口約束

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「口約束」

ゴールデンウィークが終わって少し経っても身体のどこもかしこが、まだ平日の仕事の朝の感覚を完璧に取り戻せていない頃、自分の務めている会社にフレックスタイムが導入されていることを思い出す。コアタイムまでの二時間をどう使うかは、私の自由だ。

普段だったらもう通勤電車に乗って人混みに揉まれている時間帯に、私は自分の家から少し歩いたところにある、有坂さんの家を訪れた。呼び鈴を鳴らせば、はーい、出ますねぇと丸い女性の声が返ってくる。

小さな黒い門の向こうのアプローチは短い階段が数段続いており、階段の一番高いところに玄関ドアがある。ぐっと力を込めないと開けられないような重さを感じさせるドアは開くまでに少し時間が必要なようで、ゆっくりと開けられた。

色の白い丸顔の有坂さんがひょっこりと出てきて、私の顔を見ても突然の来訪に不審がる様子を見せない。少し開いた口は何かを言おうとしたのか分からなかったが、すぐに閉ざされて、微笑を形作る。

ロングスカートの裾を踏まないようにゆっくりと階段を降りると、肩を流れる髪と引っ掛けていたグリーンのカーディガンが揺れる。私のように肩が凝るようなジャケットやブラウスを着たことがないような人。

有坂さんは門を開けると何も言うことなく私を招き入れてくれた。この人はいつだって、こうして客人を迎え入れているのだろうと分かる。セールスとかそういう相手でも、とりあえずは中へと通す、そういう人。

短い階段を二人で登っている途中、前を歩く有坂さんが足を止めた。そんなところで足を止めると思ってなくて、かつんかつんと私のヒールが階段を数度叩く。有坂さんは目だけを私の方へ向けたかと思えば、前へと戻る。何かを言おうとして言わない仕草。釈然としないことを私に伝えるように小首を傾げる。そこいうことを連続でされると、私も無視することはできず、さっきからどうしたの、と尋ねる。いやね、と前置きをして、確認された。

「約束してたかしらって思っちゃって」

当たり前のことを確認され、私はそっと口角を上げる。

「したわよ」

「いつ?」

「去年」

私が答えると有坂さんは納得したのか歩き始め、ドアを開けて、私を中へと通してくれた。年に一度しか来ない私を。

廊下を歩いてリビングへと通されると、その広さにいつも驚からされる。去年見た時と大きく変わりはないけれど。普通の家とは大きさの違うものが、有坂さんのリビングにはある。

リビングの広さやテーブルの大きいことではなくて、そのテーブルの近くに備え付けられた大きな窓から見渡せる空間。

有坂さんの家はこの辺りで知らない者はいない家だろうと思っている。有坂という名前は知らなくても、その家の特徴を口にすれば皆、あぁあそこの、と口を揃えて答えるそんな家。何が有名なのかというと、その庭である。

私は通勤する時に必ず有坂さんの裏を通り、駅前に向かう。裏口は黒い長い門に閉ざされているが、隙間から覗ける庭はいつだって広大だ。門に降りかかるように薔薇が花開いている時もある。

いつも薔薇の香りを辺りに漂わせている庭。月曜の出勤で憂鬱な気分にさせる朝でも、火曜の水曜木曜金曜と連日仕事のことを考えさせる朝でも、金曜の土曜日の休みに胸弾ませる夜でも、いつでも有坂さんの家は薔薇の香りで包まれている。

三月は決算に追われ、四月は新人を指導したり、研修の資料作りに追われ残業が増えるし、フレックスタイムを導入していようが他の社会人と変わらない時間帯に出勤する必要がある。やっと手に入れたゴールデンウィークで息抜きをしようにも世間と重なり合った休日はどこも人で溢れており休めたようで実は全然休めることはなく、また働く日々に返される。

そういう生活を続けている私が、薔薇の香りを漂わせている有坂さんの家を気にするなと思う方が難しい。そういう世間の忙しなさとは遠いところにいる人が、こんな近くにいるなんて。無意識の間にストレスが溜まり、いつかの今頃、文句の一つでも言いたくなって、私は有坂さんの家の呼び鈴を鳴らした。そうして私達は知り合った。

有坂さんはいつもそうしてくれるように、私をテーブルの前の椅子へと掛けるように促すと、少し待っててちょうだい、と言ってリビングを離れる。私は言われた通りに椅子に腰掛け、癖のように足を組んで、頬杖をついて有坂さんが戻るのを待つ。

この家のキッチンは廊下を少し歩いたところにあって、リビングと繋がっておらず不便だと毎回思う。自分が住むのだったら、絶対にリビングが見える位置にキッチンも設計してもらう。リビングとキッチンが離れていて、ドア一枚隔てるためか、リビングにいても人の家に招かれたという感覚が薄い。大きな窓に高い天井、足を覆うスリッパとかアンティークな家具とかブラウンがかった照明とかすぐに自分の家ではないと分かるのに。

普通の生活にあるものがないと異質に感じるという話を思い出し、勝手に賛同する。でもそれは空間に対する評価であって、ここに住んでいる有坂さん自身に対する評価ではない。いやでも、有坂さんのことを考えると、異質という感覚にまとめてしまってもいいのかもしれない。失礼だけど。私と有坂さんは一年の間に何度か会うことはないけれど、この短いティータイムの間でも、有坂さんの異質さ、というのは十分に分かる。

戻ってきた有坂さんの片手には小さなお盆が一つ。二人分のアイスティーが入った細長いグラスには、いくつもの氷が入っていた。互いに一杯ずつ二杯目を楽しめばなくなるであろう量がある大きめのポットもある。

グラスとストロー、シロップなどを私の前へ置く。

「紅茶党だから紅茶にしたけど、コーヒーが良かった?」

「職場で飲むから結構よ」

ストローの封を切ることなく、ストレートで頂く。細長いグラスに注がれたのは、夏を少し先取りしたようなラムネの清涼感を覚えるフレーバーティー。

有坂さんは私の前に座ると、沈黙を崩すのを楽しむようにストローの封を切り、からんと音を立てて掻き混ぜる。

「それで今年は一体、どうしたの?」

きっと靴を脱ぐ前に、あるいは玄関ドアを開ける前、黒い門の前、ドアフォン越しで尋ねるべきことを、有坂さんは今、する。

去年と同じ理由を答える。有坂さんの家に来る理由はそれしかない。

「見頃でしょう?」

「見頃?」

「薔薇」

「だから、来たの?」

頷く代わりに、私は大きな窓の向こうに広がる庭に視線を移した。梅雨入りを待たずに夏が来たのかと思わせる強い陽射しを受けて、薔薇の緑の葉は濃く感じる。赤い薔薇の他に、黄色や白い薔薇も見えて、ピンクやオレンジもある。

庭は、この家をもう一つ建ててもまだガーデニングを楽しむスペースを残せるほどに広い。その全てで様々な色を見せる薔薇が咲いているのだから、私が想像するよりもずっと大変な手間暇が掛かっているのだろう。

その全てを有坂さん一人で行っている。初めて会った時にそう話されたけれど私は未だに、有坂さん一人で庭の手入れを行っているのを嘘だと思っている。女性一人の手でこの庭を手入れするのが広さ的に難しいというのではなく、有坂さんの、ほんのりとした雰囲気のせいだ。自分で鋏を入れずに、土に触れずに鑑賞するために人を雇ってます、と言われた方が納得できる。日焼けをしたことがないような白い肌とか薔薇の棘が刺さったことのないような指を見る度に疑わざるを得ない。

お手伝いさんというか庭師というかつまり、家族以外の誰かを雇って、庭の管理していますと言われた方が納得するけど、そんなことはないらしいし、人がいないことを証明するように有坂さんとこうしてこの家で会っている時、有坂さん以外の人の気配はしない。

一人で暮らして、庭の薔薇の手入れをする日々ですって言われたら渋々であるけれど納得せざるを得ない。

でも、有坂さんの左手の薬指に輝く指輪を見れば、ただ私と有坂さんのご主人がすれ違っているだけなのだと分からされる。

「香りも良いのよ?」

「見るだけで分かるわ」

去年もされた質問に去年と同じ答えを返す。

大きな窓を開け放てば、薔薇の香りが家中に入り込んでくることだろう。出勤した時に香水の強い香りに怪訝な顔を向けられる気がして、私はやんわりと有坂さんの提案を断る。提案を断られた有坂さんは、とても断れたと思わせない柔らかい微笑を浮かべている。

有坂さんは何も言わずに視線を窓の向こうへと投げる。この人のこういう二人で過ごしていても一人で過ごせるような沈黙を作れるところは毎年関心するし、美点だと思う。どうぞ庭の薔薇を見てください、と言う必要もなければ、気遣う必要もない。

多分、そういう制限がなくても、私はただ、ここからこうしてこの薔薇が咲き誇る庭を眺めているだけに留めると思う。

多くのことには適切な距離感というものがある。人と人とが適切な距離感を保つように、物と人とにでも適切な距離感というものがある。私と薔薇の場合は、窓を挟んだ方が良くて、私と有坂さんはこうしてテーブルを挟んだ方が良い。ただ物と人の距離感は人が距離感を選ぶだけで済むけれど、人と人の場合は片方がそうと決めても、もう片方がそうとは限らない場合がある。

私と有坂さんがテーブルを挟んだ距離感が良いと思っているのは、果たして、私達双方が導き出した適切な距離感なのだろうか。

私と有坂さんはこの薔薇の見頃な時にしか会わない。それも私から訪れないといけない。この時期にか会わないのは何も私達が話し合って決めたことではない。私は仕事で忙しいし、有坂さんはこの広い家と庭で一日の多くを費やしていると思う。生活圏の違いと言えばそれまでかもしれないけど、私達はそうするのが当然なように、一年の内に一度しか会わないようになった。二人共歩いて会える距離なのに。

それは丁度、七夕の夜に見える織姫と彦星の関係のように思える。天の川を挟む織姫と彦星のように、私と有坂さんの間にはテーブルがあったり、薔薇が咲く庭がある。

その距離感を超えたいと思うのは、私だけなのかどうかは分からない。有坂さんは全然そんな気配を見せないけれど、この席は私のために用意された席ではなく、ご主人と庭の薔薇を眺めたり、紅茶を嗜んだり、歓談に耽る席だ。それが偶然、この時期のこの時間にだけ私のために空いているだけ。

最初の方は偶然用意された席だと思っていた。でもそれが二度も三度も四度も続くと偶然で片付けるのは難しくなって、私と有坂さんの適切な距離はもっと近くだと感じるようになった。でも、有坂さんは一切そんな気配を見せない。私がどう動くのか楽しみに見ているようにすら思える。

私の周りにいた女性の多くは、自分から距離を詰めてくるタイプが多くて、そういう意味でも私の中で有坂さんの一定した距離の取り方は異質で、だからこそ興味を懐く。

普段だったら飲まないアイスティーを飲み干して仕事へと気持ちを切り替えて出勤するのだけれど、今日はそういう気にはなれない。仕事以上に大事なことが、確認しなければならないことがあった。そしてもしかすれば、今夜、この人と別の場所で会うかもしれない予感がしたから。

こういう時、自分が女で、有坂さんも女性で良かったと心底思う。私が男だったら不倫になるだろうし、有坂さんが男性であれば浮気になるだろうし、待ち受けている結末は悲劇だ。悲劇を楽しむにはコツがいる、と昔教えられたことがあって、私はまだ悲劇を楽しむコツを知らないし、ハッピーエンドの喜劇の方が好きなので、そうならないように動くしかない。

腕時計に一瞥をして残された時間が長くないことに気づいた時、有坂さんも庭から視線を戻していて見計らったように訊かれた。

「そろそろ?」

「まだ大丈夫」

「毎年思うんだけど、本当に仕事してるの?」

有坂さんの視線がスーツで武装する私の全身を見る。

「してなかったら、今頃まだ家で寝てるわよ」

「遅刻にならないの?」

「多分ならないと思うわよ」

私の勤めている会社はフレックスタイムを導入しているし、服装もオフィスカジュアルであればいいし、業務内容も内容によればリモートでも許される自由度の高いIT会社である。

そういう会社のことを、インターネットが通じているかどうかすら怪しいこの土の香りが漂う家のご夫人に話しても伝わるか怪しい。個人を顧客にしている営業職であればそういうことを話して何かの糧にしても良いのかもしれないけど、私の会社がメインとしている顧客は法人であり私は営業を管理する側なので余計と話したところで、と思う。

「あなたみたいな人、時々来るのよ」

「随分と熱心な営業マンね」

「あなたも最初はそうだと思ったわ」

ここでこうして紅茶を振る舞われた営業がどういうことを話したのかは分からないけど、私はそんな時間は無駄だと思う。

有坂さんの左手の薬指に視線を落として、言う。

「一人じゃ決めないだろうし時間の無駄なことはしたくないの」

「そうね、家のことは主人に相談するから。あなたは全然自分の会社のことを話さないし、主人のことも聞きたがらないから変わった人だなって」

変わっている人に変わっていると言われるとは思ってなくて、相好を崩す。

「私もあなたのことは変わってると思う」

「どのあたりが?」

「私を毎年こうして家に招き入れてくれるところ」

「そう?」

何も知らないように笑う有坂さん。余裕の現れなのか、本当に何も知らないのか、あるいは全然違う理由からなのか分からない。

私のグラスはいつの間にか空になっていた。

おかわりを求めるようにグラスを有坂さんの方へと滑らせると、私の指先が有坂さんの指先に触れた。そのままそっと包むように手を取る。

「家以外のことは?」

見た目の白さよりもずっと固くて、窓の向こうに広がる薔薇をこの手で手入れしてるのだなと分からされる。

有坂さんは突然の私の行為に驚く素振りも見せず、かといって手を引くこともしなかった。ただ、私のしている腕時計に視線を落とす。時計盤が天井へと向いている腕時計に。

「時間が足りないわ」

私も刻まれる秒針の動きを目で追いかけ訊く。

「それじゃ、今夜は?」

「三つ質問するから全部に答えられたら、今夜も会いましょう」

薔薇園の前で美人から出される三つの質問。全て答えられたら、今夜も会える。この家か全然違うところかは分からないけれど。いよいよ本格的に現実味が薄れていく。

ここで? と急ぐように尋ね返す私に、有坂さんは空いている手を器用に使い二杯目を注いでくれる。私は手を引いてアイスティーを飲んで、有坂さんの質問を待つ。

「一つ目は簡単かもしれないわね。このために毎年来たの?」

有坂さんの目が一瞬、庭を見た。それからまた私を見た。私はその一瞬の隙を見逃さなったし、多分有坂さんは私がそういうところまで見逃さないだろうと分かっている。有坂さんが簡単と言った通りだ。

私は正直に答える。

「薔薇を見たいのは本心から。いつもよく綺麗にしていると思うわ。教えてもらった見頃を見逃すのはもう失礼でしょ。一人でやってよく維持しているなって尊敬する」

有坂さんの頬に、ほっと優しい微笑が浮かぶ。続けて問われる。

「今は?」

「二つ目?」

「まだ一つ目。今でもそう思っている?」

私は愉快に笑い、正直に答える。

「今は、違う」

有坂さんの目に失望の色は浮かばず、そうでしょうね、と言いたげな、呆れた色を浮かべている。

「二つ目は一つ目より難しいかもしれないわね。少し時間をあげた方が良いかも」

「訊いてから考えても?」

「ええ、もちろん。それじゃ二つ目。私、結婚してから一人で夜に出かけたことがないの。主人にどう話したらいいかしら?」

断られる理由に並べられるだろうと思っていた理由が、こうして質問の形で提示されると思ってなかった。まるで世間話でもするかのように、軽く問われる。

私が帰って、ご主人が帰ってきた時あるいはご主人に連絡を入れる時、きっと私が答えたことをそのまま言うのだろう。一つも疑う余地を私に与えず、極々自然にそう思わせる。きっと有坂さんは私が男だった場合でも、同じ質問を同じようにしたことだろう。今夜再び会うかもしれない相手がどういう相手であるのか今はっきりと思い出させるために。これは質問というより……。

「共犯ね」

「嫌い?」

「好きよ、ゾクゾクして」

「良かったわ。私だけ理由を考えるのって不公平でしょう?」

そうねと同意を示して、私は簡単に二つ目の質問に答える。有坂さんの求めるような答えじゃないと予期しつつ。

「友達と食事に行くだけじゃ難しい?」

有坂さんの目がつまらないものを見るような目つきに変わる。思っていた通りの反応だった。

「随分とオーソドックスで裏を読んでくださいと言わんばかりの答えね」

「不正解の時はそうやって教えてくれるのね」

「言わない方が良かった?」

「分かりやすくて助かるわ。ところで回答権は一度だけ?」

私は脳裏に先程有坂さんが言った、不公平という言葉を描きながら確認した。

「事前に教えてなかったし、もう一度だけ答えていいわよ。不公平だから」

求めていた通りの返答に、私は何種類もの薔薇が花開いている庭に目を向ける。

私は有坂さんのご主人と会ったこともないし、これから会う予定もないし、会いたいと思ったこともない。もし会うとすれば、きっと有坂さんから紹介されてしかない。つまり、私は有坂さんのご主人について何も知らない。今分かっている有坂さんのことを用いて、有坂さんが今夜外に出られる理由を考えるしかない。

広い庭で薔薇を育てている既婚者。

それが私が知っている有坂さんの全てだ。

「勤務先の最寄り駅に、遅くまでやってる花屋があるの」

だから私が説得で使えるのは自然と薔薇になる。有坂さんが長く話す気配は感じられない。どうやら、まだ間違えを犯したわけではないらしい。私は続けて答えを話す。

「薔薇が病気になったり、虫に食われたり……対策を打つ必要がある。それも早めに。でもここらへんに売ってるお店はないし、在庫も切らしている。だから出かける必要がある。さっきよりはマシかしら?」

「別にお昼でもできるんじゃない?」

有坂さんの確認に、私はようやく庭から目を離した。平静な表情の有坂さんに私は尋ねる。

「それはつまり、日が高いうちから会ってくれるってこと?」

「仕事を真面目にしない人は好きじゃないわ」

柔らかく釘を刺されたが、我が社はフレックスタイムを導入していて、コアタイムも採用している。嬉しいことに。

「コアタイムは十六時までだから」

「それじゃ三つ目だけれど」

聞こえていないように話題を引き戻した有坂さんに、私もそれ以上聞き返さない。二つ目の質問も、きっとこれで有坂さんの満足できるものになっていることだろう。

「あなたの名前は?」

言われて、私達が互いに互いのことを名乗っていないことを思い出した。

私が有坂さんを有坂さんだと呼べているのは、この家の表札のお陰で、下の名前ももちろん、知らない。有坂さんに私が名乗った覚えはないし、有坂さんから問われた覚えもない。こんなふうに何度も会うと思ってなかったし、毎年今日が最後だろうと思っていた。

でも、今は、違う。

私がようやく名乗ろうとした時、有坂さんは無言で私の手を引き、顎に手を寄せる。有坂さんの顔がぼやけるほどに近くなる。

あのとかそういう言葉を紡ぐ暇は与えられなかった。

「やっぱりいいわ。今夜、教えてもらうから」

有坂さんの唇が私の唇から離れて、手もそっと離れていく。でも、まだ近くにある有坂さんの唇はそんな言葉を吐く。温かいラムネの香りを味わいながら、私は有坂さんの目の前に一本、指を立てる。

「私からも一つ、いい?」

「何かしら?」

「あなたの帰りが遅くなる理由は、考えておいてちょうだい」

唇の色が移らないように口付けを返して。〈了〉


 

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