ブルーに似る?

PDFファイル版(文庫サイズ・縦書き)

※本作は「夜の縁」に登場する二人の物語となっております。
事前に一読されると、一層楽しめると思われます。

「ブルーに似る?」


  冷房が効いた寝室で坂本由香は何故か暑苦しさを覚え、意識は急速に覚醒していく。

 枕元に置いているスマホに通知が届いた音が聞こえたような気がする。起き上がり、ベッドボードに手を伸ばす。休みの日の午前四時半に連絡を入れてくる者は誰もいなかった。

 布団に戻って、目を閉じてみる。一度覚醒した頭はもう容易に眠ることはできない。こういう時にデザイナーではなく、別の職種を選んでいれば、後一時間半は眠れるような生活リズムを手にすることができたのだろうか。あるいは寝起きや目覚めが悪いタイプであれば、気にすることなく眠り続けることができるのだろうか。

 隣のベッドでは、恋人である井口大助がいびきをかいている。寝る前にはちゃんとかかっていたタオルケットはベッドの端でぐしゃぐしゃになっている。丸い頬には力が入っておらず、大きな口を開けている。規則的な、あるいは不揃いな音に、由香の心に白波が立ち上がりそうになる。彼は今の自分の状態に関係はないと割り切ろうとする。逃げ場の失った波を放出させるように、枕に弱々しく拳をぶつける。微かな反発が返ってきた。

 スマホを部屋着のポケットにしまい、由香はそっと寝室を出る。ルームスリッパがぺたぺたと乾いた音を立てるが、大助は寝返りを打つだけで起きる気配を見せない。

 中廊下を歩いて、リビングのドアを開けると、冷房を切ったこともあって蒸し暑い空気に迎えられる。由香は眉間に力を込めて、シーリングファンライトのスイッチを指先で押そうとした。明かりを点けたり、ファンを回してしまえば、大助が起きてしまうような気がして、由香は効くのに時間を要するエアコンを作動させる。先に起きたり帰ったりしたどちらかがリビングのファンかエアコンを点けるという同棲する前に決めたルールは、今では週の何度かにリモートワークを行う由香だけが律儀に守っているようなルールに思えた。

 リビングの奥、南に面しているカーテンを細目で辛うじて見える程度に開けて外の様子を探る。建ち並ぶマンションやビルの隙間から覗ける空は白く染まっている。由香はカーテンを乱暴に閉め直した。

 カーテンの手前に置いてある、一人で座るには大きく、ソファに腰を落とす。まだ全然活動するには早いように思えて、由香はソファで横になる。カーテンの向こうから射し込もうとする陽の光から逃げるように、十分に広いソファで寝返りを打つ。目を閉じてみたが、全然眠りに落ちていく気配が見えない。寝室で気のせいだと思っていた暑苦しさが今度は暴力のように、部屋に満ちている。ポケットに入れていたスマホがフローリングへと落ちる。拾い上げると、目の前のローテブルに置く。

 ついでのように、デスクライトを点ける。リビングの真ん中に、月のように丸い光が灯る。寝る前に掃除をした灰皿、ライター、二種類の煙草の箱、何冊かの書籍が明るく照らされる。かなり前にシーツの一部分を焦がしてから作られた、寝室に煙草を持ち込まないというルールは、大助も由香も固く守っている。

 煙草に火を点け、息を吸う。白い煙が悠々と天井へと昇る。

 今日という休日をどうしようかとぼんやり考える。事前にどこかに出かけているなどという予定も約束もない。

 この煙草を吸い終われば、寝室に戻っても良いのかもしれない。惰眠を貪る、という休日があっても良いだろう。そんなことを考えてみたが、頭の片隅ではいつの間にかコーヒーのことを思い描いている。煙草の煙が通る舌が、コーヒーの苦味と酸味を欲する。煙草を灰皿の縁に置いて、キッチンの冷蔵庫を開ける。ビールの缶が立っている端に、無糖のアイスコーヒーのボトルが立っている。戸棚からマグカップを取り出し、注ぐ。

 コーヒーを片手にソファへ戻って、こうも考える。フルリモートの間に契約していたジムに行くのも良いかもしれない。が、久し振りに顔を出して、何か色々と言われるのは好きではない。そういう社交性を発揮するのは、平日の間、仕事をしている八時間とかそれくらいの時間帯で十分である。しかし、このままでは、二の腕や頬周りに無駄な肉が増えるばかりである。閉ざしたカーテンの向こう側を見遣る。この時期であれば、暑さや寒さで億劫になったジョギングを再開するのも有り得るのかもしれない。

 スマホで今日の天気を確認すると、雲一つなく、燦々とした太陽が画面の真ん中で輝いている。何かを始めたり、再開するには良い機会のように思えた。大助が起きて来るまで、最低でも後二時間はある。休日ということを考えると、後四時間は起きてこないかもしれない。さっさと起こして、早い休日を一緒に過ごさせるのもありなのかもしれない。

 しかし、由香の重い腰は上がらない。ソファに腰掛けて、煙草を吸う。ぽっかりと空く心の隙間を埋めるように煙が広がる。由香は自分のこの、物事を億劫だと考え、動かない性格は好きではなかった。億劫だと考えるのは、決まって休日。平日の夜には発生しないのは、きっと、仕事の時のように選択の連続を判断しているからだろう。

 大助もそういう億劫だとか怠惰という言葉に近しい性格をしているのだが、彼はそういう自分のことを分かっているように、締めるところは締める。デートの頻度は下がったが、そういう話になった時には率先して提案してくれるし予約などでは実際に動いてくれるし、由香は楽しみという感情を維持したままあれよあれよという間に当日を迎え、出発までエスコートしてくれる。多分、あの人は、休日という日を楽しみにしているのだろう。オンとオフの使い方が上手いタイプだと見て取れる。思えば、大学生の頃に知り合ってから、段取りや仕切りというのが上手かった。

 由香は身体の真ん中に溜まった行き場のない気持ちを吐き出すように、煙を吐き出す。短くなった煙草の先端は赤く灯っている。その先から立ち上る煙は、カーテンの隙間から射し込む日の光を受けて、薄っすらと青く見える。紫煙という言葉で青を奪い去っても良いのかもしれない。

 あれはもういつのことだっただろうか、ある日の朝に、由香が今と同じように起きていたことがある。大助も起きてきたことがあった。その時大助は、この色を、白という言葉で表現していた。由香はその色彩を聞いた時、そういうふうに乱暴にまとめてしまう人もいるのだと驚いたと同時に、怖くなり、自分にはない感覚を持ち合わせている人だなと少しだけ楽しく、喜びを見出してた。なにそれ、と恥ずかしそうに笑った記憶が、昨日のことのように蘇る。

 中廊下の照明が灯り、優しいオレンジがかった光が視界に飛び込んできた。郷愁が呼び起こした夢のようだった。由香の胸が驚いたように、一つ跳ね上がる。誤魔化すように煙草の先を灰皿に押し付けて揉み消す。残っていたコーヒーを飲み干す。

 空になったマグカップを持って、流しに立った時、中廊下のドアが開いた。欠伸を零し、短い黒髪の所々に寝癖がついた、半袖のシャツとステテコという常夏を先取りした部屋着の大助と目が合う。まだ真夜中の時分にいるような、ぼんやりとした目つき。

 大助はカーテンの近くだけ仄かに明るいリビングを見渡す。

「……夜?」

 洗ったマグカップを戸棚にしまい、由香は白む夜空をカーテンの向こうに想像して答える。

「朝だけど……おはよう?」

 大助は言葉にならないような極々短い単語を口の中で一つ、二つと繰り返す。由香の耳にはそのどれもが音として聞こえてこなかった。しかし、彼がもう眠る気がないことだけは分かった。こういう日は度々ある。
 由香はシーリングファンライトのスイッチを入れる。リビングは朝を迎える。ファンはゆっくりと回り出す。大助は中廊下へと繋がるドアの前からゆっくりと歩き出し、音を立ててソファへと座る。由香は行く場所を失ったように、キッチンに立ったまま尋ねる。

「早いじゃん。朝ご飯、作る?」

 大助は自分の煙草を吸って、手短に答える。その言葉には、もう眠りの影はどこにも感じられなかった。

「いや、まだいい」

 そっか、と短い返事をして、由香はソファへ座る。角張った大助の横顔に、青い煙がくゆむ。

 大助はこの煙を白と捉えているのだろう。今もそうなのだろうか。訊きたい気持ちはあったが、言葉にしてしまえば、この時間が崩れ去ってしまう予感が胸のどこかにある。由香は煙草を口に咥え、火を点ける。

 大助の指先が、とんとんと揺れる。灰皿に灰が落ちる。大助の視線が由香の指先から、口元へ移るのを感じる。由香が睨むように視線を送る。

「……何?」

 大助の指先が、由香の持つ煙草の煙を追いかけるように動く。

「ここの煙は微かに青く見える。あそこはもう白だな。やっと見えた」

 慰めの言葉としては、あまりに力強い。まだ夜の続きにいるのだろうかと見上げた大助の顔は、もうしっかりと覚醒している。

 由香は自分の目元が柔らかく丸くなるのが分かった。郷愁は愛を引き連れてくれるらしい。なにそれ、という言葉は、煙と一緒に胸の中へと流れ落ちた。

 その代わりに、こういう問いが由香の口から零れた。

「大助は、さびしい? さみしい?」

「え、今? そんなことないけど?」

「今じゃない」

「あ、ごめん」

 二本の煙がゆっくりと天井に昇る。

「俺は、さびしいかな。漢字で書くと、さんずいに林のやつ」

「なにそれ」

「さみしい派?」

「うん」

「う冠の方?」

「うん」〈了〉


 

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