夏恋

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「夏恋」

 

その人が、いつも駅前の喫茶店にいることに気付いたのは、もうすぐ夏休みを迎える頃だった。

暑い陽射しを避けるように、その人は、涼しい影の向こうで一人。テーブルには数冊の本。日に日に強くなる蝉の鳴き声なんて一つも聞こえないのだろう。僕達が通学をする姿になんて目もくれず、背を向けている。僕が足を止め、吸い込まれるように見ていても、その人の視線はずっと本に向いている。あの、と声をかけられない僕なんて、見ない。

海色のワンピースに、白い首元へ流れる黒髪は波のようだった。こんなに暑いのに、その人は永遠に冷たいように思えて、冬という季節がそのまま人の形となって抜け出してきたような。そんな馬鹿げたことを思った。あんまり見ていると、遅れてきた友達が茶化すように、どうしたのと訊いてきた。蝉の合唱で、友達のことに全然気づけなかった。

真ん丸い目を僕に向けたかと思えば、喫茶店を見て、サボるの、と尋ねられた。

友達にこれっぽちもそんな気はないのは分かっているのに、その人を見られたような気がして、僕は何も言わず、足早に学校に向かう。後ろから足早にローファーの小気味良い音が追いかけてくる。今サボると夏休みは、補習に課題にと大変になってしまう。そんなことを話して、僕達は喫茶店から遠い所へ行く。

電車に揺られ、あの人や喫茶店のことも離れると、自然と、あの人は社会人で、今日は休みで……みたいな当たり前の考えをして、あの人が僕にそうするように目もくれなくなる。僕自身がそうしているように。でも、あの喫茶店の前を通る度に、その姿を探してしまい、思い出す。

部活が終わり、駅前を通るとあの人の姿はない。窓際の席には誰もいなくて、喫茶店自体はまだやっているというのに、中に人の温もりがあるように感じられなく、ただ眩い陽の光だけが喫茶店の中まで伸びている。窓には、茹だる暑さに苦しむ僕の顔があるだけだった。

だから、僕は一度も、その人と話したこともなく、その喫茶店に入ったこともない。喫茶店に入る機会なら、今でも良かった。友達と一緒に。けれど、僕達は互いに、六〇〇円のアイスコーヒーを買うより、コンビニにある一〇〇円のアイスコーヒーで十分だった。もし、友達が、入ってみようよ、と言うならば、僕は断ることなく、きっと喜んで、いいよ、なんて言っただろう。たとえ、その人がいなくても。その人がいる時に、友達がそんなことを言ったら、僕はなんて答えるのだろう。全然想像できなかった。でもきっと、僕は行かない。

第一、友達もそんな寄り道をするような子じゃないし、行かないだろう。僕達はそんなことをする二人ではなく、学校と部活と時々のコンビニのバイトが、一日の全てだった。寄り道なんてすることなく、そんな日々を繰り返している。

夏休みを迎えると、一日の内に学校はなくなり、部活とバイトだけになる。それでも僕は、不思議といつもと変わらない時間に起きられて、まるで学校があるように準備をする。

その人は、やっぱり、そこに居た。その姿を認めると、安心して、どうしてか嬉しくなった。でも、どうしていか不安にもなった。毎朝あそこにいて、何をしているんだろう、と。きっと僕には分からないことを考えているんだろうか。僕達には夏休みがある。けど、あの人はどうなのだろうか。大人には大人の事情があるというバイト先の先輩の言葉を思い出す。でも、そんな事情、あの人には関係ないように思えた。

部活の休憩中に、友達から、今起きた、なんてメッセージが届く。笑って、練習どうするの、と送ると、バイトまで家、という返事が来た。続けて、明日は起きたら行く、と書かれていた。起きたら連絡よろしく、と返事を送る頃には、休憩は終わって、バイトまで練習を続けた。 バイト先に来た友達は、朝から練習なんて無理だよ、と零していた。別に今年から始まったことではなく、去年もそうだったし、毎日朝から練習があるわけじゃない。昼からの日もある。夏休みまで頑張る必要ないのに、と言っていたのは去年のこの子で、今も同じことを言う。

僕を、どうしてそんなに頑張るの、と疑うように見る。僕も去年は、この子と同じように時々、朝からの練習に間に合わなかった。

夏休みまでそんなに頑張らなくても、と思った覚えがある。それが今年は、ちゃんと行っている。顧問の先生や先輩から、驚かれた。何かあった、と訊かれても、特には、と答えるしかなかった。

僕は、学校の子に、あの人のことやあの喫茶店のことを知られたくなかった。駅前で、ぽつんと営まれている喫茶店のことや、その内の窓際の席で、本を読む女の人のことなどは特に。僕だけは知っていることで、特別なことだった。きっと、喫茶店の人やあの人からしたら、何も特別なことじゃないような気もするけれど。

次の朝も、その次の朝もその人はいた。友達から連絡は来たり、来なかったりして、夏休みの半分が過ぎて、僕達の部活では毎年同じようにお盆休みの夏祭りの話題が持ち出されるようになった。

駅前は少しずつ夏祭りの提灯やチラシやポスターが見えるようになり、その喫茶店の窓にも貼られるようになった。でも、その人はそんな言葉に踊らされることなく、静かに、今日も本を読んでいる。
そのまま電車に乗って、朝練に行ってもよかった。けど、僕は、友達や去年の僕自身の言葉を思い出して、段々と朝練や部活のことが、頭から流れ落ちていった。汗が額から顎を伝い、地面に落ちるように。

朝練に行っても良かった。でも、それは、テストほど僕達を拘束する力が強いものじゃなかった。僕の足は自然と、まるでそうするのが当然であるかのように、喫茶店に向かっていた。

ちりん、とドアの上部に付けられたベルが鳴る。店内は小さく、狭かった。

ドアの正面には数人が座れるカウンターがあり、左右にテーブル席がある。いつもの所に座るその人は、いつも通りに海色のワンピースを着ていて、白い肌に波のように黒髪が漂っていて、唯一違ったところがあるとすれば、大きな黒い目が、僕を見ていたところだった。

テーブルには数冊の本と、水の入ったグラスと円筒の大きなグラスがある。グラスにはバニラのアイスクリームにスプーンが挿してあり、さくらんぼが緑の湖の中で浮いている。

外の光を受け、グラスは少し汗をかいていた。

その人も外の光を背中で受けているのにもかかわらず、汗一つ見えない。

「マスターはちょっと買い出しに行ってるよ。アイス、なくなったんだって」

ドアの前で立っている僕に、その人は澄んだ声で教えてくれた。

「こっち来たら?」

正面の椅子を引いたその人に案内されるように、僕はそこに座った。

お店の人が居ないなら、後で来たらいい。

それに、部活もある。後で来ます、と言えばよかった。それなのに僕は、その人の前に座ってしまった。

僕達の間に会話らしい会話は一つもなかった。その人は本を片手に、のんびり読んでいる。僕を目の前に座らせたのに、何も気にしていないようだった。時々、クリームソーダのアイスをすくう時だけは、僕のことを思い出して、その黒々とした深い目を向ける。僕はそのタイミングになると、何か話されば、と思い出すのだけれど、頭は真っ白になって、息をのむだけで何も話せなかった。

何をしているんですか。

そんな一言が、出ない。

お店の人が帰ってきてしまえば、僕達はきっと離れ離れになる。そして、いつもと変わらない日々を迎えるだろう。でも、それはきっと、この喫茶店に足を運んだ時と何も変わっていない気がする。

その人が何者なのか、何をしているのか、何も知れないのだから。そして、僕はどうして、この人のことを日に一度必ず思い出し、その姿が見えなかったことを心苦しく思うんだろうか。

「あの」

「ん?」

声をかけると、その人は読みかけの本をテーブルの端に置いた。

「いつも、いませんか?」

「いつも?」

その人は、訝しむように僕の目を覗き込む。

どうして、いつも、という言葉が僕から出てきたのか探るようだった。その人の視線は、ゆっくりと僕の頭上から爪先まで移った。

「学校に行く前に……見かけるんです」

その人の視線に堪えられなくなって顔が熱くなったのと、その人の頬に楽しげな笑みが浮かんだのは、同じような気がした。

その人は多くは語らないけれど、その頬に浮かぶ笑みで、どうやら僕のことは、筒抜けみたいだ。

「知ってたんですか?」

確かめるように訊いても、その人は僕を試すように笑うだけだった。

「なにが?」

「……いいです」

「むくれなくてもいいんじゃない?」

「怒ってません」

「本当?」

「ほんとです」

「それでさ、きみはどうして?」

「どうして?」

その人の質問の意味が分からなくて訊き返すと、その人は思いの外真面目な顔をしていて、僕のまた心が騒がしくなる。

どうしてと訊かれ、一体何がどうしてなのか分からなかった。けれども、初めて、その人から歩み寄られたような気がして、嬉しかった。また、恥ずかしくもなった。

正直に答えればいいはずなのに、僕は言葉を失ったように黙っていた。心のどこかで、正直に答えてはいけないような気がした。きっとそれは、僕の思い過ごしで、その人は全くそんなことを思っていないと、ただ純粋に、どうして気になっているのか知りたいだけ。そう頭では分かっているのに、心はいつまでも言葉を選んでいる。決まっている言葉があるはずなのに、その言葉を選んでしまえばいけない予感があった。

僕がその人を知らないからなのか、その人が僕も知らないからなのか、僕もその人も互いに全然知らない。だから、言ってはいけないような気がした。

気になったから、そう伝えるのが、どうしてだか伝えられない。もし僕が、この人と知り合いで、友達なら、僕は素直に言えたのに。

僕が答えられないでいると、その人はゆっくりと言葉を並べて教えてくれる。僕の胸の中にある言葉を探り当てるように。

「きみは学校に行く前に、私をいつも見かけていた。今日もだね。普段なら、普通に学校に行くはずなのに、今はこうして私と向き合い、話している。そういう、どうして、だよ」

「……分かりません」

「わからない?」

「どうしてなのか、僕にも分かりません。でも、でも……?」

「私に訊かれてもなぁ」

僕の言葉が嘘なのかは、僕自身にも分からなかった。耳まで熱い。

その人の顔に漂う苦笑いは、日を受ける水面のように輝いていて、冬みたいな冷たさを覚えたのに、強く夏を感じさせた。夏らしいところなんて、何もないのに。熱くなった僕の身体のせいだろう。

その人は、僕の目をじっと見ていた。僕の目から、僕の心の内までを透かして見るように。心の内まで見られてしまうのは嫌だ。全てを見られて、全てを知られるのは嫌だ。ずるい。

気になったら、そう伝えられず、その人だけが知ってしまうのは嫌だ。どうして嫌と思うのか分からない。知られたくないという思いと知ってほしいという両方が、僕の胸にある。

「どうして、いつもいるんですか。朝だけ。何もかもに背中を向けて、一人涼しげに静かに。どうして、夕方には、いないんですか」

その人の目が大きく見開かれて、それから沈黙が満ちた。その人は、ストローでメロンソーダを飲んで、まるで沈黙なんて気にしないようだったけど、その仕草がとても沈黙を気にしているように思えた。

それから、その人はこう答えてくれた。その頬は、僕が見たことがないほど真っ赤で、柔らかい微笑みを浮かべていた。

「人をね、待っているの。この夏の間だけ」

その人は細い指で自身の、左手をなでた。そこにあるはずの何かを慈しむように。確かめる僕の言葉は、僕自身が知らないうちに刺々しいものに変わっていた。まるで、その人が隠していたことを責めるように。

「人を?」

「そう、人」

「まだ、待っているんですか?」

「そうだよ。明日も明後日も明々後日も、待ってるんだ」

「そんなに待って、どうするんですか?」

「好きですって言われるの。結婚してくださいって言われるの。……そう約束したから」

「いつですか?」

「あの人が帰ってくる日まで、待ってるの」

そう語る言葉はどれも優しく、かつての思い出にひたっているようで、とても幸せそうだった。

僕の心はどうしてか烈しく掻き乱されて、何も言えなかった。どうして会いに行ってくれないのだろうか。会いに行ってくれれば、僕はこんなに苦しまずに済んだのに。

「会いに行けばいいじゃないですか。こんな所で待たなくても、すぐに。だったら、僕は……僕は、あなたなんか気にならなかったのに!」

理不尽な怒りだった。顔から火が出るほどの。その人は驚くことなく、僕がそんなことを言うのを知っていたように。

伏し目がちに語られた言葉は、重く、僕なんて全然関係ないところで全ては始まっていて、終わるようだった。

「ごめんね。でも、私からは会えないから。あの人は一方的に来て、一方的に帰るだけ。探しに行くんだけどね。会えないんだ。だから、ここで待ってるの」

その言葉の全ての意味を訊けなかったけれど、きっとそれは、そういうことで、僕は全てを確かめるように、こう訊いた。

「お盆が終わったら、どうするんですか?」

「どうするんだろうね」

悲しそうに笑って、それから、お彼岸までまた待つかもしれないね、と小さな声で付け足した。

喫茶店は静かになった。僕は、その人にどういう言葉をかけていいか分からず、かといって何も知らないまま去ることはできなくて、ただこの心に残っている感情をどうにかしたかった。

助けを求めるように、その人を見上げても、その人はもう僕なんか眼中になくて、静かに本を読んでいる。この時になって、僕はようやくその本が一ページも捲られていないことに気付いて、同じ文章を追いかけるその人の瞳に目が釘付けになった。

その瞳はずっと潤んでいて、涙が零れるのを堪えているようだった。それまで騒がしく、掻き乱されていた僕の心はゆっくりと落ち着いたように思えて、まだしっかりと尾を引いていて、ぶっきらぼうにこう訊いた。

「……暇じゃないんですか?」

「暇だよ。ずっと暇。でも、楽しくないの。何をしても」

「また、来てもいいですか?」

「きみは、それでいいの? 報われないよ」

「良くないと思います。でも、もう遅いですから。もっと前に教えてほしかったです」

「もっと早く声をかけたらよかったんだよ?」

「そんなことできませんよ」

「優しいね、きみは」

それからお店の人がようやく帰ってきて、初めてそのお店のアイスコーヒーを飲んだ。苦かった。ガムシロップやミルクを入れても、苦くて、その人もお店の人も、微笑ましいものを見るように笑っていた。

僕にとって、その苦味は初恋の味だった。〈了〉


 

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