チャージ

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「チャージ」

京都は古都と名高いこともあって、社宅の周りにもお寺や神社がある。ただ、どこの飲食店も観光客で混んでいる。コンビニでもいいかと考えるけど、連日は流石に飽きる。

こんなふうに食事に悩むのも、全ては社宅のキッチンがキッチンとして用を成していないのが悪い。一口のガスコンロと小さな流しの間に作業スペースはあるけど、小さいまな板を辛うじて置ける程度。それに、キッチンが微妙に低くて中腰を強いられるが辛くてご飯を作り続けるのを諦めた。

転勤の辞令を受けた八月、社宅か自分で住居を探して住宅手当を受けるか選べた。でも、引き継ぎなどの業務の傍らに、よく知らない京都で不動産の営業の方と一緒に住居を探して、内見をして、という余裕はなかった。京都という場所は東京のように風通しが良くなく、真昼間の暑さが動くことなく夜になっても一日中居座っているようで身体に堪えたのも大きい。

社宅のある五条という土地は、職場に近く、飲食店やコンビニやスーパーが周りに多いという社宅周辺は転勤して間もない十月上旬は助かったが、一ヶ月と少し経った今では全然反対の思いを懐く。

休日の晩ご飯をどうしようかと考えながら、職場のあるオフィス街の烏丸から東へと歩けば、歓楽街の河原町に着いた。転勤して間もない頃、職場の部下が、大体はここで片付けられると教えてくれたことを思い出す。その時は、何が片付くのか分からなかったけど、休日や仕事の休憩の時や残業後に足を運んで分かった。飲食店やスーパーはもちろんのこと、日用品や細々とした事務用品も大きな電化製品も買える。観光客に混じってレジに並びながら。

京都という街は、朝も昼も夜も平日も休日も観光客の行列とは切っても切り離せないらしい。東京も観光客の列は見かけたけれど、京都はここと京都駅前が特に混雑している。

仕事であれば待つことに抵抗はないけど、休みの日にも待ちたくない。何より、ご飯のために並ぶのは好きじゃない。速さだけを考えるのなら、牛丼とかハンバーガーとかファストフードが候補に挙がってくるけど、そういうのは仕事の昼休憩の時に食べ飽きているので、休みのご飯の時に食べたくない。

どこで食べようかと迷いながら四条大橋へと差し掛かる。渡って、祇園で何かしら飲もうかと平日の夜のような思考に陥る。日は今まで歩いてきたオフィス街の向こうにそびえる山の奥に沈もうとしていて、鴨川の水面も街路樹の紅葉も銀杏も全てを茜色に染め上げる。鴨川の岸辺にぽつぽつと等間隔に並ぶカップルの列も、眩しいほどに茜色。

先斗町に顔を向ければ、観光客やスーツを着た者で溢れている。ガラガラとスーツケースを引きずる音がする。

先斗町は少し値が張るけど、良い飲み屋が多いところだと職場で教えてもらった。人が二人並べが通れなくなるような細い道の左右には、多種多様な飲食店がある。通りに看板やメニューは出しておらず、暖簾だけ出しているような寿司屋や天麩羅屋というのもあるらしい。

夏の頃は、鴨川に面している通りなのもあって川床をやっていた。業務の引き継ぎの傍らに配属先の挨拶した際に、上司からご馳走された。大変かもしれないけどビールでも飲んで元気を出せ、と言われた。自分が配属予定となる営業部は人手不足らしく、本社から秋に転勤となるのであればそれは優秀なのだろう、と期待された。支社で経験を積んで昇級で本社に戻る、ということもあるらしい。その出世街道を歩んでいる可能性がある、と教えられた。

どういう言葉を返すのか悩みながら多くの話を聞いて、色々なことを教えられたけど、夜風に当たって飲む生ビールが美味しかったことは良い思い出になっている。以来、会社で飲み用事や仕事がある時は、ここか四条大橋を越えた祇園で飲むことにしている。

ただ休日も先斗町で飲むとなると、自分のお財布の事情が心配になる。多分一軒じゃ終わらないし、二軒目や三軒目を探す未来が見える。今年の健康診断で、生活改善指導を続けている項目にチェックを入れたこともあり、飲み過ぎは控えたい。肝臓の要経過観察は、自分の生活習慣を省みると、お酒ぐらいしか当てはまりそうになかった。

木屋町へと戻ってみると、立ち飲みにはもうお客さんの姿があった。自分より、ずっと年上の人が赤い顔をして飲んでいた。こっちは先の二つと比べて、年齢層が下がることが多い。大学生のサークルの飲み会とかに使われるリーズナブルな居酒屋が並んでおり、明るい看板が目立つ。立ち飲み屋やスポーツバーがあり、日付が変わる前に暗くなる先斗町と比べ、こちらは朝まで明るく賑わっている。

早い時間帯から通りに出ている キャッチの声に適当に返事を返しながら、北の三条通りへと向かう。その途中、ラーメンや焼き肉などの濃い匂いに混じって、甘い醤油の香りが鼻先に触れた。思い込みかと思ったけど、確かに自分の鼻は、甘い醤油の香りを嗅ぎ取っている。夕方の冷たい風に紛れている。

木屋町の東側は先斗町があり、その東西の間を、何本もの短く、細い通りがある。そこにも、これまた飲み屋がある。飲み屋ばかりだと思っていたが、どうやら飲み会以外にもあるらしい。甘い醤油の香りは、その細い通りのどこかから漂ってくるものらしかった。

五条から歩き、冷えた身体は、吸い寄せられるように香りの方へと向かう。細い通りに入っては先斗町の薄暗い通りに顔を出して、目当てのお店がないと分かると木屋町の明るい通りへと戻る。そういうことを何度も繰り返す。木屋町の真ん中辺りでもそんなことをしていると、ようやく足を止められる場所を見つけた。どこからか水の流れる音がする。

高いビルに囲まれていて、辺りは夜に包まれそうだった。ビルの隙間から、夕日が真っ直ぐ降りかかってくる。

視界の向こうには、石畳の先斗町を歩く人達の姿がある。左手に、一軒の小さな飲食店がある。先斗町のお店のように看板は出しておらず、暖簾だけが掛かっている。割烹という字は読み取れるけど、続きのお店の名前は達筆でよく分からない。

店の前では、腰の曲がった、背の低い年老いた女性がホースで水を撒いているところだった。白い割烹着に地味な和服を着たお店の人。女将さん、という言葉が似合う人のように見える。自分が通りを横切るだろうと思った女将さんは、ホースの蛇口を下げ、お店の方へと向ける。空いている細く皺の多い手を通りへと向ける。通るなら、どうぞ、と言いたげ通りへと。

自分は換気扇の近くに立っているらしく、上の方から醤油の香りがもうもうと流れてくる。

女将さんに固い声で訊いた。標準語のイントネーション。

「あの、開いてますか?」

女将さんは慌てることも焦ることもなく、平静とホースの蛇口をぎゅっと閉めて、ホースをくるくると片付けると、引き戸を開ける。

目元に深い皺が刻まれた微笑を、自分へ向ける。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

自分はそう言って、店内に入った。
店内は外から眺めていた通りの狭さだった。入ってすぐに、カウンター。それも、五席しかない。コートを掛けるところも荷物を置くところもない。テーブルにはメニューらしき物も見当たらない。椅子がなければ、立ち食いそばだと勘違いしそうだった。他の飲食店が営業を始める前にさっと食べるような、そんなお店のように思える。自分達のような他所者を相手にするのではなく、ここで働いている人達のお腹を素早く満たすようなお店。

テーブルの一段高いところには大きな丼鉢が並んでいる。がんもどきや大根やかぶの煮物が作ってあった。香りの正体はこれらしい。

「何にしましょう?」

女将さんはそう言って、奥からメニューとお水を持ってきて、自分に手渡す。職場で聞く乱暴な関西弁ではなく、心なしか柔らかく優しい関西弁だった。

メニューには瓶ビールと数種類の地酒と焼酎とソフトドリンク。後は何品かの一品ものとご飯ものが書かれているだけ。ご飯ものといっても凝ったものではなく、白ごはんとおにぎり程度。居酒屋によくあるようなスピードメニューもなければ、何種類もお酒が置いているようなものもない。

「温かいお茶をください」

そう伝えると、女将さんは、丼鉢から大根の煮物を箸で掬い上げ、小鉢へと移す。

「お通しです」

そう言って、自分の前に小鉢を置く。

大根には煮汁が染み込み、茶色くなっている。お箸で小さく切り分けると、湯気が立つ。一欠片を口の中に入れると、随分と柔らかい。煮汁の紛れることなく、大根のほんのりとした甘みが口の中に広がる。

その時、不意に、転勤の辞令を受けてから初めて京都に来た時のことを思い出した。

本社と比べて、京都の支社は人員が不足しがちと説明を受けた。ただ本社も豊潤な従業員で仕事が回っているわけではない。

弊社は定期的に異動や転勤があり、従業員が色々な部署に所属しながら出世していくことがある。上に立つ者は一つの部署のことを知るだけではいけないらしい。エキスパートやスペシャリストのみならず、ゼネラリストの育成にも力を入れているらしい。育成に力を入れているが、抜けた穴を埋めるのは毎度大変である。

そういう事情なので、転勤や人事異動は四月のみならず十月もある。自分が辞令を受ける立場になるとは思わなかったが。そういう事情であるが、それが全てというわけではない。自分がそれまで所属していた営業部の上司との関係や同僚との関係が知らない間に悪くなっており、表面化する前に、そういう納得できる理由を建前として放り出された可能性はある。

自分は辞令を受けた時も後も努めて多くのことは言わずに、京都転勤を受け入れようとしていた。心の片隅には、新卒から配属された部署を離れる寂しさもあった。また、大学入学から住み続けた東京という街を離れる寂しさもあった。

寂しさは、東京に置いておくことはできなかった。新幹線に乗っている間も絶えず、胸にあった。寂しさだけではなく、不安もあった。仕事に関することだけではなく、京都という街で、自分のような他所者が混じれるかどうか、というもの。

職場では仕事という繋がりがあり、各々が仕事をしているため、自分も仕事をしていればそれで良い。社会人の、チームの一員として認められるだろう。でも、その街で暮らすとなるとそれだけじゃいけない。観光客のように、何日かホテルに宿泊して、家に帰るというものでもない。

京都という街は、東京のように周りの者に関心がなく、絶えず入れ替わる街ではないだろう。その街で生まれ育った人やお店があって、生活を続けている。お寺や神社が沢山あるように、長い歴史がある。碁盤の目と呼ばれる通りも残っている。そういう街で、自分も生活を続けることになる。新生活が始まるという春ではなく、一夏を乗り越えた秋から。

そんなことを考えて京都駅に降り立った時、醤油の甘い香りに出迎えられた。懐かしい香りだった。色々な匂いが混じっている街とは違う。他所者の自分を他所者として捉えることなく、一人の日本人としてまずは迎えてくれるような、包み込んでくれるような、そんな不思議な感覚。

そういうことを、思い出した。

あれはきっと、家庭の思い出だろう。家でご飯を作っている頃に帰ってきたり、朝ご飯ができたからと言って起こされる時のような、ああいう懐かしさ。コンビニの食事やファーストフードにはない、人の温かい手で作られた温かいもの。

帰るべき場所があるという感覚。

温かいお茶もいつの間にか、自分の側に置いてある。女将さんは自分が黙って食べていても、何も言わない。接客業の人が常に浮かべるような笑顔を浮かべることなく、穏やかな顔で、自分が何か言うのを待っているようだった。

「美味しいです」

素直な感想が、自分の口から零れた。女将さんは当然といった調子で教えてくれる。

「このお大根は、聖護院だいこんだからね。今が旬なんです。農家さんのお陰です」

旬という感覚は随分と忘れていた。そう言われるとスーパーに京野菜のコーナーが一角にあり、旬ものを置いているところが多いことを思い出す。夏はそうめん、冬はお鍋というそういう大雑把な分け方はできるけれど、どの時期にどういう野菜が旬で、ということまでは知らない。そこまで気にして、ご飯を作ってなかった。そういう余裕がなかった。

キッチンに立つ機会は大学の頃から一人暮らしをしていたので増えることには増えたけど、そういう食材に気を配るということはしてなかった。自分が食べたいものを、食べたいように料理をして、社宅のキッチンに不便さを覚えて続けるのを諦めた。

「家でも、作れますか?」

そういう気持ちが芽生えた。栄養を摂る、お腹を満たすだけではないものが、家で作るご飯にはある。ガスコンロを点けて火を点ける時のような、切り替える何か、ほっと息をつく時のような何かが、家で作るご飯にはある。

「簡単ですよ。この時期でしたら、ふろふき大根の方が良いかもしれませんね。適当な大きさに切って、昆布と炊いたら出来上がりです。旬ですからね、下手に触ってこねくり回して、なんてことしなくて良いんです。お味噌もいらないかもしれませんね。まずは、そのまま」

女将さんは簡単にレシピを教えてくれる。でもそれは、長い間、キッチンや厨房に立ち続けているからこそ言えることなのだと分かる。自分はレシピを教えられても、全然味が想像できなかった。

お礼を言って、続けて、注文する。おばんざいとご飯のセットを頼む。

ごぼうと人参のきんぴら、壬生菜のお吸い物、白ごはん。そういう、飾り気のないご飯が、自分の前に並ぶ。でも、一手間かかっているのが分かる。懐かしい味を噛み締めていると、後ろの引き戸が開く。女将さんが声をかけるより早く、暖簾の向こうから男の声がする。

「婆ちゃん、何か適当に頂戴」

女将さんは自分に応対していた時より、ずっと砕けた調子で応じる。

「あんた、適当って……希望はあんの?」

男は慣れた様子で店内に来て、自分を見て軽く会釈をすると女将さんに言う。

「いやぁ、もうそんな時期か。今年のは、どう? ええ感じ?」

「今年もええよ。それで、どないすんの?」

「何でもええよ。おばんざいと瓶ビールで」

席数は少ないこともあり、長居してはいけないだろう。すぐに食べて、お会計を済ませてお店を出た。

木屋町に出ると日はもう沈んでいて、群青色の空に少し星が見える。自分は真っ直ぐ帰ることなく、途中でスーパーに寄った。

京野菜のコーナーには、女将さんが言っていた聖護院大根が売ってある。自分の頭ぐらいの大きさをしている丸い大根だった。手に持ってみると、ずしりと重さを感じる。

自分は一つ買って、家に帰った。昆布も忘れずに買った。

女将さんに言われた通りに、適当な大きさに切って、昆布と一緒に煮る。ことことと煮続ける。

今晩も美味しく食べられるだろうけど、明日の朝には、きっともっと美味しくなってくれることだろう。

そう思うと、明日の朝、出勤する前に起きるのが少し楽しみになった。〈了〉


 

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