白地に白

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「白地に白」

藤本精二が目覚めると、見知らぬ天井を視界一杯に広がっている。自宅のベッドより高く、広く、灯りが所々落ちている薄暗い天井。ベッドサイドに置かれている照明のオレンジの優しい灯りが目にしみる。気怠げにぼんやりと眺めていると、頭の痛みを覚えた。

うっ、と低い呻き声を上げると、どこから小さな物音。自分以外にも誰いるらしいと思ったが、音のした方を見る気力すら生じない。

この頭の痛み、気怠さ、嘔気……藤本は自身が二日酔いの症状だと理解したのと、見知らぬ天井を隠すように誰かが顔を覗き込むように姿を見せたのは同時だった。

辺りは暗く、影になって多くは見えないが、細い輪郭や首、滑らかな肩のラインはとてもだが男とは思えない。

どこかにある照明のスイッチを手探りで探してみようと思ったが、二日酔いの身体は容易に動いてくれない。

「あ、生きてますね」

柔らかい物腰だが、言葉の節々に呆れが漂っている女性らしい高い声。

知らない女である。

藤本は言葉を失い、痛む頭に顔を顰めながら、昨夜のことを思い出す。

藤本は昨夜、長々と続いていた仕事のプロジェクトが一段落したこともあり、メンバーと共に酒を飲んだ。二次会で解散したが、藤本は飲み足りず、日付が変わる前に、度々足を運ぶバーへと向かった。そこで飲んでいて、以降の記憶はない。

目覚めるとベッドで寝ている。しかも、知らない女と共に。藤本は最悪の可能性が脳裏を過り訊く。喉が乾き、掠れた声が藤本の口から零れる。

「ここは、あなたの家?」

「ホテルです」

「休憩?」

「泊まりです」

あぁ、という後悔は藤本の胸の内に留まる。ぼんやりと部屋を見渡す。

二次会やバーに入る時にはしっかり着ていた紺のスーツは脱いでおり、部屋の端のクローゼットの前に吊るしてある。開襟の白いシャツはその下の丸い椅子に畳まれている。下着が荷物も一緒にある。

女の荷物はローテーブルと備え付けで置いてある長いソファにまとめてある。

藤本は、ホテルに備え付けられているパジャマを着ている。全裸で。

あぁ、という諦めたような呟きは、枕へと零れ落ちただけで、女の耳には届かなかったようだ。

酒を沢山飲んで酔って、真っ直ぐ家に帰るのが面倒になり、ホテルで寝た。そういうことは過去に何度もある。あったのだが、女が共にいることはなかった。

枕元に置いてあるスマホに手を伸ばす。ジャケットの内ポケットにしまっていたはずの財布も置いてある。十月中旬、日付は土曜日に変わっており、真夜中の三時だと知れた。着信履歴を確認するが、昨日電話をしたのは二次会の飲食店だけで以降どこかに連絡をした履歴はない。

つまり、藤本と一緒にいる女は、どこかのお店の女ではなく、藤本と変わらない普通の人ということだ。

藤本が女にどういう言葉をかければいいのか迷っていると、ベッドが軋む。ベッドに乗る白い膝。女は、藤本と同じようにホテルのパジャマを着ており、白い太ももが覗ける。眼鏡の向こうにある瞳は真剣そのもの。

女は藤本の手首を取る。人差し指、中指、薬指と三本の指が藤本の手首の上を動く。体温の高い、暖かい手であった。女の額や頬を長い髪が流れ、毛先が藤本の腕へと落ちる。

突然のことに驚き、鼓動が早くなる。あの、何ですか、と声をかけることはできず、薄暗い中で女を見守る。女の視線は藤本の肉体へと注がれる一方で、自分のしている細い腕時計の秒針を注目している。

「良かった、落ち着いてますね」

女は、ほっと安堵したように笑う。暖かい息からはアルコールの香りが漂ってこず、オレンジの香りがしただけだった。女はするすると藤本の側を離れて、ソファへと座る。そのまま横になったのか、女の頭がソファへと沈んだ。

脈を採られたのだと藤本は少し遅れて分かった。

「……病院か」

「いや、ホテルですよ」

女に即座に訂正され、藤本は苦笑いを浮かべ、身体を起こす。

「きみのことだよ。看護師だろう?」

返事はなかった。

部屋の真ん中に置かれているダブルのベッド。ベッドボードには色々なスイッチがある。照明や音楽を調整するスイッチなのだろう。部屋の片隅にまとめられている小さいクローゼット。ティーセットなどの調度品の数々に手をつけられた痕跡はない。

ベッドサイドにはミネラルウォーターが置いてあり、口をつける。起き上がってみたが、すぐに横になった。ベッドのスプリングがぎしっと音を立てる。二日酔い特有の気怠さが、藤本の全身に襲いかかる。

ソファから起き上がる気配を見せない女は、確かめるように問う。

「もしかして、覚えてません?」

藤本は高い天井に吊るされた、暗い照明器具を見ながら答える。覚えていないと答えるのは、何だかこの女に弱みを見せてしまうようで、藤本は不思議と強がってみせた。

「きみと寝たこと?」

「は? 寝てませんけど?」

剣呑な返事が返ってきて、藤本は安心したように穏やかに笑った。最悪な可能性は避けられたらしい。酒で覚えていない時に女と寝たという事実だけが存在する夜は避けられているらしい。

「良かった」

藤本はそれから、女に謝った。

「迷惑をかけちゃったらしいね」

女は淡々と事実を述べる。

「らしいではなく、迷惑でした」

「うん、申しわけなかった。ごめん」

「そうですか」

沈黙がホテルの部屋に降りてきた。

気怠さが少しずつ全身から去っていくが、女のことは全然思い出せない。一次会、二次会と記憶を辿っていく。

女は、一次会の店では勿論のこと、二次会の店にもいなかった。ということは、バーにいた者、と考えるのが自然だろう。

バーの店員なのだろうか、と思ったが、あのバーに、このような店員の女はいなかった。あのバーら、長い髪をまとめた髭面の男と眼鏡を掛けた男二人がバーテンダーとして働いている。
ということは、女は、客としてバーに来ていた者、と考えられる。そこまで考えて、藤本は疑問に思う。

バーで酔っ払った男をホテルまで連れて来たのは、どうしてなのだろうか、と。目的が目的であれば、理解できるのだが、藤本と女は寝たわけではない。

「なんで?」

「何がですか?」

「この状況」

「お持ち帰りに失敗しちゃっただけですよ」

女は明るい声で笑った。

「そこまで言う?」

「覚えてないあなたが悪いから、私が教えているだけです」

親切心ですよ親切心、と続けて言う。

それでも、と思う藤本だったが、声にはしなかった。何がそれでもなのか藤本自身もよく分かっていなかった。

藤本は女の助けを借りて、思い出すことしかできない。

「確認なんだけど、バーで飲んでたよね。俺達」

「ええ、奢っていただきありがとうございます」

「どういたしまして」

藤本は枕元に置いてある財布を開いた。

紙幣と小銭はある。詳しい枚数まで確認する気力は出ないが、減っていないと信じたい。女がそういうことをする人間には思えなかった。もしそういうをする女であるならば、女の姿はここにはなく、藤本一人が寝ている。そうした方が事は明らかにならない。

クレジットカードの請求を見るのが恐ろしい。ここの宿泊代を含めて奢ったところで、そう懐が痛くなる金額ではないだろう。貯金があり、独身で一人暮らしという身であれば、そういう出費は必要経費としてしまおう。そう思い込むことにした。

「それで、ホテル、か……」

大胆で無防備で想像力を欠けた女、という評価は藤本の口から滑り落ちることはなかった。女は藤本の言葉に、蔑むような微笑を返す。

「病院が良かったですか?」

「病院は嫌い」

「知ってます」

女は涼しげな声で答える。藤本は思わず笑った。

「随分と個人的なことまで話したみたいだね」

「タクシーで駄々をこねましたからね、あなた」

「なら、家で良かったよ」

「私が嫌です」

個人的な理由が付け加えられ、藤本は我慢していた言葉を口にした。

「妥協案でここ?」

すぐに女から、警戒心を取り戻した提案される。

「警察呼んでいいですか?」

藤本は軽く両手を上げて、答えた。これから何もする気も起こす気もないと言うように。

「冗談だよ冗談」

再び降ってきそうな沈黙から逃げるように、問い掛けた。誰もがそうするであろうことをしなかった女に。

「バーに置いておいても良かったよ」

沈黙が室内を支配したような気がした。事実、部屋の中は静かになった。

女は会話に飽きて、眠ってしまったのかもしれない。そんな予感を覚え、藤本は視線を天井からソファの方へ移した。けれども、女の姿はソファに沈んだまま。寝たのか尋ねようと思った時、女の淡白な声が返ってきた。

「バーは、お酒に酔っ払って寝るところではありませんから」

藤本はその沈黙の間で、バーでどういう会話をしていたのか思い出せないことを悔やんだ。今はこうして普通に会話をしているが、きっと、バーで何か話している。そうでなければ、こういう場所に運ばれることにはなっていないだろう。

いくら思い出そうと頭を働かせたところで、何も思い出せない。女の顔を見れば何か思い出せるかもしれないが、そこまで動く気力もない。

「そっか、ありがとう」

「お礼を言われるようなことはしてません、仕事ですから」

看護師で働く女に、藤本は素直な尊敬の念を懐いて言う。

「大変なんだね、看護師って」

「だから病院には運びませんでした」

「それで良いと思う。病院も寝るところじゃないしね」

藤本には、金曜日の真夜中の病院がどれほど忙しいのか想像できない。ひっきりなしに救急車が止まり、何人もの看護師や医師が不眠不休で頑張っているのかもしれない。あるいは、全然閑古鳥が鳴いていて、万が一に備えて休んでいるのかもしれない。

どちらであれ、酒で酔った藤本が行っていいような場所ではない。仮に急患として運ばれたところで、病院のベッドで気持ち良く寝ている未来しか想像できない。急性のアルコール中毒になっていれば話は変わったと思うが、現状の身体のことを考えると、そういうわけでもなく、女の判断は良かったと思う。

日付が土曜日に変わり、真夜中の三時を過ぎて、藤本は思い出したかのように訊く。

「今日も仕事?」

少しの間があり、ソファの周りが白く光った。スマホで日時を確認しているのだろう。

「休みですよ。あなたと一緒です」

痛いところを突かれて、そっか、と感傷的に答える。女の言ったように、藤本は休みである。今日だけでははく、明日も明後日も休みであった。

「本当に色々と話したんだね」

「絡み酒やめた方が良いですよ」

バーに入るまでのことを思い出し、藤本は付け加える。

「やけ酒もね」

「当たり前です」

辛辣な返事だったが、今まで交わしたどの言葉よりも柔らかい調子だった。藤本の胸の内を察するようなものがある。

藤本はゲームのシナリオライターである。一時は会社に勤めてライターをしていたこともあるが、今はフリーランスとして働いている。

今回の場合は、スマホでさくっとできる音ゲーのシナリオ。流れてる音符をリズムに合わせてタップする、という普遍的な音ゲー。

登場するキャラクターはスコアやライフ回復など音ゲーをクリアするのに必要な能力を有しながら、各々に短いストーリーがあり、そのストーリーを書くのが藤本の仕事だった。コンテンツのメインとなる話を書くのは別のライターを雇っており、リリース当初は、美麗なイラストを担当するイラストレーターと重厚なストーリーを担当するライターの名でユーザーを呼び込むことがあった。

メインシナリオと矛盾がないようなキャラクター独自のストーリーを作る必要があったり、キャラクター同士の関係性を描くこともあり、藤本達はライター同士でチームを組んで、シナリオを作るように命じられていた。藤本はチームを引っ張るリーダーでもなければ、マネージャーでもなかった、ただのチームメンバー、歯車であった。フリーランスである以上、仕方のない立場である。

イベントでシナリオを用意する時は、チームの名前がユーザー達に公表されるが、リーダーの名前が頭に付いたチームであり、藤本達の名前はない。

シナリオライターとして活躍していた時期はあるのに拘らず、公表されない。藤本やチームメンバー、製作陣、所謂ゲームの中の人だけが知っている情報だった。

そのプロジェクトが落ち着く。三月末日のサービス終了により。一年でゲームのサービスを終えたのである。スマホでできる音ゲーは一つしかないわけではなく、スマホでできるゲームとジャンルを広げれば色々なものがある。藤本がライターとして働いている間にも、いくつものゲームがサービスを開始し、いくつものゲームがサービス終了した。

自分達のゲームもそうなるだろうと思っていた。危機感のような何かはあったが、今日発表されることになるとは思わなかった。覚悟していたことであるのに拘らず、藤本はその発表を聞いた時、動揺した。

ゆえに藤本は酒を飲みに飲んだ。会社や上司、チームリーダー、メインシナリオを担当していたライターへの愚痴は止まる気配を見せなかった。酒を飲み続け、バーに足を運んだ頃に、藤本はこう思っていた。

自分はこれからどうするのだろうか、と。

ライターとして活動していた実績はあるが、今ではない。それに物語のメインとなるようなシナリオは一つも担当したことがない。クエストがあるようなゲームでは、そのクエストのストーリーを担当し、キャラクターが多数登場するものでは、そのキャラクターの個別のストーリーを担当していた。

藤本の名前は、ゲームのどこにも登場しない。

足跡の見当たらない真っ白な雪原に一人取り残されたような感覚。藤本はこれから、どうすれば良いのだろうか。不安もあれば、孤独でもあった。

そういうことを考えてバーへ行き、この先のことを考えるのが億劫になり、現実を見るのを拒み、度数の高い酒で誤魔化しに誤魔化しを続け、気がつけば、女と二人っきりの夜を迎えている。看護師として日々働いている女には、藤本のような悩みはないように思えた。羨ましいと思いながら、もしかすれば自分のことを考える余裕すらないのではないか、と思った。

「メンタルの相談事って受け付けてる?」

「カウンセリングでしたら、しかるべきところでしかるべき方からしてもらった方が良いです」

「夜の四時前に?」

「月曜日の朝十時からだと思いますが?」

「一日あるね」

「約二日、と考えた方が良いですよ。時間的に」

「厳しいね」

「時間はいきなり早くなったりしませんから」

「休みの日でも、そんな考え方してるわけ?」

「半分仕事みたいなものです」

溜め息が聞こえて、藤本は自分の質問がいかに間違っているか分かった。

「あ、ごめん」

「元気でしたら、それで良いです」

藤本の記憶が正しければ、女も何杯か酒を飲んでいた。藤本はまだ完全な回復というわけではないが、会話ができる程度には回復している。女はその間、ずっと藤本の様子を見ていた。

「きみは元気?」

藤本は問いかけて、ベッドから起き上がる。まとめられた衣類やスーツを手にする。

女は不機嫌そうに問う。

「元気だと思います?」

ソファの端から、はみ出ないよう窮屈に折り曲げられた足が見える。

「チェックアウトは?」

藤本は衣類を手にして、部屋を歩く。

「午前十一時です」

「それまで寝た方がいい。俺はもう寝ないから」

藤本はそう言って、洗面所へと通じるドアを開けた。女からは、私は看護師として、という言葉が聞こえてきたが、続きの言葉はドアを閉めたことにより聞こえなくなった。藤本はもう元気である。生きているし、動けるほどになった。

ライトを手探りで点けると、ベッドサイドの照明よりずっと明るく目に沁みる白い光が点いた。壁一面に広がる鏡は不必要なまでに大きい。洗面台の周りにはオーラルケア用品やスキンケア用品などが丁寧に並んでいた。

重い身体を強引に動かして、手早くシャワーを浴びる。お風呂場はガラス張りになっていて、洗面所からその姿が覗ける。湯船に浸かる気力はない。濡れたタイルの上を歩く。きっと数時間前の自分が使ったのだろう。

身体が重たいことに変わりはないが、頭はしっかりと冴えてくる。身なりを整え、部屋に戻るとベッドには誰の姿もない。

女は依然として、ソファで横になっている。

「二時間」

「二時間後に起こせばいい?」

「あなたが寝てた時間です」

藤本はベッドサイドに置いていたミネラルウォーターを取って、丸椅子を動かして、女から離れたところに腰を下ろす。

「それだけ寝たら十分だよ」

「ショートスリーパーですか?」

「違うよ、職業病の一種」

急な変更や確認や外部ライターが飛んだ時などに、藤本に白羽の矢が立つことあある。椅子や寝袋で仮眠を取る環境に比べれば、ベッドで布団に入って休めるのは良い。それが短い時間であろうとも。

「最悪ですね」

「でも、不思議と愛着はある」

「変わってますね」

「きみにも、あるだろう?」

「ないです」

強い否定の言葉が返ってきて、藤本は少し驚いた。何か感想を述べようとしたが、すぐに女が理由を並び立てる。

「愛着で、患者さんは治りませんから」

藤本は女の言葉を否定することなく、認めた。言おうと思えば色々なことが言えるのだが、病院で働き現場を見ている女に、藤本の理想的な発言は意味をなさないだろう。

「立派に働いているんだね」

「立派なことありません、仕事だからやってるだけです」

「仕事だと割り切ってできるのが凄いんだよ」

「私、寝ても良いんですよね?」

女は藤本を現実へと戻す。藤本は空いている手でベッドを指す。

「どうぞ」

女はソファから起き上がり、ベッドまで歩く。細く小さい背中が遠のき、長い髪が揺れる。ベッドで横になった時、スプリングが軋む。

女と藤本の間を、ベッドサイドに置かれているランプが照らす。柔らかな光が、女の白い頬を濡らしている。

女は眼鏡を外したが目を閉じることなく、横になったまま藤本を見ていた。

藤本は瞬間的に、バーで声をかけた理由を思い出した。自分と似ていると思ったのだ。境遇はきっと違うと思うが、何か似ていることがある。そういう確信を思わせるものが、女の瞳に色濃く帯びていた。今と同じように。

女はずっと黙って、藤本を見ている。会話のきっかけを作るのは藤本にあるようだった。

「見えてる?」

「……あなたは、どうするんですか?」

藤本は丸椅子を部屋の橋まで動かし、自分の荷物からノートパソコンを取り出す。

「仕事」

女は疑い深く笑った。

「休みなのにですか?」

「休みだからこそ、さ」

「変わってますね」

本音は藤本の胸からするりと出た。バーでもう話しているだろうと思ったから。

「もう言ったかもしれないけど、終止符を自分の手で打ちたいだけなんだよ。サービスは終了して、ゲームのシナリオは未完。良くないよ、これは。キャラクター達を生み出したのは俺達で、動かしたのも俺達。サービスが終了したからと言って、放っておいて良いことじゃない。だから、安心して寝ていい」

「だからになるの、おかしいですよ」

「そう?」

「そうです」

「だったら、朝ご飯でも買いに四時間ぐらい散歩しようか?」

「モーニングは午前八時に来ます」

「そういうプラン?」

「あなたが頼みました」

「あっ、そうなの。それまで休んでていいよ」

女の返事はなかった。

藤本はノートパソコンを起動し、すぐに仕事に取り掛かる。誰にも公表することがない、自分が区切りをつけるためだけにする仕事を。

時計の秒針が進む音に混ざり、藤本がキーボードを叩く音が響く。それから、女の寝息が聞こえてくる。

藤本は時々手を止め、ベッドへと視線を投げる。何かを確かめるように。

確かめるまでもなく、女は布団にくるまって眠っている。安らかな呼吸に従って、布団が微かに上下に動く。

藤本はキーボードから手を離し、高い天井を見上げる。

バーで女と会った時、こういうことを期待していたのかと自分の胸に語りかけてみると、完全には否定できない。ホテルで一夜を共にしたいというものではなく、普通に別の日に、どういう考えや思いを有しているのか聞きたかった。それで満足する。満足することだろう。

そういうことを考えながら、女は藤本と同じような気持ちなのだろうか、と思った。藤本が女の瞳に見たものを、女は藤本に見出しているのだろうか。今更声をかけて起こして、そんなことを確認する勇気はない。全ては酔っ払った時の気が大きくなった藤本のせいである。今の自分のせいではない。

が、酒は人を本心を明らかにする、という話を聞いた覚えがある。酒に酔っ払って行うことが、本人が深層心理で求めていることである、ということだ。その説に従うと、藤本は深層心理を考えるまでもない。

不安であり、寂しかった。自分の続けてきた仕事が、自分の手柄になることなく、代表者一名にまとめられること。

後世に名を残すような、伝説的なライターになりたというわけではない。自分の足跡を、自分が社会人として社会に出て働いていたことを、自分以外の人に知ってもらいたいのである。建築家があの建造物を建てたのは自分である、と話すように。形ある何か、を藤本は欲した。

眠っている女を一瞥して、この女はそういう形ある何かを欲していないのだろうと思った。愛着とかそういうことを考えず、人が治り、日々の暮らしに戻っていくのを病院で見ている。

休みの日であろうと、バーで酔っ払った男を介抱するためにホテルにいる。公平無私というやつなのだろうか。とてもだが藤本には真似できない。

「……凄いな」

素直な尊敬と称賛が、藤本の口から零れた。返事はない。

藤本は短く息を吐いて、仕事を再開する。自分達が生み出したキャラクターを、自分の手で終わらせる。物語にピリオドを打つ。

モーニングのサービスは午前八時にフロントから届けられた。藤本は頼んだ記憶がなかったこともあり、ドアの間からモーニングを受け取りながら訊く。

「……頼みました?」

「お連れの方が、あった方が良いと強く希望されましたので……」

「あ、そういうこと」

「ご利用いただき、ありがとうございます」

ロールパンとゆで卵とミニサラダが一つのプレートにまとまっている。女の分をローテーブルへ置き、自分の分は洗面所に強引にスペースを作りそこへ置く。ドアを閉めるか迷ったが、開け放って朝食を摂ることにする。

プレートには、インスタントのコーヒーと紅茶もある。クローゼットの一角に電気ポットやコーヒーカップやソーサーがある。自分達で淹れろ、ということらしい。

藤本はお湯が沸くのを待つ。インスタントコーヒーの封を切り、コーヒーカップへと注ぐ。

藤本はお湯が沸くのを待ちながら、ふと思った。

朝食は二人分あるが、コーヒーは一人分しかない。女のプレートにコーヒーも紅茶もない。女がコーヒーを希望した場合、藤本は紅茶を飲むしかないのだろうか。女を希望を聞かず、自分の分を用意してしまっては良くない気がする。

女はまだベッドで眠っている。声をかけて起こした方が良いのかもしれないが、どういう言葉をかければいいのか分からない。藤本は、女の名前すら知らないのだ。肩を叩き、身体を揺すっても良いかもしれないが、相手のことを考えるとそれは良くない。

朝食が八時に来るというのは、事前に知らされていることである。起きない女が悪いと考えても良いのだが、藤本には少なからず一日の恩がある。恩を仇で返すような真似はしたくない。

ポットの中でお湯がポコポコと音を立てていると、スマホの着信音が聞こえてきた。枕元から。

藤本は洗面所から顔を出し、部屋の様子を伺う。

もぞもぞと布団が動く。のっそりとした動作で女は起き上がる。ベッドボードのスイッチを押し、部屋は明るくする。女は身体を起こす。華奢な背中が見える。誰もいない丸椅子を見ていたかと思うと、確かめるように自身の全身に触れる。

「その時はちゃんと誘うよ」

藤本は笑いを噛み殺して、真面目に答えた。

女は白い足をベッドから下ろして、こちらへ歩いてくる。愛嬌のある優しい顔立ちをしていた。まだしっかりと目覚めていない雰囲気が足取りにも感じられる。眼鏡も忘れているようだった。先程の藤本の言葉も聞こえていないのだろう。

藤本は洗面所の端に置いていたモーニングのプレートを持って、入れ替わるようにベッドへ。女の眼鏡を持って、危なげない足取りの女を支えるように空いている手で女の手を取る。

「……おはよう、寝起きは良い方で助かったよ」

「自慢の一つですから」

女が、柔らかく笑った。まだしっかりと起きていないことを証明するように。

藤本はその声を聞き、タクシーの中で隣に座った女のことを思い出した。大丈夫ですよ、と優しく語りかけてくれた女のことを。動揺し、突然の寂しさに襲われていた藤本には染み渡った。

女と藤本はしばらく無言で互いの顔を見つめ合った。

女の見る見る内に、愛嬌のある顔に厳しさを宿す。

「眼鏡、返してくれません?」

藤本は弾かれたように女に眼鏡を手渡し、ベッドへと戻る。ベッドには食べかけのモーニングとインスタントのコーヒー粉が入ったままのコーヒーカップがある。

「もう仕事モード?」

「普段からこんな感じです」

「そっか。ところで、紅茶派?」

藤本はお湯をコーヒーカップに注ぎながら、尋ねる。

「白湯派です」

女はそれだけ答えると、洗面所のドアを閉めた。

「意外だ……」

藤本の呟きに返事をする者はいない。

しばらく経って女はソファでモーニングを食べていた。ホテルのパジャマのまま、白湯を飲んでいる。

藤本はすぐに食べ終え、ベッドに腰掛け、残っているコーヒーを飲んでいた。

「きみは凄いね」

藤本は改めて、そういう言葉をかけた。女はゆで卵の殻を向きながら訊く。

「何がです?」

「人を助けようっていう意思を持っている。仕事であろうとなかろうと」

「職業病みたいなものです」

「だから、凄いんだよ。よくやっていると思う」

女は呆れるような視線を藤本に向ける。

「……まだ酔ってるんですか?」

「そう見える?」

「ええ」

「全然素面。本音」

そう答えた後、藤本は恥ずかしそうに笑った。

「もしかして、もう言ってた?」

女は答えず、淡々と言う。

「私も、あなたを凄いと思うところがあります」

「へぇ、何?」

「臆病なところです」

その発言が何を意味しているのか分かり、藤本は女に聞こえなかった言葉を繰り返す。

「その時はちゃんと誘うよ」

「結構です」

きっぱりと断らられ、藤本は笑った。そして、急に訊いた。

「半分は、仕事じゃなかった?」

女は黙って、残り少ないサラダを食べている。

藤本が女とここにいるのは、女が少なからず仕事だという意識を働かせたためである。バーで放っておくわけにも行かず、かといって病院へ運ぶほどでもない。色々なことを考えて、一線を越えさせる可能性があるかもしれない場所を選んだ。藤本が過ちを犯して、という可能性が完全にないわけではなかったのだ。

ホテルのベッドに藤本を置いて、自分は家に帰るということもできたはずだ。その方が安全だろう。バーで出会った名前も知らない男とホテルで一夜を過ごすということは、そういうことがあってもいいと答えているようなものなのではないだろうか。

もし藤本が間違った勇気の出し方をすれば、こういうふうにモーニングを食べることはなかった。

もう半分の仕事ではない部分で、女は何を考えたのだろうか。

「……言いたくありません」

長い沈黙の後、女はそう答えた。藤本は気になってはいるが、深く掘り下げる気にはならなかった。今はそういう時ではないのだろう、と思うことにした。

「ですが、今、言えることはあります」

と、女は続ける。藤本は視線だけを向けて、次の言葉を促す。

「この仕事をしていて、褒められたのは久し振りでした」

そう言った女の顔に厳しいものはなかった。先程の寝起きの時とは違う、柔らかな一面が彼女の頬に浮かんでいる。

藤本は酒を飲んだ時、女とどういう話をしたのか思い出せないことを悔やんだ。

「きみの働く病院に、酒に酔っている時のことを思い出す薬とかない?」

女の返答はあっさりとしていた。

「そんなこと思い出さなくて結構です」

口の端に恥ずかしそうな笑みを残した答えだった。〈了〉


 

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