月の明るい夜に

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「月の明るい夜に」

村松隆と斉藤ゆきは同じマンションで一人暮らしをしている隣人同士である。同じ大学の文学部に通う学生でもあり、同じサークルの文芸部に所属している。ただ専攻しているものが異なり、村松はフランス文学を、斉藤はロシア文学を学んでいる。

共通点が多い二人であるが友達と呼べるような関係でなければ、勿論、恋人同士でもない。村松も斉藤も過去に恋人はいたが今は共に独り。村松と斉藤の友達は二人がフリーであることを知っているが、村松と斉藤は互いのそんなことまでは知らない。

双方が双方について知っていることは多くない。

同じサークルに所属していることもあり顔を合わせる機会はあるが親しく話すことはない。斉藤は律儀にサークル活動を行っているが、村松はサークル活動よりも日々の講義や研究について日々を費やしており、サークルに顔を出す機会が多くないためである。

顔馴染み、という関係性が適切といえる。そんな関係が一年、二年と続き、三年目になろうとしている。一コマ目の講義が重なった時に、玄関で挨拶をする程度の関係。大学を卒業するまでそんな関係のままだろうと村松も斉藤も考えている。

多くの大学生は一年、二年と在籍期間が増えると上手くサボるようになる。卒業に必要な単位だけを得ようとするのだ。そうすると、上手く一コマ目を空けるようになったりする。

村松は意図的に一コマ目を空けないよう単位を取得しようと組んでいる。朝を制する者が一日を制する、果ては人生を制すると考える性質だったので。

斉藤はそういう性質を有しておらず、多くの大学生の内の一人であったため、一コマ目に講義がある時にだけ村松と顔を合わせる。

「おはよう」

「……おはようございます」

村松は朝から普段と変わらない人間であったが、斉藤は朝に弱く、普段と変わらない村松の声に、微かに眉を曇らせることもある。可能であれば無視をしたかったが、一年二年と隣人であると、そう無碍に扱えないものが生じてしまった。しかも、同じ大学で学部も同じであり、サークルも同じであるとなると、難しい。

ただ斉藤の方から、そんなふうに挨拶をしなくてもよくありませんか、会釈とか黙礼程度で良いじゃないですか、と言うことはない。朝、大学の門を潜るまでは誰とも接したくなく、話したくない。斉藤ゆきが斉藤ゆきとして振る舞えるようになるのは、村松より時間がかかる。

扱いの難しさを覚えているのは斉藤だけであり、村松は玄関の鍵をかける斉藤の横顔に挨拶をする度に、頭の中に、はじめて出会った時の印象そのまま、氷を思い浮かべる。

その氷の印象は、斉藤の名前が冬の時にだけ見える自然現象から連想されたからではなく、指や頬が白いからでもなく、素っ気なさそうな声音や態度からでもなく、誰にでも敬語で接して明確に意図的に他人と距離を取っているからでもない。

サークルの飲み会で彼女と再会した時、村松は自分が度々見かけていた隣人に見えなかった。講義のどこかで見かけたような大学生にも見えなかった。他のサークルメンバーの熱気や居酒屋の暖房や照明で、氷が水へと変化してしまったような、そんな印象を持った。その印象が現在まで続いているのだ。

村松はそんな印象を懐いた斉藤のことを悪く思っていない。飲み会に参加しているのかどうか分からないように長い席の端から動かない。大きな声を上げたりすることもない。楽しんでいるのかどうか、ということすらも分からなかったが。兎角、飲み会で迷惑になっていない斉藤を悪いとは思っていない。斉藤もまた、時々飲み会に顔を出す村松のことを悪く思ってなかった。

斉藤はあまりサークル飲み会に出席していないが、村松は斉藤よりも出席していなかった。サークル活動に精を出している様子も見受けられないし、メンバーと仲良くしようという気配も見受けられない。その態度はどうなのかと思うが、村松に言えたことはない。

村松のサークルでの態度を思う度に、しかし、と擁護の声を思い出す。サークル活動の一環として小説や評論や詩歌を集める時、村松は誰よりも早く、良いものを用意する。そういうところでバランスが取れる村松を、斉藤は快く思っていない節がある。

村松がサークルの飲み会にほぼ参加していないのはれっきとした理由がある。村松は下戸なのだ。烏龍茶やジンジャエールぐらいしか飲めない。ソフトドリンクに飽きると、他の者が酒を飲むように煙草を吸う。一本、二本というものではなく、かなりの頻度で。

飲み会に顔を出すと酔っ払った幹事から代わりを任命されることが度々ある。素面という理由だけで。会計のことや勝手に開催される二次会と帰る面々とを引き離したりするそんな役目。

村松はそういう役目を引き受けるのが良く思っていない。気持ち良くアルコールに全身を浸し、顔を赤くして大声で話したり、笑い声を上げてみたかった。しかし、下戸である村松にそのようなことは難しく、損な役目を引き受ける。

この損な役目を引き受けると、お礼で煙草を貰えるのは助かっているため、中々に断りにくい。

斉藤はそういう困り顔の村松を見かけると精々するのだが、飲み会がいつまでも終わらないのは困る。それはそれ、これはこれという意識が働き、幹事の代わりを引き受けた村松の手助けする。

「こういうことは一人よりも二人の方が早く終わります」

淡々とした斉藤の声からアルコールの臭いはしない。斉藤は一度、サークルの新人歓迎会の時に他の者と同じように酒を飲んだことがあるのだが、一杯目の途中で顔が真っ赤になり、以降は飲ませてもらっていない。斉藤としては飲みたいのだが、周りが止めるのである。斉藤は顔はすぐに赤くなるが酒には強いタイプなのである。

二次会へと赴く者を見送り、村松と斉藤は帰路に着く。サークルのこと講義のこと研究所の見学のこと……多くのことを話せる二人だったが、終始無言を貫く。

同じ電車に乗っても、同じ駅で降りても、同じ夜道を歩いても、二人が言葉を交わすことはない。一定の距離を保っている。斉藤の履くヒールの音だけが広がる。

村松は明日の講義や研究のことを考えていた。村松はもし斉藤が同じ専攻であれば今後のことを話そうと思っていたが、彼女は彼女なりに考えているのだろうと思っていた。

斉藤は酒を飲みたいと思っていた。飲めるのに飲めないように扱われるのは嫌だった。家に帰ってから飲み直そうかなどと考えている。村松が下戸でなければいいのに、と思ったのは一度や二度ではない。煙草を吸うように酒を飲んでくれれば、他の者と同じように二次会に雪崩こめるのだが……。

そうして、玄関の前で挨拶を交わして、別れた。
ある冬の夜、村松は久し振りにサークルの飲み会に顔を出していた。サークル長の送別会ということもあり、流石に顔を出さないのはまずい。繁華街のとある居酒屋には既に多くの参加者がおり、斉藤の姿もある。村松が見かけた時、斉藤の頬はやはり雪のように白かった。酒は周りが止めているのだろう、と村松は煙草を片手に見ていた。

一軒目の飲み会が終わるとサークル長は何人ものメンバーを連れ添って、二軒目へと動き始めた。本来幹事として場を取り仕切っていた者はとうの昔に酔っ払っており、村松の前には誰からか分からない煙草やソフトドリンクや伝票などが置かれた。

二次会へ参加しない者達は各々帰路へと着くのを見届ける。村松は多くの者を見送ると、駅の喫煙所で一息つく。まだ夜が更けていない、全然終電を使う必要がない時間帯。

澄んだ夜空には満月がかかっており、白い息と細い煙が昇る。

一服を終えて村松も帰路に着こうと動き出した時、改札の前に見慣れた姿があった。柱にもたれる女が一人。

白いコートに身を包む斉藤。赤いマフラーに埋めるように顔を覆っている。頬が赤く見えるのは、きっとマフラーの色味のせいだろうと村松は思うことにした。

斉藤はサークル長に勧められて、生ビールを飲んだ。ビールはアルコール度数が低いので一杯だけならば大丈夫だろうという言葉を信じて。久し振りの飲み会の酒。斉藤は随分と朗らかな、ある種の多福感ともいえる気持ちで胸を一杯にしたサークル長の送迎会を楽しんだ。

斉藤は酒を飲むとすぐに表情に出るが二日酔いになったり、飲み会の途中で嘔吐したりという所謂、酒の失敗はない。人よりも早く気持ち良く酔うのが早く、そこでセーブできる。高揚感が続くだけの楽しい感覚が続く。

二次会への参加したかったが、周りが余りにも止めるので帰るのを余儀なくされた。が、斉藤はこのまま帰るのは勿体ないような気がしたのだ。帰ってしまえば、後は眠り、また朝を迎え、村松と顔を合わせることになるだけだ。そういうのは避けたい。まだ夜は長く、帰れる手段も残っている。周りには幹事になってしまった村松と確認したいことがあると言って、駅前で彼を待つ。確認したいことは何もなかったが。

村松は幹事に変わってしまった立場として、忘れ物があったかどうか思い返してみたが、忘れ物はない。ならばどうして斉藤はここにいるのであろうか。斉藤が乗るべき電車は少し前に駅を発車している。次の電車まで少し時間がある。改札を通って、待っておけばいいのではないか。

村松には斉藤が何故、ここに居るのか分からなかった。まるで村松を待っていたかのように、そこにいる斉藤のことが分からなかった。

分からないというのは語弊がある。村松は斉藤が酒に酔っていて帰れない可能性を考えたくなかった。代理の幹事としての務めもある一方で、斉藤が酔っ払うとどういう人間に変わるのか知りたくなかったから。

「何か忘れ物でもあった?」

表面上は穏やかに声をかけ、斉藤に近づく。斉藤の足取りは普段と変わらないものだったが、その声からは微かにアルコールの臭いが感じ取れる。

村松の顔が固くなったを見て、斉藤は楽しげに白状する。マフラーの中に埋まった赤い唇が弧を描く。

「サークル長からお許しが出ましたので」

村松の口がぐっと曲がったかと思えば、堪えるように強く閉ざされた。何がとか何故とかそういう質問はない。その一言で斉藤の今の状態を説明するのは十分だった。ただこのままではサークル長が悪者になってしまう誤解を生みそうだったので、

「別にサークル長から飲めと言われて飲んだわけではありませんよ。私が自ら飲みたかったので飲んだだけです」

と斉藤は付け加えた。

村松は何をどう言えばいいのか分からなかった。飲み会で酔う者は何人も見ている。駅で別れることもあれば、家の最寄りまで送ることもあれば、家まで送ることもある。村松がそういうふうなことをするのはいずれも同性の友達であり、異性の場合は異性に任せている。

「少し、歩こうか」

村松は問い掛けるように語尾を上げることなく、自分に言い聞かせるように時間を稼ぐ手段に出た。長い夜が、斉藤を素面に戻してくれるだろうと信じていた。冷たい夜風が、斉藤の火照った頬を元の色に戻してくれるだろうと信じた。

居酒屋ばかりが立ち並ぶ通りにコンビニがあったことを村松は覚えている。水でも何でも買って、落ち着かせようと思った。斉藤が行儀良く水を飲むか分からなかったこともあり、その案は採用しなかった。何よりも村松は落ち着く時間を欲した。

斉藤の答えは聞かずに村松は背を向けて歩き出す。斉藤の低いヒールの音が、後ろからついてくる。村松は普段よりもゆっくりと歩いていたこと、斉藤の足取りが先程と比べて大きくなったことがあり、二人は並んで歩くことになった。二人のマンションへ帰る駅とは違う方向だったが。

「どちらへ?」

斉藤が訊いても村松は答えなかった。答えを探しているかのように周りを見渡している。何か明確な目的がある行為ではないことは分かる。斉藤からしてみれば、村松の方が酒に酔っているように見えた。村松が下戸だということは聞いているが、居酒屋の雰囲気だけで酔うとまでは聞かされていなかった。

繁華街に並ぶ居酒屋はどこも明るく、店の前にいる店員に声をかけられる。二件目はいかがですか、と。斉藤は二件目に行きたかったが、下戸である村松に付き合わせるのは失礼であろうという良識は持ち合わせていた。もう帰るところなんです、と愛想良く断り、隣を歩く村松を見上げる。村松の困惑したような、当惑したような表情の遥か向こうに満月も見える。綺麗な月であった。

居酒屋が多く立ち並ぶ通りの中にはカフェもあった。ラストオーダーが終わったり、煙草の吸えないカフェが。そうやって何件かの居酒屋やカフェを通り過ぎて、あるビルの地下にまだ営業しているカフェを見つけた。煙草も吸えるカフェを。

村松は斉藤に何も言わずに階段を降りる。斉藤は呆れ返って何も言わずに階段を降りた。

カフェは真夜中のように静かだった。向かい合って座るソファが何脚か置いてあるだけの小さな店内。

斉藤はコートを脇に置き、マフラーをその上に重ねる。村松の思っていた通り、赤く染まった頬が細い照明に照らされる。寒さのせい、と思い込むのはもう難しかった。

村松と斉藤は互いが互いのことを酔っていると思っているので、ミルク珈琲を二つ頼んだ。サークル長が酔った時にこれを飲めば何とかなると口癖のように言っているのを覚えていたから。

村松は慣れた動作で灰皿を受け取り、煙草を取り出し、火を点けようとして斉藤を一瞥した。

「吸っても?」

飲み会で散々吸っていて、服に煙草の臭いがついている男にそんなことを確かめられてると思っておらず、斉藤は嫌味を口にする。

「もし嫌ですって言ったら、吸わないんですか?」

「飲み会とカフェは違う」

「お好きにどうぞ」

短い会話だったが、斉藤の声は普段と変わらないように人と距離を保とうとするそれだった。村松は染み渡ってくる安心を覚え、暗い天井に向けてゆっくりと煙を吐く。

「斉藤さん、酔ってないね」

「村松さんこそ」

「俺は飲んでないから」

「居酒屋の雰囲気に酔ったりはしないんですね」

至って真面目な調子で言われ、村松は笑った。そんなふうに心配されているとは思っていなかった。

「下戸って知ってる?」

揶揄われていると思った斉藤は

「知りません」

と、唇を尖らせた。村松は斉藤の反応を見て、知っているだろうと分かって説明しなかった。

続きを遮るようにミルク珈琲が二つ、テーブルに置かれる。二人は無言になって、珈琲に手をつける。砂糖とミルクが入った珈琲は甘く、後から少しだけ苦味が口の中に広がる。

村松は不思議な夜を、目と耳で味わっていた。飲み会の後で、こうして女性と向かい合って珈琲を飲むなど想像したことがなかった。その相手が斉藤になるなどとは微塵も考えたことがなかった。

斉藤はその口振りや態度から明らかなように、人との関わりを避けるタイプだと判断している。けれども、サークルでの付き合いには村松よりもこまめに顔を出しており、周りから信頼や信用を得ているし、今日の飲み会などでも人に囲まれている際に嫌な顔一つ見せていない。

斉藤が朝に弱いということを知らず、こうして二人っきりで話す機会に恵まれてなかった村松は、自分が斉藤に避けられているのではないか、と思う。が、避けられているのであれば、こうして珈琲を飲む場を設けるとは思えない。酒を飲むとよく喋り、笑う人間が存在するが、斉藤がそれに該当するのか村松には分からない。

村松は斉藤と出会ってからの多くの時間をフランス文学の理解に割いてきた。就職が難しくなると分かっても、大学院への進学を考えたりしている。村松の頭の中に、こういう女に対する扱い方の答えはどこにもない。

斉藤に訊かなければ分からないことだった。

村松は煙草を置き、斉藤がそうしたように至った真面目な調子で訊く。

「……俺のこと嫌い?」

嫌われているかどうかは分からないが、こうも態度が違うとそんな考えの一つは挟みたくなる。

再開された会話がそんな一言から始まると思ってなかった斉藤は、露骨に真意を尋ねる。

「はい?」

怪訝な目つきを、煙草を咥える村松に向ける。

この男はフランス文学の研究に夢中になり、人間との接し方を忘れてしまったのだろうかと斉藤は思いたくなる。数多の小説や随筆で何を学んだのだろうか。恋愛論は村松に何をもたらさなかったと見て取れる。

好きか嫌いかで問われると、どう扱えばいいか難しい。ただ、得意か得意ではないかと問われるとすぐに答えられる。

斉藤は村松のことを得意な人間にカウントしていない。というのも、分からない部分が多過ぎるのだ。朝も昼も夜も調子が変わらない隣人という程度しか知らない。それでも数少ない部分から得意ではないと思える。

村松は焦ったように弁明する。

「いや、だって、朝と全然違うじゃん」

「あなたがいつも変わらないだけです」

斉藤の言葉は全然質問の答えではなかった。村松は急かすように問う。

「……つまり?」

「何がつまりなんでしょうか?」

「さっきの質問の答え」

朝も昼も夜も変わらないと思っている村松がやけに小さく見え、斉藤にとって愉快だった。斉藤は村松と玄関先で顔を合わせる朝を復讐するように、意地悪く確認する。

「私が村松さんを嫌いかどうかの答えですか?」

「そう改めて口にしなくても良くない?」

弱々しく反論する村松が可笑しくて、斉藤は明るい声で答える。

「嫌いだったら、もう帰ってますしきっと引っ越してます」

「良かった、嫌われているのかと思った」

ほっと胸を撫で下ろす村松に、斉藤はある期待を胸に懐いた。村松は斉藤が朝に弱いことを気づいているのではないだろうかという期待。

「一つ訊きますけど良いですか?」

「どうぞ」

「私に嫌われるようなこと、してるんですか?」

「分からない」

村松が嘘を言っていると斉藤には見えなかった。斉藤は首を傾げ、村松の言葉を繰り返し訊きかえす。

「うん、分からない」

村松はそれきり続きを口にしなかった。村松の頭の中では斉藤に嫌われるようなことをした記憶がなかったから。

斉藤は自分自身が朝に弱いことを告白しなかった。村松のように正直な性質ではない。性質とかそういうことではなくあまりに単純に、自分が朝に弱いということを話すのが恥ずかしかったのである。朝に無愛想な自分が村松に嫌われているのではないか、と思わせてしまった。そんなことを理解されたくない。

「……やっぱり、嫌いかもしれません」

村松は焦ったりすることなく、二本目の煙草の火を点けて落ち着いた調子で答える。

「無理に好きになる必要はないと思う」

「矛盾してませんか?」

「そう?」

「そうです。嫌われてるかどうか尋ねる口で、好きになる必要はないって答えるの、おかしくありませんか?」

村松は肺の中に満ちた煙をゆっくりと吐き出し、斉藤の疑問に詳かに言葉を並べる。

「俺が恐れたのは、俺が無意識の間に斉藤さんに何かをしてしまって嫌われてしまった……俺の行為に対する好きか嫌いか。好きになる必要がないと言ったのは、斉藤さんの俺への感覚。好きになれない人間は少なからずいるだろう?」

「その好きになれない人間に村松さんが当てはまっていたら、どうするんですか?」

「当てはまらないよ」

自信満々に言い切った村松に、斉藤はどうして、と尋ねなかった。答えは先程、自分で答えてしまっていたから。村松も改めて口にしなかった。二人はいつもそうしているように無言の夜を暫しの間、共にした。熱く、甘いミルク珈琲を片手に。

二人の沈黙を、ラストオーダーですがという店員が破った。二人は会計を済ませ、階段を登る。

地上に戻ってくると満月の優しい光が、二人を照らす。ミルク珈琲で暖かくなった斉藤はコートだけを羽織り、赤いマフラーは肩に掛けているだけだった。

「月が綺麗ですね」

斉藤の口から零れた言葉に、村松は足を止めた。先を歩く斉藤の足音だけが夜道に流れる。斉藤は着いてこない村松を不思議に思い、立ち止まって振り向く。先程よりも赤い顔をした村松が立っている。

斉藤は自分の発言の意味を理解して、瞬く間に真っ赤になった。マフラーを大急ぎで巻き付け、顔の一部分も隠す。そういう意味で言ったわけではなく、ただの詠嘆であると伝えたところでもう遅い。遅いというか、正直な村松のことを嫌いと思っていない自分自身に気づいている。嫌いではなく、もっと知りたいと思った。

村松はコクトーの小説を澁澤龍彦の翻訳で親しみ、小説における美を見出した。鈴木伸太郎の翻訳した数々の詩から象徴派の美を教えられた。村松自身も辞書を片手に英語やフランス語やドイツ語で書かれた作品を試みることがある。ゆえに、外国語を日本語に翻訳する難しさを知っている。その逆も知っている。そして夏目漱石が、とある言葉を今、斉藤が口にしたような言葉で翻訳したという俗説も知っている。

短いカフェでの会話の中で、斉藤が村松のように本音を明らかにしないことも察せられた。嫌われていないことも分かった。

村松は長い間、口を閉ざして、結局何も言わず、斉藤の隣に立った。斉藤は不安になって潤んだ瞳で村松を見上げる。

「何か言ったらどうですか?」

村松は斉藤にどういう言葉をかければいいのか分からなかった。斉藤のことを好きか嫌いかで考えると好きである。好きか嫌いかで問われれば答えられたのだが、問われ方が良くなかった。そういうふうに問わないことも分かる。

村松は斉藤がそうしたように過去の翻訳を口にした。ロシアの昔の作品の翻訳を。

「あなたのものだから」

村松と斉藤は並んで歩き出した。

駅前に戻って、同じ電車に乗り、同じ駅で降りて、同じ道を歩く。二人は示し合わせたように沈黙を守っている。斉藤のヒールの音だけが響く。ただ絡められた互いの指は熱かった。〈了〉


 

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