固執

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「固執」

きみと高宮が駅前で合流したのは、黄昏の時分だった。駅前のビル群の窓に西日が射し込み、往来を歩くスーツ姿のきみも高宮も、通りに出ている看板も、道路を走る車も、全てが茜色に染まっている。日の光を受けて影が濃く長く見える頃で、人の顔を判別するのに目に力を宿し、その顔をじっと見つめる必要があった。名を呼び、声をかけ、答えられようやくその人と認識できるような西日の強さが、街中を輝かせる。

九月も下旬を迎えたが、残暑はまだ続きそうな気配を見せている。季節外れの暑さに、きみは先ほどから険しい顔をしていた。

きみは、どこでもいいか、と自分を納得させるように呟き、高宮のことを気に掛けることなく足を動かす。後ろから、高宮の気怠い、どこでもいいから早く飲もう、という声が聞こえた。

すぐに適当な居酒屋に入り、店員に四人掛けのテーブル席に案内されて席に着くなり、きみはジャケットのボタンを外しながらすぐに話を切り出す。

「俺も少し話したいことがあったから良かったよ。話す……というか訊きたい、か」

高宮はきみの言葉を聞いていないといった様子で、テーブルの端に置いてあるメニューに目を通している。きみはメニューを見ることなく、離れていく店員を呼び止める。

「とりあえず、生で」

「あ、じゃ、俺も生で」

かしこまりました、と店員がテーブルから離れる。

高宮は冷たいおしぼりで顔や首筋を拭きながら、持ち前の低い声できみの先ほどの言葉に応じる。

「まぁ、飲みながら話そう」

きみは高宮のように飲みながら話す気は毛頭なかったので、探りを入れるように訊く。

「林のところでも良かったんじゃないか?」

高宮とは、林義明というバーの店長を共通の友人に持っている者同士で、きみとは友達の友達という程度の関係。林の店に顔を出して飲んでいる時に顔馴染みになり、酔った勢いで連絡先を交換した。
そんな高宮から少し話したいことがある、という連絡をスマホに受けたのは数日前。きみは真っ先に、珍しいと思った。きみも高宮に聞きたいことがあったため、だったら飲もうというふうにまとめて、今日こうして会って飲んでいる。

こういう場が用意されるのは、高宮もきみも覚えがなく、今回が初めてのように思われた。高宮ときみとは林のバーで知り合ったので、話しなどがあれば、林を含めた三人で話している。会話を回すのが上手く、聞き手に回っていることの多い林との会話は気楽だった。

高宮は、きみの発言に、え、と呟いた。

「何、あいつ、もう仕事してるの?」

きみはここ最近、林の店に足を運んでいないので、高宮のその発言に驚いた。

「何かあったのか?」

高宮は、きみの驚く素振りが意外だったようだった。

「一週間ぐらい休むとか言ってなかった?」

アルバイトや社員が増えて店が順調に回っているので、交代制で長い休みを取るようになるかもしれない、と林は数年前から言っていた。言っていたが、きみが通っている間、林達バーテンダーが長い休みを取ることはなかった。年末年始もゴールデンウィークもお盆も働いているから、いつかは休む予定だよ、と接客業に携わる人間特有の清らかな微笑で言っていったことを、きみは思い思い出す。

「……言ってたな、それが今週?」

高宮が頷いたタイミングで、生ビールのジョッキとお通しの胡瓜の叩きが、二人の前に置かれる。高宮は相好を崩して、自分の分のジョッキを持ち、きみの方へと近づける。

「お疲れ」

きみは高宮と同じ言葉を発して、同じように自分の分のジョッキを持ち、高宮と乾杯をした。ガラスとガラスが触れる高い音が、二人の間で響いた。きみと高宮は会話を中断した。冷えたグラスに注がれたビールは、熱を帯びたきみの身体を冷やすには十分だった。

飲もうと言って場を用意したのはきみだったが、きみは特に高宮と飲みたいわけではなかった。かといって、酒を飲み、美味しい物を食べたいという気が特別強いわけでもなかった。

普段であれば、そういう気は生じるのだけれど、ここ最近はいつにもまして、全然そういう気が起きない。去年や一昨年とは違う、何かがある。

かかりつけ医に、季節の変わり目のせいでしょうと言われたこともあり、暑さのせいだろうときみは片付けているが、もっと別の理由があるかもしれないと思っている節がある。
というよりも、きみには、きみ自身を悩ましているものが、はっきりと分かっている。肉体的な不調が原因ではないということも。

きみは高宮に訊きたいことがある。その答えを得られれば、きみの不調は解決されるときみ自身分かっている。

訊きたいことが訊けるのであれば、喫茶店でアイスコーヒーを飲むような話し合いの場でも良かった。ただ、そういう場で高宮が、ちゃんと話すのか分からなかったので、もしかすれば酒が必要になるかもしれないと思い、居酒屋を選んだ。

食事の注文は、高宮に任せるようにメニューを渡す。何でもいい、という言葉と共に。

高宮は、スピードメニューのえいひれや冷やしトマトなどを頼み、刺身の盛り合わせも頼む。店員がテーブル席から離れると、きみはすぐに高宮のアルコールに溺れていないさっぱりとした黒い目を見て尋ねる。

「それで、話って?」

高宮は心持ち身体を反らせて、椅子に座っているきみの全身を見るように視線を上下に動かす。

「お前、大丈夫か?」

高宮の問い掛けが露骨な話題逸らしにように思えて、きみは腹立たしさを覚える。怒りを鎮めるように、胡瓜を食べて、生ビールで流し込み、きみは話し飽きたように答える。

「夏は毎年こんな感じだ」

「……もう秋だぜ?」

「この暑さで秋はないだろ」

話が天気や自然という全然関係のなさそうなところに転がり落ちそうな気配を察し、きみは痺れを切らした。

「話したくないなら、先にこっちの訊きたいことについて答えてもらっていい?」

「あ、うん、どうぞ?」

短い沈黙が、テーブル席に満ちた。店員や客達の声が、遠くから聞こえる。きみは高宮に何から訊くべきか迷った。迷った末に、最も答えやすい質問から始めることにした。

「林とは最近、会っている?」

「まぁ、お前よりかは……?」

高宮はきみの訊きたいことの真意が分からないといった調子で、語尾を少し上げる。きみは続けて訊く。

「何か言ってた?」

「何かって……色々話すだろ。バーテンダーと客なんだし」

「違う、そうじゃない」

きみはしっかりと否定した。高宮は、きみの否定の言葉を繰り返す。きみが否定している理由を探るように何度か繰り返している。納得できる理由を高宮は見つけたのか、あー、と小さく声を上げ、きみの向こうを見上げる。まとまっていない考えに対してどう話すか迷っているように見て取れる。

高い天井にはオレンジの照明が所々にぶら下がっており明るい。まだ稼働を続けている冷房の冷たい風のお蔭で暑くはないが、先程まで見ていた茜色の空とよく似ている。

高宮は残っている生ビールを飲み干して、空いたグラスをテーブルに叩きつけ、勢いそのままに強い調子で言う。

「俺もそのことで、お前に話したいことがあるんだ。だから、連絡した」

きみは詳細を問おうとした。しかし高宮の言葉に引っ掛かりを覚え、慌てて口を閉ざした。ここできみから話してしまえば、不必要な情報を高宮に与えてしまうのではないかと思ったためである。林のことで何か知れるのであればそれで良かったが、他のことを話す必要があってしまいそうだった。

きみが林について知っていることと、高宮が林について知っていることには明確な違いがある。高宮が話そうとしているのは林のことであるが、きみが話そうとしたことは林のことのようで、林のことではない。

きみと林の間には、一人の女が立っている。名は撫子といい、きみとは同じ大学に通っていた。きみとは大学生の頃から知り合い。年齢でいえば、二つ下の後輩。学部やサークルが同じだったというのではなく、林がまだアルバイトとしてあのバーで働いている時に、偶然隣り合った。ある日の大学の校内で顔を見かけた時は、互いに新鮮な驚きに満たされた。

その二度の出会いを、きみは運命だと思った。

可愛げに笑う撫子は、バーの薄明るい照明の下でも、青空の下でも、変わらない。黄昏の時分でも、その人影が撫子がどうか分からないことはなかった。きみの目と頭は、多くに人影の中から、撫子だけは見分けがつけられた。誰? と呼びかけなくても、分かる。撫子の方から、きみに声をかけるからであり、往来できみを見掛けると大きく手を振ったりするからである。

よく喋り、よく笑う。白い歯が見える度に、きみの心は揺れる。

人付き合いが上手く、他人との距離を勢い良く詰める彼女は、きみのこれまでの友達の中にいないタイプの女性だった。短くまとめた茶色の短いポニーテールが活発に左右に揺れる度に、馴れ馴れしいという言葉よりもアクティブという言葉が似合うときみは思っている。

そんな撫子ときみは、バーでも度々出会った。きみはバーでお酒を飲むことを楽しみ、客として来ている撫子に多くのことは話さない。客と客という明確なラインを、きみは撫子との間に引いている。が、撫子は持ち前のアクティブで優に超える。友達という新しいラインを引く。

そうして撫子と出会い、話していく中で、きみは次第に彼女と今現在以上の関係になりたいと思った。が、彼女に告白することはなく、きみも撫子も大学を卒業した。きみは最後まで勇気を出すことはなく、あるいは彼女には既に恋人がいるだろうと思い込むことで告白しない理由を正当化した。

きみは、とある会社の営業職として働く道を選び、撫子はとあるイベント会社で働く道を選んだ。もう会わないだろうと思ったし、会わないのであればそれで良かっただろうと思っている。しかし、きみの心には告白できなかった後悔が残っている。告白したかったというわけではない。ただ、撫子が、きみに恋心を懐いていたのか知りたかったのである。

そして、最近、三度目の再会を果たした。

林のバーで飲んでいたきみと撫子は、互いに酔っ払っていたこともあり、これは運命なのかもしれないと笑い合う。昔と変わらない白い歯が、薄明かりの下で輝く。昔のように、きみの心を揺らす。
五年振りに見かけた撫子は昔よりも大人びており、ジャケットが似合う女になっていた。短くまとめていた茶色のポニーテールは切られており、涼しげなボブカットへと変わっている。変わったところはあるが、よく喋り、よく笑うところは昔と変わらない。

成就できなかったきみの恋心に火が点る。しかしきみは相変わらず勇気を持てなかった。彼女の左手の薬指に指輪がなかったことを確認しただけで、心が満たされたのを覚えている。自分にもチャンスがある、と思った。

だから、高宮に撫子のことを話したくなかった。加えて、きみが林に撫子との仲を取り持ってほしいと頼んだことを知られたくもなかった。林ならば、客とバーテンダーというラインを越えることなく、撫子にきみという存在をよく話してくれるだろうと思ったのだ。仮に話さなくても、それとなく導いていてくれるだろうと思ったのだ。

長い沈黙の後に、きみはようやく振り絞った声を上げる。

「そのこと……?」

自分は何も知らないという装うことで、きみは高宮から情報を引き出そうと試みる。

高宮はいつの間にか頼んでいた新しいジョッキを傾けている。高宮の目は赤くなっていた。声に先ほどのような力はなく、早口になっている。

「簡単に言うと、俺は林から伝言を頼まれているんだよ」

「俺への?」

「そう、お前への」

「何?」

「深山撫子さんって知ってるか?」

その名前だけは、きみの耳に確実に届いた。高宮の口から出るはずのない女の名前。
きみは胸の高鳴りを誤魔化すように、わざと沈黙を用意した。きみは白々しいと思えるほど怪訝な顔を、高宮に見せる。

「……誰?」

林が喋ったのかと疑ったが、その線をすぐに否定する。客と客を繋げようとする時、林はお客さんという呼称を用いる。頼まれていない限り、他の客に名前や素性を伝えるようなことはしない。きみも林もいない間に、高宮と撫子がバーで出会ってしまったと考えるのが自然かもしれないが、きみはとてもだがそういうふうに考えたくはなかった。

きみと林と撫子の間に、高宮という全くの異物が介入することが、きみには理解できなかった。もしかすれば理解できないのではなく、理解したくないと思っているのかもしれない。

「林のところに来ていた人なんだけど……お前も会ってるらしいぜ?」

高宮にそう言われ、きみはバーで出会った人の顔を思い浮かべる。その顔はどれも乏しい照明の中にいて、目鼻立ちは暗い影に埋もれている。しかし、撫子だけは、鮮やかに思い出せる。きみを見る大きく潤んだ瞳も、グラスを持ち上げる細い指先も、アルコールに濡れた唇も、甘いカクテルの香りを漂わせる声も、大きな笑い声も鮮やかに思い出せる。

「あー、あぁ……。その人がどうかしたの?」

きみはようやく思い出したというふうに訊く。高宮はきみの問いに答えるために言う。その答えるのが、自然であるように。

高宮の低い声が、きみの耳へと届く。

「林とその人が結婚する」

きみは絶句した。きみは何かを求めるように高宮の顔を凝視する。白いシャツはこの時期だというのに一番上のボタンまで留められ、ジャケットの同じ色のネイビーのネクタイが丁寧に結ばれている。夕焼けの中にいない高宮の顔はよく見えた。

先ほどまでのアルコールを摂取してゆるくなった頬は意識的に引き締められているようだった。大きな口は他の言葉を繰り出すのを探しているように一文字に細く結ばれている。きみを見る目はオレンジの照明を受けて茶色がかっているようで瞳の奥底に、怯えるように身を縮こませているきみの姿が映る。

きみは季節外れの冷房のせいか軽い頭痛を覚えて、両眉の間に深い皺を刻んでいる。きみは目や鼻の奥に強烈な痛みを覚え、続きを問うことはできなかった。冷たいおしぼりで目頭を覆う。

きみは多くのことを考えように努める。高宮の言葉が嘘であろうと考えてみたが、続きは上手く言語化できない。嘘であったとしたら何なのであろうか、嘘でなかったとしたら何なのであろうか。そういう思いに漂着し、考えがまとまらない。

きみには高宮に多くのことを尋ねられる権利があるように思えた。が、何から訊けばきみは自分自身を納得させられるのだろうか分からない。どうして林はこの場にいないのだろう。林がいれば、きみは林を詰問し、全てを洗いざらい吐かせることだろう。

きみは朧げな高宮の姿を見て、短く震えた言葉を吐く。

「どうして?」

高宮は一瞬迷ったように眉を寄せたが、すぐにきみの心情を察したように柔らかい声で言う。

「林を責めるのはお門違いってことを念頭に置いて、聞いてくれるか?」

その確認で、林がどれほどのことを高宮に話したのか分かった。きみは逃げ場を失ったように頷き、高宮の言葉を待つ。林が高宮に伝えたことを聞くために、待った。

「まず勘違いしてもらっては困るから先に言うけど、林は深山さんに気があったわけじゃない。あいつは当初の目的であるお前と深山さんの関係を取り持とうとした。これだけは確かだ。客と客が良い関係になろうとして、間にバーテンダーが入るなんて、バーテンダーの立場になって考えたら良くない」

高宮の伝言は、そんな言葉から始まった。きみはその理論の理解はできた。理解はできたからこそ、林と撫子が結婚するという事実に辿り着く意味が分からなかった。

高宮の伝言は続く。

「お前と林が画策したことは悪いことじゃないと俺は思う。失敗したことがあるとすれば、そこに深山さんの性格とかを加味していなかったことだろう。深山さんは、友達との仲を取り持とうとする情に厚い林に惹かれたわけだ」

事情を知ったきみは尤もらしい言葉を、口にする。

「断れば良かったじゃないか……」

きみが林に事を手伝ってもらったのは、林ならば撫子からそういう言葉をかけられたとしても断ると分かっていたからである。永遠に、バーテンダーと客というラインを保ち続けると思っていたからである。撫子はそのラインを飛び越えようとしても、林ならば毅然として引くことが分かっているからだった。しかし現実は、違った。

何が林の背中を押し、そういう決断をさせたのだろうか。きみは林や撫子のことを考えてみるが、きみ自身が納得するものは何も浮かんでこない。

「深山さんがいくつか、知ってるか?」

高宮に訊かれ、きみは二十代の後半に差し掛かろうとしているのかもしれない撫子を想像した。きみは撫子の年齢を考えてみたが、林と結婚する理由に繋がるのかイメージできない。きみの脳裏に浮かぶ撫子は、仕事に精を出している姿だけだった。

「いつ告白してくれるか分からない男よりも、そんな男のために自らを犠牲にしている男に惹かれたんだ。当たり前だけど、林は一度は断ったよ」

「可能性は……」

「あったかもしれない。でも、深山さんは、待てなかった」

高宮の言葉に、きみは救われたような安らかさと絶望を同時に味わい、それ以上言葉を続けられなくなった。

「二十代後半で一人でいる人の気持ちを、林は分かっていた。そして、待ち続ける苦しさも」

「お前と林の間に友情が成立しているように、林と深山さんの間にも友情は成立していた。林はどちらの友情を選び取るか悩んだ。でもこれ以上、深山さんを待たせることがどういうことになるのか、林は理解できていた。だから、林は深山さんとの関係を選んだ」

きみは高宮から事情を聞き、最後まで残っている疑問を口にした。

「どうして林が話さない?」

この一件に高宮は全く関係のない男である。高宮は林から伝言を預かっていると言っていたが、一切が偽りである可能性は十二分に有り得る。本当は、林も撫子もきみの知り合い同士という関係。林は今もきみのことを撫子に良いように話しており、撫子はきみが勇気を出すのを待っている。そういう今までと何も変わらない関係が、現在も続いているのではないだろうか。

高宮は、ジャケットの内ポケットから自分のスマホを取り出すと、テーブルに置く。慣れた手付きで林の連絡先を画面に表示させる。後一つ押せば、林に連絡できる画面に変わる。

きみは、低い声で問われる。

「聞くか?」

きみは静かに首を横に振る。聞く勇気を出せず、高宮の言葉を信じることにした。〈了〉

 


 

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