「返却期限」
いきなり降ってきた雨は凄まじく、俺達の身体を即座に濡らす。ユニフォームは重くなり身体を冷やす。腰に着けているコルセットも濡れているような気がして、頭の中で慎重にそれでも機敏に動くようにイメージする。
いつもの練習と同じ動きを思い出す。確かめるように足先でグランドの感触を確かめる。微かに柔らかいような気がする。
急に動くと腰に負担がかかり痛むこともあるから冬場は普段よりも気を付けて、と病院の先生に言われたことも一緒に思い出した。
一年の嫌な記憶が蘇る。あの時は晴れていたし、ゴールデンウィークで練習漬けの毎日だった。内野ノックを受けていて、ファーストに投げようとした瞬間、腰に強烈な痛みが走った。
嫌な思い出を消し去るように集中してみるが、バッターボックスに立つ監督の姿を烈しい雨に遮られ、はっきりと見えない。
ボールはきっとあまり跳ねないだろうから、いつもより前へ出ることを意識する。
高い金属音が響いた後、ボールは俺の所に転がってくる。
思っていた通りだ。バウンドの跳ねは弱く、速度も遅い。
急いでそれでも慌てずに右足から踏み込み、キャッチしてから投げようとして、指からボールが滑り落ちた。
ボールは足元に落ちていた。
大雨の向こう側から、部員達の大きな声。すぐに拾い上げ、ファーストへ。送球は思ったよりも少しだけ低かったが、ミットに納まった。
普段と違った土の感触が、冷えた指先に残っていた。
監督からの指示で部室に避難した俺達は口々に雨のことを話したし、雨天時の対策も何個か確認した。キャッチしてからの送球について指摘され、言われた通り、俺は指先で投げてしまっていた。
やむかやまないかはもちろんのこと、この後の練習のことも。監督のことだから、雨がやめないと考えて、室内練習に切り替えることもあるかもしれない。
もしかしたら悪天候での試合を想定して、なんてことも有り得るかもしれない。何もこんな二月にやるようなことではないと思うけど。
空はずっと向こうまで真っ黒な雲に覆われている。部室の中まで、激しい雨音が響いている。
予備のコルセットを取り出そうとエナメルの中を覗くと、見慣れない文庫本が入っていた。
家でこんな古くて小難しい本を読むのは誰もいないし、自分で買った覚えもない。取り出してみると、本の上の方に図書室の貸し出し印があった。
図書室はグランドから一番近い校舎の二階の端にある。走って返しに行って、すぐに戻ってくれば間に合うだろう。頑張れば図書室の窓からグランドで練習しているのは見えるし、図書室にいるであろう担当職員の亜子ちゃんに返却期限が遅れたことをねちねち言われようが、間に合うだろう。多分。亜子ちゃんに見つかる前に、カウンターにいる誰かに渡して走って去ればいい。俺だって練習があるんだし。
監督とキャプテンと話し合いはまだ終わる様子はなさそうで、一声かけて図書室へ走った。校舎の中に入ると、雨音は少し和らいだように感じた。
この本は、この前のテストが返ってきた時の亜子ちゃんの説明が全然分からなかったから借りた本だ。借りたその日に開いてみたけど、全然面白くなくてすぐに読むのをやめた。鞄の中に突っ込んだままにして、返却期限も何日か過ぎていたらしい。亜子ちゃんから、本の返却について言われたことがあったけど、そのことも忘れてしまっていたようだ。
見つかると絶対に怒られるだろうし、誰もいないでほしい……。
そう願いながら図書室のドアを開けようとしたら、勝手に開いた。止まろうとしたけど突然過ぎて難しくて、胸の辺りに衝撃が広がる。それから女子の驚いた声。
「大丈夫っすか!」
俺も突然のことで、大きな声で心配する。女子としては少し低い声が返ってきた。
「あー、うん、大丈夫……」
鼻や額を抑えるその人は、二つ上の先輩で、かつては図書委員を務めていた柏木先輩だった。
「柏木先輩!」
久し振りに見た先輩に、俺はまた大声を上げた。すると先輩はすぐに眼鏡の奥の瞳を細めて、しっと唇を指先へ。
大学生になった先輩に、高校の頃の面影は全然ない。三つ編みをやめた黒髪は癖がなく真っ直ぐ肩ぐらいまで伸びていて艶やかで、シャツもニットもスカートも全部が大人っぽい。昔と変わらないはずの銀フレームの眼鏡が途端に知的に見えた。
セーラー服に三つ編みっていういかにも文学少女らしい姿は、今の柏木先輩のどこにも見当たらない。
「え、……あ、大学は?」
「今日はもう講義ないんだよ」
「それで、学校に……?」
「返し忘れた本があって……」
恥ずかしそうに笑う先輩の姿は、珍しかった。
俺と先輩の家は近かったけど、朝練で登校が早くて、練習や後片付けやミーティングで帰宅が遅い俺とは全然接点がなかった。入学式とか終業式とかに時々顔を合わす程度。連絡先とかは交換しなかった。先輩は小学生の時から図書室にいて、中学から図書委員を続けているような人で、俺みたいな奴と合うような話題は全然ないだろうし。
図書室のどこを見渡しても、亜子ちゃんの姿はなかった。普段なら、愛想なくU字型の受付カウンターを根城にしているのに。
先輩は懐かしいなぁ……と呟いて、U字型の受付カウンターの中に入り、椅子に座る。先輩の後ろには図書カードはしまっているケースやファイルが置いており、カーテンがかけられた窓の向こうからは大きな雨音が流れていた。
先輩はもう図書委員じゃないのに、そこにいて、俺は当然過ぎる疑問を投げかけた。
「……帰らないんすか?」
「亜子ちゃんに留守番頼まれちゃってさ……」
「マジっすか……」
いると思っていて図書委員は、今日はいない日で、亜子ちゃん一人の日だったのか。先輩がいてくれて亜子ちゃんの小言は聞かなくて済みそうだけど、それって許されるのか……?
「食堂行っただけだろうし、すぐに帰ってくると思うよ」
「本当にすぐなんすかねぇ……?」
「まぁどうせ、これでしょ」
と言って、先輩は呆れたように口元に指でピースサインを作る。
亜子ちゃんが受付カウンターにいない時は、食堂に行ってくるって言って、裏門の所に置いてある喫煙所で一服してくるのが、いつものパターンだ。
「それで、きみはどうしたの?」
「あ、えっと、本を借りてて、返しにきたんすよ」
「……本?」
ズボンの尻ポケットにしまっていた文庫本を先輩に見せる。先輩は昔のようにカウンターの後ろに置いてあるケースから俺の図書カードを取り出した。
大きな溜め息をついて、ぽつりと呟いた。
「……期限、過ぎてるじゃない」
すぐに、私が言えたことじゃないけど、って付け足した。
「あー、えー、面白くて、つい……」
咄嗟の嘘は、先輩には通じないようだった。無言で俺の目を見上げてくる。じっと見抜くように。丸くて大きな目に見つめられて、俺は正直に答えた。
「あれなんすよ、亜子ちゃんの作った問題が分からなくて、それで……」
「亜子ちゃんの作る問題、意地悪だもんね。私もやられたなぁ……」
「そうなんすよ! マジなんなんすかあれ!」
「それで読んで分かったの?」
「全く全然。まず読めなくて、むずくて」
先輩は俺の感想が面白かったのか微笑を零して、指で表紙のタイトルを追いかける。
最初で読まなくなったけど、分かったことがある。教科書に載っていたのは全体の一部で、テストに出てきたのは更に一部だった。全体像のことを訊かれても、そんなの分かるわけがない。配点は一点と正解できなくても問題ないような扱いだったけど、それでも不正解なのは嫌だ。
「この作家の書く話は難しいもんね。私も、ちょっと分からないかな」
恥ずかしそうに笑う先輩の言葉が意外だった。先輩は小説のことなら何でも知っているように思っていたから。
「え、そうなんすか?」
「そうだよ、意外?」
「あ、いや、そんなことは……。でも、先輩、志望校受かったんすよね?」
「そうだけど……。誰から訊いたの、そんなこと?」
「母ちゃんから聞いて、それで」
「ってことは、お母さんからかぁ……」
「あの私立は一般で入ろうとしたら難しいんすよね?」
「そんな言うほど難しくはないよ」
「でも、峰くんは難しいって言ってたんすよ?」
「峰くんも私の後輩になるんだぁ……野球強いもんね」
「そうなんすよ!」
先輩の通う私立はここらへんでは特に野球部が強い。大学野球リーグの最多優勝記録を持っているようなところで、プロ野球選手も輩出している大学だった。大学に入っても野球を続けようって考えている三年生は推薦でそこを受けることが多くて、今年も何人かが受験して、受かったのはキャプテンの峰くんだけだった。
「順一くんも来年はそこ受けるの?」
「俺は多分、推薦とか無理っすねぇ……」
「そんなことないと思うけどなぁ、頑張ってるじゃん?」
にこやかに笑う先輩に、俺も無理に笑って言った。
「腰痛めてる奴は無理っすよ」
「そうなの?」
先輩は俺の答えが意外だったのか、首を傾げる。先輩は図書室にいるから、そういうことは知らないんだろう。素っ気ない返事をした。
「そうっす」
「それじゃ、野球は高校でやめちゃうの? 小学校の時からやってたのに?」
「あ、いや、そういう……どうなんすかねぇ……」
腰が痛むようになったのは高校に入学してからだった。違和感は中学の時からあったけど、気にしなかった。それが高校に入って一年の夏休み、大変なことが起きた。
朝に起き上がれなくて病院に運ばれ、椎間板ヘルニアと診断された。野球を続けることは現状では可能だけれど、無理はしないようにと繰り返し言われた。
スポーツ推薦なんかで選ばれることはないだろうし、仮に選ばれたところで、受かるなんてことはない。スタメンになれないベンチ入りの奴を推薦で採ろうというところはない。甲子園で活躍したとかそういうのがあれば話は変わってくるかもしれないけれど、二年連続県大会決勝で負けるようなチームに、そんなのは夢のまた夢。後一歩があまりに遠い。
峰くんや先輩が受かった大学に受かろうとしたら、先輩のように勉強するしかなくて、配点が一点の問題であろうと落としたくもなかった。
亜子ちゃんの作る問題は苦手で嫌いだけれど、分からないままで終わらせたくなかった。でも、小学校から野球ばっかやってきた俺には、恋愛とか学問とか昔の時代のこととか全然分からない。読んでみようにも、全然分からない。
先輩でも分からないのに、俺なんかが分かるはずもなかった。
そんなことを話していると、窓の向こうから雨音は聞こえなくなった。
先輩はそっと立ち上がって、微かにカーテンを開けて外を見る。先輩の後ろから覗くと、雨はやんで、雪になっていた。
視線をグラウンドの方に向けると、部員達の姿はない。もしかすると、室内練習に切り替わったのかもしれない。急いで合流しないといけない。
「練習の途中なんで、じゃ!」
「すぐにやむよ」
出て行こうとする俺を、先輩は意外な一言で引き留めた。
「なんで分かるんすか?」
「そういう雲だから」
「そうなんすか?」
「うん、そう。それに……」
先輩は言葉を区切ると、カウンターの下に潜り込んだ。
「柏木先輩?」
俺が声をかけても返事は返ってこない。少し経ってから先輩が顔を出して、俺を手招く。
カウンターの方まで近づくと、足元から温かい風が吹いてきた。視線を落とすと、小さなヒーターが俺に向けられていた。
「暖まってからでも遅くないよ」
「先輩、神じゃん……」
俺は冷え切った全身を温めるように、ヒーターの前に座った。カウンターの扉の前で身体を丸くして。
かじかんだ指先が、じんわりと温かくなる。
「順一くんは、コーヒー飲める?」
「くれるんすか!」
頭上からの声に、ばっと顔を上げる。カウンターに置かれた微糖コーヒー。早く大人になりたくて夏の間に我慢して飲みまくったアイスコーヒーの恩が報われたような気がした。
「順一くんは大人だぁ……。亜子ちゃんがお祝いにってくれたんだけど、私コーヒー飲めないんだよねぇ」
「……先輩の方が大人っすよ」
「そんなことないよ」
朗らかなに笑う先輩。
受け取った缶コーヒーはまだ温かかった。思ったよりも、ずっと甘かった。
先輩は椅子に座って分厚いストールを膝にかけていた。カウンターの扉の下から、先輩の細い足に引っ掛かるスリッパが見える。ストールの隙間から、黒いタイツも。
ヒーターを先輩の方に向けようとすると、扉に当たり、微かな物音を立てる。先輩は遠慮がちに笑う。
「大丈夫だよ、きみ、この後も練習なんでしょ?」
「室内だから平気っす」
「駄目だよ。身体を冷やしたら腰に悪いんじゃない?」
柔らかく忠告され、俺はまたヒーターを独占した。
窓を見上げてやむのを待っていると、先輩はそっと教えてくれる。
「知ってた? 順一くん達野球部の練習って、ここから見えるんだよ?」
「先輩も見るんすか?」
「時々ね、皆寒い時も暑い時も凄いよね。さっきも頑張ってたし」
「別に凄くないっすよ。こんなのどこの高校もやってるんすよ」
「甲子園のために?」
「いや、それもあるかもしれないっすけど、そういうのじゃなくて、なんか好きなんすよねぇ……」
「練習がってこと?」
「この前は打てなかったボールが打てるようになったとか、この前は取れなかったボールが取れるようになったとか、そういうできなかったことができるようになるの、好きなんすよ」
「順一くんは真面目なんだね」
先輩に褒められて、俺は無愛想に否定する。
「そんなことないっすよ」
腰に違和感があっても練習は続けられるし、ヘルニアをできないことの言い訳にしたくない。そんなダサい奴になりたくない。
監督も言っていたけれど、野球はチームスポーツで、勝つことを考えればヘルニアを患っている奴をスタメン起用することは多くない。リスクを考えれば、そうなるらしい。いつ爆発するか分からない怪我持ちをスタメンで起用するのは、危険過ぎる。
そう考えると俺がベンチ入りできていることが不思議な話だ。
ヘルニア悪化を防ぐためにとかそういう理由でベンチメンバーから外すことは容易だろう。そう言われれば俺だって……。
でも、俺はそうなってない。
活躍の機会は減っているけれど、出番がないわけではない。俺にだって可能性はある。代打で選ばれることもあれば、守備固めや代走要員の可能性だってある。
その時が来れば、俺でもチームの勝利のためにできることはある。練習を嫌いになって、その時を逃したくない。
「……先輩も真面目っすよ」
「え、私が? そんなことないよ」
「先輩は図書委員で、別に俺みたいにチームとかそういうのないじゃないっすか。返却期限の本なんか忘れればいいのに、ちゃんと来て……」
「私も好きだから」
「……好きなんすか?」
「うん。本を借りて、読まれて、返す時にちょっとだけ話すの。好きなんだ」
「すみません、俺、読んでなくて……」
謝ると先輩は慌てたように笑った。それから、優しい調子でフォローしてくれる。
「借りた本を読むのは必須でも絶対でもないし、読みたい時に読めたらいいと思うんだよ、私は。読めなくてもいいと思うよ。順一くんにとったら、難しかったんでしょ?」
「そうっすけど、いや、そうっすけど……」
先輩にそう言われるとその通りだと思うけど、俺の言いたいことはそういうことじゃないような気がする。でも、どういうふうに伝えればいいのか分からなくて、ただ困ったように答えるしかなかった。
「そうなんすけど、違うっていうか……」
俺が答えに詰まっていると先輩が一冊の文庫本を俺へ差し出した。俺が借りた本と同じように古い本のように見える。でも、作者もタイトルも違って、読んだことない本だった。
「ぶしゃ……?」
「むしゃのこうじっていうんだよ」
「……誰っすか?」
「順一くんが借りた本の人と同じぐらいの人だよ」
「昔の人なんすねぇ」
「これだったら短いし読みやすいと思うよ」
文庫本はどこにも図書室の貸し出し印がなかった。俺は驚いて、先輩に訊く。
「これ、ここのじゃないやつっすか?」
「うん、そうだよ。私の。貸してあげる」
「なんで?」
俺の口から零れた当然な疑問に先輩は恥ずかしそうに聞き返す。
「……嫌?」
「嫌じゃないっす。けど、あの、先輩、もう……」
俺の声は露骨に沈んだ。先輩は大学生で、俺は高校生だ。貸してくれるのは嬉しいけれど、返すのは難しい。
対する先輩の声は不思議と明るいものだった。
「好きな時に読んで、好きな時に返してくれたらいいよ」
「いつになるか分かりませんけど、いいんすか?」
「遅くなっても、いいよ。きみが卒業してからでも。私、待っているから」
「時間かかると思うんすよ、俺、先輩みたいに賢くないし本も全然読まないし……」
「いいよそれでも」
微笑む先輩は俺の悩みを全て肯定してくれる。それでも俺が何か言おうとした時、先輩がそれまでの会話を断ち切るように言う。
「雪、やんだね」
「マジっすか!」
これ以上、サボっていたら何を言われるか分からない。残っていたコーヒーを飲み干して、先輩から本を受け取る。
「今度は絶対読んで、返しに行きますから! 待っててください! 卒業してからでも絶対っすから!」
そう宣言して、俺は図書室を出た。先輩が何か言ったような気がしたけど、俺はもうドアの向こうにいて聞こえなかった。
※
先輩から借りた本は、その日のうちに開いたけれど全然読めなかった。読みやすいと言われたけれど、全然そんなことない。図書室で借りた本の時と同じように最初だけ読んで、そこから先は読めなかった。
練習もハードになって、三年生が抜けた穴をどう埋めるか、とチームや監督と話し合う機会が増えた。
その結果、コンバートで俺のスタメン起用が決まった。ファーストだ。新しい守備位置は覚えることが多くて、先輩の本を読む時間なんて全然なかった。読まないのなら返した方が良いのかもしれないなんて考えていたら、春になった。
三年生になると、途端に進路のこととかが母ちゃんや父ちゃんの口から出るようになった。そして、俺の一人暮らしのことも。
そこから、先輩は高校を卒業してから一人で暮らしていると母ちゃんから知らされてびっくりした。そんなこと一言も教えてくれなかったし、そんな素振りは一つも見せてくれなかった。
先輩から借りた本をどう返そうかと思って、ぱらぱらとめくっていると、はさんだことのない栞が落ちてきた。
桜色の栞には、どこかの住所と見慣れない電話番号が書かれていた。
住所を調べると、近所のマンションが表示された。先輩達の通う大学には自転車で少しかかるぐらいの所にあるマンション。
ってことは、この電話番号はきっと先輩だろう。先輩の連絡先が分かると、緊張で胸が爆発しそうになった。
汗ばむ手で電話をかけると、繋がらなかった。留守電に繋がって、俺はようやく栞を見つけて電話をかけたことを伝えた。
少しして折り返しの着信。先輩の明るく優しい声で、俺の耳に届く。
「嬉しい、読んでくれているんだね」
俺の声は緊張していて乾いていて、固かった。
「済みません、まだ全然っす」
「いいよ、ゆっくり読んでて。きっと順一くんには難しい話だと思うから」
「めっちゃむずいっす。やばいっす」
笑う先輩に、ちょっと怒りを覚える。
「そうだよねぇ」
「分かってて、貸すのは酷くないっすか?」
「そう? じゃ、返しにくる?」
「それは駄目っす。まだ全部読んでないんで」
俺の言葉に、先輩は意外そうな声を上げた。
「全部読むの?」
「読むっす」
きっとあの時の本のように、読まれないと思っていたようだ。俺もそうなると思っていたけれど、先輩が折角貸してくれた本をそんなふうに扱いたくない。一頁一頁を、書かれている言葉を一つずつ追いかけて、読んで、先輩に返したい。
先輩の声は電話口で聞いたどの声よりも優しかった。
「ありがとう、待ってるね」
そうして先輩との電話は終わった。
俺は貸してもらった本を少しずつ読みはじめた。読もうと思えば、すぐにでも読み終えることができる短い小説だった。読み終えようと思えば明日にでも読み終え、先輩に返せるそんな短さだった。
でも春が終わり、ゴールデンウィークを迎え、初夏を迎えようとしても、俺はまだ読み終わらなかった。
先輩からの連絡は時々来て、俺はその都度、この短い小説の感想を話した。先輩は何も言わずに聞いてくれて、一つも俺が読み終わるのを急がせるようなことはなかった。
俺が返すのを引き延ばしているのは、きっととっくの昔にバレていたのかもしれない。それでも先輩は、黙っていてくれた。
本を返せるようになったのは、夏休みのある日だった。受験勉強の合間合間に読んで、終わりを迎えた。読み終えてしまった以上、嘘を伝えることはできず、先輩に読み終えたことを伝えて、本を返す約束をした。そして、俺は自分の気持ちも正直に伝えた。先輩がずっと前から好きだということを。
久し振りに会った先輩はこの前の冬よりも、一段と綺麗で大人びているように見えた。本を返して、先輩のことが好きだと伝えると、私も、と小さな声で答えてくれた。そして、言うのが遅い、とも。
〈了〉
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