真夜中の会合

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「真夜中の会合」

お客さん終点ですよ、と声をかけられて佐藤は飛び起きた。慌てて電車の外に飛び出すと、見たことのない夜空が広がっている。乗った時には暗い雲が一面広がっていたが、今見上げた空は雲一つなく、艶やか夜空にはいくつもの星が輝き、一際明るい満月が見える。

線路を挟んだ向こう側に、別のホームと改札口が見える。帰る電車は、奥のホームから発車しているだろう。今いるホームの端には、階段がある。どこへ繋がっているのか確認するように辺りを見る。屋根があり、細長い通路となっており、奥のホームの端に繋がっている。二つのホームの端から端までを何か期待するように見回してみたが、佐藤以外の乗客の姿は見当たらず、階段の奥から降りてくる人影も見えない。

佐藤は階段を登るその途中で、スーツの内ポケットにしまっていたスマホを取り出す。乗り換えアプリで、次の電車がいつ来るのか調べようと思った。時刻は深夜の一時に近づこうとしていた。佐藤はもう一度、スマホの画面を見た。時刻は深夜の一時に近づこうとしていた。日付は水曜日へと変わっている。腕時計も同じ時間を指している。

「え……」

次の電車が来るのは夜が明けるまで待つ必要があった。寝惚けていた頭はいよいよ本格的に目覚めた。重かった瞼は一瞬で軽くなり、脇の下から冷たい汗が零れる。

「……え?」

独りごちた声は、細長い通路の中を滑る。佐藤はまだ夢を見ているのだろう。これはきっと悪い夢で、自分はまだ夢の中で、これはまだ夢の続きで、目覚めればまだ電車の中で、窓に頭をもたれかけさせて眠っている。そう思い込みたかったが、後の階段の忍び寄ってコートの隙間から入り込んだ風が、目を覚ますほどに冷たい。

その冷たさが、佐藤に今は現実だと教える。

佐藤は混乱した頭で、思い出そうとする。どうしてこうなってしまったのか、と。火曜日の二十二時に、佐藤はようやく退社できた。定例となっている週半ばのプロジェクト進捗確認に関する会議資料の変更を、営業の者が希望した。それも、佐藤がマネージャーとして昇進する前に直接の部下だった山田からの連絡だった。

顧客の課題が根本から違うことが分かったため修正が必要になった、というのである。戦略という部分から変更する必要になったのだ。戦略を変更するということは、用いるシステムを変更するということになり、今までの進捗がゼロになるということである。

山田には色々と言いたいことはあったが、どういう言葉をかけるのが適切だったのか悩んだ。こちらも悪かったと言えばいいのか、何故そういうことになったのか、今後はどうするのか……どれも適切ではないように思えた。

メンバーに謝罪を繰り返し、責任は顧客の希望を最後まで考えずにまとめた自分にあると言い切った男に、どういう言葉をかけるべきだったのだろう。佐藤は分からなかった。自分が山田のような立場であれば、この段階で全てを変更してほしい、と言っただろうか。沈黙を貫いたのは、佐藤自身もやらなければならないことが多く、そちらに思考を割きたかったためである。

戦略変更により急遽会議を開催し、変更と修正と説明に追われ、一息吐く暇もなく夜は更けていく。合間合間に飲んだ珈琲は佐藤を半ば強制的に起こし、覚醒させ、活動的にさせた。定例の進捗会議は顧客への説明の後ということになり、午後一番へと予定変更ができたのは、佐藤の精神的な疲労を一つ軽減させた。最も大きな精神的な疲労である、責任を感じている山田にどういう言葉をかければ良かったのか、というものは解決できなかった。

退社して真っ先に飲み屋へ向かったのは、頭の中の多くを占めていることをアルコールで曖昧にしたかった。良い解決策ではないと佐藤自身分かっていたが、それくらいでしか解決できそうになかった。山田と話す、という最もな解決策を選べなかった佐藤には、それくらいしかない。飲みながら、山田の言葉を思い出す。

山田は何度か責任と言っていた。顧客と一番会っている担当者として、顧客が本当に願っている部分が何だったのか、という部分を読み違えてしまったのだ、と続けた。

責任という部分で考えれば、本プロジェクトのマネージャーチームのメンバーである佐藤の責任もあるだろう。佐藤には自分が思っている通り、まだマネージャー業は早いのではないだろうか。上司達がフォローに入ってくれており、ゆとりあるスケジュールを組むようにしていたが、佐藤はまだ営業で仕事をしている方が良いのではないだろうか。今回の件で、営業に戻される、ということは有り得るのではないだろうか。

一人で飲んで、それなりの量を飲んだが全然自制の範囲内だと思っている。軽い足取りで、電車に乗ったのは日付が変わる前だった、と記憶している。

だというのに、佐藤は終電の見知らぬ駅にいる。細長い通路を通り、自分が降りたホームとは違うホームに降り立つ。ホームの真ん中に置いてある看板は、ここが沿線の端に位置する駅であり、佐藤が本来降り立つ駅は二桁は超える駅の先にあることを教えてくれる。佐藤は諦めたようにホームを離れ、改札を出ようとした。

静かな夜を切り裂くように高い電子音が鳴り、改札の出口が閉まる。佐藤の手元にある四角い液晶には、残高不足の文字。残高を増やして改札を抜ける。左手に数脚の椅子が並んでおり、奥にはそのまま外へと繋がっている通りがある。右手には券売機や自販機が並んでおり、奥には左手と同じように外へと繋がる通りがある。

佐藤は左右の通りを歩き、周りに何かないか探す。駅の周りは小さな商店街となっていた。喫茶店がありパン屋があり飲み屋があったが、どこも閉まっている。コンビニもあったが二十二時に閉めており、開店は七時からだと張り紙が教えてくれる。

どこかにタクシーの列がないかと探してみたが、そもそもタクシーすら見当たらない。佐藤はスマホで検索をかけて、自宅の最寄りまでタクシーで移動した場合の費用と時間を調べた。佐藤が借りている賃貸マンションの一カ月の家賃程度かかり、三時間程度かかる。何駅か先にある繁華街まで、となればもう少し安くなり、時間もそれほどかからないと分かり、広い通りまで出てみたが、そこにもタクシーや走っている車の影すら見えない。ホテルや旅館という宿泊施設の姿もなければ、星空と暗い闇がどこまでも広がっているだけだった。佐藤が諦めたようについたため息が、夜へと吸い込まれた。ぽつんと見える満月だけが、嫌に明るく感じられる。

佐藤は来た道を引き返し、駅まで戻った。椅子に座り、またため息を零す。今夜のこともそうだが、明日以降のことも気になる。プロジェクトが上手くいくかどうかということは、佐藤以外の人間も携わっているため何とかなると信じているが、山田の青ざめた顔を思い出すと、上司としてマネージャーとして何か言えたのではないか、と考えてしまう。

年度が新しくなれば、新卒の子も入ってくる。暫くは研修で顔を合わせる機会はないが、五月や六月になると顔を合わせる時が来る。その時に、気にかけるような一言を、佐藤は言えるだろうか。きっと言えないだろう。直属だった山田に言えなかったことが、新入社員に言えるはずがない。

思考がぐるぐると渦巻き、頭が重たい。疲れたように腕時計に視線を落とす。時間が過ぎるのを睨むように見る。始発が出るまで、後四時間程度ある。

佐藤は途方に暮れ、また、ため息をついた。

その時、かつん、と何かを叩く音が駅のどこから聞こえる。佐藤は肩を大袈裟に揺らし、急いで首を左右に向ける。右も左もどちらにも暗い闇が広がっていて、人影らしい姿は見えない。と思えば、正面の改札の向こうから、続けて、かつん、かつんと規則的な物音が聞こえる。

改札口の奥にある曲がり角から、細い光が届き、左右に揺れるのが見えた。光がゆっくりと動き、かつん、とホームを踏む音が続く。細い光が、佐藤の顔を濡らす。佐藤は思わず眩しさに顔を顰める。

え、という悲鳴に短い似た声が、改札の向こうから聞こえた。

改札の奥から、佐藤と似た格好の黒いパンツスーツを着た背の低い女性が姿を見せた。

黒いコートの二の腕の部分や黒い帽子の真ん中には佐藤がホームで見かけた鉄道会社のロゴが描かれている。小さな手には一本の懐中電灯が握られている。

懐中電灯の光が、小さく上下に揺れる。佐藤が生きているのを確かめるように。

懐中電灯の光が消え、

「あの……」

躊躇うような、探りを入れるような、控えめな声が佐藤の耳に届いた。女性の駅員は、佐藤へと歩み寄る。改札を抜けて、佐藤の目の前で足を止める。愛嬌のある顔立ちをしている女だった。胸元に名札をつけていて、内田、という名前が見えた。

佐藤はどういうふうに返事をすればいいのか分からず、黙っていた。終電でここに来てしまったことなどを説明する必要があったのだが、何をどう話せばいいのか分からなかった。けれども、このまま黙っていくわけにはいかないだろう。そういうことで悩んでいると、内田は両方の眉の端を少し下げて、言う。

「終電はもう出てしまいまして……」

佐藤は気まずそうに顔を伏せて、どういうことを話すのか悩んでいるように口を結ぶ。佐藤は焦り、速くなる心臓の鼓動を鎮めるように目を閉じる。気まずい沈黙が佐藤と内田の間に満ちた。佐藤はようやく、口を開けた。

「終電で来てしまいまして……」

佐藤の答えは内田の想定していたものと全然違ったようだった。

「え?」

丸い声の中に、しっかりと棘を感じさせる短い声で、問われる。佐藤は電車を飛び出した時と同じように青い顔で続けて言う。

「乗り過ごしてしまいまして」

内田は佐藤を励ますように笑う。愛嬌のある顔立ちということも手伝ってか、彼女は笑うと眉も目も頬も丸くなる。

「降りる予定の駅はどちらだったんでしょうか?」

降りるはずだった駅の名前を告げると、内田はどうすればいいのか困ったように乾いた笑いを浮かべようとして、上手く笑えない顔を見せる。

「タクシーとかは、まぁ、なかったですよね」

佐藤は無言で項垂れるように頷いた。

内田は懐中時計に視線を落とす。

「始発待ち、ってことですか」

「……そうです」

内田は、んー、と短い声を上げる。手の指を、顎に添え、何か考え事をしているのか、何度か叩く。視線が佐藤から外れ、空中を泳ぐ。

冷たい風が左から流れてきて、佐藤と内田に触れたかと思えば、そのまま右の通りへと抜ける。佐藤は鼻の先が痛くなった。

内田は小さな声で、うん、と自らを鼓舞ささるように呟いた。。

「普通だったら、いけないことなんですけど」

内田は通り抜けた風で冷たくなった手を互いに摩り、そう切り出した。暖かくなったであろう手を、佐藤に差し出す。

「ここで始発を待つよりは、良いと思います」

内田の丸みを帯びている顔が一層丸くなる笑顔。

佐藤は困惑した。佐藤には全然内田の言っていることが分からなかった。内田の唇から零れた断片的な情報を拾うと、ここではないどこかで、佐藤を連れて行こうとしている。しかも、普通だったらいけない方法か場所を、内田は選び取った。

佐藤は内田の手を取らずに、笑顔の内田を見上げる。

「あの」

「はい?」

「良いんですか?」

本来であれば、どこへ連れて行こうとしているのか訊くべきだったのだと思う。しかし、良し悪しを先に訊いたのは、佐藤が会社に勤めている人間だということが関わっている。彼女は今、普通ではいけない方法を採用している。もし何かあった時、責任を問われるのは彼女なのではないだろうか。佐藤は一度は断ったのだが、内田に強引に誘われ、という自分を納得させる言い訳を作りたかったわけではない。

ここで佐藤が内田の手を取ってしまえば、佐藤も責任の片棒を担ぐことになる。そうであるくらいならば、佐藤はここで冷たい風を浴びながら始発を待った方が良いのではないだろうか。あるいは遠方からタクシーを呼んで、どこかへ向かうべきなのである。ミスをしたのは、佐藤なのであり、佐藤らしいやり方で責任を取る必要がある。内田を巻き込んでしまってはいけない。

内田は伸ばしていた手を引っ込めて、また視線を空中へと漂わせる。

「良いか悪いかって訊かれると、良いとは言えませんね……でも、寒くありません?」

佐藤は答える代わりのように、吹き抜ける風を浴びて身を縮める。

「それにですね」

内田はジャケットのポケットから鍵の束を取り出した。内田の視線が左右の通りの上部へと流れた。

「閉めないといけないんですよね、シャッターを。中に誰もいない状態で」

ですので、どうでしょうか、と内田は再び佐藤に手を差し出す。佐藤はどうやら彼女の仕事を邪魔しているようだった。ここではないどこかへ行かなければならないが、佐藤はここに詳しい人間ではなく、行けるところは誰にもなかった。誰か別の人を見つけられれば、その人に頼ることもできたかもしれないが、内田以外の者を見かけてすらいない。

内田は動く気配を見せない佐藤に困惑したように早口で弱々しく言う。

「あ、その、困った時はお互い様と言いますし……この時期に人を追い返すような真似はしたくありませんので……」

佐藤は重たい腰を上げようとした。内田を手を取ろうとして、一瞬視線を地面へ落とした。

「もし、私が外に出ていたら、シャッターを閉めてましたか?」

「そうですねぇ、誰もいないですし閉めてましたね」

彼女は彼女なりに筋を通そうとしている。間違っているかもしれない方法を採用していることに、佐藤は何かしら言えることがあるはずだが、こうなってしまった原因は佐藤にある。

佐藤は内田の手を取った。夜風に晒されて冷たいはずの手は、不思議と温もりに満ちていた。

内田はようやく満足げに笑った。少し待っていてくださいと言って、左右の通りに面しているシャッターを下ろすと、こちらです、と佐藤を案内する。改札の側にある事務室に、佐藤を通す。

中は明るく、冷たい風が佐藤と内田の間を通り抜けることはなかった。事務室の壁際には佐藤にはよく分からない機械が並んでおり、監視カメラの画面が何台も連なっている。奥には仮眠室へと繋がっているドアもある。

一角には、白い衝立で区切られた、仮眠室とは別の、辛うじて横になって休めるスペースを作ったと言いたげなように長いソファが二脚、テーブルを挟んで置いてある。

「適当な所にどうぞ」

佐藤はコートを脱いで鞄と共にまとめてソファの端に置き、荷物の隣に座った。

内田は手に持っていた懐中電灯を所定の位置に戻し、機械の前の空いている椅子に腰掛けた。ふぅと短い息を吐いて、被っていた帽子を脱ぎ、テーブルの端に置く。帽子の中で小さくまとめられていた黒い髪が肩に流れる。帽子のつばで影を落としていた顔は明るくなり、丸く見える。佐藤よりもずっと若い女の子のように感じられた。

佐藤の方へ身体ごと向け、内田は明るい声で言う。佐藤の不安を打ち消すように。

「こういうこと、あたしが入職する前にも時々あったんですよ」

佐藤はどういうふうな反応を返すのが正しいのか分からず、一瞬口を閉ざし、こういうこと、時々……と呟いた。内田は空いているソファを見て、猪口を傾けるように手を動かす。

「本当かどうか知りませんけど、そこで一杯引っ掛けてから仮眠を取るとかあったらしいですし」

衝立の裏には段ボールや書類の束が重ねて置いてあった。探せば、そういう噂を立証できる物が出てきそうな気配がある。

佐藤は内田の話を総括するように呟く。

「……ゆるいんですね」

「そうなんです! ですので、お兄さんがここに居ても大丈夫なんですよ」

「それは違うと思いますけど?」

「え、そうです?」

「そうです」

佐藤は不思議と言い切れる自信があった。規則の中にきっと、保安とかプライバシーとか安全のためとかそういう理由で、部外者を入れてはならない決まりがあるはずだった。

「まぁ、でも、大丈夫です!」

内田の発言に全く根拠は見出せなかったが、佐藤は何も言わなかった。沈黙が事務室に広がる。ここで無闇に正しさについて話して、内田の機嫌を損ねてしまう可能性も有り得る。そうなってしまえば、佐藤がここから追い出される可能性はないわけではないだろう。沈黙は、内田の思ったよりも大きい声が破った。

「あっ、いや、でも、飲み過ぎは良くないです」

彼女の中で何か納得できたものがあったらしく、うんうん、と頷いている。佐藤もそれには十二分に納得も理解もできるのだが、一つ否定したい部分があった。

「普段は、最初の生ビールでやめてるんですよ」

佐藤の声からは、隠しきれない後悔が滲み出ていた。佐藤自身でも驚くほどの後悔が、言葉の中で漂っている。それはまるで、どうしてそんなに飲んでしまったのか、と内田に問われることを期待しているような声音だった。

「……どうして、そんなに飲んでしまったんですか?」

内田は佐藤を見つめて、佐藤が望んでいるふうに訊いた。佐藤は胸の内でまとめまっていない答えを、すぐに正直に言葉にした。自分でも何故、急にこんなふうに話せたのか分からなかった。

「仕事で。仕事でミスをしてしまって。ミスなのかなぁ、ミス……いや、ミス自体が悪いと言いたいわけではなくて……」

佐藤自身のミスなのか営業である山田のミスなのか、佐藤自身はっきりと判断できない自信のなさが、そのまま声になった。

内田は佐藤の不安を吹き飛ばすように言う。

「引きずらない方が良いと思います」

「多分、まだでして……」

「まだ……?」

内田は佐藤の曖昧な発言に、首を傾げ、真意を確かめるように見上げる。穏やかな丸みを帯びた目つきだったが、真正面から見つめられると迫力がある。自分が納得できるように話してほしい、とその目が語っているように感じられる。

何が誰のミスで、何が誰のミスではないのかマネージャーとしての経験が浅い佐藤には、その区分けができない。ミスや責任の所在を明らかにするということは、間違ったことを言ってはならないということであり、佐藤の言葉を詰まらせる。

区分けができないが、山田だけのミスである、と断言したくはなかった。山田のミスでもあるが、山田だけのミスにしてしまえばマネージャーである佐藤は、本プロジェクトに関わる必要がない。進捗や成果や報告や確認を聞くだけで良いわけがない。メンバーのミスが明らかになった時に、自分のミスではない、と思うなどもってのほかなのではないだろうか。そういうマネージャーにはなりたくなかった。

「マネージャーなので」

続きは、佐藤の口からは出なかった。本プロジェクトが終了するまで、佐藤の責任は続く。顧客の戦略と合致するシステムを導入し、目標を完遂させ、今後も正常にシステムが働くか保守や点検が必要になる。どこまでも、佐藤達マネージャーは関わってくることだろう。

内田は納得できたらしく、佐藤を見つめるのをやめた。明るい天井を見上げ、佐藤のミスを労う。

「あたしのミスは、チームのミスで、皆のミスになっちゃいます。誰かのミスはあたしのミスで、皆のミスです。でも、ミスしちゃいけないと思うことはなくて、同じミスを繰り返さないように対策を立てるっていう方が大事だと思います。ミスしましたって言わないのは、もうそれは最高に怒られます」

内田は過去の失敗を思い出したのか、心持ち青い顔をして笑う。佐藤は新入社員向けの研修資料を作成している時のことを思い出す。ミスは生じてしまうということ、一人で抱え込まずまずは報告すること、相談すること。そういうことをテキストに打ち込んだことや研修の場で話したことを思い出す。社会人として必要なことであり、基礎的なことである、の繰り返して話した。山田はそういうことを守っているように思えた。しかし、佐藤は一人で抱え込んでいる。

「良い指導係に出会ったんですね」

内田は良い指導係に出会って良かったと一人の社会人として嬉しく思う。退職することなく、続けて仕事をしているのは、職場の人間関係が良い証拠でもある。

内田は指導係に褒められ、柔らかく笑うとお世辞のように言う。

「あなたも良い上司だと思います」

内田に言われ、佐藤は一瞬、心が軽くなったように思えた。上がりそうな頬の筋肉を強く引き締めて、言う。

「良い上司でしたら、こんな時間にこんな所にいませんよ」

佐藤は自虐的に笑った。が、内田は笑うことなく真面目は顔だった。面白くない冗談を口にしてしまったような居心地の悪さを、佐藤は覚える。

「部下のミスを自分のミスだと考えない人もいます。ですので、そう自分が悪いと思い込まない方が良いと思います。ちゃんと言葉にできたら、もっと良いんですけど……」

「それは……」

佐藤は続けて何か言おうとした。が、内田の明るい声がその言葉を掻き消した。

「あの、お腹空いてません?」

明確で分かりやすく、一層清々しく思えるほど露骨な話題転換だった。

内田は佐藤の返答を聞かずに、どこかに繋がっているドアを開けて、すぐに戻ってきた。片手には、小さなカップに入ったプリンを重ねて持っている。もう片方の手には小さなスプーンがある。

「今日までです」

あたしが二つ食べても良いんですけど、という呟きの後、内田は自信に満ちた調子で言う。

「そういうモヤモヤは甘い物で消し飛ばすのが一番なんです。あたしの上司もそうしてます。そして、お腹が空いているので色々と考えるんだと思います」

一つを佐藤の前に置き、内田は元の席に戻る。カップの蓋には、今日の日付が書かれている。

佐藤はそんなことはないと思うと否定したかったが、内田の熱の篭った発言を聞いていると何だかそういう気になった。否定したくなる気持ちは和らぎ、一理あると思うようになった。

佐藤はプリンを見ながら、改札を越えた所に置いてある自販機のメニューを思い出した。

「コーヒー買ってきます」

内田は佐藤を慌てて引き止める。

「え、いや、いけませんよ。甘いと苦いで、最高になります」

「それが、良いのでは?」

「それは、お休みの日に取っておきましょう。お休みは……近々ありそうですか?」

「多分あると思います」

「良かったです。お休みの日は、何を?」

内田はプリンを食べ、頬を緩ませながら尋ねる。これ以上、仕事のことを考え、話すのはやめよう、と言うように。

 

 

佐藤が出社したのは、午前七時を少し回った頃だった。佐藤の頭は不思議と冴えていた。駅の事務室のソファで仮眠を取り、始発から会社の最寄りまで二時間程度かかったこともあり休めたためだろう。

家に戻り休むかどうか迷った。普段はもっと遅くに出勤するため、そうしても良かったのかもしれない。しかし、昨日送ったメールの確認をすぐにでもする必要を感じた。

誰もいないと思っていたオフィスは既に電気が灯っており、暖房が効いていた。

昨日と同じスーツを着た山田の姿が既にあった。昨夜に比べると少しくたびれているように感じられるが、焦燥感は感じられない。

佐藤は驚き、山田と目を合わせて二人は少し無言の時を過ごす。それから、山田の方から、おはようございますと挨拶をされ、佐藤も挨拶を返した。席へと歩きながら、率直な感想を口にする。

「……早いな」

「自分の責任なので」

山田の顔色は少し悪いように見えた。明るい照明の下で、黒い隈が見えるのはきっと佐藤の気のせいではないだろう。壁に掛けられているホワイトボードを見ると、山田はこの後、顧客先に出向く。確認と報告の後、定例となっている進捗会議に出席予定となっている。

佐藤はメールを確認しようと思ったが、パソコンを立ち上げる手を止め、山田を呼んだ。

「山田」

「はい、何でしょうか?」

山田はキーボードを打っていた手を止め、佐藤を見る。固い緊張感がオフィスに満ちる。佐藤はその固い空気を破るように、柔らかく笑って、山田に伝えられなかった言葉を口にする。

「昨日は何も言えなくて、済まんかった。お前だけが責任を感じる必要はないよ。確認を怠った私たちマネージャーのミスでもあるから。それに、システム運用前に言ってくれて助かったよ。大変だけど、共に頑張ろう。……顧客のことを考える、良い営業になってるよ」〈了〉


 

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