「残り430ml」
コーヒーを家でも淹れるようになったのは、一人暮らしをするようになってから。
大学生の頃からはじめて、社会人として働くようになってこの1LDKに引っ越してからも続いている習慣の一つ。ミルクやシュガーを入れない。そういうコーヒーは好きじゃないから。いつも、ブラックコーヒー。
習慣の一つだけど、社会人になると大学の頃のような余裕ある朝を迎えることは難しくて、寝室から急いで出て、インスタントのスティックタイプを飲んだり、ドリップバッグで飲んだりする。
でも休みの日は、ちゃんと余裕のある朝を意識する。有給を取った今日などは特に。
仕事に行く時のアラームよりも早い時間にセットしたアラームで起きる。二度寝の誘惑に負けないようにカーテンを開けると、南向きの窓からは晴れ渡った日差しが射しこんでくる。情けない声を漏らしながらも、休日を無駄にしないために寝室を出る。
のんびりとシャワーを浴びて、今日淹れるコーヒー豆を何にするか、粗く挽くか細かく挽くか考えながら、髪を乾かして、部屋着へと着替る。
電動ミルが豆を挽く音やお湯が沸く音がリビングへと広がる。使う器具全部にお湯を注いで、温める。サーバーのお湯を捨てて、ドリッパーにへーパードリップをセット。一つ一つ準備を進めることは慣れ親しんだ行為だけど、私の休日がどうなるかはここから始まるといっても過言ではない。少しずつ頭を覚醒させる。
最初に蒸す時にだけ使うアワーグラスをひっくり返して、三〇秒を測る。ポタポタと抽出されるコーヒーをスツールに座って眺めている時、休日の貴重な一時を味わっていると思う。リビングに慣れ親しんだ香りが満ちる。
普段だったら、シャワーを浴びてメイクをして、朝ご飯とお昼ご飯のお弁当を用意して、と時間に追われ続けるのに。部屋着ですっぴんで眼鏡という休日にしか許されない恰好でも何も焦る必要はない。今、私の休日の主導権は私が握っている。
私の休日は常にブラックコーヒーから始まる。
ただ一杯分のコーヒーを用意するのは、ちょっとコツが必要で、完全に起きていない頭で用意すると一杯より多い量がコーヒーサーバーへと抽出されることが度々ある。今のように。マグカップに注いでも、余るぐらい。
冷蔵庫で冷やしてお昼ご飯の後で氷をたっぷり加えたアイスコーヒーにしようかと考える。でも、このコーヒーはアイス用じゃないから、味が薄くなってしまう。どうしようかと考えながら、シューズボックスの上に飾っていた黄色いダリアの水を入れ替える。
ダリアの花瓶を元の位置に戻した時、インターホンが鳴る。こんな朝早くに来客なんて非常識だ。居留守を使っても良かったかもしれないけど、居留守を使うにはあまりにドアと近くて、そのまま流れるような動作でドアスコープを覗く。
え、という声が零れたかもしれない。
スコープの向こうにいるスーツ姿の女の人は、私のそんな微かな驚きに反応したように顔を上げる。長い黒髪が揺れる。
私がどんだけメイクをしても近づけない整った顔立ち。目鼻立ちが鮮やかというより、目力が強い。長い黒髪で輪郭や眉あたりを隠しても、分かる。というか、隠していると余計際立つ。
ベージュのトレンチコートを肩に引っ掛け、トートバッグとコンビニの袋を持つすらりとした立ち姿。姿勢が良くて、ヒールなんて履かなくても十分背が高く見える。鋭角な女性。はじめてこの人に会った時、ギリシャの石像を思い浮かんだことを思い出す。
待たせるのも悪くてドアを開けて、冷静を努めて声をかける。リビングに満ちていたコーヒーの香りが、外に流れたような気がした。
「お久しぶり……です?」
そういうふうに挨拶するのが正しいか分からなかったけど、私とこの人の間には、おはようございます、と言うよりも適切だと思った。事実、久し振りだった。社会人として働く直前にこの家への引っ越しを手伝ってくれた時以来のような気がする。
でも、女の人はそんな数年の隔たりを感じさせない。まるで、昨日も会っていたように言う。
「コーヒーあるんでしょう?」
早朝に聞くと心ばかりかしんどさを覚える活き活きとした声。女の人は手に持っていたコンビニの袋を私の胸へ押し付けるように渡す。中身は牛乳だった。
え、あの、と当惑する私を他所にズカズカと上がってくる。高いヒールを鳴らして。ヒールが鳴らなくなったと思えば、靴を脱ごうとしている。
私は彼女の前に回り込んで、コンビニの袋を持ったまま瞬く間に両手を広げ、しっかりと残っている戸惑いを明らかにするように無言で制する。待ってください、という言葉は言葉にならなかった。
女の人は何も言わずに私の両手の手の平を見ろした。かと思えば、高い背を一層高くするように背伸びをして、右奥に広がるキッチンに視線を移す。一人分のコーヒーが入ったマグカップと行き場をなくしたようにサーバーに残っているコーヒー。
「あるじゃない」
女の人は満足そうに微笑する。それから私の制止を無視するように赤いハイヒールを脱いで、そっとフローリングを歩く。
赤いハイヒールは、ブラウンやブラックの靴しか並んでいない玄関で強い存在感を放っている。私の家の玄関なのに、まるで他の人の家に上がってしまったような不思議な感覚。
私とこの人は同じ大学の出身で、私の二つ上の長野さん。私が大学に入学した頃、長野さんは僅かな単位と卒論と就活だけで良かったらしい。だから長野さんは、私達一年生に多くのことを教えた。勉強以外のことを。カフェのこと、美味しいコーヒーのこと、小説や映画や絵画のこと、誰かを好きになるということ……。
そういう昔のことを思い出していると先輩に流れそうになるので、私は彼女の背中を追いかける。近くにあるの思っていた背中は、もう随分と遠いところにあった。
「あの!」
思ったより大きな声が家に響いた。
長野さんはいつの間にか持っていたトートバックをリビングのローテーブルへと置き、その上に引っ掛けていたトレンチコートを畳む。
そうするのが当然のような足取りで、さっきまで私が座っていたスツールに腰を下ろした。さらっと足を組んで、私を見上げる。
「どうしたの……?」
訊き返され、私はどういうことを答えればいいのか分からなくなった。
棚にしまってるマグカップを取れば、もうサーバーの残っているコーヒーを注ぐだけで、コーヒーを用意はできる。それなのに、長野さんは私が用意するのを待っている。
長野さんは私が持っている牛乳に視線を落として、忘れていたかのように付け加える。まるで、私が声を上げた理由がその牛乳を扱いに困っているとようやく気づいたように。
「あ、ミルクは熱くしてね」
私はコーヒーはブラックで飲むと決めている。酸味や苦味が気持ちを切り替えるのに役立つから。スイッチみたいなものだ。
それに私は牛乳を好んで飲まない。料理で必要なこともあるかもしれないけど、そもそも選択肢に入れないぐらいだ。小学校の時に白ご飯と一緒に紙パックの牛乳が出てきて、それからずっと嫌いだ。
でも、長野さんは必ずコーヒーに牛乳を入れるし、シュガーやメイプルを入れることだってある。甘いものを好む。
胃を守るためだとか言っていたと思うけど、私からしたら信じられない。そんなに身体のことを気遣うなら飲む量を減らしたら良いじゃないですか、って言ったら、だからエスプレッソにしてるじゃないって反論のような何かをされた。
この人はいつだって、自分のペースを守れて、人を巻き込むことに長けている。何だかそうしないと私が悪いみたいに思わせるのも上手だ。
私は自分の家なのに居場所を奪われたようにキッチンに立つ。自分のマグカップに注いだコーヒーに口を付けて、せめてもの反抗をする。
「ブラックなんですけど」
「買ってきたじゃない」
それで良いでしょ? と付け加えられ、私は仕方なしに少量の牛乳を片手鍋に入れて、火にかける。
隣から気遣うような提案をされる。
「ミルクパン便利よ買ったら?」
「私はどっかの誰かさんみたいに散財する趣味はありません」
他にも色々と言いたいことはあるけど、コーヒーを用意できないほどのことじゃない。この人と会った時点で、もうペースに巻き込まれることは避けられない。苛々するより巻き込まれた方がストレスは少ない。
色々と喋って長居されたら困る。……長居しないと思うけど。多分、仕事あるだろうし。
私の家には、コーヒー豆はもちろんのこと、スティックのインスタントコーヒーもあればドリップバッグもあり、友達や職場の人からお土産としてコーヒーを頂くことがある。つまり、私のキッチンには私でも把握していないようなコーヒーが眠っているのだ。
身を屈めて戸棚を探していると、牛乳はすぐに音を立てる。
目当てのドリップバッグを見つけて、すぐに火を止めようと思っていたら、長野さんが火を止めてくれた。
お礼を言うと、長野さんはサーバーに残っているコーヒーを指す。
「それで良いわよ? ホットミルクと合うコーヒーを淹れてくれなくても」
「長野さんの胃が荒れないか心配なので、それ用のをちゃんと用意してるんですよ」
……自分の発言に違和感を覚えたけど、まぁいい。これは私から先輩への復讐だ。長野さんは私の復讐に気づかず楽しげに笑う。
「よくそんなこと覚えるわね、感心感心」
そのドリップバッグは友達からの頂き物だった。珍しそうなのであげるわ、と言われた記憶がある。
そのコーヒーはお茶の葉がミックスしてあった。口の中に含むとコーヒーの味わいを覚えるのだが、鼻に抜ける感覚はお茶のそれだった。
だから私は一回だけ飲んで、好きになれず、飲まずに棚にしまっていた。
胃を守るために牛乳を加える長野さんに、ぴったりのコーヒーだと思う。
マグカップにドリップバッグを着けて、お湯を注ぐ。蒸らすためにアワーグラスをひっくり返す。
お茶とコーヒーが混ざった香りが長野さんの方にも流れたのか、訝しむような視線が右から感じる。
「ラテ?」
「コーヒーですよ」
「この香りで?」
長野さんの視線が頬から手元に移ったようで、私は余計な詮索をされないように話題を変える。本来ならもっと前にするべきことをようやく。遅過ぎた質問。
「今、何時か分かります?」
長野さんは腕時計に視線を落としたのか、部屋の空気が丸くなる。
「七時一三……四分ね」
アワーグラスの中の砂は全て落ちていて、私は二回目のお湯を注ぐ。
「どうしてそんな朝早くに人の家に来るんですか?」
迷惑とまでは言わなかったけど、限りなくその思いに近い言葉を返すと、長野さんは私の言葉に隠されている思いを全て無視して答えてくれた。
「駅前のカフェがどこも混むから?」
「ここ、どこか分かります?」
「私が卒業する時にすごく泣いてた可愛い可愛い後輩のお家」
冗談を言う時に露骨に声の角が消える分かりやすい癖。この人のこういうところ、好きじゃない。思わず、私の声が低くなって、睨むように長野さんを見た。
「家ですよね。カフェじゃないんですよ」
長野さんは私の視線から逃げるように私の家のリビングをぐるりと見た。
「限りなく近いじゃない? 美味しいコーヒーが飲めて、花もある」
「雰囲気の話をしてるんじゃないです」
私の口から溜息が零れて、流石に不味いと思った長野さんは素直に謝った。
「悪かったわよ」
謝罪の言葉も他の言葉と同じように、活き活きとしていて好きじゃない。
朝からこの人の声を聞くのはしんどいし、可能であれば休日に会いたくない人なんだけど、この人には少なくはない恩がある。大学一年生という限られた時間の中で、美味しいコーヒーについて最初に教えてくれたのは、この人だった。
家で、朝、自分のためにコーヒーを淹れる時間を作れるようにする。そういうことを教えてくれたのは、この人だった。
その教えは、今でもこうして守っており、仕事とオフの日を明確に分けてくれるスイッチとして機能している。悔しいことだけど。
昔のことを思い出すと、さっさと出て行ってほしい、と言い出しにくい。
普段だったら三回お湯を注ぐんだけど、長野さんの場合はそういうわけにはいかない。ドリップバッグを三角コーナーに捨てて、熱々のミルクを加えてかき混ぜる。
そうして、湯気の立つマグカップを長野さんの方へ差し出す。そもそもと前置きして、
「私が寝てたらどうする気だったんですか?」
と訊けば、返答は明るい笑い声。
「休みの日の朝を大事にできないほど社会に染まってないでしょ」
それからお礼を口にして、長野さんはマグカップを受け取る。私は溜め息をついて、使った器具を洗って片付ける。まだたっぷり残っている牛乳をどうしようかと一瞬考えたけど、冷蔵庫にしまうしかなかった。
役目を終えたようにキッチンに背中を預けて、ブラックコーヒーを飲む。
この人のペースに巻き込まれたら、折角の貴重な休日が大変なことになる。そう頭では分かってることだけど、隣に座る長野さんは、私のことを気にしないようにゆっくりと慎重に熱い飲み物を口に運ぼうとしている。
長野さんは猫舌だから、ホットを飲む時はいつも遅い。それなのに頼むものはいつも熱くしてほしい、と頼む。困った人。最初からアイスを頼めばいいのに。冷めるのを楽しんでいる、というけどよく分からない。
秋風で冷えた手を温めるようにマグカップを持っている。ゆっくり、恐る恐る、舌先だけを水面につける。まだ熱かったらしく、マグカップをキッチンへ置く。
私達は不意に、示し合わせたように口を閉ざした。それまで賑やかだったキッチンの周りは静けさに包まれる。私が訊けることは沢山あったし、長野さんが訊けることも沢山あった。でも私達は不思議とコーヒーの香りに包まれた沈黙に耳を傾けていた。
長野さんが大学を卒業してからのことは、ほとんど知らない。就職活動はすぐに上手くいったけど、そこからのことは何も教えてくれなかった。私との関係は大学で終わったような気がした。
私から訊かなかったのは、人を好き勝手に振り回す歳上の人から解放された充足感の方が強くて、気づけば一年、二年と過ぎ去って、大学を卒業して、社会に出た。自然消滅というだろう。自然消滅を避けるように荷造りや荷解きを頼んだら、長野さんは来てくれた。それ以来。
数年振りの再会で、私も長野さんも社会人として話せることはあったかもしれないけど、私達はいまだに大学の先輩と後輩のままだった。
長野さんの腕に巻かれた腕時計が時を刻む音だけが、キッチンに響く。
駅前のカフェが混んでいるから、と長野さんは言っていたけど、駅前のカフェが混んでいるのは今日に始まったことではない。何かあって家に来た可能性が高いと思うけど、本当にコーヒーのために来た可能性も捨てきれない。コーヒーを好んで飲むのに行列に並ぶのが嫌いなこの人なら、後輩の家でコーヒーを飲む方を優先するだろう。
長野さんはコーヒーに手をつけず、綺麗になったキッチンを見ている。不意に口を開き、私を現実へと引き戻す。
「モーニングはないの?」
「うちはコーヒーだけなんですよ。朝は」
長野さんの視線が私の奥にある冷蔵庫に流れる。
「卵とか食パンは?」
「ありませんよ」
さっき冷蔵庫の中を確認した時には、卵もパンもなかった。あったところで作らないけど。
「買いに行きましょうか?」
他にも買ってきてほしい食材を伝えれば買ってきてくれそう声音で提案される。
……でも、まだ朝の七時で、近所のスーパーはどこも閉まっていて、開いているのは精々コンビニや喫茶店やパン屋ぐらいだ。魅力的な提案だと思った自分が恥ずかしい。食パンと卵だったらコンビニで買えるけど、だったらそのまま長野さんを出勤させた方が良い。
私は奪われそうだった冷静さを取り戻し、突き放すように訊いてみる。
「そのまま帰ってくれます?」
長野さんは私の奥にある冷蔵庫を見たまま、意外な調子で訊いてくる。
「え、じゃ、ミルク、置いて帰っていいの?」
「え、持って帰るつもりだったんですか?」
「いや、プレゼントのつもりだったけど?」
「嫌いな物なんですけど?」
「嫌いな物を克服できるチャンスじゃない?」
「そんなプレゼントいりませんよ……」
嫌いなものを克服できるチャンスという言葉を反芻させ、私は訊く。
「今から駅前のカフェでも行きます?」
少しの間があって、長野さんが何かを願うように私の顔に視線を上げる。
「一緒に?」
「長野さんだけで、ですよ」
と一蹴すると、
「流石にこの短時間で二杯目は結構よ」
長野さんは眉を寄せ、少し冷えたと思われるマグカップを口元へ運ぶ。
こうやって話しているとコーヒーの飲み終えるまでずっと居座られてしまいそうで、私は自分の分のコーヒーだけでも先に飲み切って、改めて尋ねる。
「それで、一体本当は何の用なんですか?」
痺れを切らしたのが伝わったのか、長野さんはぐっと張った目を少し細めて、私を見上げる。マグカップで口元を隠してみせるが、そんな素振りは似合わない。
どうしてそんなことを訊くの? と言いたげな目に、私は続けてこう言う。
「私、今日、休みなんですよ。しかも有給なんですよ有給」
長野さんはマグカップを口元から離す。私を見上げる目は、私の発言が意外そうだったのか丸いものに変わる。そっと顔を寄せて気遣うように訊かれる。
「……もしかして有給取ったの、はじめて?」
牛乳とコーヒーが混ざった香りが、鼻先を掠める。お茶の香りも漂っていて、甘い。微かに眉を寄せて答える。
「去年も取りましたよ」
「安心したわ、取れる職場なのね」
長野さんは大袈裟にほっと息を吐いて、私の近くから離れるとローテブルへと置いていたトートバッグから小さな箱を取り出す。
スツールに座ることなく、私へと歩んできて、差し出す。ラッピングがされて赤いリボンで封された小さな箱。
「言ったでしょ、プレゼントよプレゼント。誕生日、おめでとう」
私は疲れたように大きく息を吐いて、驚くべきなのかどうするのか複雑な胸の内を隠すように笑う。
「誕生日なんてもう忘れてると思ってましたよ」
「あんだけアピールされたねぇ……」
昔のことを思い出して露骨に顔を歪める長野さん。
私がこの人に誕生日をアピールしたのは誕生日の一ヶ月前からだったと思う。先輩なんだからプレゼントくださいよ、そんな高価な物じゃなくていいですから、ピアスとかで十分ですからって言っていたら本当にピアスを用意してくれた。二十歳の時は凄かった。
そこから社会人になった長野さんと大学生の私は疎遠になって、当然、誕生日プレゼントもない。去年もなかったし今年もないだろうと思っていたら、用意してくるのは卑怯だ。油断してる時に渡すなんてもっと卑怯だ。……自然消滅だと思っていたのは、私だけなのかもしれない。私のことをかつてのように思っているのか訊けるチャンスだけど、答えを聞くのは怖い。
受け取る前に思わず言ってしまった。
「普通に渡しても良くないですか?」
長野さんは私の小言を気にする素振りを見せずに笑う。
「配慮よ配慮」
「何のですか」
「どうせ今日は友達にケーキ奢ってもらったりするんでしょ?」
「そうですけど?」
「だからよ」
何がだからなのか分からない。訊こうと思ったら、いらない? と手を引っ込まれそうになったので、受け取る。
リボンを解いて、封を開くと私に合いそうな、これから冬を迎えるのに浮かなさそうなマットな赤い口紅が入っていた。今、つければ冬を先取りできそうな色合い。
この人は、切り替えさせるのが上手だ。仕事のオンオフは勿論のこと、季節の切り替えさせ方も。そうやって人のスイッチを勝手に切り替えさせるところは嫌いだったし、好きだった。
長野さんは腕時計をちらりと見て、コーヒーを飲み干した。
「ごちそうさま、美味しかったわ」
長野さんは空になったマグカップを私の方へ差し出す。本当に誕生日プレゼントを渡すためだけに来たらしい。
プレゼントを脇に置いて、マグカップを受け取ると、長野さんの手がそのまま私の指に触れ、手首へと伸び、優しく引き寄せられる。
私が何か言うより先に、長野さんの顔が私の顔へと近づく。いけない近さであることを頭では分かっていたけど、どういうふうに断るべきか分からず、ただ長野さんの目を見ていた。怯えることもなく待っている私自身の姿を、長野さんの瞳の奥に見ながら。
こういうふうに近づく長野さんを見るのは今日がはじめてではなかったから。
唇に触れるだけの口づけは、ミルクとお茶の香りが混じって、甘さを覚える。普段嗅ぎ慣れない香り。長野さんだけの香り。
「今日はこれだけ」
囁かれ、続きを期待したように身体は硬直したけど、すぐに長野さんの顔は遠くなる。
そうするのが手っ取り早く、確実な答えであることを長野さんは分かっている。私が抱えていた全ての悩みや不安を消し去る。
ぼうっとしている私を目覚めさせるように長野さんは確認してくる。
「来週末、空いてる?」
プレゼントとして貰った口紅とは全然違う赤さを頬に覚え、持ったままのマグカップを洗うため長野さんに背を向ける。
「……空いてますけど」
「それじゃ、また来週ね」
こういうところも好きじゃない。でも嫌いになれない。そうやって人を自分のペースに巻き込むんだこの人は。そういうところに惹かれた自分が憎い。
マグカップを洗い、少しだけ落ち着いた私は長野さんの方を向いて言い返す。
「長野さんの誕生日でも何でもないですけど」
長野さんは荷物をまとめると、私の向こうにある冷蔵庫へと視線を投げた。
「賞味期限が来週なのよ」
どうせ飲まないでしょ、何か作りに来てあげるわ、と長野さんは明るい笑い声と共に高いヒールを鳴らして出て行く。
「まだ好きになれないでしょう?」
そんな言葉を最後に残して。
嫌いですという言葉は、確かな甘さを持って私の口の中に残っていた。〈了〉
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