明日のことを考えないように

 

※本作は「木曜日の使い方」に登場する二人の物語となっております。

事前に一読されると、一層楽しめると思われます。

 

PDFファイル版(文庫サイズ・縦書き)

 

「明日のことを考えないように」

 

宮内あきが視線を上げると、円な桜の花が視界一杯に広がる。青空の元で花開き、薄い花弁が麗らかな陽の光を受けて、透けて見える。都内では花と葉が別に出るのだけれど、ここの桜は花と赤っぽい葉の芽が同時期に出る。花の色も薄いピンク一色の都内の桜と比べて、濃い。赤い、と言っても過言ではないのかもしれない。ここで咲く桜は、都内で花開く桜とは違う品種であるらしい。

風が吹くと枝先の花びらが揺れ、ぷつりと枝から離れ、宙を漂い、あきの座るベンチへ落ちる。

公園の所々に設置されているベンチには、あきと同じように桜を見ている人達がいる。桜の下にブルーシートを敷いて、手には缶ビールを持っている。風に乗って、出入り口で借りられるコンロを使用して肉を焼いている香りが漂ってくる。各々が各々で花見を楽しんでいるようだった。

あきは、ポーチへ入れていたスマホを取り出した。メールも着信もなく、日付は朝見た時と変わらない、五月二日を指している。時刻は少し進み午前十時を回っている。

あきは改めて、頭上で花開く桜を見上げる。

「……不思議ね」

呟いた言葉は、満開の桜へと吸い込まれる。風が吹いて、甘い香水の香りが、鼻先を掠める。休日用、といつか言っていた女の香りだった。あきの視界の端で、肩から流れる大判のストールと黒い髪が風に揺れて、はためく。眼鏡の奥の丸い目が細められる。

あきは立ち上がり、風に乗って流れていきそうなストールを持った。

「ありがとう、こっちが宮内の」

女は両手で一つずつ持っているコーヒーカップの一つを、あきへと手渡す。

淡い水色のシャツの隙間から、華奢な腕が見える。

「凄いわね、今頃が見頃らしいって本当みたい」

柳田京子はベンチに腰を下ろし、頭上や遠方を見て、向こうも凄かったわと視線を投げる。

「ホットピンク一色で最高だったわ」

「白じゃないのね」

「うん、だから良かった」

あきと京子が宿泊しているホテルからでも桜は一望できたが、その桜は見下ろせるものであった。見上げる桜もまた良いものであると昨夜から今朝にかけて京子から説得され、あきはようやく重い腰を上げた。

あきは京子から受け取った飲み物の口にする。あきの希望通り、しっかりと苦味があり、ミルクの甘さを感じられるカフェラテだった。

ありがとう、と礼を言って、あきは京子の隣に腰を下ろし、同じ方向を見渡す。

花明かりという言葉がある。満開の桜が夜でもほのかに明るく見えるという意味らしく、あきはこの時期になると、その言葉を度々思い出す。春らしい、と思う。花霞も、そういう春の時期に思い出す言葉の一つだった。遠くに見える桜は都内では白く、霞のように見える。強い風が吹いて桜が散る様子は吹雪のようにすら感じられる。

ここで見る桜はどの言葉も似合わない。五月上旬の陽の光の強さのせいなのか、桜が赤みが帯びているせいなのか、あるいは両方によるものなのか、あきがこれまで見てきた桜の持っている儚いイメージからは遠い。きっとこの土地の冬が本州よりずっと早くに始まり、遅くに終わるためだろう。ようやく訪れた春を精一杯楽しむために、濃くしっかりとした花を見せる。だから、儚いというイメージから遠い。

イメージから遠いのは桜だけではなく、あきがこの時期に有給を申請していることも、イメージから遠かった。

「不思議ね……」

あきは同じ言葉を呟いた。隣から視線を感じて目を向ければ、首を傾げる京子の姿がある。

「そう?」

少し視線を持ち上げれば、桜が見える。あきは自信に満ちた声で頷いた。何について二人で確認しなくても分かる。

「そう」

宮内あきは五月に桜を見ている。わざわざ、北海道の札幌まで足を運んで。それも一人ではなく、社会人として働いてから知り合った柳田京子と共に。

「私は、宮内は来るって思ったけど?」

この旅行の発案者である京子は当然といった調子で言う。あきは呆れたように微笑を浮かべ、当然といった調子で答える。

「あなたはそうでしょうね」

「宮内は来たくなかった?」

ストレートに訊かれると、あきは返答に困った。

あきの今年の、今月の予定にゴールデンウィークの途中に飛び石のようにある三日間の平日に有給を申請する予定はなかった。

しかし四月に入って、部長から、ゴールデンウィークの平日どうする? と訊かれた。三月の決算、四月の新人に関する指導などにより、少し残業があった。休めるうちに休んだ方が良い、というのは部長がよく言うことである。

あきの所属する会社の規則に、年度の中で五日の有給を消化するように、という有休消化義務があり、あきを含めて五名しかいない経理部の社員達は、各々が各々のタイミングで有給を消化している。

部長が去年ゴールデンウィークの間に有給を申請したことは、ソフトの一覧で確認できた。今年はあきの番ということらしい。

あきは断っても良かったのだが、ここで断れば、次の長い休みである夏のお盆か秋のシルバーウィークか冬の年末年始のどれかと有給を繋げることになるだろう。五日間の有給消化がいつでも良かったあきは、部下達にゴールデンウィークの予定を日々の業務の隙間に聞いたりした。部下達が何か予定を入れていれば、そっちを優先して、自分は別の期間に有給を消化しようと考えたのである。

この部下達に確認を取るという行為が、裏目に出た。あきが四月末日からの平日に有給を消化して、長い連休を取りたがっていると思われてしまった。ゴールデンウィーク以降にある決算申告や各種納税に対する仕事に取り掛かるために、しっかりと休んで備えようとしていると思われた。

あきは決して微塵もそんなことを思ったわけではない。が、あきの思いとは裏腹に、しっかりと四月末日頃からゴールデンウィークが終わるまで十連休という休みを手に入れた。あきが社会人としてこの会社で働き始めて、一番長い連休であった。

だから、北海道の札幌に旅行することになった。京子に、だったら北海道に桜を見に行こう、連休を満喫しよう、と誘われて。

断る理由はなかった。京子に相談することで、長い休みを効率的に使ってもらおうという気さえあったのかもしれない。京子は意識的に休むことができる女だった。あきのように、日曜日の正午に、今日という日をどう過ごせばいいのか途方に暮れるような女ではない。

「来たくなかったら、ここまで付き合ってないわ」

否定の言葉としては、随分と弱々しいように思えた。なら良かったと京子は清々しく笑う。

あきと京子は大学で知り合い、社会人となった今でも交流が続いているという関係のように見えるが、そういう関係ではない。

共通の知り合いの結婚披露宴で出会い、数字に弱いフリーランスのイラストレーターである京子の確定申告を手伝っている。社会人同士になってからの知り合いだった。数年前の三月に、助けてほしい宮内しか頼れる人がいないと連絡を受けて、柳田京子という女が、どんぶり勘定が得意で、領収書を適当に管理していることが分かった。

そういうふうに知り合いになってから、事前の指導や確認のため少なくとも月に一度は会うようになった。二月と三月の週末は毎週顔を合わせている。

煩雑なことを手伝ってくれたお礼として、良い物が定期的に宅配で届いたり、普段行かないような値の張る食事を共に食べたりということがある。数字が合っているという達成感以外に、物としての頂く数々の物は、あきにまた別の達成感を与えてくれる。

こういう旅行は、それとは別である。あきが長い休みを得てしまった時、連休の二日目頃から始まる。あきは旅行が好きではないが、こうして連れ出してくれる京子との旅行は不思議と嫌いになれなかった。

「それで、今日の予定は?」

あきの声に、社会人らしい確認と情報共有の匂いを嗅ぎ取った京子は、分かりやすく片眉を吊り上げ、唇を尖らせる。

「ちょっとちょっと宮内あき」

あきは京子の言葉の内に、自身の非を見い出し心持ち穏やかではない感情を、短く伝える。

「何?」

「この旅行、何のための旅行か分かってる?」

あきは晴れ渡る青空を見上げて思い返す。連休の間の日曜日から始まった、おかしな旅行のことを。

札幌へのアクセスに、飛行機は使われなかった。羽田から新千歳への航空券を、京子は予約していなかった。代わりといって渡されたのは、新幹線の指定席。東北新幹線から北海道新幹線を乗り継ぐのではなく、東海道新幹線で名古屋へと向かった。名古屋で別の電車に乗り継いだ。

それから、長いフェリーの旅が始まった。仙台港を経由して、北海道の苫小牧へと足を踏み入れたのは翌々日の昼間。四十時間という船旅は、あきの連休開始の多くの時間を消化させた。しかしそれでもまだ四月の末日であり、あきのゴールデンウィークが終わるまで、約一週間ある。札幌への移動は、新幹線やフェリーを駆使することなく、あえて時間がかかるバスが選ばれ、ホテルへとチェックインした。最上階のスイートルームに今も泊まっており、明日も明後日も泊まる。

何のための旅行かと改めて問われると、どう答えればいいのだろうか。あきの頭の中に、この旅行に関する言葉がいくつか浮かぶ。食べ歩き旅行、自然満喫旅行、リフレッシュ旅行……。どれもが、この旅行に当てはまるようで当てはまらないような気がした。

「慰安旅行?」

適切ではないと分かっていたが、これ以上沈黙を続けるのはあきの性に合わなかった。隣から冷ややかな視線を感じたのは一瞬だった。京子は大きな黒い目を丸くして、冗談を言っているのか真面目に言っているのか確かめられる。

「え、ごめん、本当に言ってる?」

「少しは……?」

日々の仕事を労い、休み明けの仕事を頑張るということを考えれば、合っているような気がする。しかし、京子がそういう固い、いかにも社会人的な行事を好んでいないことは、知っている。それに、あき自身そういう社会人的行事は好みではない。もし京子の口から、慰安旅行という言葉で説明を受けていれば、きっと断った。普段の休日と変わらないゴールデンウィークを過ごす気になっただろう。

京子は大袈裟に溜め息をついた。

「そんなにワーカーホリックだとは思わなかった」

「別に仕事が好きなわけじゃないわよ」

あきの反論に、京子は失礼と一言詫びを入れて、訂正する。

「休み方が分からないだけ、だったわね」

あきは言い返す言葉が見当たらず、京子の言葉を受け入れる。あき自身も、そのことについてはよく分かっている。週に二度訪れる休日の度に考える。

あきは仕事に熱心な社会人ではない。ただ、平日と休日の比率を考えた時に、平日の方が多い。平日の方が多いということは、仕事をする日や時間の方が多いというわけであり、二日、時間に換算すれば五十時間程度の休みで、仕事から休日へ切り替えることが、あきは得意ではない。切り替えることができないのならば、休日も変わらないように生活を送るだけである。あきはそうやって社会人として生活を続けている。

ゴールデンウィークに突入しようが、東京を離れて北海道の札幌で桜を見ていようが、その心持ちに変化は生じない。普段と変わらない時間に起きて、今日が祝日だと確認して、まだ札幌にいることを思い出し、どうしようか、と考える。あきにとって、予定がない暇な時間は、何よりも頭を抱える時間である。

隣に座っていた京子は、コーヒーを飲み干して、小さな声で良しと自らを鼓舞して立ち上がる。

「予定変えるわ」

あきは小首を傾げて、京子を見上げる。

「元の予定を聞いてないけど?」

「え、知りたい?」

あきは無言で首を横に振り、京子に向かって、手を差し出す。

「それで、何に変えたの?」

北海道の札幌に桜を見に行くということは聞いていたが、他の細かい予定の共有は何もなかった。京子が決めているのだろうと思って、あきは尋ねることもしなかったし、詳細を求めることもしなかった。桜ならば四月に都内で見たので、わざわざ五月に北海道まで足を運ぶ必要もないだろう、とあきは思ってしまうので、全てを京子に委ねている。休みを上手く使うのは、京子の方が長けていると分かっている。

京子はあきの手を引いて、笑った。

「そうね、一回ホテルに戻ってから考えましょう」

予定がない、ということを告げられたようで、あきは調子の外れた声を慌てて飲み込んだ。

「……日課の散歩はおしまい?」

「うん、満喫できた」

京子はあきを手を取ると公園を出て、タクシーを捕まえるとホテルへと戻った。公園はどこも休日の装いをしていた。ゴールデンウィークというだけではなく、五月に咲く季節外れの桜のお陰で長く厳しい冬がようやく終わったことを知り、羽を伸ばしている気概すら感じられる。

ホテルの部屋はあきにとっても京子にとっても非常に快適である。もしここが快適だと思えなければ、どこのホテルも快適ではないだろうと初日の夜に話した覚えがある。

広々としたダイニングの端には、調理中でも室内を見渡せたり、話せたりするオープンキッチンが備え付けられている。二口のコンロに一通りの調理器具が揃っており、あきや京子が普段使っている家の台所より広かった。一階のレストランやルームサービスを食べ飽きた際には、ここで何か作っても良いと二人で話していたが、地産地消を掲げるメニューの数々は二人の興味を引き、いまだに部屋のキッチンは使っていない。

ミニキッチンの右手から、ダイニング、その奥にあるリビングスペースの更に向こうまで一面窓になっている。敷地内にある公園をどこかでも一望でき、圧巻の一言。別の公園に足を運ばなくても、十分に赤く見える桜。見下ろすのと見上げるのは違うと京子は言うが、あきにしてみれば桜を見るという点に関しては同じように思われる。

リビングスペースには、ソファ席が数種類用意されている。一人掛け用のソファは大きな窓へと向けられ、座ると桜を満喫でき、何不自由なく話せるようにテーブルを囲むように数脚のソファがある。部屋の最も奥に置かれている大きなソファは、横になってだらしなく過ごしても全然余裕があるサイズ。京子はそこが気に入ったようで、定位置になっている。

大きなソファの向こうにはツインのベッドが並んでいるのだが、京子はこのソファで寝ることもある。ワインを開けて気持ち良くなっている時は、ここを占領している。

京子は室内用のスリッパを脱ぎ、眼鏡を側のテーブルに置いて、ソファへ飛び込む。スプリングが軋んだ。ソファの側のテーブルには小さなノートとペンが置いてある。京子が旅行の度に持ってきて、色々と書いているのをあきは度々見かけている。

枕代わりに使っているクッションからぐぐもった声がする。

「今日はゆっくりしましょう、目的は達成したんだから」

あきはワインクーラーから四月の末日に開けたワインを取り出し、グラスと共にソファの前のテーブルに置く。体勢を変えて仰向けになった京子は眼鏡を掛け、ぼんやりと手を横に振る。

「休肝日?」

「そ、心身共に本格的に休むってわけ」

あきはワインを元の場所に戻しながら、苦笑いを浮かべる。自分だけの生活では到底出てきそうにない言葉だった。

「……随分とまぁ」

続きの言葉を言わせないように、京子は満足気に笑う。

「それが良いのよ」

自堕落、という続きの言葉は、あきの口からも京子の口からも出なかった。京子はそれ以上の会話を断ち切るように、高い天井を見上げる。

ちよっと、とあきが声をかけてみても、京子は何も反応を返さない。あきは口元に不愉快そうに口角を持ち上げて、それ以上は何も言わないように努めた。

広い室内に降ってきた沈黙を、あきと京子は破ろうとしなかった。京子は静かだった。普段よりもずっと口数が減り、普段が意図的に多く喋っているのだと思わせるぐらいだ。

あきは一人用のソファに腰掛け、眼下に広がる桜を眺めながら、考える。多分自分は今、贅沢な時間を過ごしているのだろう、と。こういう何もしない時間を作ることが大事だと京子以外からも聞いたことがある。仕事のスイッチを切り、一人の時間に身を委ねる。それが成功の秘訣だ、と。

柳田京子との旅行の中で、こういう時間は必ずといっていいほど作られる。声をかければ返事は返ってくるけれど、話されることを望んでいないのは、言葉や態度から伝わってくる。

買ったけど読んでいない本を読んだり、どこかに出掛けたり、お風呂に入りに行ったり、テレビ見たり、ネットサーフィンをしたり、エステやマッサージを受けたりという各々が好き勝手にするフリータイムではない。高校生の時に修学旅行で京都な奈良方面を訪れた時、寺で坐禅を体験したことがある。あの時間に近い。

フリーランスとして活動する京子にとって、オンとオフの境界が曖昧だ。今もきっと、仕事をしようと思えばできる。キャリーバッグのどこかにしまってあるタブレットで絵を描いたり、スケジュールを確認したり、依頼者に連絡を送ったりできる。タブレットを使わなくても、紙とペンさえあれば、今後使うかもしれないラフの一つや二つは掛けるだろう。手の届くところに置かれているノートとペンは、そういうためのものだろう。

あきのように会社に出勤しないと仕事ができないわけでもなければ、制服に着替えないといけないわけでもない。

明確にオフを作り、仕事のスイッチを切って、切り替える必要がある。その時間が今なのだ。あきには全くできないことを、京子は悠々と行う。旅の相手が明確に大胆に寛がれると、あきもそうしてみようか、という気になる。

考えてみると、すぐに仕事ことが思い浮かぶ。京子がいない側の肘掛けに頬杖をついて、少し傾いて桜を見る。眉間に力が宿る。

出勤して最初に訊かれるであろうゴールデンウィークのこと、溜まっているメールの確認、決算申告のことなどを考えてしまう。きっとそういうことを考える時間などではないのだろうと分かるのだが、そういうことを考えてしまう。有給休暇をどう使おうがあきの自由であるため、ゴールデンウィーク中に出社をしても良い。だがそれは、京子が折角用意してくれたこの旅行を途中で終わらせるということであり、選びたくなかった。

慰安旅行ではなく、社会的な付き合いではないこの贅沢な旅行を終わらせるのは、きっと今ではない。そういうことは、分かった。

あきは果たして一体自分自身が何に悩んでいるのか分からなくなった。自分が悩んでいるということは分かっているのだが、詳しく掘り下げてみると、途端に分からなくなる。悩むに値しないことを悩んでいるような気すら生じる。

「宮内」

名前を呼ばれて、視線を下す。眼鏡をしていない京子の顔は穏やかに見える。普段は引き締まっている頬や唇が、柔らかな弧を描いているのも穏やかさに拍車をかけているだろう。少しの間眠っていたのだろうかと思わせるような潤った目で、あきを見上げている。

こういう静かな時間の時に、京子から声をかけられるのは稀だった。稀だったからこそ、あきは過去に自分がどういう態度を取っていたのか咄嗟に思い出せなかった。

「考え過ぎ」

京子の指が、あきの眉間を指差す。あき自身強く意識していなかったため、反応が遅れた。え? あぁ、という短い言葉は、喉から零れることなくあきの胸の内に留まった。

気づいた時には、京子の顔があきの目の前にある。ソファの肘掛けに片膝を乗せ、京子は一人掛け用の椅子に座ろうと身を乗り出している。あきは頬杖をついた手を動かし、テーブルに置かれた京子の眼鏡を取ろうとした。が、京子の熱い手があきのその手を握り、拒む。

「危ないわよ」

黒々と濡れた京子の瞳の向こうに、平静なあき自身が見える。

「この距離なら大丈夫」

京子の唇があきの唇に触れて、そっと離れた。

あきは濡れた唇を指先でぬぐい、何かを確かめるように壁に掛かっている時計を見遣る。時刻はまだ午前十一時になろうとしなかった。

京子は器用に大きなソファへと戻ると横になることなく、あきの近くに座れるスペースを作る。

京子はあきの眉間に視線を送ると、力の入っていない白い額に満足したのか優しく笑う。

「明日のことは考えないように」

あきは即座に言う。

「随分と刹那的じゃない?」

それができれば苦労しないと言葉の内に詰め込んでみると、京子は全てを見透かしたように言う。

「明日のことを考えると、明後日のことも考えちゃうでしょ? そうして当たり前のように、休み明けの仕事のことに思考がシフトしちゃう。……合ってる?」

あきは自分の考えていることが見透かされていても、驚かなかった。合っていると答えるのが癪だったので、あきは無言で京子を見つめて、続きを促す。京子は正解していても喜ぶ素振りは見せず、宮内らしいなぁ、と乾いた笑顔を浮かべる。空いている隣のスペースに手の平を向ける。

「そんな先のことより、今を楽しみましょう」

あきは足を組み、同じ言葉を京子に投げかける。楽しめない、と答えるように。

「随分と刹那的じゃない?」

京子は絵を描いて生活している。それだけではなく、インターネットのデザインも引き受けて報酬を得ていることもある。専門的な技術やスキルを有しているからこそ、楽観的で刹那的で未来のことを深く考えなくて済むのだろうか。

あきが専門的な技術やスキルを得ようとすれば、経理に関するものであろう。税理士か公認会計士のどちらかになる。

税理士の受験資格は満たしているが、現状受けることを考えていない。数年勉強を続けて、五科目を一つずつ合格してという目標を立てれば、あきの生活に負担にならないかもしれないが、それほど勉強を続ける気にはなれない。国家資格を得られれば、京子のような、楽観的で刹那的な考え方になれるのだろうか。きっと違うとあきは思う。

選択肢が増えるだけだ。職場に残るか、退職してどこかの事務所に転職するか、あるいは思い切って自分で事務所を開くか。選択肢が増えるということは、悩む事柄が増えるということである。悩むことが増えることは、避けたい。

「先のことを考えても良いけど、未来はそれほど簡単じゃないと思うけど?」

譲歩のような問いかけをされ、あきは疑問を返す。

「そう?」

「そう」

今朝、公園でしたような応酬が繰り返される。だからか、あきは次に京子がどういう言葉を口にするのか、何となく分かった。あき自身のことについて何か言う。分かっていたからこそ、どう止めればいいのか考えた。

柔らかな沈黙に、京子が穴を空ける。

「宮内がこれまで考えた先のことに、私はいなかったでしょ。だから、先のことなんか考えても意味ないよ」

あきは何も言わなかった。あまりに個人的な発言で、あきを連れ出し、旅行を共にする京子にしか許されない発言。あきの悩みや苦悩を簡単に吹き飛ばす、選ぶことすらさせない強い意志が、京子の言葉にあった。心地良さすら覚える、エゴイスティックな論理。

あきは腰を上げ、京子が用意してくれた隣のスペースに座る。それからようやく、率直な感想を、自然な声音で口にした。

「自信家ね」

「自信家じゃないクリエイターに依頼なんか来ないからね」

あきは右肩に、人一人分の重みを感じた。

五月の桜は、あきの視界に映らなくなった。きっと、京子も同じだろう。あきの視界の先には、使われる気配のないオープンキッチンがあった。

あきは京子に遠慮せずに、言い切る。

「きっとこれからも、先のことは考えるわ」

京子は声を上げて笑った。

「頑固ね、良いと思う」

あきは眉を顰めて、京子の黒い頭を見下ろす。

「両立するの、その言葉って?」

「その宣言だけで終わり?」

もう一つある、とあきは答える。京子は無言であきの言葉を待つ。あきはすぐに続きを言葉にしなかった。不安はなく、否定されるという思いもなく、躊躇いだけがあった。

あきの指が何かを求めるように動き、京子の指先に触れた。京子の手は反射的に動こうとした。あきは京子の指を離さないように握る。

あきは世間話でもするように簡単に言った。

「だから、あなたが忘れさせて。明日のことを考えさせないぐらいに」〈了〉

 


 

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