「意外な夜」
「あら?」
隣のスツールに座って親しげに声をかけても、その女はこちらに顔を向けることもなければ、ちらっと視線を向けることもない。ただ、会話を断ち切るように琥珀色の液体に口を付ける。ロックグラスの中で、からんと丸い氷が音を立てる。
すぐに注文を伺うマスターに、同じのを、と女の持っているロックグラスを指差す。どうせ、ウイスキーだろうと予測して。
この時になって、隣の女、佐藤楓はようやく自分が声をかけられたことに気づいた様子だった。短く結ばれたポニーテールが小さく揺れ、さらっとしたスカートスーツに身を包んだ身体を心持ちこちらに向ける。
でも、視線は私ではなく、私よりずっと奥を見ている。
バーカウンターにひっそりと掲げられた本日のおすすめというメニュー表を眺めていた楓は、ウイスキーの甘い香りを声に漂わせ、全くそんなことを思っていないようなことを言う。
「意外」
何が? と訊き返すことはしなかった。自分でもこのバーの一杯目がウイスキーであることは意外だったから。
「そういう気分なのよ」
楓は私の声がこれまで出会った中で唯一アルコールに濡れていないことを気づいて、小首を傾げる。
「一軒目だから?」
「悪い?」
「全然、お疲れ様」
口角を柔らかく上げて笑いたいのだろうと思わせる声音。お疲れ様と言ったのが適切だったのか悩むような無言の時間から逃げるように、楓は正面へと向き直し、ウイスキーを飲む。
楓が飲んでいるのが、マッカランの十二年物だと同じものが届いて分かった。しかも、ダブル。
お疲れ、と素っ気なく乾杯する。グラス同士が触れ、小さな音が私と楓の間で奏られた。
楓は私に意外と言ったけれど、私も楓を意外と思うことがある。このバーでしか出会わないけど、毎回、思う。
涼し気で白い横顔を眺めさせることの多いこの女は、全然他人に興味を示さないと思ったのに、三つ四つと言葉を交わすと全然違うことが分かる。
私の意外ね、という言葉が口から零れていたようだ。
「どうしたの、急に?」
と楓に問われる。
こういうところだ。さっきは私のことなど気にもかけなかったのに。
唐突なことに、私はこの時間に一軒目で一杯目にウイスキーを飲んでいることという意外なことを口にできず、素直に答えた。
「あなたのことよ」
「中本さんはもう酔っ払ったのかしら?」
楓の視線が私の赤くなっていない頬や指先へと落ちる。マスターにチェイサーを頼もうとする楓を制して、私は続けて言う。
「あなた、自分のことを鏡で見たことある?」
失礼な発言だったが、楓は嫌な顔一つせず答える。
「あるわよ。家、玄関に姿見あるから。毎朝、毎晩見るわ」
「なら、帰ってからも見られるわけね。良いことじゃない」
このバーでしか会わない女が突然隣に腰掛けて話しかけても邪険に扱うことはなく、マスターにチェックを頼むこともない。
楓は、それってどういうこと? などと私に尋ねず、耳をそば立てていたマスターに二杯目を頼む。今度はハイボール。
「どうせ、不機嫌そうって思ったんでしょう?」
そう思われていることに慣れている笑い声。
「自覚してるの? 意外ね」
「言ったでしょ、毎日見てるって」
「治す気は?」
「治すと面倒だと思うけど、どう思う?」
楓の頭から爪先を見て、言う。柔らかな風合いのスカートスーツを着た愛想の良さそうな朗らかな美人が想像できて、私はすぐに同意した。
「面倒でしょうね」
「でしょう? だから、このままで良いのよ。損することないから」
「でも、得することもあるはずじゃない?」
「飲みたくないお酒が届いたり、とか?」
うんざりした調子。
他にもあるんじゃない、と言っても良かったかもしれないけど、答えらしい答えが浮かばない。
逃げるようにお酒を飲むと、楓も届いたばかりのお酒を手にする。それ以上は追求しない、と答えているようだった。
十月最初の金曜日の二十一時というどこの飲食店も混んでいる時間帯。
でも、このバーは、駅から少し離れたところ、入り組んだ通りを抜けたビルの三階に店を構えていることもあってか、カウンターには空席がある。二つあるテーブル席は埋まっており、大きな笑い声が響く。
そして、佐藤楓という女の隣だけは静かで、決まってぽつんと一席空いていて、周りと比べてひんやりしている。
彼女自身自覚したりしているが、楓は不機嫌そうに見える。いつも、常に。でも、何もぐっと眉間に皺が寄せたり、腕や足を組んだり、身振り手振りが荒々しいというわけでもない。マスターへの注文の頼み方が粗暴というわけでもない。品良く綺麗な顔で、長い足をカウンターの下で揃え、静かに飲んでいる。
ただ何となく、どことなく楓が不機嫌そうに映る。ジャケットを羽織ってウイスキーを飲む姿は、どこのバーにもいる女のように見えるのに。
不機嫌そうで寛いでいるようにも見える楓は、バーに溶け込んでいるようで溶け込めていなかった。ある日の夜、今と変わらないようにこのバーで飲んでいる後ろ姿から見て取れた。だから私から声をかけた。
それからこうして隣り合う時がある。
先客であった楓がお店を変えることもなければ、私がお店を変えることもないので、嫌われていることはないらしい。そして、好かれていることもない。
意気投合して別のお店で飲むこともない。連絡先を交換したりすることもない。日の高い内にランチを楽しむようなこともない。
ただ、このバーで会って、飲むだけの関係。どちらかがお酒に満足したら、どちらかのことを気にすることなく、席を立つ。
また明日とかまた来週とか、そんな別れの挨拶もない。初めて出会った時から週に一度は、こうして隣り合っているのに。
普段より遅い時間に、一軒目としてここに足を運んだことなど訊かれることもない。楓からもマスターからも。
そういうところが気に入っている。このバーでは全然知らないお客さんからお酒が届くことはないし、余計なことを訊かれることもない。
私から、金曜日の夕方に月曜の昼までに確認してほしい事柄があり、その対応に追われたことを話さなければ。
私はそんなことを話す気はなかった。私はここに美味しいお酒を飲みに来ているのであって、仕事の不満や不平を口にしたいわけではないから。そういうのは一軒目で生ビールと共に済ませておく事柄だ。あるいは、職場で部下達と一緒に済ませておくこと。
私と楓は平日の夜にバーで会うけれど、どういう仕事をしているのか全然知らない。知ろうという気すら起こらない。責任のある仕事を任されるようになると、社外で喋ると不味いことが多くなる。楓もそうなのだろうと勝手に思っている。
しばらく黙っていると、楓がこれまた意外そうに口を開けた。
「あなたって、素面の方が良く喋るのね」
黙っていた者に語りかける言葉としては不自然なもの。
「そう?」
普段よりはっきりと見える楓の横顔は随分と整っていた。社会人として日々生活しているはずなのに、そんなストレスとは無縁のところで生活しているような若さと艶が、彼女の横顔にはある。
こんな時間でも明るく、くっきりと見える赤い唇が、淡々と言葉を紡ぐ。
「そうよ。普段は地蔵じゃない」
「普段はあれよ、ほら、お酒と向き合わないと失礼じゃない? 折角気持ち良く酔っているんだから」
楓の目が、珍しく私の目を見た。
バーの薄暗い照明もあるかもしれないけど、吸い込まれるように黒々とした深い色をした瞳。心持ち開かれた目。困惑した私自身の姿すら映ってしまいそうだった。
「それじゃ、今はどうなの?」
でも声は平然としていて、普段通り。
訊かれた意図が読めず、急なこともあって、訊き返す。
「え? 今?」
「お酒もそんなに飲んでない、これからって時。どうなの?」
楓はそこで言葉を切った。本来であれば、もっと多くの言葉を費やし、適切な質問にしないといけないような事柄。でも、楓は最後まで言葉にしなかった。それで十分事足りるだろう、と試すような区切り方。
焦って、どうしたの急に? と問うようなことはしない。何が、どう? とかも訊かない。唇の端から零れ落ちそうだった言葉の数々を、お酒と一緒に流し込む。グラスは空になった。
今夜は意外なことばかり起きる。
楓も同じように思っているのかもしれない。あるいは、意外な夜だから意外なことを話しているのかもしれない。今夜という意外に彩られた夜を忘れないようにするために。
全てをお酒のせいにできるかもしれない夜。でも、全てをお酒のせいにできるほど私達は互いに、お酒に弱くないことを知っている。
「ちょっと考えさせて」
そう宣言してから、季節のカクテルをマスターに頼む。
「お好きにどうぞ。ただ……」
言葉を区切られて、視線を隣へと移し促す。
「ただ?」
「私、これを飲んだら帰る予定だから。それまでにお願いね」
笑みを含んだ視線が、私の頬に流れる。
腕時計に視線を落とすと、まだ全然夜が始まったばかりの時間帯だった。深夜、と呼ぶことすら難しい健康的な時間。大学生でもまだまだ全然飲み足りないというような時間。終電はまだずっと先。
「健康的ね」
「誰かさんの言葉を借りるなら、そういう気分なの」
「良くない気分だと思うわ」
「そう? 平日の夜なのに?」
「明日が休日の夜だから」
楓がハイボールをグラスを傾けるのを見て、私も考える素振りを見せることにした。
何と向き合っているのか、と問われているのかもしれない。
そんなことを想定して、無難な答えを示す。それが、楓の望んでいない答えだと理解していても。設問が悪いのだから答えも間違っていても仕方ないことと割り切る。答えのない質問に囲まれて日々仕事をしているのだけれど、ここで言うことじゃない。
楓も同じかもしれない。社会人になってから、答えらしい答えが存在していて、その答えに辿り着くという行為は全然ない。
答えが間違っていても良かった。最悪なのは、沈黙が続くことだと知っている。
柿のサイドカーが、私の前に置かれる。一口飲んで、バーで味わうとは思えない果物の甘さに驚きながら、楓の質問の答えを口にする。
「明日の休日かしら」
楓の視線が腕時計へと落ちる。ちらりと動いた眼差しに、落胆したような影がさす。
「随分と早くから考えるのね」
私もその動きに釣られたように手首に巻いている腕時計を再び見る。時間は全く進んでなかった。何も見ていないと示すように。
「折角の休日なんだから一日ぐらい夕方から始まっても悪くないでしょ」
「随分と自堕落なこと」
金曜日の夜に、日付が変わる前に家に帰ることは稀だ。ざっと思い返してみても、ほとんどない。自分の家じゃないベッドで女性と寝ていることはあるけれど。
週に一度は顔を合わせているこの女とは、そんなこと一度もなかった。別のお店へ行くことすらも。ただ今夜は、そうじゃなくても良いのかもしれない。
過度にお酒を飲んでいないで接する楓は、ずっと綺麗に見える。
楓にこれからの予定を訊いても、きっと私が想像しているものと何も変わらない答えが返ってくることだろう。私と楓が同じタイミングでこのバーを出ることは何度かある。私は別のお店に向かうことが多く、楓は最寄りの駅へ。
そこからのことは二人共、知らない。
私がどういう夜や休日を過ごしているのか楓が知らないように、私も楓がどういうふうに夜を過ごし、休日を迎えているのか知らない。
自然な流れで訊く。
「あなたの休日はどうなのよ?」
楓は自然と答える。
「平日と変わらないわよ」
「休みの日なのに?」
「そうよ」
「随分と健康的じゃない?」
「休みを無駄にしたくないから」
「休みなんて無駄を楽しむためでしょう、仕事じゃないんだから」
「そんなに切り替えが上手い方じゃないの」
「飽きない?」
「飽きないって?」
「オンとオフの切り替えが上手くできないと飽きそう」
「安心するわね」
休日を過ごす時のキーワードとして思いがけない言葉が出てきて、思わず呟く。
「……安心」
「何、その反応」
「私だったら絶対無理だわ」
「そう? 楽よ」
「慣れたら、でしょ?」
「どうせ五日間は同じ生活パターンなんだから、休みの日に変える方が難しいわ」
「ずっと平日だと思うのはしんどくない?」
「日曜の夜に憂鬱を味合わない処世術よ」
「日曜の夜にそんなことしてるの?」
「えぇ、切り替えが上手くないから」
楓がハイボールを空になったグラスを、コースターへそっと置く。私のグラスもいつの間に空になっていた。
マスターにチェックを頼み、バーを出るには絶好のタイミングであり、別のお酒を頼むのにも適切なタイミング。
楓の視線がカウンターを見渡し、マスターを見て、そのままの流れで私を見た。
意外なことに満ちた夜を、そのまま家へと持ち帰ろうとする彼女を引き留めるには今しかない。普段とは違う夜の出来事。安心とは全然違うところにありそうな夜の出来事。仕事と休みを切り替えるのに、必要なスイッチを押すタイミング。
全然お酒に酔っていないことを示すように、楓の方に身体を向け、はっきりとした調子で訊く。
「今夜は?」
今度は、あなたが考える番だ、と。
楓の先程の問いを脳内で繰り返す。
それじゃ、今はどうなの?
楓が何故、あの時にそんなことを訊いたのかは今でも分からない。でもそんなことはどうでもいい。質問は答えるより、答えさせる方が私の性に合う。きっと導かれる答えは、楓の問い掛けでも私の問い掛けでも同じだから。
つまり、今夜という意外な夜をここで終わらせるかどうか。
楓は一瞬驚いたように私を見た。でも私が全然お酒に酔っていないことが分かると、口元に困ったと思わせる笑みを浮かべる。その笑みは、この状況を楽しんでいると思わせる余裕を感じさせる。
さまよっていた楓の視線がマスターへと再び向けられた。
済みません、とマスターに声をかける。
近寄ってきたマスターに、楓は迷うことなく言う。
「彼女と同じのを、一つ」
私がさっきまで飲んでいた柿のサイドカーを注文する。私も同じのを頼み、鷹揚と笑う。
「どうぞ、考えてちょうだい」
「自分が答えを待つ立場になると元気になるの、悪癖だと思うわ」
「どっちもでしょう?」
「私はそんな気なかったわよ」
「どうだか?」
「お姉さんはお酒と向き合っていてちょうだい」
「答えを聞いてからね」
「そんなに早く答えていいの?」
「良いわよ、答えられるのなら」
「……意地が悪いこと」
考えるのに必要な沈黙を作るように、私は楓の返答を待つことにした。お酒と共に沈黙を味わうことはせず、ただ待つ。
楓が私の質問の意図を正しく理解してるかどうかということは、それほど重要なことではないような気がした。何について、どう問われているのか分からない問い掛けは、質問者すら正しく問いたいことを理解していない可能性がある。
ただ伝わっていてほしいことは、伝わっていると思う。そうでなければ、楓はもうマスターにチェックを頼んで、お店を出て帰っている。
でも新たに頼まれたお酒は、私の質問に対する答えではない。今夜をどうするか、今夜をどうしたいかということは、楓の口から直接聞かないと分からない。
マスターが二人分のカクテルをそれぞれの前に置いてくれる。口を付けようか迷っていると、楓がグラスをそっとこちらへ滑らせる。
「珍しい夜だから」
「そうね、良い夜に」
優しくグラスを合わせる。
楓は一口カクテルを飲んでも、何も答えなかった。甘いわね、という感想がカウンターへと滑り落ちる。
沈黙が流れるとは思わず、私は微かに驚き、誤魔化すように甘いカクテルを飲む。
楓はすぐに答えるとばかり思っていた。先の会話で休日、オンとオフの切り替えは難しいことは分かったし、意識的に切り替えないようにしていると知った。
だから今夜もこれまでの平日と変わらないように過ごすと答えると思っていた。
私が仕事を忙しかったように、楓も突然の何かに巻き込まれたのかもしれない。
何かあったというのは察することはできるけれど、このバーでは誰かが察して手を差し出してくれることはない。自分の口で語らないことには始まらない。
私から、何かあったの? と訊いても良いのかもしれない。そういうことを訊くには今夜は良いタイミングだった。でもそれはきっと、今じゃない。楓の答えを聞いて、このバーを出てからでも十分に訊ける。
「あなたって有給使ったことある?」
楓は私の質問を聞いてなかったかのように答えることなく、訊いてきた。答えてほしい問い掛けだったけれど、すぐに答えるのは難しいのだろうと思って、彼女の質問に気軽に答えることにした。
「今年の話?」
「いつでもいいわよ」
「そりゃあるわよ」
「私、ないのよ」
「一日も?」
「上から言われて取得したことはあるけど……」
「何日残ってるわけ?」
「二十日ぐらい……?」
「良いじゃない、ぱあと使えば。旅行とかできるじゃない?」
一気に消化するのは難しいかもしれないけど、休日の前後とか大型連休の前後とかで消化できれば良い気分転換になるだろう。
と思ったけれど、楓がそういう人混みで楽しんでいる姿を想像するのは難しかった。時間よりお金を積んで一人の時間を作ってそうなタイプ。誰かと一緒に楽しむのならば、有給を使ったことない、と言うはずがない。
楓は困ったように眉を寄せる。
「来週からなのよ、有給消化」
「え? 月曜から?」
「そう、月曜から」
「二十日間?」
「そう」
色々と訊けることはあったのだけれど、私は何よりも先にお祝いの言葉を述べた。それから、一ヶ月程度の休みを得た楓に訊く。
「ちなみに予定は?」
「ある人間がこんな時間まで飲んでると思う?」
楓は恥ずかしそうに笑って、私の質問にようやく答えてくれた。
「だから、今夜はお願いね」
私は自然と言う。
「明日も明後日も空けておくわ」
「気が向いたら声をかけるわ」
そうして私達はようやく互いの連絡先を交換して、初めて同じ道を歩き始めた。〈了〉
当サイトでは、月に一度小説の更新をお知らせするメールマガジンを配信しております。
登録及び解除はこちらから行えます→メールマガジン発行について
Googleフォームを活用して、面白い・良かったという感想から更に掘り下げ、言語化を手助けするアンケートをご用意しております。よろしければご活用ください。