白い指

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「白い指」

 

旅館の屋根を叩き続ける雨は、朝と比べると幾分か優しくなった気配を見せた。が、それでも絶え間なく降り続け、屋根から雨樋へ流れる。

細い音を追い掛けるように調子良く滑っていた万年筆が止まる。雨音を裂くように書いていた文字の上に二度、縦に線を引く。

新山は原稿用紙から顔を離し、戸の向こうを睨む。

一階から駆け登ってくる足音が二つ。階段を登り終えると、足音はまだ滞在している客のことを思い出したのか、慎ましい運びに変わった。それでもすぐに、掃除機をかける音や宿泊客について盛り上がる声が、漏れ出てくる。

話し声が遠くなると、今度はバスの走行音が山の下から響いてくる。水溜りの上を駆け、飛沫が波のように部屋に襲いかかる。驚いたように野鳥が飛び立つ。静まったかと思えば、雨の音が這い寄るように続く。

新山は戸を睨むのをやめ、大きな溜息を吐いた。四畳半の小さな和室に低く響く。

二重線で潰れた文字を追いかけるが、どうも良くない。昨夜に書いた原稿用紙は、部屋の隅で丸められている。広げてみると、同じように二重線が引かれているが、先程のと比べてみると良いように思えた。一昨日の原稿用紙を広げてみると、やはり同じように二重線が見えるが、どの原稿用紙に綴られた言葉よりも、良いように思える。

唸り声を上げ、見比べ続けると、結局どれもまずいような感覚に襲われ、先程まで書いていた原稿用紙と共に丸めてゴミ箱の方へ投げた。軽い音が三つ四つ、部屋を賑やかせた。インクが指先に触れ、青く汚れる。

編集者の木村本人から、故郷をムック雑誌として取り上げるので、原稿を書いてほしい、と依頼され何日が過ぎただろう。

単行本の原稿は落ち着き、抱えている原稿が多くなかったので引き受けたが、取材のために木村の生まれ育った地に足を運び、数日滞在し、後悔の念が止めどなく湧き上がってくる。

原稿は全く書き上がる兆しを見せない。滞在初日に書いた幾つかの言葉を、ずっと書き直し続けている。

今からでも断れないだろうか、と時々圏外になる携帯電話に手が伸びたのは一度や二度でない。その都度、ありがとうございます、と頭を下げた木村の姿が脳裏をよぎる。書けないので別の方に、と連絡を入れてしまえば、木村の期待を裏切ってしまう。新山ならば、と思って木村は依頼した。その期待を裏切ってしまって良いのだろうか。

まだ、締め切りまで猶予はある。何か一つ書ければ、良いのである。

外に出て気分転換を図れれば良いのだが、窓の向こうには重たい雨雲と山しか見えない。宿の庭に植えられた楓はすっかり紅葉していたようだが、連日の雨を受け、いずれも葉を散らしていた。一階にある貸切露天風呂に浸かって考えてみたりもしたが、何も浮かんでこない。

横になり、低い天井を見上げ、雨音に耳を傾ける時間が増える。次第に眠気が押し寄せ、そのまま幾許かの眠りに落ちた。

不意に目覚めたのは、部屋がひっそりとしていたからである。新山の部屋だけがそうなのかと思い、耳を澄ませてみると、物音一つ聞こえてこない。宿自体が眠りに就いているようだった。

夢の中にいるような、不思議な浮遊感に包まれていたが、指先に触れる硬い畳や天井に吊られている照明、部屋の所々に転がる原稿用紙が、現実だと知らしめる。

ぼんやりとしていると、山道を走るバスの音と飛沫の音が、部屋に響き渡った。野鳥の羽ばたきが続く。

辺りは、しんとした。

あれほど降り続いていた雨の音は、全く聞こえない。

宿を飛び出すと、湿った空気に包まれる。音を立てないほどの微かな雨が、髪に触れた。傘を取りに戻ることなく、歩き続ける。初めてこの地を訪れた時と同じように、期待に満ちた歩調だった。

宿の周りは山に囲まれており、いずれも霧が立ち込め、冷たい風を、湿った空気の中に潜ませる。霧は、暗い雲との境界線を失わせ、まるでこの地を、他の地域との交流を絶たせるかのようであった。
時々、バスが川沿いの通りを下るが、運転手以外の姿は見えない。バスの後ろを少し追いかけてみたが、トンネルへと吸い込まれすぐに見えなくなった。

雨はいつの間にかやんでいた。野鳥の囀りも人の声も聞こえない。新山の息遣いだけが、山や雲に吸い込まれるようだった。

こんな地のムック雑誌など、誰が手に取るのだろうか。企画を考えたのは、おそらく木村であり、依頼原稿の話が作家まで届いているということは、編集の人間はこの企画に売れる可能性を見出している。あるいは、あの作家が寄稿してくれるのならば売れる、と考えているのだろうか。

どちらであれ、新山に課せられた依頼原稿は、新山自身が思っているよりも大きな意味を持つ。新山の原稿を読んで、この地に足を運ばせるような。多くを語らなかった木村だが、そんな話が求められているのではないだろうか。

新山はこの地について詳しくない。紀行文やエッセイという類では、読者の足を動かすほどのものは書けない。本当にそうなのだろうか、と読者の足を動かすような、その地に趣き見てみたいと思わせるような物語が、新山の依頼原稿に求められている役目だろう。

通りの下から、白い霧と雲の中から、一人の女が登ってくるのが見えた。

大きな黒い傘を、顔が隠れるほど深く傾けている。傘の柄を持つ指はレースの黒い手袋に包まれ、腕もカバーをつけている。首には大判のストールを巻き、足元は裾の長い黒いスカートが花のように開き、ブーツの先まで隠せてしまいそうだった。

雨がやんでいることに気づいていないのだろうか。声をかけようとしたが、その装いに現実感を見出せず、新山はその場で固まってしまった。

新山と同じような旅行者であろうか。それとも、どこかの宿の従業員だろうか。それとも、近くに住んでいる者だろうか。あるいは、もっと別の者なのだろうか。

女は新山に見向きもせず、近付いてくる。まるで新山の姿が見えていないかのように。全身を黒で包んだ女は、霧に包まれたこの場では驚くほどに印象的で、現実的だった。声をかけなければ、霧が晴れると共に消えてなくなってしまいそうな幻のようでもあった。

新山はその存在を確かめるように、女が隣を通り過ぎる間際にようやく、

「やんでますよ、雨」

と、平静を努めて声をかけられた。女は、足を止めた。

すぐ隣、傘の向こうから、高く澄んだ声が聞こえたような気がした。瞬間、新山の鼓動は大きく跳ね上がった。

大きな傘が僅かに傾いた。まず見えたのは、目深に被ったつばの広い帽子。帽子も微かに動きを見せた。顔の大部分は色の濃いサングラスに隠れ、瞳も眉も見えない。口元も大きなマスクで覆われ、頬もほとんど見えない。マスクとサングラスの隙間から辛うじて覗ける程度の肌は、帽子や傘の影に隠れているが、人間の血が通っているとは思えないほどに白いのは、はっきりと見て取れた。

跳ね上がった鼓動がそのまま喉から驚嘆の音を零しそうになり、慌てて飲み込む。ごくり、と音が鳴ったのは新山の喉からだった。

サングラスの奥にあるのであろう瞳が、新山を見上げたような気がした。疑うような視線が新山の全身を走った後、木々や道路に落ちた。

「いいんです、これで」

女の返答は短く、冷ややかなものだった。しかし、十分に人の温もりを感じさせる言葉だった。

女は傘を閉じることなく、歩き出す。ゆっくりと、それでも確かに遠退いていく後ろ姿。新山はその背中を追いかけることなく、ただ眺めていた。水溜りを避け、落葉した楓を踏んだその足取りを。

そんな姿を認めると、新山の胸には、ある種当然といえるような安堵が瞬く間に溢れてきた。

山の向こうに棚引く雲は、少し薄くなり、その奥に隠れている陽の光の存在を明らかにしていた。一筋の光が辺りに降り注ぐ。山を覆っていた霧は晴れ、川面や水溜りは輝く。それでも、四方は雨の時と何一つ変わらず、静まり返っている。

女の姿は随分と遠く、宿が立ち並ぶ通りの中にあった。彼女の纏う黒が、陽の光を受け一段と濃くなり、新山の心に焼き付いた。

 

 

 

雨は新山の原稿が進む度に東へと流れた。東京へ帰る頃になると、もう、日本のどこにもその姿は見当たらなくなった。

行き詰まっていた依頼原稿は、ノスタルジックな恋愛小説となり、締め切りを破ることなく木村の手に渡りそうである。帰りの新幹線の中で何度か読み返してみると、木村の想定していたムック雑誌の内容と合っているのか分からなくなり、駅の近くの喫茶店で確認してもらうことにした。幸い締め切りまではまだ日数がある。もし書き直す必要があるならば……。

折り目の正しいスーツに身を包む木村は、ムック雑誌の編集で忙しいのか少し細くなった印象を懐かせた。老眼鏡の奥の瞳や顔には疲労の色が浮かんでいる。書き上げたばかりの手書き原稿を見せると、その疲労の色は少し和らぎ、声に柔らかな張りが宿る。

「手書きですか……珍しいですね」

「パソコンを持って行っても良かったんですが、色々と邪魔になってしまいそうでしたので」

木村が原稿に目を通している間、手持ち無沙汰になった新山はサンドイッチを頼み、木村の第一声を待つ。辛子が多いとメニューには書かれていたが、辛みはあまり感じない。

読まれているこの瞬間は、いつになっても緊張から逃げられない。

普段ならばメールでのやり取りとなり言葉しか返ってこない。今は木村が目の前に座っている。読み終えた表情や第一声から、合わないであろうという胸の内を読み取れてしまう可能性かある。

新幹線の中で何度も繰り返した自問自答が蘇る。もしムック雑誌の合わないのであれば、書き直さなければならない。日数的に余裕はある。新幹線の中で考えなかった答えを導く。締め切りまでに書けるかと自問してみると、怪しい。何を書くのが適切なのであろうか。物語が適切ではないというのだろうか。あるいは、恋愛という部分がそぐわないのだろうか。あるいは……。

「ありがとうございます。これで何とかなりそうです」

自分の考えに首を絞められそうになっていた新山を救ったのは、木村のほっとした息と共に零れた感謝の言葉だった。その顔には安堵の色が浮かんでおり、新山の口は自然と謝罪の言葉を述べていた。

「進捗の報告をしようとしたんですがね。圏外になることが多くて」

「先生が取材に行かれるのは事前に知っておりましたので……大変だったでしょう?」

「いや、まぁ……」

苦々しい顔で笑うと、木村も同じような顔で笑った。東京からは随分と遠かった。真昼の新幹線に乗り三時間、それから在来線とバスを乗り継ぎ数時間。あの宿に着いたのは、日が傾き、村全体が黄昏の内に眠る頃だった。

取材旅行に行くことを木村に話した時、止めませんが、と言われた理由が分かった。そこからの日々は、何も心揺られるものがなく大いに困った。

「何もなかったでしょう?」

「紅葉と温泉は良かったですよ」

「まだ色付いてましたか?」

「ええ、露天風呂に辛うじて……」

「良い時期でしたね。でも、他の時期は何もありませんよ。静かで、不自由な所です」

木村の顔に自嘲めたいものが浮かんでいたかと思うと、故郷を懐かしむ哀愁の色も帯びていた。東京に生まれ育ち、暮らしている新山にとって、その感情を味わうことは難しかった。その村について話す木村の言葉は、どれも悲観的なものであったが、その顔に常に哀愁が漂っていた。

新山は生まれてから一度も帰省というものをしたことがない。両親も祖父母も、東京で生活している。長い休みを取る必要もなく、帰りたい時に帰ることができる。

生まれ育った東京は変化を続け、少しずつではあるが新山の育った場所は見る影を失っているが、木村の言うような不自由を覚えた記憶はない。同時に、木村の心に現れる哀愁を感じたこともなかった。

「それで、東京に出てきたんですか?」

「そうです。あそこで一生を終えるより、東京に出てきて何かしたかったんです」

「何か……?」

「東京は、選べます。どこに住むか、何をするか、誰と仕事をするか。あそこは何も選べません。代々続く温泉宿を継ぐだけです」

「そんなこと、どこでも……」

「数日あそこに身を置いて、どうでしたか?」

「中々、原稿が進まず大変でした」

「外に出ましたか?」

「ええ、まぁ」

「山と川しかないでしょう。コンビニも喫茶店も飲食店も本屋も図書館も博物館も美術館ない。そんな所です」

木村の言うことは事実だった。木村の故郷で数日を過ごし、新山は大いに困った。原稿のこともそうであるが、何もすることがなかった。ただただ時間が過ぎるのを待つしかない。東京にあるはずの施設や建物が一つもない。

木村には言えないが、あのような土地のムック雑誌を作って、どうするのだろうか。売れると判断した編集の人間は、何をもってそのような判断を下せたのだろうか。

温泉と山しかない静かな、かつては観光地として名の馳せていた土地のムック雑誌。原稿を依頼された以上、書くが、その雑誌が売れるかどうかの眺望は見通せなかった。

もし新山が木村と同じような土地で生まれ育ったとして、木村のように東京へ出てくるだろうか。

新山は生まれた土地から離れることなく、そもそも離れてどこかに生活を送るという気も起きない。

もしかすれば、それは現状で満たれているからかもしれない。もし満たされない地へ赴けば、何かを求めるのだろうか。温泉宿を継ぐしかないのであれば、新山はきっと継ぐであろう。家業を継ぐというのは、安定しているような気がする。

卒業した私立大学は、新山の当時の学力ならば少し上を目指すことができたかもしれないが、この大学ならば確実に合格できるだろうと考え、思っていた通りに合格できた。

同大学の名前を冠する新人賞に応募するようになったのも過去の受賞作を何作も読み、これならば自分でも、と思ったからである。大賞を受賞するのは難しいが、何かには引っ掛かるだろう。新山の読み通り、処女作は佳作に選ばれ、学生の間に何冊か小説を出版できるようになった。

周りの学生が就職か大学院への進学かと悩む頃には、新山はもう筆一本で生活できるのではないか、と羨望の眼差しを向けられていた。しかし、新山は多くの希望を裏切るように就職を選択した。小説家として食べていけるようになるのは難しいと判断した。

しかし小説家と営業職の二足の草鞋を履き続けるのは難しく、睡眠時間を削ることで時間を捻出したが体調を崩し、二十代後半には自己都合で退職し、三十歳を迎える前に文筆活動に専念してすることにした。

ベストセラー作家や売れっ子作家ではないが、巷の本屋の棚差しには何冊も置かれ、翻訳や評論も手掛ける作家。そういう作家である。一人で生活を営むのに困らない。

新山はそういう生活を死ぬまで続けるのだろう。安定しているのならば、それで良い。しかし、木村の故郷の者はそういうわけにはいかないのだろう。取材旅行の最中、新山と歳の近そうな者は一人もいなかった。皆いずれも木村と近しい歳をした者達ばかりだった。

「そういう何もない所ですので、若い方達は出て行きます」

「やりたいことのために?」

「やりたいことを見つけるために、というのが正しいですね。何もない生まれ育った場所よりも、何かできるかもしれない、挑戦できる所へ」

「木村さんのように?」

「そうですね。僕は本が好きです。あそこに居る時の僕は教科書しか本の世界を知りませんでしたが、十分でした。未知の世界が広がっていることを教えてくれて、自分も本を作りたいと思ったのです」

一人、新山とそれほど歳が変わらないであろう女と出会っていた。年齢が分かる要素は全て黒い服で隠されていたが。唯一分かるであろう要素は、冷ややかな声しかなかった。聞いたところ、新山よりも一回り二回りも歳上という感じはしない。

あの女も、いずれあの地を離れ、東京へ足を運ぶつもりなのだろうか。あの女は東京に訪れて、何をするつもりなのだろうか。新山と年齢が変わらないのであれば、東京に出てくるのは少し遅いのではないだろうか。

もしかすれば、新山と同じように何らかの目的があり、あの地に滞在していただけなのかもしれない。しかし一体、あんな何もない地に、どのような用事があったのだろうか。新山と同じように取材で足を運んだのであろうか。

「私の他に、取材に訪れた方はおられますか?」

「新山先生の他には、どなたも。何かありましたか?」

「私の他にも、旅行者がいたので」

「この時期に、ですか……?」

「おそらく、ですが」

「変わってますねぇ」

木村の感想と同じ感想を、新山は懐いていた。

あの女を一目見た時、新山は不気味に思った。もし東京で出会っていたのならば、新山の胸に宿ったのは不気味さではなかっただろう。しかし、場所が場所であり、恰好が恰好であった。生きているのか生きていないのか、新山にしか見えていないのか、言葉が分かるのか、話せるのかどうか。去来したいくつもの不安や恐ろしさが、一つの小説へと昇華された。

「好意的に解釈しますと、時期が時期ですから、紅葉やジビエ料理を楽しむ気だったのだと思いますよ」

「好意的に解釈しなかったとすれば……?」

「それはきっと、何か訳ありでしょう」

木村はそれ以上、言葉を続けなかった。新山もそれ以上は探ることなく、話題をムック雑誌へ戻した。

「他の先生は、どのような依頼原稿を?」

「新山先生のような娯楽小説ではありませんよ。郷里という利を活かして随筆を書かれた先生もおられますし、紀行文を書かれた先生もおられます」

「私の原稿は、間違っていないでしょうか?」

「間違っていませんよ」

依頼者である木村が間違っていないというのであれば、間違っていないのだろう。しかし、胸の内の不安は消え去る気配を見せない。

随筆や紀行文という私事が多い雑誌に、恋愛小説という物語が混じっているのはどうなのだろうか。良い塩梅になる、と考えているのだろうか。そう考えてくれているのであれば幸いだが、新山のことを考えて打算的で処理しているのであれば、新山から言わなければならない。書き直す、と。

「必要であれば……」

「そう不安に思わないでください。新山先生のお陰で、娯楽小説が掲載されてもおかしくなくなったわけです。探偵小説が掲載されても、読者の方々は納得してくださいます」

「そうでしょうか……?」

「先生は、ご自身の書かれた作品をどう思っておりますか?」

「あまり……」

「私は、よく書けていると思います。真っ赤な血のような紅葉。人気のない温泉地に訪れた主人公が、女と出会う。人気のなさに不安を覚えていた二人は自然と知り合い、話し、同じ時を過ごす。ある日を境に女とは会えなくなる。女も旅行者なのだろうと思い、帰ったのだろうと考える。またどこかで会えるかもしれない。しかし、果たしてその可能性はどれほどなのだろうか。女と再び出会えることを思いながら、女と別れた境というのが彼岸であり、女が幽霊だったと気付かされる。主人公にとって、女が幽霊であることよりも、もう会えないということの方が大きく、涙する。良いと思います」

新山は恥ずかしそうに頭を下げた。

木村の想定している読者層が、新山の書いた娯楽小説を読むだろうか。今の段階ではある程度しか想像できなかった。

処女作を書いていた、手探りで書き続けた時と似ている。あの時は、不思議と自信に満ちていた。学部の知り合いに良いものを書いている、と褒められたのも自信に繋がった。自分の書きたいものを自分の書きたいように書けば、それで何とかなるだろうと信じていた。そうして書き上げた小説は、佳作に選ばれ、新山の今後の生活を決定付けた。

今、そのように自分の書きたいものを自分の書きたいように書くのは難しかった。自分の書きたいものを自分の書きたいように書いても、満足できない。

原稿に向かう時間よりも、考える時間の方が多くなっている。これで良いのだろうか、これが本当に自分の書きたかったことなのだろうか。

「それで、先生ご自身は、どう思われているのですか?」

問われ、悩むであろうと思っていた答えは、すぐに新山の口から滑り落ちた。普段と変わらないであろうと思っていた言葉は、露骨に暗く、重たかった。そう答えられるのを、いつまでも待っていたかのようだった。

「これで良かったのだろうか、と絶えず思ってます。別にそれは今作に限ったことではありません。ずっと、そう思って、作品を発表してます」

「それはプロになってから、ですか? それとも、大学の頃からですか?」

「今となっては、はっきりと思い出せません。学生の頃は、もっと気楽に書いていたような気がします」

木村の顔が段々と固く、強張っていくのが見て取れた。新山は目を逸らしたくなったが、ここで逸らしてしまえば、木村の、おそらく本心からのであろう言葉を受け取れないような気がした。これが他の者に言った言葉であったのならば、新山は恥を覚え誤魔化すように笑ったり、拒むように視線を逸らしたことだろう。

そういう行動を採らなかったのは、木村ならば真摯に受け止め、答えてくれるだろうと信じられたからである。

「私が物を書ける人間でしたら、もっと別の言葉をかけられたのですが……」

と木村は前置きをして、続ける。

「先生、少し休まれてはどうでしょうか? 原稿や小説、そういう先生を取り巻く環境から離れた所に身を置いて、心身のリフレッシュを行う。どうでしょうか?」

書かないという選択は、新山にとって大きな贅沢であった。もし、書かないという選択を採ってしまえば、その贅沢の味を知ってしまえば、もう二度と書けないような気がした。

この次には休もう、この次には、という意識だけが働き、今日まで原稿用紙を埋め続けた。物語を生み出し続けた。

考える時間が増えたのは、休もうという意識の現れなのかもしれない。

「誰にだって、スランプは訪れます。どう克服するか、ですよ」

木村の言葉は、新山の背中を押す。

大学時代から好きに書き、好きだからこそ書き続けられ、休むことなく書き続けてきた。スランプになってもおかしくない。そう考えるのが自然だろう。少しずつ書けなくなっており、今作の依頼原稿で限界を迎えた。そう考えれば、納得できる。

書かないという選択を採れないのは、職業作家としてそれでいいのだろうかと考えてしまうからだった。スランプを脱した後に新山の居場所はあるだろうか。他の作家に、新山の居場所は奪われてしまっているのではないだろうか。もしそうなってしまえば、新山は作家として活動できなくなってしまう。新山の居場所はなくなってしまい、新山という小説家は必要ではなくなってしまう。

価値を失い、職を失ってしまえば、新山はどういうふうに暮らしていけばいいのだろうか。今更、普通の生活を送っている自分自身を想像できない。

長い沈黙の後、新山は答えた。

「……この原稿を書き上げてから、考えてみます」

家に帰り、手書きの原稿をパソコンに打ち込みながら、新山は懸命に休まない方法を考えていた。新しいネタを考え、書くしかない。その新しいネタが浮かばずに苦労している。

浮かばないのならば、どこかへネタを探しに行けばいいのではないだろうか。今回のように、取材へ訪れれば良いのではないだろうか。

取材を考えてみるが、一体どこへ行けばいいのか検討がつかない。

木村の故郷で出会った女の姿が、新山の頭をよぎった。若者は出て行くような村を訪れた新山と女。再び、木村の故郷を訪れた時に女がいれば、また何か書けるようになるのではないだろうか。

 

 

 

東京という街が至るところでクリスマス一色に染まろうとしている頃、新山はようやく再び、その村を訪れていた。今年の仕事はもう終わらせ、年が明けるまでは休みに入ることを各所に連絡して、村を訪れた。

紅葉はどこにも見えず、一切の色を失い、細い梢を晒すばかりだった。まばらに降り続ける雪は東京から西に進むにつれて激しさを増し、村に着いても勢いは変わらなかった。

夜になっても雪は降り続け、新山はこの前と同じ二階の角部屋に籠もることとなった。

夜はまだまだ明けることはなく、鞄の中から何かあった時のために、と持ってきた原稿用紙の束と万年筆を取り出す。

ここを訪れる前に、木村から、帰ってきた時にエッセイの依頼をしますと言われたことを思い出す。とある雑誌の旅行のエッセイ連載が終わりに近く、別の誰かに依頼したい、と木村は話していた。
木村から再度依頼の声をかけられた時にはもう書き上がっている方が好ましい。新山は、この旅行から帰った時には何か一つ原稿を書けてなければならない。文量などはその雑誌を旅の途中で買い、おおよそは分かる。

しかし、筆は一向に動く気配を見せない。取材旅行ではないのだから、書けなくてもいいという新山自身がいる一方で、依頼されることが分かっている以上、何か形にしておいた方が良いという新山自身を見出してしまう。

そういう二つの自分自身の間で揺れ動いてしまうのは、こんな何もない所に居るからだろう。二食の食事と温泉の他には何もない。暇ばかり生み出してしまう村。東京に置いてきてしまった仕事のことを考えてしまうのは、仕方のないだった。

仕事のことから離れようとすればするほど、強く意識してしまう。何もしなくてもいいという贅沢は、ただ新山の心に不安を植え付けるだけだった。

一文字も書くことなく、床に就く。

この村のように黙って、雪がやむのを堪えるしかない。宿の者曰く、ふっとやむこともあれば、しばらく降り続けることもあるらしい。やんだところで、どこかへ足を運ぶなどということは全然考えられなかった。秋の時と代わり映えのしない山と川がどこまでも広がっているだけであろう。

あの女は、まだここに滞在しているのだろうか。新山と同じように雪がやむのを待っているのだろうか。もしかすれば、初めて出会ったあの時から今までずっと滞在しているのではないだろうか。

あの女は、雪が落ち着けばどこかに出かけるつもりなのだろうか。こんな所に居て、何をするつもりなのだろうか。もしかすれば、雪が降ると知っていて、こんな所に足を運んでいないのかもしれない。もっと別の所で過ごした方が有意義だろう。しかしそんな有意義な所が、あるのだろうか。新山は女のことを何も知らない。女は新山と違い、この村の楽しみ方や有意義な過ごし方を知っているのかもしれない。もし次に出会えれば、そういうことを訊いてみるのもいいだろう。

そんなことを考えていると、眠りに落ちた。

雪上がりの朝は、どこを見渡しても白銀一色の世界へと変わっていた。東京に居た頃はこの時間帯でも街灯やネオンが明るく街を照らし、電車や車が動いているが、この村には温泉宿の他には山と林程度しかなく、どこまでも薄暗い。風呂も朝食もまだ準備中のようだ。一階に顔を出してみると広間も暗く、誰の姿もない。

外に出てみると宿の者は雪掻きに精を出し、幾人もの雑多な足跡が広がっている。通りには轍が伸びている。そういう雑多な足跡とは遠い所に、小さな足跡が見える。足跡を目で追いかけると、雑木林へと続けている。宿の者に林の向こうのことを尋ねると、山河が広がっていると教えてくれた。

新山はその足跡を追いかけることにした。足跡は迷うこなく真っ直ぐと林の中を歩いている。何分か歩いても全然それらしいものは見えてこなかった。雪が積もった道は新山の体力を大きく奪った。一本の木に手を添え、息を整えていると、視界の端に一筋の光が伸びているのが見えた。

顔を上げると、雪に覆われた平地が広がっており、奥の方には橋が架かっているのが見える。その橋の光が林の方も照らしているようだった。橋の向こうにはまた山がそびえている。

橋の詰め所には、茅葺屋根に木の欄干を設けた四阿が建っている。全てが影に覆われ、人の姿すら見えない。しかし、近付いてみると、コの字に細長い座席が用意されており、右手には人の影らしきものがあった。

全身を隠すように、大きな黒い傘をさしている。欄干に背中を預け、川を眺めているらしい。山の向こうに見えてくる日の出を待っているかのようにも見える。手元は黒いレース手袋を、足元は裾の長いスカートに包まれている。スカートの下に伸びている黒いブーツの丈はきっと長く、膝下程度まで伸び、一切の肌を厳重に隠していることだろう。一度見れば、忘れることのできない黒い姿をした女。
足音に気づいた女は驚いたように新山の方へ顔を動かした。傘の下からは分厚いマフラーが垂れ下がっている。かつては見えていた白い頬は丁寧に巻かれたマフラーで隠れていた。今も掛けているであろう色の濃い大きなサングラスの向こうに控えている目は、新山を見上げているのかすら分からない。

しかしそれでも、期待に膨らんだ新山の胸は、女の視線に気づいたのか静かに鼓動が早くなる。

女は何故、こんな朝早くからこんな所に居るのだろうか。それはまた、新山に対して女の思うところでもあるだろう。二人は互いにどういう言葉をかけるのか探っているのか、しばらく無言で見つめ合った。

「旅行ですか……?」

沈黙を破ったのは新山だった。女は冷かな声で応じる。あの時と違うところがあるとすれば、冷たい言葉の内に、新山が歩み寄るのを拒むような調子が帯びていることだった。女の声は籠っており、マフラーの奥にはマスクも付けているのだろう。

「違います」

「仕事、ということですか……?」

女は探られるのを押し退けるように、すぐに問う。

「あなたは?」

「私ですか?」

新山は女の方へ歩を進め、四阿の藁葺屋根の下に入った。一瞬、女の傘の中に入ったが、傘の中は周囲より一層暗く、これでは日の出になったところで日の光一つ通さないことだろう。加えて傘は広く、席に腰掛ける新山の視線の目の前にあった。

女は一言詫びた後で、傘を閉じ、脇に立て掛ける。その下にはやはり、つばの広い大きな帽子を目深に被っていた。

「ただの休暇で来ただけです」

「二度も?」

女の訝しむような視線を感じる。新山は正直に答えるが、歯切れは良くない。

「一度目は、仕事で来ました」

作家だとは名乗れなかったのは、名乗ってしまえば新山自身が小説家ということを意識せざるを得なくなってしまうからだった。書くものは宿に置いてあり、書こうと思えばすぐにでも書けるのだが、今は何も書く気になれない。今の新山は、作家ではない。

「こんな所で仕事を……?」

歯切れの良くない返答に、女の声が低くなる。新山のことをますます疑っているようだった。視線は一段と鋭くなったような気がする。

「えぇ、そうです。ですが、その仕事はもう終わりました。だから、休暇なんです。……もしかすれば、ずっと休暇かもしれません」

自嘲的に言うと、女の睨むような眼差しが和らいだように感じた。

マフラーの奥にある唇から、微かな笑みが零れた。新山の不安を気遣うように、女の声は柔らかく、温もりに満ちた。

「私と一緒ですね」

そういう反応が返ってくると思わなかった新山は驚き、微かな声を上げた。

女は旅行で訪れたわけではなかったが、仕事のことまでは否定しなかった。あるいはもしかすれば、旅行と仕事の両方を否定したのかもしれない。

新山が知らないだけで、女は俳優やモデルという類の者なのかもしれない。女の声を聞いても、新山の頭には誰の姿も思い浮かばなかった。きっと、その顔を明らかにされても、女の名前を思い出すこともないだろう。

「あなたも仕事で訪れたんですか?」

「休暇で訪れただけです」

「あぁ、それで……。昨日の雪は大変でしたね」

「そうですか?」

「私は普段東京で暮らしているので……。雪に縁がないんです」

「東京からこんな所に? ……つまらなくありませんか?」

「ゆっくり落ち着くには良い所だと思います」

「ここには何もありません。温泉と山と川しか」

女の言葉に、木村の語った故郷の言葉を思い出す。女も新山も、休暇でここを訪れている。しばらくしたら、ここを去る。木村のように暮らすことはない。それでも、この村に何もないのは十分なほどに分かる。

しかし、今の新山にはそれが不思議と心地良かった。暮らすことや過ごすことを急かされないこの土地の空気が、新山の尖った精神を落ち着かせてくれる。

「何もないのが良いです」

「すぐに飽きますよ、そんなの」

女の声は、新山の期待を裏切るように不意に低くなった。女は新山よりも先にここで余暇を過ごすことになったのだろう。昨夜、新山が考えていた通り、あの秋の時からずっと滞在しているのかもしれない。

そう考えると、何もないこの村に飽きているのは当然だろう。宿の温泉で日々の疲れを癒してもいいかもしれないが、それも女の言う通り最初の数日だけだ。すぐに、食事の時間以外の余暇を潰す方法を探すことになる。散策も代わり映えしない景色に飽き、車も走らせるにも山道が続くばかりだ。

「……飽きますか?」

「ええ、飽きました。部屋に居るのも飽きます」

サングラスとマフラーで一つも表情は読み取れないが、その声はここに来てからの暇の多さに疲れ、呆れ果てているようだった。女の仕事は、新山のようにどこでもできるような仕事ではないらしい。飽きているのならば予定を早めて帰る選択肢も考えられるのだが、どうやらそういうわけにもいかないらしい。

東の空が微かに白んでくる頃、女はつばの広い帽子を深く被り直す。同時に、サングラス越しから新山を見上げる。顔にひっつくように掛けられたサングラスを調整する。微かな隙間が生まれた。

「朝食の時間ですので」

「随分と早いですね」

そう言った女の視線と新山の視線が一瞬、交わったような気がした。新山が気付いた時には、女の瞳はもうサングラスの奥に佇んでいた。瞬く間の出来事に、新山は気のせいだと思いたかった。それでも、その瞬間、新山は女の瞳を覗いたのである。澄んだ青空のように煌めく、明るい青い瞳を。

新山は見てはいけないものを見てしまったように顔を背け、昇ってくる陽の光を受け輝く川面を見る。一気に熱を帯びる頬を、冷たい風がなでたが全然熱いままだった。

女は新山のことを気にすることなく四阿を出て、傘を開けて歩む。足音が一つ、また一つと遠ざかると、新山は冷静さを取り戻す。新山が頼んだ朝食の時間は遅く、まだ宿に戻る必要はなかった。

頭の中は女のことが占め、とてもだが帰る気にはならなかった。途中までは女と同じ道を歩むことになる。あの瞳を再び向けられてしまえば、きっと沢山のことを訊いてしまうことだろう。女があれほど晒すことを忌み嫌っていることなど忘れて。

女の瞳が明るい青色に見えたのは、白む空が見せた幻のような気がする。青空がサングラスに反射して見せた色に違いない。そう思い込みたかった。しかし、あの明るい青い瞳の存在を、そういう言葉で片付けたくない。

女の後ろ姿は、いつ見ても黒く染め抜かれ、素肌一つ見せることすらない。そんな女が見せた色である。幻想的、神秘的という言葉が似合う瞳であった。

女のことを考えると初めて出会った時に見た真白な肌を思い出す。

真白な肌に青い瞳の女。きっと、ツバの広い大きな黒い帽子を下には、豊かな金色の髪が広がっているのだろう。目鼻立ち鮮やかな小さな顔。そんな素顔を、隠している。

と思うと、女の日本語が新山のそれと全然遜色のないことに驚きを隠せない。ハーフかクォーターと考えると、納得できるような気がする。それでも、女への謎は尽きることを知らない。何者なのかということは勿論のこと、どういう暮らしをしているのか、仕事は何をしているのか、何を好み、何を好まないのか……。

日が昇り、川面も茅葺き屋根も雑木林も全てに日が降り注ぐようになった頃、新山はようやく重い腰を上げた。女が腰掛けていた所は、屋根と欄干に遮られ不思議と日陰になっていた。

宿に戻り、朝食を摂った。それから再び、食後や昼食の前後などに四阿へ向かったが女の姿はなかった。夕食の後、夜気が満ちる頃に四阿に向かってみたが、新山は自分でも既に女はいないだろうと思っていた。それでも、女と出会うのがいつも日が見えない時であったため、淡い希望を捨てられなかった。やはり、女の姿はなかった。

女と出会ったのはこれで二度目であるが、いずれの時も、新山はあの女のことが気になった。一度目の出会いのように何か小説にまとめられればよかったが、今の新山にそんな能力はない。

夕食の前に原稿用紙を机に広げてみたが、全然言葉が出て来なかった。適切な言葉を探し出そうと考え込んでみるが、次第に言葉を離れ、女はどこで何をしているのだろうか、また会えるだろうか、と考えてしまう。

翌朝、新山が日が昇る前に目覚めた。風呂場の前には、清掃中の看板が置いてあり、宿の中はどこも暗く、障子の向こうからは他の客の寝息が聞こえてきそうだった。一階の受付にだけ照明が灯っている。灯りの下に居る宿の者に一声かけ、散策に出る。

宿を出ると、昨日と同じように雑木林を歩く。雪に隠れて見えなかったが、雑木林の中には二又の道ができていた。昨日と同じ道を歩めば、橋の方へ。昨日と違う道を歩めば、山の方へと続いているのだろう。ある種確信に近い期待が、新山の歩みを急がせる。

雑木林を出るとまだ日が出ていない薄暗い空の下に、橋が掛っている。詰所には四阿がある。その席には、日が昇ると陰になる席の所にはやはり女が座っていた。昨日の時と何ひとつ変わらないように。

新山の足音に気づいた女は、傘を少し動かすだけだった。

「またあなたですか」

その声は嫌疑な気配がなく、丸みを帯びた優しい調子だった。新山は微笑を浮かべ、穏やかに応じる。

「目が覚めてしまいまして。風呂も食事もまだですので、少し出ようと思いまして」

そう話しながら、新山は女の前に座る。新山はすぐに素直な驚きを口にした。女は傘を閉じ、脇に立て掛けると、同じような驚きと微笑が混じった声で言う。

「まだ滞在しているとは思いませんでした」

「あなたこそ」

「昨日お伝えした通りですよ。休暇です。明日も明後日も、ここに滞在します」

「休暇の間、ずっとここに?」

「その予定です」

「そんなに、ここが気に入って?」

「悪くない所だと思います」

新山が静かにそう言うと、女は声を上げて笑った。マスクとマフラーに阻まれ、小さく、こもった声だった。

「変わってますね。ここに来て、そんなことを言う人はあなたぐらいです」

女が新山以外の者と会っているのはその言葉から察せられる。しかし、女の言葉には何か引っ掛かるものがある。その違和感が、新山から返事を奪った。女は恥じるように遠くを見る。四阿に、冷たい風が吹き抜ける。

女が新山よりも長く滞在しているのは分かっているが、女の口振りは旅行者の長期間の滞在ではなく、まるでここに暮らしているかのような落ち着きと哀れみを含んでいた。

新山は女の素性を知りたかったが、ここで踏み込んでしまうのは恐ろしかった。女が素性を明らかにして、その条件として新山が何者なのか知ろうと考えるのはおかしくない。旅行者であること、余暇を過ごしていることは嘘ではないが、女の本当に知りたいであろう新山のことはもっと個人的なものだろう。

そうなった時、新山は書けなくなった小説家であることを告白しなければならない。書くことが全てである小説家が、書けなくなるということは、その小説家に価値がなくなったということである。

素性を明らかにして認めてしまうのは恐ろしかった。しかし、このまま昨日のような当たり障りのない会話を続け、日が昇るのを待つのも好ましくなかった。今この瞬間を逃せば、今日もう女と会えることはない。また明日の朝になるまで、会えない。明日の朝になれば会えるのだからこの機会を逃してもいいような気がする。しかし、そうなれば、明日も明後日も今と変わらない関係が続くばかりである。互いに何も知らない、夜明け前に会うだけの関係。

新山は意を決したように、口を開けた。女の反応を見逃さないように注意深くその顔を見る。表情一つ見通せない黒く覆われた顔を。

「あなたは、ここが嫌いですか?」

新山は女の言葉を聞き逃さないように耳をそばだてる。女は涼しい声音だった。

「私にはそんなことを考える必要がありません」

「……どういうことです?」

「私には、ここしかありませんから」

女は諦めるように答えた。女の答えは、旅行で訪れたわけではないことを白状するかのようだった。新山はいつの間にか固くなっていた肩の力を抜いた。同時に、安堵の言葉が漏れた。

「旅行じゃなかったんですね」

女は少し黙った後、新山の心を窺うように訊く。新山は明るく朗らか笑った後で、正直に答える。

「旅行だった方が良かったですか?」

「地元の方で良かったです」

「そ、そうですか?」

「ええ、その方がまた会えますから」

新山の言葉に、女は不安げな声を上げる。

「……また?」

新山は女との距離を縮めるように、心持ち真面目な調子で訊いた。

「いけませんか?」

こういうふうに距離を縮めるのは、まだ早いような気がしてならなかった。新山も女も互いの名前すら知らない。ただの旅行者と地元の者。ただそれだけであった。新山はそれだけの関係に終わりたくなかった。

しかし、もし女がいけないと答えれば、もう何も言わず、立ち去ろうと考えていた。明日も明後日もここに足を運ぶことなく、遠くに置いていた仕事と向き合うと考えていた。少し傷を負った心ならばエッセイも独自の色を帯びることだろう。そうしてエッセイを幾つか書き終えたら、どこか別の所に足を運ぼう。年が明ければ、東京に帰り、木村からの依頼を正式に受けよう。

「嘘をついたんですよ」

女は良いとも悪いとも答えなかった。予想をしていなかった返答に、真面目な調子は崩れ、新山は焦る心情を悟られないように言葉数を多くして語る。

「嘘をつくことは誰にだってありませんか。私達はまだ出会って日も浅い。知られたくないことのために嘘をつくのは自然だと思いますよ」

「あまり好きではありません」

「でしたら、こう考えませんか。その嘘は、私もあなたも傷付けない嘘だった。優しい嘘だった」

「よくそんなことが言えますね」

「好きではありませんか?」

女は答えず、躊躇うように俯いた。新山が慌てたように何かを弁明しようとした時、女は優しく答えた。

「えぇ……ですが、嫌な気持ちにはなりませんね」

それから新山の柔らかい返事を待つことなく、女は続けてこういう疑問を投げかけた。

「どうして嘘をついたのか訊かないんですね」

新山は飛び出しそうになる幾つもの言葉を飲み込み、誠意を込めて答える。

「訊きません」

「私が答えないと思うから?」

「もし、あなたの嘘が、私かあなたを傷つけるような嘘でしたら、きっと訊いたと思います。ですが、さっきも言いましたが、あなたの嘘は私達を傷つけなかった。だから、何も訊きません」

新山は真面目に、女と同じように優しく答えた。女は黒い手袋をはめた手を口元に添えた。笑ったかのように見えた。新山は不意に顔を伏せた。背中が一気に熱を有したのは、きっと東の空から朝日が昇って来ようとしているからだろう。

この背中がもっと朝日に照らされるようになれば、女はきっともう、昨日のように立ち去ることだろう。引き留めたかったが、新山はもうどういう言葉を並べれば、彼女の足を止められるか分からなかった。

小さな影が新山の視界に落ちる。女は傘を持ち、新山の前を通り過ぎようとしていた。

新山は自身がスランプに陥ってなければ、過ぎ去ろうとする彼女に何か声をかけられたような気がした。多くの言葉を紡ぎ、物語としてまとめ上げ、読者からは嬉しい言葉の数々を貰う。そういう作家であれば、もう少しだけでも一緒に居たいことを彼女に伝えられるのではないだろうか。少なくとも、今のように顔すら見れないようなことはないはずだった。

「明日も、ここに来ます。明日だけじゃなく、明後日も明々後日も、その次も、ずっとここに来ます」

気遣うような女の言葉に励まされ新山は手を伸ばした。けれども、空を切った。顔を上げると女の姿はもう四阿を出て、林の方へ向かって歩いている。林の影と混じってしまいそうな背中を呼び止めるように、新山は声を上げた。

「……どうして、今だけなんでしょうか?」

女は足を止めた。しかし、振り返ることはなかった。反芻するかのような声が響く。

「……どうして?」

「どうして、朝にしか会えないんでしょうか?」

新山は女と日の高い時にでも出会い、話したかった。宿に滞在していても昼食は用意されることはないため、バスで山を下り、南の方にある駅前の喫茶店まで出るか、橋を越え、山を越えた所にあるサービスエリアで昼食を食べるしかない。そういうことを話したり、食事を共にしたりして、女と同じ時を過ごしたかった。朝日が昇るまでの僅かな時間では、あまりにも短い。

朝日が昇り、また沈むまでの時間は絶えず変わることはなく、新山と女の距離が一向に近づかないことを暗示しているようでもあった。女が意図的に新山を初めてとした他人と一定の距離を保ちたいのかもしれない。しかし、ならばどうして、新山を拒絶しないのだろうか。もう会いたくない、会わないでほしい、来ないでほしい。そう言われれば、新山は素直にその言葉に従う。女はそういう拒絶を明らかにしなかった。どう距離をとればいいのか悩んでいるようにすら感じ取れる。

「私、太陽に嫌われているんです」

女の声が悲しみに濡れた。それ以上は何を訊かれても答えないと言いた気に女は林の影と一つになった。

新山が後を追い掛け林に入った時には、女の姿はもう見えない。声をかけようとしたが、彼女の名前すら教えてもらっていないことを今更のように思い出した。

宿に戻ってからも、新山の頭には女の姿があった。片隅に、エッセイのことや年が明けてからの過ごし方などがあった。

女がここで暮らしているのならば、宿の者が知っているのではないだろうか。朝食が運ばれた時に引き留めてみたが、周辺のことを確かめるだけで女のことは話題に出せなかった。

明日の朝も女とは出会えるのだから、そこで訊けばいい。そっちの方が自然と女と話せることだろう。女の名前を知りたくないわけではない。知れるのならば知りたいが、今ここで女の名前を知ってしまえば、女と新山の繋ぐ微かなきっかけすら失ってしまいそうな予感がする。女の名前を知り、呼びかけてしまえば、今まで築き上げてきたものが全て崩れてしまいそうな予感があった。

嘘をつくことを良く思わない女は、勝手に名を知られることも良く思わないことだろう。そういう手段を用いる男と印象付けられてしまえば、良く思われない。そうなっては困る。

女はここで暮らしているが、新山はいずれはここを去る必要がある。女に悪い印象を与え、ここを去りたくなかった。新山にとって、女はこの村で唯一といっていい年の近い者である。多くのことを忘れさせてくれる女でもある。新山の胸を豊かにさせるこの感情に名前を与えてもよかったのだが、名付けて意識してしまえば女との別れが辛くなってしまう。新山はここを去るが、女はそういうわけにはいかない。

しかしいずれは女も、若い時の木村のようにここを出ることだろう。何かを探すために。その時になれば、女と東京で再会できることだろう。今、もう会えないからと焦る必要はない。

そう判断を下しても、多くの暇が新山の判断に巣食う。ぐっと堪えて、頭の片隅に追いやったことと向き合ってみる。机に置いた原稿用紙に万年筆を滑らせてみると、いくつかの言葉が書かれる。そうして一つの文章が出来上がったが、普段の新山が書く文章とは異なった色彩を帯びている。幾つかまとまった文章を書いてみたが、その色彩はまだまだ鮮度を保っていた。旅に関するエッセイに採用してもよかったが、もっと別の時に使った方が適切なような気がする。木村は納得してくれるもかもしれないが、新山自身が納得できなかった。

新山という小説家に求められるもの、旅をテーマにしたエッセイに求められるもの。それらのものは、今の新山の内には見当たらなかった。明日になっても明後日になっても、新山の内に芽吹き、花開くような気配もない。

読者に求められるようなものが分からないということは、新山の小説家としての生き方に限界を迎えているのかもしれない。小説家の中には、流行りなどを気にすることなく自らの書くものだけで読者を引っ張り、物語の内に引き込む者もいると耳にするが、新山はそれほど強かな小説家ではない。読者の言葉に耳を傾け、共に歩んでいくような小説家である。

幾つもの文章を書いたが、これらの文章は次の仕事では使えない。次の次で使えるかもしれない文章だろう。次の仕事ができなければ、次の次などというのは依頼されない。新山から働きかければ、もしかすれば見つけられるかもしれない次の次である。が、その時はいつになるか分からない。そして、その時に今と同じような気持ちを維持できているのかとなると、分からない。姿形を全く別のものに変えている可能性が高い。

新山のこの気持ちは、女に依存していた。女が新山の前に幾度と現れてくれるからこそ、絶えず新しい輝きを放つ。女と共にここを離れ、東京で生活をできれば、新山の胸にあるこの気持ちは絶えることなく輝き続けるだろう。

そういうことを女に伝えたいが、いざ女を前にするとまだそういうことを伝える時ではないような気がしてしまう。明日も明後日も女があの四阿に足を運ぶならば、自らの気持ちを書いたものでも置いておこうか。

と思ったが、新山は女の名前すら知らない。自らの気持ちを綴ったところで、名前も知らない女に読んでもらえそうになかった。

 

 

 

新山は昨日と変わらない時刻に目覚め、四阿へ足を運んだ時、女の姿はもうそこにあった。つばの広い大きな黒い帽子を被り、口元や頬周りを隠すように結ばれた分厚いマフラー。

昨日や一昨日と変わらず、席に座り、まだ暗い山や川を眺めている。大きな傘はもう閉じられており、脇に立て掛けていた。

新山は女の前に座り、穏やかに声をかけた。女は昨日の別れ際に見せた悲しい気配を隠すように硬い声だった。

 

「お早いですね」

「まだ居られるんですね」

「ええ、昨日言った通りです。きっと明日も明後日も滞在していると思います」

「良い御身分ですね」

「やらなければいけないことを先送りにしているだけです」

新山は曖昧に笑って誤魔化した。女と話をしている時だけは、宿に置いている仕事のことは忘れたかった。日が昇れば、また仕事と向き合わなければならないのだから。

新山は林の方に視線を移して、昨日の女の姿を映し出していた。自分の前から去ろうとする女の姿を。

「昨日、あなたが向こうへ歩くのを見ていて、私は何もできませんでした。声をかけることもなく、ただあなたが後ろ姿を見ていました。私達は互いのことを、名前すら知りませんね。私は新山龍一といいます」

語り出すと段々と頬が熱くなり、背中から汗が垂れてくる。女に視線を戻し、返事を待つ。少しの沈黙が流れる。女の目は色の濃いサングラスに覆われ依然として見えないが、それでも戸惑いの色は見て取れる。

控えめな笑い声が漏れてきた。声を上げて笑う女は、火照る身体を冷ますようにマフラーの結び目をゆるめ、手を仰ぐ。

ゆるくなったマフラーの隙間からはマスクをつけた口元が露わになり、雪よりも白い頬が俄に見えた。新山の胸は大きく跳ね上がった。声に漏れ出そうなのを懸命に堪えると、全身が強張った。平静を装い、女の返事を待つ。

女は一頻り笑った後、ゆるくなったマフラーを結び直すことなく優しく答える。

「あなたは変わった人ですね……。私は木村詩織といいます」

詩織という名前を知ると、新山は赤くなった顔で昨日呼び止めて聞きたかったことを口にする。

「あの時、木村さんは太陽に嫌われていると言いました。何故なんですか?」

「そんなこと、もう忘れていると思ってました」

「忘れることができなかったので」

「いずれ去って、もう二度と会わないかもしれないのに?」

「また来ることもあるでしょう?」

「新山さんのように?」

「ええ、私のように」

「あなたは本当に変わってますね……」

「いけませんか?」

「いいえ、そんなことありません。良いと思います」

詩織は、新山の疑問に答えたくないのだろう。踏み込まれるのを快く思っていないような、話していいのかまだ躊躇っているような気配を言葉の端々に漂わせていた。

沈黙が自然と二人の間を満たす。詩織が答えるのを待っているような沈黙を新山は破りたかったが、詩織が何と答えるのか気になってしまい、考えがまとまらない。

詩織の装いや行動が陽の光と関係があるのは、もう分かっている。肌を焼かないようにしているというだけでは、もう納得できない。新山があのサングラスの奥に、明るい青い瞳が輝いていることを知らなければ、そういう説明でも納得できた。しかし、新山はもう、詩織が明るい青い瞳の持ち主であると知ってしまっていた。

詩織に瞳のことを告げる気は全くなかった。彼女がサングラスを外すまで、黙っているつもりである。あの時の出来事は、偶然が生んだことである。見せるつもりのなかった瞳の色である。素肌を一つも晒さない詩織が、そんな偶然を装うことはないだろう。

長い沈黙を破ったのは詩織だった。

「新山さんは正直な人ですね」

「私も嘘をつくことだってあります」

「本当?」

「試しに嘘でも言ってみましょうか?」

「嘘が上手い人はそんな前置きしませんよ。嘘だって分かるじゃありませんか」

微笑む詩織に、新山も笑い返した。

新山が小説家であると言った時、詩織はどのような顔をするだろうか。言葉を並べ、文章を組み立て、読者を架空の世界へと誘う者だと告げた時、詩織はきっと大いに驚くに違いない。

しかし、新山はまだ何も書けないでいた。昨日書いた数々の文章は、朝になって読み返してみるととてもだが誰かに読ませるようなものになってなく、ゴミ箱に丸めて捨てた。誰にも読ませられるような文章を書けなければ、読者を物語の、幻の世界を案内することもできない。

新山は詩織に小説家であると名乗ることはできそうになかった。

新山は話を詩織へと戻す。

「それで木村さん……」

「私は、陽の光に弱いんです」

そう言って、詩織はレースのついた片方の手袋を外した。その色の白さに、新山の口から素直な感動が漏れた。

「すぐに焼けてしまいます」

「冬でも、ですか?」

「そうですよ。冬に日焼けをするんです、私の肌は。少しでも陽に当たると赤くなって、痛いです。雪の時でもです。陽が反射して……。だから、外に出るのはこの時間だけにしているんです」

「今までずっとですか?」

「ええ、生まれてからずっとです。これからもずっとです」

詩織は手袋をはめ、膝の上に両手を置いた。

新山は好きな時に好きなように外に出て、誰とでも話せる。詩織はそういうわけにはいかない。多くの制約がついて回る。今の装いも、陽に肌が触れないことを最優先としていて選ばれているのだろう。自分の好みの服を着るというのも、詩織にはできないことなのだろう。

昼間に外に出られないということは、多くの人との出会う機会を失っている。詩織の世界はこの村にある家とその近く程度しか広がっていないことだろう。バスに揺られ、駅前に出たことすらないかもしれない。そういうことを、詩織は受け入れている。新山には全然分からなかった。

新山の口から、こういう疑問が零れ落ちた。

「それで、いいんですか?」

「私はそれでいいと思います。新山さんは、いけないとお考えですか?」

「……いけないとまでは言いたくありませんが、勿体ないように思います。多くの可能性や選択から遠ざかっているようで」

「多くの可能性は怖いだけです」

「怖い?」

「そうです」

詩織が明確に新山の問い掛けを拒んだ。膝の上に置かれた指にぐっと力が加わり、震えたように見えた。新山は反射的に謝った。

「申しわけありません……配慮が足りませんでした」

「新山さんには分からないことなので仕方ありません。責める気なんてありません。ただ、私はそういう何かの可能性やどれかを選ぶということをできません。怖いです」

諦めて拒絶している詩織に、新山は多くの可能性や選択肢を提示したかったが、詩織が見せた真っ白な手のことを思うと何も言えなかった。白いのは手だけではなく、腕も肩も背中も足も白いだろう。
重く硬い沈黙が四阿を満たす。きっと詩織もその家族も多くの可能性を探し、選択肢を求め続けた。新山よりも真剣に必死に。そして、詩織はこの何もない静かな村で過ごすことを選んだ。時々、携帯電話の電波すら圏外を示すような山奥の村で一生を過ごすことを選んだ。

詩織が見せられたのは、その肌の白さだけだ。手袋を外しただけである。つばの広い帽子を取ることがなければ、サングラスを外すこともない。新山に、色の白い女とだけ思われたい。そのサングラスの向こうに、明るい青い瞳あることなど知られたくない。奇妙な眼差しを向けられると詩織は分かっているから。

新山は詩織が見せる気がないのなら、あの瞳を見ようとは思わなかった。サングラスや帽子やマスクを外した彼女を見てみたいという気持ちが全くないわけではなかった。焦り慌てることが少ないのは、まだ滞在日数に余裕があるからだろう。日数の余裕は、そのまま新山自身の余裕に繋がっていた。丁度、締め切りが遠くにあり、まだ急ぐ必要がないと思っている時と同じ心持ちだった。

「でも、最近は少し楽しいこともあります」

沈黙を破ったのはまたしても詩織だった。新山の言葉を拒絶していた時とは違う明るく軽やかな声。詩織の言葉に釣られ、新山の声も明るいものになった。

「何かあったんですか?」

「新山さん、あなたがここに来てくれることです。この村にいない新しい人です」

サングラスでその目までは見えないが、明るく弾んだ声は詩織が笑顔であることを想像させるのは容易かった。新山は突然のことに頬を紅潮させる。

「……私もです」

「新山さんも?」

新山の答えが意外だったように詩織は覗き込むような視線を向けてくる。新山は羞恥が滲んだ声で答える。

「木村さんのような素敵な方と出会え、話せて嬉しいです」

「さっきまで私の名前すら知らなかったのに?」

「それはお互い様でしょう? 名前や外見なんて、後からでも知れることです。朝、ここにあなたが居る。それだけでいいんです」

「あなたがそう言うのは不思議ですね」

「そうでしょうか?」

「私と違ってどこでも行けるでしょう?」

「どこを行っても飽きますよ。どこも代わり映えしません」

「私がここに居るのも、代わり映えしないと思いますよ」

「そんなことありません。木村さんのお陰で良い旅になってます」

「本当?」

「あなたに嘘は言いたくありません」

そんなことを話していると、背中に熱を帯びてくる。新山の影が四阿の地面に伸び、詩織の足先に届いてしまいそうだった。詩織は寂しい微笑を浮かべて傘を持ち、四阿を出る。黒い背中が、新山の前から遠ざかる。

もし詩織が許すのならば、陽が昇っても話していたかった。林を抜けるまで付き添うことぐらいは許されるかもしれない。そうして新山は宿へと、詩織は家へと帰る。自然なことだろうが、新山の足は動くことはなかった。

陽の光が辺りを照らす頃になると、詩織は新山の元を離れる。詩織はここで暮らしており、新山は東京へ戻ることが決まっているのだから、そういう関係に留めておきたかった。もし新山が旅行でここを訪れているのではなく、詩織が陽の光の下を歩けるのであれば、新山は詩織を引き留めたことだろう。そして、詩織も拒むことなく新山の前に居ることだろう。しかし、それは永遠にもしもという可能性の話でしかなかった。詩織が恐れさせる可能性の話でしかなかった。

と、分かっていても、新山自身が気づいた時にはもう四阿を出て、背中を向けて林の向こうへと遠ざかる詩織に声をかけた。詩織は振り向くことはなく、傘の向こうから新山の言葉を待っている。新山は詩織の心の内を確かめるように訊く。

「可能性も選ぶことも怖いですか?」

詩織は低い声で答える。平然を装うとしても、その声には隠すことのできない怒りや諦めに溢れていた。

「怖いです。自分で選んでも何も手に入りませんでしたから。夢も友達も何も……。勝手に期待して、失望を続けるばかりです」

詩織はそれ以上は詳しく話そうとしないが、多くの人とは異なる容姿や体質によりその輪から弾き出され、心や時としてその身体にも傷を負わされたことがあることはすぐに分かった。

詩織を傷つける気などないが、新山は彼女がサングラスが帽子を外した時、その容姿を見た時、どれほど努めようとも奇妙なものを見るような驚きを含んだ視線を与えない自信がない。見慣れてしまった視線は思い出し、新山も彼女に失望される一人になることだろう。

ようやく少し近付るようになったのに、詩織はまたしても離れていってしまう。そしてその距離はもう、新山がどれほど近付こうとしても埋めれるものではなかった。

仮に埋められるとしても、もっともっと時間を必要とすることだった。旅の間の朝日が昇るまでの間でしか出会うような関係ではなく、もっと近づき、昼も夜も出会い、互いを理解し受け止め合う関係が必要がある。新山自身が、自分ならばそういう関係になれるかもしれないと思うのではなく、詩織が自らの意思で相手に対して、そういう関係になりたいとなってもいいと思う必要があった。

新山だけではもう今以上に関係を深めるのが難しかったが、それでも諦めることはできなかった。

「……明日も来ますか?」

「ええ、明日も来ます。陽が昇るまでの間だけですけれど、構いませんか?」

「雨や曇りで陽が昇らなかったら……?」

「雨や雪が少ない気候なんです、この村は」

詩織はそう言って、歩きはじめた。新山は引き留めることなく、彼女の背中を見送った。

翌朝になっても新山と詩織は出会い、少ない同じ時を共にした。昨日のように話し合うことはなく、共に口を閉ざしている。昨日の出来事が新山と詩織の間に壁を作らせたようだった。最初の頃に戻ってしまったようだ。しかし、二人の間に流れる沈黙は決して冷たいものではなかった。

新山は多くのことを話そうと考えていたが、考えれば考えるほどにまとまらない。深い思考の渦に飲み込まれてしまうようだった。詩織はそういう新山のことを気にかけるように、優しく尋ねてきた。

「新山さん、もうすぐ年末ですが家に帰る予定ですか?」

詩織にとってしてみれば、何気ない言葉だっただろう。しかし、新山にしてみれば全然そんなことはない強く現実を思い出される言葉だった。心のどこかに押し込めていた現実への不安が、一気に噴き上がってくる。

新山は詩織のようにここで暮らしているわけではないため、いずれは東京に、家に帰る必要がある。誰もいない家に。仕事をしていた家に帰らなければならない。

旅を終え、現実に帰る時が来る。木村から依頼されるのであろうエッセイの原稿に取り組まなければならない。それらしいものは一つも書けないのに。誰にどう書けば、新山はこの不安を拭い去ることができるのだろうか。

新山は可能な限り不安を押し殺して答える。

「家は近いので、帰るまではしないと思います。電話やメールで話すぐらいでしょう」

「ご両親は心配しません?」

「心配?」

「ええ、父も母もすごく心配するんです。私がこんなんですから、私が欲しいものの買い物すら二人でしちゃうんですよ。お陰でここから出たことがありません」

「そんなに心配を?」

「ええ。父は東京で働いているのに、よく帰ってくるんです。それでよく仕事の話を聞かせてくれるんです」

話題が移り、新山は詩織に同情する素振りを見せた。けれども、詩織は明るく軽やかな調子だった。

「聞くのも大変ではありませんか?」

「そんなことありませんよ。父は出版社に務めていて、本の話をよくしてくれます。私、本が読みにくくて……」

「……見にくいということですか?」

新山は自分の声が恐怖に震えていることに気付いた。

新山は文章を書くことで暮らしており、その手腕を振るえば詩織との関係は良い方向に持っていけるとばかり思っていた。旅の終わりに詩織への思いを綴り彼女に渡そうと考えていたのである。もしかすれば東京へ会いに来てくれるのではないか、という淡い希望に縋ろうとしたのだ。ここを出ることを決めるのは詩織一人では難しいかもしれないことは分かる。強い恐れが、彼女を縛りつけている。新山の書く言葉や思いならば、そんな彼女の恐れを和らげることができるのではないだろうか。

そう思っていたが、詩織はそんな希望すら打ち砕き、新山を東京へ帰そうとしている。

「そういうわけではないんですけど……。光の加減で読みにくくなるんです。明る過ぎて見にくくなることありません? あの感じです。ですから、父が私に語るように聞かせるんです」

打ち砕かれた希望は、硬い声となって新山の口から零れる。言葉多く語る詩織は新山の変化に気付くことはなかった。少し興奮したように詩織は、父が聞かせたことを教えてくれる。

「……そうですか」

「最近ですと、この村について書いた小説のことを話してくれました。秋にここへやって来て、出会いと別れを描く優しい話でした。私、早く秋になってほしいと思ってます。あの紅葉が、小説の中にあるような血塗られて見えるのか確かめてみたいんです」

新山は激しい動揺に言葉を失い、目を見開き、詩織を見つめた。すぐに、詩織の姿がぼやける。その姿形を思い描くことなど容易いことであるのに、今ではその姿は一つの黒い影となっていた。

詩織の父が、新山にこの村の原稿を依頼した木村であることは確かめる必要もないほど確かなことだった。詩織と木村が血縁関係であったことに驚きは隠せないが、それよりも遥かに大きな希望が新山を照らしていた。

新山は震えた声で、詩織に問う。

「その話を聞いて、どう思われましたか?」

詩織はすぐに答えてくれた。語り聞かせてくれた父に伝えるように。

「優しい小説だと思いました。新しいとも思いました。旅の思い出やこの村で生まれて育った思い出を語るのとは違って……。父はよくこの小説家の話を聞かせてくれます。優しくて、全然知らない物語の世界に私達を連れて行ってくれますけど、同じ目線に立って迷子にならないように一緒に歩いてくれるように思えて私は好きです……新山さん?」

詩織の言葉は次第に弱いものになり、最後は新山の名前を呼んだ。新山の頬は詩織の言葉を聞くに従い、熱い涙に濡れた。拭っても、すぐにまた涙が零れ落ちてくる。いつしかうずくまるように身を屈め、肩を震わせるようになった。

新山は詩織を不安にさせていると思い、すぐに返事をしたかった。けれども、止めどなく流れる涙により何も答えられなかった。

詩織は焦り戸惑うような素振りは見せず、手袋をつけた指先が新山の肩に触れ、そのまま震える手へと落ちてきた。詩織が何か言ったような気がしたが、新山は自分自身の嗚咽に遮られ何も聞こえなかった。

新山は自分が小説家だと、その話を書いている本人だと打ち明けることはできなかった。もし打ち明けてしまえば、この関係全てが壊れてしまいそうに思えたのである。自分が小説家であると名乗ってしまえば、詩織との関係はただの小説家と読者の関係になってしまう。今のような関係とは変わるが、そういう関係に変わりたいわけではなかった。

涙はようやく落ち着いた頃、顔を上げてまだ震えの残る声で伝える。

「不安だったんです。不安で……どこかに行けば何か変えられるのではないかと思って、ここに来ました。記憶に残っていたので」

詩織の声は新山の震えが伝わったように、微かに震えていた。

「確か、お仕事で……」

「このままでいいのか、自分はこの道を歩み続けていいのか分からなくて……。自分のやることに価値を見出せなくなっていました」

「大変だったんですね」

「でもやっと、どうにかなりそうです。自分の歩んできた道が間違いでなくて、この道を歩み続けていいんだと……」

陽はいつしか昇り、柔らかな陽射しが四阿に注がれる。詩織は新山の側を離れ、傘を手にして、家に帰る頃だろう。しかし、詩織は傘を持つことなく、まだ座っていて、新山の方に顔を向けている。傘を持つような気配すら感じられない。新山はこういう言葉を詩織に投げかけた。詩織は落ち着いて答える。

「陽が、昇りますね」

「昇りますね」

「帰る頃ではありませんか?」

新山が訊くと、詩織は柔らかく微笑んだ。

「もう少しだけ、居ようと思います。今の新山さんを一人にしてしまってはいけないような気がして」

 

 

大晦日を翌日に控えた真夜中、新山は休むことなく原稿用紙に万年筆を走らせていた。原稿用紙の上を滑る万年筆の音だけが、部屋に満ちる。インクが乾く間もなく言葉は続き、幾つかのエッセイが書かれる。

まだまだ書けそうだったが、不意に新山の手が止まった。陽はまだ完全に昇ることはなく、窓の向こうは薄暗い。けれども、山の頂きや稜線の方は陽の光を受け、明るかった。万年筆を投げるように置き、慌てて宿を出る。宿はまだ暗く、誰の姿も見えなかった。階段を降りる新山の大きな足音だけが響いた。宿を出て、歩き慣れた道を走る。林の中には明るい所が点々と出来上がっていた。

四阿には詩織の姿があった。詩織はいつものように席の日陰の所に座っていた。いつも新山の座っている席にはもう陽の光が届こうとしていた。彼女の脇には、丁寧に巻かれた細長い傘が一本置いてあった。柄を持って、詩織は立ち上がろうとした。荒れた息は詩織の耳に届いたのか、新山の方を向いた。詩織は新山を見ると、安心したかのように笑う。

「今日は随分と遅かったんですね」

「帰る用意に手間取ってしまって……」

「結局、年越しはご自宅に?」

「ええ、実家に顔を出そうかと」

「帰られる日に……構わないんですか?」

「いえ、いいんです。朝食もまだですから」

新山と詩織はそうして、各々の帰路についた。その日の朝食の後、また少しエッセイを書き進め書き終えると新山は宿を引き払った。ここから東京に帰るまでが長かった。バスで駅前まで揺られ、在来線と新幹線を使う必要がある。

陽はもう随分と高い所まで昇り、村の隅々までを明るく照らしていた。澄んだ青空がどこまでも広がっている。東京の方でも天気は崩れることなく、晴れ渡っているようだ。

バスを待つのは新山一人だろうと思っているとバス停には、今朝に日の出まで話していた詩織の姿があった。朝の時とは違い、その手には小さな鞄を持っていた。それでも、その黒い傘の下に立つ姿は詩織その人だった。

新山は驚き、声をかけることはできなかった。そんな新山に、詩織は新山が驚くことが分かっていたように笑う。

「早い再会でしょう?」

「……どこまでですか?」

「駅前まで買い物です」

「何を買う予定なんですか?」

「靴です」

「靴?」

「ええ、もう少し歩きやすい靴が欲しくなって」

「良い靴があるといいですね」

「そうですね」

そんなことを話していると、バスが来た。乗客は新山と詩織の他には誰もいなかった。新山が窓の側に座ると遮光幕を下ろした。詩織はその隣に座った。

そして、帽子を脱いだ。白い短かな髪が、新山の目に映った。染めたり色を抜いたりすることでは見えない艷やかな白だった。詩織はサングラスも外して、明るい青い瞳を新山に向けた。明るい青い瞳はバスの明かりを受けても変わることなく鮮やかだった。

詩織は手袋も外し、サングラスと共に手に持つ。詩織の手が微かに震えているように見えた。新山はかつて詩織がそうしてくれたように、優しくその白い指に触れようとした。その時、新山は自分の指先が万年筆のインクが薄く付いていることに気付いた。新山は慎重に詩織の手を握った。詩織の手は汚れることはなく、白いままだった。新山の手は冷たい冬の風を浴び冷たかったのか、詩織の指は一瞬驚いたように震えた。

「大丈夫ですよ、大丈夫です。心配する必要はありません。綺麗ですから」

新山が目を逸らすことなくそう言うと、詩織の白い頬が赤く染まった。詩織は新山の手を握り返した。

「駅前までどれくらいかかりますか?」

「一時間ぐらいだったと思います」

「長いですね」

「ええ、長いです」

「木村さん、こういう話を聞いたことありますか?」

新山はそう切り出して、長い道中を詩織が退屈しないように語り始めた。それはまだどこにも発表されていない、どこにも発表する予定のない詩織のために作った物語だった。<了>


 

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