誠に勝手乍ら

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「誠に勝手乍ら」

電動のミルがこの時間帯に似つかわしくない大きな音を立てると、用意する時間を十二時間間違えていると思われる豊かなコーヒーの香りが、鼻先を漂う。

そうして、一杯のコーヒーが用意される。

「お待たせしました。こちら本日のブレンドコーヒーです」

気遣うように柔らかい声が、頭上から降ってくる。綺麗に磨かれた木目調のテーブルに丸い影が落ちる。狭い店内が急に小さく感じられるほど、黒いエプロンに白い開襟シャツを着た男の子の背は高い。手も大きくて、その大きな手から、片手で収まるような小さなカップが慎重に置かれる。

私の前に置かれた白いソーサーの縁は、今の時刻を現すように深い群青色で彩られている。群青色の中に点々と打たれている黄色の粒は星の輝きのようだった。白いカップに注がれたコーヒーは、平日の私の調子を表しているかのように黒い。

「お砂糖とミルク、置いておきますね」

そう言われ、ソーサーの隣に銀の容器に入ったお砂糖とミルクが置かれる。

私はそれぞれを今の気分に合わせるように普段より沢山入れる。金曜日の二十一時、残業終わりに飲むコーヒーは甘ければ甘いほど、良い。カップの縁ぎりぎりまでホイップクリームを回し入れてある甘いコーヒーがこの喫茶店のメニューにはあるのだけど、平日の夜に飲むには甘過ぎる。ああいうのは、休日の昼間、ほっと一息ついた時に飲むのが良い。

「お疲れ様です」

今週の疲れが顔に出ていたようで、カウンターの向こうから優しい調子で言われる。

私は月曜日から今日までのことを、ざっと思い出す。ブレイングマネージャーという肩書きは、肩書き通りしっかりといつも忙しい。

昔のように営業として現場に立つ頻度は減ったけど、責任者として現場に立つ頻度が少し増えている。現場に立っていない時間帯はマネージャーとしての業務を宛てがわれている。チームの動きを内外に伝えたり、プロジェクトの進捗や成果を見守る必要が生じて、時間が足りなくなることが多い。私個人で動くのならば全然待てるのだけれど、下から報告や相談や成果などを上がってくるのを待つのは、得意じゃない。しかも待った末に寄せられたものが、良いものじゃないこともあり……。

 

忙しさを考えると私の目の前にいる彼も彼で、しっかりと忙しいはずだ。

「うん、まぁ、疲れたわ。渉くんもじゃない?」

昼間は大学生をしていて、夜はおじいさんのお店を手伝う渉くんは、その顔に疲労の一つ見せない。自分が疲れを顔に見せれば、お客さんに失礼に値する、と既に分かっているようにさっぱりしている。

一人分のコーヒーを淹れるのに余ったコーヒーを一口飲んでから、渉くんはいつも通りといった調子であっさりと言う。

「僕は全然ですよ、来てくれるお客さんも多くありませんし。明子さんぐらいですよ」

「そう?」

「ええ、そうです」

「まぁ、ここらへん夜は静かだしねぇ」

接客業に携わる人によくある労いの言葉かもしれないけど、夜も深まっていこうとする時間帯で一人でいると、そういう言葉は不意な優しさになって私の胸に染み渡る。

ここが、この喫茶店の良いところで、私が夜に家でコーヒーを飲んだり、職場近くのコンビニなどでコーヒーを買うのをやめた理由。休日には家でコーヒーを淹れるのをやめて、家から十分ぐらい歩いてここに来ることもある。

純喫茶・広瀬は、駅前の短いアーケードに並んでいる飲食店の一つ。二階建てで、アーケードに並んでいる他のお店と同じように一階をお店にして、二階をお店の方々の住居にしている。出勤の道中にいつも通る道ということもあって、お店の存在は知っていたけれど、私が見かけた時には、臨時休業の貼り紙がしてあった。誠に勝手乍ら、と。それがこの春から、朝の六時から夜の二十二時まで営業が再開された。途中で度々休憩を挟みながら。

朝であろうと昼であろうと夜であろうと食後や仕事前でも途中でも終わりにコーヒーを求める私には、家の近くに喫茶店があるのは良い。それも純喫茶となれば、尚のこと。

朝は、マスターらしい白い髭と丸めた頭が似合うおじいさんと綺麗な白髪が似合う奥さんが担当している。最も混む時間で、六人掛けのカウンターと二席しかないテーブル席はいつも満員だ。ここらへんで朝の六時から営業している喫茶店がないから、コンビニのコーヒーに飽きた人は広瀬でモーニングを食べている。

私も何度かお邪魔したことがあったけど、その回転率の高さに驚いて、今では会社近くのコーヒーチェーン店で朝食を摂ったり、テイクアウトしている。

広瀬のコーヒーが美味しくないというわけではなく、単純に私のスタンスの問題。私はコーヒーはゆっくり飲みたい。忙しい時のコーヒーは、職場のリフレッシュコーナーで飲む、味の薄っぺらいインスタントコーヒーで十分だ。

夜から閉店までの短い間は、朝とお昼の忙しさは皆無。アーケードに並んでいるお店は十七時には閉まっていることもあってか、広瀬も閉まっていると思われる。看板は通りの邪魔にならないように店内の片隅にしまわれ、暖簾は掛けられているのだけれど、周りの暗がりと同化してしまって見えにくい。

職場の近くのコーヒーチェーン店や映画館や雑貨店や飲食店などの商業施設が入っているビルのコーヒーショップは二十一時にはラストオーダーを迎えることが多く、その時間帯に退勤できないことが私には多々ある。広瀬のラストオーダーがそういうお店より一時間遅いのは、私にとってありがたい。それに人も少なく、ゆっくり飲めるのも良い。

丸めた頭やにこっと笑う目尻におじいさんの面影を残した渉くんが、いらっしゃいませと瑞々しい声で挨拶してくれるのも良い。

職場から明確に切り離された場、ということが分かる。オフィス街にあるような社会人特有とも言うべき、日々何かに追われている荒々しさから遠いのも良い。職場から連絡がないことも合わさって、明日と明後日が休みだと分かっていると気楽だった。

私の気楽さを、全然気楽さそうとは思っていないのか、じっと私を見る渉くんの目と視線が合う。私しかお客さんがいないので、私がお店の人に注目されるのは仕方がないと思うけれど、渉くんの視線はそういうお店の人とは違うものが感じられる。

就職説明会で大学生に話しかけている時に味わう、あの時の視線に近い。自分がどういう道を歩むのかぼんやりと考えてはいるけれど、明確には見えてこない未来を目の前に人から見出そうとする目。

どうしたの? と優しく訊くのは簡単だったけど、訊いたところで私が思っているような答えが返って来なさそうな気配を覚えて、私は何も気づいていない振りをする。職場だったらすぐに訊いたと思うけれど、ここはそういう場ではない。それに、もう切った仕事のスイッチをもう一度、この時間帯に入れ直す気はない。

「コーヒー、お好きなんですか?」

渉くんが持っている手札の中で最も無難な問い掛けをされて、私は勝手に困った。好きか嫌いかで問われると好きだけど、多分そういう簡単な答えを知りたいわけじゃないだろうと分かる。

そんな遠いところから問われると思ってなかった。というのも、そんな遠いところから何を問おうとしているのだろうかと思ってしまう。新卒の時に叩き込まれた、結論から話すという社会人らしい話し方に慣れてしまったからもしれない。どう答えれば彼の助けになるのか考えるように、左手に巻いた腕時計に視線を落とす。金曜日の二十一時過ぎというブレンドコーヒーを飲むには一般的に適していないであろう時間帯。

渉くんは広い額を指で揉みながら、あー、と短い声を上げる。自分が間違った質問をしたと自分にも相手にも伝える間を、渉くんは作った。

「いや、いつもこの時間に飲んでるので心配なんですよね」

年下の男の子に言われると思わなかった言葉に、私は一瞬反応が遅れた。社会人をしていると言われなくなる言葉の一つでもあったので、口の中でその言葉を繰り返し味わっていると、いつの間にかしっかり音になっていた。

「……心配?」

意外という驚きに包まれた言葉の真意を探ろうとする渉くんは、恥ずかしそうに目尻を下げて笑う。釣られたように私の頬も明るい色が差さって、もどかしい沈黙がわずかな間、喫茶店に落ちる。

渉くんの声は心持ち上擦っているような気がした。

「ちゃんと寝られるのかな、って」

でも私は気づない振りをした。そういう全てを、年下の男の子の悩みを吹き飛ばすように、この時間帯に似合わない明るい笑い声を上げる。

「そんなに笑うことないじゃないですか」

一頻り笑って、渉くんに謝る。

「ごめんごめん、あまりに真面目だったから」

「そうも思いますよ」

「そう?」

「そうです」

ため息と共に零れた言葉は、喫茶店のマスターとしてお客さんと会話する時には聞かせるには不適切なのではないかと思うほど不機嫌さを滲ませている。

私は社会人の先輩として、あるいは怒らせた人間として、渉くんにちゃんと話す必要があるのでちゃんと応じることにした。声にそれまでの明るい調子を含ませることなく、それでも待ちに待った休日を楽しもうと思わせる弾んだ声で。

「社会人の休みって、いつからか知ってる?」

「明子さんのお仕事が何なのか知りませんけど、普通は土日なんじゃないですか?」

渉くんはしっかりと答えてくれるけれど、言葉の節々にはまだ棘が感じられる。

「私のところはカレンダー通りなので、まぁ大体土日なのよ」

「……お疲れ様です」

「だから、ここで、この時間帯にコーヒーを飲む必要があるのよ」

言い切ってみたけど、渉くんは全然ピンと来ていない様子だ。何を言っているのか分かりません、と白状するように真顔で私を見る。

休みの前日に会社を退勤してから、休みを終えた翌日に出勤するまで、私は休みだと考えている。場合によっては、出勤してパソコンを立ち上げて、メールやスケジュールを確認している間も、まだ休日が続いているような感覚すらある。そういう時には、リフレッシュコーナーの薄っぺらいインスタントコーヒーを飲むと、ゆっくりと確実に仕事のスイッチが押される。

私は平日も休日も全力を出すタイプなので、平日には平日の楽しみ方をして、休日には休日の楽しみ方をしている。

それが、町田明子という人間が社会で生きていくために身につけた術ともいえる。

世の中には、休日を平日の延長として捉えて変わらない生活を送ったりする人もいるらしいけど、私にはそういう単調な生活はできない。極端な話になるけれど、そういう生活を送るのならば、週七日平日で良い。その分、毎日訪れる夜にしっかりと休む。金曜日の二十一時にコーヒーなんか飲まずに、エステやマッサージに時間を割く。気持ち良く寝るために、入浴剤やルームフレグランスを買うのも良いかもしれない。

でも私の生活は平日は五日間で、休日は週末の二日間と決まっている。金曜日の夜に、明確に仕事のスイッチをオフにする必要がある。そうして、同じ日の夜に、休日のスイッチをオンにする必要がある。そのスイッチのオンとオフに、純喫茶・広瀬が一役買っている。

「長かった平日が終わったって目でも耳でも鼻でも肌でも口でも分かるために、いるのよ」

そう言って、私はコーヒーカップを静かに持ち上げて、普段は飲まない甘いコーヒーを飲む。ビールとかワインとかカクテルとかお酒でも良いかもしれないけど、そういうお酒を飲むのは土曜日の夜が適している。一人で飲もうが誰かと飲もうが、どちらでも良い。眠りが浅くなってしまって朝に目覚めても良いし、飲み過ぎてしまってお昼に起きても良い。自由に使える一日をどう使うかは、土曜日に決めたい。誰かと共にお酒を飲みながら決められたら、それはそれで最高の休日になる。

渉くんは私の説明に納得できたようで、短い感想を口にする。その声には先程のような棘はなく、柔らかい調子に戻っている。

「社会人ですね」

「だから渉くんは社会人の真似事なんてしなくても良いのよ、まだ。やりたかったら良いけどね」

老婆心からの発言に、渉くんは目を見開かせた。

「……そんなに分かりやすいでしたか?」

「大学生にも会うから、私」

渉くんぐらいの年頃の大学生と接する機会が、私には多い。新卒でうちに入社してくる子の大体は、営業に配属される。営業に配属されなくても、営業と関わる部署に配属されないことはない。現場のことを知っていて、チームとしても人を動かしたり、自分も動いているブレイングマネージャーが伝えられることは多いし、質問されることも多い。職場の人間関係のこととか女性の雇用とかキャリア形成のこととか……。

そう、だから、大学生が何に悩んでいるかなんて、分かりやすい。週に一度はこうしてカウンターを挟んで話している相手となれば、一層のことだ。

渉くんは飲みかけのコーヒーを飲み干して、洗い物をしながら言う。

「悩んでいるってわけじゃ……いや、きっと悩んでいるんだと思います」

「進路とか?」

「あ、いや、進路……進路なんですかねぇ」

進路……と渉くんは繰り返し呟き、洗ったばかりのコーヒーカップを丁寧にタオルで拭く。店内の暖かな光がカップの縁に反射し、眩しく見える。

渉くんが大学を卒業してからどういう進路を歩む気でいるのか、私は知らない。分かっていることといえば、他の人が想像しているような、多分この子が、次の純喫茶・広瀬のマスターになるんだろうな、ということぐらいだろう。どうするかを決めるのは、渉くん自身で、私達が決めていいことじゃない。今現在もマスターとして働いているおじいさんと話したりして、決めることだ。

そういう進路があることが、幸せではないこともある。二十代前半、新卒という切符を捨ててまで選ぶ道なのかは、私には分からない。私はそういうふうな進路で悩んだことがなかった。自分の能力が発揮できる働きがいのある職場を選んでいたら、ここになったというだけだ。

渉くんは私に背を向け、手に持っていたカップを戸棚にしまう。幾つものカップが伏せられており、どれもが綺麗に磨かれている。

「じいちゃんやばあちゃんからは、無理して手伝うことはないって言われてるんですけどね。本来なら、父さんがしなくちゃいけないこと……僕が勝手に手伝ってるだけなんで」

大きく逞しい背中が、小さく感じられる。

込み入った事情があるらしかったが、私はそこまで踏み入れる気はない。人様の家庭のことに、口を挟む気はない。ただ、一人の客として、純喫茶・広瀬がおじいさんの代でなくなろうとしているのは、困る。非常に困る。

「渉くん」

振り返って私の見る目は、落ち込んでいるように沈んだ色を見せている。気丈に振る舞おうとして失敗している時の戸惑いが、渉くんの目の奥底で泳いでいる。

「何でしょう?」

声はそういうことを悟られないように平常だった。私はすぐに提案する。上司として部下に声をかける時のように鷹揚に。

「休みましょう」

「はい?」

「お昼は大学で勉強、夜はここのお手伝い。考える時間も余裕もなかったら、そりゃそういうふうになっちゃうわけよ」

新卒の子がこんなふうになっていくのを、私は度々見かける。五月とか六月頃に、こんなふうになる。新卒の子じゃなくても、部下がこんなふうになる時がある。目が回るほど忙しい時とか、こんなふうになっている。自分のキャパシティが限界を迎えた時に、なってしまう。

「休めてないのよ、渉くん」

そういった時に必要なのが、完全なオフだ。昨日のことも休み明けのことも考えない、完全なオフ。私にとって、毎週の土曜日がそうであるように、渉くんにもそういう時間が必要だ。私よりずっと若くて、未来の選択肢に思い悩んでしまうぐらいの子には、休みは余るぐらいあった方が良い。一日ぐらい何もしない日があっても、罪悪感に苛まれないぐらい休みが必要だ。

マスターのおじいさんも奥さんも、渉くんに休みが必要なことは分かっている。でも、あの二人には、店主としての責任がある。とある事情により一定期間お店を閉じていたことがある。そういう過去があると、自分達からお店を手伝ってもらっている孫に、休めばいい、とは言い出しにくい。

渉くんは頭上を見上げ、過去を振り返って疑い深く言う。

「そ、そうですかねぇ……?」

「肉体的には休めていると思うわよ、若いんだし寝たらすぐでしょう。でも、精神的には全然休めていないと思うわ」

そんなふうに説明したところで、渉くんが首を縦に振るとは思わなかった。自分では休めていると思っている人が、はいもっと休みます、とは答えない。もうその段階で黄色信号が点っていることを、本人は無自覚だ。そういう人に必要なのは、分かりやすく懇切丁寧に休みの重要性を説くことじゃない。そういうのはむしろ逆効果だ。

鞄の中にしまったままになっていた私用のスマホを取り出す。慣れた手付きで操作をし、カードで手早く決済をして、明日の予定を埋める。

「だから、映画でも観てゆっくりしましょう」

二人分の映画のチケットを取り終えた画面を、渉くんに見せる。映画館などの商業施設が入っているビルが、私の職場の近くにある。飲食店やマッサージ店とかもあり、一日を多くの時間を過ごすことはできる。

明日、朝の九時から映画を観る予定を入れられた渉くんは何も言わずにスマホの画面と私とを交互に見る。マジっすか……という言葉が、開いたままの渉くんの唇から零れた。

こういう人達に必要なのは、強引とも我儘とも思われるほどに、自分のオフに巻き込むことだ。映画でも食事でも買い物でもお風呂でも日帰りの旅行でも何でもいい。とりあえず職場や仕事のことを忘られる環境に身を置いてもらう。

オフの予定を共有してから、私は尋ねるべき順序が逆になっていたことを思い出した。

「明日の予定、あった?」

「あ、いや、なかったですけど」

「あ、そもそも休み?」

渉くんは当然といった調子で答える。

「夜はここにいるんで、夜までは休みですけど」

私は不意に口を閉じた。不可解な沈黙に、渉くんは何かまずいことを言ってしまったのかと私を見つめる。私は力が入ってしまいそうだった両眉の間を自然な形に保ったまま、コーヒーを飲む。私はまだ黙っていた。

渉くんは随分と奉仕精神が豊かなようだ。悪いことではないと思うけど、そんなものと大学生が身につける必要はないと思う。そういうのは上手く手を抜き、休めるようになってからでも十分だ。奉仕を続けて自分が先に限界を迎えてしまってからではいけない。

「あの……明子さん?」

沈黙に耐えられなくなった渉くんが、私の顔を窺う。私は甘い声で確認を取った。

「その夜って、絶対に必要?」

渉くんの頬が赤くなり、あ、いや、えっと、あー、といった短い言葉を繰り返す。私がオフを渉くんと共有したのは映画が観たいからじゃない。渉くんが仕事のことを忘れて一日を過ごすためだ。だから、その日に仕事をされると、私がオフを共有した意味がない。広瀬のコーヒーが飲めないのは困るけど、朝とお昼には飲めるので良いことにする。

我儘なことを言っている自覚はあるけど、こういう人にはそういう我儘を押し通さないといけない。

「あ、えっと、暖簾、片付けてきます」

私の返事を聞かずに、渉くんはエプロンを外して、カウンターから店外へと歩む。慌ただしく逃げるような足音は、夜に不釣合いなほど大きく響いた。ドアの上に備え付けられている鈴が、高い音を奏でる。

暖簾を両手に持って戻ってきた渉くんは、ドアのすぐ近く、看板が置いてある所に暖簾を片付ける。その途中で、

「あの」

と声をかけられた。どうしたの? と尋ねてみたが返事はない。少しの沈黙の後、

「何でもないです」

と返される。

暖簾を片付けた渉くんの足は、カウンターの中へ戻ることはなかった。私の方へと歩んでくる。私の隣の空いている椅子を引き、腰掛ける。

何か声をかけた方が良いのかもしれないけど、私から言えることはまだ何もないように思えて、黙って隣に座る大きな身体を見上げる。

渉くんは視線を天井へ向ける。今二階で眠っているであろうおじいさんと奥さんの様子を探るようだった。

「考えてほしいことがありまして」

渉くんは小さな声で、そう切り出した。

「何かしら?」

「良いと思います?」

何が良いことなのか分からなかった。だから、自分の性格で答えられることから答えることにした。

「年下でも年上でも良いと思うわよ」

「僕もどっちでも……ってそういうことじゃないんですよ」

「他のこと?」

「じいちゃんもばあちゃんも納得すると思います?」

私は長い間、純喫茶・広瀬にドアに貼られていた紙の文言を思い出す。それが使えるのが、個人経営のお店の良い所のように思えた。

「誠に勝手乍ら、よ」

「良いんですかねぇ……」

「良いのよ、それに」

「それに、何です?」

渉くんが明日のことをどうしようか悩んでいるのは、さっきからのことだ。おじいさんや奥さんにどう話すかもそうだし、自分自身もどうすればいいのか悩んでいる。声をかけた私から、ちゃんと明らかにする必要があったので、ちゃんと言葉にした。

「孫のデートを邪魔するなんてこと、しないでしょ」

甘いコーヒーを飲み干して、渉くんにお会計を頼む。真っ赤に染まる渉くんの顔を見ながら、私は普段と変わらない調子でお会計をする。

「また明日、ですね」

またお待ちしておりますという別れの挨拶はなかった。明日の朝に再会することをさっき決めた私達に、そういう言葉は似合わない。

「ええ、また明日。楽しみにしてるわ」

「僕も楽しみです」〈了〉

 


 

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