郷愁

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「郷愁」

この話は生前祖父が酒の席で必ず聞かせてくれた話であり、認知症を患い郷里の介護施設に入所してからはそこの職員や利用者に繰り返し聞かせた話でもある。

大正十五年の頃のことで、その頃の祖父は徳島の鍛冶屋原駅の近郊に暮らしていて、秋には東京の一高へと進学することになっていた。

 

 

色濃く立ち上る入道雲を切り裂くように黒煙が流れ、猛々しく鳴き続ける蝉の声を掻き消すようにその轟音を響かせる。祖父が駅前に来た時には、列車はもう東へと走りだしていた。

息は切れ、玉のような汗が背中や額から流れ落ちていく。

疎らに駅舎から出てくる乗客はいずれも見知った顔の大人達ばかりで、祖父を見かけると声をかける。また犬伏駅の上り坂で止まったという声が上がれば、自転車の方がよっぽど速いという言葉が続き、それを聞き辺りには笑い声が生まれる。

次の列車は昨年までは一時間後だったのだが、利用客減少の煽りを受け、本数が減らされ、次の列車が到着するのは数時間後だった。列車が来るまで、家で図画や習字の勉強に励むことも考えたのだが、家に戻るとまた手伝いに駆り出されてしまい列車に乗り遅れてしまいそうだった。

大人達が駅舎から離れていくと、屋根の小さな影の中に一人の女が立っているのが目についた。瓜実顔に束髪に結った黒髪。藍で染めた紗の着物を着た女は、この夏に似合わない涼し気な目元をしている。この小さな村ではいずれも顔見知りなこともあり、祖父も女も互いのことを知っていた。

女は妙子といい、この村に鉄道を敷くために政治家に掛け合ったという噂もある商家の娘であった。列車は人を運ぶだけではなく、農作物や染め物なども運べるなどの言葉を用いて説得したらしい。
妙子の方も祖父に気づいたらしく、お辞儀した後、優しい声でこう訊く。

「どこまで?」

その顔はいつでも涼し気で、烈しい陽の光を浴び、顔一面に汗をかいている祖父は突然恥ずかしくなり、小さな声で答える。

「瀬戸内海を見に行くんだ」

祖父はそう言ったが、全然本音ではなかった。祖父はこれまで列車に乗ったこともなければ、村を出たこともない。村の外のことは大人達から教えてもらうことが多かった。それでも瀬戸内海は越えず、瀬戸内海を越えた世界の話には、村に病院を設立した医者の一人息子の新太郎からの書簡でしか触れられなかった。東京から届く書簡でしか……。

自転車よりも遅いと話される列車に乗るなど考えたこともなかった。それがこうして、乗ろうと思ったのは、祖父はこの秋には鍛冶屋原を去り、東京で暮らすことになっていた。 新太郎曰く、東京という街は鉄道が敷かれ、百貨店や大学が建っている明るく華やかな街らしい。洋装をまとった男女が街中を歩く姿を目撃することもあるとのことだ。

祖父は列車に乗ったことがないことで恥をかきたくなかった。新太郎にそのことを相談すると、ならばひとまず鍛冶屋原駅から列車に乗ってみてはどうか、と提案され、新太郎がそう言うならばと素直に受け入れた。

新太郎はこの地から一高に進学した最初の人であり、帝大に入学した後、今では東京の大学で教鞭を執っている教員である。鍛冶屋原に居た頃に、祖父に漢籍や英語やドイツ語を教えたことは一度や二度ではない。祖父は新太郎の背中を追いかけるように一高を目指し、同じように帝大への入学を考えている。

妙子に事の一切を打ち明けるのは気恥ずかしく、瀬戸内海を見に行くと嘘を言った。吉野川すら越えたことがないのに。祖父はそれ以上、踏み込まれるのを拒むようにこういう言葉を返す。

「妙子さんは、どこまで行くの?」

鍛冶屋原駅で降りた客の中に妙子の姿はなかった。ということは、妙子は祖父と同じように列車に間に合わなかったのだろう。しかし、妙子の白い首や額には汗一つ見えず急いだ様子一つ見えない。祖父よりずっと早くに着いていたのならば、さっきの列車には間に合っていたのではないか。

もしかすれば、誰か待っているのではないだろうか。しかし、この村に誰かが帰ってくるということは聞いたことがない。

祖父の心はざわつき、ぬるい汗が背中を伝う。

妙子は静かに、口を開けた。涼し気な目元にはいつしか躊躇いや僅かながらの後悔の色が見て取れる。しかしそれでも深く黒い瞳の奥には透き通るような信仰があった。

「人を、待っているの」

祖父の胸の中には当然、誰を待っているのかという問い掛けの言葉が生じていたが、その言葉が紡がれることはなかった。妙子が誰を待っているのかなどは、薄ぼんやりと祖父でも分かっていた。そういう浮いた噂を時々、耳にすることがあったから。

しかし、当の新太郎は鍛冶屋原に帰ってきていない。妙子が新太郎の元に嫁ぐということもない。その縁談が破談になったという噂も聞いていない。

祖父が口にしなかったその名前を、妙子も言葉にはせず、ただ同じ言葉を繰り返す。

「待って、いるの……」

「でも……新太郎さんは……」

祖父が堪らず呟くと、妙子は寂しく笑った。新太郎が帰ってこないことは、妙子の方がよく知っていることなど誰の目から見ても明らかだった。祖父との手紙のやり取りとは全然違う調子で、新太郎は自身のことや生活のことを妙子に書き綴っているのだろう。妙子はその一文一文を丁寧に思い出し、慈しむように祖父に語りかけた。

「新太郎さんは、お仕事でお忙しいみたい。自分のこれからのことよりも、この国を支えるために多くの学生に勉強を教えたいそうで。多くのことを学ぶため西欧へ訪れることもお考えのようです。お帰りになったその時は私も、この街を離れて、東京で暮らすことになっているの」

新太郎が西欧へ足を運ぼうとしていることは初耳であった。祖父に送られてくる手紙には東京の町並みのことや勉強の助言が多かった。西欧の話などは微塵も見当たらなかった。

「新太郎さんはいつ、西欧へ?」

「……お仕事が落ち着いたら、とだけ」

「自分は秋には東京へ行くから、新太郎さんと話すよ。こっちに戻ってくるように、言うよ」

祖父がそう言ったのは、精一杯の勇気であり、自分にしかできないことだったからだ。祖父が新太郎と会うこと自体は自然であり、妙子との関係について何か考えていると思われることはないだろう。つまり、自分が新太郎と会えば、新太郎の本音を聞き出せるという考えに至った。そうすれば、妙子と新太郎の関係も今よりも良くなるだろう。と、そう信じている。新太郎の帰りを妙子がそう信じているように。

けれども、妙子は目を伏せ、首を静かに振り、祖父の提案を拒んだ。祖父が衝動的に尋ねるよりも早く、その瞳に微かな涙の気配を漂わせ、答える。語れる言葉はどれも優しく、温かい。

「私達、約束したから。新太郎さんが帰ってくるって仰って、私はここで待っていますと答えた……だから、大丈夫よ。私は待つだけでいいの」

その言葉は新太郎のことを信じるいじらしい言葉であったが、祖父にとってしてみれば烈しい温度差を覚えるばかりの言葉で、まだ何か自分の知らないことがあるような気がした。

「どうして?」

祖父の素直な疑問に、妙子は薄く笑みを浮かべる。その表情の真意を確かめるように、じっと双眸で見つめる。自分は何も間違ったことは言ってないのに、その目を見ていると、何か間違ったことを言ってしまったような気がする。妙子は、新太郎の妻となることを快く思っていないとでもいうのだろうか。だから、祖父の申し出を受け入れたくないのかもしれない。あるいは、新太郎の方で何か不都合があるのかもしれない。

祖父の頭ではそれ以上の考えが浮かびそうになかった。どちらかが悪く、どちらかを正せば、事は良い方向に進むのではないだろうかと思った。

妙子が僅かに俯いた時、その視線に釣られるように祖父の視線も下がり、妙子の膝に揃えられた手が、微かに震えているのが見えた。その手を取ろうとした時、妙子の目は祖父の心を見透かすように、じっと祖父の目を見ていた。

「二つ、約束してほしいことがあるの」

祖父は目を逸らすことなく頷き、妙子の語る二つの約束に耳を傾ける。

「一つは、東京に行っても新太郎さんを探さないでほしいの。新太郎さんを探して、私のことを話さないでほしいの。そういうことはもう、したから。伝えられる限りの言葉で伝えた。でも、……新太郎さんは帰ってこない」

「新太郎さんに帰ってきてほしい?」

「酷いこと聞くのね。帰ってきてほしいわ。……でも」

「でも?」

「二つ目の約束は、私がこれから話すことを誰にも喋らないでほしいってこと」

「誰にも?」

「そう、誰にも。東京へ行って、新太郎さんともし会うことになっても、話さないでほしいの。分かった?」

「……分かった」

「新太郎さんは縁談を断る気でいるわ。でもそれはお仕事のためだとか東京に住んでいるからということじゃなくて、ただ、縁談というのが、お好きじゃないみたい。そういう旧弊なものがお好きじゃないの。そういう家に縛られたものではなく、個人の恋愛を、個人と個人の間で芽吹き、育まれる恋愛を、新太郎さんは大切に扱いたい……だから、この縁談……私とのことは、もう何も……」

新太郎のことを聞かされ、祖父は身体の芯が熱くなった。堪らず、熱を帯びた言葉を上げる。

「そんなの、新太郎さんは……そんな人じゃない。自分は知ってるんだよ。新太郎さんは、優しくて、頭が良いんだ……。新太郎さんは……」

涙と共に零れた言葉は、どれほど妙子に伝わったことだろうか。震える指で涙を拭われる。妙子の指は祖父の涙と変わらないほど熱かった。そうして、その涼し気な、夏の暑さに負けないような目元は大粒の涙に濡れていた。

「新太郎さんのことは誰も知らないから、私ときみだけの秘密だから。お父様は鉄道や家のことでお忙しいみたいで……。だから、いい? 黙っていられる?」

「妙子さんはそれで良いんですか?」

「……新太郎さんの言葉をお借りするんでしたら、そうね、私、新太郎さんのことを愛しているの。でも、でもね、私は家に縛られているの。女だし、新太郎さん達みたいに東京へ出られるほど頭が良いわけじゃないから……」

妙子が言い終えた時、東の方から大きな音が響いてくる。駅舎や線路の周りにいた鳥達は一斉に羽ばたき、方々へと飛び去る。

停車場に列車が辷り込んでくるのが見えた。

視線を戻すと、妙子は涙を拭っており手の震えも見えず、先ほどまでの姿は微塵も見いだせない。けれどもよく見ると、その涼し気な目元は赤かった。

「行ってらっしゃい」

寂しく微笑む妙子に、祖父はこういう言葉をかけた。

「自分は、また必ず、帰ってきます。一高を卒業してからでも。帝大を卒業してからでも。必ず。絶対に。……そうしたら」

「……そうしたら?」

「いえ、……何でもないです。忘れてください」

そうしたらという言葉の続きを、妙子に伝えようとすると頬が熱くなる。祖父は目を背け、それ以上のことは伝えられなかった。新太郎ほど、自分の気持ちに正直になることもできず、また自分の気持ちを伝えられるほど賢くもなかった。

列車は祖父を乗せ、東へと進む。犬伏駅の上り坂で止まることなく、東へと進み続ける。

 

 

祖父の話はそこで終わる。

鍛冶屋原駅から板野駅を繋ぐその鉄道は乗客の少なさから赤字が膨らみ、本数は減り続け、惜しまれつつも廃線となった。今ではその線路の周りを、バスが走っている。きっとそのバスも、誰かの思いを繋げているのだろう。〈了〉


 

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