エチュードを弾くために

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「エチュードを弾くために」

東京・赤坂に位置する丸岡病院は、病院と呼ぶには明るく、広く、静かだった。高い天井は他の病院と同じように白いが、廊下やロビーは他の病院と違い木目調のブラウンで統一されている。広い家に来てしまったと勘違いさせるのは、きっと、ロビーの真ん中に置かれてているグランドピアノのせいだろう。

ピアノ調律師として働く安井は今回の依頼を受けると決めた時から、独立してからは着ないだろうと思っていたグレーのパンツスーツを選んだが、間違った選択ではなかったと自らを鼓舞する。それでも、自分がこの病院に足を運んでいることの違和感を拭えない。どこか自分の身体が悪ければ病院を訪れるのは当然なのだけれど、今日はそういう事情ではない。きっとこの違和感は、久し振りに会う昔の友達が医師として働いているからだろう。そう思うことにした。

低いヒールを鳴らして受付で院長からピアノの依頼を受けて伺った旨を伝えると、応接室へと案内される。

応接室も明るく広い。中央にソファとテーブルがセットで置かれ、壁には何枚もの絵画が飾ってある。安井はここへ通されても、病院というよりも、広く明るい家のピアノの調律に来たという感覚が強かった。

ドアをノックされ、依頼者が姿を見せた。テレビで度々見かけた白衣ではない依頼者が。

ライトブルーのスカートスーツに身を包むその姿は、やはりここが病院であることに違和感を覚える。ダークブラウンの髪をショートカットにした色が白い顔。眼鏡越しに安井を見たかと思えば、無愛想に近しい声で問う。

「……痩せた?」

安井の遠い記憶の中に眠っていた丸岡も、いつもこんな調子だった。体温すら低そうな、無遠慮な声音。冷ややかなで凛とした声。

丸岡は答えを待つことなく、安井の前へと座る。

安井はどう答えようかと迷ったのを誤魔化すように茶を口に含む。すると丸岡の一言も胸の内に落ちてきて、段々と頬に苦笑が広がってくる。その一言は、どういう心境から発せられたものなのだろうか。医者としての立場か、それとも友達と何十年振りに再会した感想か。

「いつと比べてるんですか?」

「二十二年前」

安井が探りを入れると、丸岡は随分と昔のことを思い出していたらしい。

安井の口調はその時分に合わせたように砕けた調子になった。しかし、二十年という歳月は二人をそれほど昔のように戻さなかった。

「そんな昔のこと、よく覚えてるわね」

最後にあったのは、高校の卒業式だっただろうか。安井ははっきりと覚えていないが、丸岡が具体的な年数で答えているのならば、あの日以来なのだろう。

安井にとってしてみれば、丸岡と別の道を歩んでからの日々は辛く、苦しい連続の始まりだった。安井はピアノを続けるためにも音大へと進学し、丸岡はピアノを辞めて医科大へと進学した。

安井は記憶に蓋をするように、仕事の話を口にする。

「それで、依頼とは?」

丸岡は持っていた書類を安井の方へと滑らせる。

「あなたも見たと思うし、メールでも書いたと思うけど、ロビーにあるピアノを修理してほしいのよ」

「どんなふうにですか?」

「正しく音が鳴れば、それで良いわ」

安井に渡された書類も丸岡に返答も、どちらも事前にメールで確認していたものと大差はない。すぐに修理に取り掛かることもできるし、すぐに終わる作業だった。しかし、安井は席を立つことなく、書類に書かれているピアノの情報を睨むように見て、メールの文面も思い出していた。

ベーゼンドルファー・インペリアル。至福の音色を奏でるグランドピアノ。修理したことは前職時代にある。音が整っているか確認した程度で演奏したことはないが。

普通のピアノと比べて、鍵盤の数が多く、端の鍵盤が黒く塗られた外観。柔らかな木を思わせる音色。ピアニストならば、一度は弾いてみたいと思うもの。同時にピアニスト泣かせでもあるもの。

そんな高価なピアノが病院にある。寄贈されたということは文書で教えてもらったが、安井に依頼された理由が分からない。

丸岡が、昔の縁や友情などというものを大切にする人間ではないだろう。冷たい声が常なこと女は、体温も低く、情にも薄い。あれほど打ち込んだピアノを高校卒業と同時に辞めたのだから。ピアノを始めたいと言った時から、そういう運命だったらしい。両親共に医者として働く家庭に生まれた宿命よ、と言った丸岡を思い出す。

情には薄い女であるが、昔を懐かしむ感覚は持っている。

となれば、一つ訊くことがあれば、二つ、三つと続くことは目に見えている。別々の大学を歩んだ日々の話まで戻るのは明らかだった。

安井の視線はいつの間にか何か答えを求めるように丸岡の唇へと移っていた。派手ではない落ち着いた色合いの唇へと。

丸岡は口元に注がれた視線を振り払うようにそっと指を添える。

「製造元とか販売会社に連絡しても良かったんだけど、あなたが独立したって聞いたから」

「独立したのは随分前よ」

「前であろうとなかろうと、仕事はあった方が良いでしょう?」

「それで、私に?」

何かを言いたげな安井に、丸岡は一層冷たい声で応じる。

「そうよ、何、不満?」

「不満じゃないけど……」

「そう? その割には、何か聞き足りないことがあるって声じゃない。それとも、何、調律師を変えてもいいっていう言葉は嘘なのかしら?」

「それは本当よ」

「じゃ、何が不満ってわけ?」

丸岡は形の良い眉を釣り上げ、矢継ぎ早に問う。自分の思い通りに事が進んでいない時の調子。安井は怯えることなく、口元に浮かび上がってきた得意げな微笑みを隠すように湯呑みを運ぶ。

昔、よく聞いた声。分からない時に、かっとなる。

丸岡と安井は、音楽教室で知り合った。安井の家にはピアノがあり、両親から教わることもあった。ピアノを弾く安井に人とは違う何かしらの才能を感じ取った時、親と娘という関係は確実に崩れた。人より物覚えが良かったり、耳が良かったり、身体が大きかったり、指が長かったり……。そういう可能性が、両親を別の何かに変えてしまった。

両親が安井の才能に気づいて教室に通わせてから、安井も自らのピアノの才能にようやく気づいた。というよりも、上手にピアノを弾く丸岡のお陰で気づかされた。丸岡にはできないことが、安井の指と頭には可能だった。

譜面を正確に追いかけ、機械のように弾くことは誰にも負けない。コンクールで優秀な成績を残すのは、いつも安井だった。

だから、丸岡は安井の前では二番目の女だった。二番目の奏者だった。

それでも高校を卒業するまで丸岡はピアノを続けたのは、素直に凄いと思っている。高校までピアノを続けたのは、自分が安井より上手くないことを受け入れるのに要した時間、と言い換えても良いのかもしれない。そう思っていたのは安井だけで、丸岡にとってピアノは高校を卒業するまでに続ける趣味の一つでしかなかったが。

安井は過去を懐かしむのをやめ、本題へと戻る。

丸岡も昔はピアノを弾いていた身であれば、ロビーに置かれているピアノが普通とは違うことは知っているだろう。そういうピアノを、ただ正確な音が出せるだけでいい、と調律してしまうのはどうなのだろうか。

長いようで短かった沈黙を、安井は毅然とした調子で破った。

「飾っておくだけじゃもったいないわ」

丸岡はそんなことを心配していたのか、と言いたげに笑って言う。

「クリスマスとか活躍するわよ」

「他には?」

「それくらい」

「あなたは弾かないの?」

安井が問い掛けると、眼鏡の奥の瞳が微かに揺れた。

「弾けるでしょ」

もし丸岡がまだピアノを弾いているのならば、丸岡の指に合うように調律しようと思っていた。そんな期待を有していた。高校を卒業してから一度もピアノを弾いていないような彼女を前にして。

丸岡は体温の低い、冷たい声で言い切った。声と何一つ変わらない冷たい表情。

「私は忙しいのよ」

予想していた返答に安井は零れそうになったため息を、ぐっと呑み込みんだ。

そうやって弾かれなくなったピアノを、安井は何台も見ている。調律師としての立場上、修理できるピアノがあることは良いことだが、ピアノを弾き続けた人間として思うところはある。

ここのロビーにあるピアノは独特な構造をしており、本来の音色を奏でるためには定期的に弾く必要がある。週に一度、一年以上かけてメンテナンスを続ければ、本来の柔らかく深い音色が奏でられるかもしれない。それに湿度や温度に弱い。病院という環境上、一定に保たれているかもしれないが。

ここのロビーに置かれているピアノは、そういうピアノなのだ。それが一年に一度程度しか弾かれないのは、一人の奏者として頭痛を覚える。

いつの間にか眉間に寄っていた皺を指でさすり、安井は改めてロビーのピアノについて説明した。丸岡は過去に何度か説明を受けて聞き飽きたように適当に相槌を打つ。安井の説明を聞き終えると、丸岡は、だったら、と前置きして、

「あなたが定期的に弾きにきてちょうだい。それで解決。修理の一環。あなたの好きなようにやっていいわよ。あなたが一番弾くんだから」

と、安井の都合を考えていない一言でまとめた。安井は何か言うよりも早く、一週間のスケジュールを思い返したが、ピアノを弾くのを断るのに便利な予定はない。一年継続した仕事が依頼されるのは有り難い。しかし、釈然としない。

「調律師の中には、ピアノが弾けない人だっているのよ」

そんな弁明が意味をなさないことは、安井自身がよく知っていた。

ピアノを修理するのとピアノを弾く能力は違う。音の違いが分かればいい調律師と譜面を追いかけて曲を奏でる奏者は違う。機械のように譜面を追いかけ、優等生のようにピアノを弾くのと、芸術的に弾くのとでは違う。ピアニストに求められるそんな芸術的な演奏だ。

もし安井がそういうふうにピアノが弾けるのならば、こういう職に就かなかっただろうし、ピアノ科から調律科に転科しなかっただろうし、もしかすれば大学院に進学し、一層ピアノに打ち込んだかもしれない。しかし、そういうことを、丸岡は知らない。きっと、ずっと昔の、自分より唯一ピアノが上手い安井のままかもしれない。

丸岡は安井の説明を受けても、だから何と言いたげに

「何人か見たわ」

と淡々した調子で片付ける。その冷たげな目が、わずかに火が灯ったと感じさせたのは安井の見間違いではないだろう。でもあなたは違うでしょう、と語る瞳。苦渋を舐めさせられ続けたかつての日々を復讐するような熱。

安井は多くの過去を思い出しながら、疲れ切ったように溜め息を吐いた。最悪、という言葉も零れた。丸岡は安井の言葉が聞こえなかったように綺麗な笑顔を浮かべて、言う。

「久し振りね、あなたのピアノを聞くのは」

広いロビーの真ん中。安井はかつて何度もそうしたようにピアノの前に座る。安井は鍵盤の蓋を開けながら、ロビーに並ぶ椅子の最前列に座る丸岡に怪訝な視線を送る。

「……忙しいんじゃないの?」

「空けてあるの」

どうしてとか何時までとかいう疑問は安井の口から零れることはなく、そ、という極々短い音が零れた。丸岡は安井の指が鍵盤から動く気配がないことに勘づいたのか、意外ね、と呟き、そっと提案される。

「後ろ向いた方が良い?」

「見てていいわよ」

「その割には手が動いてないようだけれど? 見られていると仕事ができないタイプになった? 顔色一つ変えずにコンクールで弾けるのに?」

怒らないでいいじゃないと伝えたところで、怒ってないわよ、と言い返されるだけだろう。安井は指先で撫でるように鍵盤に触れ、丸岡の感情を落ち着かせようとする。

「……考えることが多いだけよ」

「音を確かめる前から?」

「そうよ」

安井は簡素に答えて、丸岡に背中を押されたのかピアノの音を確認する。慣れた手つきで一通りの音色を確認する。音程に変化は見られないが、全体的に固く歪んだ音を発せられるのが分かる。痩せた不自然な響きが、ロビーを滑る。中高音の響きに普段調律するピアノとの違いを覚えるのは、このピアノが低い音を奏でるのに秀でているからだろうか。

タッチも悪くないように思えるが、極々僅かな遅れを、安井の指先と耳は感じ取っていた。

安井は丸岡を気にかけることなく、弦の張りを調整し、音を整えていく。ネジの調整をし、タッチも整える。そういう作業を繰り返していく最中、安井は手を止め、念の押すように丸岡に訊く。

「本当に私の好きなようにしていいのね?」

「言ったでしょう? あなたが一番弾くんだから。あなたがやりやすいようにしていいわ」

安井は丸岡に答える代わりに、数音鳴らしてみた。音の歪みは整えられ、丸い響きが蘇る。タッチの違和感もない。ピアノ調律師としての仕事は終えたように思うのだが、このピアノには奏者という決定的に欠けているものがある。

丸岡は安井の好きなように調整すればいいと言うが、安井は奏者として致命的なものを有していない。

安井の演奏するピアノには、個性というものがない。安井のピアノは水のように流れるばかりで、聞き手の心には何も残らないピアノだった。表現力がない、と言われたのは音大の先生だったか、同じように課題曲を弾いていた友達だったか。

安井の演奏するピアノは確かに上手いものであった。ピアノ科に在籍している間も、安井のピアノの上手さは評価に値した。しかし、それだけ。

安井の演奏は無色透明で形のない、聞き手が演奏を味わおうとすれば途端に形を失う、あまりに脆い。

上手にピアノは弾けるが、人に聞かせる値しない演奏。

それが、安井がピアノ科に在籍している間に得た自らの演奏の結論だった。

安井よりも個性的で芸術的で、上手い奏者は、安井の周りに多くいる。音大というのは、そういう場所だった。

音大を中退することも考えたが、安井の人生とピアノはもう切っても切れない関係にあった。両親の猛反対を受けたのも大きかった。何のためにピアノを続けさせたのか分からない。何のために音大に進学させたのか分からない、と。

安井には、ピアノしかなかった。

奏者としてピアノを引くことはなくても、ピアノを修理し調整する者がおり、奏者のために必要不可欠と周りに諭され、安井は転科に留まった。

つまり安井は、奏者ではない。

しかし丸岡はそんな安井の事情など知らない。話す暇など、二人の間にはなかった。

病院という場に置いてあるのだから、誰でも弾きやすいように調整しようと思っていた。そういうふうに調整しても丸岡はきっと気づかないだろう。これから予定されている週一回のメンテナンスもそういうピアノを弾くだけ。それで良い。それが良い。

そう思っている一方で、それではいけないと思っている安井自身がいる。安井は湧き上がっている身勝手なような自意識を押し殺して、ピアノの調律を終えた。

安井はもう、ピアノを弾かない。そう決めて、この道を歩んだ。

安井は、鍵盤の蓋を閉じた。

「終わったの?」

「えぇ、後は毎週来て弾いてあげるわ」

「何か弾いてくれないの?」

二十二年振りの再会は、丸岡を昔に戻したようだった。ひんやりとした声は、自分より上手い演奏を耳にして何かを得ようとしている女子高生時分のそれだった。あの時の丸井は安岡の頼みを断ることなく、弾いた。全然違うのね、と怒りを滲ませることもあれば、堪えるように口元だけを強張らせる彼女を見ていたかったから。

今の安井は、もうそれほどまでに幼くなかった。

「来週のリクエスト?」

「今よ。試しに弾いてくれない? いるわよ、弾いてくれる人」

「そういうサービスはやってないの」

突き放すような言葉だと、安井自身も感じた。丸岡の冷めたような眼差しが凛と揺れた。

何故、どうして、本当にやめたのか、と訊かないのは丸岡の優しさであろうか。あるいは、動揺の渦中でそういう言葉を紡ぐ余裕すらないのか。白い眉間にはしわ一つ寄らない。怒っているわけではないらしい。

二人の間にどこか張り詰めた沈黙が満ちる。丸岡は何か言葉を探しているのか、目を閉じ、高い天井を仰ぐ。

柔らかな照明が降り注ぐ病院は、やはり広く、明るい。時の流れを曖昧に思わせるほどに。安井は、丸岡に時間は大丈夫なのか、と訊くような真似はしなかった。また来週に会いましょう、と言うこともなかった。

丸岡が気持ちの整理ができるのを待った。彼女がそういう切り替えが早いことを知っていたから。

丸岡の思い描いた安井像は、きっと最後に違う道を歩み始めた時と変わっていない。安井の思い描く丸岡も、その時と変わっていない。しかし、丸岡は丸岡だった。

ピアノをやめて、医学部に合格し、医師として働く。思っていた通りの人生を歩んでいる彼女。

だから、丸岡が次の言葉を発するまでかかる時間が短いことは知っていた。

丸岡の顔は、まだ天井を仰いでいて、見えない。

「酷い依頼だと思う?」

冷たい声が降ってくる。

安井は閉じた蓋を見つめ、微笑するように答えた。

「思わないわ」

丸岡の視線が天井から安井の顔へと移る。眼鏡の奥の瞳は、かつて安井がピアノをやめると丸岡に聞かれた時と同じような困惑な調子で色づいている。

「……私、あなたはピアノを弾き続けると思っていたの」

その言葉も、安井が丸岡に向けた言葉だった。だから安井の返事も、丸岡が常としている体温の低い、無愛想な冷たいものになった。

「毎年、やめる人はいるじゃない。今回は、私がその一人になっただけよ」

安井が激昂した時のように丸岡も感情的になると思った。そんな理由でやめなくてもいいじゃない、と叫んだ昔の安井のように。

「お疲れ様、過酷な世界にいたのね」

丸岡の品の良い唇から零れた言葉は、同情に濡れていた。迷いを一切感じさせない言葉。患者に何か説明する時も、こんなふうに話すのだろうと想像がつく。

眼鏡の向こうに輝く瞳からは困惑の色が消えていて、憐れむような色を帯びている。

安井は言葉に詰まった。否定する言葉も、昔のことよと自嘲できたはずなのだが、安井は何も言い返すことなく、丸岡を見つめる。目頭が熱くなる。

安井がそういう言葉をかけてほしかった時、安井の周りはピアノを続けることを強いた。あるいは、安井の空いた席を喜んだ。環境を変えざるを得なかった安井は新しいことを覚えることに精一杯で、自らを労う余裕はなかった。

そうやって、今の今まで生きてきた。ピアノを弾くことをやめた、と思えないまま。

丸岡のように、きっぱりと決別できたわけではない。丸岡のように決別できれば、真新しい気持ちでピアノに向き合える時があったのかもしれない。しかし、安井はそういう状況にいなかった。

今になってはじめて労いの言葉をかけられ、ようやくピアノをやめたのだと実感した。

「あなたほど過酷じゃなかった……」

安井の強がりのような反抗は、

「比べる必要はないのよ、そんな別世界のこと」

優しい言葉でまとめられた。

それから短い沈黙があり、そろそろ仕事に戻るわ、と丸岡は呟き、立ち上がる。丸岡の靴音が遠くなる。立ち止まったかと思えば、するりとした冷たい声で来週のことを話す。

「弾きたかったら弾きにきて。息抜きでもいいから」

仕事として依頼されたのだから安井は来週もここに来る予定だった。そうして何か、丸岡からリクエストされた曲を弾く予定だった。

が、そういう答えを求められているわけではないことは分かる。去っていく背中を呼び止めるように、安井は訊く。

「あなたも弾く? 息抜きに」

足音は止まり、返事が返ってくる。

「エチュードからでも良かったら弾くわ」

「良いわよ、エチュードで。弾いて安定させないといけないから」

嘘でしょ、という動揺した言葉は随分と遠いところから聞こえてきた。

翌週、安井は再び、丸岡病院に足を運んだ。先週調律したピアノが安定した音色にさせるためには、定期的に弾く必要があったから。嫌な気持ちはなかった。受付で用件を話すと、ロビーの中心にあるピアノへ向かう。

見知った顔が、不思議と不機嫌そうな表情を露わにして、ピアノの前にいる。白衣を畳んで椅子に置き、先週とはまた色の違う明るいグレーのスカートスーツを着た女医。安井は丸岡の眉間に刻まれたしわに気づいていないような調子で問う。

「忙しくないの?」

丸岡は眼鏡を外し、眉間のしわを揉みながら答える。夏に聞けば心地良いであろう体温の低さを感じられる冷たい声。

「忙しいわよ。でも、だからといって断るのは違うでしょ」

「真面目なのね」

「あなたこそ、急な依頼が入ったからって断っても良かったのよ」

「ダブルブッキングはしないわ」

そんなこと話しながら、安井はピアノの前に座る。すぐに抗議の声が飛んでくる。

「ちょっと、あなたから弾くの?」

「ええ、調律師として最初に弾かないと分からないでしょう?」

安井はそれ以上、丸岡の抗議を受け付けないと言いたげに、鍵盤の蓋を開け、エチュードを弾き始めた。〈了〉


 

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