上げる。
「次のコンクールで一番になれると思いますか?」
安井は女子生徒を慰めるような言葉をかけられなかった。
「他の人の演奏を聞いてないから分からないわね」
彼女が上手にピアノが弾けるであろうことは想像できる。お世辞ではなく、上手だと思う。だからといって、コンクールで一番になれるかどうかの保証も確信は、ない。
女子生徒は短く、詰まるように息を呑んだ。小さく頭を下げる彼女は、安井の言葉に動揺しているように見えたが、どこか安心しているようにも見えた。
「そう、ですよね。済みません、分かりきったことを訊いて」
俯いた時、彼女の大きく潤んだ瞳から堪えきれず、涙が零れるのではないかと思った。安井は別の道も存在していることを、柔らかな調子で教える。
「最近まで気づけなかったんだけれど、この仕事をしていると色々な理由でピアノを弾く人に出会うわ」
彼女は顔を上げることなく、訊く。
「皆さん、どんな理由でピアノを弾いているんですか?」
「色々よ。好きだからとか仕事だからとかそういう言葉でまとめられるかもしれないけれど、色々あるわ。久し振りに弾きたくなったとか言っていた人もいるわ」
「そうなんですね……」
彼女が言えない一言を、安井が引き受ける。
「コンクールで一番になることが、ピアノを弾くことの全てじゃないってこと」
「ピアニストだけが、ピアノを弾いているわけじゃないですもんね」
「……そうね」
「コンクールで一番になれた時、どう思いましたか?」
安井の胸に数々の舞台が蘇る。割れんばかりの拍手の中で、一番になっている昔の自分。あの場にいる誰よりもピアノが上手いと証明された自分。安井より下手だから、という理由でピアノをやめさせられた子がいると知らされた自分。
「当然だと思ったわね。でも、ほんの少し、本当に少しだけだけど、……寂しかった。虚しかったわ」
女子生徒は顔を上げた。眉間や目元に力強く存在していた緊張や不安が和らぎ、頬が柔らかく動く。熱を帯び震えた声が、音楽室の床に滑り落ちる。
「私も、そんな気持ちです。でも、これは、きっと嫌味になりますね」
安井は静かに、片方の頬だけを持ち上げて笑った。
「そうね」
「こんな気持ちを味わうために、ピアノを弾いていたわけじゃないんです」
「そうね」
「もっと普通に、楽しく、弾きたいです」
彼女の精神性を、プレッシャーに弱い、と言い換えることはできる。もし安井が、彼女にピアノを、コンクールで一番になることを目的とした演奏を教えるのならば、それではいけない、と言う。プレッシャーを跳ね除けられるぐらいの強い精神性を獲得するように言う。これまでの成績や普段の生活を振り返り、プレッシャーに負けない自信を構築させていく。
しかし、安井はピアノ調律師である。ピアノを弾かせるのが目的ではなく、木と鉄で作り上げられ、人が弾き続けることで少しずつ確かに外れていく音を調整するのが、役目である。誰にもピアノを弾くことをやめられなければ、調律師として何度でも調律できる。
そういう仕事柄という一側面を抜きにして、安井は今の彼女にピアノを続けてほしくなかった。
コンクール当日になれば、彼女はきっと今まで通りの実力を発揮して、ピアノを弾くだろう。それで良いのかもしれない。ほんの少しと寂しさと虚しさを味わう引き換えにして。
その時、彼女は何を得られるのであろうか。満足感だろうか、多福感だろうか、充足感であろうか。かつて安井のように喜びや賞賛を浴びて、そうして、どうするのであろうか。辞めるという選択肢を、彼女は採るのだろうか。
彼女はただ、普通に楽しく、弾きたいだけなのだ。コンクールで一番になるというのは、ピアノの上手さを測定するのに役立つものである。しかし世の中には、彼女のように、ピアノが上手く弾けても、コンクールで一番になることを優先しない人もいる。昔の安井では考えられなかったことである。
「良いと思うわ、それで」
女子生徒の頬が発作的に震えた。
「おかしいって言わないんですね」
「ええ。素敵な理由だと思うわ。そうやってピアノを弾き続けるのも。自分が何のためにピアノを弾いているのか理解しているのならば、それで良いわ。他の人が何て言おうとね」〈了〉
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