【東方】薄物

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「薄物」

稗田阿求の屋敷を訪れた客人が帰ったのは、もうすぐ日が傾こうか、という時分だった。寺の鐘が撞かれた頃に姿を見せたかと思えば、次の鐘が撞かれるまでの間、客間で話し続けた。

阿求は合間合間で相槌を打ったり、紅茶を飲んだりして、途中からは客人の言葉に耳を貸さずに、どうしたものか、と考えていた。

客人の用件というのは簡単なもので、この夏に着る反物をどうするか、というものである。まだ袷の着物すら脱いでいないというのに。

阿求としては、昨年に袖を通した単衣の着物で良いと思っていたのだが、客人としてはそういうわけにはいかないらしい。せめて、単衣にするか薄物にするかどちらか決めてほしい、と去り際に言われた。

長い話を聞き終え息を吐く暇もなく、遣いの者が障子の向こうから、次の来客が書斎で待っていると告げられる。来客の予定は聞いていないため、誰が訪れたのか確認してみると、最近、幻想郷縁起の編纂のために足を運んだ者の名前が遣いの口から発せられた。今の客人も今度から来る時には事前に言ってもらおうと阿求は少し苛立ちを覚えた。この苛立ちはきっと、困り事が解決していないための理不尽なものだろう、とも思った。

遣いの者の背中を追いかけながら、悩みの種を打ち明けるように

「単衣か薄物、どちらが良いと思います?」

と訊いてみる。

遣いの者は心持ち早い歩調を緩めることなく、明確な答えを避けるかのように、お好きなものを選べばいいのではないでしょうか、と答えるのみ。

しまう場所がないとかそういうふうに自らを着飾ることばかり集中してもらっては困るという類の苦言を呈されることを心のどこかで期待していた阿求は溜め息を零しそうになった。が、普段よりも早く書斎の前まで来ていたため、客人に聞こえることを恥じ、漏らそうと思った溜め息は溜め息になることなく、阿求の胸の内へと戻る。しかし事前に声をかけることなく屋敷に上がったのならば、主人の溜め息一つ程度は耳に入れさせても良いのではないか、という考えが阿求の脳裏を掠めたが、ぐっと堪えて、

「お待たせして申しわけありません」

と今できるであろう精一杯の微笑を用意して、書斎へと足を踏み入れた。客人は涼しい顔で、茶を啜っているところだった。阿求を見上げると、その瞳は同情するかのように柔らかくなる。けれども、茶を飲み終えた唇は、何も話さない方が良いと分かっているかのように沈黙を守っている。遅くなった事情は、遣いの者から聞いていると見て取れる。

この前会った時と変わらない装いの客人。

この客人はどういう文様の袷を着るか、単衣か薄物かで悩んだり、客人として屋敷に上がってくる商人の長話を聞く必要がないのだろう。羨ましいと思った一方で、唐突の来訪を他の客人達のように微笑をもって応対できるほど阿求は歳を重ねていなかった。この客人の来訪が、かつて阿求が口にしたことであったと分かっていても。

普段そうするように文机の前に座り、阿求は先程の客人である商人に話した方が得策であると分かっていても、止められなかった。遅くなった理由を話す必要もあるだろうと勝手に判断した。

綺麗で真新しい単衣に袖を通せるのならば、それでも良い。が、昨年に袖を通した単衣に愛着というものが生じているのは事実だ。普段着ている袷とは違う、軽く華やかな空色の単衣。愛着はあるが、この前の夏は大変厳しい暑さが続いたこともあって、薄物を仕立てれば良かったという後悔もある。薄物を仕立てた年もあるのだが、稗田阿求と薄物は相性が悪い。相性が悪いというか、活動的な阿求に薄い生地の着物は向かない。遣いの者の針仕事を増やすばかり。夏羽織を重ねてしまえば、折角の薄物の意味がない。薄物は稗田阿求の日々の生活に少なからず、緊張と丁寧さをもたらす。駆けるなどいう行為はもってのほかなのである。しかし、盛夏を乗り切るには薄物は心地良かった。

――そういうことを、書斎で待ち続けていた藤原妹紅に話した。妹紅ははじめの方は時々に口を挟んでいたが、阿求の調子がどんどんと激しいものになっていくと気圧されたように再び閉口し、阿求が話し終えるのを待った。

「……両方、誂えたら良いんじゃない?」

妹紅のもっともらしい提案に、阿求はまたしても困った。二つの着物を用意できないわけではない。去年や一昨年のことを思い出すと、盛夏とその時分以外という着方は正しいだろう。そうすると商人の口車に乗せられたような気がして、首を縦に振りづらい。

人里の商いを協力していると考えると双方の着物を用意してもらっても良いと思うのだが、そうなるとまた変わった事情が生じてくるだろう。古い着物を遣いの者に譲り、全てを新調するかどうか、といった具合のことも考えなければならない。

阿求は力の入った両眉の間の指先で撫でて、まだ解決できそうにないことを後に回した。

「……それで今日は一体、どういうご用件でしょうか?」

「今回の幻想郷縁起には、絵がつくんでしょう?」

「つきます」

「だから、来たわ」

「そういう事情の時は、事前に教えてほしかったですね」

手厳しいように唇を尖らせると、妹紅はいつも記録で忙しそうだから、と笑い返す。

阿求をはじめとする御阿礼の子は幻想郷の全てを記録する役目があり、その役目を果たすために転生を繰り返している。

阿求は九代目御阿礼の子としてこの世に生を授かり、先代がそうしたように阿求も幻想郷を記録している。幻想郷縁起という長い書物がそれだ。御阿礼の子の一生は、この幻想郷縁起の編纂のためにある。

今まではその書物は全て文字で埋められていたのだが、文字だけでは記録をして、伝えることが難しいことがある。妖怪の類は人里で暮らす人間達は接しないこともあり、文字だけの妖怪の情報では分からないことがある。ゆえに阿求は今回、絵を用意することにした。絵を見れば、妖怪の姿形が分かるだろうという考えたのだ。

この良案を思いついた時、人里にいる絵師に描いてもらおうと依頼する気でいた。しかし、普通の人間では、妖怪が住まう所まで足を運ぶのは難しく、絵師の一生が妖怪を描くまでに至らずに最悪の可能性に辿り着くことはあり得ないことではないように思えた。阿求が付き添い説明すれば、そういう事態も防げるかもしれないが、絵師にも絵師の予定がある。阿求のように一生を幻想郷縁起の編纂のために費やせるわけではない。

だから阿求自らで絵を描くことにしたのである。阿求は見聞きしたことを忘れない特殊な頭脳を有しており、一度妖怪に会うだけで良い。そう説明したのだが、一部の妖怪は自分がどのように描かれるのか気になるようで、屋敷に足を運んだ。あまつさえ、描かれた絵に注文をつけはじめた。曰く、可愛い描いてほしいだとかもっと良くしてほしいとか……。

阿求は他の時でもそうしたように筆や墨を文机に置き、準備をしながら

「意外ですね」

と素直な感情を口にする。妹紅も他の妖怪と同じように自らの姿が絵にされることを気にかけるとは思っていなかった。

妹紅は何も言わず、ただ目を阿求の手元に注ぐだけだった。阿求はその視線に促されたように、絵を用意することを話した時のことを思い返す。永遠亭に向かう道中に道案内をしてくれた妹紅の背中に、阿求はそういうことを話した。妹紅は振り返ることなく、今よりずっと刺々しい調子で答えた。多くの人の目に触れるのは好きじゃない、と。

「多くの人の目に触れるのは好きじゃないのよ」

同じ言葉に阿求は微かに笑う。

「前も聞きましたよそれ。どういう心境の変化です?」

「今の私が絵になるだけだから。絵を見たら、近づかないでしょう」

「もう少し詳しくお話ししてもらっても構いませんか?」

阿求は墨を用意する手を止め尋ねてみると、妹紅は素っ気なく拒む。

「嫌よ」

「明日も明後日も来年も変わらないのに、絵は良いんですね」

妹紅は疲れたように、だからよ、と言った。

藤原妹紅という少女は、老いることも死ぬこともない。絵に記録されてしまえば、藤原妹紅という少女は人々に記憶され、後世に伝残されるだろう。阿求の一生は幻想郷の記録のために存在している。老いることも死ぬこともない妹紅は絶えず幻想郷縁起に記録され、人々の目に触れている。妖怪ではないが、最も人間から遠い存在。

妹紅が世俗から距離を取り、迷いの竹林で庵を組んで生活しているのは、妹紅が長い時の中で人間に嫌気が差しただけではなく、記録され人々が妹紅という存在を忘れないためではないだろうか。つまり、阿求達御阿礼の子の記録が、妹紅と人間との間に強い隔たりを作り出してしまったのではないだろうか。

御阿礼の子が幻想郷縁起を作るようになったのは、幻想郷の歴史と関わりがある。

人間達は人里という限られた場所でしか生活ができない。幻想郷の多くの地は、妖怪達のために存在している。人智を超えた存在である妖怪に太刀打ちできる手段も防衛方法もない。よある妖怪に対する対抗手段や防衛方法を一部の人間が知っていても、また別の妖怪に襲われ折角の知恵が誰にも伝えられないこともある。

そういう散り散りになった知恵を集め、人間達がこの幻想郷で暮らしていくための書として幻想郷縁起は編まれた。今では幻想郷に幾つもの境界が生まれ、安定した世界になったこともあり、幻想郷縁起の性質は変わっているが、元は人間のための記録書である。多くの者を生かすための書であった。
その書に記録されることで誰かが生きにくくなるとは考えたことがなかった。

阿求は自身の重くなった胸の内を軽くするように大袈裟に息を吐いた。けれども、胸の内は一向に軽くなる気配を見せない。

絵筆を置き、阿求は真っ直ぐに妹紅を見る。妹紅はいよいよ絵に描かれるのだろうと思い、綺麗に描いてほしいわと諦めたように微笑を浮かべ、居住まいを直す。

阿求は絵筆を手にしない。ただ、妹紅を見た。妹紅は阿求の瞳の内に、今はまだ描かれる時ではないのだろうという気配を察したのか、すぐに楽な姿勢に戻る。阿求は少し目を伏せ、すぐに妹紅を見つめ直すと、ようやく唇から言葉が零れた。

「妹紅さんは……」

なるべく平静を努めようとしたが、自らの行為が妹紅を一層孤立させているかと思うと、胸に痛みが走り、声はか細くなる。

「妹紅さんは記録されたくありませんか?」

妹紅の瞳が微かに揺れた。先程まで軽い調子で話していたものとは違うことを、妹紅にも伝わったようだ。固い声で問われる。

「どうしたのかしら、急に」

「急、でしょうか」

「もし、私が記録されたくないって答えたらどうするつもり?」

「どうしましょう?」

阿求は困ったように両眉を寄せ、なるべく今の発言が先程まの軽い言葉の応酬の延長であるかのように温かく笑う。妹紅はそんな阿求の振る舞いを見抜いたように、

「まぁとりあえず、理由を聞かせてちょうだい」

と言う。阿求の口の中で、理由ですかと呟き、胸の内に詰まった思いを口にする。妹紅を傷つけないように一つ一つの言葉を気にかけながら。

「編纂を続けることは良いことだと思ってきました。幻想郷での全てに記録を続け、人間達が生きやすいようにする。人間による人間のための記録。ですから、その記録で傷つく……心を痛め、孤独になる者が生じるとは考えもしなかったのです」

「だから、記録を残さない?」

妹紅が記録に残されたくないと考えがちなのは、阿求も知っている。阿求自身から記録するしないを選んでいいと問われれば、迷わず記録しないでほしいと答えると思っていた。阿求の発言の意図を気にかけることなく、すぐに選び取ると思っていた。妹紅はどちらを選ぶか悩んでいるようだった。

「いけませんか?」

阿求は妹紅の背中を押すように、訊いてみた。すると妹紅は口角をわずかに上げて笑った。柔らかな返答が、阿求の耳たぶを揺らす。

「良いわよ、記録して」

「……理由を聞かせてもらってかも構いませんか?」

妹紅が何故、そういう返事ができたのか阿求は理解に苦しんだ。

妹紅は何年先であろうとその姿形を変えることなく存在している。阿求がここで記録しなくなれば、人々の記憶から藤原妹紅という存在は消える。遠い未来で、誰かの口から竹林に住まう少女のことが話題になったとしても、煙のように消えるだけだ。

何代目の御阿礼の子がまた記録をするようになるかもしれないが、不変の存在だと分かれば多くは記録しないだろう。阿求の代で妹紅に関する記録が途切れたとしても、膨大な記録書を繙けば理解されるだろう。老いることも死ぬこともない少女だから記録する必要がない、と。阿求が一筆執っても良いかもしれない。

阿求が記録しなければ、妹紅の望む生活が手に入るのではないだろうか。妹紅の望む生活が手に入ると思っているのは阿求だけなのだろうか。

妹紅は諭すように言う。

「あなたはあなたの役目を果たす必要があるのよ。だから記録しないといけないわ」

「妹紅さんにとって良くないと分かっていても、ですか?」

「阿求、果たすべき役目があり、その役目が果たされることはとても幸福なことなのよ」

淋しく笑う妹紅の瞳が、ここではないどこかを見た。藤原妹紅という老いることも死ぬこともない少女は、役目を果たせなかったのだろう。妹紅の役目とは一体、何だったのだろうか。藤原に関するものなのか、不老不死に関するものなのか。阿求には分からない。

阿求が分からないことは妹紅の役目以外にもあった。

「私には分かりません」

「そうかしら?」

「いえ、役目を果たした方が良いのは妹紅さんに言われなくても分かってます。ただ……」

「ただ?」

分かる分からないということを、妹紅としたいわけではない。そういう理由や理屈の話ではないと阿求は思っている。

阿求は絵筆の側から動く気配のない自身の小さな手の甲を見下ろす。

「私は妹紅さんを傷つけたくありません」

「治るから大丈夫よ」

自嘲するかのように言う妹紅に、阿求は自らの瞳に強い力が宿ったのを覚えた。妹紅を見て、怒りに似た感情が阿求の口から迸る。

「私は違います。妹紅さんのように長い時を生きることはありませんし、短い時が傷つけた手や心を治してくれることもありません」

書斎は静かになった。遠くで食事の準備をしている物音が聞こえてくるほどに。

妹紅は文机に身体が当たるほど近づくと、流れるように阿求の指に触れた。温かい手だった。突然のことに驚き、確かめるように妹紅の名を呼ぶ。

「妹紅さん?」

妹紅は無言のまま優しく阿求の手を包み、答える。

「そういう話だったのね、ごめんなさい」

頭を下げられ、阿求は戸惑いに襲われる。どうして妹紅が謝るのか阿求には分からない。どうして突然、手を取られたのかも分からなかったが、阿求は妹紅の手を振り解こうとしなかった。悪い気はしなかったは勿論のこと、こうして温かい手に触れていると彼女が不老不死であることを忘れられる。

「……あの、妹紅さん?」

妹紅は顔を上げることなく、滑らかな調子で話す。

「記録しないで済むなら記録されない方が良いわね。でも記録しないってことは、阿求が阿求の役目の果たさないってことよね?」

話を戻され、阿求は戸惑いながらも応じる。

「ええ、まぁそうなりますが……」

「それは悲しいわね」

「悲しい?」

「そうよ」

「どうしてでしょうか?」

すぐに返ってくるであろうと思った妹紅の言葉は、全然そんなことはなかった。妹紅は顔を伏せたまま、沈黙を貫いている。

「不老不死のせいで役目を果たせなくなるのは私だけで十分よ」

「記録を続けて妹紅さんを傷つけることになることよりも、ですか?」

妹紅の手に力が加わり、強く握られる。顔を上げた妹紅は優しく笑う。

「もし私を一生傷つけたかったら、記録しないことをおすすめするわ」

阿求はその言葉を聞き、

「でしたらご希望通り、綺麗に描きましょう」

妹紅の手を振り解き、絵筆を執った。〈了〉


 

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