一行のエアメール

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「一行のエアメール」

――ごめんね

副部長から一件のメッセージ。

文芸部の部室の前で呆然と立ち尽くす私は、まるで夢でも見ているような気持ちの悪い浮遊感に襲われていた。

手の中にある冷たい鍵だけは、先程の出来事を現実を突きつけてくる。

なら、このメッセージも先程の出来事の続きだというのだろうか。

『それじゃ、後はよろしくね』

先程まで隣にいた部長の言葉が、蘇る。

どうしてという思いは、私の喉から出ることはなく、胸でうずまき、詰まったような音が零れるだけだった。

部長はそんな音に気づいたのか一瞬、足を止めた。が、その背中を振り向かせることはできない。

「……どうして?」

言葉は、今更のように零れた。

答える人は、誰もいない。

 

授業が終わり、下校する同級生や一、二年生の波に逆らい、職員室へ。

波の中には、ついこの間の春まで同じ部室に居た部長や副部長の顔も見える。ありがとうごめんねという言葉は、いつしか、またねという言葉に変わっていた。夏休みが始まる前に、そんな言葉に変わったような気がする。

顧問の先生から、文芸部の部室の鍵を受け取る。

「片瀬さん、国公立っていう可能性もあるんじゃない?」

と言われたが、私にはあの私大が合っていると思うんですと答えると先生は何も言わない。でもなぁ……という先生の独り言を背中で受けるのは、職員室を出る頃だった。

部室の鍵を受け取るのは、本来ならば、私の役目じゃない。ずっと、私の役目じゃないと思っていた。

既に人が居る部室のドアを開け、一人で居る部長に挨拶したり、副部長を交えて今日の活動について話したりする。

そう思っていた。

部室へ足を運ぶ前に図書室に寄り道することもあったし、部長と副部長が部室を開けずに図書室に居ることだってあった。

そういう日が、明日も明後日も続く。

そう思っていた。

でも鍵は、私の手にある。

この春からは、私の役目になった。後はよろしくね、と部長から託された。

あの時の私は全然分からなかったけれど、最近になってようやく分かるようになった。

部長も副部長も私より先を見ている。三年生という一年を高校生最後の限られた一年として過ごすのではなく、もっと先のことを踏まえて過ごしている。

部長や副部長は、私より可能性があるからだろう。私立の大学だけではなく、国公の大学を進路先として考えている。

だから、私に部室の鍵を託した。

私のことなんか気にも止めないように。

数学が英語ぐらいできたら、私も部長や副部長のような進路を選べたのだろうか。もしそうしたら、この手にある鍵は誰に託されることになったんだろう。もし私があの時、部長のお願いを断っていたら、この鍵は、誰の手に渡ったんだろうか。

文芸部に所属している生徒は少ない。部活として成り立っているのが不思議なぐらいの部活動だ。

部長と副部長、私、二年生の森崎さん、一年生の幽霊部員くん。この五人しかいない。

部室も、授業を受けている教室の半分程度の広さ。左右の壁の備えられた本棚には、もう誰の物か分からない本や文化祭で毎年発行している部誌のバックナンバーがある。

私が部室の鍵を顧問の先生から受け取るようになってからは、図書室に部員がいる方が多く、私一人しか部室に居ない時だってある。

私が進路を優先したら、部長はこの鍵を森崎さんの手に渡すつもりだったのだろうか。森崎さんが部長から鍵を受け取るのは想像しにくい。二人しかいない部活って部として成立するんですか? そんなことを言いそうだ。

ひょっとしたら、新しい子が入部するまで職員室にぶら下がっていることも有り得る。

断らなかったのは、断った時の部長の顔を見たくなくかったからかもしれない。あの人が動揺して、傷つくのを見たくなかった。

なら、この鍵を受け取った私は……。

指先に引っ掛けた部室の鍵が揺れる。

文芸部の部室は、部室棟三階の端に位置している。校庭から見上げると、木々の中に埋もれるような所だ。部室の前で立ち止まる人も、校庭から見上げる人もいない。

誰も気にかけることなく、刻一刻と日は傾く。

先月にはなかった冷たさが、部屋の隅々にまで満ちているようだった。薄い膝掛けで暖をとろうとするも、少し心もとない。

参考書を開いてもいいし、読みかけの小説を読んでもいい。今日は休み、と森崎さんにスマホでメッセージを入れて、帰るのも良いのかもしれない。

メッセージを送ろうとスマホに視線を落とすと、部長から気遣うメッセージが届いていた。どういう返事を書けばいいのか分からず、既読だけつける。

森崎さんへメッセージを送ろうとしたけれど、なんだかそれも億劫になってしまって、鞄にしまう。
私は、今日も一人だ。

でも帰らない。部長は、私がこういう時に帰らないのを知っていて、「後はよろしく」と言ったのだろうか。

私が鍵を預かるようになってから、文芸部は文芸部らしい活動を全くしていない。

森崎さんは、部室に私しかいないことに気づくと来なくなることが増えた。

三年生の邪魔をしてはいけない、と遠慮しているようだった。

その遠慮は、一年で築き上げた私と森崎さんの距離感を示すかのようで、彼女が部室に来ないのを知る度に胸が痛くなった。

私と部長の違いを、森崎さんは容赦なく教えてくれた。

部室で一人にいると、そんなことばかり考えてしまい、片手で読む参考書は全然頭に入ってこない。

部員が少ないのだから、仕方ないことなのだけれど、それでも考えてしまう。私は、部長から頼まれたこの役目を、最後までやり遂げられるのだろうか。

所詮は部長の代理と思う自分がいる。でも、だからこそ、引き受けてしまった限り、やり遂げる必要がある。部長と副部長が戻ってくる日まで。しかし果たして、とは考えないように努めながら。

でも私は、そう思うばかりで、具体的に何をどうすればいいのかまでは頭が働かない。

ただ、部室の鍵を開けるだけだ。

何かをしようと言い出すのは、大体部長で、時々副部長もやりたいことを言って、私達を巻き込む。

私は巻き込まれてばかりで、部長や副部長の背中ばかり追っていた。流されてばかりだったけれど、

全然嫌なことはなく、むしろ流されるのが刺激的で面白かった。

部長がいて、副部長がいて、私。そういう順列だった。変わらないと思っていた順列が、この春に、私が一番になってしまった。

部長や副部長のように、そこに居るだけで人を集めてしまうような、その人がいるから頑張れるようなタイプじゃない私が部長になってしまった。

文芸部の方向性を決めるのは、部長が多く、修正や訂正は副部長や私達が行うことが多かった。「一人で多くを抱えない」と部長は言っていた。「みんなで頑張ろう」とも言っていた。

私の周囲にいる誰かの上に立つ人は、いつも一人だった。一人で考え、一人で動き、一人で周りに指示を出す。

そんな人が多かった中で、部長の姿は眩しく見えた。副部長も似たような考えを持っていて、部長の言葉を翻訳するのが上手かった。

そういう関係性が出来上がっていたのが、今までの文芸部だった。

部長を任された私には何ができるんだろうか。

舵取りを失った船は、沈む。そうなってしまってはいけない。

私には私のやり方があると思うのだけれど、一人しかいないこの部室では、そんなことは思うだけ無駄だった。

突如ドアが開けられ、癖のある茶色の髪に眼鏡をかけた女子生徒が現れた。

見慣れた部員の姿だったが、私達は互いに呆然と見つめ合い、不思議と黙る。部室で出会うとは想定していなかったように。

私がおそるおそる声をかけたのと、森崎さんが満面の笑みを浮かべたのは同時だった。

「森崎さん……?」

「先輩!」

秋冷えで寒さを覚えていた部室はすぐに温もりに満ちる。

部室一杯に響いた明るい声は、ぐるぐる回っていた私の考えを全て消し去ってくれた。

驚く私をよそに、森崎さんはすぐに部室の本棚に目を向ける。スマホと本棚を見比べる姿は新鮮で、参考書を閉じて声をかける。

「探し物?」

「英語の辞典とか、ありませんでしたっけ?」

「辞典なら、持っているんじゃないの?」

「えっと、そういうのじゃなくてって……」

歯切れの悪い調子で答える森崎さんは、本棚にしまわれている本の一冊一冊のタイトルを指で追いかける。

「英英辞典?」

本棚を探し終えた森崎さんは、私にスマホの画面を見せる。小さい手に不釣合いな大きな画面。

そこには、何冊もの辞典の名前があり、収録数が多いやつ? 薄いのにする? 買って分かる? 図書館? 誰に教えてもらう? 森崎さんの言葉を一緒に書かれていた。

「英語の文章でぇ……、私、全然分からなくて……」

弱々しく語る森崎さんの姿は、初めて出会った時と似ていた。

彼女は色々知らない子だった。授業についていくのも精一杯の子で、先生や友達に勉強を教えてもらうことが多い。彼女の理解は他の子と比べるとゆっくりであったが、物事を知る楽しさはもう十分なほどに知っていた。

運動部に所属しているような森崎さんが、文芸部の部室のドアを叩いたのは、そんな知的好奇心からだった。

知らないことを知りたい。この世界は知らないことで溢れている。だから、知りたい。だから、教えてほしい。そういうことが言える子だった。

正直な彼女の周りには、部長や私や卒業生が集まりやすかった。

「宿題だったら、教科書で何とかなるんじゃない?」

「宿題じゃないんです」

と言うと、森崎さんは別の画面を見せてくれた。

英語で書かれたメッセージが続く。簡単な単語の羅列は森崎さんで、英文はやり取りをしている相手だろう。正しくは訳せないけれど、掻い摘んでならば、分かる。

お礼の言葉や日本のことをもっと知りたいだとか、そういうことが書かれていた。

「どうしたの、これ?」

スマホから目を離し、尋ねる。全然そんな気はなかったのに、森崎さんの声はどうしてか固くなっている。まるで何かを釈明するかのように。

「最近知り合った子なんです」

「知り合い……?」

「ネットで……」

「女の人?」

「そうです、……多分」

「同い年の?」

「そうです」

「詳しく教えてもらっていい?」

促すと、森崎さんはすぐに明るい調子で話してくれた。

森崎さんがエイミーと知り合ったのは、この夏。ネットを介して知り合いになったらしい。

夏休みの英語の課題を手伝ってもらいながら、お礼に日本の文化や流行を話していた。森崎さんの話だけでは我慢できなくなった彼女は、何か日本のことについて知れる本を教えてほしい、と住所を送ってきた。

そこから先、森崎さんはたくさんの分からないで埋め尽くされた。

外国人向けの日本の本が良いのかとか、日本人向けの本が良いのか、そうなったらどう読めばいいのか、そもそも海外への郵送をどうするのか、だとか。

スマホで調べたけれど、調べれば調べるほど分からなくなってしまった、ということだった。

説明を終えた森崎さんは、どうしましょう、と頭を抱える。

事の詳細を教えられた私は、何よりも先に、返事を待つエイミーの身になった。

同い年の遠い所に住んでいる森崎さんから返事を待つ彼女のことを。森崎さんとのやり取りは、エイミーの言葉を最後に止まっている。

返事を書きたいけれども書けなかった森崎さんの手は何度、いくつもの文章を生み出し消したことだろう。

届けられない言葉は、エイミーの期待をいつしか不安に変え、一夏の出会いはこんなものなのだろうと、一歩大人に成長させる。諦めは、私達を一つ大人に近づけるのだろうか。

エイミーに勝手な親近感を抱き、私は席を立つ。

廊下に出て、三階から一階へ。吹奏楽部の練習に混じって、野球部やサッカー部の声も聞こえる。どの部活も夏の頃に比べると勢いや覇気が弱くなったように感じた。

後を追ってくる森崎さんは、不安そうについてくる。

「図書室で調べましょう?」

「あるんですか?」

「ここよりは、多くあるんじゃないかしら」

「私、書けるでしょうか?」

「大丈夫よ。まず、日本語で書いてから考えましょう?」

「日本語でしたら、まぁ……?」

疑問符がつく森崎さんの背中を押す。

「分からないところは教えるから大丈夫よ」

「さすが先輩です。部長も言ってましたよ。困ったら、まことちゃんを頼ったらいいって」

「部長が?」

初めて聞いた。びっくりして、足が止まった。

そんなことない、と否定したかったが、どう否定したらいいのか分からない。

二階の踊り場に森崎さんの姿があって、じっと私を見上げる。

愛嬌のある真ん丸とした瞳が、嘘偽りではないことを示している。そんな目で見られると、一瞬でも疑った自分が恥ずかしくなる。

「言ってましたよー。困った時に頼りになるって。でも、頼りにばかりしているのもいけないって」

付け加えられた、でも、に先を見据える部長の姿を見た。

私と部長の違いは、きっとそこだ。

部長と私の三年間は同じ三年間でも、扱い方が違う。

部長は二年生の時に、もしかすれば一年生の時から、もっと先のことまで考えていたのかもしれない。

誰かに頼ることができる人だからこそ、ずっと誰かに頼っているものだと思っていた。でも実際は、そんなことないかもしれない。

誰かに頼らないという選択を、部長は一人で決めたのだろうか。

もしかすれば、どこかで副部長や私に悩みや不安を話していたのだろうか。思い返してみても、それらしい言葉や素振りは見えなかった。

森崎さんは気づいていたのだろうか。副部長は聞かされていたのだろうか。私だけが何も知らず、何も知らないからこそ、鍵を渡されたのだろうか。ただ、頼りになるから……。

嫌な考えばかりが、ぐるぐると回る。

「……先輩?」

隣まで降りてきていた森崎さんに声をかけられ、我に返る。

いつの間にか図書室まで足を運んでいたらしく、振子時計の下にある貸し出しカウンターには図書委員の同級生の姿があった。

事情を説明すると、先生を呼んでくる、とその場を離れる。

図書室で辞典や英作文の本を探している間、部長のことを考えないようにした。

そんなことは、森崎さんとエイミーには関係のないことだから。

私が上手く、納得できないだけ。今、そんなことを考えるのは、二人に失礼なように思えた。

ずっと先、私達が大人になった時に、部長に話してもらったらいい。

先生にも手伝ってもらって、図書室の片隅のテーブルは、和英辞典や日本文化に関する本、英作文や手紙に関する本が次から次へと運ばれた。前にいるはずの森崎さんの姿が見えなくなり、戸惑った声だけが聞こえる。

「こんなに読むんですか……」

「森崎さんが、エイミーに何を書きたいのか、エイミーが何を教えてほしいと思っているのか。それが分かれば、読む量は減るから」

「私がエイミーに伝えたいこと?」

「何かあるんじゃない?」

「英語で、ですか?」

「まずは、日本語で。英語で書くのは後からね」

森崎さんがエイミーに伝えたいことは、いくつもあった。

返事が遅くなったこと、その間にいくつもの英語の本や辞書、手紙の書き方の本を読んだこと、こうして書けるようになったこと。日本には沢山の文化や流行があり、書きはじめたらきりがないこと、だから森崎さんが好んでいるアニメやゲーム、本のことを書こうとしていること。

何を送ればいいのか散々悩み、森崎さんがはじめて読んだ思い出の本を送ることに決めた。これならば、簡単に読めると思うから。

森崎さんの言葉を一つ一つ書き起こしていくと、目を通すべき本は限られていき、山は少しずつ切り崩された。

書き留めた言葉の数々をどうまとめ、英語の文章に書き換えるか。

森崎さんは英作文の書き方や辞典に目を通し、自らの言葉を英語に書き換えようとするがペンは動かない。

しばらくすると助けを求めるように私を見て、情けない声を上げる。

「……先輩」

「どうしたの?」

「書けないです」

「こんなに書きたいことがあるのに?」

森崎さんが英語で書けないのは、きっと、単純に経験が足りないからだろう。返事の最初に書くであろう手紙が遅れた理由ぐらいなら、英語に書き換えるのは難しくない。

「言葉と言葉と繋がらなくて、どうしましょう?」

「短い文章の方が伝わると思うわよ?」

こんなふうに、と言うように、ペンを執り、森崎さんの思いを英語にしたためる。

森崎さんは、書き上げられた英文と私とを繰り返し見て、目を輝かせる。

「……先輩」

「どうしたの?」

「書いてくれませんか?」

森崎さんや部長より英語はできる自信はあるけれど、英作文の経験は多くない。書ける自信はあるが、伝わるかどうかまでは分からない。

私は、エイミーについて知らないことだらけだから。知らない人に親しげな手紙を書くのは、今まで一度もしたことがない。外国に友達なんていないし、そんなこと怖くてしたくない。私の友達は、学校の内で終わる。

私達三年生が大学受験に追われている夏、森崎さんは一人の友達と知り合った。顔も知らない外国の女の子。

二人共、知らないことをもっと知りたいと思うから、波長が合ったのかもしれない。

きっと私が見たことのない森崎さんの姿を、エイミーは知っているんだと思う。

そしてエイミーの知らない森崎さんをきっと私は知っている。

けれどそもそも、森崎さんにそんな違いがあるかどうかなんて、私にもエイミーにも分からなかった。

私の知っている森崎さんとエイミーの知っている森崎さんに違いがないと思いたい一方で、違いがあってほしいとも思う。

そうしたら、私が知らない森崎さんの一面を、この手紙のやり取りで知れるかもしれないから。

そんなことを知って、私はどうしたいのだろうか。分からない。分からないことが増えていくのは、好きじゃない。

好きじゃないけれど、誰かの頼み事を断るのは心苦しく思えた。

森崎さんが書いた方が良い手紙だ。けれど、一人で書けないならば誰かが手伝った方が良い。手紙を待つエイミーがいるのだから。でも……。

「……いいの?」

「お願いします!」

そうして、私は森崎さんに代わって、エイミーへの返事を書くこととなった。

書き留めた森崎さんの思いを、一つ一つ確認する。英語に書き換えた時の微妙なニュアンスの違い、どの単語を使用するかなどは、森崎さんに選んで決めてもらった。

手は私の悩みなんて気にすることなく、すらすらと動く。

返事が遅れたことや英語に自信がないことなどを書き終えた時に、見守っていた森崎さんが不意に声をかけてくる。

「先輩のことは、どうしましょう?」

手を止め顔を上げると、悩む森崎さんと目が合った。

「私?」

「こんなに手伝ってくれて、先輩のことを書かないのは……でも、エイミーにはそんなこときっと、関係ないですし……」

森崎さんは一度言葉を切ってから、続ける。

「どうしたら、……いいんでしょうか?」

私のことは、森崎さんだけが知っていたらいいと思っている。

森崎さんの言った通り、エイミーはそんなことを知らされても、どう扱えばいいのか分からないことだろう。

それに、手紙は書いた人と読んだ人の二人の間だけで共有されるものだ。森崎さんの他にも返事を読んでいるとなれば、第三者を意識した言葉を選ばなければならない。

言葉を選ぶことによって、書き手の伝えたいことを微かにでも変えさせてしまう。そんなことはあってはならない。

なら、私は……?

私は、そんなことはないのだろうか。私は、森崎さんの思いを一つも間違えることなく、書けるのだろうか。

私は、そんなに器用な方じゃない。

それでも、こうして書くことになった。

本来なら、森崎さんが書かないといけない手紙を。

私達のことは、私と森崎さんだけの秘密。

私のことは、エイミーに知られてはいけない。

「書かない方がいいわね」

「先輩は、それでいいんですか?」

「私のことより、エイミーのことを考えましょう? この手紙を読む、エイミーのことを」

森崎さんは素直に頷き、私は返事を書く。

森崎さんの思いを一つ一つ翻訳していく。

初めて読んで、今も読み返す本を一緒に封していること、エイミーがどれほど日本語が読めるか分からないし、もしかしたら難しいかもしれないけれど。
返事を待っている。

そう結び、ペンを置いた。

「これでよかった?」

森崎の方へ書き終えた返事を向ける。

森崎さんは返事に目を向けず、私の方をじっと見ている。その視線は私の手元に注がれていた。

「……先輩、凄いです」

素直に褒められると照れくさくなってなってしまって、小さな声で、「そんなことないわよ」と言うしかできなかった。でも。森崎さんの耳には十分届いた。

「先輩は将来、翻訳家とかになるんですか?」

「……将来?」

将来のことなんて今の私は全く考えていなかった。そんな先のこと、分からない。

考えていないというよりも、考えないようにしている、と思う方が正しいように見えた。

そんな先のことを考えてしまえば、私も部長と同じようになってしまいそうだったから。私までそうなってしまえば、部長の座を誰かに投げ渡してしまう。きっと、文芸部がなくなってしまう。よくないことだ。

けれど、果たして、本当によくないのだろうか。部長や副部長のように考えるのが、自然なことなんじゃないだろうか。

私達三年生は、そういうことを考えないといけない年頃なのではないだろうか。

でもそうしてしまえば、文芸部に残る森崎さんは、一人だ。

そんなことをしてしまうのは、いけない。一人にさせてはいけない。五人いた部員が二人になり、時として一人になり、二人に戻った。そんな時に、一人にさせるわけにはいかない。

「そんな先のこと、分からないわよ」

曖昧に笑ってはぐらかそうとしたけれど、森崎さんは踏み込んでくる。

「先輩だったら、できると思います!」

「手紙、出しに行った方が良いんじゃない? エアメール、届くの時間かかるのよ?」

「先輩も一緒に行きましょうよ」

「私にはやることがあるのよ」

本は片付けておくから、と付け加えると、森崎さんは慌てて荷物をまとめて図書室から駆け出していく。先生に、走らないの、と注意されても、森崎さんは止まらない。

先生や同級生と協力しながら本を片付けていくと、同級生から尊敬の眼差しを向けられる。気にかけず、一冊、また一冊と本棚にしまっていくけれど、ずっと見られているようで、声をかける。

「どうかした?」

「片瀬さん、英語得意なんだね」

「国語ができたから、後は何とかなっただけ」

「そういうものじゃなくない?」

「そういうものよ」

「分からない感覚だなぁ……」

ふと同級生がどうういう将来設計を考えているのか気になった。私にとっては、そちらの方が分からない感覚だったから。

「進路とか将来の夢とか、そういうこと考えたことある?」

「私は看護師さんになりたいから、そういう感じだよ。片瀬さんは?」

「私は……、大学進学してから考えるつもり」

「そんなもんだよねぇ……」

「どうして、看護師さんに?」

「夢、だから」

同級生の横顔は涼しいものだったけれど、その耳は赤く染まっていた。それ以上訊くのは、野暮というものなのだろう。
それから私達は静かに本を片付けた。

 

 

手紙を出してから、森崎さんは毎日文芸部に顔を出してくれた。明るかった表情は日が経つにつれて、少しずつ不安の暗い影が見えてきた。

机に片頬をつけうなだれ、スマホを見つめる森崎さん。時々、スマホを持った指が細かく動き、文章を綴る。エイミーと連絡を取っているのだろうか。

一方で私は、森崎さんがエイミーに送った文庫本を買い、部室で読んでいる。全三巻の少女向けライトノベル。

本をめくる手を止め、見かねて声をかける。

「読むのに時間がかかっているんじゃない?」

「もっと分かりやすい本にしたらよかったですかねぇ……」

「この本だって、十分分かりやすいじゃない?」

「そういうことじゃないんですよ……。じゃ訊きますけど、先輩は、私にどんな英語の本を勧めますか?」

「アリスとか……?」

「無理ですよぉ……」

「そう?」

「先輩は英語ができるからそう思うんです」

「森崎さんも、頑張ったらすぐじゃない?」

「どうして先輩はそんなに英語ができるんですか?」

スマホから顔を上げ、森崎さんは真面目な調子で訊いてくる。改めてそう訊かれると、答えるのに時間がかかる。

辛うじて出てきた答えは、こんなものだった。

「……色々な本を読んできたから?」

「私に訊かれても分かりませんよ……」

 

それから少し日が経って、文芸部の部室の鍵を受け取り職員室に足を運んだ時、鍵は森崎さんが先に持って行ったことを教えられた。

部室に足を運ぶ。

ドアに手をかけ、開ける。

そんな動作に心が踊る。

ドアを開けると、陽の光を受け真っ赤に濡れる紅葉を背に、満面の笑みの森崎さんが立っている。その手には、一通のエアメール。

誰かが待っている部室が、懐かしい。

「久し振り、かな……」

口の端が震えた。首を傾げる森崎さんに、気にしないで、と続ける。

机には、図書室で借りてきた何冊かの和英辞典も置いてある。

「それで、今日はどうしたの?」

「返事来たんです!」

差し出された封筒を覗き込む。

封筒には読み取りやすい青い文字でエイミーの名前。

サンフランシスコの消印が、彼女が本当に外国の人なんだ、と今更のように実感させられた。

はやる気持ちを抑え、平静を努める。

「読まないの?」

「先輩と一緒に読みたかったから待ってました。それに、私だけじゃ、読めないと思うので」

私達は小さな部室で隣り合って座ると、エイミーの返事の封を切った。

「なんて書いてあるんですか?」

私は可能な限り、訳せる範囲で読み上げる。丁寧な英文の数々に、エイミーの緊張が見て取れるようだった。

返事の最初は私が綴った森崎さんの言葉と同じように、遅くなってごめんね、という文章。それから遅くなった理由が書かれていて、森崎さんの思い出の本を読むのに手間取って、と続く。後は、本の感想が書いてあった。

そして、返事を待っている、と結ばれる。

エイミーの返事を耳にした森崎さんは、不安げに私を見つめる。

「返事、どうしましょう?」

「書きたかったら書いたらいいんじゃない?」

森崎さんは真っ白な便箋を覗き込み、書きたいことを教えてくれる。

返事を待っていたこと。ただ待つことがこんなにもどかしく感じるなんて知らなかったこと。ネットでやり取りをしている感覚とは違うこと。

一日、また一日と過ぎても返事が届かなくて、エイミーが何を思っているのか気になったこと。

自分の言葉や選んだ本が、エイミーの胸に響かなかったんじゃないか、と思ったこと。そんな不安や後悔は、もしかすれば、今のエイミーもそんな気持ちなんじゃないか。

エイミーからの本の感想を読んで、自分も初めて読んだ時の感情が蘇ったこと。そうして、そのライトノベルの感想が続く。

完結まで残り二冊をまとめて送ることを書き、ペンを置いた。

「代筆、ありがとうございます」

森崎さんは深々と頭を下げる。私は恥ずかしくなって笑って誤魔化した。

「いいのよ、そんなお礼だなんて。私はただの代筆者なんだから」

私の言葉は紛れもなく事実だった。

森崎さんがエイミーへの返事を書ければ、私は彼女達の間に立つ必要はない。もっといえば、私が彼女達の間に立つことがおかしい。

手紙は、書き手と読み手の二人の間でのみやり取りされるものであり、そこに第三者の目が入ること自体が珍しい。しかも、その第三者が代筆するなんて。

だから、私は、早くこの二人の関係から離れるべきなんだ。

でも、そうはならない。

毎日が楽しみになったのは、エイミーからの返事が届くようになったからだ。木曜日や金曜日に届かないと、月曜日や火曜日に。月曜日や火曜日に届かないと、木曜日や金曜日に。

森崎さんの眩しい笑顔が目印になった。

日が暮れるのが少し、また少しと早くなる中で、彼女は部室で、私を待っていた。

冬を通り越して、春が来たようだった。

二人しかいない小さな部室だったけれど、私達はエイミーの気配を感じ取っていた。新しい部員の姿を、私達は知っていた。

三人で本や映画の話をしているような幻。幽霊部員の一年生のあの子より、はっきりとその存在を感じ取れた。

そんな日が続いたある日、部室でエイミーへの返事を書いていると、側で見守っていた森崎さんが突如、おずおずと手を挙げた。

「あの、先輩、私も返事を書いてもいいですか?」

返事を書く手を止め、私は席を離れる。森崎さんは、どうして、と言いたげに目だけを私に向ける。

「だって、森崎さんへの手紙じゃない。そんな確認、……いらないわよ」

「でも、先輩……」

「いいから」

なんだか急に腹立たしくなった。別の人が書いていると気づかれないように新しい便箋を置く。
遠慮する森崎さんを白紙の便箋の前に座らせ、傍らで見守る。

森崎さんはペンを持たず、辞書を片手に書きたいことを整理している。時々、ペンが動くが、書かれる文字はどれも日本語だった。

いくつかの英単語が混じるようになったが、そのいずれもは文章にならない。

分からないや無理……? という言葉が書かれることもあれば、乱暴に線が引かれ、消される数々の言葉。

救いを求めるように、森崎さんが見上げる。

「大丈夫よ、伝えたいことを順番に思い出して、まずは日本語で」

一つ、また一つと日本語が書き加えられる。

分からない、知らない、無理という言葉が出てくる回数が減った。

エイミーにちゃんと自分の言葉で、伝えたい。そういう決意の現れだった。

日本語を書き終え、ペンはまた止まる。

どう英語に翻訳すればいいのか分からないらしい。私は複数ある日本語の文章から、ある一つを取り出し、辞書を引く。

「長い文章で書こうとしなくていいから。短い文章の方が伝わるわよ」

「大丈夫でしょうか……?」

「大丈夫よ」

不安に駆られる森崎さんを支える。

でも、その決意は、分からないや難しいという思いに飲み込まれ、最後まで形にならない。

一つの思いを英語にするのに、ずっと時間がかかった。

私が返事を書くより時間がかかったけれど、その時間を無駄だとは言えなかった。

彼女は正しい。

最初から、そうするべきだった。

英文を教える声が、不意に低くなる。

怒っている自分自身のことが分からない。怒っている自分自身は、森崎さんの行為がもっと早ければ、と思っている。

しかしそれを森崎さんに求めるのは、あまりに酷なことだと分かっている。

最初から、森崎さんが書けばよかった。

私なんか頼らず、一人で書くべきだった。

でも、そうならなかった。

彼女はそうしなかった。英作文を上手に書けないから。

分かってはいても落ち着かない。落ち着こうと思えば思うほど、荒波が立つ。やり場のない怒りや悲しみが、胸の中で渦巻く。

それはかつて、部長にぶつけたかった感情だった。

一人に、なりたくない。

みんな、ずるい。

でも、私にはできなかった。

そんな感情を今、森崎さんにぶつけていいのかと自らに尋ね、堪える。そうしてしまってはならない。

夕日が部室を染め上げ、下校のチャイムが響く。森崎さんの肩が怯えるように震える。

「明日もあるから」

そう言うと、森崎さんの不安に彩られた顔は、こころなしか明るくなった。

次の日もその次の日も、森崎さんは英語と格闘を続ける。

けれど、その顔は浮かない。私は側で見守り、時々声をかける程度に留まった。

私の手に持つ本は、いつしか森崎さんがエイミーに勧めたライトノベルから、大学入試の参考書に変わっていた。

彼女の手からペンを奪えば、こんな時間すぐに終わる。

でも、できない。

私が書けば、返事はまたすぐに来る。返事を待つエイミーのことを思えば、私が書いた方が早い。

でも、そんなことをしてはいけない。

私は、森崎さんでもエイミーでもない。

私は二人の関係に踏み込んではならない。もどかしい気持ちが一杯になり口の端から零れ落ちてしまいそうで、ぐっと堪える。

口の端をぎゅっと噛んで、森崎さんが書き上げるのを、待つ。

森崎さんのペンはいつの間にか動かなくなっており、私の目を見ていた。

不安げに揺れる瞳の奥底に、険しい顔の私が映っていた。

森崎さんの不安を増幅させないように微笑んでみても、上手く笑えない。

「どうしたの?」

少しの沈黙の後、森崎さんは頭を下げた。ペンと便箋が、私の方へ差し出される。

「先輩、書いてくれませんか?」

小さく震えるその肩に、私の感情は限界を迎えた。

けれども、零れた言葉は怒りとは程遠い、冷たい疑問符だった。

「どうして?」

森崎さんは怯えるように私を見上げる。何かを言うように口を動かしたが、言葉にならないようだ。
張り詰めた空気が、部室に満ちる。しばらくすると、

「書けないんです」

と、小さく答えた。

その言葉を皮切りに、洪水のように感情が溢れてくる。

森崎さんに言いたかった言葉だけではなく、部長に言えなかった言葉も全て、全部が一緒くたになって森崎さんに降りかかる。

「ずるい! そんなのずるい! そんな、そんなの……!」

身体が熱い。それでも、勢いは留まることを知らない。

「最初から一人で書けばよかったじゃない! 私に相談なんかせず、一人で! 一人で悩んだらよかったじゃない! そしたら、そしたら……」

それ以上の言葉は、口の中で暴れて続かない。視界が滲み、肩で息をする。

肝心なことは、いつも言葉にできない。

でも、ここで言わなかったら、きっと後悔してしまう。部長と話せなかったように。

振り絞るように言った時には、森崎さんの姿は部室のどこにもなかった。

「……一人のままだったのに、ずっと……一人でいられたのにっ」

返事は、ない。

机には、森崎さんの書きかけの英文が残っていた。

ごめんなさい、から始まるその一文。

濡れる便箋は、私の涙か森崎さんの涙か分からなかった。

続きはいくつかの英単語が並ぶだけで、何を書きたかったのか分からない。ただ、きっと、その英単語やページの端が折られた辞書から、続く文章は想像できる。

ごめんなさい、遅くなったのは、私一人で書こうと思ったからです。

でも所詮、私の想像に過ぎない。本当なら、もっと別の言葉が続くかもしれない。

遅れた理由なんか書かず、頑張って一人で書いた、みたいな文章が続くかもしれない。

ごめんなさいの続きは、森崎さんにしか分からなかった。

滲んだ文字は、エイミーには届かない。

書かれなかった手紙は、誰にも読まれない。

 

 

部室のドアは固く閉ざされていた。

少し前には当たり前のことだったのに、心が締めつけられる。

昨日まで、簡単に開けられた。この向こうにいる森崎さん。

森崎さんが来ないのは、今に始まったことじゃない。今までにも何度かあった。

昨日の今日だから、来たくないだけだ。

そう思う一方で、私しかいない部室に足を運ぶことを考える彼女を思うと、その足が遠のくのは当然だった。

森崎さんに叫んだ言葉が蘇る。彼女を傷つけるには十分な言葉の数々。あの言葉の内、森崎さんに本当に言いたかったことは、どれほどあったのだろうか。

森崎さんに部長の影を重ねたのは、あまりに醜く、最低だ。

あんなこと言わないと思っていたし、あんな姿を見せるはずがないと思っていた。醜いあの姿こそが、私なんだろうか。

怒っている時にこそ本性が現れる。どこかで目にした言葉が蘇る。

一人になりたくない、ずるいと叫んだあの姿。

相手のことなんか気にせず、自分の思いだけを一方的に伝えるのが、本当の私なんだろうか。そんなことはない、と否定するのは難しかった。

そんな考えを巡らせながら、職員室で部室の鍵を先生から受け取る。何かを訊かれるのが嫌で、早足になる。

先生が声を上げたのと、ドアを閉めたのはほとんど同時だった。

誰かに声をかけられるのが嫌で、気づいた頃には走っていた。渡り廊下を吹き抜ける冷たい風が、熱い頬をなでる。

三階の部室に着いた頃には、息が切れていた。誰も気にかける人はいない。

ドアを開けても、他の部員の姿は見えない。

部室に居ても、一人だ。

部室で何かするわけではない。

読みかけの小説を読んでもいいし、受験勉強をしてもいい。使える時間はたくさんある。今も、きっと、これからも。

文芸部の本棚に増えた英語の辞書や文法の参考書を眺め、一人で今日の活動内容を考える。

一人になったのは、今日が初めてではない。

スマホを取り出し、森崎さんに部活のことで連絡を入れようと思ったけれど、どういう文章を送ればいいのか分からなくなって、やめた。画面には、部長からのメッセージ。確認するのも怖い。

頭では、森崎さんにどういう文章を送ればいいのか分かっている。

飾りっ気のない文章でいい。しばらく部活は休みにします。そんな文章で十分だ。

でも、送れない。既読がつくだけならば、よかった。もし返事が返ってくるとなれば、向き合える自信がない。何を言われるのか分からなくて、怖い。何も連絡できなかった。

こんな姿を部長に見られたら、きっと部長失格だ、と言われることだろう。

あるいは、この鍵を渡した時のように、ごめんね、と謝られるのだろうか。そんな言葉、聞きたくない。

そんな言葉を聞かされるなら、どうして鍵なんか……。最初から渡さず、渡さなかったらこんなこと、私と森崎さんの間に亀裂が走るなんてこと、起きなかった。

全部、部長のせいだ。

そんな責任転嫁をしてしまうことに気づいて、途端に自分が醜く思う。

一人の部室で渦巻く数々の感情は、誰にも打ち明けられない。

何かを求めるようにドアに目を向けても、固く閉ざされたままだ。

久し振りに開いた参考書は、今となっては復習程度にしかならない。

参考書に載っていない英文法や言い回しを何度も書いた。一つでも森崎さんの思いをエイミーに伝えようとした。

けれど、その役目はもう、終わった。

森崎さんは、今もエイミーに向けて返事を書いているのだろうか。書けなくて誰かと相談しながら、書いているのだろうか。

あるいは、もう書かないでいるのだろうか。もし書かないでいるのならば、返事を心待ちにしているエイミーは、どれだけ寂しさを募らせていることだろう。

そういうことを、森崎さんは分かっているのだろうか。そして、私は、そのことを分かっていて、あんなことを言ったのだろうか。

あの時の私は、そんなことすら分かっていなかった。ただ、私の都合で、森崎さんに感情的になった。そんなことをしてしまえば、どうなるのか何も考えずに。

森崎さんの思いをエイミーに伝えるのに、どうして感情的になってしまったのだろう。

代筆者、失格だ。

エイミーの手紙を読み、彼女が一つ二つと私達のことを知るのが微笑ましかった。私達の知らないことを教えてくれるエイミーは、時として私より歳上に感じられた。

代筆を続けて、返事を共に読んで、二人のことを分かったような気になっていた。思い違いもいいところだった。

そんな楽しさを、私だけの感情で全て壊してしまった。

代筆も返事を読むことも、もうない。

一人の日々が返ってくる。春の頃から度々あった、日常。

戻ってきてほしくなかった。部長が来なくなって嫌というほど味わったと思ったのに、私はまた、戻ってきてしまった。

そんな時間を送るのが、私らしいと証明するかのように。

エイミーは、今も返事を待っていることだろう。顔も知らない外国の友達からの手紙を。

やがて、一日、また一日と過ぎ、エイミーの期待は諦めに変わり、一つ大人になり、小さな別れを体験する。

出会いの数だけ別れがあることを思い出したり、永遠に続くことがない手紙のやり取りがあることを思い出す。

しかし果たしてそれは、今なのだろうか。もっと先に訪れることだったのではないだろうか。お互いに、またね、と文章を結び、そうして体験する別れなのではないだろうか。

こんな形で訪れるなど、エイミーはもちろんのこと、私も森崎さんも考えていなかった。

書き損じの山に埋もれる森崎さんは再び、またね、を書けるだろうか。

エイミーが再び、文章を綴れるだろうか。外国の友達に自分から再び手紙を書くのは、ずっと難しい。何を間違い、どう書き直せばいいのか分からない。

書いた手紙が相手に届くのに七日を要し、返事が送られてくるのに七日、あるいはもっと沢山の日時を必要とする。

その二週間の間、返ってこないかもしれない返事を待ち続けるのはあまりに心苦しい。

二人が書けないとすれば、代筆者である私が書くしかないのではないだろうか。

そうすれば、二人は、またね、という言葉で手紙を結び、いくつもある出会いと別れの一つになる。
私は一人、真っ白な便箋と向き合う。森崎さんの代筆者として書いてしまえば、エイミーの期待を裏切り、結果として彼女を傷付けてしまう。

私が私として手紙を書き、一切を明らかにしてしまえば、彼女は返事を書かないだろう。

相手が、森崎さんではない、と分かれば。

これが、最後の手紙になる。

手紙の最初は、謝罪から始まった。嘘をついて、ごめんなさい。森崎さんが書いているわけではないの、と続く。最初から、私が書いていること。森崎さんに頼まれて書いたこと。

この手紙を書いているのは森崎さんではない。

だから、返事は書かなくていいこと。

そういうことを書いて、エイミーへ送る。

返事は来ない。一日、また一日と過ぎて、休みを挟んで、月曜日になっても、金曜日になっても、私の家のポストにサンフランシスコからの消印の手紙は送られてこない。

それで良かった。そうなることが当然だった。そう望んでいた。そうなればいいはずなのに、そうなってしまうことを拒む自分がいる。

返事を書いているのだろうか。そもそも読まれているのだろうか。

知らない住所、知らない名前から、見覚えのあるインク。

不気味な手紙。恐ろしく読まれない気がする。封を切らずに、ゴミ箱に捨てられても仕方のない手紙。

日曜の夜、サンフランシスコから手紙が届いた。お母さんやお父さんには、知り合いだと何とか誤魔化し、自分の部屋に駆け込んだ。正真正銘、私への返事。見慣れた柔らかいブルーのインク。

封を切ろうとして浮足立っている私自身に気づいて、途端に自己嫌悪に襲われた。

どういうことが書いてあるのか分からない。今までのエイミーの返事を思えば、返事の文章が私を傷つけるものではないことは予想できた。しかし、それは予想であり、封を切り、返事を確認するまで分からない。

もしかすれば、エイミーの予想や期待を裏切った私に対する厳しい言葉の数々が待っているかもしれない。そう思うと、封を切ろうとしていた手が止まる。

この返事は、家で読んでいいものではないような気がした。

私一人で読んでいい手紙ではなかった。きっと、森崎さんと一緒に読まないといけない手紙だ。
エイミーは、私が一人で返事を読むということを想定していないことだろう。私と森崎さんがしばらく顔を合わせていないこと、連絡を取り合っていないことまで書いてはいない。

この返事を機に、森崎さんに連絡を入れられるのにも拘らず、送れない。まだ向き合えなかった。向き合い、どういう言葉をかければいいのか分からなかった。

きっかけがあれば変われるように思えたが、きっかけの作り方が分からない。

言葉一つで作れると分かっているのに、どういう言葉を送ればいいのか分からない。

沢山の英語の文章を書いてきたのに、たった一つの送るべき日本語の言葉が分からない。

エイミーからの返事を家では読めず、しかしだからといって文芸部の部室に足を運んでも森崎さんの姿は見当たらない。

一緒に読もうと思っていた手紙は、部室の鍵と一緒に私の手の内にあった。

少し乾燥した部室。

窓を開けると、冷たい風が部屋を満たす。手を伸ばせば、葉の枯れた細い枝に指が届きそうだった。
木々の隙間からは下校中の生徒の姿が見え、部長や副部長の姿も見て取れた。少し後ろから、走ってくる森崎さんの姿も。

三人からの位置からでは私のことは見えないだろうが、三人は部室の位置は知っていて、見上げられそうだった。

手に力が籠もり、勢いよく窓を閉めた。胸が締め付けられて、窓に背を向け、崩れ落ちる。

部室の床に残った冷たい空気に、唇が震える。指先が震えるのも、手紙を持つ手が震えるのも、エイミーの返事が読めないのも、きっと寒さのせいだ。

私が部長の代理を務めるようになってからも、部室に足を運んでくれた森崎さん。エイミーを通じて、部活の楽しさを思い出させてくれた。そんな彼女も、今では他の子と同じように、下校している。

部長から任されたことを知っているのに、あの子は来ない。一体、私の何がいけないのだろうか。一体、私と部長で何が違うというのだろうか。

部長なら、こんな時、関係が悪化した相手にどういう言葉をかけるんだろうか。

きっと、素直に、ごめんね、と謝るのだろう。かつて、私にそうしたように。

私は何も謝ることを恐れているのではなかった。

謝ることができるのならば、すぐにでも謝りたかった。でも、向き合うのが怖かった。どういうことを言われるのか考えると、身体が竦む。逃げ出したくなる。

そうして、何度でも一人になる。一人になりたくなかったのに、私の心は好んで一人になりたがるようだった。

私は、一人になるのがお似合いなのだろうか。

ぐっと手に力が入り、丸まった返事を思い出す。

エイミーも、きっと一人だ。

手紙は、きっと、そういうもの。一人の人間が、一人の人間に向けて書く。

相手が、二人いるだとかそういうことは考えない。

一人の相手に向けて、書く。

一人の相手を思って、読む。

そう思うと、エイミーの返事が私にだけ向けられると分かって心が軽くなった。

一人ではない、と教えてくれるようだった。手を差し伸べられているようだった。

自然と、返事を開けた。

短い英文。ブルーのインクで丁寧に、気遣うように綴られた一文。

一行のエアメール。

 

――あなたを教えて

 

今更、何を彼女に教えればいいのだろう。

どのような顔で、どのような文章を書き、私を教えればいいんだろうか。私はエイミーと初対面ではない。でも、エイミーは私を初めて知って、知りたいと願っている。

書けることは色々あるはずなのに、どれも言葉として浮かぶだけで、文章にならない。

日本語の文章にならないなら、英語の文章なんて全然書けるはずがない。

この胸の苦しさは、折角送られてきた返事なのに、何をどう書けばいいのか分からない苦しさだ。
頬を流れる涙も、きっとそのせいだ。

でも、痛む胸は、不思議と温かで、緩やかな波が立ち、引き、ゆっくりと確かに満たされる。決して激しいものになることなく、静かに一定の間隔で揺れる。

その揺れに従うと、すっと落ち着いてくる。

返事は書けないけれど、ちゃんと日本語の文章になる。日本語の文章になるということは、後は英語に書き換えるだけで良い。

翻訳作業に慣れ親しんだわけではないのに、頭と手はすっかりその作業に慣れているようだった。でも、かつてのように返事が書けない。

森崎さんの手紙とは全然性質が違う。

エイミーが知りたいのは、日本のことでもアニメや漫画や小説や映画のことでもない。私のことを知りたがっている。

どう伝えればいいのか分からない。

今までなら、森崎さんがいて、こういうことを書きたい、こういうことを伝えたいと教えてくれて、私は英文に直すだけで済んだ。でも今は、私が一人で最後まで書かないといけない。

流れるように書いてきた返事が、書けない。

森崎さんが私に相談を持ちかけてきたのは、英文を書けなかったという理由だけではないような気がする。

誰かに相談すればきっと書けるかもしれない。そう思って、森崎さんは文芸部の部室のドアを開けた。そこに行けば、私がいると知っていたから。

きっと部長や副部長もいれば、返事はもっと豊かになったかもしれない。二人はもういない。けれど、その二人に文芸部を任された人ならばいる。

そう思って、森崎さんは文芸部に足を運んだのではないだろうか。

その思いに、私は最後まで応えられなかった。

私達の手紙のやり取りは永遠には続かない。スマホでメッセージを送り合うように気軽なものじゃない。終わりは訪れる。頭では分かっていることだけれど、その幕切れはあんなものじゃなかったはずだ。

そして、返事はいらない、と一方的に押し付けていいものじゃないはずだ。

私が返事が来たことに驚き、中身を読むまで不安に思い、本文を読み心を揺り動かされたのは、きっとエイミーも同じなはずだ。

返事がいらない、と書いたのが馬鹿みたいだ。

エイミーが返事を送らないと思っていたのだろうか。そこで、私達の関係は終わると思ったのだろうか。

顔も名前も知らない外国の女の子は、私が初めてではないのだ。森崎さんの近くにいて、森崎さんとは全然違う女の子。どういう女の子なのだろうか。考え、今までの返事を読み返し、読み返しても全然どのような女の子なのか想像できなくて、ペンを執った。

そう書けば、返事が来ると分かっているかのように。

なんだかエイミーの手のひらの上で踊らされているようで腹立たしく思ったけれど、決して不快では

なかった。むしろ、心地いい。軽くなった手が返事を綴る。

返事はいらないって書いたはずなのだけど、と前置きして。

今までの手紙と全然方向性が違い、難しいという小言が続く。教えられることは沢山ないこと。言い訳でもなんでもなく、自分のことをどう教えればいいのか分からない。

教えられることといえば、森崎さんがゲームや小説に費やした時間を英語や国語に費やしてきたこと。

森崎さんと比べて英語が少しだけできるから、返事を書くようになったこと。

そう森崎さんといえば、まだ連絡を取り合っているのだろうか。私の大学受験が近く、中々部室に来ないので、あなたと同じように文章でやり取りするしかないこと。気でも遣っているのだろうか。
返事を待っている。

私の初めての返事は、言い訳と嘘が並んだ文章になった。一つでも言葉を並べると後は流れるように文章になった。

こういうことを書き知らせる相手が、本当だったらエイミーではないことも薄っすらと分かった。

こういうことは、森崎さんに書くべきことなのではないだろうかと思う。

友達の友達を利用しているような気になって、それを悟られるのが嫌で、らしい理由を並べ立てる私自身も嫌だ。

でもそうしないと、森崎さんを心配しているということを伝えられそうになかった。原因が私だと伝えられないのは、もっと嫌だった。

こんなに近くにいるのに、サンフランシスコを経由することでしか、私は森崎さんのことを知れない。

今、私と森崎さんを繋げているのは、エイミー一人しかいない。

森崎さんがエイミーと連絡を取り合っているかどうかは分からないけれど、森崎さんは手紙以外にも連絡を取れる手段を持っていて、活用しても全然おかしくない。

私にエイミーのことを教える前から、メッセージのやり取りはあったのだから。

エイミーからの返事は、最初の時よりずっと早かった。私からの返事を待ちに待っていたように思えたけれど、エイミーからの返事を私も待っていた。

そうするのが当たり前のように、私は一人、文芸部の部室で返事を開ける。

英文は随分と砕けていて、所々読みにくい字もあり、辞書を引きながらではないと読めないところもある。辞書に乗っていない言葉は俗語の類だろうと判断し、スマホ片手に読み解くことにした。

 

みゆきがいないとそんな文章を書くなんて、驚いた。ママと一緒に読んで、びっくりというか……信じられない気持ちで一杯。先輩って思ったより、気難しそうな人? ってママも言っていたわ。私も思った。気難しいというか怖いというか怒っているというか……とにかく、怒らせると危ないんだなって。

今更こんなことを書くのは卑怯だと思うんだけど、最初のみゆきからの返事で誰かに教えてもらいながら書いたんだなっていうのは分かっていた。

メッセでやり取りする時の英文と全然違うから。みゆきからも教えてもらったしね、先輩と一緒に書いたって。私に手紙と本が届くより、先に、ね。ちょっとあの子、デリカシーっていうのがないんじゃない? 普通、書いてもらう? 英語苦手なのは分かるけれど……。

それから、先輩のことも。先輩と一緒に書いたって。先輩、すごくいい人で、嫌な顔一つしないで付き合ってくれて、返事も書いてくれて、すごいって。みゆきから教えてもらう先輩はすごくいい人なのに、実際の返事はこれ。

この温度差いったい、何?

みゆきの言っていた先輩って、あなたで合っている?

……訊くのも失礼かしら。私もみゆきと同じでデリカシーがない? どう受け止めるかは、先輩次第?

そういえば、みゆきが落ち込んでいるみたいなんだけど、何があったのか訊いても教えてくれないの。先輩、何か知ってる?

 

今までのエイミーの返事は、森崎さんが読むことを想定して書かれていたのだと分かった。

エイミーも私達と同じように、誰かに手伝ってもらっていたんだろう。伝わるように丁寧に。

森崎さんから手紙が送られた時、エイミーはどれほど喜び、焦り、悩んだのだろう。エイミーにとってしてみれば、きっと初めての経験だ。外国の友達に手紙を送ることなどは。失敗したくない気持ちは、よく分かる。

失敗すれば、きっと返事が送られてこないことが十二分に有り得る。

森崎さんとエイミーのやり取りは、きっとこんなに長く続かなかったことだろう。

森崎さんが本を送る時に手紙を書き、エイミーがお礼の手紙を書き、終わるはずだった。私が、その間に入ることなど、なかったはずだ。

けれど、今エイミーと手紙のやり取りをしているのは、私しかいない。本来なら、この手紙を書くのは、私だけじゃないのに。

返事を書く手が動かないのは、森崎さんとのことをどう書けばいいのか分からなかったからだ。

エイミーの返事に書かれている森崎さんの様子の原因が、私だということは、とてもじゃないが打ち明けられなかった。

エイミーのように、卑怯だけれど、と前置きして告白することはできないし、森崎さんのように正直に打ち明けることもできない。

森崎さんもエイミーも、私には持っていない勇気を持っていた。

それはもしかしたら、森崎さんもエイミーも直接合わないからこそ、文章でのみ連絡を取り合う関係

だからこそ、そういう勇気が得られているのではないだろうか。

ならば私も……とならないのは、私は森崎さんと会える距離にいるからだ。

その気になれば、すぐにでも会える。それほど近くに、私達は居る。

でも、一向に会える気配はない。

薄っぺらい言葉が、便箋に綴られる。

教えてくれてありがとう。悪いこと……友達との間で何かあったのかしら?

エイミーは何か訊いてない? でも、そこまで訊くのは、デリカシーのない人になっちゃう……?

エイミーが森崎さんから何か聞いてくれることを期待する一方で、エイミーが何も聞かないことを願っている。もし聞いてしまえば、何か言われるのは私。

あるいは、エイミー自身が責任を感じるかもしれない。二人の関係に亀裂を走らせてしまった要因でもある、といったふうに。

ただ分かっていることがあるとすれば、時間が解決するようなことではない。時間が経てば、私達の関係に走った亀裂は埋められ、元のような関係になるかといえば、そうはならない。

このままにしておけば、私は卒業し、市内にある私立大学に入学する。家から電車一本で通えるけれど、高校に通学する道順とは全然違う。

森崎さんと会おうと思えば全然会える距離だけれど、今のまま卒業を迎えれば、私達の心の距離は、ずっと遠くなってしまう。

元の関係に戻るのは難しいけれど、元の近しい関係には戻れるかもしれない。

残された時間は、私が思っているよりも多くないのかもしれない。

私と森崎さんを繋げているのはこの学校であり、文芸部であり、エイミーだった。

大学に入学してしまえば、森崎さんやエイミーと会う回数が減り、自然と消滅してしまうような関係だろう。そういうこともあった、と過去の出来事になる。

この胸の痛みも、そういうこともあった、という言葉にまとめられてしまうのだろうか。
森崎さんを傷つけたことも、そういうこともあった、という言葉にまとめてしまうのだろうか。
未来の私のことなんて、今の私には分からない。けれど、きっと、そういう言葉でまとめてしまう気配は、ある。

自分も傷ついて、他の人を傷つけたことを、そんな言葉でまとめる。

私は、ずるくて自分勝手な人間だから。

返事を待つ人のことも、送る人の気持ちも考えず、自分の感情を優先してしまう人間だから。

エイミーの覚えた温度差は、自分勝手な私が出た証拠のようだった。

森崎さんの前では、良き先輩であることができたのに。そういう先輩を演じていたわけではない。

そういう先輩になろうと、そういう部長であろうと努めてきた。

一人になると、難しい。

もっと丁寧な言葉で、一つ一つを教えられると思った。頭では、そう考えていた。

実際に書かれた文章は、読む人のことなんか考えていないような、自分の思いをぶつけるだけの、冷たいものだった。

このままじゃ、いけない。

いけないという気持ちだけが、ある。怒りにも似た、そんな気持ち。矛先が向いているのは、誰でもない私自身だ。

真っ白だった便箋が、少しずつ黒くなる。森崎さんが、エイミーに私をどう教えているのかは分からない。

あるいは、知りたくない。

森崎さんの瞳に映し出された私と、私の思っている私を比べるのが怖かった。

森崎さんの前では、まだ、良い人でありたいなどと浅ましくも思っている。

森崎さんには、まだ私のことを良い人だと思っておいてほしかった。

 

森崎さんに私はどう見えているのかしら? 森崎さんの言っていた先輩は、私。びっくりした?

森崎さんの言葉を聞いて書いていたから、文面も優しくなった。と、思う。

実際の私は、こんな感じ。

良い人、良い先輩なんかじゃない。

友達に怒ることもあるし、傷つけるし、良い人の要素なんてどこにもないのよ。

謝ることも、できていない。向き合うのが怖い。私に向き合うことなく、一方的に告げられた方が楽。でも、そんなことをされると、悲しいかな……。

今までの関係って一体何だったのかな、とか言いたいことも言えないし。言いたかったことも、沢山あるし。会う機会が減ってからも、言いたいことばかり増えていくの。

エイミーは、何か良い仲直りの方法とか知っている?

 

返事の途中から、森崎さんの影は見当たらない。羅列されたいくつもの言葉は、部長や副部長に向けたかった言葉だ。

私と部長達は、決して、仲直りしないといけない関係じゃない。

ただ、私だけが、勝手にそう思っているだけ。私がいつもと変わらないように声をかければ、向こうもいつもと変わらないように応じてくれる。

そんなこと、頭では十二分に分かっている。でも、私の心は揺れ動き、傷つけられ、裏切られたと思っている。

高校の三年間は永遠じゃないことは知っている。

部活だし、高校を卒業すれば、終わる関係だろう。あんなふうに唐突に突き放されていいわけじゃない。

私と部長達の関係は、夏休みを前にして断ち切られた。円満に終わると思っていたのだ、私は。
そもそも仲違いが起きたわけでも、言い合いになったわけでもない。ただ、私が、きっと私だけが、一方的に関係を切られたと思い込んでいるだけだ。

あの二人のように、なりたかった。自分の思いに正直になったり、友達に思いを伝えたかった。かつて私ができて、できてしまったがために、できなくなってしまったこと。

あの二人と私は違うのに比べてしまう。文芸部を託されたからというだけではなく、私の近くにいた友達だから。

エイミーの返事は、落胆のような色を見せていた。

真っ先に仲直りの方法について書かれ、直接会い、素直に謝るしかない、と書かれている。森崎さんへの返事と比べると素っ気ないけれど、方法としては確かだ。実行できるかどうかは分からないけれど。

私とエイミーのやり取りは、森崎さんの時と全然違う。アニメやゲームや漫画やライトノベルの感想を語り合う関係じゃない。

互いの言葉に共感し、言葉を続けるようなことはない。

ただ、互いの意見を書くだけ。長い手紙は少ない。

返事が届くのに一週間程度の時間を要するのに、私達はスマホでやり取りするような短い、感情的な言葉を書き綴った。

感情的な言葉で、森崎さんのことについても書かれると心を刺されるようだった。

何かあったのか、と心配するエイミーに、森崎さんは答えない。

エイミーだけがメッセージを送ることが多くなった。

誰が誰に何をしたのか、まで話さなくてもいい。ただ、森崎さんがどう思っているのか教えてほしい、と手を差し伸べると一つずつ教えてくれた。

メッセージが一つ、また一つと増えた。

森崎さん自身が悪いことをしてしまい、その関係は未だ修復できていないこと。

きっかけがあれば、と望むけれど、そのきっかけを二人共失ってしまったようで、このまま離れ離れになってしまう予感や想像ばかりしてしまう。

何かしなければいけないけれど、何をしても怖い。

森崎さんは、そんな胸の内をエイミーには打ち明けていた。

エイミーはそれ以上、踏み込むことはしなかった。話してくれてありがとう、と書いて何気ない日々のメッセージのやり取りに戻ろうと努めた。

もし、日本にいれば、森崎さんの側に居れば、何かできたのに、と悔しがるエイミーに、かける言葉は見つからなかった。

エイミーにできる精一杯のことは、きっとこれ以上ないだろう。

あるかもしれないが、きっとそれは、エイミーの言葉を借りるならばデリカシーのないことだろう。私との間に何かがあった? と訊くことは。

エイミーの推測の域を出ないかもしれない。しかし、あれほど仲良く手紙のやり取りをしていた二人が途端に手紙を送り合わなくなり、別の一人からしか返事が来なくなった。

何もなかった、と考える方が難しい。先輩が、と連絡を送っていた森崎さんから、その名前を聞かなくなったことも、何かあったと思わせるのに十分なことだろう。

訊けるかもしれない。

が、訊いた後、果たして元の関係のままでいられるだろうか。

そして、それからの森崎さんや私のことに、エイミーは関与できない。

エイミーは、サンフランシスコにいる。

エイミーと私達は海を越え、寄り添えたように思えたけれど、肝心な時に海が邪魔をする。

違う国に住んでいるという現実が、これ以上ないほどに私達の間に横たわっている。

何でもできるようで、何もできない。無力というのはこういうことなのだろう、と結ばれたいつかの

手紙を思い出す。

私の返事は冷めた現実を突きつけるだけのもので、きっと彼女を怒らせた。

仕方のないことだから、エイミーにできることもあればできないこともある。それはなにもエイミーに限ったことではなく、私も同じだということ。そんなことを書いた。

私には、私の……という言葉は二重線で取り消され、便箋は折りたたまれ、本棚の一角にしまわれた。

もう、私しか来ない部室。

推薦入試の合格通知を受けても、私は一人だ。

年の瀬を迎える前に雪が降っても、一人。

明日はみぞれになって、雨が降るらしい。

一人で、本を読み、返事を書く程度しか用のない部室。

エイミーに返事を書く時、この前はどんなことを書いたのか書こうとしたのか確認するため、草稿や返事が本棚の一角は占めるようになった。

書きかけの英文はいつしか束になり、辞書と本棚の隙間に置かれていた。随分と素直で質素な文章。
森崎さんと共に考えた文章とは違う。温もりが感じられない英文の数々。私らしいといえば、私らしいのかもしれない。

顔も知らない相手に送る英文だから、二重三重のフィルターがあるから、私らしい文章を書けるのだろうか。

なら……、と考え、もう一枚の便箋を広げる。

書き慣れた丁寧な英文は、私達の間には似合わないだろう。

エイミーに書くような長い英文では、手紙を読んだ相手には伝わらないだろう。

日本語で書くのが最適なのだけれど、日本語で書く勇気はない。

スマホで連絡を取り合えるし、会おうと思えば全然会える。

こんな方法を採るのは変わっている。でも、私達には、この伝え方が合っていた。

短い英文を添え、送る。

読まれるか分からなかったけれど、きっと読まれると信じて。

 

 

階段を駆け上がる。白い息が、我先にと廊下を流れる。胸が痛いほど弾むのは、きっと走っているからだろう。
私の手に、部室の鍵はなかった。

職員室で受け取ろうとしたのだけれど、もう持って行ったよ、と先生に教えられた。「部長が開けなくていいのか?」と訊かれた時、「いいんです」と笑ったが上手く笑えていただろうか。

部室のドアの前で、息を整える。落ち着こうと努めるけれど、胸はずっとうるさい。

ドアの向こうの誰かに聞こえてしまうのではないだろうか、と思うほど大きく早い。

何度目かの深呼吸の後、ドアを開ける。

暖房の効いていない冷たい部屋。

左右にある本棚。いつの間にか部室の真ん中に置かれるようになった数脚の机と椅子。その向こう側、窓の近くに、一人の女子生徒の姿が見える。

癖のある髪に眼鏡をかけた彼女。その手には、部室に置いてある便箋と同じもの。

優しく、握りつぶさないように持っている手が、震えている。

私を見て、彼女の目は大きく見開かれた。

部室は一人でいる時によりも、ずっと静かだった。紙をめくる音もペンが走る音も声も聞こえない。

「あの」

森崎さんが小さく、そんな言葉を口にして、私の肩が恐怖で震える。彼女の言葉を受け止める用意は、全然できていなかった。

続きは、いつまで待っても聞こえてこない。沈黙に耐えられなくなって、森崎さんに訊く。

「……読んだの?」

森崎さんは、私の問いにすぐに答えてくれた。

「一人で読んでほしい。一人で会いに来てほしい。話したいことがある」

その通りよと答えようとして、頬が濡れていることに気がついた。

森崎さんの姿もぼやけて、慌てて駆け寄ってくる彼女から逃げるように、両手で顔を覆う。

震える声で、謝る。堰を切ったように言葉が流れてくる。

「ごめんなさい……私、一人になりたくなかったの……また一人になっちゃいそうで。自分が関わっているのに、一人になりそうだから……。あんな思い、もうしたくないの。だから、だから……ごめんなさい。私……」

森崎さんの冷えた手が、私の手を取る。

それだけで、心が軽くなる。優しく、教えてくれる。

「私も、一人になるのは嫌です。怖いです。誰か居てほしいって思います。先輩がこの文芸部に居てくれてよかったです。先輩が部長を引き継いでくれて、良かったです。そうじゃなかったら、私、一つ居場所を失っていたかもしれません。だから……」

森崎さんの言葉は続かない。私は肩で息を繰り返し、涙で濡れた目で続きを乞う。潤んだ瞳で見つめ合う。

「だから……?」

一瞬間の沈黙の後、森崎さんが言う。

「また、一緒に返事を書きませんか?」

「誰に?」

「エイミーに、です。先輩、知ってますか? エイミー、今年の春から留学するんですよ」

「一人で?」

「はい、一人で」

「日本に?」

「そうなんです。カルチャー体験がしたいって言ってました」

そう言って笑った森崎さんは、続ける。

「だから二人で返事を書いてほしいって。現地での友達は多い方が良いに決まってるんだからって」

私達はかつてのように机を囲み、笑い合いながら、この春に日本を訪れるエイミーのために二人で返事を書くのだった。

〈了〉


 

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