タンデム

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「タンデム」

二学期最初の登校日に、友達の姉がバイクで事故をしたと聞いた。学校が終わって、まだ夏が厳しい病院までの道のりを自転車で駆ける。前のカゴに積んだ花と花瓶が、ガタガタと揺れる。

病室に駆け込むと、凛子さんは、僕の想像したよりずっと元気そうだった。一人部屋でがらんとしているけど、重苦しい空気なんて微塵も感じさない。凛子さん本人の雰囲気もあるかもしれないけど、大きな枕とかベッドに転がってる幾つかのクッションや大きなサメのクッションが一役かっている。

突然の僕の来訪を、慌てることなく、ひらひらと手を振って迎えてくれる。

「おう、安〜。どした?」

拍子抜けだ。

酒と煙草で焼けた声は普段と変わらない僕を茶化すものだったけど、愛嬌のある色白な顔は、僕の見舞いが意外だったらしく驚きに満ちていた。長い茶色の髪は会った頃と比べて所々、黒い。

「え、あっ、静江さんから聞いて。……元気そうですね」

僕の素直な感想が気に食わなかったのか、凛子さんは短い眉をぐっと眉間に寄せる。元来の目付きの悪い小柄な瞳と相まって中々に怖い。

包帯がぐるぐるに巻かれて真っ白になっている片足を指差す。

「どこが元気そうにみえんだよ」

「それだけ喋れたら元気だと思いますよ」

「はぁ? なんだお前、やんのか。やるか?」

病院衣を腕まくりして臨戦態勢に入ろうとするけど、この人自分の足が折れてるの覚えてないのかな。

最後に会った時に比べて、その腕も細くなったように見える。

「やりませんよ。花、置いときます」

花瓶に花を挿して、ベッド側の枕頭台に置く。凛子さんは落ち着いた色合いの花を見下ろして、つまらさそうに言う。

「花なんて食えねーもの持ってきて、どうすんだよ」

「お見舞いの定番じゃないですか。他に何が良かったんですか?」

「煙草、酒」

「買えませんよ……」

「堂々としてたら確認なんてされねーよ」

「そういう話じゃないんですよ」

「こちとら禁煙禁酒の異常生活でストレスえぐいんだわ」

そう言って、サメの頭をぽんぽんと叩く。ストレス解消にでも、と誰かから貰ったんだろうか。

枕頭台の引き出しとか引き戸に煙草やお酒を隠し持っていると思っていたのだけど、どうやらそんなことはないらしい。

隠れてどこかで吸ったり、僕以外の誰かの見舞い品にお酒を忍び込ませたりしていると思っていたけど、どうやらそこまで悪いことはしてないようだ。

そんな健康的な生活を凛子さんが受け入れているとは思ってなくてびっくりした。

「え、守ってるんですか?」

僕の反応に凛子さんも思うところがあるらしく、しおらしく言う。

「……まぁ」

「え、あの凛子さんが、そんなこと律儀に守ってるんですか?」

「いやぁ、まぁ、あんなに怒られるって思ってなくて……」

視線を逸らして答える凛子さんの顔色は少し青くなった。

まさか本当に律儀に守っているとは思ってなかったけど、灸を据えられ後のようだ。

「あ、やったんですね」

「食後にな、やっぱり欲しくなるわけよ」

「それ入院期間伸びませんか?」

「それとこれとは別だっつーの。これ、結構派手にやってんだわ」

「派手にって……」

「ガードレールに吸い込まれて、飛んだぜ〜」

「曲がりきれなかったってことですか?」

「いや、カーブの手前で段差があって引っかかってな。操縦不能になったわけよ。いやぁ、びっくり」

聞いただけで苦い顔をする僕に、凛子さんは当事者なのに明るく笑う。

「足だけで済んで良かったらしい。そりゃ、そうだわ。飛んでだもんな。すげー折れ方で、なんて言ってたかなぁ、まぁすげーんだわ」

「バイクは大丈夫なんですか?」

「あー、わりぃ……」

明るかった凛子さんの表情が少し曇った。

僕は来月には十八になる。大型バイクの免許を取り終えれば、凛子さんのバイクを譲ってもらう予定だった。

校則でバイクの免許は取ってはいけないけど、不便だったので内緒で取った。

原付の免許を取ってから中型の免許も取った。自転車のままでも良かったんだけど、家の買い物を手伝ったり、どこかに軽く出かけたりキャンプの時に便利で快適だった。

バレないように運転していたはずなんだけど、去年の夏休みに、凛子さんの耳に入った。どうやら、同じクラスの妹さんから教えてもらったようだ。

僕の通う高校は凛子さんの母校のようで、校則を破った僕を凛子さんは歓迎してくれた。滅茶苦茶歓迎してくれた。原付だけじゃなくて、中型の免許も取っているあたり良いらしい。何が良いのかは分からないけれど。

そこから一緒にバイクで出掛けることがあった。

けど、凛子さんは僕の安全運転に合わせるようなことは一度もしてくれない。目的地だけ伝えて、一人でバイクを走らせる。

先に行く凛子さんに追いつくのも楽しかった。一人でバイクを走らせ、キャンプをするのも楽しかったけど、それはまた違う楽しさがあった。

学校までの道でバイクを停めていい所だったり、許される所だったりを教えてくれた。僕は一度も使ったことないけど。

凛子さん曰く、バイク登校は結局駅前の駐輪場に停めるのが一番手っ取り早いらしい。登校時間を一限以降にずらしたりするのもありらしい。ただその直後に、バレると呼び出されて怒られると続けたあたり、何も参考にならない。

「別にちょっと傷とかあったり修理して乗れたらいいですよ僕は」

凛子さんの反応は、今まで見たことがないほど厳しかった。

「よくねーよ。安まで事故ったら、どうすんだよ」

「凛子さんみたいな無茶な運転はしませんよ」

笑って言い返すと、呆れた声で言われる。

「お前、案外バカだろ?」

「え、喧嘩ですか? 僕今なら勝てますよ」

「は? やるか? こちとら呼べば飛んでくる援軍持ちだぞ?」

「看護師さんをそんなことに使わないでくださいよ」

「勝てばいいんだよ勝てば」

「悪役の台詞ですよそれ」

「あたしが正義の味方になれると思ってんのかよ」

「悪者は自分の愛用しているバイクを譲りませんよ」

「え、つか、……お前、静江に事故のこと聞いたって言った?」

露骨な話題展開に、今度は僕が呆れる番だった。

静江さんというのは凛子さんの妹さんで、僕と同級生だ。凛子さんとは全然正反対で、誰かを馬鹿にすることはないし、煽らないし、争い事とは無縁な女の子だ。

「そうですけど? どうしたんですか急に」

「あ? いや、ほら、静江があたしのこと話すなんてレアだしぃ?」

「え、結構話しますよ?」

「マジで?」

今日一番大きい声が病室に響いた。驚く僕に少し謝って、顎に手を添えて、いかにも考えてますってポーズをする。

静江さんと凛子さんが普段どんな会話をしているのか知らないけど、静江さんは何だかんで凛子さんの話をする。というか、凛子さんの心配をする。後、僕のことも心配してくれる。凛子さんに良いように使われていないのかとかそういうことを。

熟考を終えた凛子さんは、一つの結論に辿り着きぽつりと呟いた。

「……もしかして、静江に嫌われてる?」

「いや嫌ってたら話題にしないでしょ」

すぐに否定すると肩を組まれて、乱暴に頭をなでられた。安心したように僕の名前を呼ぶ。

「安〜」

褒められているらしい。

長い髪が鼻先に触れてこそばゆいし、甘い香りにドキっとする。

「やめてくださいよ……」

来月には十八になるのに、子供扱いされてるようで、あんまり良い気はしない。一人旅だってするしキャンプだってするしバイトもしてる。凛子さんの年齢には追いつけないけど、いつまでも子供じゃない。

こんなこと言うと、そういうところが子供なんだよ、と笑われそうだから言わないけど。

僕を褒めるのに満足した凛子さんから解放されて、バイトの時間が近くなっていることに気づいた。普段はバイクで行くんだけど、今日は自転車だから急がないと間に合わない。

次の日も凛子さんのお見舞いに行った。花は好みに合わなかったので、スーパーで好みに合いそうな物を買った。スーパーの袋を見た凛子さんは昨日と比べて機嫌が良い。

と思ったら、花瓶の水を替える僕の背中に、凛子さんはとんでもない言葉を浴びせる。

「安、お前もしかして暇人か?」

「受験にバイトに勉強に……暇だと思います?」

「だったらなんで今日も来てんだよ」

「お見舞いですよ」

「聞きたいのはそこじゃねーんだわ」

花瓶を元の位置に戻してスーパーの袋から、リンゴを取り出す。

「食べます?」

凛子さんのため息が、病室に零れた。

「リンゴかよ」

「嫌いですか?」

「嫌いじゃねーけど……」

慣れた手付きでリンゴを適当な大きさにカットして、うさぎの形を作る。耳の立ったうさぎと僕を見比べて、凛子さんは意外そうに言う。

「器用じゃん」

「キャンプしてると色々作りたくなるんですよ」

「キャンプ飯ってやつ? 今年はどこ行ったのか?」

「受験終わったら、すると思いますよ。凛子さんもします?」

「行かねーよ」

うんざりしたように答える凛子さんに苦笑を返す。

こうやってキャンプの話題をする度に凛子さんを誘ってみるけど、一度も一緒に行ったことがない。僕はバイクでどこかに行くのか好きだけど、凛子さんはバイクで走ることが好きなようだ。

うさぎを頭からかじって、凛子さんはこう言った。

「あたし、枕変わると寝られねーの」

僕はフォークを落としそうになった。何、その理由。え、ということは……。

「それ、マイ枕ですか?」

「おう。しかも、特注だぜ。このクッションもウチから持ってきたんだ〜」

そう言って、凛子さんはいじらしくクッションを抱きしめる。大きなサメのクッションは、凛子さんの無事な方の足置きになっていて、布団から顔だけ出している。

お酒と煙草が好きで大型バイクにも乗る人の発言とは思えない。思えば、凛子さんの外での様子は知ってるけど、他の様子は何も知らなかった。

凛子さんの家に入ったこともないから当然だけど、僕達はバイクという共通の趣味があったし、外で会う方が良かった。

クッションの向こうから、凛子さんが睨んでくる。普段なら慄くけど、今は全然怖くなかった。

「安、お前今、意外って思ってるだろ」

「いや思ってませんけど?」

「目、泳いでんぞ」

「まぁ正直に言うと、無茶苦茶意外に思ってます」

「正直に答えやがって……いいけどよ」

「お酒飲んでソファで寝るとかしないんですか?」

「はぁ? するわけねーだろ。いつでもベッドにダイブだよ。最高なんだよこれが」

そんなことを話していると、バイトの時間が近くなっていた。帰り支度をする僕に、凛子さんはそれまでの愛らしい朗らかな雰囲気とは違う、真面目な調子で僕の背中を押す。

「受験頑張れよ」

夏休みの頃から周りに言われまくっていることで、凛子さんからも言われると思ってなかった。

「言われなくても頑張りますよ」

「バイトもバイクもいいけどよ」

そう呟いた凛子さんの目は、昔を懐かしんでいるのか少し後悔の色を帯びていた。バイクに乗っている時には見せない色だった。入院中は色々と考えることがあるらしい。

凛子さんは高校を卒業してからずっと働いている。本人曰く、大学に行けるほど賢くなかったらしい。十八とか二十歳になって、勉強を続けるのも性に合わないとかも言っていた。

「一回しかない高校生活、後悔しなくねーだろ?」

「だから受験頑張れってことですか?」

「あー、わりぃ、頑張れっつーわけじゃねーんだわ。勉強してバイトもしてもう頑張ってるだろ。なんつーかな、全部頑張る必要ねーんだわ」

普段の凛子さんからは考えられない発言だった。

「無茶して無理して、棒に振りたくねーだろ。まぁでも、嫌いじゃねーけどな、そういう奴」

そう言った凛子さんは、その後すぐに僕の滞在を拒むように時間を口にした。

「僕は全部頑張りますから」

「わがままな奴だな、好きだぜそういう奴」

笑った凛子さんから逃げるように病室を出た。足早に廊下を歩き、病院を出る。頬が、かっと熱くなる。

入院してからの凛子さんは、ずるい。今まで大きなバイクを乗り回す愉快な人だと思っていたのに、全然知らない側面を、不意に見せてくる。

高鳴る胸は全然落ち着かない。まるで僕を試しているかのようだ。

入院している間に色々と考えることがあるらしい。何をどこまで考えているのかは全然分からないけど、僕を心配しているのか分かる。凛子さんは妹さんと自分は似ていないって言っていたけど、他人を心配するところはよく似ていると思う。ただ妹さんのように上手くできないだけだった。凛子さんの言葉を借りるのならば、賢くないってやつなのだろうか。

それから度々、合間を見つけては凛子さんのお見舞いに訪れたけど、凛子さんが病室にいない日が増えた。

リハビリをしていたり、車椅子で出掛けるようになっていた。ベッド上で過ごしている間に落ちた体力を取り戻そうとしているようだった。ベッド上で、しんど……ってボヤく凛子さんを見るのは一度や二度じゃなかった。

この頃になると凛子さんの髪は全て黒くなっていて、線の細い色白な雰囲気も合わさり黙って遠めで見れば、大人しそうな女性に見えた。近づくと、目つきの悪さとがっつり削って短くなっている眉毛で全てを台無しにしてくれる。

僕が大型バイクの免許に受かると、凛子さんはまるで自分のことのように喜んでくれた。

お見舞いに来るまでの間にバイク屋に顔を出したけれど、中古の大型バイクは僕が思っているよりも遥かに高かった。バイト代を工面してどうにか、となるような金額ではなかった。一年しっかりバイトを続けて貯めて、ようやく届くかもしれない。そんな金額だった。

大型バイクを買うためにキャンプをしないのは悩ましい。今は受験で親からもキャンプはちょっと……と言われる状態だ。受験が終わればキャンプに行く気だったし、候補は幾つか考えていた。それができないのは、困る。

中古でそんな値段なのだから新車となるともっとかかるのだろう。凛子さんは退院したら新しい大型バイクを買うつもりなのだろうか。

凛子さんに尋ねると、少し悩んでこう教えてくれた。

「あー、んー、悩んでんだよなぁ……。車にすっかもなぁ……。あー、でもそうすると出費がなぁ……」

事故をする前から僕にバイクを譲る気だったし、そういうふうに考えていても全然不思議じゃなかった。

けど、凛子さんが車を持ってしまえば、僕との接点を失ってしまいそうで、そんな気はないと分かっていたのに続け様に尋ねるしかなかった。

「バイク、乗らなくなるんですか?」

「んなわけねーだろ」

僕の不安を振り払うかのように、凛子さんは笑って当然のように答えてくれた。

けどその言葉は、僕を励ますような嘘な気がしてならなかった。

時々凛子さんのお見舞いに行っていたけれど、夏がようやく終わって、秋が迫ってくるといよいよ受験勉強に集中せざるを得なくなった。

冬になって、凛子さんはようやく退院した。でも万全というにはまだ遠いらしい。通院が必要だと言っていた。

退院した凛子さんは通院にバイクを使おうとしなかった。電車とかバスとかで移動するようになっていた。通院終わるまでは乗るな、と言われたらしい。

でも、凛子さんがそういう命令に従わない人なのは分かっている。

もっと別の理由があって、乗らないようにしている。

乗らないようにしているのではなく、凛子さんはバイクに乗れなくなっているのだと思う。

凛子さんも言っていたけれど、今回の事故で片足の骨折だけで済んでいるのは奇跡だ。

通院を続ける凛子さんは、きっと一度や二度はバイクに乗ることを考えただろう。実際、僕にもバイクを貸してほしいという連絡が来た。バイトの時間だったので返事を送れなかったけど。

バイクに乗ってみるけど事故のことを考えてしまい、上手く乗れない。ならば、高いお金を支払って大型のバイクを買うよりも、車を持ってしまった方が良い。そんなことを考えているのかもしれない。

そうやってバイクから離れてしまうのは、少し嫌だ。苦々しい思い出を抱えて、車に乗り換える。きっと凛子さんも、そうやってバイクと距離を置くのは嫌なはずだ。

受験が終わって、僕は意を決して、凛子さんにバイクで出かけませんか、と声をかけた。

僕の乗っているバイクはキャンプで荷物を乗せることもあり、僕以外にもう一人乗せられるようにシートなどを追加している。そこに凛子さんを乗ってもらおうというわけだ。

バイクの後ろに人を乗せるのは凛子さんが初めてではないし、凛子さんも初めてでない。

凛子さんも当然そのことを知っていたけれど、普段のような明るい調子ではなかった。歯切れの悪い、僕の誘いにどう答えればいいのか悩んでいて、結局渋々といった様子で、まぁかまわねーけど、と答えてくれた。

目的地の話になったけど、どこかは決めてなかった。ただバイクに乗りたかっただけだから。そう返事をすると、凛子さんは笑って同意してくれた。

出掛ける日は天気予報通り、晴れ渡っていた。僕の受験結果は無事に合格で終わり、ようやく心は軽くなった。けど今は別の重みが心にある。緊張と興奮を最中にいる。

当日の凛子さんは珍しく遅刻してきた。バイクの前で待っていると、病室で見た時と全然違った凛子さんが僕の方に来た。

ライダースのジャケットにパンツスタイル。それに無骨なブーツはいつもと変わらない恰好だったけど、眉毛はちゃんとあるし、睫毛も長いし、目も大きく見える。目付きの悪さもぐっと和らいでいる。

白い頬を彩るチークや口紅も普段の凛子さんからは考えられない柔らかな色合いだった。

ヘルメット被るし見られない、と言っていた人とは思えない。

長かった黒髪は首にかかるぐらいに短くなっていて、毛先は少し巻いてあり、茶色い。日を受けると茶色の髪が赤みががって見える。

見惚れる僕に、凛子さんは照れたように言う。

「んだよ、おかしいかよ?」

「え、いや、きれいです……」

正直に答えると凛子さんは、はぐらかすかのように教えてくれた。

「元々、切る予定だったし色も入れる予定だったんだわ。それだけの予定だったんだだけどなぁ……。んで、この後に出掛ける予定あるって言ったら、まぁ色々訊かれて、セットもメイクも気合い入れられてよ。バイクで出掛けるのに、これだぜ? どうせほとんど見えねーの」

「見れて良かったです」

「どいつこもいつも……」

大きなため息をつく凛子さんにヘルメットを渡す。

「で、結局、どうすんだ?」

「どう?」

「行き先だよ行き先」

「決めてませんよ」

「マジだったんかよ……」

僕のバイクは凛子さんのバイクと違って高速は走れない。下道の選択しかないのだけれど、バイクで二人乗りで下道となった時の選択肢は山のようにある。普段だったら目的地を決めるのだけれど、今日はそういう気分でも目的でもなかった。

「マジですよ。でも、そういうのも嫌いじゃないでしょ?」

「あー、まぁ嫌いじゃねーけどよ……。頼むぜ?」

「任せてください。しっかり掴まってくださいね。何かあったら肩、叩いてください。止まりますから」

そう言って、走り出す。

キャンプの荷物を乗せている時とは全然違う重さだった。

他の人を乗せている時とは違った重みが、後ろに存在している。普段よりもずっと安全を考慮して、走る。スピードも出し過ぎないように。

少しずつ慣れ親しんだ景色は遠のき、見慣れない景色も線のように現れては消えていく。消えたかと思えば、また別の景色が現れる。波のようだった。

凛子さんは入院期間中に本人が言っていたけれど、車の免許は取っていて、それでもバイクに乗り続けている人だ。

買い物でレンタカーを使うようなことはあるらしいけど、その都度、やっぱ違うよなぁ……って思うらしい。

慣れ親しんだ景色が流れていき、自然と一体になって風のようになれる瞬間を、凛子さんは好んでいる。

だから、凛子さんはバイクを走らせるだけで良かった。

今なら僕もその気持ちが少しだけ分かる。

どこかに停めてしまえば、僕達はもう帰路に着くだろう。走り続けられるのならば、どこまでも走っていたかった。

今この瞬間だけは、僕が、凛子さんよりも前にいる。彼女の一生を預かり、前へ前へと導いている。
自然と一体になれるよりも遥かな昂揚感が、僕の胸にあった。受験に合格したとか初めてキャンプをした時とは全然違う喜びや充足感が、胸に広がる。

けど、その時は不意にやってきた。

肩を数度叩かれ、近くのコンビニにバイクを停める。

スマホで所在地を確認すると全然走ってなかった。煙草でも吸いたくなったのだろうか。

ヘルメットを外して、後ろに尋ねる。凛子さんはバイクから降りているけど、ヘルメットは外してなかった。どうやら煙草じゃないらしい。

「何かありました?」

「……楽しそうだな、羨ましーわ」

いつかのお見舞いの時に聞いた真面目な声だった。

僕は凛子さんの口からその続きを聞くのが怖くなって、自分から訊いた。誘ったのは僕だから、僕の方から訊かないといけないような気がした。

病院だったら、凛子さんから聞くことはできたかもしれない。

でも、もう凛子さんは病院にいるような人じゃないし、そういう部分を人に見せるような人じゃなかった。そういう部分を外で見せることを嫌がる人だ。

「やっぱり怖いですか?」

「……あ? 何言ってんだよ」

低い声で吐き捨てるように言う。ヘルメットの奥の瞳はきっと睨みつけていることだろう。

「そんな気がして」

「なんで?」

「もうバイクに乗らないような気がして」

「安、お前なに言ってんだよ。そんなわけねーだろ」

「凛子さんは、楽しくないですか?」

結局、そう訊くしかなかった。

僕はまだバイクで事故を起こしたことはないし、凛子さんの気持ちは分からない。凛子さんからしてみれば、ずっと永遠に分かってほしくない気持ちだろう。

「ずりーな……」

凛子さんは感傷的に呟いて、僕にヘルメットを預けると背を向けて、喫煙所へ歩く。
凛子さんの背中を向こうから、細い煙が揺蕩っていた。

僕は凛子さんの側に駆け寄ることはできず、どういう言葉をかけるべきか迷っていた。
僕もそんなこと訊きたくなかった。

そう訊くのがどれほど卑怯で、ずるいことなのか分かっていた。でも、そう訊くことでしか前へ進むしかできないこともある。凛子さんが認めたくない現実が横たわっていることを認めさせ、前へ進ませるしかない。

もし凛子さんが楽しくないと答えても、僕はそれで良かった。むしろ、そう言ってくれる方が嬉しいとすら思う。凛子さんの頭を過ぎる事故の記憶は凛子さん自身にしか分からないだろうし、強がるにも限界がある。

「じゃ、こうしませんか。僕も正直に言います」

「安が何を言うんだよ」

こんな時に言うようなことじゃないと思うけど、この場を逃せば言えないようなことだった。

「凛子さんに言いたいことがあるんですよ、僕」

「言えよ」

「凛子さんが答えてくれたら言います」

凛子さんは声を上げて笑った後、乱暴な手付きで煙草を灰皿に押し付けて、すぐに二本目の煙草を吸ったようでまた細い煙が立ち上っている。

二本目の煙草を吸い終わると、凛子さんは俯きがちに戻ってきた。

「……楽しいけどよ」

凛子さんは一度、言葉を切った。それから、僕に預けたヘルメを被る。ヘルメットの中で凛子さんがどういう表情をしているのかは分からない。

か細い声が返ってきた。その声が震えていたのは、僕の聞き間違えじゃないだろう。

「自分で走ってるわけじゃねーのに、こえーんだよ」

すぐに僕を急かす。

「お前の番だぜ、言えよ」

僕は張り裂けそうな心臓を落ち着かせようと呼吸を整えて、告白する。

「凛子さんのことが好きです」

「……は?」

凛子さんがヘルメットを外し、僕の言葉が本当か確かめるようにじっと見てくる。凛子さんの目の周りは黒くなっていて、その目には見たことのない動揺が浮かんでいる。

「……安、マジで言ってんのか?」

「マジです」

凛子さんは沈黙を拒むように、あー、と零して、言い訳するように言葉を並べる。

「あたし、あれだぜ、安が思ってるほど良くねーぜ。無職になったし、歳も上。それに、貯金もねーし、賢くもねーしよ。きれーでかわいーわけでも……。それでも、良いのかよ?」

「良いです。そうやって正直なところも好きです」

僕の答えを聞いて、凛子さんは恥ずかしそうに不器用に笑った。

「ありがとな、安」

そうして僕達は行きの時よりも近しい距離になって、帰路についた。〈了〉


 

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