「来年の思い出」
父親とか母親を起こさないように、そっと家を出た。車は朝までには戻しとく、と書き置きをして。
この前のサークルの飲み会で、今年で大学生活が最後になるので花見の下見はちゃんとしようと言われて、適当に相槌を打ちながら、俺は脳内で去年もそうしたように何ヶ所か車で巡ることを計画していた。自分一人で車を走らせて、めぼしいスポットを巡る気でいたら、いつの間かに言葉になっていたようだった。反感を買った。不公平だ、と。
サークル代表の鶴の一声で、恒例となるくじ引きの流れが作られた。俺は元々車を走らせる予定だったので、くじ引きには参加しなかった。
ペアが何組かできて、全てのペアが男女。変わり映えしないペアが生まれたけど、くじには逆らえないらしく、そういうことになった。自分とこれからこの車に乗り込む相手とは、その変わり映えのしないペアの一組。残りものには福があると信じている同士、と言えるかもしれない。
終電はとっくに終わり、大通りには乗客を乗せたタクシーが走っていたり、バイクやトラックが走っている。その通りの流れに飲まれるように黄色い車を滑らせる。
細くて静かな通りでは、ボリュームを下げていたラジオの音量を少し大きくする。昨日一日中降っていた激しい雨は上がり、しばらくは台風一過で晴れるらしく、花見をするならば今週末が良いかもしれないなんてことも教えてくれる。
大通りを走っていくつかの通りに入ったり、抜けたりしているとタクシーの影は見えなくなり、バイクもトラックの影も少なくなる。この通りを走っているのは自分だけのように思える暗闇が、車窓を流れる。
実家の最寄り駅から三つも四つも離れたこの地は、時々この時間に訪れているはずなのにもかかわらず、全然知らない場所のように感じる。
通りの向こうで暗い影を作っている山のせいか春の風を受けざわざわとそよぐ竹林のせいか分からない。走ってきた大通りと比べて街灯が少ないためか、開いている店がないためか分からない。
しんとした静寂を破らないように、また、そっと、ラジオのボリュームを下げる。
いつものところで合流という事前の連絡通り、くじを引かない女こと一井の姿が駅前のコンビニにあった。コンビニは明るいけれど、環境に配慮してかトーンダウンした色味になっていて、不気味に感じる。ここは自分にとって静か過ぎて、目に映る全てが何となく恐ろしい。
そんなところで平気な顔をして大学で見る時と変わらない淡い顔立ちをした一井が立っていると、実はこの女は幽霊で、ヒッチハイクをして運転手を自分が亡くなった所に案内しているなんて言われても、信じてしまうかもしれない節がある。一井が幽霊じゃないことは昼間というか大学とかサークルで会っているから分かるのだけど、真夜中、詳しくない土地、ぽつんと建っているコンビニ、一人でいる女という要素が合わさると、ちょっと、良くない。
家賃がちょっと安いこの辺りに一人で住んでいるらしいけど、俺だったらもう少し人気のある所を選ぶ。昼間は賑やかで良い所って一井は言ってたけど、俺はちょっと遠慮したい。
助手席のドアを開けた一井は、カップホルダーに置かれているコンビニのコーヒーを見て、こっちに視線を向ける。穏やかで動きの少ない波のような視線。
「いる?」
「お守りみたいなもん」
「お守り?」
「寝ないためのお守り」
「カフェイン入ってるのに、お守りも何もなくない?」
「そういうもん」
一井という女は、朝も昼も夜も二人で会う時もサークルメンバー達と共に会う時も、いつでもテンションが一定で、穏やかで、喜怒哀楽が分かりにくくて、さっき覚えたちょっと良くない要素の一つを構築している。
真夜中の雰囲気をぶっ壊すような明るくてテンションの高い女だったら良かったかもしれないけど、多分俺が疲れるし、一井のような感じが真夜中には合っているかもしれない。
一井の視線も確認も適当に流して、切ったままだったラジオを思い出す。
「ラジオかける?」
助手席へと乗り込んできた一井は、空いているカップホルダーに自分の分の飲み物を置く。目の前のコンビニのコーヒーだった。自分も買ってるじゃん……と何か言いたげな視線を向けると、さらっとした長い睫毛に流される。
「大丈夫」
俺の方から改めてコーヒーを話題にすることはできず、ラジオが大丈夫なら別のに話を移すしかない。
「じゃ、なんか音楽かける?」
「ユーロビート?」
このやり取りをすると、一井を乗せているな、と実感する。なんでか知らないけど、一井にとって車に乗っている時にかける音楽はユーロビート一択だ。ただ、この車の所有者は俺ではなく、父親で、父親の音楽遍歴にそんなテンポの激しい曲はない。俺や母親を乗せて出かける時に流れていたのは大体ラジオだったし。
「毎回ユーロビートって言うけど、好きなの?」
「そんな感じ、しない?」
「どういう感じ?」
「爆音で夜道を走る感じしない?」
「この車で、この時間に?」
「しない?」
「しないと思う」
一井の言うことは一理あるかもしれないけど、このぽってりとした黄色い車には似合わなさそうな感じだった。
会話が途切れて、いつまでもコンビニに停めているわけにはいかず、運転を再開する。
車が動き出すと、一井の視線はカーナビに移る。カーナビの案内はもう終わっている。
「目的地は?」
「去年と一緒」
「どこ?」
一井の細い指が目的地を入力しようとする。地名を伝え、道順は頭に入っていることも伝えた。
「よく覚えてるね」
「秋にも行った」
真夜中に、一人で。
サークルで旅行をする前に、寒暖の差で紅葉が遅くなるらしい、とラジオが教えてくれたので、一応の予定に組み込んでいた。桜が良く見えるから、秋の紅葉も良く見えるだろうと思った。
「行ったっけ?」
一井が思い出そうとしているのは、サークルでの旅行のことだろう。サークルで行ったのは露天風呂付きの温泉宿で、露天風呂から紅葉が見れるのが良かった。ここからずっと遠くて、レンタカーを借りて高速も乗ったし、ハンドルを握るのを交代制にしたこともある。
一井の記憶と俺の記憶が合わないのは当然のことだった。
「俺は、行った」
「私は?」
「一人で行った」
「呼んでくれても良かったんじゃない?」
「……マジで言ってる?」
「うん」
「夜中でも?」
「何時?」
赤信号になって、車を停める。デジタル時計に視線を落とし、答える。
「今より遅い」
一井の視線もデジタル時計に落ちて、沈黙が生まれる。夜中の一時を回って、サークルメンバーを誘えるかってなると、難しい。しかも一井ってなると更に難しさを覚える。今はこうしてこの時間に車に乗ってるけど。
「お昼に行けば良くない?」
一井の疑問は、よく分かる。俺が一井の立場だったら、そう訊いていると思う。今夜のことも昼にすれば良いじゃない、って言う。
俺は昼に車を出すのが好きじゃない。渋滞にはまる可能性が高いし、人が多いし、パーキングエリアの値段も高いし、そもそも満車で停められない可能性もあるし……。昼は不便だ。
「俺が見たいのは、人じゃない」
「独り占めしたいタイプ?」
「そういうわけじゃない」
「そう?」
「そう」
信号が青に変わって、アクセルを踏む。一ヶ所目に向かいながら、ずっと謎だった一井のことを尋ねる。
「くじ、引かないの?」
今回に限ったことじゃないけど、一井はサークルでのくじ引きに参加しない。本人曰く、残り物には福があるかららしいけど、別の理由があるのはその口振りから分かる。
「平等じゃないでしょ」
考えてもなかった答えに、すぐに訊き返す。
「平等ってなにが?」
「宮下くんも引いてないじゃん?」
「俺は引く必要がないだけ」
「選べる可能性はあったよ?」
「選べる?」
「ここに座る人」
シートを軽く叩く音が、車内に広がる。そんなことを考えたことがなかったので、本音が口から滑り落ちた。
「選んでどうすんの……」
俺は別に誰が助手席に座ろうと気にしないし、誰とペアになっても良い。これは何も俺がサークルメンバーの人間関係を気にしていないとか興味がないとかそういうことではなくて、運転している時に気にするのは、もっと別のことというだけ。
無事故で運転して帰るということを考える。だから誰が座ろうと気にしないけど、確率の話で考えると、まぁ一井が座っている率が高い。
何人ものサークルメンバーが助手席に座ったけど、落ち着いて運転できるのは、多分、一井の時だと思う。隣でむちゃくちゃ話したり、寝たり、指示を出したりしない。程良く運転に集中できるのは、ありがたい。
一井の本当にそう思っているのか分からない声が飛んでくる。
「意外」
「何が?」
「選ぶタイプだと思った」
「俺が?」
「うん」
「なんで?」
微妙な間があって、内緒と言われた。そう言われるとそれ以上、立ち入るのは難しくなって、俺は無言で車を走らせる。サークルメンバーの中で、俺は運転にうるさいタイプと思われているのかもしれない。
一井もふと黙って、深い夜が流れるのを助手席の窓から眺めていた。
花見の下見一ヶ所目は、神社。近くのパーキングに車を停めて、徒歩で門をくぐる。車を運転している時には丁度良いように思った夜風が少し冷たく感じる。
「寒くない?」
隣を歩く一井に尋ねると、買ったコーヒーは一口飲んでから答えられる。
「欲しいの?」
「飲み過ぎは良くない」
「この時間だったらもう気にしなくても良くない?」
「帰ってから寝られないのは困るくない?」
「そう?」
「そう」
そんなふうに話しながら、石畳を歩き、砂利道を歩く、砂利道の真ん中に、竹垣で取り囲まれた中に一本だけ枝垂れ桜があった。
桜の樹は太く、巨大で、凄まじい存在感を放っている。枝の先まで十二分な力を宿しているように固さを感じる。
まだ十分に花開いていないように見えて、先の大雨でいくらか散ったように思えるけど、ライトアップされて見える桜の花は、夜の闇を割くように白い。儚い、という言葉とは対極に位置しているような瑞々しい生がそこにはあった。
桜の樹の下には死体が埋まっていると書いた小説のことや満開の桜の花の下で生涯を終えたいと歌った歌人のことを思い出す。そういう人間の生命力を得て、存在していると当然のように思わせるものが、この枝垂れ桜にはあった。
圧巻されて、呆然と見てしまう。誰かと来たことを忘れさせる、桜を観に来たことを否が応でも思い出させる。
「……いけないね」
「……うん、いけない」
俺が先に言ったのか一井が言ったのか分からなかったが、俺も一井もその一言で会話を終わらせ、枝垂れ桜に背を向けて帰る。
石畳へと戻って、一井の持っていたコーヒーを、冷えるから一口欲しいと言って、貰った。
砂糖もミルクも入っていない苦くて黒い液体が、俺を現実へと帰してくれたようだった。
大学生活最後の花見を飾るには、厳か過ぎた。昼間、青空の下で行う花見でも、きっと主役になってしまう。花見なのだから主役は桜で良いのかもしれないけど、俺達には似合わない。格式の高さを感じた。一献の杯を互いに分け合う、そんな感じがあそこには相応しい。
大学生達が缶ビールやチューハイを片手に騒ぐ場ではない。あそこはブルーシートは敷けないし、昼間にはあの桜の周りや石畳の左右に出店が立ち並び、随分と賑々しくなるので、きっと俺達の居場所はない。
パーキングを出て、二つ目へと向かう。大通りを走らせ、また別の大通りに入ると目的地は近い。
車窓を流れる景色に見覚えがあったらしい一井が、声を上げる。
「去年来たね」
「今年もここにする?」
俺の脳裏には先程の枝垂れ桜があって、全然そうは思っていないのに勘違いさせる何かがあった。
「不満気?」
流れる夜の景色を追っていた一井の視線が、俺の顔へと移る。俺は大袈裟に首を振って、正直に答える。
「不満ってわけじゃないけど、代わり映えしなくない? 三年連続になるじゃん?」
「確かに……。じゃ、宮下くんご自慢の花見会場はどこ?」
黙っていると、一井は次の質問を投げかけてくる。
「もしかしてもう行ったり?」
「まだ」
「今回の候補の中にある?」
一井がそうやって話を終わらせたように、微妙な沈黙を作った。すると一井の視線が柔らかいものに変わる。上手くいったと思ったのだけど、一井の反応を見るに全然そうじゃないらしい。俺は正直に答えた。
「ある」
一井の微笑が車の中に響く。
「宮下くん、そういう時は黙っておくのが正解」
「無理言うな」
橋の河岸から桜を植えられていて、橋の突き当たりには夜の間は閉ざされている神社の門がある。敷地の中には公園もあって、一昨年去年と花見をした所だった。
静かな通りを走りながら、今は入れない門の向こう側の桜がどれくらい花開いているか想像する。ここも先の雨の影響を受けて、水面に花を散らしている。来週の今頃はもしかすれば門の中の道は、もしかすれば桜の花で染め上げられているかもしれない。
河岸の桜を見て中の開花状況を考えて、折り返す。橋を越えて、大通りへと戻りながら声をかける。
「次、ちょっと遠いし、どこかでコンビニ寄る?」
「どこ?」
地名を告げると、一井は明らかに困ったような吐息を零す。
「次で最後だから」
励ますように最後の目的地であることを告げると、一井の声が心なしか弾んだようだった。
「じゃ、次が宮下くんが秘密にしたかった場所か」
次の目的地は、今まで走ってきた大通りの突き当たりにある。長い一本道を走り続ける。走っていて一番気持ちの良いルート。元々俺一人で行く予定だったので、そういうルートを設定した。効率良く順番に巡るのではなく、走っていて楽しいルートにした。だから、俺が秘密にしたかったスポットもルートに入れていた。
一井が助手席に座ると分かった段階でルートを変更しても良かったのだけど、何だかそうする気は起きなかった。言わなかったら、バレないと思っていたし。
途中でコンビニへ寄って、ホットドックと甘いコーヒーを買った。コーンポタージュを買った一井は運転席でホットドッグを齧る俺に、生暖かい視線を送る。無視するには難しくて声をかける。コーヒーを一口貰ったことがあるし、一口の交換としては全然釣り合わないと思うけど、一口であることに変わりはない。一井の言葉を借りるのなら、平等じゃない、というやつなのかもしれないあるいはまだコーヒーが欲しいのかもしれない。
「欲しいの?」
「ダイエット中」
必要ないと思うけど、という言葉をコーヒーと一緒に飲み込んで、ホットドックを食べ終えると車を動かす。
一井も俺も無言の時間が続いて、俺はそっとラジオをかける。
真夜中の番組は、リスナーからの思い出の曲を募り、流していた。リクエストされた数々の曲は、どれもこの時期に似合う出会いと別れを歌っていた。そういうミニコーナーだと、最後に分かった。
俺も一井もずっと無言だった。何かを考え、話せる話題はあったはずなのに、示し合わせたように無言だったのは、きっと話題が卒業になってしまう予感を覚えたからだろう。
走り続けた大通りは目的地に近づけば近づくほど静かになり、暗さが増す。橋を超えた頃になると自分の車しか走っていないようだった。橋を超えると短い山道に差し掛かり、直進すれば目的地、左へ行けば小高い山を登る。
目的地は、車道を円状に囲んだ中に位置していて、二つの地に橋を架けて景勝地と称していた。俺達が迷子にならないように等間隔に並んだ灯籠には灯りが灯され、道順を示すように橋の向こう側まで続いている。
温かな灯籠の火の中で見える桜は、先に見た枝垂れ桜よりも随分と優しいように思えた。
川の向こう側の北側は十字路になっていて、右へ曲がれば別の大通りに出て、左に曲がれば別の山へと向かう。
こちら側の駐車場は全てどこも夜間は閉鎖しているようで、駐車場に停めるためだけに北側へ走らせるのは味気ない気がして、路肩に停める。俺も一井も車から出て、景勝地を歩む。飲み切れなかったコーヒーとコーンポタージュをそれぞれ持って。
温かな灯籠の光を受ける一井の横顔は、普段よりも穏やかで、微笑んでいるように見えた。
土は先の雨を受けて柔らかく、水たまりがあり、灯籠の光が届いていない奥の方も同じように花見に適していないだろう。
灯籠の光を追いかけるように歩むと、小さな橋があり、二手に分かれている道に差し掛かる。
足を止めて、声をかける。
「どっち行く?」
「おすすめは?」
「左」
「じゃ、左」
左の道は石畳で舗装されていて、こつこつと小気味良い足音が響く。左手にはシャッターを下ろした飲食店や土産物屋が脇に連なっている。右手には川が流れていて、河岸には桜。雨は局所的に降っただけのかと思わせるように枝先は円な花びら。
山に囲まれ、飲食店が閉まった静かなこの辺りは、一井が住んでいる所と変わらないように思えた。一井の住んでいる所と変わっている部分といえば、川が流れているところや桜が温かな光に濡れているところぐらいだろう。
石畳を歩き終えると、車道が広がっている。右手は橋、左手は闇。左手を進んで歩けば、車を停めた所が見えてくるのだろう。
一井は石畳の側に置かれているベンチに腰掛け、ふっと息を吐いた。満足気に、納得したような吐息が、夜を流れる。
「静かで明るくて、良いね」
一井の隣に腰を下ろして、
「うん、だから気に入ってる」
と答える。
ベンチに腰掛けて周りに目を向ければ、対岸の桜が仄かに明るいのが見える。雨が降るまでの陽の光を十分に受けて光を溜めていたように見えた。
「ここにする?」
桜が綺麗で騒げる場所もあって、車を出せば大通りにあったコンビニやスーパーにも行ける。大学最後の花見をするには、適している場所のようだった。一井がそう確認するのも、無理はない。むしろ当然のことで、ここにしようか、と提案しているようだった。
でも、と思う。否定するように俺は首を微かに横に振って、困ったように笑う。一井は、どうしてと尋ねることも否定する言葉を並べることなく、そっか、と言う。その気持ち、ちょっと分かるよ、と続けて。
ここを花見会場にしてはいけない理由を話すのは、きっと俺の役目だ。
ここで花見をしても良い。でも、大学生活最後を飾る花見会場としては、あまりに新しい。新鮮で綺麗で、俺達の思い出がない。
一井はそんなことを周りに言うとは考えてないけど、ここは俺のお気に入りのスポットの一つで、サークルメンバーで訪れるのは早いように思う。早いというのはおかしいことかもしれないけど、そんなふうに思う。俺だけが知っている秘密の場所を知られるのを防ぎたいわけじゃない。知ってもらえるのなら全然良かった。でも、今年じゃない。俺は別に、独り占めしたいタイプじゃないから。
橋の向こうに広がる夜空に、月が見えた。雨で洗い流された夜空に輝く月は綺麗だった。
我、君を愛すという英文を、夏目漱石が月が綺麗ですねと翻訳したことがあるという俗説を思い出した。
一井もその俗説を知っているだろう。この、今、俺と一井しかいない夜に、唐突に、月が綺麗ですねと言えば、それがどういうことなのか一井も分かるだろう。
でも全ての話の腰を折ってまで、そういうことを話せる気にはなれなかった。
「来年、だったら良い」
長いようで短い沈黙を破った俺の言葉は、そんなものだった。なるべく自然に発したつもりの言葉。
一井の口が少し動いて、来年? という音になって、笑みが零れる。寂しさを漂わせた微笑。来年の今頃がどういう時期か分かっている人のそれ。
今年の花見も終わっていないのに、随分と気が早い話だと誰もが思うだろう。でも俺は自然と、来年の花見のことを考えた。今年の花見会場は俺達サークルメンバーの思い出が詰まった所で開催することにしたから。
大学を卒業して社会人として働きはじめる時期かもしれない。あるいは仕事に忙しくて花見のことなんか忘れている頃かもしれない。そういう真新しい春に、去年の約束を思い出してほしかった。大学最後の春に約束した果たせるかも分からない約束のことを。春の真夜中に、大学時代の友達と来た景勝地のことを思い出してほしかった。
俺も一井もこの一年、環境を大きく変えるために動きまくるのに、簡単に一年先の未来に再会を約束してしまう、約束できる関係でありたかった。そういう関係を続けておきたかった。
「皆と?」
一井の短い質問に、俺は否定の言葉を並べた。それで、俺が誰と来年もここに足を運びたいのか伝わった。
一井ははにかむと、恥じらいを隠すように言う。
「やっぱり、独り占めしたいタイプじゃん」
今夜、この夜の出来事を特別だと思っているのは、特別だと思いたいのは、俺だけじゃなかった。
俺と一井の火照った頬を、夜風が通り過ぎる。桜の花びらが揺れた。〈了〉
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