【東方】椿落つ

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「椿落つ」

藤原妹紅は、音を立てることなく布団から抜け出し、慎重に人一人分が辛うじて通れる程度に障子を開けた。妹紅が眠っていた布団の向こうにも布団が敷かれており、一人の少女が規則正しい寝息を立てている。

が、妹紅が廊下に足を伸ばした時、少女の規則正しい寝息は不意に止まった。妹紅の伸ばしかけた足は廊下に落ちることなく宙で止まる。妹紅は振り向くことなく、耳をそばだてる。何とも分からない寝言を背中で聞いて、妹紅は廊下に出た。それから、胸を撫で下ろした。

妹紅の足は広い屋敷を迷うことなく動き、縁側に出た。障子を開けると、冷たい夜風が一気に室内に入ってきた。竹垣の他に、生垣きとして植えられている椿の葉が揺れ、さざめく。

堪らず震え上がるが、その風が布団の内で温めて火照っていた思考を明らかにしてくれる。廊下に腰を据えると、冷え切った踏み石に足先が届いてしまう。踏み石には見覚えのある下駄が一足。妹紅の足には小さく、踵が出てしまったが今はそれでも良かった。

妹紅はこの時になってようやく、胸の内に溜まったものを吐き出すように、夜風と共に息を吐いた。白い息が、中庭を揺蕩った。

妹紅が夜更けにこの屋敷に足を運ぶようなったのは、屋敷の主人でもある稗田阿求に頼まれたからであった。今夜に始まったようなことではなく、秋が深まる頃から続いている。一緒に寝てほしいという言葉が阿求の口から飛び出した時には、妹紅は少なからず動揺した。その戸惑いを隠せたのは年の功だと思うのだが、それから慌てたように事を説明してくれた阿求の口振りを思い出すと、どうも妹紅の戸惑いは筒抜けのような気がしてならない。

阿求の説明というのは簡単なものだった。曰く、夜に眠れない。阿求からそう言われた時、妹紅は真っ先に日頃から飲んでいる紅茶のせいではないか、と冗談を口にしてみると、思いの外真面目に否定された。どうやら妹紅が思っているような軽い悩みではないようだ。

阿求の説明は続く。

生活習慣が昼夜で逆転しており、困っている。夜が明ける頃にようやく少し眠ることができるが、それだけでは全然足りない。そんな日は一日中、頭がぼんやりとしている。朝の食事を終えた頃から、客人の応対があり、昼間に眠るのも難しい。

永遠亭に薬を処方してもらったが、服薬を続けたが頭がはっきりとしない日が続き、覚えのない言動が何度かあり、中止となった。別の薬を用意するまでの間、眠れないのは困る。

誰かとならば寝られるのではないか、と考えに至り、妹紅に白羽の矢が立ったのである。

阿求の説明を聞いて、妹紅が、どうして私なのか、という疑問を懐いたのは当然だった。阿求と歳の近い者であれば他にもおり、小鈴や霊夢でも良いのではないか。彼女達の名前を出すと、阿求は、あの子達には分からない感覚なんですよこれは、と肩を落とした。

妹紅が思っている以上の何かが、阿求にはあるらしい。夜に眠れないというのは、もしかすればそれだけではないような気がした。夜が眠れないから何かがあるのではなく、何かがあり夜が眠れなくなった。

その何かの解決として、阿求は妹紅を選んだのであろう。そうなると断る理由はなかった。

事の解決に意気込んでいた妹紅は、阿求の寝床に通された。書斎や客間に通されたことはあるが、寝床に通されたのはこの日が初めてだった。

寝床は屋敷の奥に位置していた。縁側や廊下を適当に歩いただけでは辿り着けないようになっている。阿求が編纂のために使用している書斎とは近いようだが、それでも一つ二つの部屋を挟み、月の光も風の音も届きそうになかった。

提灯を片手に案内する下女の足が止まる。障子が開き、暗い部屋が露わになった。妹紅の鼻先を掠めたのは、杉の香りだった。部屋のどこかで香でも焚いているのだろう。

見渡すと、障子の側に行灯が一つだけ置かれている。ぼんやりとした灯りは、部屋全体を明らかにするには頼りない。目を凝らしてみると、部屋の中心に人影が見える。阿求の名を呼ぶと、小さな返事が返ってきた。

背後の障子は静かに閉められた。下女の足音は遠くなる。

「どうぞ、こちらに。夜分遅くにありがとうございます」

阿求にそう言われ、妹紅は彼女の方へ歩み寄った。軋む畳の音が、暗闇に響く。足の指に柔らかい布が触れた。少し手を伸ばしてみるも阿求に触れることはなく、空を切る。布団は二つ敷かれているようだ。

もう一つ、二つ歩み、阿求へと近づく。

奥にいる阿求は、既に布団をかけて、上半身だけを起こしていた。昼間の頃と違い、絹の白生地を仕立てた寝間着に袖を通しているだけだった。

阿求と会う時は文机や食卓を挟むことが多く、隔てる物が何もない所で会うのは、今夜が初めてのような気がしてならなかった。

「眠れそうにないの?」

妹紅は布団の上に腰を下ろして、訊いた。阿求は答えに迷っているのか口を閉ざしていた。ここで答えられないのであれば、眠れていないと言っているのと変わらない。

ただ、暗い寝室では阿求の顔は、はっきりと見えず彼女がどれほど眠れない夜を送っているのか分からない。妹紅は阿求の顔色が気になり、部屋の隅に置いてある行燈を取りに行こうとした。膝に手を添えて立ち上がろうとした妹紅の指に、阿求の手が触れた。冷たい手だった。零れ落ちそうだった悲鳴を寸前のところで堪える。床に着くまで、あるいは妹紅が屋敷を訪れるまで外に居たと思わせるような冷たさだった。

阿求の声は不安に震えていた。

「どちらに?」

妹紅は阿求に従うように、再び布団の上に腰を下ろした。妹紅の胸はうるさいほど脈打っていたが、悟られないように落ち着いて答える。

「暗いから行燈をね……」

「妹紅さんは暗いと眠れませんか?」

「阿求は暗いと眠れるのかしら?」

「私は暗い方が眠れます」

そういう問答の後、妹紅はようやく自らの役目について訊いた。

「それで、私はどうしたらいいのかしら?」

沈黙が落ちたような気がした。沈黙と思わなければ沈黙とは思えないようなものだった。それでも、極短い間、妹紅と阿求は口を閉ざしていた。二人の間に沈黙が流れることは度々あったことなのに拘らず、今はその極めて短い間の沈黙すら気になった。

阿求は普段と変わらない柔らかい調子で答える。

「妹紅さんは、そこに居てくれるだけで構いません」

しかし、その声が普段とは違う固く、低いもののように感じたのは、普段何気なく生じる沈黙の重さに気に掛かったせいかもしれない。

「ここに?」

「そうです」

「それだけでいいの?」

「はい、それだけで構いません」

念を押すように言う阿求に、妹紅は戸惑いを覚えるしかない。もっと別のことを頼まれると思っていたのだが、どうやらそんなこともないような気がする。ただ一晩、阿求の隣で、阿求が眠るのを見守るだけでいいようだ。拍子抜けを覚えるが、妹紅に白羽の矢が立った以上、役目を務めるしかない。

「それじゃ、おやすみなさい」

阿求はそう言って、妹紅に背を向けて、布団に入った。

今度こそ、寝間は沈黙に満たされた。妹紅は胡座をかいて、背を向けて眠る阿求を見ていた。

あれほど眠れないと言っていた阿求だったが、すぐに寝息が聞こえてきた。少し経つと寝返りを打って、こちらに身体を向ける。

誰かの眠りを見守るのは随分と久し振りのような気がした。数多の記憶を振り返ってみるも、これほど穏やかで、暗い日はなかった。

寝床の暗さにも目が慣れて、こちらを向いて眠る阿求の顔もはっきりとしてきた。狭い額に流れる細長い髪。聡明な目は閉ざされ、長い睫毛だけが阿求の呼吸に合わせて微かに動いている。寝るまでの冷たい手も固かった声も全てが妹紅の夢幻のように、阿求の寝顔は安らかだった。

その夜、阿求は一度も目覚めなかった。妹紅は一度も眠らなかった。妹紅の分の床も用意されているので眠ろうと考えることもあったのだが、阿求を万が一目覚めてしまえば、約束を破ってしまうように思え、床には就かなかった。

常日頃そうしているように、下女が寝床の前で阿求に声をかけてきた。ようやく朝が来たのだと妹紅は分かった。下女が再び阿求を呼ぶが、阿求は目覚める気配がない。妹紅は静かに障子を開け、下女に眠っている旨を伝え、その役目を交代するように床を出た。

役目を終えた妹紅は庵に帰ろうとしたのだが、下女に呼び止められた。昨晩、阿求に命じられ、朝食の用意をしているのだと言う。朝食を呼ばれている途中に、まだ全然起きていない寝惚け眼をこする阿求が、下女に連れられ、居間に出てきた。

そうして、妹紅のその夜の役目は終わった。次の晩、阿求は赤い顔をして妹紅に感謝を述べた。よく眠れたということ、これからも足を運んでほしいと頼まれ、妹紅は断らなかった。

それから毎晩、阿求の屋敷に足を運び、朝食を呼ばれて帰る。永遠亭から別の睡眠薬が届くまでの間、という話をしたような気もするが、いつからか阿求の口からそういう話題は出なくなり、妹紅も改めて口に出すことはなかった。

初めの方は眠らずの番をしていたのだが、阿求が起きないのが分かってくると妹紅も眠るようになったからだ。庵の固く冷たい所ではなく、心地良い床に就けるのが良かった。深く寝入るような真似はしなかった。

数時間に一度は目覚め、眠っている阿求を見守る。その都度、阿求が眠れないと訴えていたことを思い出す。どうしてそうなったのか、という疑問が妹紅の胸に生じるが眠っている阿求の横顔を見ると、すぐにどこかへ行ってしまう。そう考える妹紅自身が気の迷いだったのではないか、と思う。

ゆえに妹紅はいまだに、阿求にこの一連の原因となっていることを訊けなかった。阿求からも話されていない。彼女の性質から忘れるというものがないため、言わないようにしているだけだろう。

阿求が夜に眠れるようになり、妹紅もそこで過ごす恩恵を少なからず受けている。もし深くまで首を突っ込み、この事を別の者に頼むとなると僅かながら困る。困るというと随分と自分勝手なような気もするが、寝床と一食の食事を用意しなくていいのは助かる。加えて、別の誰かと阿求が一夜に共にしたと報告を受けた時、妹紅と同じように阿求が眠るのを見守ったとだけ考えるのは難しかった。

阿求にそういう気がないことは最初から分かっているのだが、言葉だけを受け取ると時が訪れる際には、とてもだがそうは思えない。ならばこれまでの妹紅も、阿求はそういう目的で、と考えておかしくなかった。霊夢達に頼めなくて、妹紅には頼めるということはすなわちそういうことだったのだろうか、と考えてしまってもおかしくなかった。ならばどうして妹紅なのだろうか。答えのない問答を繰り返し、阿求に試されているような気になる。

そうやって物思いに耽っていると、身体は夜風に晒され冷え切っていた。妹紅は下駄を脱いで、寝床に戻る。

普段は屋敷のどこも灯りに満ち、下女が掃除や来訪者の対応をしたり、阿求が書斎で編纂をしたり来訪者の応対をしているのだが、妹紅が足を運ぶ頃になるとどこも暗く、足音一つ響いてこない。

自分の歩く音だけが、不気味なまでに響く。眠る阿求を目覚めさせるのではないかと思い、慎ましい歩調に変えるがそれでも床は微かに音を立てる。

妹紅は出て行った時と同じように人一人分が通れるほど僅かに障子を開け、寝床に戻った。横になって眠ろうとするも、頭が冴えて眠れそうにない。寝返りを打ったりして姿勢を変えてみるも、変わらない。

阿求の方を向いた時、その目は閉じられているが、寝息が聞こえないことに気づいたのはそんな時だった。

妹紅は内心驚いたが、ついに自分の役目が来たのだと思い、落ち着いて阿求の名前を呼び確かめる。

「阿求?」

阿求の目が開き、聡明な色をした瞳が妹紅を見上げる。まだ夢と眠りの中にいるような微睡んだ瞳だった。

阿求の声は躊躇いがちに返ってきた。小さな声だったが、手を伸ばせば相手の布団や身体に触れられる二人には十分だった。

「物音がして……?」

「私よ。少し寝てしまっていたみたい」

寝起きの阿求は下女との会話の時でも妹紅との会話の時でも、よく口を閉ざした。寝起きの頭で、話し相手の言葉を一つ一つの追いかけて確認するかのように。その間、開いていた瞳が眠気に誘われ閉ざされることもあった。普段ならば下女の大きな声や妹紅の呆れるような声が生じるのだが、まだそんな時間ではなかった。

妹紅はまだ夢の中にいる阿求を目覚めさせないようにその髪に触れ、優しく告げる。

「まだ朝じゃないから、眠っていても大丈夫よ」

阿求の両手が、妹紅の冷えた手を温めるように絡まる。

「随分、外にいたのですね」

微笑んだのか阿求の小さな口から漏れた息が、妹紅の指先にかかった。妹紅は自身の耳が不意に熱くなるのを覚え、阿求の指と絡まっていた自分の指を半ば強引に解き、反対側に寝返りを打った。微睡んでいる阿求を見なければ、落ち着くだろうと思ったのだ。

阿求の方の布団が動いたかと思えば、妹紅の布団の端が波打った。妹紅の背中に温もりが触れた。。

「冷えると眠れませんよ」

という言葉と共に頸の近くに降る息は、先ほどと比べて艶やかなものがある。

瞬間、妹紅の布団が常闇を舞った。驚く阿求の両方の手首を力ずくで片手で押さえつけ、馬乗りとなって、その唇を奪う。妹紅の舌が阿求の舌先に触れる。指や息よりも遥かに熱かった。阿求が噛んだのか、妹紅の舌に痛みが走る。微かに顔を顰め、阿求の顔から離れた。

妹紅と阿求の荒い息が、寝床に木霊する。行燈の細長い灯りが、阿求の足先から顔までを濡らす。

絹の白生地で仕立てられた寝間着からは肉付きの薄く、細い手足が晒されていた。妹紅が強引に扱えば、その身体のどこに傷を作ってしまいそうな、か弱い身体であった。

阿求は何も言わず、妹紅を見ていた。先ほどのような微睡んだ目つきではなく、微かに潤み、艶のある瞳を妹紅に向けていた。透き通るように白い頬は、血潮が一気に集まったのか紅く染まっている。
阿求の手を押さえつけていた手からは少しずつ力が抜け、もう阿求が自由に動かせるようになっていた。

「やめる、おつもりなのですか……?」

阿求は視線を逸らし、微かに震える声で訊く。妹紅は何とも答えられなかった。舌先に熱い痛みを覚えながら、ぼんやりと阿求を見下ろす。強引の身体の自由を奪ったためか乱れた襟からは白い肌が露わになっていた。杉の香りの合間から漂ってくる別の香りは、阿求の汗だろうかそれとも妹紅の汗だろうか。

阿求は妹紅が動かないと分かると押さえつけられていた手を解いた。そして、妹紅の手を握る。流れるように自身の襟の隙間に忍び込ませる。妹紅の手のひらに、阿求の肌が触れる。柔らかくハリのある肌だった。阿求の手は止まることなく、妹紅の手を胸へと導いた。慎ましい胸の奥から、早鐘のように鼓動を繰り返すのが伝わってくる。

「妹紅さんが望むのでしたら、私は……」

阿求の胸の高鳴りは、阿求がそういうことを望んでいるがための興奮から生じるのか緊張から生じるのか妹紅には判別がつかない。けれども、重ね合う阿求の手が小刻みに震えていたり阿求の胸の高鳴りを感じると、妹紅の獣のような感覚は急速に落ち着くべきところへ落ち着いていった。

そして今となっては、激しい自己嫌悪に苛まれていた。興奮冷めやらぬ息のどこかには、後悔の音も滲み出ていた。

阿求は今はもうそういう覚悟で、妹紅が次にどのようなことを行うのか待っているのだろうか。しかし妹紅はもう阿求に手を出したくなかった。先ほどまでは十二分にそういう気があったのだが、もう全然そういう気は起きなかった。

阿求が悪いということではない。妹紅の一時的な気の迷いのまま、事に及びたくはなかった。一方で、阿求がどこか急いているような感覚に今更のように気づき、ぽつりと呟いた。

「……駄目よ、阿求」

妹紅はこういうことをするために、阿求と一夜を共にするわけではない。阿求が安らかに眠るために見守るだけだ。

役目を思い出し妹紅は阿求の側から離れた。このまま二人が同じ所に居るのは良くないと思い、妹紅はそのまま寝床から出ていこうと動く。

障子に手を掛けた時、もう片方の手を阿求に握られた。か細い声で、引き留められる。

「待って……ください」

「そこに、いるだけだから」

妹紅は障子を微かに自分だけが出られるほど開けて、出て、阿求に背を向け腰を下ろした。床板は冷たかったが、畳に落ちた手は阿求の両手に包まれいつまでも温もりに満ちていた。

阿求がそのことを口に出すより早く、妹紅は慰めるように言う。

「阿求が悪いわけではないのよ。ただ、ただね、……そうね、私の問題なのよ」

阿求は沈んだ声で答える。

「全然分かりません」

「私は貴女の眠りを見守るために呼ばれているのよ」

「だから、できないということですか?」

「できないと言いたいわけではないのよ。……したくないだけよ」

「私がその気でも、ですか?」

「最初からその気だったわけではないでしょう?」

妹紅のたしなめるような問いに、寝床は静かになった。少しの後、阿求の小さな声が返ってきた。

「最初からそんな気があったわけではありません。最初は純粋に、ご説明した通り、眠れなくなって、ですので……」

「私の役目は本来であれば、永遠亭が別の睡眠薬を用意するまでの間だった。それがいつのまにか、こうなった。阿求、貴女もしかしてだけれど、自分が眠れなかった理由に気づいたのでしょう?」

「妹紅さんは、生きることを不安だと思ったことはありませんか?」

「……あるわよ」

妹紅は老いることも死ぬこともなく、生きられる時間は永遠に存在している。一時期は復讐のために生きていたが、その相手は妹紅と同じように老いることも死ぬこともない存在であった。自らの生の目的を失い、ただ生きるだけの生活は、妹紅を不安へと駆り立てた。人間の集落に馴染むのは難しく、馴染んだかと思えば変化の訪れない肉体を疎まれ、一人になった。

しかし阿求がそういうことを考えているとは思わなかった。妹紅の不安とはまた違う不安を、阿求も懐いていたのだろう。

阿求の声が心持ち軽くなった。

「そうだろうと思って安心しました。私、一五年も満たない内にこの世を去ります。そのことを考えると不安で一杯になってしまったのです」

「だから私を選んだの」

「妹紅さんでしたら、分かち合えるのではないかと思ったので」

「言わなかったのに?」

妹紅の疑問に、阿求は恥ずかしそうに声をひそめた。

「貴女と一緒だと不安ではなかったので……」

予想外の阿求の言葉に、妹紅は言葉に詰まった。身体中が熱くなる。

阿求の手が妹紅の手を滑り落ち、僅かな音を立てて畳に落ちた。妹紅が振り返ると、規則正しい寝息を立てる阿求の姿があった。

 

 

翌朝、妹紅は一睡をすることなく廊下で朝を迎えた。

下女は妹紅の姿を認めるや否や大声を上げた。叫ぶように阿求を起こすと、見たことのない剣幕で阿求を責め立てる。妹紅が仲裁に入ろうにも、下女は全然納得する様子を見せなかった。屋敷に招いた者の扱いとしてどうなのか、と下女は捲し立てる。

阿求はまだぼんやりとした目つきを妹紅や下女に向けると、話を聞いているのか聞いていないのか分からないが無言で何度か頷いていた。

妹紅は阿求の朝の支度を邪魔しないように寝床を離れ居間で用意されている朝食を呼ばれた。

阿求が食卓に姿を見せたのは、妹紅が食後の紅茶を嗜み、そろそろ帰ろうかという頃であった。その姿も普段よりも眠気が強いように見え、普段よりゆっくりと食事を摂っている。阿求の両方の手首に赤い筋が走っているのが見える。思い出したかのように、阿求に噛まれた舌に痛みが帯びた。

妹紅は紅茶を飲む手を止めて、阿求は食事を終えるのを待った。

阿求が朝食を終えるとすぐに紅茶が用意され、下女が買い出しに出ると告げた。この頃になると阿求はようやく目覚めており、妹紅の空になった紅茶碗に新しい紅茶を注ぎながら、下女に幾つか用事を頼んでいた。

下女が屋敷を出て、妹紅も帰ろうとしたが拒むように阿求は口を開けた。

「……昨夜は」

阿求の次の言葉を奪うように、妹紅は阿求の前に戻って手早く言う。

「夢だったのよ」

「痛かったですが?」

阿求は見せつけるように赤くなった手首を妹紅に向ける。妹紅は逃げるように紅茶に口を付け答える。

「……夢でも痛みを覚えることぐらいあると思うわよ」

「ですが私、痛いのは嫌です」

「誰だって嫌よ」

「次は、やさしくお願いしますね?」

庭の椿が落ちたのは、その日の夜のことであった。〈了〉


 

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