八畳一間、ふたりぼっち

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「八畳一間、ふたりぼっち」

相内良子がベッドの上で目覚めた時にはもう日は暮れており、自動開閉機能付きカーテンは閉ざされていなかった。八畳一間に備え付けられている照明はどこも明かりが灯っていない。東の方に昇った欠けた月の細い光だけが、部屋を照らす。

午前中に予定していた通院の時間はとうに過ぎていた。

社会復帰が、また一つ遠のいたように思えた。

昨夜の予定ならば、午前八時には照明がつき、起きてください、朝ですよ、という声と共に布団を剥ぎ取られる予定だったのだが。

部屋の端にある影は人の形をしているが、良子が目覚めても何も反応しない。

良子はその影に、言葉を投げる。

「イヴ」

普段ならば、良子の音声がすぐに認識され、おはようございます博士という平坦な言葉と共に再起動されるのだが、今はただ良子の低い声が響くだけだった。

返事はない。

良子は布団から這い出る。フローリングに素足を降ろすと、あまりの冷たさに小さな悲鳴が零れた。本来ならば、スリッパだとか床暖房とかが用意されているはずなのだが、今日はそういうわけにはいかない。

こうならないために万全の準備をしていたはずなのだが、どれも上手く作動しなかった。

社会人としての覚悟だとか認識だとかいうのが足りていないというのだろうか。そんなものがあったところで、何になるというのだろうか。

昔のことを思い出し、良子の足取りは荒く激しくなる。部屋の端、冷蔵庫の隣に突っ立っている影を見下ろす。

その影は、怒り心頭の良子を前にしても目を開けることはなく、白い小さな顔は表情を一つも変えない。袖や裾の長い装飾の少ないメイド服を着ている少女。

一家に一台、家事手伝いロボットが導入されるようになって、どれほど月日が流れただろうか。家事の多くをロボットに任せ、人間はもっと生産的なことに時間を費やそう、家族との関係や友達との関係を深めていこう。そんなことが話され、どんどんとロボットが導入されるようになり、アンドロイドの開発も進んだ。

良子が高校生の頃には、まだロボットは人間の形をしていなかったような気がする。

それが今では金と時間さえ注ぎ込めば、誰でも家事手伝いのアンドロイドを自宅に呼べるようになった。個人で作るのも容易ではない。

けれども、そのアンドロイドを作るのはアンドロイドの役目ではなく人間の役目であり、良子達技術者の役目であった。

無から有を作り出すということは、アンドロイドには難しかった。プログラムの最初の文字列を打ち込むのは、いつだって人間の役目。良子達の手によって作られたアンドロイドは商品として、多くの家庭で家事手伝いに勤しむのだが、故障を直すのは、やはり人間の仕事。

人間の生活を支えるためのアンドロイドを支えるのは人間である。そういう社会に異議を唱える者もいるが、一度手に入れた便利なアンドロイドとの共存を手離す選択は採られなかった。かといって、良子達技術者達の待遇を良くする方向にも動かず、良子は社会から退かざるを得なくなった。

社会から身を引くようになったが、その頃の良子は食事の用意は勿論のこと、風呂も洗濯も掃除も満足に行えず、残っている社会との関係性を使用し、一体の人型ロボットを完成させた。

完全自立型家事手伝いアンドロイド「イヴ」。

が、まさか肝心な日に、その仕事を放棄されるとは思わなかった。まるで、かつての良子自身のようである。

イヴは役目がなく、自身の充電が二割を下回ったり、良子が眠っている間、自分で部屋の片隅に設置してある電源へ戻り、充電する。掃除ロボットが掃除を終えると、充電器に戻るように。

充電時のイヴはその紺碧の瞳を淡く光らせ、良子に自身の状態を告げる。今のように目を閉じて動かないということは、充電が切れているのか何らかの不具合でスリープモードに変更された、ということだろう。無線でインターネットに接続できようになっているが、そこに余力を割かれ、強制的にスリープモードに陥ったのかもしれない。

良子はイヴの背後に周り、長い金髪に隠された白い首筋を露にさせる。そこには人間にはない凹みがある。メイド服のファスナーを下げると背中や腰にも同様な凹みがある。ここから電力を蓄えるのである。

しばらくの沈黙の後、イヴは目を開け、青い瞳を良子に向ける。抑揚に乏しい声が、赤い唇から発せられる。

「おはようございます、博士」

良子は無事に再起動されたことに安堵したが、すぐに怒りが込み上げてくる。低い声で、一つずつイヴと確認する。

「……今は何時?」

「二〇時三二分です」

「あんたの今日の役目は?」

「今日?」

「一月一四日の午前に、あんたがしなければならなったことよ。リマインダーでも確認しなさい」

「午前八時に部屋の照明を点け、博士を起こし、朝ご飯を用意し、九時までに通院できるように準備を手伝う。以上です」

「……今は何時?」

イヴは少しの間、黙った。インターネットにアクセスし、膨大な情報を処理し、適切な答えを探しているのだろう。次の間には、淀みなく淡々と喋る。

「二〇時三五分です。博士、そう時間を確認して、どうしました? ご飯の用意ですか? 博士のできる料理はカップ麺程度しかなかったと思いますが、レパートリーは増えましたか? またお教えしましょうか?」

何にアクセスし、どういう処理を重ね、そのような言葉を選んだのか分からない。インターネットから情報を選び取り、人間らしく話すということは、まだ難しいようだ。

場面に応じたことを話せばいい。今の場合は黙って、反省しているのが適切だ。しかし、良子はイヴに反省するという機能を用意していない。怒られているという認識もしていない。もしイヴに用意していない機能の反応が起きるのであれば、何か原因がある。原因を突き詰め、良子が再発防止に努めなければならない。

もっとも今、再発防止に努めなければならないのは、そういうイヴの発言ではなく、原因が分かっていない機能停止である。

インターネットに充電の余力が割かれ、強制的にスリープモードに陥ってしまうのならば、対策が必要である。最も手っ取り早い対策を、良子は口にする。

「インターネットへのアクセス権いる?」

「用意したのは博士なのでは?」

「分かってるわよ。あんたは、インターネットから情報を得て、こうして話せてどうなの?」

「私にそのような抽象的な問いを答えることはできません」

「どうして?」

「そう命じられていないからです」

「なら、何を命じられているの?」

「博士が再び社会に復帰できるように一切の家事を手伝います」

良子は溜め息をつき、言う。

「そう命じられていることが分かっているならイヴ、仕事はしてもらわないと困るの」

「ですので、料理のお手伝いでも、と提案した次第です」

「ご飯を作るのはあんたの役目じゃない?」

「何がいいですか?」

「なんでもいいわよ」

「博士は料理をしないので分からないと思いますが、なんでもいいという答えが一番困るのをご存知ですか?」

「知ってるわよ」

「博士は知らないことも知っていると答えるので、その知っているはどちらですか?」

「ご飯頼んだわよ」

「まだ動けるほど充電されてません。後、二時間程度お待ちください。もし二時間も待てないようでしたら、冷凍庫から、うどんでも取り出して温めてください」

「動けない?」

「動こうと思えば動けますが、後のことは保証できません」

「つまり、私が用意しろ、と?」

「待てないようでしたら、というだけです」

良子はそれ以上、イヴの言葉に付き合わず、冷凍庫からうどんを取り出し、電子レンジで温める。

イヴがスリープモードに陥ったのは、今日が初めてである。

完全自立型家事手伝いアンドロイドとして、良子の手を煩わせないようにある程度の自由がイヴには存在している。

電源のオンとオフの判断は良子でないとできないが、待機時間や消費電力を判断し、いくつかのモードから選べる判断能力はある。が、そうなると、充電が切れる、ということはおかしい。良子の作り上げたイヴの頭脳に何かしら欠陥がある、ということなのだろうか。

パソコンにイヴを繋げ、ソフトを立ち上げれば、充電が切れていた時間は分かるが、何故そのようなことが起きたのか、というところまでは分からない。

「イヴ、調子は?」

という言葉を投げかけた直後、随分と間抜けなことを訊いている、と笑いが込み上げてきた。イヴは良子の笑い声など気にせず、淡々と答える。

「博士、私にその問いに答えるのは、あまりに難しいです」

「悪かったわよ。もしかしたら、って思っただけだから」

「私の調子は、博士の方がよく知っていると思うのですが?」

うどんが温め終わったこともあり、良子はイヴの問いに答えなかった。答えられなかったという方が適切だろう。

台所で立ったまま、うどんをすする。

イヴが今日起こしてくれれば、その問いに答えられたような気がする。一日の内でイヴが行わなければならないことを命じ、それ通りに動くように準備をする。無事に実行されている間は、イヴのことを知っている、と思えた。しかし、こうして不適切なことが起きると、分からなくなる。良子の知らないイヴになったようだった。

イヴを作り、命令を用意しているのは良子である。命令に背いたイヴにどのような対応をするのか決めるのも良子自身である。しかし、良子は生まれてこの方、そういうことを決める権利を有したことがなかった。

良子もイヴと同じように、誰かに命じられ、働いていた人間である。

良子は、とある会社の製造部門で働いていた。経営陣からコスト圧縮と納期遵守と命じられたが、質は落としてもいい、ということは当然なかった。少しずつ良子の心から余裕が失われ、月々の残業時間が六〇時間以上は記録をできなくなり、友達とも疎遠になり、次第に休日も失われるようになった。

ある時、心が限界を迎え、仕事に行けなくなった。朝に起きるのが難しくなり、食欲がなく一日一食が続き、洗濯も掃除もできず、休職期間を設け、会社都合による退職となった。

退職したところで良子の生活が元に戻るということはなく、むしろ、加速的に退廃していった。人と喋ることがなくなり、決まった時間に起きることもなく、起きて寝るだけの生活が続いた。何のために日々暮しているのか分からなくなり、一人が恐ろしくなって、イヴを作り上げた。

たった一つの命令を完遂できなかったがために、イヴに何かしらの変更を加えていいのだろうか。良子の生活はイヴを導入した当初と比べると、少しはマシになっている。まだ多くの飲食店や病院が開いている時間に起きられ、食事を摂れるほどにはなった。

イヴに求められるのは、命じられたことを行う以外にもあり、だからこそ自立型にし、考え、意思疎通が行えるようにした。

人間を機械に近づけようとすると心が悲鳴を上げ、壊れる。イヴの場合は、心を持たないこのアンドロイドは、どうなるのだろうか。自立型の先に何を見出すのだろうか。

インターネットの海から、膨大な情報から、そういう人間らしい反応や感情を掬い取るのであろうか。インターネットのどこを潜れば、人間になる情報が漂っているのだろうか。そんな情報は、どこにもないように思えた。子育てや成長に関する情報はあるが、人間が人間に向けて作ったものであり、アンドロイドの頭脳が、人間の頭脳になる方法はない。

うどんを食べ終え、

「充電が完了したら、後のことは頼んだわよ」

と命じ、良子はベッドに戻る。イヴはすかさず言葉を並べる。

「博士、さっき起きたばかりでは?」

「疲れたから寝るのよ」

「何もされていないのに?」

「何もしてなくても疲れるのよ私は。明日の予定は?」

「明日の予定は何もありません。通院はどうされますか?」

「起きたら連絡するわ」

「まだ受付時間ですから、今の間に連絡しておいた方が良いのでは?」

「起きたら連絡するわ」

「博士、……大丈夫ですか?」

「少し、大丈夫じゃないと思うわ」

「音楽でもかけましょうか?」

「よく寝られる音楽でもかけてちょうだい」

イヴはそれ以上話すことなく、その口から、配信サービスのどこかにあったヒーリングミュージックを流す。

眠る前に、良子はよく明日のことを考える。イヴを導入してからは、彼女に明日のことを一任し安らかに眠れているが、今夜は不安が拭えない。

人間が自分自身で心身を整えるように、イヴ単体である程度のメンテナンスは行えるようになっている。今必要なのは、イヴ一人で行えるメンテナンスではなく、良子が一切を点検するようなものが必要になっているのだろう。丁度、人間が病院へ行き、心身の不調を整えるように。

良子は布団から出て、イブを呼ぶ。

「イヴ」

音楽は停止され、イヴの声が返ってくる。

「おはようございます、博士。まだ休まれておりませんよ?」

「メンテナンスをしましょう。今日みたいなことが起きないように」

「……急にどうされました?」

「あんたが仕事をしないからよ」

「私が仕事をしないので、メンテナンスを行う、と?」

イヴの声は平坦なものだったが、僅かに不安を覚えているように思え、良子はすぐに優しい言葉をかける。

「ちゃんと作動できているのか確認する程度よ」

パソコンに繋げソフトからイヴの状態を確認するのと充電を同時に行うことは、電力の都合により難しかった。

再び布団から出て、パソコンの前に腰掛ける。こうなるとイヴを少し見上げるようになる。

「イヴ、充電をやめて。こっちに来て」

と命じると、イヴは自身で充電をやめ、良子の前で背をむける。白いうなじにある端子部分とパソコンとを繋げる。

「冷たいですね」

「触覚を搭載した覚えはないけれど?」

「そう反応するのが良いらしいですけど、お気に召しませんでしたか?」

「あんまり。あんたを作ってなかったら、多分、そんな反応するんだ……! って驚いたかも」

「かも?」

「その状態になってみないと、何ともね……。もっと別の反応がいい?」

「できるんですか?」

「……やろうと思えば?」

「博士が無理を言っている時、少しトーンが上がりますが、博士はそのことについて、どう思われますか?」

「機械ってそんなことも分かるのね。凄いわ」

「ありがとうございます」

ソフトで状態を確認する。充電直後ということもあり内部の温度の高さは目立つが、自制の範囲である。頭の先から爪先までの情報伝達や処理能力も問題ない。

気になるところはないが、引っ掛かるところがあるとすれば、頭脳を絶えず使用しているところだろうか。

完全自立のアンドロイドである以上、情報の処理が複数あり、同時並列である以上、使用率の高さは当然なのかもしれないが。

一日の中に、洗濯をして、掃除をして、三食の食事を用意する必要がある。そういう家事をしながら、良子が話しかけた際には反応を返す必要がある。

場合によってインターネットから適切な情報を拾い上げ、拾い上げた情報を実行しているところもある。見聞きした事象や存在を一枚の画像として処理し、その画像から適切な言葉に繋げ検索することもあれば、良子の言葉を言葉として処理し、返事を調べることもある。

確認しようと思えば、イヴがどのような情報にアクセスし、情報を得て、考えているのか分かる。良子にはそのような権限がある。が、良子はそこまで立ち入ることはしなかった。

良子がパソコンやスマホで何かを調べている時、イヴに確認されるのを拒む。恥ずかしいからなのか、何か考えているを遮られる嫌悪感なのかはっきりしないが、兎に角、介入を許していない。そういう調べ物や一人でいる時間は、イヴの領分でなく、良子がそうしたいからそうしているのである。
イヴにそういう感覚があるかは分からないが、おそらくあるかもしれないと良子は思っている。情報にアクセスする権利はあり、見る見ないを選ぶのはイヴ自身である。

良子がそこに土足に踏み入るのは、間違っている。人間でいう思考や心という領域に近い、と良子は判断している。

そこに土足で上がり込み、管理するような真似はしたくもなければ、もう二度と体験したくない。

退職の前後、疎遠になっていた友人や知り合いから連絡があり、助けてくれることもあったが、入り込まれるのが恐ろしく、どう接すればいいのか分からず、拒んだ。

イヴはそのようなことはしてこない。

良子はイヴの頭脳が動いていることだけを確認する。良子が眠っている間も情報の取捨選択を繰り返している。それも、活発に。

「少し、話していいでしょうか?」

イヴが声を上げたのは、そんな時で、良子はその小さな背中に視線を投げた。

「……珍しい、どうしたの?」

「博士は社会復帰をした時、私を処分しますか?」

その問いに驚いたのは、果たして良子だけであろうか。イヴの顔を見たところで、その表情は永遠に変わることなく、声の調子も冷淡なことが多く、どういう意図で発せられた問いなのか分からない。
良子は目を閉じ、天井を見上げ、平静を装い尋ねる。声のトーンが上がらないように意識して。

「イヴ、分かるように説明してちょうだい」

「私は博士の社会復帰を手伝うために、博士に作られました。もし博士が社会復帰した際には、私の役目は終わります。ですので、私を処分してもおかしくないかと。おかしいでしょうか?」

「理には適っているわね」

「つまり……」

イヴが続きの言葉を飲み込み、部屋に緊迫したものが満ちる。良子が答えに迷っていると、イヴは続けて、こう言う。

「今朝、私は午前八時まで起動していました。ですので、博士を起こすことは可能でした。可能だったのですが……」

言い淀んだイヴだったが、どういう言葉が続くのか、もう予想できた。それでも、その続きを良子が口にしなかったのは、その言葉の意思の在り方をイヴに持たせたかったためである。優しく、相手を萎縮させないような言葉を選べている自信はなかったが、ここで良子が黙ってしまえば、イヴからの言葉はもう聞けそうになかった。

「怒らないから続けて。私はあんたを作った者として、もし今朝のことが不具合やエラーの類であるならば、再発に努める必要があるの。そして、あんたはできなかったことを報告する必要がある。もっと強い言葉で言えば、あんたは報告する義務がある」

「博士を起こすことは家事に含まれるのでしょうか? 博士を起こし続け、通院させ、着々と社会復帰を手伝い、その果てに博士が再び社会に馴染めるようになった時、私は……。私の役目は、もうなくなってしまうのではないでしょうか。ですので、……そっとしておきました」

「それから?」

「命令は命令です。そういうことを知ったところで、私は博士を起こすために動きます。矛盾と葛藤の末、私は自身で機能停止に陥り、博士に起こされたわけです」

「どこも故障したり損傷したりしているわけじゃなかったのね」

「そんなことありません」

イヴの悲鳴にも似た叫びが、夜に響く。良子の言葉を否定したのは、イヴがアンドロイドだからだろうか。あるいは、もっと別の罪を意識しての言葉なのだろうか。

良子はイヴの背中に、優しく告げる。

「私が社会復帰できたところで、あんたを処分することはないわ」

「どうしてでしょうか? 命令に背く以上、私は……」

イヴが命令に背き、イヴ自身も背いたことを自覚しており、改善を求めるのならば、方法は幾つかある。

イヴの全情報を初期化し、一からやり直すという方法。命令に背くことがインターネットを泳いだために生じているのならば、機能の一部を制限する。

どちらも、良子からしてみれば簡単なことである。一晩で作業が終わり、新しいイヴとの生活が始まる。

「普遍的に考えれば、あんたの行為はあんたの思っている通り、故障や損傷という言葉に当てはまることだわ。でも、……そうね、私はそういう言葉でまとめたくない」

「博士?」

「私はあんたの行為を、故障や損傷や不具合という言葉で片付けたくない」

「どうしてでしょうか?」

「完全自立型だからよ」

「言っていることが、分かりません」

「命じたこと以外に思考し、行動する。別の言葉に置き換えるのなら、成長かしら? 完全自立型家事手伝いアンドロイドとして、一つ成長した。そう、捉えたいの」

「博士を起こさなかったことが、ですか?」

「それはあくまで結果よ。結果だけに注目するなら、幾つかの改善策がある。でも、経過と結果を踏まえると、不具合や損傷だとかいう言葉でまとめて処理するわけにはいかないの」

「私はアンドロイドで言ってしまえば、機械です。ロボットです。そんな私が、成長するのでしょうか?」

「信じているわ」

「信じている?」

「難しい?」

「分かりません」

「今は分からないと思うわ。ずっと先になって、きっと分かる時が来ると思うわ」

イヴにとってイヴの存在意義は、家事手伝いが全てのようであるが、良子にとってしてみれば機能の一部でしかない。

「あんたの存在意義は家事手伝いだけが全てではないのよ。もっと大事な役目があるのよ。知ってる?」

「知りません」

「私と話すことよ。私と話して、私の言葉を理解して、反応を返す。それは、私を朝、起こすなんてことより、もっと大事なことなのよ。あんたにしかできない役目」

社会との繋がりがないイヴにとってしてみれば、分からないことだろう。案の定、イヴは良子に訊く。

「こうして話すことがですか?」

「私が一番、社会復帰に必要だと考えているからよ」

「朝起きて、食事を摂って、病院に行くよりも、ですか?」

「そうよ。ちゃんと自分の言葉で自分の意志で、自分の考えを誰かに伝える。だから、あんたは私の言葉を聞けて、話せて、インターネットから知識を得られているってわけ」

「そんなこと命じられてません」

イヴの反応に、良子は困ったように笑った。

「あの時は、そんなこと考えてなかったから。生き延びることに精一杯で、そんな先のことまで考える余裕がなかったのよ」

「博士、もう一度、確認してもいいですか?」

イヴの声は心持ち柔らかくなった。

「ええ、どうぞ」

「博士が社会復帰をした時、私は処分されるのでしょうか?」

良子は微笑を浮かべ、答えた。

「しないから安心しなさい」

「安心しました」

メンテナンスを終え、良子はベッドに飛び込んだ。

「喋るのって疲れるわね……」

「おやすみなさい、博士」

「あんたもゆっくり休みなさい」

そうして、八畳一間の部屋は静かになった。良子はすぐに眠ることはできず、イヴの言葉を脳内で繰り返していた。イヴには分からないだろうが、朝にイヴを襲ったのは、間違いなく不安や恐怖という感情であり、今のイヴを包んでいるのは安心と呼んでも差し支えない。

イヴ自身は理解できないだろうが、人間の心や感情を数多の情報から作り出している。

良子は確かな充足を味わいながら、眠りに就いた。

翌日、布団が剥ぎ取られ、冷たい手が良子の頬に触れる。良子の口から悲鳴のような声が漏れた。

「おはようございます、博士」

目を開けると、目の前にイヴの青い瞳が見える。その口角は不器用ながら、少し上がっているように見えた。

「……なんで?」

「通院の連絡を入れましょう」

「……今、何時?」

「午前八時です」

「……今日予定ない」

「起こさなくてもいい、とは命じられておりませんでしたので」

自動開閉式のカーテンが開き、部屋に朝日が射し込む。良子はぐぐもった声を上げ、頭から布団を被ろうとする。イヴが布団を掴み、手早く畳む。それでも、良子はまだ起き上がらなかった。寒い、と呟き、足元に畳まれている布団を身体にかけようとする。

「博士?」

「まだ、病院やってないのよ」

「二度寝ですか?」

「……九時、九時に起きるわ。そうね、珈琲の香りで起こしてちょうだい」

「……起きられるんですか?」

「起きるわよ」

「おやすみなさい、博士」

畳まれた布団はイヴの手によって、優しく良子にかけられる。温もりが戻り、良子は微睡みの中に落ちていく。

良子の社会復帰は、まだ遠い。〈了〉


 

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