「そういうところ」
ネイビーのウールジャケット越しに背中を突き刺す朝日は、まだ夏の勢いを残していた。ホームでじっとしているだけで汗が広がる。遅延している電車がどこを過ぎたのかアナウンスが響き、列の前後から溜め息や舌打ちが次々と溢れてくる。
私は列を足早に抜け出す。黒い革靴が焦ったように音を立てる。ショルダーバッグを階段の端に置いた。ジャケットを腕に掛ける。シャツのカフスボタンを外そうとした時、人混みの中に、見慣れた、地味なベージュのパンプスと足首まで覆い隠している同色のスカートが視界の端で揺れた。あっ、という悲鳴に近い呟きは口の中に留まったはずなのに、何人もの視線を感じる。堪えきれなくなったように顔を上げると、階段を上り下りする中で動かない丸い顔があった。セミロングの黒い髪は軽く巻かれ、淡いブラウスの襟や薄いオリーブのカーディガンへと流れている。
怪訝そうに細められたブラウンの瞳と私の視線がぶつかる。一瞬、どちらかの眉間が動いたような気がした。先程聞いたアナウンスの内容をそのまま伝える。
「まだ遅延」
人身事故の影響で二十分程度の遅れがある。彼女の小さな赤い唇が、朝に似合わないような、冷たい声を零す。同棲している頃に散々聞いた声音。
「……あ、だからね」
タクシー乗り場やバス停に行列ができていたことを教えてくれた。
彼女は手首に巻いている細い腕時計に視線を落とす。トートバッグの中にしまっていたスマホを取り出し、現在の状況を説明する。微かな沈黙の後で、別の通勤手段で行きますので少し遅れます、申しわけありません、と謝る。
パンプスのヒールが音を立て、私の側を離れる。人混みの中へと消えようとする。
私は彼女の後を、自然を装うように追いかける。この夏の話し合いでもう終わっているらしい。
彼女の視線が、シャツの腕を捲ろうとしてそのままのカフスの辺りを射抜く。私は彼女を追い抜き、二階へと上がり、そのまま構内の端にある疎らに人がいるコーヒースタンドに入った。鼻先を濃いコーヒーの香りが漂う。背後からは、聞いたばかりのアナウンスが繰り返されていた。
ホットのブラックを頼んだ。私の後を追いかけて来たかのように、彼女が入ってきた。少し距離を空けて立ち、アイスのカフェオレを頼む。
「話しても大丈夫?」
湯気の向こう側に見える彼女の横顔は、スマホの画面から動かない。私は改めて尋ねる。
「どう?」
カフェオレをストローで混ぜる彼女の指が止まる。
「何が?」
突き放すような歯切れの良い疑問符。この夏が蘇る。大学の頃から交際していた私達は、彼女から一方的に別れを切り出された。雑談の延長で言うように、当然のように別れよう、と。私は呆気に取られる猶予すら与えられなかった。そして、彼女は私の家に来なくなった。
「別れた理由ぐらい話すのが当然だと思うんだけれど?」
私の想像を反して、声は低く、固かった。喉が渇き、熱いコーヒーをすする。彼女はようやく視線を私へと向ける。私の全身を少しだけ観察するように目が動いた。
「そういうところ」
背後から、アナウンスが聞こえる。遅延を巻き返すように凄まじい速さで電車が近くの駅を過ぎた。彼女はカフェオレを飲み干すと、私の隣を離れた。何が? と問う暇すらなかった。
私が乗るべき電車が来るまで、後十分程度残っている。熱いコーヒーを飲み続ける。背中を汗が流れる。〈了〉