一
叢雲の舌の上で、時々あの強い甘味が蘇ってくることがあった。間宮の所でアイスを食べる時、アイスの甘さの内に、ふと、提督からプレゼントとして送られたあの甘さが蘇ってくるのである。
あの甘いお菓子は格段に美味であった。叢雲は自分でも作ってみようと戦闘が休みの合間を縫って、色々とあの味に近付けるであろう食べ物を買い、食べてみた。
確かに甘く、美味である。しかし、あの時のような喜びが湧き上がってくることはなかった。叢雲はいよいよ、あの味を再現しようと、鳳翔の知恵を借りることとなった。
ある年末の雪上がり、鎮守府の台所に立つ鳳翔に叢雲は己の気持ちを打ち明けた。外では雪合戦に夢中になっている駆逐艦で溢れていた。
台所で昼食の後片付けをしていた鳳翔は手を止め、どこか戸惑った調子で尋ね返してくる。
「……ケーキ? 叢雲ちゃんこれから、ケーキを作る気なの?」
「別にケーキじゃなくてもいいのよ」
鳳翔は二人分の茶を淹れ、叢雲を居間へと案内する。
「じゃ、何を作りたいの?」
「別に何をって決まっているわけじゃ」
叢雲は鳳翔の後ろを追いかけながら自然と炬燵の中に籠もり、あの味を思い出し、ぽつりとこう言った。
「……そうね、甘い物が良い」
「お饅頭でも良いの?」
「そういうのじゃなくって、ほら、司令官がこの前持って来たケーキみたいな、西洋的な……?」
鳳翔は軽やかなに書をしたためると、晴れやかな笑顔を浮かべて、こう言った。
「じゃ、間宮さんの所に行って、これを貰って来てちょうだい」
見たことのない横文字が並んでおり、叢雲は思わず首をひねり、こう訊いた。
「ねぇ、これで一体、何ができるのよ」
「それは作りながら考えましょう」
「全部、間宮さんの所にあるの?」
「あるわよ」
「本当?」
「ええ、行ってらっしゃい」
叢雲が億劫なのは、自分がこれから作るものがどういうものなのかはっきりと想像できないだけではない。もっと先、これで作られたものが、あのケーキと同じ美味を有しているかどうか、というところにあった。間宮のアイスも鳳翔の手料理も、あのケーキに近づけなかった。
確かに美味しかった。その点ではケーキと遜色ない。しかし、どこか微妙な点において、あのケーキが勝っていた。叢雲にはそれが何なのか全然分からなかった。
お食事処『間宮』は今日も艦娘達で溢れている。高雄や愛宕や陸奥は間宮と料理の話をしていた。間宮は叢雲に気付くと、優しそうに笑って、こう言う。
「いらっしゃい。おしるこでも食べる?」
「今日は良いわよ。それより、これ」
と、叢雲は鳳翔に渡された紙を差し出した。間宮は書に目を通し、以外そうに目を丸めた。
「これ……この字、鳳翔さんよね? どうしたの?」
「鳳翔さんが買ってきてって」
「そう、じゃ、ちょっと待っておいて」
叢雲は間宮に事の全てを話すのは憚れた。彼女の周りに高雄達が居るというのがあった。叢雲は彼女達が得意ではなかった。あの柔らかい、女性を思わせる雰囲気が、自らも呑み込まれると思い、距離を保つことがあった。戦闘となれば彼女達は頼りになる。が、それとこれとは全く話が違うようだった。
丁度司令官が、深海凄艦との戦闘では素晴らしい采配を見せるのに、といったそれと同じだった。
司令官は戦に関していえば、天賦の才能を有している誉れ高き軍人だと思う。しかし、いくら才能を有していても、追い込まれるまで書類を溜め込む、遠征は秘書官である長門に任せっぱなし、艦娘のこともよく分からないとなれば、そろそろ左遷の一つや二つが上がってきても良い頃ではないだろうか。しかし、そういう噂は、彼が鎮守府に着任した頃に秘書官を務めていた叢雲の耳に一切入ってこなかった。
叢雲は彼を無能だと思っている。というのは、昨年の今頃、叢雲達何隻かの駆逐艦は司令官から直々にしばらくの暇を言い渡された。曰く、今回の戦闘を終えるまでゆっくり心身を休ませろ、ということだった。
が、それは、戦をするために生み出された艦娘の存在を否定することだった。叢雲はその日から、司令官を無能だと格下げした。己の誇りを安い言葉で蔑まれたように思えたのである。
『叢雲、そう怒ることないじゃないか。私達の本来の仕事は、ない方が良い。が、この情勢、相手さんからしてみればそういうわけにはいかない。となれば、風の如く、火の如く、だ。叢雲、攻め時を見誤ることなかれ』
『私が必要ないってこと?』
『違う。適材適所だ』
司令官に手を上げようとしたのは、あの時が最初で最後だった。あの場に長門が報告に来なければ、本当に平手打ちの一つぐらい司令官に浴びせていたかもしれなかった。
そういうこともあり、叢雲達は沢山の時間があった。間宮から食材を受け取った叢雲は、その量に驚いた。袋を抱えてみると、ずしりと重みが感じられる。
「……何、この量」
「鳳翔さんに聞いてね。私は書かれた量しか用意してないんだから」
「分かったわよ」
「じゃ、気を付けて、またね」
鳳翔はいつものように台所に立っていた。台所には使い込まれた器具やら計りなどが置いてある。
「お帰りなさい。そっちに置いておいて」
「それで何を作るの?」
「私は教えるだけ。作るのは叢雲ちゃんよ」
買ってきた材料をテーブルの上に置いた時、鳳翔の言葉が静かに響き渡った。袋から見えるスポンジケーキを握りつぶしそうになり、叢雲は低い声で言った。
「……聞いてないんだけど」
「言ってないもん」
「どうして?」
「それは作ってからのお楽しみ。さ、頑張りましょう?」
前門には鳳翔、後門には大量の材料。環境は整っている。言い訳はいくらでもできる。しかし、そういうことを言ってしまえば、鳳翔の厚意を踏みにじるような気がして、申しわけない気持ちになった。
そして何より、それをしてしまえば、己も無能になってしまうような気がした。叢雲は腹をくくり、言った。
「……やるわ」
その一言を皮切りに、叢雲の年末は甘いお菓子に囲まれることとなった。年が明け、月を一つまたいでも、変わらなかった。
どうやら西洋の物も、和菓子同様にしっかりと測量するところから始まるらしい。
「いい、叢雲ちゃん。何となくでなんて駄目よ。それじゃ、上手く出来上がった時に、さっきの数量を……って思い出せないから」
叢雲は鳳翔の厳しい顔付きに、手帳に逐一数量を記入し、どの時が最も良いのか分かるようにした。叢雲はメモをしながらこう呟いた。
「でも、一からとなったら、それはそれは大変じゃない?」
「良いところに気付いたわ。そこは好みなのよ。叢雲ちゃんは甘いのか苦いのどっちが好き?」
「んー、甘いのかしら」
「それじゃ、甘いのにする?」
「待って。どうせだったら、ちょっと苦いのも作りたいわ」
「どうして?」
「そっちの方が練習になるでしょ。鳳翔、何事も積み重ねが大事なのよ」
「そうね。積み重ねた分、ちょっとはそっとでは崩れないようになるからね」
「そうね」
素っ気なく同意した叢雲の頭には、司令官の顔があった。どうして彼が出て来たのか分からなかった。そしてそれから、胸の奥から熱い感情が込み上げてくる気配を覚えた。
どうして、己はしばらくの休暇を、与えられてしまったのだろうか。確かに叢雲達は高雄や古鷹や衣笠や陸奥や長門や金剛達と比べると脆く、弱く、すぐに沈む非力な戦力である。しかし、その非力を補うように鍛錬を積み重ねてきた。
それを司令官に否定されたのが悲しかった。あの場では怒りが勝ったが、今となっては、司令官に否定されたことがただただ悲しかった。
叢雲は込み上げてくる涙を止める術を知らなかった。司令官のことも全然知らなかった。何を考え、戦闘の指揮を執り、どんなことが好きなのか、どんなことが嫌いなのか、思えば鎮守府で彼を見ない日がない。帰省はしないのだろうか。家族はいないのだろうか。
叢雲は料理の手を止め、為す術なく流れる涙を拭った。鳳翔は何も言わず、傍らに立ってくれ、それが心地良かった。しかし、鳳翔も暇ではないだろう。
鳳翔はそんな叢雲の心中を見抜いたかのように優しく語りかける。
「いいのよ。ゆっくりやりましょう。時間が沢山あるんだから」
「……ええ。ねぇ、私、どうして外されちゃたんだろう」
「それは私でも長門さんでも分からないわ。提督だけが知っていることよ」
ああいうことがあった以上、そう簡単に司令官の所に行けなかった。司令官から呼び出しがあればいいのだが、それもないだろう。ならば、ずっとこのままなのだろうか。
それは嫌だった。何か口実があれば、良いのだが、叢雲はそんなことができるほど賢くなかった。
「ねぇ、叢雲ちゃん、提督って甘い物が好きなのよ。この時期になると、間宮さんの所でよく食べているのよ」
今、叢雲には甘いケーキを作る知識はあった。しかし、それが美味しいケーキかどうかは叢雲の舌では分からなかった。それでも叢雲は、司令官と会うためにケーキを作ろうと思った。
「ねぇ、鳳翔、できるかしら?」
「できるわよ。頑張ってきたじゃない」
二
二月の中頃、叢雲は綺麗にラッピングされた小さなケーキを後ろに隠し、執務室のドアを叩いた。奥から司令官の落ち着いた声が返ってくる。
「どうぞ」
叢雲は一瞬息を呑み、ドアを開けた。司令官は何か書いているようで、顔を上げてくれなかった。しかし床にまで流れ、いつのどういう書類なのか全然分からなかった書類の山と化した執務室は、着任当初を思わせるようで懐かしかった。
あの日、叢雲はここで新たに着任されるであろう司令官を待っていった。ドアの向こうから固い声がして、彼が入ってきたのである。
司令官は書類を書き終えたようで、ようやく顔を上げた。叢雲を見ると、一瞬その瞳に烈しい戸惑いや驚きが迸ったのを、見逃さなかった。
けれども司令官は冷静な態度を崩さないように、こう訊いてくる。
「どうした?」
だから叢雲もいつものように書斎机に手作りのケーキを置いた。ケーキは鳳翔の助言に従い、桃色のラッピングを施し、赤いリボンが結ってある。
司令官は驚いたようにそれと叢雲を見比べて、堪らないように呟いた。
「……これは?」
「この前のケーキのお礼よ」
「あれは、私からのお詫びだ」
「そんなことどうでもいいのよ。私がお礼をしたいの。文句ある?」
「ない。開けても?」
「好きにしたらいいじゃない」
叢雲は照れくさそうに言って、それまでそうだったように床や来客用のソファにまで散らばる書類を集めだした。叢雲はその作業の最中、司令官の僅かな驚嘆の音を聞き逃さなかった。
「美味しい」
司令官の言葉に、叢雲は飛び切りの笑顔を見せた。司令官のフォークを奪って、自分も食べてみた。
「美味しい!」
同じ感想が叢雲の口から飛び出た。それはあのケーキよりも何倍も何十倍も美味しかった。このケーキには叢雲の涙や努力が、そして、司令官への思いが沢山詰まっている。
『叢雲ちゃん、昔から言われていることだけど、料理を美味しくする最大の調味料は思いなのよ』
鳳翔の言葉を、叢雲はようやく理解できた。
「どうして、私のを叢雲が食べる」
「いいじゃない。私が作ったんだから」
叢雲の胸を張った言葉に、司令官は微笑してこう言った。その目に浮かぶ憐れみを、叢雲はいつもの調子で一蹴した。
「お前はいつも私の先にいるなぁ……」
「当たり前じゃない。あんた、戦闘の指揮以外駄目なんだから」
「ああ、そうだ。だから、お前を外して、ずっと考えていた。黙っていて、済まなかった。
考えるほど考えて、こういう結論に至った」
と、司令官は急に真面目な調子で、叢雲に一通の書類を向ける。
「受け取ってほしい」
叢雲はその書類を読む。叢雲は途中から目が曇り、全然読めなかった。司令官がどんな顔をしているのかすら分からない。
「馬鹿ね……もっと性能が良いのがいるじゃない」
司令官は小さく呆れたように笑う。
「ああ。知っている。だけど、私にはお前しかいないんだ」
「叢雲、私の側にいてくれ」
叢雲は何度も何度も頷いた。司令官の震えた声が、静かに叢雲の耳に響いた。
「……こればかりは私から言えて良かったよ、ありがとう」〈了〉
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