「夢の値段」
彼がホテルのベッドで目覚めた時、天井の空調に取り付けられたシーリングファンが回っていた。窓に引かれた遮光カーテンが揺れる。視界の端では、常夜灯が丸いオレンジの光を落としている。冷房の風が頬を撫でるが、単調な作動音は辺りの暗闇に吸い込まれているかのように耳に届かない。自分の呼吸だけが大きく聞こえ、胸が動く。下がってくる瞼に従うように、頭の片隅から段々と暗がりへと沈んでいく。
鼻先を掠めたラベンダーの香りが、先程まで見ていた夢の女を思い出させた。どのような夢だったのか、今の彼には完全には思い出せない。寝返りを打つと、白いカバーが掛けられた枕に埋まった頬が弧を描く。
彼は微睡む意識の中で、もう一度同じ夢を見られたらどれほど良いだろうか、あの夢の続きを見られたらどれほど良いだろうか、と唱えた。
彼が次に目覚めた時、絨毯にそっと重みが加わった。彼は視線を向けることなく、横になったままで、男の来訪を止めなかった。
「失礼いたします。お身体の調子は大丈夫そうですね」
穏やかな松井の声は、彼を気遣うように少し調子が軽く、笑みを含んでいた。
松井はワイシャツの胸ポケットにしまっていた腕時計を装着し、スラックスのポケットから手の平に収まるぐらいのメモ帳とペンを取り出す。ベッドの脇に備え付けられている一人用の椅子に腰を下ろし、黒々とした細長い目を向ける。
彼は松井を気にかけることなく、少し前に目覚めた時と同じように天井を見つめている。シーリングファンが空気を掻き混ぜ、冷房の風が頬を撫でる。彼は松井が求めているであろう感想を述べた。
「夢と分かっていると呆気なく虚しいものだと思っていた。実際に味わうと凄まじい」
掛け布団の中の指先や手の平には、自分とは違う温もりや柔らかな肌の感触がある。暗闇に視線を向ければ、ぼんやりと女の姿が浮かび上がってくる。赤いルージュからは、彼の耳朶を揺らした言葉の数々が漏れ出ていた。すらりとした鼻筋から零れた息が漂っている。
「もう一度眠ったら、また出会えるのだろうか?」
松井は書き物を進める手を止め、ゆっくりと答える。
「確約はできません」
「今夜だったら……?」
「来週の水曜日、同じ時間帯でしたら空いてます」
彼はベッドから身体を起こした。ホテルで借りたガウンの前は乱れ、厚い胸板や丸い肩が露わになっている。
「現実ではないのに、これほど夢中になってしまうとは」
「意外、ですか?」
「リピーターが多いのが分かったよ。松井さん、今は何時?」
「午前二時です」
「ルームサービスとしようか」
彼は松井の前へと歩き、テーブルの引き出しにしまっていたルームサービスのメニューを松井の前へと置く。松井はテーブルに置かれたメニューを、彼の方へと滑らせる。
「夜食は食べない主義?」
彼の視線が、松井の肉体をなぞる。
「いえ、そういうわけではありません」
「もう朝食を食べたい派?」
「違います」
「……客からはいただけない規則でも?」
「小食です」
「だろうね。松井さんは夜通し働いたんだ。少しぐらい食べても罪や罰にはならないよ」
松井がメニューを開くと、モーニングもランチもディナーもアラカルトもアルコールもドリンクもスイーツも全てが並んでいた。彼は声を立てて笑い、松井の前を通り過ぎた。
「シャワーを浴びてくるよ。僕はモーニングを。ドリンクはアイスコーヒー。スイーツはバナナと旬の盛り合わせ。あ、オレンジジュースも。風呂上がりに飲むから」
松井はメニューを眺めながら、空腹を覚え、薄い腹に手を添える。ベッドボードに備え付けられている内線から、ルームサービスを依頼した。
シャワーを浴びて出てきた彼はバスローブを引っ掛けたまま、ベッドの隣にあるスペースへと足を運ぶ。
スパイスの香りが満ちていた。照明は全て灯され、日が最も高い時分と見間違えるほどに白い光が辺りに降り注いでいる。大人一人が横になっても余裕のある大きなソファやガラスのローテーブルには、彼の私物が置いてある。
ソファの奥の円卓には、前後に二枚のトレーが並んでおり、手前のトレーには彼のモーニングが、奥のトレーには松井が頼んだ物がある。既にライスの一皿は空になっており、松井がもう一皿のライスにスプーンを伸ばしている。
「小食って言ってなかった?」
「夜食は別腹です」
彼は席に着くとオレンジジュースを飲み、バナナの皮を剥く。白く輝く歯を見せて、笑う。
「良い性格をしているよ松井さん」
「ありがとうございます」
彼は足を組み、片方の肘をテーブルにつき、身を乗り出す。
「それで、次の話をしても?」
松井の手が止まる。スプーンから手を離し、彼の輝く瞳を下から覗き込む。
「予約の話でしょうか?」
「そう」
「食後でも構いませんか?」
「僕としては早い方が良い」
「お気持ちは重々察することができるのですが、当日の担当者とのこともありますので……」
「来週は松井さんではない?」
「お休みをいただいております」
彼は乗り出した身体を椅子へと戻す。
「それは残念」
「申しわけありません」
彼の口元から笑みの影が消え、モーニングに手をつける。サラダやスクランブルエッグを食べ、アイスコーヒーをすする。背中が痒くなる沈黙が、彼と松井の間に生まれていた。彼はフォークやスプーンを動かす手を止めた。
「客の望む夢はどこから?」
松井はカレーを掬う手を止めた。
「それをお話しするのは、規則に反します」
「規則規則と随分と色々あるんだね、おたくの会社は」
「種明かしをしては興醒めではありませんか?」
彼は一瞬口を閉ざし、溜め息を溢す。肩を落とし、パンにバターを塗る。松井はカレーを食べるのを再開する。
「一つ訊きたいことがある」
「何でしょうか?」
「もし、僕の見た夢が僕の望む夢ではなかったら?」
松井は手を止めることなく、落ち着いた声で言う。
「具体的にお話ししてもらうことはできますか?」
「あんな夢を見たくなかった」
きっぱりと拒むように伝えたのが、松井の表情や声音に何一つ変化はない。
「それは最初にお伝えしてもらえないと困ります」
彼は口角を持ち上げる。低い笑い声が、円卓へと落ちた。
「尤もだね。しかし、そういうことを言う人はいないわけではないのでは?」
「私達は一切をデザインできるわけではありませんので」
「案内人であるだけ、と」
「そうです」
「夢の中でこれは夢だぞと理解して、何をどうするかまでは分からないと」
「現実とのギャップに苦しむ方もおられますので、こうして経過を見守っております」
「今の私は、松井さんにはどう見える?」
室内の灯りを受けているためか彼の瞳は輝いていた。松井が彼の目を見ていると、黒みがかったブラウンの目の奥に、口元を引き締めている松井の姿が見て取れる。鼻が大きく動き、呼吸を繰り返している。小さく開いた口から息が流れる。
松井は水を一口飲むと、言い切る。
「普段とお変わりないように見受けられます」
彼はチェックアウトの時間よりも随分と早くにホテルを出た。松井は家に帰ることなく、ホテルの一室にある事務所へと足を運んだ。廊下には、ルームサービスを頼んだ食器が何枚も重なっていた。
室内は照明が絞られ、薄暗い。奥のベッドに人影はない。手前のスペースのソファでは、仕事を終えた同僚が横になっていた。黒いアイマスクをして、いびきをかいている。シャツとスラックスには皺が刻まれ、絨毯には革靴が散らかっている。松井は同僚に声をかけることなく、絨毯の上を歩む。
同僚は松井の足音に気づいたらしく、黒いアイマスクをずらし、掠れた声を上げる。
「……あぁ、お疲れ様」
「お疲れ様です」
同僚は欠伸を零す。
「どうだった、今回のお客様は」
「普段と変わりませんでしたよ」
「そっか、それは良かった。興奮もなく?」
「同じ夢を見て、普段と変わりません」
「なら、興奮しているのでは?」
「そうかもしませんが、私には分かりかねます」
「松井さんらしいね」
「褒めていますか?」
「少しは?」
ソファの側に置かれているローテーブルには、飲みかけのコーヒーが入ったカップと何冊ものファイルが置いてある。同僚は洗面所へ行くと顔を洗い、歯を磨いて戻ってきた。ソファに腰掛け、コーヒーに口をつけるとファイルに視線を落とす。
「本社から届いていたよ」
松井は自分の名前が書かれたファイルを手に取り、目を通す。本社から送られた書類が郵送されており、下半期の福利厚生に関することが書かれている。
同僚は真ん中に座っていた身体を、ソファの端に動かす。
「座って読んだら?」
「すぐ帰りますので」
「眠らずに?」
「今寝ると今晩の仕事に支障をきたします」
同僚の視線が無人のベッドに移る。
「ベッドあるじゃん?」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「俺はソファの方が良い」
松井の目が、とある文章の前で止まる。
「社員割引?」
口の中に留めておいたはずの言葉が零れ、同僚が眉を上げる。
「より良い仮眠を取れるようにってやつだよ」
「五割引きですか」
「魅力的じゃない?」
「やったことありますか?」
「たまに?」
「どうです?」
「どうって?」
「寝られますか?」
「寝られる。ちゃんと夢を見る」
「そうですか」
松井は腕時計に視線を移す。
「あなたは今晩仕事でしたか?」
「だったら、もう帰っているよ」
「一つ頼みたいことがあります」
同僚はすぐに答えた。
「良いよ」
冗談で答えているような軽いものではなく、力のこもったものだった。
「……まだ何も言ってませんが?」
「お風呂入るついでに鏡を見たら?」
松井は乾いた目を休ませるように一瞬目を閉じた。
「仕事が早いですね」
「それが取り柄だから」
松井は同僚に背中を押され、今までの客と同じように風呂に入った。歯を磨き、髭を剃る。備え付けられたパジャマに袖を通し、ベッドで横になる。枕とベッドが、重みに従って沈む。カモミールの甘い香りが広がる。
空調は不快に思わない程度に管理されており、窓には遮光カーテンが引かれ、照明は部屋の隅が暗くなり見えない程度に調整されている。
「酒、飲んでない?」
松井は光の中に居る同僚を睨むように目を細める。
「仕事終わりですが?」
ソファに足を伸ばして寛ぐ同僚の周りには、松井が使っていた機械が並んでいる。
「一応ね。訊くのが決まりだから。寝つき悪くなって困るのは、どっちもじゃん?」
「飲んでません」
「見たい夢の希望は?」
松井は暗い天井を眺め、少し考えてから答えた。
「落ち着いた気持ちになりたいです」
同僚の口から空気だけが漏れた音がしたかと思えば、言葉が続いた。
「え? それだけ?」
「意外ですか?」
「うん。もっとこう、具体的な希望があると思った」
「今はただ寝たいので」
同僚は明るい声を立てる。
「あ、そういうこと。お疲れ様だね」
「お互い様でしょう?」
「そうだね。お疲れ様、おやすみ。良い夢を」
松井は同僚の言葉に従うように、目を閉じた。自分の鼓動や呼吸が嫌に大きく聞こえる。意識して深呼吸を繰り返すと、不自然さに胸が騒ぐ。頭部や髪の先に触れる枕が家と違い、深く沈み過ぎている。手の平や指先に当たるシーツは薄い。盛り上がった皺が、指先に触れる。隣の部屋に居る同僚は、松井が普段そうしているように、ベッドに取り付けられている機械と連動したモニターを確認し、心身の状態を把握している。
部屋の中が一段と暗くなったような気がした。散らばっている思考が段々と平静に戻る。甘い香りも瞼の裏に広がる暗闇も全てが気にならなくなる。身体が重力から解き放たれた感覚に包まれる。不快や驚きはなく、自然なことのように受け止めている。
「松井さん」
同僚に声をかけられ、松井の意識はゆっくりと現実へと戻ってきた。白い枕の端やシーツが視界に広がる。少し視線を動かすと、一人掛けのチェアや長いテーブルが見て取れる。松井はぼんやりとした頭で、反対側のスペースに居るであろう同僚に伝える。
「おはようございます。よく眠れました」
喉が乾燥していた。起き上がり、同僚の居るスペースへと足を動かす。同僚は口元に笑みを広げる。
「おはよう。それは良かった」
備え付けられていた冷蔵庫を開けると、水の入った容器があった。松井は空いているコップに水を注ぎ、一気に飲む。全身を駆け巡った冷たさに、意識は明瞭になる。
視界の端には、ソファに座り、背中を丸め、テーブルに置いているモニターを見つめる同僚の姿があった。眉間には薄っすらと皺が寄っている。
「何かありましたか?」
同僚はモニターと松井を見比べる。
「うん。本人が一番分かっていると思うけど、松井さん、夢を見てないね」
松井は自分が眠りに落ちていた時のことを思い出す。眠る前に希望していた、落ち着きたい夢を見た覚えはなかった。
松井は同僚の隣に腰を下ろし、モニターを確認する。ベッドで眠っていた自分自身の状態が数値やグラフで表示されている。松井は慌てることなく言う。
「そうですね」
「落ち着いているね?」
「私があなたの立場でしたら、おそらく焦ったり慌てたりしたと思います。ですが」
「眠れたから良し?」
「はい」
「現金だね」
「ありがとうございます」
「……あんまり褒めてはない」
「夢を見ない選択を希望される方もおられますので、珍しいことではないでしょう?」
「今回のケースは逆だからね、そうとも言えない。こっちの技術不足の可能性もある」
同僚は横目に松井の顔を見上げる。
「松井さん、これはもしかしての話なんだけど、夢の内容m抽象的だったし、見たい夢ってない?」
松井は考え込むように首を上げる。視界一杯に白い天井が広がり、所々にオレンジの照明が輝いている。
「ないと思います」
「良い人生を歩んでいるんだね」
「そうかもしれません」
「羨ましいね」
「そうでしょうか?」
「後悔のない人生ってことでしょ?」
松井は翌日も仕事のために、客室に足を運んでいた。遮光カーテンが引かれ、空調の整えられた室内は、心地良い。首筋や背中に広がる汗が、夏の真夜中の名残りのようであった。松井はモニターを確認したり、客の様子を目視で確認する。
客はベッドの上で規則正しい呼吸を繰り返し、深い眠りの中にいる。時折左右に寝返りを打ったり、掛け布団を被り直す。寝言が、聞こえた。客の希望した夢は、昔のある時を再現するというものだった。客はその昔の中に、今いるのだろう。
松井は胸に手を当てる。客や同僚達のようなものが、松井にもないのだろうか、と考える。松井の胸や脳裏には、何も浮かび上がってこなかった。驚きも悲しみも、松井の胸には訪れなかった。〈了〉