スイーツを食べるタイミング

 

PDFファイル版(文庫サイズ 縦書き)

「スイーツを食べるタイミング」

夏の夜は好きじゃない。色々なことを考えるだけ考えて、答えを出す暇はなく、あっという間に夜が明けるから。だから、夏の目覚めはいつだって最悪だ。

でも、日の出が早いのは良いと思う。春も夏も秋も冬も大学に通学する時間は変わらないのに、日が昇ってくるとそれまで考えていたことが陽の光を受けて心の隅々からいなくなり、期待だけに満たされる。

満ちた期待を潰さないように、大学へ行く準備をする。

学校に男の子がいるっていう環境に慣れるのに一年を要した。要したというのは接し方というものではなく、中高と女子校でしかも寮生だった私の適当になっていた生活を直すために要した時間であり、メイクやファッションを整えるのに必要だった時間と言い換えた方が適切だろう。

周りの友達は、そういうことを容易く行え、男の子と話し、距離を縮め、恋人になれたりしている。私と同じように中高と女子校にいた友達も、その類に漏れない。

私が通っていた全寮制の女子校は、女子大の付属で、特に希望がなければ、中高大とエスカレーター方式。中学の頃から仲の良い友達達に囲まれて、大学卒業までその関係は続いたことだろう。

でも私はその園から離れ、一人で暮らしている。

社会に出てから苦労するのではないかと思い、社会でそつなく問題なく暮らしていくための前段階として、共学の大学への進学を選んだ。建前としては完璧だと自負している。両親も周りも納得してくれたし。

ただ本音は社会がどうのこうのということではなく、もっと単純だ。

恋人が欲しかった。

女子校というのは共学の中学校や高校と違うところが色々と違うところがあるけれど、女の子が女の子に友情を超えた感情を懐くことがある。全ての女の子が女の子にそういう感情を懐くわけではないし、学校の外に男の子の恋人がいる子もいた。ただ中高大と女子校で過ごし、社会に出るまで、男の子の恋人を知らずに過ごすという子もいて、私はそうなってしまいそうだった。

それは嫌だった。

ただ、そういう気持ちで大学に入学したのが邪だというのか、まるで罰のように、恋人はできていない。

気になる男の子がいないというわけじゃない。いる、いるけど、そういう関係にはなれていない。

朝食を家で作る習慣は半年と続かず、週の頭や週末に用意しようと決意して作るが、大体木曜日の頃に作り置きがなくなり、限界を迎える。

最近では木曜日はいつだって、そうだと諦めることにしている。一週間を途中まで頑張っているご褒美として、大学へ行くまでの途中にあるカフェへ向かう。

今日、一番綺麗な私で家を出る。

大学から少し離れたところにあるカフェは古民家を改装していて、外から見ただけではカフェか家か分からない。高い天井に繋がるように壁一面の本棚があって、沢山の本が詰まっている。文学や旅行記からエッセイから建築関係、美術書もあれば辞書もある。

朝も昼も夜も深夜もやっているこのカフェは、いつでも疎らにお客さんがいて、他のカフェにあるような混雑を味わったことがない。朝の忙しなさとは無縁でマイペースに過ごせるカフェで、平日の木曜日の一限目がずっと遠くにあるように感じられて気に入っている。

気に入っているのは私だけじゃなかった。店の奥にあるテーブル席に、私と同じ大学に通う男の子の姿があった。

私が歩み寄っていることに気づいたのか、男の子は目を通していた紙から視線を上げる。ふんわりとしした前髪が丸い眼鏡にかかって、細長い指でかみを払うと、穏やかな視線を私に向ける。

「おはようございます、佐伯さん」

「おはよう、早いね」

小畠くんは線の細い男の子で、私と出会ったのは全くの偶然。

私達がこのカフェで出会ったのは去年の秋頃。今日のように朝食を作る気がなくて、家を出て、このカフェを発見した時から、小畠くんはここに座って、本を読んだり講義の予習をしたりしていた。その頃は二人共別々に朝食を食べていたけど、大学までの道中や大学の中で度々見るようになって、声をかけた。今ではこうして二人で朝食を食べ合う関係になった。

講義とかサークルとかバイトとか私と小畠くんは大学が始まってからはすれ違いが多くなるけど、朝は等しく訪れ、私と小畠くんが唯一自由に、あるいは意識的に顔を合わせられる時間。

私が家で朝食を用意しなかったら、私と小畠くんがここで顔を合わせる機会が増える。そうしたかったけど、小畠くんの朝の邪魔をしたくなかったから、週の半ば、面倒臭さがピークに達した時にだけ来ている。そうやって自分を律している。

私は朝食を食べるついでに小畠くんに会っていると思われたいし、小畠くんと会うためにここに足を運んでいるとは思われたくなかった。自然を演じたかった。

私と初めて会った頃の小畠くんはもうモーニングのトーストだとかゆで卵を食べたり、カフェオレを飲んだりしていたのに、今は私が来るのを待っているように、テーブルの上には何もない。

「佐伯さんも早いですよ」

「そう? 何か頼んだ?」

「僕も来たばかりですから。先にどうぞ」

小畠くんはそう言って、メニューを私へと手渡してくれる。お礼を言って、メニューに目を通す。

いつものようにパンケーキとサラダとアイスティーを頼んだ私。小畠くんはいつものようにモーニングだけ。トースト半分とゆで卵一つ、アイスコーヒー。朝はしっかり食べないとやる気が出ない私と比べて、小畠くんは少食だ。でも多分小畠くんが少食なのは朝に限った話じゃないんだろうと思う。私と同じくらい、もしかしたら私よりずっと細いかもしれない腕とか無駄な肉が乗っていない頬とか顎とかを見れば、分かる。

「……足りるの?」

「二限目がありませんから」

心配しているような質問を、小畠くんは穏やかに笑って答えてくれる。木曜日の小畠くんはすごく真面目に見える。私だったら絶対サボっていると思う。けど、小畠くんはこの時間にはこのカフェでモーニングを食べている。

「一限サボりたくないの?」

「別にサボろうと思ったらサボれますけど、一回サボったらもう駄目だと思うんですよ」

出欠を取られない講義を一限目に入れている小畠くんは、多分サボろうと思えば全然できると思う。それなのに律儀に毎週出席している。私は時々サボってたけど、小畠くんと出会ってからはちゃんと出席している。

「駄目って何が?」

「次もサボれちゃうじゃないですか」

木曜日に朝食を作らなかった時に私に襲いかかった罪悪感を、小畠くんも感じているような気がした。

朝食を作るって一言でまとめても、食材を選んで買って、準備をして、作って、洗い物もして後片付けもして……そういう全てから解放された朝は、清々しいと思った。少なくとも、木曜日の朝に起きて、作らないと決めた時はそうだった。でも清々しさは、作らない理由を作った、物事を継続しなくていい理由を作った罪悪感に囚われ、飲み込まれ、自己嫌悪に陥った。

小畠くんには、私が木曜日に朝食を作る気力が底をつくを話した覚えがある。そうしたら、ここに足を運ぶのが自然な動機なように思えたから。

素直な言葉が、私の口から零れ落ちた。嫉妬も何もない素直な尊敬な気持ち。

「真面目なんだね、凄い」

小畠くんは否定する時も、少し笑う。恥ずかしそうに。

「真面目じゃありませんよ。真面目でしたら、きっと二限目も何か講義を入れてると思います」

「それでも偉いよ」

そういう褒められ方を、小畠くんは今までされてこなったのか目を丸くする。

「そうですか?」

「うん、私は偉いと思う。自分を甘やかさず、ちゃんとやってて」

理系の小畠くんは講義がない時間は大体図書館で自習している、と前に教えてもらった。文系で講義のない時間は適当に時間を潰している私とは大違いだ。

二人分の朝食が運ばれてきて、手を付けようとした時、小畠くんがアイスコーヒーのシロップを注ぎながら言う。

「佐伯さんも偉いと僕は思います」

思ってもなかった言葉に、ナイフとフォークで小さく切り分けていたパンケーキを口に運ぶことなく、私は視線を上げる。

「……そう?」

小畠くんのように笑って否定することはできなかった。自分が思っているより、硬い声。今の私は、小畠くんのように偉くないし、自分を律しているとは思えない。自分の欲望や願いに正直で、でも気づかれないようにしているだけだ。臆病で卑怯と言われても仕方ない。

小畠くんは特に気にかける素振りを見せず、アイスコーヒーを混ぜる。グラスと氷がぶつかって、からからと小気味良い音が私達の間で広がる。黒かったアイスコーヒーの色が、薄いブラウンへと変わる。

「佐伯さんは自分の機嫌の取り方、知ってるじゃないですか。だから、偉いと僕は思います」

今度は私が目を丸くする番だった。

「機嫌の取り方?」

「木曜日の朝だけ、ご飯を作れない。でも焦ったり慌てたりすることなく、そのことを受け入れて、ここで朝食を食べている。僕だったら、そんなふうに割り切るのは時間がかかると思います。だから、偉いと僕は思います」

私は私だけの力で、木曜日の朝食を作るのを諦めて受け入れたわけじゃない。そういうことを説明した方が良かったかもしれないし、私の機嫌が良い理由の全てを担っている人のことを話しても良かったのかもしれない。小畠くんの考えは違うよ、と言っても良かったのかもしれない。

でも私はそういう全てを説明しなかった。小畠くんがそうしたように恥ずかしそうに笑う。

「……変わってるね」

そういう全てを説明しなかったのは、きっと今がまだ朝早いせいだ。そういうことにしたいけど、私に告白する勇気がないだけなのでは分かっている。小畠くんも、朝からそんな話を聞かされても、きっとどうすればいいか分からないだろう。私達には、一限目に講義がある。私達は大学生で、勉強をしないといけない。勉強をしないといけないように、恋愛もしないといけない。と、思う。

でも、小畠くんの目に、私はそういう対象として映っているだろうか。確認すれば、教えてくれるだろうか。分からないけど、小畠くんはそういう恋愛事情とは無縁のところにいそうだった。勉強に真面目な大学生。

そこが良いと思うのは、きっともう私が彼と出会ってから、友達以上の関係になりたいと思っているからだろう。

 

 

小畠くんと友達以上の関係になると望んだところで、望んだまま月日は流れ、私達の関係は何も変わらなかった。

本格的な夏が終わり、秋も過ぎて、寒さがぐっと厳しくなって、各地で凩が吹いて、いつの間にか雪が降るようになった。お昼が短くなって、夕方が早くて、夜が長くなった。目が覚めるのは少し早くなると、外はまだ暗い。

私達はいつまでも木曜日の朝にモーニングを食べ合うだけの関係だった。そういう関係が心地良いと二人共思っているように。

連絡先を交換したり、大学内で話すことがあっても、私達は素っ気なかった。図書館で会った時なんかは無言だ。毎週朝に会っているのに、話しているのに、そういうことを微塵も感じさせないようにした。不思議なことだけど。

別に私がそういうふうに、私が小畠くんのことを気にかけていることを周りに悟られないようにしていたわけじゃない。気になる人がいるとは言ったけど、名前は出してない。態度にも。そうした方が、小畠くんの大学での生活を邪魔しないと思う。多分だけれど。

冬になって朝が短くなって、私が家を出るのが朝と呼ぶより夜明け前、少し日が昇って、太陽と月が一緒に見えるくらいの時間帯になっても、小畠くんの印象は変わっていない。寡黙な勉強家。

私の周りにいなかった男の子。

冬の朝に出会う小畠くんは夏の頃と比べて柔らかい印象を私に与えた。ほっこりしてるね、と小畠くんを見ていた友達の言葉を思い出す。キャラメル色のコートのせいか、ぐるっと巻かれた赤いマフラーのせいか分からない。夏は飲んでいなかったホットなカフェオレのせいかもしれない。

ほっこりしているのは外見だけで、カフェで出会う小畠くんは真面目だった。私が知らない世界のことを、小畠くんは楽しげに話す。宇宙と天体が好きで、夜更かしがしがち。神秘的でロマンに満ちた遠い星々の話をしている時の小畠くんは、私よりずっと年下に見える。

私が長い間聞き手に回っていることに気づくと、小畠くんは、くしゃっとはにかんで、つまらない話でしたね……と謝ることがある。

そうやって、朝日が辺りを照らすまでの間を過ごした。お陰で少し、ほんの少しだけ宇宙について知れた。冬の空は空気が澄んでいて星や月が綺麗に見えると教えてくれたのも、小畠くんだ。

だけど私達は真夜中に二人でどこかへ出かける用事を話し合うこともなければ、そんな約束を口にすることもなかった。

それで良かったのかどうかは、分からない。私としては良かったのだと思う。木曜日の朝のように大学に通う延長線上で小畠くんと会うのなら良かったけど、他だとどうしていいのか分からない。

分からないのは違う。分かる。分かるから困る。小畠くんと会うためにどこかで会うわけで、それはつまり何かしらの好意を持っていなければ起きないこと。どちらかが好意を持っていることを伝えるには十分なことだ。

それは、困る。困るという表現はおかしいかもしれないけど、困るがぴったりのように思える。私の心の準備はまだ全然整ってない。

私と小畠くんは今の関係が心地良かった。少なくとも、私はそう思っている。そう思いたいのかもしれない。自分の今までの生活を振り返って、ここまで男の子と一緒なのは、初めてだったから。小畠くんはそうなのか分からないけど……。

でも大学が中高一貫の六年間より短い四年間で終わることを考えると、このままの関係を維持したまま卒業するってことは有り得てしまいそうだった。私の当初の予定にはなかった可能性。私か相手が告白して付き合えると思っていた。告白に、友達以上の関係になるのに、こんなに勇気が必要だなんて思いもしなかった。小畠くんから告白してくれたら話は全て良い方向に進むのにと都合良く思うけど、小畠くんはそんなことは言わないだろう、と勝手に思う自分もいる。

別にこれは小畠くんのことを勇気がないいくじなしと思っているわけじゃない。むしろ、逆だと思う。あるいはもっと別。今までの私の世界にいなかった彼。憧れや偶像をそのままにしておきたいと思うのは、どうしてだろうか。

恋を始めるには、私から動くしかなかった。

告白の仕方は誰も教えてくれない。そんな講義はないし、恋愛を扱った文学作品にも載ってない。カフェに置いてある本にも辞書にも見当たらない。告白は昔の小説家でも難しいらしい。あの夏目漱石も、我、君を愛すという英文を翻訳するのに、月が綺麗ですね、という言葉を使ったぐらいだ。

私も夏目漱石に倣って、月が綺麗ですねって告白したかった。でもそれはいけないと理性がブレーキをかける。小畠くんが興味がある分野に土足で踏み入っているようで、いけない。

冬の空が澄んでいること、星が綺麗なこと……そういう冬の夜空の美しさを教えてくれた小畠くんに、月が綺麗ですねって言っても、私の本当の気持ちは伝わらない。

別の言葉で、小畠くんが好きなことを伝えないといけない。

私が悩んでいようが、月日は変わらず流れ、木曜日は等しく訪れる。冬は夏より夜が長くて良かった。

まだ少しだけ明るい青空に、沈んでいく白い月が見える。夜空に浮かんでいる時には違う、淡い月だった。東に見える強烈な陽の光に溶けていくような。

いつものカフェのいつもの席に小畠くんの姿があった。コートもマフラーも椅子の背中にかけて、私には分からない世界の本を読んでいる。

「おはよう、いつも早いね」

声をかければ顔を上げ、ふわりと笑う。夏の頃にはしていなかったパーマのかかった前髪が揺れる。

「おはようございます、佐伯さん。夜が長くなったお陰ですよ」

眼鏡で目元のくまを隠しているのを気づいたのは、この冬になってから。

「月が綺麗だから?」

席に腰かけながら笑って言うと、小畠くんも笑って言う。

「月以外も綺麗に見えるのが良いんですよ」

当然といった調子。夏目漱石が生み出した渾身の告白は、小畠くんには全然自然な現象として受け取られた。

一瞬期待したけど、そう受け取るだろうと分かっていたから気にならない。ちょっとショックだけど……。

「今朝も綺麗だったね」
「昨夜も綺麗でした」

星座のこと、星のこと、天体のこと、遠い遠い世界のことが分かるらしい物理学のこと、昔にされた難しい研究のこと。小畠くんはそういう話をしている時、本当に楽しそうだ。表情は普段と変わらないけど、発せられる言葉が温かくて、柔らかい。

夜の話を聞きながら、朝食を頼む。二人分の朝食はすぐに届いた。

朝食を食べ終えたら、私達はここを出て、大学に向かう。

大学で会うことは全然有り得ることだし、連絡を入れれば簡単に再会できるけど、その時の私達は今ほど親しいように見せないだろう。私には私のグループがあり、小畠くんには小畠くんのグループがある。そういう関係をおかしくさせないために、私達は意識的に振る舞う。互いが互いのことを校内で見たことがある知り合いというふうに装うだろう。

だからこうして話すのは来週の木曜日になる。週に一度、朝に出会えると分かっているのだから、告白はいつかのその日で良いのかもしれない。来週が再来週になり、一ヶ月後になり、二ヶ月後になるのは十分に考えられた。永遠に来ないその日を待ち続ける。今日をその日にできるかもしれないのに。

でも私は真正面から、小畠くんに好きです、と告白できる勇気はない。言ってしまえば今日はもう講義どころではない。別の言葉で、でも私が小畠くんのことを思っていると小畠くんに伝わる言葉が必要だった。

朝食を食べる手を止め、小畠くんに声をかける。何気ない会話だと思われるように、素っ気なく。逆効果かもしれないけど、そういう意識をしない会話の方が、私が良かった。緊張して爆発しそうな胸の内を隠せるような気がしたから。

「小畠くん、ちょっと訊きたいことあるんだけどいい?」

「……なんでしょうか?」

訊き方が良くなかったのか、小畠くんはカフェオレを入ったカップを持ったまま、珍しく不安そうな声を上げる。私はその不安を和らげようと試みる。

「今日、空いてる?」

「今日、ですか?」

「うん、今日」

そっとカップを置き、小畠くんは少し考えるように眼鏡の縁に指を添える。

「空いてます」

「そっか、良かった」

何が良かったのかは、私にも分からない。私に分かったことといえば、私はこの時になっても告白を後回しにしたということだけ。しんとした沈黙を、小畠くんの真面目な調子が破る。

「佐伯さん、僕からも一つ良いですか?」

小畠くんからそんなことを訊かれると思ってなくて、良いけど、と呟いた言葉は少し浮ついていた。

「佐伯さんの用事は、これからだと早いですか?」

私は用事はいつでも良かった。というか用事らしい用事じゃない。私の用事は、今この瞬間でも達成できるもので、今日のこれからじゃないと達成できないものじゃない。

どう答えればいいのか分からなかった。嘘をつきたいわけでもなかったから、正直に答えることにした。

「早くないけど……」

戸惑いがたっぷり乗った私の返事を、小畠くんは笑顔で受け止めた。

「でしたらこれから少し出掛けませんか?」

どこへ? とかどうしてとか、そういう疑問よりも真っ先に私の口から零れたのは、

「これからっていつ?」

という確認だった。私達は大学生で、互いにこれから講義のある身だ。サボろうと思えばサボれる講義ではあるけど、それはあまり良くはない。

「朝ご飯を食べたら、です」

え? という言葉は声にならなかった。それはつまり、これから私と小畠くんがサボるということで、小畠くんらしくない考えだった。寝不足で判断力や考える力が低下したのではないかと思って、何度目か分からない確認をする。

「講義は? 良いの?」

「……良くはありません。ですが、それくらいはどうにでもなります。佐伯さんは大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫だけど……」

このまま話していると小畠くんのペースに巻き込まれたまま出掛けることになりそうで、私は自分のペースを取り戻そうとテーブルの前に小さく手を挙げた。

「ちょっと待って」

そういう言葉と共に。

小畠くんは短く、どうされましたか? と尋ねてくれた。

「これから私と小畠くんで、出掛ける。大学をサボって。なるほど、分かった。……ごめん、やっぱり分からないわ」

混乱した私の頭では全然小畠くんの考えていることが分からなかった。小畠くんは天井に視線を移して、小さく、うーんと声を上げると視線を戻して答えてくれる。

「佐伯さんは月を見て、月が綺麗と言える人です。僕も月が綺麗だと思います。同じ感性の人ですから、この後も一緒にいたいと思いました。毎週この日の朝に会える人ともう少し一緒にいたいと思いました」

伝えられた言葉は、私の悩みの全てを吹き飛ばしてくれた。赤くなった顔を見られないように俯いて、小声でお礼を言って、訊く。

「小畠くんはさ、その、知ってる? 夏目漱石が、訳した言葉……」

「知ってます。でも、僕達には月が綺麗なのは事実でしょう? 月が綺麗なのは月が綺麗だからであって、そういう意味になるわけではないです。ですので、」

どういう言葉が続くのか分かって、私は顔を上げて訊く。

「別の言葉で伝えたいってこと?」

小畠くんは全然照れることも恥ずかしがることもなく、言う。

「そうです。ですので、この後、少し出掛けませんか?」

私には十分伝わっているけど、小畠くんはどうやら全然そんなことないらしい。小畠くんがどんなふうに告白してくれるのかは分からないけど、これからの一日が何のためにあるのか知りたくなった。

多分こういうのはきっと逆なんだと思う。本来なら、出掛けてから告白する。でも私達はもう十分なほどこのカフェに足を運び、互いのことを知っていた。

「デートだね」

そう言って笑うと、小畠くんにも伝わったらしく満足気に笑った。

朝食の後に甘いものを食べるのは、今日が初めてだった。〈了〉


 

当サイトでは、月に一度小説の更新をお知らせするメールマガジンを配信しております。

登録及び解除はこちらから行えます→メールマガジン発行について

Googleフォームを活用して、面白い・良かったという感想から更に掘り下げ、言語化を手助けするアンケートをご用意しております。よろしければご活用ください。

掘り下げ用フォーム

 

 

この作品をSNSでシェア