白と黒の割合

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「白と黒の割合」

小説家である太田英子から、速達の手紙が届いた。中には、

『休みの時にでもどうぞ、私はもうしばらく滞在しています』

という一言が書かれた便箋。それと、とある旅館のパンフレットが入っていた。都心から随分と遠い山の中にある旅館。特急列車で近くまではアクセスできるが、そこから先は車が必要になる。

森川純一は、太田英子の書く小説が彼女以外の手によって書かれたものではないか判断する、という仕事を任されている。彼女が仕事を終えたということは、森川が仕事をする番である。

仕事で行きます、と速達で返し、森川もその旅館に赴くことにした。都心は九月に入ったというのにまだまだ残暑の気配すら見せず、どこから蝉の鳴き声が聞こえてくる時期だった。

旅館の近くの駅前で、森川様という紙を持った旅館の従業員に迎えられ、送迎車に揺られること一時間程度。

長期滞在の客しか宿泊していないという旅館は、広々とした三階建ての温泉旅館だった。山の中にあり、高い木々に囲まれて、辺りには点々とした丸い影が見える。少し標高が高い所にあるらしく、肌に触れる風は都心より冷たかった。避暑地、というやつなのだろう。

インターネットから離れた極上の安らぎを、というパンフレットの謳い文句通り、森川の携帯は電波が一本も立たず圏外を示していた。太田が郵便という手段を用いた理由が今更ななら理解できた気がする。そして、太田英子は夏になると、連絡が途絶えるという噂がそういうことだったのか、と理解できた。

旅館に着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。十四時のチェックイン開始時間には少し早い。森川は受付に荷物を預け、支払いをカードで済ませると、ラウンジに向かう。移動が続いたため、昼食を食べてなかった。

ゆったりしたソファと広いテーブルが並んでいる。大きな窓は真昼間の強い日差しを遮るためか白いブラインドを全て下ろしている。濃い黒い影の中に、見知った顔が見える。

さらりとしたリネンのホワイトスーツを着ている黒い髪をショートカットにしている女。都心に降り掛かる日の光とは無縁であるような、白い手や首がジャケットや涼しげな襟首の隙間から覗ける。森川が太田英子と初めて会った時から思った、華奢の一言でまとめるには難しい細すぎるその印象は、今も変わることはない。

森川は太田の前に腰掛け、早速仕事に取り掛かろうとした。が、太田はそっと森川に手のひらを向けて制する。インクで指先が黒く汚れた手が見える。

「バカンスですか?」

太田はサングラスのような黒い眼鏡の向こうから、森川を見上げる。長い休暇を心底楽しんでいる声音だった。

「お仕事は、都心に置いてきた?」

「残念ながら、仕事ですよ。ちゃんとお伝えはしたと思いますが?」

届いてませんか、と尋ねる。太田は本当に仕事で来たの、と笑った。

「随分とせっかちじゃなくて?」

森川はソファに腰掛け、答える。

「これが終われば、私も休みですので」

「喜ばしいこと。……でも、急じゃない?」

「構いませんよ、私は」

「私が嫌よ」

太田は苦々しく笑うと、メニューを持ってきた係りの者に二人分のアイスコーヒーを部屋へ持ってきてもらうように頼む。ミルクやガムシロップはいらない、と添えて。

太田はソファから立ち上がる。

「チェックインまで、お暇でしょう? 軽食に付き合ってちょうだい。何か用意してあげるわ」

太田の履く白いヒールが、かつかつと音を立てる。森川はソファから離れ、太田の細い背中を追いかける。ラウンジを出て、階段を上がる。

「メニューは何ですか?」

「冷蔵庫の中を確認してからじゃないと分からないわ。ご希望は?」

森川は特に希望はなかったが、外は随分と暑かったことを思い出す。喉が、冷たく、きりっとした物を求めていた。

「ビールは冷えてます?」

太田は軽く笑う。先ほどまでの姿勢はどこへ行ったの、と問い掛けるように。

「お仕事はもうお終い?」

森川はこの仕事が終われば、長い休みを満喫できるよう、続けて休みを取っている。二週間の休みを、どう過ごそうが森川の自由なはずだ。仮に仕事を依頼されたところで、森川の仕事は郵便であれど、外部との連絡手段を残しておけば、できることはできる。

「うちは、そこらへんゆるいんですよ。仕事中に飲んだところで……」

「斉藤さんがそんなこと許すようには見えないけど?」

「社長はああ見えて、ですよ」

柔らかな忠告が、太田の唇から発せられる。

「森川さん、もう少し嘘を上手になった方が良いわよ」

「あなたぐらいに?」

「ごめんなさい、私は嘘が上手くないから参考にしない方が良いわ」

太田の言葉が本音なのかどうかは、森川には詳しく分からない。瞬間的に、仕事上の癖のように太田がこれまで書いてきた作品を思い出してみたが、嘘はないように思えた。
太田の部屋は最上階の角部屋だった。

ドアを開けた次の間には、大きなキャリーケースが置かれており、開け放たれたドアの向こうは、森川の宿泊している部屋よりもずっと広い。太田は白いヒールから白いルームシューズへと履き替える。森川さんはこっち、とシューケースから新しい白いルームシューズを取り出した。

白く高い天井には、シーリングファンが回っている。絶えず、冷房の風をかき混ぜている。部屋の左右を区切るように、白い絨毯がが敷かれている。黒いカーテンは分厚いようで、外の陽の光一つ通していなかった。

左手には洋間が続いている。白いツインベッドが置かれており、ベッドの側にはフロントや外へとかけられる白い固定電話がある。

長期滞在向けなのかベッドの奥には白いテーブルと椅子があり、黒を基調としたキッチンがある。冷蔵庫や電子レンジなど一通り揃っており、道中に周辺に住んでいる者が買い出しに使っているであろう大きなスーパーがあったので、そこで定期的な買い物に出れば料理を作ることも難しくないのだろう。

部屋の右手には和室が用意されており、畳の真ん中に置かれている黒檀の机には、万年筆と黒いインクの瓶が置かれており、その下にはここに滞在していた理由を明らかにするような原稿用紙の束が何枚も重ねて置いてある。都心と距離を置き、小説を書くのに集中していたことを示すように。

森川は和室へと上がり、改めて尋ねる。

「仕事をしても?」

太田はフロントの者から受け取ったアイスコーヒーを黒檀の机に置く。

「そんなにお仕事を早く終わらせたいの?」

「休みは早く、長い方が良いでしょう?」

「私のお仕事が増える可能性は?」

「中身次第ですよ」

「軽食は?」

「何でも良いです」

「ビールは?」

「仕事中は飲まない主義なんです」

森川はそう言って、中身の確認を行う。太田は、ご自由にどうぞ、と呟き、自分の分のアイスコーヒーに口を付けた。

部屋の中では紙を捲る音だけが満ちる。森川は自身の手元に注がれる視線を意識することなく、黙々と紙に書かれている文章を読む。

長い小説だった。とある女の一生と心模様、男とを感情と肉体的な美で振り回す女を描かれている。太田英子らしい作品であった。

最後のページまで読み終えた森川は、ふぅと息を吐いて、ようやく顔を上げる。

部屋はいつの間には、パンが焼けた香りやバターや卵の香りに満ちていた。洋間のテーブルでは、軽食のサラダにフォークを突き刺す太田の姿があった。

労いの言葉と微笑を受ける。太田はいつの間に、シンプルなロング丈の黒いワンピースに着替えていた。

「お疲れ様、熱いうちにどうぞ」

森川は置かれたままのアイスコーヒーに口をつける。ぬるくなっていて、苦味が強く、舌に残る。太田は食事を食べる手を止め、立ち上がる。

畳へと上がり、森川の分のアイスコーヒーを持つ。氷を足すわ、と。指先のインクの汚れは落ちていて、白い指先が露わになっている。

「それで、どう思うの? 森川さんは」

冷凍庫が開けられ、ガラガラと氷を加える音と共に太田の世間話でも楽しもうとする軽い声が届く。

森川が太田の書いた小説を読んだ時、彼女はいつもそう言って、会話を始める。

森川は、その質問の意図を正確に理解していた。ゆえに、何がとかどうとかいたずらに言葉を重ねる真似はしない。太田と森川の間には重々しいと形容するに値する沈黙が生まれた。

この小説は果たして本当に、作者である太田英子一人の手で書かれたものだろうかと考える。生成AIを活用して書かれていないだろうか、と。インターネットに繋げられないこの旅館で、生成AIを使って書くことは可能なのであろうか。全てはカモフラージュであり、事前に生成AIに出力させているのではないだろうか。

森川は渦巻く疑念を断ち切るように、思考を切り替える。自らの立ち位置を今一度思い出す。

森川純一は生成AIが作ったのか人間が作ったのかという判断を仕事としており、太田英子の作品が出版社から発表される前に、その作品の判断を任されている。作者の次に原稿を読む作者以外の最初の読者である。ここで審議を下し、校正などの段階に進む。

太田の作品を出版している会社は生成AIを使用しておらず、人間の人間による人間のための制作物発表を続けている。

こういうことになったのは、生成AIの発達と普及が、多くの人間が考えているスピードを優に超えたからである。

クリエイティブの世界を変えたのだ。

絵画、音楽、小説……数多の作品が発表されるが、それらの作品を鑑賞する者は、この作品は生成AIによって作られたものではないだろうか、という嫌疑から作品鑑賞のスタートを余儀なくされた。個人からクリエイティブを奪った、と言う者すら存在している。

制作者や出版社が、使用をしていないと宣言をしたところで、疑いは晴れず、むしろ強まった。何か隠しているのではないか、と。

生成AIを使用していないのにも拘わらず、使用していると言い掛かりをつけられ一時期仕事を失ったクリエイターも存在している。

生成AIを導入している制作者や出版社もあるが、生成AIにどこまで頼っているのか、までは明らかにしていない。部外者が分かることといえば、その会社や制作者は、業務に生成AIを使っている、ということだけ。

第三者による生成AI使用の有無を確認する必要が生まれ、人間が作った創作物であると保証するために大小様々な団体が生まれている。ただその中には、生成AIを使用して生成AIに作らせたものを探す団体もある。

作品の審査に商いの臭いを嗅ぎつけ起業する者も生まれ、雇用が生じ、森川達のように作品を審議することを専門とする者さえ現れている。

法律が制定されるのは時間の問題であるが、どこまでが悪く、どこまでが悪くないのかの線引きが難しく、生成AIと創作物に関する法律はまだ制定されていない。

森川達は、出版社や個人から商業として本を売る前に依頼されるケースもあれば、個人がこの作品がどうか判断してほしいと依頼されるケースもある。太田との場合は前者であり、出版社の主催する新人賞を受賞してからの付き合いが続いている。

ゆえに、彼女の作品の癖などということは分かっている。私を主役にした私小説らしい作品の数々。感情的で激情家な私を主役し、男女の肉体関係や著名な小説家や編集者との関係を描くこともある、ノンフィクションと思わせる作品。女性らしい感覚の鋭さを散りばめられた文章は彩り豊であり、艶やかでもある。

今回の作品もそういうものであった。私のことを書くのに、どこに生成AIを使えばいいのか、と逆に尋ねているようですらある。

しかしだからこそ、と森川は考える。

森川は畳から立ち上がり、洋間のリビングへと移る。太田からアイスコーヒーを受け取る。氷ぎ加えられ冷たくなったアイスコーヒーは、少し黒い色が薄くなったように思える。

この仕事を始めてから自論としていることを、太田に伝える。これも太田が会話を始める時の返事として、いつも口にしていることだった。

「この世に、完璧な白はありませんよ」

「完全な黒も、ね」

聞き慣れた太田はそう付け加える。

森川は答えない代わりに、まだ熱いホットサンドイッチに手を付ける。中にはチーズと卵が入っており、ケチャップの酸味が程良い。

「何かお嫌いな物でも入っていた?」

太田に眉間を指さされ、森川は眉の間に入っていた力を抜く。

「結局、そこなんですよ」

「そこ?」

「比率の話ですよ。今、全てを生成AIに頼っているクリエイターは少ないです。そういう者は、生成AIに任せてる、と正直に言ってます。発覚した時のことを考えれば、そうなります。ですが」

と、森川は言葉を区切る。全てを生成AIに任せているのならば、それで良かった。太田は森川の言おうとしていることがわかっているらしく、同情するように笑う。

「一部分の場合は、どうしたらいいのか、ってこと?」

森川は自信に満ちたように声を張る。が、最後の方は弱々しい調子に変わっていた。

「簡単ですよ。使っている、いないだけですから。私が分からないのは、そこじゃないんです」

「随分と極端なお話ね」

「私達の仕事は白か黒かはっきりさせることですから」

「それで、森川さんは何が分からないの?」

森川は十分に冷たくなったアイスコーヒーを飲む。きりっとした冷たさが、喉を通る。

森川は自分の悩みをはっきりと太田に伝える。

「どうして、太田英子が今更生成AIに頼ったのか、ということです。それも、表現の一部分を」

森川の胸に失望も動揺もなかった。森川は過去もそして現在も、生成AIを駆使して作品を発表している人間と出会い、話し、黒だと判断したことがある。森川にとっては、よくあることなのだ。仕事である以上、そこに余計な感情を差し込みたくない。

しかし、と森川は考える。この瞬間はいつも良い思いをしない。生成AIを使っていることを明らかにした時、森川が悪者のように思われるこの瞬間は、心苦しいものがある。悪いのは森川達ではなく、使用した者なのではないか、と思う。

太田の白い指先や頬には、一切の動揺も焦燥も見られなかった。疑われていることを心外だと思う素振りすら見せない。怒りも見えない。小説の内では激情家として書かれている彼女との違いを見ているようだった。

森川は太田の返答を待ちながら、ホットサンドイッチを食べ終えた。サラダにも手を付け、空にする。

食後のアイスコーヒーで一息ついていると、太田はようやく口を開けた。感情の起伏が感じ取りにくい沈んだ声だった。

「森川さんだから、分かった?」

「おそらく、そうでしょう」

「何作も、私の作品を読んでいるから?」

「そうですね」

森川は席を立ち、黒檀の机に置かれている原稿用紙と万年筆やインクなどを太田の元へと運ぶ。通読して違和感を覚えた箇所は複数あり、それぞれを文字と同じ色の万年筆でチェックしていく。

長い心理描写の表現の一部分に違和感を覚えた。彼女らしいけれど、彼女らしくないといえばそうとも思える、文体からの浮き。他にもある。情景描写の組み立て方の違和感や会話の途中に見られる描写の切れ味の悪さ。作風の変化、使用語彙の変化という言葉でまとめるには、その範囲を超えているように感じ取れる。

森川は太田が生成AIを使用しているかもしれない、という疑いの眼差しを絶えず向けている。だからこそ、作風や使用語彙の変化という言葉で収まりきらない表現を読んだ時、もしかして、という可能性が真っ先に浮上する。

「森川さんのお仕事は、それだけ?」

太田の視線が森川の奥にある白い電話機へと移る。

会社に連絡を入れて、太田が生成AIを使用したことを伝えることはできる。出版社にも連絡を入れ、太田を今後をどうしていくのか、という話し合いの場を設けられることになる。他の者を相手していれば、森川はすぐに連絡を入れて、仕事を行なった。

森川がすぐに行動に移さないのは、強い違和感を懐いているためだった。連絡を入れれば、長い休暇を得られるのだが、そうして良いのだろうか、と考える森川自身がいる。

私小説を書く太田英子という小説家が、インターネットが繋がらない避暑地で新作を書いている時に生成AIを使用していたことを突き止めた。それこそ、物語のように上手く出来過ぎているのではないだろうか。他に何かあり、生成AIを使用しているのではないだろうか。

生成AIを使わなくても、太田の書く私小説は私小説らしい大胆な告白と艶かしい表現の数々に支えられている。このタイミングで、生成AIを使う理由や動機が、森川には全く分からなかった。便利、速い、たたき台を作るのに優秀、興味本位……そういう理由で生成AIを使う者が多いのは知っているが、太田にはそのどれもが当てはまりそうになかった。

「どうして、使ったんですか?」

「分からないのね」

失望が、太田の口から零れた。森川は少し反感を覚えそうになったが、何をどう考えたところで分からないことに変わりはない。森川は素直に尋ねることにした。

「何がです?」

太田の白い指先が、原稿用紙を軽く叩く。

「これ、良くないのよ」

「そうです?」

「そうよ」

「……具体的には?」

太田は口を閉ざし、重苦しそうに首を横に振る。部屋に落ちてきた沈黙は冷たかった。太田自身、何が良くないのかということが分かっていない。

気のせいだとか思い込みだとか、そういう言葉を太田が求めていないことは、彼女の顔を見れば分かる。

太田自身で分からないことが、森川には分かるはずがなかった。生成AIに尋ねたところで、普遍的な返答しか出力しない生成AIが、太田の納得する答えを出力したとは思えない。

「生成AIを使っていると知っているのは、私と森川さんだけ。そうよね?」

今更のような確認をされ、森川は手短に答える。

「担当も誰も読んでいないんでしたら、そうなります」

太田は白い頬に朗らかな微笑を浮かべて言った。安心したように零れた微笑は、追い込まれている人間が見せるものではないように見える。

「それじゃ、本当に私とあなただけね。森川さんは何も見ていないの、良い?」

森川は太田の言っていることの真意が分からなかった。太田の顔を睨んでみせるが、太田は表情一つ変えることはない。

「……は?」

「そんな作品はなかった」

「黙っておけ、と?」

「違うわ、そんな作品は私とあなたしか知らない。それだけ」

太田はそう言って、インクの入っている瓶の蓋を開ける。瓶を持ち上げると、原稿用紙の束へと傾ける。黒いインクが、太田の白い手の動きに従い、原稿用紙を染める。黒い文字は同じ色のインクに飲み込まれ、読めなくなる。原稿用紙は瞬く間に真っ黒になった。そこに太田英子が小説を書いていたと証明していた数々の言葉は、もう読めなくなった。

太田は瓶の蓋を閉めて、テーブルへと置いた。

太田の行動を、森川はただ見ていた。止めなければならないと思った時には、全てが終わっていた。全てがゆっくりと動き、映った。

「これで、あなたのお仕事はおしまいね」

森川は太田の行動の意味が分からなかった。

「隠蔽ですか」

それが、森川が辛うじて分かる太田の行動の原因のように思えた。生成AIを使っていることが発覚したので、なかったことにする。そう考えれば、太田の行動も納得できるような気がした。森川の仕事は出版する予定の作品が生成AIを使用しているかどうかの判断であり、出版されないのであれば森川が確認する必要はない。

太田は森川の発言を鼻で笑う。

「隠蔽? 違うわ。欲しかったのよ」

思ってもいない言葉を返され、森川は訊く。頭の中では警鐘が鳴り響いているが、興味が勝っていた。どうして太田がそういう行動に出たのか、その全てを知ることができれば、自分の中に生じた違和感が解消されるのではないだろうか、と考えている自分自身がいた。

「欲しかった?」

「そう」

「何をです?」

「あなたが」

森川は突然の発言に慌てることなく、問いを重ねる。

「だから、こんなことを?」

「ええ。長いお休みを、心行くまで楽しみたいの。あなたと」

「心行くまで楽しんだところで、私は私の仕事をするだけです」

「だからよ」

「だから?」

「靡かないで、真面目に仕事をするから好きなの。欲しくなっちゃった」

太田の白い頬に、赤い血潮が満ちる。

森川はようやく腑に落ちた。長い小説を読み終えたような疲労感を吐き出すように、言う。自分自身が、太田の書く小説の中に突如として生み出されたような感覚。

「目的は最初から……」

「上手く書けなかったのは、事実よ」

「上手く書けたら、どうしたんですか?」

森川を見つめる太田の目は真剣そのものだった。太田が何かに悩んでいること、新作が不出来であったことは、事実のようだった。現状を打破するために生成AIを使った可能性は全く有り得ない話ではないのではないだろうか。それとも太田は、森川を手にいれるために、このような大掛かりな手に打って出たのであろうか。

「森川さんに見破られなかったら、私の新作になっていたかもしれないわね」

「上手く書けなかった作品だと自覚しているのに?」

「締切がある以上、仕方ないことなのよ」

太田は諦めたように言う。

太田の発表するはずだった新作は、どうであれ見るも無惨な真っ黒な紙屑となった。発表し得る新作は、ここにない。太田が書いているということは、出版社は太田の書く新作を待っているのではないだろうか。

「出版社は新作を待っていると思いますが?」

「そうね。だから、手伝ってちょうだいね」

「……手伝う?」

太田の細い指が森川の頬に触れ、輪郭をなぞり、指先が唇へと辿り着く。森川は動じることなく、太田を見る。

「森川さん、口はお堅い?」

「嘘は上手くありませんよ」

「良いのよ。私は、まだ何も書いてないから」

太田の指先が森川の唇から離れる。空になった食器を重ね、流しへと運ぶ。森川は遠くなる太田の背に、問い掛ける。

「今度は何を書く予定なんですか?」

水が流れていく。無色透明な水が流れ、太田は汚れた食器を洗う。その合間に答える。

「黒い人を好きになってくれるかどうか。そんなお話しになるかもしれないわね」〈了〉

 


 

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