【東方】歌と花と

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「歌と花と」

太陽の畑の側に居を構える風見幽香は、家の近くにも花畑を作った。

その花畑に少し前の夏から、新しい植物が植えられるようになったのは、茶友達として頻繁に訪れるアリス・マーガトロイドの存在が大きかった。

アリスは来訪の折に、何か新しい茶葉や菓子を用意してくれる。幽香は幽香でそのお礼に花を送るのだが、最近は花を加工した物を送ることもある。

幽香は花畑にナス科のとある花を植え、花を楽しんでいた。が、どうやらその花は綺麗な花自身よりも葉の方に注目されるらしいと花の届ける時に足を運んだ紅魔館や人里で教えられた。そして、アリスにも。

葉を収穫して、丁寧に巻き、一手間加えると一本の棒となる。この先端を上手く専用のカッターで切り落とし、焦がすように火を着けるとやがて上品な香りが部屋に広がる。

世間一般では、葉巻と呼ばれるそれ。

夏の間は向日葵で黄色く染まる花畑の一角で、幽香は煙草の葉を収穫して、全ての収穫を終えると一本吸ってみる。一夏が過ぎゆくのを懐かしむように。湿気に弱いと紅魔館で教えられ、専用のケースを貰った。

小さなキッチンで紅茶の準備をしていたアリスは、テーブルに積み重ねられたいくつもの箱を見て、訊く。

「また増えてない?」

幽香は葉巻を灰皿に置いて、呆れたように呟く。煙が、ゆっくりと天井へと昇っていく。

「いらないって言ったんだけどね……」

アリスは二人分の紅茶をトレーに乗せて、幽香の方へと歩んでくる。幽香の前へと腰掛けて、試すように微笑する。

「大妖怪の風見幽香が情に流されたってわけ?」

「いる?」

テーブルの上の箱を床に置きながら無愛想に幽香が尋ねると、きっぱりと断られる。

「いらないわよ」

「人形遣いは貰わないの?」

「貰わない主義なので」

「私だって、そうよ」

眉を顰めると、アリスから紅茶を振る舞われる。機嫌を直せ、と言いたげなスコーンも用意されている。

幽香は葉巻を嗜んでいるが、それは個人の範囲である。煙草の葉を巻いて作った、その程度だ。香りや味を楽しむ程度、アリスとの茶会の一時を賑やかなものにさせる。そんな程度だと思っていた。
というのも、葉巻の香りは、髪や衣類につくのだ。

花の香りを損なわないようにするのは、少しばかり難しい。それでも幽香は持ち前の能力を駆使して、花の香りを操った。葉巻の葉から匂いをしないようにすることもできたが、とてもだが良い葉巻と呼べる物ではなかった。

幽香が花を届ける先は紅魔館であったり、人里のとある家であったり、アリスであったりと幽香が葉巻を嗜んでいることについて何か言われることはない。

ところが人里に花を届けに行ったある日の帰り、通りの一角で、とある男に呼び止められた。商人である彼は、丁度手が空いたらしく煙管を手にしていた。

刻んだ煙草の葉を丸めて、管の中に入れて火を点して、吸う。一服の二文字が似合うように、極々短い間しか吸えない。

商人としては極々短い間だけでも気分転換ができれば良いらしいが、商いはそうとはいかないらしい。商売は長く続けばいいし、売り物はいくつあっても良いらしい。

人里に流通していない葉物となれば、売れるだろう。

幽香の持つ葉巻は一本を吸い終えるのに時間を要す。アリスが家を訪れた時に吸いはじめ、帰る頃にもまだ吸える程度にはある程度の長さを保っている。

長い間吸えてしまえば、多くは売れない。かといって、煙管のままでは売れ過ぎてしまう。葉の供給が間に合わない可能性がある。

葉巻より短く吸えて、煙管よりも長く吸える煙草。彼はその煙草を巻き煙草と呼ぶ。

新しい物として売り出したいが、煙管に用いる葉と同じ物を使ってしまえば、新しくない。
葉も変えたい。葉を変えたいが、そのツテは、彼にはない。

そこで幽香に目をつけたという訳だ。嗅いだことのない煙草の香りを纏う幽香に。

そうして幽香は商人の熱意に押され、栽培している煙草の葉の一部を彼に渡すことにした。そこから先のことは、商人のツテで巻き煙草になるらしい。

幽香が人里の商いに一枚噛むようになったのは、その時からだった。

幽香の渡した煙草の葉は、商人達により手のひらに収まる程度の短さに加工され、マッチ箱よりも少し大きい程度の箱に詰められて、耳目を集めた。

 

「これが、そんなにねぇ……」

アリスはそう言って、幽香の分として渡される巻き煙草の箱を手にする。

アリスはそのまま慣れた手付きで巻き煙草を取り出し、マッチで先端に火を点ける。この家で巻き煙草を吸うのは、アリスぐらいだった。

人里で商人から渡された巻き煙草を、幽香は試しに一本吸ってみたのだが、葉巻と比べて雑味を覚え、好みではなかった。

だから別にいらなかったし、一本でも一箱でも多く売ってくれればいい、と婉曲して伝えた。すると今度から商人は巻き煙草の本数を少なくして、紙幣を幽香に渡してきた。分け前、というやつだ。
アリスが言った増えてない? という疑問、幽香とアリスの間で行われた物のやり取りの対象はこの紙幣なのである。

商いは上々なのは、増え続ける紙幣からも明らかだった。だから、貨幣や紙幣で幽香達が作った巻き煙草は取引される。幽香は彼から売上の何割かを渡された。商いに携わっている以上、渡さないのは失礼だ、とは彼の言。

幽香は大いに困った。幽香は彼のように商人ではなく、人里で暮らしているわけでもないので、紙幣を必要とする暮らしをしていない。物を交換して、日々の暮らしに彩りを添えている妖怪である。人里もそうだと思っていたのだが、一部ではそうではないらしい。

この商いに携わった別の誰かにも譲ってほしいと伝えたが、譲ってこの量だと教えられた。ならば自分の取り分を少なくしてほしいと提案してみたが、どうやらこの量でも少ないようだ。それくらい、巻き煙草は人里で売れているらしい。

人里で使ってみようと試みたが、風見幽香の名前と顔は多くの人間に知れ渡っており、その素性も語られているようで受け取ってもらえなかった。博麗神社や守矢神社へ賽銭はできたが、使い切れるほどではなかった。度々足を運んで、何か企んでいるのではないか、と疑われてしまい、これはこれで困った。

使い道のなくなった紙幣は幽香の家に置かれ続け、堆く積まれるだけだった。完成した巻き煙草は、アリスが茶会の折に吸ったり、箱を持ち帰ってくれるお陰で消費できるのだが、紙幣はそういうわけにはいかない。

困り果てた幽香はある時、アリスに渡す巻き煙草の箱に紙幣を何枚か入れたことがある。次の日の茶会の洋菓子はカステラとケーキとパンという豪華なもの。フルーツもあった。もうそれは一食の食事に十分に値するものであり、幽香とアリスの二人で食べ切れる量ではなく、メディスンやリグルを捕まえて、細やかなパーティーを催すほどだった。これほどのものをどうしたか、と尋ねると人里の商人から買った、と教えてもらった。幽香が思っているよりも、アリスは人里での生き方に長けているらしかった。

アリスに紙幣を渡せば事は解決するのではないかと考えたが、その都度パーティーを開催されるのは困る。

幽香が悩んでいる間にも月日は過ぎ、草花は育ち、煙草の葉は収穫を迎え、紙幣は増え続ける。使い道を決めるのは、早い方が良い。

幽香は葉巻の味を口の中で楽しむと、煙をゆっくりと吐き出した。それから、紅茶に口をつける。アリスに問われ、幽香は悩みに悩んでようやく使い道を口にした。

「使い道、ありそうなの?」

「……咲夜にあげようかしら」

「……賄賂?」

「善意よ善意。寄付ってやつよ」

「いらないって言われたらどうするのよ?」

「人間は必要らしいじゃない?」

「咲夜よ?」

「人間でしょう? 生きるのに必要なんじゃない?」

幽香の真っ当な疑問にアリスは声を上げて笑った。変なところに煙が入ったのか、笑い声は咳払いに変わる。

人里の人間はそうだと聞いているし、買い物をしている咲夜と人里で会うことだってある。幽香よりも咲夜の方が必要だろう。

そう思っているのだが、アリスの反応を見るにどうやら咲夜はそういう人間ではないらしい。となると、受け取られる可能性は低いかもしれない。魔理沙の顔も浮かんだが、あれが幽香からの紙幣を受け取るとは考えにくいので却下。

「人間って少ないのね」

「妖怪にあげれば良いじゃない」

「嫌よ」

尤もらしい提案をしたアリスを、幽香は睨んだ。アリスは動じることなく、分かりきったことを尋ねた様子で、

「でしょうね」

と頷いた。短くなった煙草を灰皿に押し付けて消すと、紅茶を飲む。幽香の吸う葉巻はまだ全然長いままだった。

妖怪に紙幣をあげる選択肢が、幽香の頭になかったわけではない。アリスに相談したり、商人と話す前に思い浮かんだことだった。しかし幽香は、実行に移さなかった。今後も実行に移す気はない。

というのも、妖怪に紙幣をあげるという行為が、幽香の妖怪としての名を傷つける可能性が高いからだ。加えて、紙幣を受け取った妖怪が何をするのかも分からない。紙幣を使える場所は人里しかなく、そこで何かしてしまえば、幽香の元に霊夢達が来る。

そういう事態は避けたい。それに何よりも、そんなふうに妖怪に紙幣をあげるのは、幽香のプライドが許さない。

「私に勝った妖怪にあげようかしら」

「何か組合でも立ち上げる気?」

「どうしてそうなるのよ?」

「幽香と戦って勝った妖怪にお金をあげて、それで終わりってなるの?」

「なるわよ。私の暇潰しなんだから」

「暇潰しで巻き込まれる妖怪の身にもなってあげなさいよ」

「これに目が眩んで私の所にやってくる妖怪なんて心配する必要ある?」

「幽香らしいわね。……それで、本当にする気なの?」

「しないわよ。私に勝てる妖怪なんて僅かしかいないのに」

幽香は笑って、葉巻を吸う。

話は結局、進展する様子を見せない。カットした葉巻の先の火だけが、微かに燃え続ける。

アリスが用意してくれた紅茶はなくなり、幽香は礼として残っていた巻き煙草の箱をいくつか渡した。こんなにいらないわよ、と苦笑するアリスを適当にあしらって。

来た時よりも荷物が多くなったアリスを見送って、幽香はどうしようか、とまた紙幣について考えはじめた。人里に紛れ込む妖怪にこの紙幣を渡せればいいのだが、事はそう簡単ではないだろう。幽香も人里の商いというものに関心を持った方が良いのかもしれない。そうすれば、紙幣の使い道も浮かぶだろう。しかし幽香には、そんな興味は一つも生じなかった。

植物や土や水という自然について考える方が有意義だった。夜に紅魔館へ花を届ける予定があったのを思い出した。

その時に咲夜にお礼として渡しても良いのかもしれない。

灰皿に置いた葉巻は、まだ、薄い煙を部屋へ漂わせていた。

 

 

「……そんなことある? 普通、逆でしょ。花の配達を依頼した側が支払うのよ。こういうのは」

「そうね」

「そうねって……」

「レミリアにでもあげておいて」

「差し出す身にもなってちょうだい」

「そのまま言えばいいじゃない。私から貰いましたって」

「あなた、自分が客人って分かってる?」

紅魔館で従者として住み込みで働く十六夜咲夜は、幽香から渡された紙幣を見て、当然ともいえる調子で教えてくれた。

客間に通されソファへと座った幽香は適当に話を聞き流しながら、目の前にある壺のように大きい花瓶と向き合い、持ってきた花をどう生けようかと考えていた。

紅魔館に窓がなく、湖に近くに位置している。館の主人であるレミリア・スカーレットは夜を生きる吸血鬼である。そんなレミリアから咲夜に時々、お願いがあり、この花の配達もそのお願いの一つだった。

レミリア曰く、大きな館には花が必要不可欠。一輪の控えめで優しい印象を懐かせるのではなく、大きな花瓶に何本もの花を挿した豪華なもの。そんな花瓶を客間に飾りたいとのことだ。紅魔館に庭でも花は育てているようだが、そういう花はレミリアが言うには貧相らしい。紅魔館の客間には似合わないとのことだ。

そこで幽香に白羽の矢が立った。紅魔館はレミリアが吸血鬼ということもあって、陽の光が入りにくいよう窓が少なくなっており、館内はどこも赤を基調としている。花が目立つには、不向きな環境であろう、と幽香は思っているが口にはしない。

ただ花瓶と向き合い、考える。持ってきた花はどれも赤に近い暖色が多い。赤は勿論のこと、ピンクやオレンジであったり……。葉や枝だけのものもあることにはあるが、レミリアの要望を考えると使いにくい。バラやチューリップを何輪かまとめて生けることも考えたのだが、それはどうなのか、と幽香自身のプライドが許さなかった。

幽香は胸元のポケットから、アリスに渡しそびれた巻き煙草の箱を取り出し、一本取り出した。

「吸うのね」

マッチ箱を取り出し、火を点そうとした時、咲夜の気配が消えた。かと思えば、灰皿と真新しいマッチがテーブルに音もなく置かれた。

事が長くなると察した咲夜は幽香の正面に座っていた。花瓶の向こうに咲夜の涼しげな顔が見える。

「普段は吸わないのよ。美味しくないから」

幽香はそう前置きして、煙草に火を点けた。葉巻よりずっと簡単に吸えるのは有難いのだが、この味と香りはどうも得意になれない。顔を微かに顰めて白い煙を上空へ吐き出すと、咲夜がそっと声をかける。

「そんなに難しい?」

「そういうわけじゃないのよ。ちょっと気分転換」

「その顔で?」

「言ったでしょ、普段は吸わないって。吸う?」

巻き煙草の箱を開け、咲夜の方へ差し向けると手のひらを向けられた。

「お嬢様が嫌うので結構よ」

「あら初耳よ」

「客人にそんなこと言うわけないじゃない」

「煙草の煙は吸血鬼に効くってことかしら?」

「さぁ? 臭いが効くんじゃないかしら」

「じゃ、駄目ね」

と言って、箱をしまおうとしたのだが、咲夜の指が箱へと伸び、一本の煙草を手にした。そこから動作は、アリスよりも慣れているように見えた。

「嫌われるわよ?」

幽香が笑うと、咲夜も笑い返す。

「客人に吸われた以上、移るから仕方ないのよ」

「結構な理論だこと」

幽香は煙草を灰皿の脇に置き、花を生け始める。レミリアは鼻が効くようで、香りが強いものは避けた方が良いだろう。

頭の方々に散らばっていた考えが、煙草の煙で一つにまとめられたように、冴える。大輪の赤いヒナゲシとダリアを挿す。共に大きな花で存在感が強い。双方があまりに魅力的で互いを打ち消さないように、周りを補うように香りが控えめな白いカスミソウを添える。

幽香は置いていた煙草の灰を落とすとまた吸う。

その手際を見ていた咲夜は感嘆の言葉を漏らした。

「慣れたものね」

「簡単よ」

「これで完成?」

「何か言われたらまた新しく生けるわ」

「そんなに持って来たのに、使わないの?」

咲夜の視線が花瓶の花から幽香の隣へと移る。咲夜の言った通り、幽香は何種類もの花を両手で抱えて持って来た。それ自体が花束と呼ばれてもおかしくないような量の花を。

どういう花瓶なのか知らされていなかったのもあるが、レミリアや咲夜から要望があればその場で変更できるように。

「欲しかったら、部屋にでも飾る?」

「小さな花瓶でも良いのかしら?」

「ええ、好きな物を持ってきてちょうだい」

咲夜の持って来た花瓶はレミリアの希望した壺のように大きい花瓶とは全然違う。透明な、ガラスでできた一輪挿しの細長い花瓶。

「美鈴から花と一緒に貰ったんだけどね、屋敷の中での仕事が多いからあんまり使わなくなったのよ」

咲夜は恥じらいを隠すように大袈裟に煙草の煙を吐いた。幽香は微笑を零して、少し迷った後に、一本の白いカサブランカを選んだ。

「……百合?」

「そうね、綺麗でしょう?」

「ええ、ありがとう。これはお礼よ」

咲夜はそう言って、幽香が渡した紙幣を全額テーブルへと滑らせた。涼しげに煙草の火を灰皿にもみ消した咲夜を、幽香は睨むように見た。

「……紅魔館のメイドは随分とお上手ね」

「いらない?」

問われ、幽香は煙草を半ば強引に灰皿に押し付けて火を消した。

「……いるわよ」

幽香は花を愛で、日々暮らしている。人里でしか使えないような紙幣は必要ない。こうして花を届けたり、生けたりすれば、物と交換するだけで十分な生活を送っている。

この紙幣は咲夜の言った通り、幽香に対するお礼である。受け取らないことも可能であるが、それはきっと咲夜の気持ちを受け取らないということになり、咲夜の心を傷つけることになるだろう。幽香は咲夜をそんな気持ちにさせるために、カサブランカを挿したのではない。

ゆえに、受け取らざるを得なかった。戻ってきた紙幣を見て、幽香は肩を落とし、咲夜に一枚の紙幣を渡し、落胆した声で頼む。

「紅茶でも淹れてほしいわ。優しくて、甘い、夜に似合う紅茶を」

咲夜が満足気に微笑すると、すぐに暖かい紅茶が出てきた。アリスが普段用意する紅茶とは違い、香り高く、甘みが強い。それに嗅ぎ慣れない酒の香り。

「……わざわざお酒まで」

「これから帰るんでしょう? 冷えるわ」

幽香は煙草を吸い、紅茶で身体を温めながら戻ってきた紙幣の使い道について咲夜に尋ねた。アリスと同じように、人里で使えばいいじゃない、と言われた。幽香は再び困った。

「それじゃ、お嬢様に何かプレゼントでもする?」

咲夜の提案に、幽香はわずかに思い悩んだ。

「レミリアに? 何が欲しいのよ?」

「そうやって思い悩むのもプレゼントの楽しみじゃない?」

「銀のティーポットなんて、レミリアらしいと思わない?」

「本当に思ってる?」

咲夜の目が鋭くなって、幽香は冗談よ、と笑った。

紅茶を飲み干し、身体を温めると紅魔館を去った。花はいくらか少なくなったが、まだまだ全然両手で抱えないといけない量だった。

夜風は冷たく、温めた身体から容易に体温を奪う。身震いを起こすと、見送りに来ていた咲夜からストールを巻かれた。首元から全身へと流れるように。

「煙草の礼よ。また返しにきてちょうだい」

行きは飛んで紅魔館を訪れたが、帰りは飛ばずに歩いて帰ることにした。早く帰ることはできるのだが、その分、風を受け、冷える。それに、風に乗って、湖の方から聞こえて来た柔らかな歌声に少しでも耳を傾けておきたかった。

誰が歌っているのか、幽香には歌声だけでは判別できなかった。聞いたことのない歌声。紅魔館周辺に住まう妖怪の声を思い返していたが、どの妖怪の喉からもこの歌声が出るとは思えなかった。
夜は、その伸びやかな歌声に聞き惚れているように静かだった。時折、観客を誘うように風が吹く。幽香の足は自然とそっと湖へと向かう。

月明かりの元に、歌声の主人がいた。湖に身を沈めているようで、上半身だけを水中から出し小夜曲を歌う影。青を基調とした和服を纏う、見慣れない姿。月光を浴びる顔や髪はつい先程まで水を浴びていたのか、水滴が滴る。

幽香が木影に身を潜めたのは、きっと彼女の歌声を遮らないためだろう。あるいは、水浴びをする彼女の姿に恥じらいを覚えたためか。彼女の歌う歌は、夜に似合わないほど明るく、森の木々を揺らし、幽香の胸を高鳴らせる。

幽香は音楽に明るくなかった。だから、彼女の歌う歌がどのようなものなのか何も知らなかった。ただ、その歌が、誰かを求め歌われるということは聞き取れた。

幽香の背中から不意に風が流れ、髪や花を揺らした。途端、彼女の歌声が途切れた。幽香が潜む木の影に訝しむような視線を投げつけ、

「どなた?」

と問う。

幽香は焦ることなく、木影から姿を見せ、湖へと歩み寄る。幽香の髪や服に染み付いた煙草の臭いが、彼女を鼻先をかすめたのだろう。

「ごめんなさいね、邪魔をして。もう歌ってはくれないのかしら?」

幽香の声は落ち着きを装っていたが、その声の内に含まれる驚きや興味は、しっかりと彼女に伝わったようで、彼女は幽香と距離を取るように反対の岸へと泳ぐ。細い波紋が、広がる。水面を動いた影は人間の足というよりも、魚のように見えた。

反対の岸辺へ辿り着くと、彼女は幽香の全身を見た後で低い調子で尋ねる。

「どなた?」

「風見幽香よ、あなたは?」

「わかさぎ姫です」

わかさぎ姫と名乗る女の声は、歌声から想像できないほどに堅苦しいものへと変わっていた。幽香は困ったように微笑を零し、諦めきれない願いを口にする。

「それで、もう歌ってはくれないのかしら?」

「起こしてしまっては悪いでしょう?」

「その時は子守唄でも聞かせればいいじゃない。そうしたら、歌声も何もかもが夢だと思うわ」

「難しいことを言うんですね」

「苦手なのかしら、子守唄」

「歌ったことありませんの、そういう歌」

だったら、という幽香の言葉に重なるようにわかさぎ姫は否定の言葉を並べる。

「ですから、一人で練習しないといけません」

はっきりとした拒絶の態度を示された。これ以上はわかざぎ姫と関わるのは難しいと思われる。幽香は先程の歌声の礼に、と持っていた花束を水辺へと置く。

「さっきの歌のお礼とお詫びよ」

「……良いんですか?」

わかざぎ姫の視線が、幽香の周辺を泳いだ。幽香がこの湖に足を運んだことやこの花束が、わかさぎ姫のためではないことを勘繰るような視線。

幽香の視線はわかさぎ姫に釣られるように花束へと落ちた。

この花達は、わかざぎ姫のために選ばれた花達ではない。あの紅の館に住まう吸血鬼に依頼されて、用意した花々である。だから当然、この花の中には、わかさぎ姫には似合わないものもある。きっともしかすれば、似合わない花の方が多いかもしれない。

幽香がわかさぎ姫を知ったのは、今夜が初めてだ。どういう花が彼女に似合うのか、幽香にはまだ分からない。それでも、この花達が似合わないことだけは、分かる。

幽香が花達に哀憫を覚えながら、別の花のことを思った。わかさぎ姫の口から驚きに満ちた歓声が零れたのは、その直後だった。

花束は見る見る内に姿を変え、一本の花になった。すらりと伸びた茎の先には、縦に連なるように白い花。夜になると、ずっと香りが強くなるその花。本来なら、この時期に咲かない、寒さに弱くすぐに枯れてしまう花。

「……こっちの方が良いかもしれないわね」

幽香はそう呟いて、わかさぎ姫へ花を差し出した。わかさぎ姫は、そっと幽香の方へと泳ぐ。泳ぐ時に手で水を掻くような動作もなく、暗い水中に沈む下半身を動かしていた。

水中から白い手を出し、その花を受け取った。水が滴り、幽香の手を濡らした。

わかさぎ姫は一度も、水中から出ようとしない。もう秋も深まり、水中に居続けるには寒さを堪えるしかないような時分なのにも拘らず。

幽香はわかさぎ姫がこの小さな湖でしか生きられないことを悟った。人魚であるということも。
わかさぎ姫は香りを確かめるように花へと顔を近付ける。月明かりを受けて輝く顔には、人間にはないひれのようなものがある。

「良い香りですね」

微笑むわかさぎ姫の顔にはもう、幽香を疑うような色はどこにも見て取れなかった。幽香はその花について話そうと思った。寒さに弱く、きっとすぐに枯れてしまうだろう、と。けれども、わかさぎ姫の顔に浮かぶ喜びの色を見て、何も言えなくなった。

幽香はぐっと堪えて、ただ口元に寂しい笑みを浮かべるだけ。

幽香はわかさぎ姫に花を渡すと、踵を返す。湖の方から水面を叩くような音と共に、わかさぎ姫の哀願するような声がした。

「また、会えますか?」

幽香は足を止め、わかさぎ姫の方を振り向いて、先端が濡れたストールを指差した。

「ええ、会えるわ。これを返しに行くの」

「良かったです、それじゃ、また」

「明日は、何を聞かせてくれるのかしら?」

「何が良いでしょうか?」

「あなたの好きな歌が良いわ」

そう言って、幽香は帰路を急ぐ。湖の方からは、幽香の後ろ髪を引くような夜を想う歌声が響いていた。

 

 

翌る日の昼、幽香の部屋は風通しの良い部屋になっていた。咲夜から借りた大きなストールを窓の上半分に引っ掛け、丈の非常に短いカーテンのように吊るされていたからである。

夜までに乾くだろうか。幽香はそんなことを考えながら、ストール越しに見える太陽が少しでも長く姿を見せてほしいことを願っていた。

「……何があったのよ?」

連日訪れたアリスは窓を見た。質問に答えることなく、幽香は残念そうに報告する。

「今日は禁煙よ。借り物に臭いが移ったら駄目だから」

アリスは質問に答えない幽香を追求することなく、キッチンで紅茶の準備に取り掛かる。

「いや、私は別に構わないけど?」

「もし吸いたかったら、外でお願いね」

「そんなに吸わないのよ」

「そう? いつも吸うじゃない」

「まぁ吸うけど……」

「そういうことだから、できたら呼んでちょうだい」

家から出て行こうとする幽香を呼び止めるように、アリスの視線はストールへと投げられた。

「それ、誰から?」

幽香は簡単に答えながら家を出る。アリスの声は、ストールの向こうから聞こえてきた。

「咲夜から。昨晩、冷えたでしょう。それで、よ」

「それと煙草に何の関係があるってわけ?」

外はもう随分と冷えていた。日向に出ると暖かさを覚えるが、寒いことに変わりはない。

幽香は一度室内に戻って、羽織ものを取り出すと、すぐに外へ出た。視界の端に映ったアリスはキッチンで湯を用意しているところだった。

「レミリアよ」

突拍子のない幽香の返答に、アリスは微かに口を閉ざしていた。

「……咲夜のなんでしょ?」

幽香は窓の向こうから、声を上げる。

「レミリアが嫌いなのよ」

幽香の手には、味が良くないと思っている巻き煙草。葉巻の方が好みなのだが、外で長い間吸うわけにもいかない。それにアリスの淹れてくる紅茶が出来上がるまで、そう時間は掛からないだろう。

「……煙草を?」

「そうよ、咲夜は吸うのに」

咲夜が煙草を吸うことは昨日、知った。メイド長として働くため、色々と思うところがあるが言えないことも多く気苦労が絶えない。だから、煙草に火を点すのだろう。

そういうことを分かっているから、幽香は煙草に火を点すことを躊躇った。時が止められ、煙草の臭いなどどうとでもできると分かっているのに。

「主人にバレずに煙草をねぇ」

「きっと止めてるでしょ、時」

「それでも相手はレミリアよ? 嗅ぎ取れるんじゃないの?」

「でもバレてないらしいわ」

「怪しくない?」

「そう?」

「レミリアも分かって黙っていると思うわ」

「レミリアがそんな器用な真似できると思う?」

「するんじゃないの?」

「あのレミリアよ?」

「レミリアだからよ」

「随分と高く買ってるじゃない」

「そう?」

「そう見えるわ」

「気のせいよ」

アリスの声が近くなった。ストールの下からアリスが顔を覗かせる。碧眼が幽香の顔を見たと思えば、まだ全然長い煙草を見遣る。

「できたわよ」

幽香は気にかけることなく、煙草を吸う。

「早いのね」

「今日のはそういう茶葉なのよ」

幽香は煙草を吸い終えると家へと戻った。アリスの青い瞳を見て、わかさぎ姫の青い瞳を思い出した。アリスの瞳とは違う。透き通った宝石のような瞳を。そして、あの麗しい歌声のことも。
幽香は過去を思い返すように、わかさぎ姫が歌っていたリズムを鼻歌で奏でる。わかさぎ姫の歌っていたものとはかけ離れたものだったが。

テーブルには二人分の紅茶と砂糖やミルクが用意されていた。

「随分と機嫌が良いじゃない。ミルクを淹れて飲むと美味しいわよ」

楽しげに笑うアリスは、幽香の自身の正面の席へと促す。

「昨日、人魚と会ったわ」
席に着くや否や幽香はそんなことを口にした。そうしてミルクをたっぷり注ぎ一口飲むと、葉巻の先端を切り落とし、火を点す。ゆっくりと先端が燃え上がり、煙が上がる。

アリスは幽香の持つ葉巻を一瞥して、問う。

「外には出ないといけないんじゃない?」

「寒いわ」

「咲夜に怒られるわよ」

「知ってるから大丈夫よ」

「それで、人魚に会ったって?」

幽香は煙を吐き出すと、昨夜の歌を思い出し、柔らかい顔つきとなった。

「ええ。歌が上手なのよ、彼女」

「そうね。家に居る時に、聞こえるわ」

「昼でも歌ってくれるのかしら?」

「頼めば歌ってくれると思うわよ。物はあるじゃない」

アリスの視線が、家の端に置かれた箱に移った。紙幣が溜まりに溜まった箱へと。
幽香は大袈裟に溜め息を零し、たしなめる。

「品がないわよ、アリス」

「は?」

アリスの温度が低くなった声音を気にかけることなく、幽香は無言で、アリスの淹れてくれた紅茶をすする。

アリスの言った通り、わかさぎ姫は頼めば歌ってくれるだろう。幽香のことを思って。

幽香の聞きたいわかさぎ姫の歌声は、そういうのではない。もしかすれば、そういうものかもしれないが、幽香はただ、わかさぎ姫の歌声に耳を傾けたいのだ。

「そういうのじゃないのよ、アリス」

「何度も言わなくても分かったわよ……」

幽香は今夜も、彼女と会う予定である。今度こそ、彼女に似合う花を見繕ってあげたいのだが、何が似合うのかまだ分からない。

睡蓮や蓮の花という水中に咲く花が似合うのではないかと考えたが、わかさぎ姫の尾が花を傷つけてしまう可能性があったので、やめた。梅花藻や水草で花を咲かせる類も考えたが、それはきっともう飽きるほど見ているような気がする。

そういう水中とは近い距離に咲かない花の方が、彼女が喜ぶと思う。聞き慣れない美しい歌声に、幽香が惹かれたように。

「それで、花でも贈るつもりなのかしら?」

沈黙を破ったのは、アリスだった。幽香は恥じらうように視線を泳がせると、冷静を装って答えた。

「そうよ。これが難しくて困るわ。アリスは何か知らない?」

「何かって何よ?」

「わかさぎ姫の好みとかよ」

「知ってるように見える?」

「私よりは知ってるでしょ」

「知らないわよ……」

「どうして?」

「あ、でも、人里で見たことはあるわよ」

アリスの思い出したかのような発言に、幽香は眉根を寄せて、諭すように言う。

「……あのねアリス、わかさぎ姫は人魚なのよ」

「車椅子で、私の人形劇を観てたわよ」

どうやら嘘を言っているわけではないらしい。しかし、信じられない。アリスの言った通り、車椅子に乗せ、魚の尾を隠し、頭巾を被り耳周りのひれも隠せば、足の不自由な少女に見えなくもない。しかし……。

「それ、本当なの?」

幽香が目を見開き尋ねると、アリスは素気なく答える。

「信じたくないなら信じなくてもいいけど?」

「怒らないでちょうだいよ」

幽香は機嫌を直せ、と言いたげにアリスへ巻き煙草を渡す。別に怒ってないけれど、とアリスは呟き、巻き煙草を受け取ると火を点す。

わかさぎ姫が人里に出入りしていることは、アリスの証言もあり、具体性が増した。幽香は一度も見たことがないが。

幽香が人里に出向くのは、花を届けたり、家で育てる花について話したりする程度で、目的地が決まっている。わかさぎ姫は、そういう目的がなく、車椅子を押されているのだろう。そうして、目に付いたところで止めてもらう。だから、見たことがなくてもおかしいことはない。

しかし、アリスは会っている。そこが少し、幽香としては気に食わない。

わかさぎ姫が湖を抜け出し、アリスの人形劇を一人の観客として楽しめているのならば、良いような気がする。

「でも、良いことね……」

幽香は、人里の雑踏に混じるわかさぎ姫を思って、染み染みとそう呟かざるを得なかった。

アリスは幽香の言葉を受けても、何も言わなかった。外の風を受け、二人の煙草の煙が流れることも、ストールが乾きにくいことも、紅茶が冷めやすくなることも、わかさぎ姫に贈る花のことも。
ただ、横目で幽香を見たかと思えば、穏やかそうに笑うだけだった。

そんなアリスが意外だったのは、幽香だった。穏やかに、尋ねる。

「何かあったのかしら?」

「ないわよ。ただ、良い出会いだったようね」

「ええ、良い出会いだったわ」

幽香は葉巻を灰皿に置く。

火はまだ消えることなく、燃え続ける。煙は悠々と昇り続けた。

 

 

夜になっても、咲夜から借りたストールは乾かなかった。幽香は心持ち分厚いコートを羽織り、煙草と紙幣をポケットへとしまい、紅魔館を目指した。

森に入っても、湖の側を通りかかっても、紅魔館の前に着いても、わかさぎ姫の歌声はどこに居ても聞こえなかった。

道中で濡らした事実や乾かなかった理由や言い訳を考えてみたが、どれも咲夜を納得させられない気がして、紙幣を何枚か持って行くことにしたのだ。

幽香は人里の経済に詳しくなく、紙幣の扱いに長けていない。が、人に何かを依頼したりするのに、紙幣というのが便利なことは咲夜の言動を見て、理解できた。

咲夜は幽香から一部分が湿ったストールを受け取ったが、紙幣は受け取らなかった。

「干せば乾くでしょ」

そう言って、咲夜は遠方から足を運んだ客人をもてなす準備に取り掛かろうとする。その細い背に幽香が声をかけようとした時には、もう客間には一杯の紅茶が用意されていた。

幽香は湯気の立つ紅茶には手をつけず、持ってきた紙幣をテーブルへと置いた。咲夜は昨日のことを思い出し、呆れたように言う。

「受け取らないわよ」

「今回のは訳が違うのよ。お願いがあるの」

幽香が切り出すと、咲夜は微かに眉を寄せる。

「お願い?」

「聞いてくれるかしら?」

「叶えられるかどうか分からないわよ?」

「大丈夫よ、そんなに難しいことじゃないから」

幽香は紅茶に視線を落とした。明るい黄褐色の水面に映る頬が、これからのことを思って、弧を描く。

「二人分、温かい紅茶を用意してくれないかしら」

幽香のお願いに、咲夜は断る素振りを見せずに尋ねる。

「誰と誰の分を用意したらいいかしら?」

幽香の頭には、わかさぎ姫の顔が浮かんでいた。しかし、咲夜に言いたくなかった。そんな気が咲夜にないことが分かっているのだが、わかさぎ姫の名前を口にするのは憚られた。

「言わないといけない?」

「好みに合わせたいのよ」

「同じのを二つで良いわよ。喉の負担を和らげてくれたら嬉しいわ」

「……喉の?」

幽香のお願いの中身が少しずつ明らかになってくると、咲夜は首を傾げた。

「それで、外で飲めるようにしてほしいの」

「いつ?」

「今日、これから」

「少し待ってなさい」

咲夜は幽香からの紙幣を受け取ると、姿を消した。

「ありがとう、助かるわ」

幽香が礼を述べた時には、咲夜はもう客間に戻って来ていた。テーブルには、蓋の付いたバスケットが一つ。蓋を開け、中を覗くと、水筒とカップが二つ。それに何かを包んだ紙が入っていた。

「頼んでいない物があるけれど?」

「二杯の紅茶と釣り合わなかっただけよ」

「釣り合わない?」

「依頼料とね」

「また返しに来るわね」

「今度はこっちから赴くわ」

「そう? 遠いでしょう」

「だからよ。それに、また何か依頼されたら大変じゃない」

「じゃ、待ってるわ。うちは喫煙しても良いわよ。アリスも呼ぼうかしら?」

 

「……早く行かないと冷めるわよ」

咲夜に促され、幽香はバスケットを持って紅魔館を出た。

外はずっと静かだった。月は流れる雲に隠れ、星も雲にその姿を遮られ、辺りは暗い。

幽香は心持ち慎重に歩む。

湖の近くまで足を運んでも、昨夜のような歌声は聞こえない。湖が見えるようになっても、その水面には人影一つ見えない。

幽香が昨夜聞いた歌、湖に住む人魚。それら全てが一夜の夢のように思われた。

けれども湖の側には、すらりと天へと伸びる茎が残っていた。茎の先には縦へと並ぶ白い花があったのだが、今ではもうその姿は見えない。

幽香は膝を折り、そっと茎に触れた。湖の水が飛んだのか、点々と冷たい。

幽香は大きく息を吸った。夜になると一層強い香りを放つその香りを探す。香りは、湖の底へと続いているような気がした。

幽香は真っ暗な水面を覗き込んでみたが、水底まで光は通らず何も見えない。この湖のどこかに、わかさぎ姫がいると思うのだが。

幽香は湖の端に座り、バスケットを置き、そっと彼女の名前を呼んだ。

「わかさぎ姫、いないのかしら?」

答える代わりかのように、白い花の花弁が湖から浮かんできた。その花弁は、幽香が昨夜、彼女に渡したものだった。

きっと、わかさぎ姫はこの花が寒さに弱いことなど知りもしなかったのだろう。花が枯れることは知っているが、昨日の今日で花が崩れ落ちるなど考えてもいなかったに違いない。花が湖へと落ちた時、彼女の胸に去来したのは自らの過ち。

幽香はわかさぎ姫の心中を察し、優しく水底へ言葉を投げかける。

「聞いてちょうだい。この花は、本当なら今この時期に咲くような花じゃないの。もっと暑い時期に咲く花なのよ。寒さや湿気に弱いから、今のような時期には枯れてしまうのよ。だから、あなたが枯れさせたと責任を感じる必要はないわ」

月にかかっていた雲が流れ、細い光が辺りに降り注ぐ。水面に泡が浮かんだと思えば、わかさぎ姫が顔を半分程度出して、潤んだ瞳を幽香へと向けていた。口元はまだ水中へと隠れていた。
幽香は咲夜から受け取ったバスケットを開き、二人分の紅茶をカップへと注ぐ。湯気が立ち昇り、甘い香りが幽香の鼻先を漂う。香りは風に乗り、わかさぎ姫の方へと揺蕩い、潤んだ瞳は瞬く間に興味の色を帯びた。

音も立てることなく、わかさぎ姫は幽香の側まで泳ぎ、

「枯らしてしまったと思いました……」

と、頭を垂れる。

「悪いのは、時期を選ばなかった私よ」

幽香は残った茎に触れ、そっと願った。すると茎は突如として丸まり、小さな二つの鞠となって幽香の手の中に収まる。

「この茶は、あの紅魔館のメイドから。この花は、私から。歌のお礼に」

驚くわかさぎ姫を他所に、幽香は二つの鞠、各々のカップへと落とす。そして、そっとわかさぎ姫へと手渡す。幽香は冷えた指先を温めるように、両の手で包むようにカップを持つ。

紅茶へと沈んだ鞠は花が咲くように開き、白い花が連なる。かと思えば、花は砂糖のように熱い紅茶の内で溶け、消えた。

わかさぎ姫の悲鳴にも似た驚きに満ちた声が、夜を裂く。森の木々が騒々しく揺れた。

わかさぎ姫は恥じるように口元を押さえ、幽香に小さな声で問い掛ける。

「……幽香さんは魔法使いなんでしょうか?」

「花を愛でるのが好きな、ただの妖怪よ」

幽香はそう言って、咲夜に作らせた紅茶に口を付ける。メープルを足したようで、口の中ですぐに甘さが広がる。素直な感想を幽香は口にする。

「甘いわね……」

「甘いですね、お好みではありませんか?」

「好きよ、こういうのも。良いアクセントになって」

幽香はわかさぎ姫の歌を聞きたかった。しかし、もう切り出してしまうのは忍びない気がした。わかさぎ姫の歌が終われば、もうここから去らないといけないような、そんな予感もあった。

だから、幽香はアリスが人里でわかさぎ姫を見かけたという噂が本当なのかどうか確かめることにした。アリスに頼らないといけないほど、二人の関わりはまだ全然薄いものだった。

「アリスが、人里であなたを見たって聞いたけど本当?」

わかさぎ姫の表情が氷のように冷たくなった。幽香の発言の真意を確かめるように、青い瞳をじっと向ける。瞳の奥には、敵対心とも見て取れるような激しい火が灯っている。

幽香はすぐに話題を間違えたと謝りたくなったが、もう何を言っても遅いのは明らかだった。

謝りたいと思う一方で、わかさぎ姫と戦える喜びを覚えている。背中が震え上がったのは、きっと寒さだけのせいではないだろう。

両手でカップを包むように持っているが、弾幕の展開は容易にできる。しかしそれよりも早く、わかさぎ姫が幽香を水中へと引き込めば、事は分からない。流石の幽香といえども、人魚と戦った経験はない。水の中となれば、わかさぎ姫に分があると思われる。

刺々しい沈黙を和らげるように幽香は笑った。

「私は何もあなたと戦いたいわけじゃないのよ。ただ、アリスの言っていることが信じられなくて……」

彼女の反応から、アリスの発言が事実であること、わかさぎ姫が人里に出入りしていること確かだと理解できた。

「何か事情があるんでしょう?」

わかさぎ姫はまだ沈黙を守っている。幽香は、彼女の緊張を解きほぐすように言葉を並べる。
バスケットの包みの中には、何枚かのビスケットが入っていた。ビスケットはまだ熱く、幽香は包み紙を少し破って、手にして食べる。

「私だって配達とかで人里に足を運ぶわ。何かしら事情があるんだったら、良いと思うのよ。人間にはバレてないんだから良いと思うわよ」

わかさぎ姫の視線が幽香を外れ、聳える紅魔館や鬱蒼と生い茂る森へに移った。紅魔館の門扉をくぐれば、レミリアや咲夜がいる。森の中にはアリスや魔理沙が暮らしている。

この湖から声を張り上げても彼女達は耳を傾けるだけで、わかさぎ姫の所まで足を運ばない。

夜に付き添う美しい歌声に、仕事の手をはたと止める程度だろう。

咲夜が人里に赴く時に紅魔館を出て行くことはあるが、湖に住まう人魚姫のことなど気にかけないことだろう。

わかさぎ姫の瞳は紅魔館や森を巡り終えると、夜の闇に濡れる。

「ここには何もありませんから」

寂しい声が、わかさぎ姫の唇から零れる。カップを持つ手が小刻みに震えているように見えたのは、きっと幽香の気のせいではないだろう。

昼間の人里は人間の活気に溢れ、射命丸文やアリスや鈴仙・優曇華院・イナバも紛れ込んでいる。もしかすれば、その活気は、この湖まで届いているかもしれない。夜に歌うわかさぎ姫の歌声がアリスに聞こえているように。

わかさぎ姫がそこに行ってみたい、と希うのは当然なのかもしれない。

しかし、わかさぎ姫の下半身は魚の尾であり、一人では陸に上がることもできない。助けを借りなければ、自由に動くことすらできない。幽香のように人里へ行ったり、紅魔館に足を運んだり、湖の前で膝を折り、話すことも、彼女にはできないことなのである。

幽香は優しい笑顔を浮かべ、わかさぎ姫が人里へ訪れる理由に頷いた。幽香はわかさぎ姫の瞳から涙を零れるのを防ぐように、彼女にビスケットを渡した。

「良い理由だと思うわ」

わかさぎ姫は少しビスケットをかじると、怯えたような調子で答える。

「そう言っていただけると助かります」

「アリスの人形劇、楽しかった?」

幽香はアリスが人里で行う人形劇をあまり見たことがなかった。家で練習したり、メディスンやリグル相手に披露している姿は見たことあるのだが。幽香の姿を認めると、そこで終わる。

全てを見せてくれてもいいじゃない、とアリスに文句を言ったことがあるが、幽香向けではないと一蹴された。そうして、人里で観れることを教えてくれるのだが、そうなると不思議と観に行きたくなくなった。

「新鮮で、可愛らしくて、楽しかったです」

朗らかに笑うわかさぎ姫に、幽香は続けて人里の様子について知りたくなった。

「他には人里で何を見たの?」

「多くのお店がありました。それに背が今よりも空に近くなって、風に耳を傾けなくても沢山の人が話していて、凄かったです」

「美味しい物も沢山あるでしょう」

「私は何も持ってませんから……」

人里では物と物との交換することはある。わかさぎ姫が一曲歌えば、その見返りに多くの物が手に入るのではないだろうか。わかさぎ姫の口振りから、彼女が人里で歌声を披露したことはないようだった。

「歌ってあげればいいじゃない」

「歌ったら、私が人魚で妖怪だと明らかになってしまいます」

「人間は夜寝ているじゃない、誰も聞いていないわよ」

「妖怪は聞いているでしょう?」

「そうね。でも、そんなこと問題ないじゃない」

「人里に紛れ込んでいる妖怪は自らの素性を隠しています。郷に入れば郷に従え、です」

「そういうものなのかしら?」

「そういうものです」

「難しいわね……」

「難しい、でしょうか?」

「難しいわ」

幽香はわかさぎ姫の言っていることに共感できずにいた。幽香も人里に出入りしているが、天狗や兎のように何者かに扮しているわけではない。わかさぎ姫のように誰かの力を借りなければならないわけではない。

普段通りの装いで、普段通りに過ごしている。そのことで、周りから何か言われることはない。人里で異変を起こす気はないし、家々に花を届けに回ったり、里に流れる小川の岸辺に咲く花を見に行ったりする程度だ。最近ではそこに、煙草の商いも加わったが。

幽香が気づいていないだけで、商人の彼は幽香が人里に足を運んだ時に風通しを良くなるように、色々なところに働きかけてくれているのかもしれない。それでも、あれほどの紙幣を幽香が受け取らざるを得ないのは釈然としない。全額をその働きかけに用いてもらっても構わないと幽香は未だに思っている。

また季節が過ぎると、彼から紙幣を受け取る時が来る。幽香が使い道に困っている紙幣が。

幽香が妙案を得たのは、そんな時だった。ビスケットを食べ終えると、わかさぎ姫に弾んだ声で訊く。

「ねぇだったら、今度、一緒に出かけましょうよ」

わかさぎ姫は要領が掴めていないのか、一つずつ確認をとる。

「お出かけ……? あの、どちらに?」

「人里よ」

「誰と誰がでしょうか?」

「私とあなたで。お金の心配ならしなくていいわ。余るぐらい持っているから。これを機に使っちゃいましょう。きっと何でも買えるわ。好きな物だって食べ放題。凄いことだと思わない?」

幽香は自身の頬が熱くなるのを覚え、語る言葉も熱くなった。わかさぎ姫は冷静に狼狽していて、幽香は一人でくすりと笑った。

「あ、あの、幽香さん、ちょ、ちょっと待ってください」

「何か不満でもあるのかしら?」

「不満……不満ではないんです。ただ……」

「ただ……?」

「どうして私なんでしょうか?」

戸惑うわかさぎ姫に、幽香は彼女の目をまっすぐ見て答えた。

「私、きっとあなたに惚れているわ。心惹かれているの。あなたの声が好き。あなたの歌声が好き。あなたと一緒に見たい景色があるし、行きたい所があるのよ。これはその第一歩。だから、一緒に行きましょう?」

わかさぎ姫の白い頬がにわかに熱くなった。幽香の頬もこれ以上ないほどに火照っていた。

わかさぎ姫は尻込みするように恐る恐る、幽香に訊く。

「私は自分一人では歩けませんが、それでも構いませんか?」

「ええ、構わないわ。私、人里には少し詳しいから」

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 

 

わかさぎ姫と人里へ行く約束した幽香だったが、いつ行くかまでは決められなかった。というのも、幽香側がやらなければならないことが一つだけあり、それに時間を要していた。

幽香はクローゼットの中身を全て確認したが、そこには何度見ても見慣れた洋服しか入っていない。姿見鏡の前で何着か着てみるが、鏡に写るのは普段と何一つ変わらない幽香。

幽香は疲れたように息をはき、テーブルに卓上鏡を置いて、髪を切ってみようと思ったが、どういう髪にすれば良いのか分からない。眼鏡をかければそれっぽく見えるのではないかと思って、人里で買ったはいいが掛ける機会に恵まれず、似合っているかどうかすら分からない。

「……大妖怪である風見幽香が何事よ」

昼を過ぎた頃にアリスが姿を見せた。アリスは部屋に散らばる衣類や煩雑となったテーブルを見て、呆れたように言う。幽香は前髪にハサミを入れようとした手を止め、平静に答える。

「考え事よ」

「髪型の?」

「色々よ」

「そ、大変ね」

アリスは簡単に同意して、幽香の脇を通り抜け、紅茶の準備に取り掛かる。

幽香を悩ませていたのは、幽香自身の扮装であった。幽香としては普段通りの格好で良いと思っていたのだが、それは幽香が一人で動く場合に限るだろう。

今回は、わかさぎ姫がいる。幽香がわかさぎ姫の車椅子を押し、人里を巡る。幽香が普段通りの装いでそんなことをすれば、車椅子に乗る少女は何者なのか、と思いを巡らせてしまう。

わかさぎ姫はこれからも誰かに車椅子を押されて人里を過ごす。過ごしにくい環境を、幽香が作ってしまってはいけない。

「わかさぎ姫と人里へ行くことになったわ」

家に不可思議な沈黙が落ちた。アリスは手を止め、驚きに満ちた声で沈黙を破る。

「……え、どうして?」

「私が誘ったの」

幽香の説明にアリスはまだ全然理解ができていない様子で、続けて問われる。

「……どうして?」

「一緒に行きたかったから」

アリスはようやく理解ができたのか紅茶の準備を再開し、散らかった幽香の家を見渡して楽しげに笑う。

「それで、人間になろうとしているわけ?」

「理解が早くて助かるわ」

幽香はハサミをテーブルに置いて、アリスに巻き煙草の箱を二つ三つと投げる。箱は巻き煙草が入っているとは思えないほど重さがあった。

アリスは紅茶を準備する手を止めることなく、人形達を使って受け止める。アリスの視線が箱の中へと落ちる。

「これでどうしろと?」

「私に似合う服を買ってきて」

「私が?」

「ええ」

幽香が頷くとアリスは少し悩んだ素振りを見せる。

「希望はあるかしら?」

「人里で歩いていてもおかしくない物で頼むわ」

アリスは幽香の全身を見て、人形達に何かを命じたのか幽香の回りを飛び回る。幽香は驚くことなく、人形達やアリスのされるがままとなった。

「採寸かしら?」

「そうよ」

「いる? もう着ないかもしれないのに」

「一回しか着ないから、ちゃんと測るのよ。嫌でしょ、窮屈だったり、大きかったしたら」

「……まだ足りなかったら、後で渡すわ」

人形達が離れると、幽香は部屋に転がっている紙幣の束を、アリスに渡した。

アリスは紅茶を用意する手を止め、全ての器具を片付けはじめた。

「今日のティータイムは中止ね」

「悪いわね」

「良いわよ別に気にしなくて」

そう言ってアリスは幽香の宅を離れた。

残された幽香は一人で簡単に紅茶を淹れる。手持ち無沙汰になって、葉巻の先端をカットしようとしたが、この香りが服についてしまえば人里に人間として紛れ込むのが難しくなってしまうのではないだろう、と躊躇いを覚えた。

幽香の吸う葉巻の香りは、幻想郷のどこを探しても見当たらない。人里に流通している巻き煙草は幽香の持つ葉巻と同じ葉を使っているのだが、葉を刻み、巻く工程で何か手間を加えているのか香りが落ちる。

わかさぎ姫と会うようになってから煙草を吸う頻度が減ったような気がしたが、きっと気のせいではないだろう。煙草は喉に悪い、とどこかで耳にしたせいなのかもしれない。良い香りと味を楽しめるのだが。

幽香は葉巻をしまい、諦めたように巻き煙草に火を点けて、アリスの帰りを待った。髪を切るか切らないか考えながら。

アリスが帰ってきたのは、日が暮れる頃だった。幽香は髪は依然として長かった。

アリスは筒のような布を何本も持っていた。予想していなかった布の多さに、幽香は目を丸くした。

「多くない?」

「冬だから」

「え、何、その理由……」

アリスは悪びれる様子はなく、幽香の小言を気にせず、人形達を巧み操りはじめる。すると、布は瞬く間に二本の着物となり、帯になった。鮮やかな手つきに、幽香は小さく拍手して、賞賛の声を上げる。

「凄いわね」

「まぁ慣れているからこういうのは」

「でも大きさが違うでしょう?」

「慣れよ慣れよ」

「都会派は違うわね」

幽香はそんなことを言いながら、着慣れない和服に袖を通した。緑を基調とした和服は所々に花があしらわれていた。蘭のほっそりとした姿もあれば、松が生い茂っているのも見えれば、紅白の梅の花が枝から流れているのも見える。

織られた帯は幽香が想像しているよりも太く、長い。身体に一周巻いても、まだ余ることだろう。締めて着ると思うのだが、幽香にはどう使えばいいか分からない。

困ったようにアリスを見ると、人形達にも手伝われ、着ることができた。普段締めないところを締めていることもあってか息苦しさを覚えるが、苦しいほどではなかった。

「……凄いわね、アリス」

姿見に写る姿は普段の幽香ではなかった。幽香は自分の頬が興奮で紅くなっていることに気づいた。
一見すると地味そうに見える緑の和服は随所随所に散らばった花のお陰で、決して地味に感じさせることはなく、むしろ華やかに見える。あれほど長く大きかった帯は、アリス達の手によって丁寧に巻かれ、幽香の背中で大輪のように花開いている。

クローゼットにあった帽子やテーブルに置いていた眼鏡をかけると、風見幽香の姿は全然見て取れなかった。似合わないと思っていた眼鏡も似合うように感じる。

「どうかしら?」

幽香は姿見の前から首だけを動かし、アリスを見た。

アリスは腰を休め、いつの間にか淹れていた紅茶を飲みながら、姿見鏡の前から動かない幽香を見ていた。

「思ったよりも似合うわね」

「こういう時って、あれを履くのよね。下駄だったかしら?」

「いつものブーツでも良いんじゃないの?」

意外な提案に、幽香は首を傾げる。こういう服を着る者の多くは、幽香やアリスが履いているようなブーツではなく、下駄を履いている。実際、人里で行き交う者はそういう履き物をしている。

「合うかしら?」

「慣れてる履き物の方が良いわよ。下駄って擦れるし、足を痛めたら駄目でしょ」

アリスに笑われ、幽香は少し恥ずかしげに笑い返す。都会派の人形使いは冷静に現実を見据えていた。

幽香の扮装が整うと、わかさぎ姫との人里での密会はすぐに進み始めた。

和服の幽香が紅魔館や湖まで来ては他の怪しまれる可能性があるため、人里に至る途中までを咲夜に手伝ってもらうことにした。依頼として紙幣を積むと、咲夜はそんなにいらないけれど、と幾らかを幽香に返した。

森を抜け、道中でわかさぎ姫の友人達と合流し、咲夜が時を止めた後に人里に忍び込む。

幽香は幽香でアリスの手を借り、人里で人間の一人に姿を変える。借りる家の目星はついていて、交渉は容易だと踏んでいる。わかさぎ姫と落ち合うのも、その商家とした。その商家の人間ならば、幽香でも容易く交渉できるのではないか、と思っている。必要な物は幽香の家に揃っていたから。

湖にわかさぎ姫を帰すのは、行きと逆になるだけだった。わかさぎ姫を湖に帰すのがいつになるのか分からないかもしれないと咲夜に伝えると、咲夜の仕事の都合上、夜になるまでには帰してほしい、と言われた。どうやらこの件も、主人であるレミリアには気づかれたくないらしい。

わかさぎ姫も夜には湖に帰らなければ、友達に心配されると言っていた。幽香としては、別に夜を迎えても湖にわかさぎ姫を帰すことは容易なのだが、本人たっての希望となれば話は変わる。幽香は少なからず不本意だったが、表情には出さずに夜に別れることで同意した。

二人の密会は、日の高い冬のある日に始められた。

妖怪の山や人里を紅く染めていた紅葉は地に落ち、銀杏の黄色い葉も風に流れ、どこの木々も寂しく震えていた。落ち葉を踏み締める音が人里のどこからでも聞こえた。

幽香とアリスは一軒の商家へと足を運んだ。

煙草屋を営むその家は、他の家より広く、二階もあり、里の大通りとは離れたところに建っていた。アリスは二階を見上げ、小さな声で尋ねる。

「二階から侵入する?」

「騒ぎを起こしたら駄目よ、正面から行けばいいのよ」

暖簾の前には商人が居り、その前には見慣れた巻き煙草の箱もあれば、見慣れない煙草の葉もある。必要であれば、店の中で試しに味わうこともできる、と書かれている看板もある。

そういうわけなので幽香とアリスが暖簾をくぐり、さも客人として中に招かれ、商人の顔を見渡した。

突然の幽香の訪問に家の中は、はっきりとした緊張感に包まれていた。何人もの商人が顔を見合わせ、何事か、妖怪が何故ここにと微かに話す。アリスの、駄目じゃない、という声もその中には混じっていた。

商人達の中には幽香に声をかけ、巻き煙草を流通に乗せた彼の姿もある。商人達の中でも一際青い顔をしている。幽香の素性を知らなかったのか、それとも彼の商いは多くは語られず明るみになることを避けたかったのか。どちらであれ幽香は彼のことなど、どうでもよかった。

幽香は商談に来たわけではないことをまず伝えた。それだけで幾分か空気は和らいだが、ならば一体どうして妖怪が足を運んだのかという疑問が残り、幽香はどう説明するか悩んだ。

そして、これから起きる出来事を口外しないこと、一切の迷惑はかけないこと、着替えるのに部屋を貸してほしいこと、手伝ってくれれば煙草の葉の入荷料を増やすことを伝えると、使い道のなかった紙幣の束を近くにいた商人に渡す。商人達はその紙幣の量にまたしても顔を見合わせ、黙って何度も頷くと、幽香達を奥へと通す。二階だと何かあった際に大丈夫なのではないか、と二階へと案内される。

幽香が和服に着替え終えると、引き戸を数度叩かれる。戸を開けると、先程よりかは幾分か顔色が良くなった彼の姿。階下からは煙が昇ってくるばかりで話し声は聞こえない。皆、二階にいる幽香を言動に注意を払っているようだった。

面識があるらしい彼に白羽の矢が立ったというところだろう。

「聞きたいことがあるんでしょう?」

と、幽香が中に招いても、部屋の隅でじっと俯いている。幽香は下の者達に聞かれてもいいと思い、戸を閉めることなく声を上げた。

「下の皆に隠し事がある?」

膝の上で握られた両方の拳が震えているところを見るに、本当に幽香のことを知らなかったように思われる。あるいは、秘密が明らかになることへの恐怖か。

彼は顔を上げることなく懸命に頷く。

「幾つ隠し事があるの?」

彼は幽香の前に指を一本だけ出した。

「私が妖怪だと知らなかった?」

彼はゆっくりと首を振った。幽香はその返事に声を上げて笑った。知っていて声をかけたとばかり思っていた。人里ではそういう妖怪に対する書物が流通しているのではなかったのだろうか。人里で暮らす少女がそういう書物を書くために幽香の元に話を聞きに来たこともあったというのに。

「別に取って食おうって気はないわよ、全然。そういう野蛮なことはしない主義だから。それに私達は商売仲間でしょう? それだけじゃないわ、こうして協力もしてもらってるんだから悪いようにはしないわよ」

幽香がそう答えると、彼はいよいよ堪えきれなくなったように、震える唇から、か細い声を上げる。

「……何があるんです?」

幽香は窓辺に寄り掛かり、通りに耳を傾ける。わかさぎ姫はまだ来ていないらしい。何かあったのだろうかと心配になる。懐から葉巻を取り出そうとしたが、吸っている途中でわかさぎ姫が来てしまっては困る。

アリスは表に出て、新しい煙草を選んでいるらしく別の商人との話し声が聞こえてくる。

「人を待ってるのよ」

「ひ、人……? 誰です?」

幽香がどう答えようか悩んでいた時、階下から玉のような声。

「煙草屋さんはこちらでよろしかったでしょうか?」

幽香は微笑を浮かべて、腰を上げた。彼から葉巻用の器具とマッチを受け取ると、裾を踏まないように慎重に階段を下りる。

暖簾の向こうには、車椅子に座るわかさぎ姫の姿。想像していた通り、頭巾を耳元まで被り、膝から下は大きな毛布を掛けている。真昼間に見る彼女は月の光のように白い。

幽香は付き人に黙礼をして、車椅子の操縦を変わった。わかさぎ姫は幽香のすっかり変わった姿を見て、潤んだ青い瞳を見開かせていた。戸惑ったような視線を付き人に投げる。

「私よ。さ、夜まで時間がないわ」

幽香が優しく声をかけると、安堵と惑いが混じった表情を見せた。それから何度か暖簾の向こうで新しい味を試しているアリスを背中を見た。

わかさぎ姫を乗せた車椅子は、ゆっくりと煙草屋を離れ、人里の往来へと紛れる。

煙草屋が人混みの中から見えなくなった頃、わかさぎ姫はようやく声を上げた。

「……驚きました」

「郷に入れば郷に従え、ってやつよ」

「そんなことされないと思っておりましたので。それに……」

わかさぎ姫は一度、言葉を切った。幽香が続きを急かすと、ゆっくりと答える。

「それに?」

「大変に、綺麗です」

帽子や襟の隙間から覗ける、わかさぎ姫の首筋が紅く染まった。幽香の頬も赤くなった。わかさぎ姫は前だけを見ていたので彼女に悟られないように、平静を努めて言う。

「アリスのお陰よ」

「良いお友達なんですね」

わかさぎ姫の微笑ましい声が聞こえたような気がして、幽香は露骨に話題を変えた。幽香の声は半ば焦っていた。無理もないことなのかもしれない。今日という日は刻一刻と過ぎ、夜になれば彼女と別れることになるのだから。

「それで、どこか行きたいところはあるかしら?」

「幽香さんはどちらによく赴かれるんでしょうか?」

「私? 私はそうね、あそこの家とか向こうの家とか、あるいは花屋とか、花がある所だったらどこへでも」

幽香はそう言って、通りにある家に視線を投げたり、ずっと向こうにある大きな家を指差した。

「ここにもお花が?」

「ええ、どこにでも咲くわよ」

「私の周りには咲いていないように見えますが……」

「そんなことないわよ。ちゃんと見てあげて。じっくりゆっくり、焦らず慌てず、時間をかけて。見つけられるわ。一緒に出かけましょう」

そんなことを話していると一軒の貸本屋の前を通った。わかさぎ姫が花を見つけられないのは、きっと花の名前を知らないからだろう。

幽香とわかさぎ姫は通りに店を構える貸本屋に入った。店番をしている少女に花の図鑑を探している、持ち運びができるぐらいの大きさの本はないか、と伝えた。幽香の要望を聞くと、大きな本から小さな本まで何冊もの本を抱えて少女は戻ってくる。車椅子に乗るわかさぎ姫ならば大きい本でも持ち運びはできるだろうと思っているのかもしれない。

多くの花が掲載されているのは大きな本であるが、わかさぎ姫の膝に乗せるとしては重いだろう。花がスケッチされ、説明もついている手の平に収まる程度の本を借りて、わかさぎ姫へと渡す。今日の夜には返しに来ることを幽香が伝えると、少女はそんなに急ぐことはありませんよと言われ、その厚意に甘えることにした。

貸本代を支払い、店を後にする。

「プレゼント、ですね」

わかさぎ姫が喜びに満ちた声を上げ、すぐに本を開き始めた。幽香はそんなことはないわと否定しながら、彼女の背中越しにスケッチされた花を見たり、目的もなく歩く通りを見ていた。日は少し傾き、眩い光を辺りへ振りまく。

わかさぎ姫は口数が少なくなり、本のページをめくる。

わかさぎ姫は多くのことは語らないが、湖に住む彼女が本を読むことは幽香が思っているよりも難しいのだろう。聞かされることはあるかもしれないが、本を手に持ち、自分の目で書かれている文字を追いかけることは、きっと今が初めてだろう。本が濡れてしまうことを考えられないわかさぎ姫ではないだろう。

幽香は周りを見なくていいのだろうかと不安に思った。わかさぎ姫がこうして人里を過ごせる時間は多くない。もっと沢山の事や物を見て、幽香が疲れるほどに振り回して良いのではないだろうか。しかしわかさぎ姫はそんなことはせず、本を読んでいる。

時々、わかさぎ姫は幽香の名前を呼んだ。本のページを幽香に見せると、この花について教えてほしいと言う。幽香はその花の名前や色や香りについて話しながら、一軒の茶屋の前で立ち止まった。ゆっくり話しましょう、と幽香が告げるとわかさぎ姫は頷く。

車椅子に乗るわかさぎ姫は中に入ることはできないようで、店の外に置かれている腰掛けを使用を提案された。

幽香は車椅子を腰掛けの横に止め、わかさぎ姫の隣に座る。彼女の膝の上に開かれる本を見て、一つ一つ教える。幻想郷のどこで見られるかも話す。幽香は興味深く話を聞くわかさぎ姫に自然とこう訊いた。

「他に行きたいところはない?」

日はもう傾き、茜色の光が人里に濃い影をもたらしている。わかさぎ姫は幽香の微かに濡れた悲しみの声音に落ち着いて答える。

「ええ、構いません。十分ですよ」

「……だったら良いけれど」

時が過ぎ行くのを惜しむ幽香の心中を察したのか、わかさぎ姫は本を閉じて期待に満ちた声で言う。その顔には幽香の顔には見られない輝かしい笑顔がある。

「今日で終わりというわけではないでしょう……? ですから、こうしてお花のことに詳しくなれば、他の所に行っても楽しめるじゃありませんか」

「人里の他にも行きたいところがあるのかしら?」

わかさぎ姫は周りに聞こえないように幽香の耳元で囁く。

「そういうわけではありません。ただ人里は、……私達にとって不便でしょう。こんなふうに変装しないといけません」

二人分の茶が届き、わかさぎ姫は幽香の側から恥じらうように離れた。幽香は茶を飲み、わかさぎ姫の言葉を聞き、小さく笑って、次ね、と呟いた。近くにいたわかさぎ姫にも聞こえなかったようで、

「幽香さん?」

と聞き返す。幽香は自身の頬が弧を描いていることに気づかれないためにもそっぽを向いた。

「次ね。……次はどこに行きたいのかしら?」

幽香はわかさぎ姫と出かけるのは今日で最後だと思っていた。幽香自身もこれで最後だろう、と思っていた。和服に袖を通すのはこれで二度目だが、アリスの手伝いがなければ一人で着るのは難しい。わかさぎ姫と出かける度に手伝わせるのは、きっと煩わしさをアリスに覚えさせる。友達であるが限度というものがあるだろう。

それに人里に何度も足を運べば、幽香とわかさぎ姫が妖怪であると明らかになる可能性は高くなる。あの者達はどこに住まう者なのか、と噂になればすぐに人里に住んでない者と発覚してしまう。幽香は自身の素性が明らかになってしまっても構わないのだが、わかさぎ姫はそういうわけにはいかないだろう。

人里以外で行きたい所があるならば、そちらの方が色々な負担がかからない。幽香としても、そちらの方が良い。

しかしそのことを、わかさぎ姫から期待されるとは思わなかった。

「このお花が見えるところが良いです。どこか知りませんか?」

わかさぎ姫はそう言って、図鑑のとあるページを開いて、幽香の方へ見せた。その花は今の時期には咲いておらず、わかさぎ姫が暮らす周りでは咲いていない花だった。

幽香は当然、その花の名前も咲く時期もどこで最も良く見られるのかも知っていた。

「知っているけれど、少し考えさせてちょうだい」

日はもういつの間にか傾き、山の向こうに沈もうとしている。辺りは黄昏に染め抜かれる。
幽香は懐から一本の葉巻を取り出した。

先端を慣れた形に切り落とすと、マッチを擦り、ゆっくりと火を点ける。

わかさぎ姫は悠然と吸いはじめる幽香を見て、不安げな声を上げる。

「幽香さん、もうそろそろ……」

幽香は焦ることなく、落ち着いた調子で口の中一杯に広がる煙を吐き出した。

「これを吸い終わったら帰りましょう」

幽香はひとまずそう言って、わかさぎ姫と見に行く花について話はじめた。

葉巻の煙は悠々と眩い西陽の中で泳いでいた。〈了〉


 

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