ブルーマロウ

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「ブルーマロウ」

お通夜とお葬式でも高校の夏服だった私は、まだその場に馴染めていないようだった。

玄関に並ぶ光沢のない革靴の中に、小さな黒いローファーの爪先が光る。襟元に流れる白いラインや胸元のリボンが灯りを受けて輝く時、一層惨めさを感じさせる。

昨日から降っている雨はずっと同じ調子で降り続け、重たい灰色の雲が広がっている。夕方なのに、もう夜のように暗かった。

線香の匂いに包まれたその家に上がる人達は、同じように色の暗いスーツに身を包んでいた。

客間の明かりが障子から透けて見え、時々涙で濡れた話し声が聞こえてくる。玄関に顔を出す人の姿はない。いつもだったら、奥さんか旦那さんが姿を見せるのに。

部屋には入らず、お客さんの悲しみを邪魔しないように、静かにそっと階段を上がる。どんなに足音を忍ばせても、階段は、ぎい、ぎぃという音を返す。私達の気持ちなんて、何も知らないように。

お通夜やお葬式にも出たのに涙が一つ零れなかったから、こんな居心地の悪さを覚え続けているのだろうか。

あるいはきっと、みんなは真面目な社会人や大人としてこの家に足を運んでいるから、居心地の悪さを覚えているのだろう。きっと、そうに違いない。

ただの女子高生でたまたま家が近かった私は、勉強が本分の私はここに居ていいような人間じゃない。でも、夏休みの宿題はもう終わらせたし、何の部活動にも属していなくて、友達と遊びに行く約束をしたのもまだ先のこと。受験勉強なんて、一年も先のことだ。

私がここに足を運んでいいような人間じゃないことは、今更考えなくても知っている。お通夜やお葬式に行く前に、お父さんやお母さんさんにも言われたことだから。

なのに、どうして今になって居心地の悪さを覚えてしまっているのだろうか。

二階の廊下が見える所まで階段を登っても、声一つ聞こえてこない。少し前までは、このあたりまで登ると、どなたですか? と少し緊張で固くなった声が飛んできた。私の周りにいなかった大人の声音に驚き、答えられないでいると、二階の手すりの向こうから、ひょっと小さな影が落ちてくる。

丸い柔和な顔をしたこの家の主人。他の人から、先生と呼ばれていて、私も先生と呼ぶようになったその人。

もう先生の声も姿も、この家のどこにも見付けられなかった。

二階まで上がっても、私を出迎える人は誰もいない。

私の目の前にある書斎は、固く閉ざされていた。少し前まで、開け放たれていたはずの部屋なのに。この部屋は先生に使われなくなり、役目を失ったということなのだろうか。

でも、障子の向こうから聞こえてくる女性の声は、私と初めて出会った奥さんと同じで、どうやら誰かと話しているようだった。原稿や締め切りという言葉が聞こえ、私は逃げるように階段を降りた。
もう先生もあの部屋も働かなくていいはずなのに、どうして奥さんとお客さんはそんな話をするのだろうか。もしかすれば先生の名前で、まだ本を出すつもりなのだろうか。奥さんは、それで良いのだろうか。

高校生の私には分からない世界が広がっている。分からないことだらけだ。ただ一つ、私が少しでも分かっていることがあるとすれば、私は、奥さんが先生の本や原稿について話す時、心が騒がしくなる。

きっとこれは、嫉妬や嫌悪と呼ばれるものだろう。どうして私は、先生の奥さんにそんな感情を懐くのだろうか。分からなかった。奥さんと先生の関係に、そんな感情を懐くのはおかしいことなのに。
先生に話せば、柔らかい物語に変えてくれたのだろうか。あの六畳の書斎で。原稿の片手間で、私の心に荒ぶる波を、穏やかなものに変えてくれた先生。

でももう、先生は、いない。

 

 

その家のことや誰かが引っ越してくるのだろうと気づいたのは、高校受験が終わる頃だった。期待に胸を膨らませ全てが輝いていたあの時期。

家とこれから通う高校の間に建てられていることもあってか、真新しい制服に身を包むようになってからもその家が建てられるのを見ることになった。

二階に一つしかない部屋。一階が横に長い変わった家が姿を現すようになり、どういう人が住むのだろうと気になった。

中学の頃は部活をしていたけど、学校の方針でそうなっていただけで、高校に入っても続ける気なんて全然なかった。帰宅部、というものに何だか憧れていた。部活が終わって家に帰って、予習復習をしてお風呂に入って、寝る。そんな生活を高校に入っても送るのは、もう懲り懲りだった。

お父さんとお母さんは、部活に入った方が良いんじゃないかって言っていたけれど、合鍵を私に持たせるようになってから、そういうことを言わなくなった。代わりに、勉強はどうだ宿題はどうだ、と言われるようになり、困った。お母さんからは、洗濯やご飯の買い出しについて言われるようになり、これなら部活に入った方が良かった、と思う日もあった。

コンビニや飲食店でバイトをしようと話したこともあったけれど、まだ早いんじゃないか、とよく分からない理由で許されなかった。

バイトはしたいわけじゃなかったし、それで良かったのかもしれない。帰宅部を続けたのは、時々、ある一人の時間を楽しみたかったからだ。一人の時間を楽しむというのは、随分と大人っぽい響きだった。

一年生の夏休みのある日、私の家にお客さんが来た。宅配とかそういう類の物がある時は、お母さんからメッセージが送られてくる。今日はそんな連絡一つもなかった。

ドアの覗き穴から見てみると、女の人が立っている。色が白くて、線の細い人。涼し気な薄い藍色の和服に、魚が描かれている大きな帯。その手には、どこかで見たことのある紙袋を持っている。
左手の薬指に光る小さな指輪だけが、私のお母さんと一緒だった。こんな人でも、お母さんと同じところがあるんだ、とびっくりした。

お父さんかお母さんの知り合いだろうか。お客さんが来るなんて聞いていない。メッセージを送って確認してみたところでもう遅いし、きっと返事は夕方か夜になる。

この人を待たせることは、とても失礼だった。

奥さんは玄関に出た私に一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに視線を合わせ、お辞儀をした。黒髪は、和服の色と同じように涼しげにまとめられていた。

驚く私をよそに、しとやかに告げる。

「はじめまして、ご挨拶に参りました。私、あの家に引っ越してくる太田千代と申します。こちら、お家の方とご一緒にお召し上がりください」

そうやって渡された紙袋の中には、駅前でよく見る百貨店に包みが入っていた。

私は全然、事が飲み込めず、辛うじて頭を下げて、お礼を口にした。

私と千代さんは、それから無言のまま動かなかった。私は私でさっさとドアを閉めればよかったのに、どうしてかそんなことはできず、千代さんは千代さんで私の言葉を待っているのか動こうとしない。他の所にもご挨拶に参りますので、とか言ってくれれば、私もすぐに動けたのに。

その奇妙な沈黙が、私の理性を少しだけ働かせてくれた。

「あの家……?」

「はい、あちらの二階が一部屋しかない家です」

「……あの?」

「はい、あの家です」

私は変な顔をしてしまっていたのか、千代さんは確かめるように頷き、微笑んだ。これから住む家が、少し変わっているということは千代さんも自覚しているように見えた。

「お邪魔いたしました。これからも、よろしくお願い申し上げます」

と頭を下げて、千代さんは私の家から去った。千代さんの少しずつ小さくなる背中を見ながら、住む世界が違う、という言葉を思い出していた。

蝉が鳴く炎天下の中を歩く和服の人。

そんな人、私の周りにはいないし、きっとお父さんやお母さんの周りにもいない。

この夏に出会わなければ、ずっと出会わなかったことだろう。

それから少し経った晩ご飯の時、お父さんやお母さんの口から、ご挨拶のお礼が必要なんじゃないか、という言葉が聞こえるようになった。受け取った私が行った方が良いんじゃない、と提案してみると、すぐに保護者であるお父さんやお母さんが……、と言われ譲らない。

お母さんとお父さんが行った方が良いことは、私でも十分に分かった。そうするのがしきたりだし礼儀なんだろう。でも、私が行きたかった。そういうことを言えば、きっと子供っぽくて、わがままで、世間知らずと思われ、常識やマナーを学ばせる場になってしまう。

もしこれが千代さんじゃなければ、お父さんかお母さんに行ってもらっても全然良かったし、そっちの方が気楽だ。顔と名前しか知らない人の家に挨拶に行くなんて、全然得意じゃない。

千代さんは私のことを、高校生扱いしなかった。お父さんやお母さんと一緒、なんて言わず、お家の方と、と言ってくれた。千代さんの優しさか何か分からないけれど、高校生扱いしてくれなかったことが嬉しかった。

そういうことを嬉しがるのは、きっと私が思っているよりずっと子供っぽくて、お父さんやお母さんに知られると笑われてしまいそうで恥ずかしかった。

お父さんもお母さんも帰ってくるの遅く、お礼が遅くなるのは失礼になるんじゃ……と不安げに話してたのが決定打となり、私が行くようになった。

私は少しでも大人っぽく見られるようなワンピースを着たかったけれど、学校の夏服で行った方がいい。その方が恥ずかしくない、とお父さんに言われてしまった。お母さんは、堅苦しくない方が相手さんも肩の力が抜けて、なんて私の選んだワンピースを支持してくれたけれど、最終的に私が制服を選んだことで、そうなった。

学校なんて行くことのない日に夏服を着るなんて、非日常的だったから。千代さんに高校生だと発覚してしまうのは少し恥ずかしいことだったけれど、目前に広がる楽しみが恥ずかしさを勝った。

夏用の白いセーラー服と濃紺のプリーツスカート。アクセントとして選んだ麦わら帽子は、少し窮屈を覚えて頭に乗せる程度にした。お礼に行ったお礼で何か新しい帽子でも買って貰えないかな、と淡い期待を胸に出かける。

千代さんの家の前に立つと、遠くからでは感じられなかった圧を感じる。きっと、私の目の前にある和風な建物が、そんなことを思わせるのだろう。そして、千代さんの和服姿も合わさり、私が足を運ぶような所ではないと痛感する。

でも、自分で行くと言ってしまった以上は、引き下がるわけにはいかなかった。もしここで引き下がってしまえば、かっこわるい。

少し震える手で呼び鈴を押しても、千代さんの家は静かだ。ひょっとして留守なのだろうか。もう一度、呼び鈴を押す。

と思えば、家の中からどたばたと音がする。二階から降りて来たのだろうか。はいはい、少しお待ちを、という男の人の大声。

千代さんじゃないなんて考えてなくて、身体が強張る。

戸が引かれ、柔和な丸い顔に眼鏡をかけた男の人が現れた。伸びたままの髭。左の指先はどこも微かに汚れていた、薬指にはめている指輪もくすんでいるように見えた。この人が千代さんの旦那さんなのだろうか。その人も当たり前のように和服。千代さんと違って、胸元がゆるく、がっしりとしたけれども白い肌が覗けた。

恥ずかしさや緊張で逃げるように俯いて、頭の中であれだけ繰り返していた言葉は、もう何一つ出てこない。

私達の間を、蝉の鳴き声だけがうるさく響き渡る。首筋が、じりじりと日に焼かれる。

「……ひとまず、お上がり?」

旦那さんは、今まで私が聞いたことがないほど優しい声で、そう言ってくれた。でも隠しきれないほどたっぷりの困惑もあって、私はどういう言葉を返せばいいのか分からず、ただその人の言葉に従った。

お父さんやお母さんだったら、ちゃんと言えたのかもしれない。千代さんのように、玄関で済ませられたことだろう。そういうことを考えると、やっぱり、お父さんかお母さんに任せておいた方がよかったのかもしれなかった。

千代さんと旦那さんが住む家は、外から見ただけじゃ分からないほど広く、天井が高い。

玄関から廊下が広がり、左手は締め切られた障子が何枚も並んでいる。奥は暖簾で仕切られ、何も見えない。右手には二階へと続く階段がある。

旦那さんは、玄関で高い天井を見上げる私に、

「こっちですよ」

と声をかける。旦那さんが階段を一段、また一段と登ると、ぎぃ、ぎぃ、と音が鳴る。降りた来た時の足音を比べると、随分と静かで穏やかな足取りだった。私が登っても変わらなくて、修学旅行で行ったお寺のことを思い出す。

二階は外から見た時と同じように、一部屋しかない。開け放たれた障子の向こうに、和室が広がっており、旦那さんが歩む。

正面の窓は昼間だというのに分厚いカーテンが敷かれていた。窓の下には机があり、それらは三基の机を組み合わせて座布団を取り囲むように配置されている。パソコンが置かれ、周りには原稿用紙や何冊もの本や万年筆やペンが散らばっている。机の端には煙草や灰皿や湯呑やポットが置かれ、広く使うはずに設置された机はどうも狭く感じる。

左右の壁は本棚や堆く積まれた本でよく見えない。

旦那さんは、原稿用紙や万年筆などを片付け、部屋の端から座布団を取り出し、

「どうぞ」

と、私の方へ滑らせる。私の部屋より広いはずなのに、二人でいると窮屈な部屋。物が多いからではなく、座布団の上で小さく縮こまっているから、窮屈に感じるだけなのかもしれない。

黙っていると、旦那さんは煙草と灰皿を手に取り窓を開け、私に背を向ける。長い息を吐くと窓を閉め、振り向く。

「それで、一体どういうご用件でしょうか?」

玄関で聞いたものとはまた違う優しいけれど、戸惑いと緊張が混じった声。まだ私が何者なのか分かっていないのか、さぐるような調子。居た堪れなくなって、ようやく、か細い声が出た。

「少し前に、奥さんが家に」

「うちの者が?」

旦那さんは何か考えるように口元を手で覆う。煙草が少しずつ短くなり、灰を灰皿に落とす。居心地の悪い沈黙が、部屋に満ちる。その沈黙を破ろうと口を開けた時、旦那さんが口を開けた。

「何か?」

「家が」

私達の言葉はぶつかり、

「あ、えっと、どうぞ」

「あなたから、どうぞ」

「え、っと……。え、私ですか? え、旦那さんからどうぞ」

「僕からですか?」

「駄目ですか?」

「別に駄目というわけではありませんがねぇ……。あなたから先に答えてくれれば、あなたが家を訪れた理由は明らかになることでしょう?」

互いに譲り合い、私が先に答えることとなった。

「引っ越してくるから、その挨拶に、と」

私が答えると、旦那さんははどこか驚いた調子で同じ言葉を繰り返す。

「家の者が?」

「千代さんが、ご挨拶に」

「それで、わざわざ?」

「お父さんやお母さんがお礼を言いに来た方が良いと思ったんですけど、私が聞いたので」

「そうですか、わざわざ、ありがとうございます」

旦那さんはようやく朗らかに笑った。

階下からの話し声や階段を昇るぎぃという音に、旦那さんの笑い声が混ざる。男の人と女の人の話し声。女の人の声は私も知っていて、でも私が聞いたことのないような遠慮がちだった。旦那さんは煙草を灰皿に押し付け、もみ消してから片方の障子を開け放つと、廊下に出て、上がってきた女の人に声をかける。私の姿は、障子と旦那さんの背中にすっぽりと隠れた。客人が私だと明らかになってしまうのを防ぐかのように。

声だけが、部屋まで届く。女の人は千代さんで、中に居る私を気遣うように声を潜める。お客さんは、横柄な物言いで旦那さんに詰め寄るようだった。

「先客だよ」

「それで、表に……」

「きみ、下で待っておいてくれないか?」

「太田さん、その客人の用事は早く終るんですか? こっちも暇じゃないんですよ?」

「用事が用事だから、僕だけでは何とも言えない」

「なんなんですかその用事って。新しい依頼ですか? 困りますよ。そういうことされるの。前もしましたよね。何社も軽い気持ちで受けて、……最終的にどうなりましたか?」

「結局は、完成したじゃないか」

男の人は溜息をついて、いかに自分が苦労しているのか知ってもらうように答える。その口振りの要所要所には、旦那さんが男の人の仕事振りを分かっていないと軽蔑するような調子が滲み出ていた。

「それは、僕がですね、方々にお願いして、調整したからでしてねぇ?」

「調整?」

旦那さんは男の人の発言が気に障ったのか、低い声で訊く。旦那さんの両肩がぐっと持ち上がったように見えた。

「そうですよ」

「僕の〆切だけ早くしていたことが、かい?」

「何を言っているんですか?」

「他の先生方から聞いたんだよ。きみは、僕のところだけ〆切を早くしているそうじゃないか」

「何を言っているんですか? それとこれとは話が違うでしょう」

「成田編集長に確認しても?」

「構いませんよ。編集長も、僕と同じ考えだと思いますよ」

「つまり、僕が〆切までに原稿を書けないと、きみたちは考え、だったら〆切を早く伝えよう。そう考えたわけだ」

「それが、何か?」

「理に適っているね。悪くない。でも、僕は好きじゃない」

「僕も仕事ですので好き嫌いで語られましも……。僕も太田さんも仕事をしている。それでいいじゃありませんか?」

旦那さんの背中から、どんどんと険悪な空気が流れてくる。男の人の話し方は変わることなく、ずっと同じ調子だ。

話を聞いていると、どうやら私の来客というのは、予定になかった。お礼を伝えに来ただけなので、別に今じゃなくても良い。後日、空いている時に訪れたらそれで良い。急ぎじゃない。私の来訪は、旦那さんや千代さんにとって良いものじゃない。

でも、私が帰る出口には旦那さん達がいてう、とてもだが、もう帰りますと言い出せるような雰囲気ではないし、何も知らない私が口を挟めるような場でもなかった。

旦那さんの背中越しで待つだけしかなかった私の目に、千代さんの目が映った。旦那さんと男の人のやり取りに口を挟めなかったのは千代さんも同じようで、困惑したような、驚いたような、焦ったような目だった。来客が私だと分かると、その目にあった色々な感情は瞬く間に微笑の内に隠され、旦那さんに声をかける。

「あなた、お客さんを待たせているのはよくありませんよ?」

旦那さんは千代さんの言葉で私のことを思い出したのか、肩は丸くなり、男の人にかける言葉に棘もなくなった。

「きみ、下で」

「そう何度も言わなくても、待ちますよ。待ちます」

ぎぃ、ぎぃと音を立て、男の人は一階へ。そっと障子が開けられ、千代さんが穏やかな笑みを浮かべて、頭を下げる。

「わざわざ、ありがとうございます」

頭を上げた後には、私の前のテーブルに視線を動かし、そこに旦那さんの湯呑や灰皿しかないことを見ると、何かを恥じるように声をかけてくれる。

「何か冷たい物でも、ご用意いたしますね」

「あの、私は、そんな、別に……。すぐに帰りますから」

「ああいうことの手前、もう少し居てくれると、僕が助かる」

口を挟んできた旦那さんは、その耳を赤くしていて、誤魔化すように煙草に火を点ける。一服してから、千代さんに確かめる。

「お前、挨拶に行ったなんて言っていたかい?」

「言いましたよ、私は」

「いつ?」

「帰ってすぐ」

「本当?」

「お仕事をされていましたので……」

「そういうこと……」

「それでは、何か、お持ちいたします」

旦那さんの言葉を打ち切るように、千代さんは静かに障子を閉めた。それから、ぎぃ、っと音を響かせる。旦那さんは去る千代さんの後ろ姿をじっと見ていて、閉じられた障子もじっと見ていた。

私は私で帰るタイミングを失い、どうすればいいのか途方に暮れていた。ただ、挨拶に来ただけで、旦那さんの都合に流されている。頂くものを頂いて、帰ろう。というか、帰りたい。私が居ていい場所じゃない。

この家はきっと、私以外に沢山のお客さんが来る所だ。本来なら、ちゃんと事前に連絡を入れて、日時を決めて、足を運ばないといけない家。そういう大人のやり取りをしないと、さっきみたいなことが起こる。

きっと今も、一階で男の人は苛々しながら待っているに違いない。冷たいものを用意している千代さんに、乱暴な言葉で何か言っていることだろう。例えば、客人である私のこととか。

急に来た私が悪いんだけれど、だったら千代さんもあの時に言ってほしかった。家は忙しいのでお礼に来なくても結構です、とか。そういうことを言わずに、美味しいお菓子だけ渡されるから、こんなことになってしまった。私も悪いけど、千代さんも悪い。旦那さんもちょっと悪い。ちょっと悪いところではないかもしれない。

あの男の人は、旦那さんに用事があった。私が来たのは急なことで、本当なら、今ここに座っているのは、あの男の人なんじゃ……。旦那さんは知っていて、私を部屋に上げたんじゃないだろうか。確信犯なのではないだろうか、この人は。

そう考えると、一杯の冷たい物とでは釣り合わないような気がする。釣り合わないからといって、私から何かを要求してしまえば、がめつい隣人だと思われてしまう。それはきっと、今後に良くない。私とこの二人とでは住む世界が違い、今後なんてないかもしれないけれど、隣人である以上はきっと何か繋がりが生じると思う。そういう時に思い出されるのは、きっと初対面の印象。

ここで旦那さんに悪く思われるような印象を与えたくない。

飲み物以外にも求めると伝えるにはどうしたらいいのか分からない。それが悪い印象に繋がらないような言葉の選び方も分からない。お父さんやお母さんだったら、そういう思いを上手に伝えられるのだろうか。

もしかすれば、素直に伝えるのが良いのかもしれない。そういうのは、なんだか大人っぽくないような気がする。こういう時、大人な人はどういう振る舞いをして、自分の希望を伝えるのだろうか。

〆切や原稿や編集長だとかいう男の人との会話を思い出す。きっと、旦那さんは作家だ。この本に囲まれた部屋もパソコンも原稿用紙もそういうことで、私は旦那さんの仕事場に通された。男の人がああいう反応をするのも分かる気がする。自分が頼んだことはしなくて、他のところから頼まれたことをしている。

「あの、私って来たらいけませんでしたよね?」

なんだかこれだと、早く帰りたいと思われそうだった。そう思われてもいいんだけれど、そう思われてしまうだけなのは悲しい。用事が済んだから帰る。間違いないんだけど、そういうわけじゃない。私は、旦那さんの仕事の邪魔をしたくないだけなのだ。

「そんなことはないよ。挨拶は大事だから」

旦那さんは私の心の内を見透かしているのか、人懐っこく笑う。座布団の上から動かない旦那さんは、なんだか大きな猫のように見えた。

きっと、眼鏡の奥に見える瞳が、丸いからだろう。きっと、伸びた髭のせいだろう。きっと、丸まった姿勢のせいだろう。きっと、そう。

「でも、本当だったら、あの人が」

「斎藤くんはね、ああいう人だから」

「ああいう……?」

「偉そうだったでしょ?」

「ええ、まぁ……」

「彼が欲しいのは、僕の書く物なんだ。ちょっとぐらい待たせても、悪くないよ」

「でも……」

「自分が急に来たから、なんて考えはしない方がいいよ。斎藤くんより、ずっと長い付き合いになると思うんだよ。家が近いしね。どっちを優先するかは、当然じゃないか。しかも、女の子が一人で来たんだよ」

付け加えられた、しかも、に私の眉間は反射的に寄った。子供扱いされた。千代さんは、そんなことしなかったのに。この人は、そういう時に子供扱いしてくる。この人のことはよく知らないけれど、あんまり良くない印象を持ってしまう。

「そんなに、子供じゃありません」

飛び出した言葉は、きつい調子だった。旦那さんは私の言葉が先ほどと比べてきつい調子になっていても、変わらない。穏やかに、私の怒りすら包み込むようだった。

「子供の方がよくない?」

「大人の方が、かっこいいです」

「僕はずっと、子供がいいよ」

「なんですかそれ」

「好きなように、楽しく暮らしたいんだよ」

「そんなの大人じゃありません」

「そう? そんな大人でもよくない?」

「よくありません」

「難しいねぇ、最近の子は」

困ったように笑って、煙草に火を点す。

旦那さんは仕事をしていて、髭も伸びて、煙草を口にしていて、大人なように見えるけれど、全然大人に見えなかった。子供が背伸びして大人になったような、大人に思わせるような子供。旦那さんを見ていると、千代さんの方がよっぽど大人なように見えた。

ぎぃっという音が戸の向こうから聞こえて、

「お待たせいたしました」

と、千代さんが障子の向こうから姿を見せた。片手に持つお盆には、細長いグラスが二つ。ストローが挿してあり、中は深い海を思わせる青。青い中で浮かんでいる氷は海にあるようで、清涼感たっぷりだった。

青い飲み物なんて見たことなくて、目を奪われていると旦那さんの訝しむ声が降ってくる。

「それは?」

「ハーブティーです」

「家にあったかい……?」

「ありましたよ。成美さんからの頂きものです」

「成美先輩から? 珈琲豆じゃなかった?」

「私には、茶葉をくださいました」

「流石、先輩だ。しっかりしている」

障子の前にあるお盆は一向に動く気配がなく、結局、千代さんが私達の目の前まで運んでくれた。お砂糖やレモンも置かれ、千代さんは恭しく頭を下げた。

「それでは、私はこれで」

「うん、ありがとう。斎藤くんは、何か言っている?」

「……いえ、何も」

「そう、良かった」

千代さんが去った後、旦那さんの目はすごく輝いていた。千代さんが居た手前、夫という役割を演じていたように感じた。

「きみ、青い飲み物なんてみたことある? 凄いね。澄んだ良い色をしている。これを持ってきてくれた成美先輩っていう人はね、僕の大学時代の先輩なんだよ。在学中に新人賞を受賞して、きっと、きみも作品ぐらいは本屋さんとか映画館とかで聞いたことあるかもしれないよ。人の驚く顔を見るのが好きな人でね」

成美先輩の書いた作品のタイトルが続き、聞いたことあるタイトルが混じっていたし、私も友達と見たことのある映画。ミステリー映画なんだけれど、犯人が罪を告白する場面で感動したのを覚えている。映画が終わって本屋へ行った時、その人の書いた本が並んでいて、同じような作品なら、と買った。

そんなすごい人と知り合いの旦那さんはどういう作品を書くんだろうか。

「旦那さんは……」

訊こうとした時、私の視線は千代さんが持ってきてくれたハーブティーに釘付けになった。深い海色をしていたのに、少しずつ紫色に変わっていこうとしている。言葉を失って、ただ、その色が変わるのを眺める。旦那さんは、私の言葉の続きを尋ねない。私と同じように、色の変わるハーブティーを眺め、一口飲んで、

「……苦いね」

と零し、払拭するようにこんなことを話し始めた。

「成美先輩はね、さっきも言った通り、人が驚く顔を見るのが好きだった。人を驚かせるのが好きな人で、僕はよく驚かされた。こう言うと、何だか学生に有りがちな無茶な旅程をよく組む人を想像するかもしれないけれど、そういうことはしない人で、むしろそういうことから距離を置いている人だった。私はいいよ、皆で楽しんできたらいいよ、とサークルの者と距離を保つのがほとんどだった。度々、そういう無茶に参加したり企画していた僕からしたら、成美先輩は不思議な人だった。そういう成美先輩の発言や行為は、全然サークル内で彼女のマイナス評価に繋がらなかった。成美先輩が綺麗だったことも手伝って、英語の他にフランス語もできただけではなく文学や絵画にも造詣が深く、文学少女がそのまま成人を迎えたような、深窓の佳人のような……。浮世離れした女性という像を作り上げるには十分だった」

始まった思い出話は、不思議な哀愁が漂い、もう過ぎ去った旦那さん自身の時間や成美先輩とのいくつもの出来事を懐かしんでいる雰囲気があった。今日始めて会った人の、顔も知らない人の昔話。普段の私だったら、適当に聞き流したり、聞いた振りをすることだろう。

でも今は、旦那さんの語る言葉に耳を傾けてる。私と旦那さんしか居ないからそうしているのではなくって、旦那の口から紡がれる言葉の数々が、自然に私をそうさせた。

きっと、私は、旦那さんに成美先輩の影を重ねている。あの面白い話を書いた先輩の知り合いである先生は、どんな話を私に聞かせてくれるのだろうか、と期待している。

「大学生だった僕達の中心にあったのは、悲しいかな学問じゃなかった。大体が恋愛や日々の生活のことで、誰が成美先輩と付き合うか、付き合えるのか、という話は度々話題になった。僕はもうその時、今の家内と恋人だったから、そういう話題の時は傍観者になっていた。でも、成美先輩が僕達のような誰かと付き合うということを考えなかったわけではないんだ。成美先輩は、僕の知っている範囲で、誰とも恋仲にならなかった。何人かの知り合いが告白したのを知っているけれど、誰にも振り向かなかった。そうして、成美先輩は新人賞を受賞して、残り少ない大学生活を小説を発表することに力を注いだ。遠いところにいた成美先輩が、ずっと遠いところにいる。でも、呼べば、成美先輩はすぐに振り向いて、寄り添ってくれた。波のように」

旦那さんは苦味を誤魔化すように、お砂糖やレモンを入れる。私もそうして、苦味を誤魔化そうとした。きっと、千代さんだったら、こういう苦いハーブティーもそのまま飲むのだろう。涼しい顔を一つも崩さずに。あの人は、全身から大人という雰囲気を感じる。

「成美先輩が新人賞を受賞したと知らされた時、僕は大いに驚いた。先輩のことを知って、あの時ほど驚いた日はなかった。先輩にハーブティーをご馳走になったある冬の日のことだよ。機嫌の良い先輩に連れられて、ちょっと苦いハーブティーを啜っていたら、そんなことを聞かされた。驚いた僕の顔を見て先輩は笑った。随分と可愛らしい笑顔だったよ。その時初めて、この人も家内のように眩しく笑うこともあるのか、と知ったよ。もしあの時、僕と家内との関係が良くなければ、僕は成美先輩にきっと惹かれていたことだろう。心のどこかでは、僕も他のサークル仲間と同じように、先輩を手に入れてみたかったんだ。でも、そうはならなかった」

旦那さんは、そこで言葉を切り、俯き、ハーブティーを飲む。その顔は話し始めた最初の頃と比べると、暗い。その表情を見て、私は、もしかすれば、成美先輩の身に何か起きてしまったのではないか、と考えてしまった。不安を胸の内に押し込むように、ハーブティーを飲む。甘みの後に押し寄せてくる苦味が口の中に残り、嫌な想像を駆り立てる。

旦那さんは私のそんな不安を読み取ったのか、少し恥ずかしそうに笑った後、こう続ける。

「何も、成美先輩が怪我をしたり事故をしたというわけではないんだ。ただ、成美先輩は新進気鋭の作家として活躍するようになり、僕は卒業して、結婚した。職を転々として、成美先輩と同じように、作家として活動する機会を得た。あの時、成美先輩に、やっときみも、と言われた時は嬉しかったよ。大学の時から僕達は知り合いだったけれど、ようやく、認められたような気がした。成美先輩は性格上、人と交流する方じゃないし、僕は僕で職業柄、家に居ることの方が多い。だから、自然と疎遠になってしまっただけさ。急にこんな話をしたのは、このハーブティーを飲んで、昔を思い出したからさ。つまらない話だったね」

自嘲的に笑う旦那さんだったけれど、私は旦那さんの語る数々の言葉の響きに誘われ、成美先輩のことや旦那さんのことが気になった。

紫色だったハーブティーは、いつの間にか、ピンク色に変わっていた。もう、千代さんが持ってきた時のような海色の気配はどこにも見えなかった。

三色に変わるそのハーブティーを、旦那さんや成美先輩や千代さんのように、思った。

もし、旦那さんと千代さんの出会いが遅ければ、成美先輩と旦那さんが付き合っていたのだろうか。旦那さんの口振りは、まるで今も、成美先輩のことを思っているようだった。時が経てば色が変わるこのハーブティーとは正反対のように、ずっと最初から、成美先輩を思っているに感じる。

旦那さんの言葉から思い描かれた成美先輩は海色の人だった。好きな人がいて、付き合って、結婚までしたのにそんなことを思う旦那さんはやっぱり子供のようででも大人が混ざった紫色。そんな旦那さんを支えている千代さんは最後に現れたピンク色だろう。なんだか、千代さんだけ二人の色から遠くて可哀想だった。

私は三人のことを全然知らない。でももし、今もまだ旦那さんが成美先輩のことが気になっているならば、それはいけないような気がした。千代さんがどう言うのか想像できないけれど、あの人は折れてしまいそうな気配があった。

「旦那さんは、今も……」

探りを入れると、旦那さんは至って真面目な調子で否定した。その顔に微笑はなく、一つ屋根の下で住み、一緒に暮らしている千代さんを支える旦那さんの顔だった。

「それは、ないよ。僕が成美先輩に懐いている……懐き続けているのは、好意。それは否定できないだろう。でも、その好意を解剖した時、出てくるのは愛や恋ではなく、憧れなんだよ。妬みや嫉みを感じさせない、純粋な憧れ。ああなってみたいとすら思わせない、自分では絶対になれないとすぐに理解させられるあの感覚。彼女は僕にないものを持っていた。賢さとか同業になって分かるけれど文章を書く能力とかだけではなく、人間的な部分であの人の周りにいる人は皆、不思議と優しくなって、穏やかで、楽しそうなんだ……」

私には分からないことだった。好きを解剖して出てくるのが憧れという感覚が、分からない。私も、大人になれば、旦那さんや千代さんのように歳を重ねれば、分かるのだろうか。

子供っぽいと思っていた旦那さんが、不意に大人に戻るのがずるかった。千代さんのように最初からその立ち振る舞いが大人だったら、こんな感情を懐くことなかったのに。

この家に足を運んでから、知らない感情や思いばかりに出会う。旦那さんは、千代さんと同じように私の友達周りには居ないタイプの人だった。

「旦那さんは、どういう人になりたかったんですか?」

「難しい質問だね……。僕はね、まだそういう理想像を追い求めている途中なんだ」

「もう大人なのにですか?」

「そうだね。大人なのに、さ。作家はね、何者にもなれるんだ。誰かになって、何かを語らう。そういうことができる人間なんだ」

「そんなこと……」

「できないって疑っている顔だね」

「いえ、別にそんなことは……」

否定したいわけじゃなかった。私は旦那さんのように大人でもないし作家でもない。ただの女子高生で子供。旦那さんの言っていることが想像できなかった。

「そういうことができる人間が作家になれて、物語りたいことがある人間だけが作家として生き続けられる」

「旦那さんは、何を物語りたいんですか?」

「僕は、まだ探している途中なんだ」

「まだ……?」

「そう不思議な顔をしなくっても……。何を物語りたいのかはまだ探している途中だけど、誰かを悲しませる物語は書きたくないねぇ……」

旦那さんは語り終えると何も話すことなくグラスに口をつける。さっきまで話していた姿や言葉なんて微塵も感じさせないよう。

ハーブティーを飲み終えた私は、旦那さんの言葉に魅了され、自然とこういう言葉を旦那さんにかけていた。

「ご馳走様でした。あの、また、来てもいいですか?」

旦那さんは、成美先輩とはまた違う感動を私に与えてくれる。胸に広がる暖かい気持ちは、きっと、旦那さんの言葉によって生み出されたものだろう。

人の心に、暖かい気持ちを芽生えさせる作家。旦那さんが先生と呼ばれる理由を目の当たりにしたようだった。

旦那さんは私の顔を窺って、そこにどういう表情が漂っているのか確認した後、出会った時と同じように優しい声で答えてくれた。
「いいよ」

 

 

夏休みの間、私はよくその家にお邪魔した。旦那さんが玄関まで姿を見せてくれる時は二階の書斎に通された。

旦那さんは書いている小説の話はしてくれないけれど、その場で物語ってくれた。私のために、そういうことを話してくれるのが嬉しかった。

旦那さんはどういう名前でどういう本を書いてくれるかは教えてくれないけれど、書斎にしまわれた本の中で一番多い名前が旦那さんの本なんだろうと分かった。私の部屋の小さな本棚に、旦那さんの名前が並ぶ。話してくれる数々の言葉と同じように、温かい物語が書いてある本が。

旦那さんを先生と呼ぶ機会は何度かあった。でも、その言葉を口にしようとすると、旦那さんとぐっと離れるような気がして、全然口にできない。旦那さんと成美先輩との間にある距離のように、急に遠くなるような予感。私にとって、旦那さんは旦那さんで、先生ではなかった。

千代さんが玄関に姿を見せてくれる時は一階に通された。申しわけありません、とその都度言われ、千代さんの後ろをついていく。

一階は二階とは比べられないほど広く、煙草臭くなかった。障子の向こうは洋室で、木目調のソファやテーブル程度しか家具が置いてない殺風景な部屋だった。ソファと同じ高さの本棚には、数冊の雑誌がしまわれている。

旦那さんと千代さんが暮らす家に居るはずなのに、どこの応接室に通された気がする。応接室の右手の戸は閉ざされているが、千代さんが出てくる時だけ開かれ、向こうにリビングやキッチンがあるのが覗けた。その時だけ、人の家に通されたのだと安心できた。

「お待ちいいだくのに、普通の家だと失礼じゃないかってあの人が……」

一面ガラス張りの向こうには広い庭が見える。通りと庭を隔てるようにまだ背の低い木々が並び、部屋に緑の影を伸ばす。緑の影と木目調の僅かな家具に囲まれた室内は、家の外で起きている様々なことと切り離されているようだった。

木々の近くには、鉢植えがあり、赤紫の花や青紫の花や白い花が植えてあったが、どれがどういう名前なのか分からない。唯一分かるのといえば、太陽に向かって真っ直ぐ花開いている向日葵ぐらいだった。

旦那さんは二階の書斎で応対している間、私は一階で千代さんと一緒だった。二階に居る時は蒸し暑さを覚えることがあるのに、一階は全くそんなことなかった。快いけれど、よそよそしい。真夏と切り離されているような、時という感覚を失う不思議な空間。きっと、千代さんの存在も、そういう不思議要素を強めていると思う。

透けるように薄い着物を着た色白の千代さんは、私の周りに居ない人だから。旦那さんのように喜怒哀楽をはっきりと見せない涼し気な人だから。

でもそんな千代さんが、一言お詫びの言葉を述べてからキッチンやリビングに立つ時、主婦の香りを感じ取る。お母さんが忙しそうに掃除をしたり洗濯をしたりご飯を作ったりしているのを見ている時と同じ気持ちになった。

そんな姿と向日葵だけが、私に夏を知らせてくれる。振る舞われるアイスティーの冷たさや、氷が音を立ててこともあるけれど、夏を思わせるには遠い。

私の家の側に、非日常に溢れた家がある。

千代さんは、旦那さんのように喋るような人じゃなかった。二階の仕事が終わるまで待っているだけで、喋らないことの方が多い。静かで表情の変わりにくい人だったけど、それがまた千代さんらしくて全然悪い印象を持てない。私が居心地の悪さを覚えていたり、沈黙が窮屈なのを察すると何かしら声をかけてくれる。嬉しいことだったけれど、長く続く会話ではなく、満ちる沈黙が辛い。もしかすれば、沈黙が満ちる度に千代さんの胸は少し痛くなっているかもしれない。

そんな時、私は旦那さんのことを口にする。私から千代さんに声をかける時、大体旦那さんが話題にして場を繋げる。千代さんといる時に、沈黙が満ちるのは、あまり好きじゃない。そういう時間がもったいないような気がした。

キッチンに立つ千代さんの細い背中に声をかける。

「あの、旦那さんって、いつもあんな感じなんですか?」

「あんな感じというのは……?」

お母さんと違うのは、千代さんは大きな声を出さないところだろう。千代さんは私の前に戻ってきて、小首を傾げる。

「喋り方っていうか、話し方っていうか……話すことっていうか……。語る言葉が暖かいって言えばいいんでしょうか? 私が初めて会った時、成美先輩の話をしてくれたんですけど、すっごく優しくて」

「それは恥ずかしい昔話を聞かせてしまいましたね……」

「いえ、そんなことありません! 素敵でした!」

慌てて否定すると、千代さんの頬に薄いけれど確かな喜びの色が浮かび上がった。

「そう言っていただけるとありがたい限りです。成美さんは、私と主人の共通の友人であり、私と主人が出会うきっかけを与えてくださった方なんです」

と言った時、千代さんの白い頬が血の気が走ったように紅く染まる。その声は私に語りかけるどんな言葉より、思いやりに満ちていた。

見たことのない表情の連続に、目を奪われた。何か言わなければならないと思ったけれど、柔らかく朗らかな表情にどういう言葉をかけたらいいのか分からなくなった。私が知っている千代さんじゃなくなって、普通の大人な女性が、いる。私の知らない大人な女性。

もしかすれば、そういう表情をする方が、本来の千代さんなのかもしれない。千代さんも旦那さんのような人なんだ。表情が変わり、温かい言葉を選んで話しかけてくれる人。そんな人なのに、涼し気な、凛とした女性として振る舞っている。

私が客人で、旦那さんが来客の終えるまでの間だから、そういうふうに振る舞っているだけなのだろうか。もし、この家に訪れた理由が旦那さんではなく、千代さんだったのならば、笑ってくれるだろうか。千代さんが、どういう人なのか知りたくなり、二人がどのようにして付き合い、結婚に至ったのかも気になった。

「成美先輩って、一体、何者なんですか……?」

「私と成美さんが知り合いになったのは、何も大学の時分からではなく、もっと前からでした。丁度、貴女ぐらいの時に出会ったのです。遠方からお父様の仕事の都合で引っ越してきた成美さんは、私達とは違う雰囲気をしていて、一人でいることが多い方でした。私も一人でいることが多く、そういう縁から友達になりました。私も成美さんも志望校が同じだったこともあり、一緒に勉強することがあり、そのまま大学も同じになれたのは、彼女のお力添えも大きかったものです」

旦那さんと同じように優しく話す千代さん。旦那さんが成美先輩について語っていた言葉を思い出す。周りが優しくなる人。だから、成美先輩について話す人は優しい語り口になるのだろうか。棘や毒を感じさせない言葉の数々。

「大学に入ってからも、成美さんは一人でいることが多かったです。とりあえずといったふうにサークルに所属していたのですが、そこでも一人でいることに抵抗がなかったようです。それがより彼女の魅力を引き立てたのでしょう。何人もの男性から付き合ってほしいと告白され、その全てを断っています。私によく話すのです。よく知らない人から告白されても、どうすればいいのか分からない、と。そういう時、成美さんの口から主人の名前が上がったことが度々あります。あの人だったら考えてもいいかな、と。興味があるような素振りを見せていますが、成美さんは主人がそういう思いを寄せていないことを既に知っていたのです」

千代さんに口元に微笑の影が浮かんだのは、成美先輩へ向けてだろうか。あるいは、旦那さんへ向けてだろうか。あるいは、過去の千代さん自身に向けてだろうか。深くは問えず、ただ、千代さんの思い出話を聞いていた。

「あの時の私はそんな成美さんの胸中など全然分からず、ただ成美さんの口から、男の方の話を聞くなど多くありませんでしたので、興味を懐き、どういう方なのか教えていただきました。そうして、私達は知り合ったのです。柔和な優しい男性でした。そこから、私と主人の付き合うようになり、大学を卒業しても変わることなく付き合い、結婚いたしました」

千代さんの学生時代のことは、全然想像できないけれど、ある一言が引っ掛かった。

「千代さんが一人でいるの、何だか不思議です」

「不思議でしょうか?」

「沢山の人に囲まれるってよりかは、誰かが側にいる……そんなふうに思ってました」

私の知っている千代さんは、もう結婚していて、旦那さんがいて、成美先輩がいる。だから、そんなイメージを持ってしまっているのかもしれない。そういうイメージが、千代さんの印象を悪くさせるわけではなかった。むしろ、意外で、意外だからこそ不思議だった。

「それはきっと、主人や成美さんのお陰です。お恥ずかしい話ですが、私は二人に出会うまでは、一人でいる方が早く大人になれると思っておりましたので……」

学生時代の千代さんと私は、似ている。私は、そんなふうに思っている。一人でなんでもできるのは、大人だ。ということは、私もこのまま高校を卒業して、大学になって、大人になれば、千代さんのような大人になれるのだろうか。

一瞬期待したけれど、すぐに、千代さんのようにはなれないと分かった。私には、千代さんのようになるには色々と足りないものが多過ぎた。千代さんみたいに色が白くもなければ、細くもないし、和服なんて全然似合わない。柔らかい物腰なんて無理だ。成美さんのような知り合いも旦那さんのような知り合いも、私の周りにはいない。

なら私は一体、どのような大人になるのだろうか。どういう大人になれるのだろうか。

「千代さんは、どういう大人になりたかったとか、ありますか?」

「どういう大人、ですか……?」

千代さんは大きめな目を心持ち大きく開けて、私の言葉を繰り返す。口を閉ざしたかと思うと、細い指を口元へ運んだり、アイスティーを飲んだりする。

部屋に落ちてきた沈黙は、今まで味わったことのないほどに柔らかい。私が口を挟めば、簡単に破れるような沈黙。今まで、千代さんと話してきて、こんなに破りやすい沈黙は初めてだった。
でも、私は千代さんの言葉を待つ。今までの沈黙は、奥さんとして振る舞っている時の沈黙だと思うから。今、私の目の前に居る人は、ただの年上の女性。

「優しい人になりたかったと思います」

「……優しい?」

千代さんと同じように、今度は私が千代さんの言葉を繰り返す。今の千代さんしか知らない私からしたら、優しくない千代さんを想像できない。それはきっと、千代さんが理想としていた大人になれたからだろう。

「一人になった時、孤立しているのか孤独にいるのかで、接し方が全然変わってくると思うのです。ですから、私は、きっと……もう今となっては正しく思い出せませんが、よく一人になっていたのだと思います。そうやって一人でいることに慣れて、孤立している方にも優しくいられるように努めたのだと思います」

「千代さんは、思い描いていた大人になれましたか?」

「申し上げましたが……」

千代さんは躊躇うように続きの言葉を切った。微かな沈黙の間に、私は自分の発した言葉がほんの少し震えていることに気づいた。もし、千代さんでも思い描いた大人になれなかったとしたら、私はどうなるんだろう。

千代さんは、きっと、私と同じ頃にはもう、どういう大人になりたいのか、どういう人になりたいのかというイメージを自分のものにしていた。でも、そのイメージした大人になれたかどうかは、もう千代さん自身でも思い出せないことだろう。

私は、どういう大人になりたいのだろうか。あるいは、どういう大人になりたくないのだろうか。考えたところで、何も出てこない。そんなことを考えるのは、まだ早過ぎる歳のように思えた。
でも、千代さんは……。全然比べる必要なんかないのに無意識の間に比べてしまっている。お父さんやお母さんとは違う大人な女の人と。もっと歳の近い、私の友達と比べればいいのに。千代さんと私を比べてしまうのは、きっと、千代さんも一人だったからだ。そんなことに親しみを覚え、昔の千代さんと自分を比べている。

私が今、千代さんに懐いているのは憧れなのだろうか。旦那さんが成美先輩に懐いている感情を解剖したように、私が千代さんに懐いてる感情を解剖すれば、憧れ以外の感情に触れることができるのだろうか。明らかにしたところで現れるのはきっと、憧れだと思う。そう、信じている。

旦那さんのように自分の感情を解剖して、全然別の感情が露わになった時、私は千代さんを今と変わらないように見られるだろうか。露わになった感情に沿って、見てしまうだろう。

だから、私は千代さんを純粋に憧れていると信じている。実際、憧れている、なりたい大人の一人であることには変わりないのだから。今の私には、全然足りていないところばかりだけれど。

「貴女のような年齢だった時、私は自分が今のような主婦になるということを考えておりませんでした」

口を開けた千代さんの調子は、躊躇うように話した時と違い、柔らかく、悩む私に寄り添うようだった。

「夢があったのです。誰かを助けようとする、手を差し伸べられるような……。職業でいえば、お医者様や看護師になりたいと考えておりました。そういう人になりたいと考えておりました。ですが、どちらもなれなかったのです」

「なれなかった……?」

「私の家はそれほど裕福ではなく、私が優秀ではなかったためです。ですので、そういう夢は、貴女と歳の変わらない頃に諦めざるを得ませんでした。私は、なりたい大人にはなれませんでした」

残酷な答えに、突き付けられた現実に、私は言葉を失った。優しい嘘の一つでも言ってくれるのだろうと思っていた私を突き放すような答え。

千代さんでも、なりたい大人になれなかったのならば、私は……。自分の夢を諦めて、主婦になって暮らすのだろうか。私もそういう選択を採ることになるのだろうか。

千代さんは微塵もそんな気配を漂わせない。むしろ、イメージしていた人になれている印象を受ける。強かな人だった。

「……後悔していないんですか?」

「後悔していたと思います。別の何かを、を考えることもありましたが、時間が足りず、他の同級生の方々と同じように、なんとなく大学に進学しました。四年のモラトリアムで、何かが変わると思っていたのです。ですが……。でも、主人と出会えました」

旦那さんや成美先輩が、その時の千代さんにどういう言葉をかけたのだろうか。

聞きたかったけれど、少し怖くなって、聞けなかった。私はそこまで、千代さんに踏み込んでいいのか分からなかった。それほどまでに踏み込んでしまったら、今のような関係ではなくなるように思えた。近所の人で、知り合いで、という距離感ではなくなるような気がした。

もし千代さんが、私と同い年だったら聞いたかもしれない。話を聞いた私は、きっと世間話や雑談という言葉の内にしまい込み、振り返ることはしないだろう。そんなことも話したかもしれない、というおぼろげな記憶になることを想定している。

でも、千代さんから聞くのは、そういうわけにはいかなかった。

それはきっと、私の中で、千代さんという女性が千代さんという名前を持ち、姿形も容易く思い浮かぶからだろう。私の中で、千代さんは、もうおぼろげな記憶にできない人になっていた。旦那さんも、そうだ。

二人は、夏と共に、私の記憶に刻み込まれてしまった。去年や一昨年のあった夏の出来事はもう、すぐには思い出せないのに、千代さんと旦那さんのことは、来年も再来年も思い出せる予感があった。
ここで更に踏み込んでしまえば、より強く私の記憶に残ってしまいそうで、恐ろしかった。そうなってもいいはずなのに、そうなることを拒んでいる私がいるのも恐ろしかった。

千代さんを知りたいと思っていた。けれど、怖い。大人な女性が何を考え、話し、感情に直接触れるのは、私はまだまだ幼かった。お母さんやお父さんのような、子に向けた接し方ではない。千代さんは私の一人の人間として、接してくれている。私は、一人の人間として触れ合うのに全然未熟だった。

旦那さんは、一人の人間として接してくれているようで、微妙に違う。書籍や言葉を間に置くこともあれば、一人の読者として距離を置くこともある。私から距離を詰めようするのを、どこか拒んでいる気配があった。その距離感が心地よかった。

高校を卒業して制服を脱げるようになれば、大学に進学して沢山のことを学べば、成人を迎えて大人になれば、千代さんと向き合えるのだろうか。そんな先のこと、今の私には全然分からなかった。

夏休みが終わると、私は自然と二人の家に足を運ぶことが少なくなった。時々足を運ぶことはあったけれど、旦那さんはどこかに旅行していることもあった。

通学の途中で二階の書斎を見上げたり、少しずつ背が伸びる木々の向こうに居るであろう千代さんを思い描く程度だった。

二人と話すのも良かったけれど、高校の友達と遊んだりする方が良かった。私と同じような友達だったから。

大人な二人と話すのは沢山の知らないことに出会えるけれど、自分の未熟さをさらけ出されるようで怖かった。何も知らない自分と向き合わされているようで、恐ろしかった。まだ何も知らない幼い自分を自覚させられる。

そういう恐怖が、いつでも出会える所に居るから、仕事をしているから、忙しいから、と考えさせたのかもしれない。

夏の間だけ会えれば十分だった。次の夏に会った時、去年とは違う私を見せられる。一つ歳を重ねて、一つ大人に近づく。旦那さんや千代さんのような大人になるにはまだまだだろうけれど、子供じゃなくなった私を見せられると思う。だから、私は夏の間に出会うだけで良かった。
代わりのように、本屋へ足を運ぶことが増えた。沢山並ぶ本の中に、旦那さんの筆名を見つけると、先生と呼ばれる凄さを知った。旦那さんと呼ぶのではなく、先生と呼ばないといけないような気がした。

そう思って、頁をめくっても、本の中で紡がれる言葉はどれも旦那さんだった。柔らかくて、温かい、その人柄がにじみ出ている。旦那さんは旦那さんで、先生と呼ぶのを憚られた。でも、そう呼んでみたい気持ちは、ふつふつと浮かんでいた。そう呼んだ時、私と旦那さんの関係は、きっと、ただの先生と読者になってしまうようで寂しかった。

旦那さんを先生と呼べないまま、次の夏を迎えた。そうして、旦那さんが亡くなったと聞かされた。自殺だった。

 

 

旦那さんが亡くなってから、私はその家で居場所を失ったような疎外感を味わい続けている。

一階のどこにも居場所はなく、このまま帰ってしまえば、きっともう二度と足を踏み入れないような気がした。子供が気軽に足を運んでいい場所じゃなくなったと線引きをしてしまう。大人になって学校に行かなくなるように、そういう子供と大人の境界線を引かれてしまったような。

私までもが、大人の場所と思ってしまうのが先生を否定するようで、あの子供のように思えるけれど、大人な先生の居場所を失わせるようで嫌だった。先生と千代さんの家が、千代さんだけの家になってしまうように思えた。

去年の夏には、全然遠慮なく足を運べたのに。二階に戻っても、障子は開かない。閉ざされた障子の向こうで話す千代さんと出版社の人。

誰でも分け隔たりなく入れた書斎は、今では固く閉ざされている。簡単に開けられるはずなのに、重たい障子だった。

「あの」

と、発した言葉はか細く、信じられないくらい冷たかった。障子の向こうの話し声が聞こえなくなった。

障子が開けられ、中で話していたお客さんが出てくる。見たことがない女の人だった。私より少し背の高い眼鏡をかけた女性。その脇には丁度原稿用紙が入るような封筒を抱えていた。私を見ると何も言わず微かに視線をずらし、申しわけなさそうに会釈をして、ぎぃっ、ぎぃっと階段を鳴らし去る。
書斎は先生の居た頃と比べると随分と広い。窓のすぐ下に広がっていた大きな三基の机が片付けられからだろう。厳しい陽射しを遮るように窓には白いレースが引かれている。机の上にあったパソコンや原稿用紙もなくなり、机の端に置いてあった湯呑みやポットもない。残っているのは左右の大きな本棚や先生の書いた何冊もの本。

部屋の真ん中には、去年の夏とは違う人が座っている。和服なのは一緒だけれど、透けた部分から見える手足は細くなっていた。顔も小さく、色も白いを通り越して蒼い女性。去年の夏と比べると一回り小さく、痩せたように思えた。

私を見つめる黒々とした瞳はかつてのように涼し気だったが、どこか不安げに震えているようにも映った。まだ、先生の死を受け入れていられないような。そんな瞳に見つめられると、書斎に足を踏み入れ、何か話そうという気持ちが弱々しいものに変わる。

この千代さんと向き合い、私はどういうことを言うつもりなのだろう。どういう言葉を聞けるのだろう。私は千代さんと話し、何を知りたいのだろう。先生のことを教えてもらい、私は何を知れるのだろうか。

「あの……」

私の口から零れた冷たい言葉は、それ以上続かず、私と千代さんの間には何度目か分からない沈黙が広がる。千代さんは書斎の中心から動くことなく、私の言葉の続きを待っている。私は私で、書斎に入ることなく障子の前で、言葉を続けようとしている。

続けようとした言葉は私の胸の内に戻り、全然別のことを考える。どうして、そこに千代さんが居るのだろうか。そこは本来なら、先生の指定席で、千代さんは一階に居る。ここはそういう家じゃなかったのだろうか。千代さんがそこに居るなら、先生はどこへ行ってしまったのだろうか。先生は戻ってくるのではないだろうか。

千代さんが書斎に居ると、先生の姿や匂いを一つずつ失っていく。初めてここを訪れた時に飲んだ色の変わったハーブティーを思い出す。海色から紫に変わり、最後はピンク色となったあのハーブティーを。あのハーブティーは一度色が変われば、再び同じ色に戻ることはなかった。

この書斎も、そうなる予感があった。全部が全部あの最後の水色に染まってしまいそうだった。嫌だった。

私の口から零れる言葉が、どれも温もりを失っていた。

「帰って、こないんですか?」

一瞬、千代さんの肩が震えた。唇を結び、私の目を見た後、はっきりとした調子で答えてくれるが、私と同じように冷たいものだった。

「……帰って来ません」

「どうしてですか?」

「お教えしたと思いますが、亡くなったのです」

「どうしてですか?」

先生が亡くなったことは、千代さんから教えてもらった。自殺だということも、教えもらった。もっと生きる人だと思っていた。もっと生きて、沢山の話を書く人だと思っていた。もっと生きて、沢山の話を聞いてくれる人だと思っていた。そんな、優しい人だと思っていた。千代さんが口にしたような、自らの手で自らの命を絶つような人だなんて考えたこともなかった。

何があったのか分からない。先生は何を思い、自らの一生に幕を下ろしたのか。何が、そんなにも先生を追い詰めていたのだろう。

「何が、あったんですか」

「何もなかった、と思います」

千代さんの答えは、全然分からない。でも、だからといって腹立たしく思うことはなかった。ただ冷静に、言葉通りに、千代さんの答えを受け取っている私がいる。きっと普段の私なら、何もなく亡くなる人はいないと思い、詰め寄った。そうしなかったのは、私も、そして千代さんもきっと先生が亡くなったということが現実だと思えなかったから。

まだどこかで先生が生きていて、ここには帰らないだけ。まだ旅行を続けているだけ。お葬式で、先生の死に顔を見たはずなのに、そんな気分が、胸から出ていかない。

でももし先生が帰っていないだけであったとしたら、千代さんはどうして書斎を片付けてしまったのだろう。そんな長い旅になるのだろうか。先生は掃除を千代さんに依頼してから出て行ったのだろうか。

先生が帰ってこないだけなら、玄関や一階で応対すればいいことなのではないだろうか。いつものように、千代さんは一階に居ればいいのではないだろうか。

どうして千代さんは二階の書斎で、先生の来客の人と話し合っていたのだろうか。申しわけなさそうに会釈をしたあの女の人は、どうして私にそんなことをしたのだろうか。

「本は……」

「本……? 主人が何か?」

呟いた私の言葉を拾い上げた千代さんの声は、かつての温もりを取り戻した。あるいは、動揺していた。

「本はどうなるんでしょうか?」

「書きかけの原稿はありません。主人は全ての原稿を書き終えております。いずれ出版されることでしょう」

次の言葉はもう冷え切っていて、千代さんの血の気が通った言葉を耳にしたのは私の思い過ごしだったのだろうか。

いくつもの言葉のやり取りの中で、去年の夏を思い出した。千代さんの人となりに触れられた怖くなったあの夏の日のことを。先生の奥さんでもない、一人の歳上の女性と話したあの昼のことを。
先生不在の今、千代さんはまた別の何かの役目を担っているのではないだろうか。だから、冷たさを覚えさせるような調子で応じているのではないだろうか。そうしないと、千代さんの中で何か不都合が生じるから。

不都合の正体や千代さんが何を考えているのかまでは全然分からない。分からないけれど知りたくなかった。知るのが、怖い。この怖さは、きっと去年と同じ怖さだ。

私と千代さんの距離は、これで良い。私は書斎に踏み込まず、千代さんは書斎から出ようとしない。お互いに一歩を踏み出せば近づけるはずなのに、永遠に縮まる様子を見せないこの距離を保ち続けるのが、良い。

再び満ちた沈黙を千代さんは破る。

「まだ、何かおありでしょうか? 他のお客様もお待ちですので」

千代さんに聞きたい先生のことはいくつもあったが、どれも言葉するのが難しかった。先生のように私に背中を見せ、黙々と仕事をしてくれればよかった。息抜きで物語を話してくれるようなことは、千代さんはしてくれない。千代さんは、私にここに居るのを好ましく思っていないのかもしれない。あるいは、好んで、一人になりたがろうとしている。

千代さんの一人になりたい気持ちは分からないわけではない。私にだって一人になりたい時はある。でもそれは、お父さんやお母さんや友達がいるから、一人になる時間がほしいだけで、今の千代さんとは違う。千代さんが一人になってしまえば、ずっと一人だ。ずっと一人なのは、いけないような気がする。

私にできることは多くない。私がここに居たところで、千代さんは余計と一人を味わってしまうかもしれない。私と千代さんでは住んでいる世界も年齢も違う。でも、私も去年の夏とは違う。どれほど、千代さんや大人に近づけているのか分からない。もしかすれば、全然まだ幼いかもしれない。

「また、来てもいいですか……?」

「そんなに来ても良いことなんてありませんよ」

 

 

先生の新作は夏が終わる頃に発表された。学校の帰り道、本屋さんに寄って目立つ場所に置かれていた。最後の書き下ろし長編という帯も巻かれて。

今までの先生の作品とは全然違う冷たい、温度の低い文章が続き、私は堪らず頁をめくる手を止めた。そうして、また最初から読み始める。

最初の方は、先生らしい柔らかく温もりのある文章だった。でも、途中途中で冷たい顔が見える。そうして、ある時を境に、柔らかさも温もりも完全に消え去る。夏が終わり、秋風の冷たさに気付かされたかと思えば、もう冬が訪れたような。強い違和感と不気味さが残る。本を読み終えた時、誰の作品なのか分からなくなる。作者を確認して先生だと思い出す。先生じゃない別の誰かが書いたのは明らかで、その人が千代さんであることはすぐに分かった。

家には帰らず、千代さんの家を訪れた。どうしてそんなことをしたのだろうか。全然分からない。千代さんは先生の作品をどうしたいのだろうか。分からないことだらけだったけど、このままじゃいけないということだけは分かる。心が騒がしくなる。

先生の名で出された本に冷たいものはいらない。あっていいのは温もりで、忘れていた何かを思い出せてくれるあの感覚だ。

玄関に現れた千代さんは夏休みの頃とは違い透けない藍色の着物をまとっている。近くで見ると、桔梗の模様が着物全体に描かれていた。その顔は随分と血色が良くなったが、頬の影や目の端に疲れが見えた。

先生が亡くなった間もなかった時は多くのお客さんがいたのに、今は一人の影も見えない。千代さんは、先生がそうしたように二階へと私を案内する。ぎぃっ、ぎぃっと鳴る階段だけは変わらない。

書斎の窓は開けられ、まだ微かに熱を覚える風が書斎に流れる。煙草の匂いは一つも漂ってこない。

本棚が減り、白い壁が見えたのに驚いた。本棚から、先生の名前が書いてある本も減っていた。私が今日買った新作は、本棚に置いてある。窓際に置かれた小さな机にはパソコンが一台だけ置いてある。パソコンの近くには千代さんの文字で、〆切や出版社の連絡先が書いてあった。そのパソコンの前に、千代さんが座る。

千代さんは私の方へ座布団を置き、腰掛けるように促してくれた。私は座ることなく、減った本棚やそこに収められていた本のことを思い出そうとしていた。乱雑にしまわれていたけれど、その本棚には先生の作品がいくつもしまわれていた。

先生は、もういない。そんな現実を今更のように味わせる。この家のどこにも、先生は帰ってこない。もう、ここは千代さんだけの家で、千代さんの部屋になってしまっていた。

「どうぞ、お掛けに」

と、促され、私は千代さんの前に座る。

胸の中はずっと騒がしくて、うるさいぐらいに高鳴る。さっき買ったばかりの本を千代さんの前に置いても、全然落ち着かない。むしろ、更に騒がしくなる。口の中が乾き、唾を飲み込む。もう夏が終わりに近づこうというのに、首筋は熱を帯びている。

私の買った先生の新作を目にした時、千代さんの片眉が反射的に、少し釣り上がった。

「誰が、書いたんですか?」

私の声は、騒がしい心とは全然違い静かで、冷ややかで、そして震えていた。千代さんが書いたと分かっているはずのに、それを千代さんの口から聞くのを恐れているようで、千代さんからその言葉を聞いてしまった時、私はきっと、怒ってしまうのだろうか。

答えない千代さんを問い詰めるように、言葉を並べる。

「千代さん、言ってましたよね? 先生は全部の作品を書き上げたって。それじゃ、これは……」

千代さんは短い息を吐いた後、普段と変わらない涼しい調子で答える。

「主人の死は急でしたので、何作か書き上がっていない作品がございます」

「嘘、ってことですか?」

「……嘘?」

「その、先生が全部の作品を書き上げたっていうのは……?」

「主人の名前で出版されている以上、主人の作品です」

「違います! 先生は、違います! 先生は、こんな……こんな……!」

咄嗟に叫んだ。千代さんは目を見開いて私を見ている。

私には分からなかった。どうして、そこまで千代さんは先生が書いたと言うのだろう。遺言や遺書で、そうしてほしいと先生が望んでいたのだろうか。

先生の名前で出版されれば、それは先生が書いたということになるのだろうか。読めば、すぐに先生が書いたわけじゃないというのは分かるのに。

千代さんは全く動じることなく、言う。

「作風が変わったのです」

「もう嘘は聞きたくありません!」

荒い息遣いだけが部屋に響く。肩で息を繰り返す私に、千代さんは薄汚れた天井を見上げ、諦めたように息をついた。

「多くの方にとって、まだ太田春樹という作家はまだ死んでいないのです」

千代さんの言葉に、私は動揺した。言葉に詰まった。

先生はもう亡くなっていると言ったのは千代さんだ。自殺だと言ったのは千代さんだ。それが、まだ死んでいないというのは、どういうことなのだろうか。

「でも、でも……」

「そうです。仰る通りです。私の主人であり、貴女と付き合いのあった太田春樹は自殺しました。ですが、作家としてはまだ亡くなっていないのです」

「どういうことですか?」

「主人の名前で作品が出る限り、作家としてはまだ生きているのです」

「そんなの、あんまりです!」

「貴女は、太田春樹の新刊を見かけた時、少なからず嬉しかったのではないでしょうか?」

千代さんの鋭い言葉を否定できなかった。黙る私に、千代さんは続ける。

「どれほど望んでも、主人はもういません。ですが、貴女の……貴女達のように、太田春樹の新しい物語を望んでいる方は多いのです」

「先生は、もっと……先生は、違うんです。先生は……!」

それ以上、言葉にならず、千代さんの姿がぼやける。頬が熱い。畳に一つ、また一つと染みができる。背中を丸め、両手で顔を覆う。手のひらを伝い落ちる。

この涙は、誰のために流れているのだろうか。私のためか、先生のためか、あるいは千代さんのためか。何もかも混ざり合って、涙として流れている。

先生の新しい作品を望んでいることを否定できない。でも、それは、先生の名前を騙ってまでしてほしいことじゃない。先生がもう亡くなり、新しい作品が出ないのなら、それを受け入れることだろう。

まるで、私が悪いと責められているようだ。私達が先生の新しい物語を望んでいるから、先生の名前を騙り、書き続けている。先生の名前や作品は先生のもので、千代さんのものじゃない。
先生は、人が悲しくなる物語を書くことを良く思ってなかった。人の気持ちを裏切るような作品を書く人じゃなかった。先生の名前で世に発表された以上、もう誰にも修正できない。

涙と一緒に、思いを吐き出す。

「千代さんは、作家じゃないです! 先生の代わりなんて、できないんです! 誰も、代わりなんてできないんです。そんなこと、やっちゃ駄目なんです!」

千代さんの静かな、疲労に満ち満ちた声が、部屋に滑り落ちた。

「……そうですね」

それから、千代さんの声は、かつて成美先輩のことを話していた時のように柔らかく、優しい声に変わった。

「また会えると思ったのです。主人が書き上げられなかった物語を引き継ぎ、書き続ければ、また、昔のように……。滑稽でしょう」

「そんな……」

言葉は続けられなかった。それ以上の言葉を続けるのは、私にはできない。先生が死んだことは変わらない。そんなことをしても、先生が帰ってこない。千代さんが一番知っていることなのではないだろうか。

「私、主人の書く物語が好きなのです。知っていますか? あの人、人が悲しむ物語を書けないのですよ。何者にもなれて、物語ることができるって言うのに。だから、好きになってしまったのです」

「現実のことを忘れさせてくれる優しい人なのです」

昔のことを話す千代さんは、優しい人だった。今のように厳しいことも冷たい言葉を吐くことがない。そうやって、私は気づいた。なりたい大人にもなれず、夢も叶えれなかった千代さんにとって、先生という存在がどれだけ大きな割合を占めていたのかを。

「……どうして、あの人が自殺なんてする必要があったのでしょう」

その千代さんの言葉に答えられる人は、誰もいなかった。

 

 

最後の書き下ろし小説の後にも、先生の名前で作品は発表された。それから間もなくして、先生の訃報が公にされた。

私は、その作品を一つも読まなかった。あれほど読み、買い集めた本を読まなくなった。

千代さんの家の前を通らないように学校を通い、勉強に集中した。私の志望していた大学は、今の学力では合格は難しいと言われた大学にした。夢中になれるものの代わりが欲しかったから。

もし合格したなら、実家から通うのが難しい所にもあった。一人暮らしにはお父さんもお母さんも反対したけど、学生寮での生活には反対されなかった。私は実家を出たくなかった。でも、千代さんの家と近いのは、それ以上に嫌だった。私も千代さんのようになってしまいそうだったから。
私は、あの人のようになりたくなかった。あの人のように過去や昔に縋るようになりたくなかった。
旦那さんが成美先輩への思いを解剖した時、好きではなく憧れだった。私は千代さんのような大人に憧れていた。でも、その憧れを一年かけて解剖した時に残ったのは、憧れとはほど遠い、嫌悪感だった。

大人がどういう人なのかは分からない。どうすれば大人になれるのかも分からない。高校を卒業した今でも、私は私が大人になっているとは思えなかった。高校に入学したばかりの頃に比べると確かに成長したけれど、それが大人になったと表現していいのかは分からなかった。

ただ、ああいう大人にはなりたくないという像を思い描けただけでも良かった。

その年の夏、本屋で千代さんの名前を見かけた。いくつもの夏が蘇る、思い出したくない思い出も一緒に蘇ってくる。

千代さんの昔話が綴られた本の内で、私は久しぶりに先生と出会った。そして、ようやく先生が死んだのだということを今更かのように思い知らされたのだった。〈了〉


 

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