【デレマス】前夜

 日が暮れ、藍色の空に丸い月が昇りはじめ佐藤心は次の収録に向かった。収録が終わったのは、もう月が高い所で輝いている時分だった。今日これほど仕事を詰め込んだのは、明日からの休みのためなのだが、気合いで乗り切るには中々の拘束時間であり収録の最後の方では笑みを浮かべる程度しかできていなかったように思う。

 朝からラジオの収録やら㎝の撮影やら雑誌のインタビューやらで身体が悲鳴を上げているのは分かる。明日、あるいは明後日、身体の節々に痛みが走る可能性は考えられるのだが、そうなると明日以降の休みが何のためにあるのか分からない。明日が絶対外せない私情のために全日オフなのだが、このままだとそれすら怪しい。プロデューサーからは、それなら今日は休んでも良いんじゃないかと言われたが、いやそういう都合で今日まで休んでしまうのは……と言ってしまった。今にして思うとプロデューサーの忠告に耳を傾けていれば良かったと思う。

 テレビ局の廊下に見知ったスーツ姿の男を見つけた。見つけたが、何だか違うような気もする。昼間の時とは違い、チャコールグレーのスーツを着ている。見慣れない銀のネクタイが、照明の光を受けて僅かに輝いたように見えた。前髪も上げいて、爽やかな印象を受ける。

「プロデューサー?」

「お疲れ」

「お、おう? ……書いてなかった?」

「書いていたよ」

 事務所のホワイトボードには収録後直帰と書いていたためタクシーでも拾うつもりだったのだが、プロデューサーは確認していなかったのだろうか。

「何か忘れ物してた?」

「忘れ物といえば忘れ物か……?」

「はっきり言えよ」

「送るよ」

 プロデューサーは微笑み、車のキーを内ポケットから取り出す。経費で落ちるのだから別にタクシーで帰ってもいいではないかと思ったが、プロデューサーがそう言うのならばその厚意に甘える気でいる。タクシーで帰ると運転手から、アイドルの、とか言われるのが面倒なのである。オンとオフのスイッチの切り替えが、難しい時がある。特に翌日が休みとなると帰路はオフになってしまう。そんなところを、アイドル・佐藤心を見たい人に見せたくない。

 助手席に乗り込みながら、プロデューサーに言う。

「早いルートで」

「明日は?」

「知ってるでしょ、休み」

「俺は仕事なんだよ」

 プロデューサーはそう言って、車を走らせる。

「え、は? いや、仕事? え? そこは休むんじゃないの?」

 心はてっきりプロデューサーも休みだと思っていたため、戸惑う。心と同じ事務所の子は明日半日空けている者もいれば終日休みの者もいる。皆、合わせてそういう予定にしたのである。だから、プロデューサーも休みだとばかり思っていた。その気でプロデューサーやちひろに数ヶ月前に伝えたのである。その時、プロデューサーは考えておくと言っていたことを、心は今でも覚えている。だから、普通に考えて、休むとばかり思っていた。

「事務所、空にしちゃ悪いから。ちひろさんもいないし」

「仕事熱心というか、情が薄いというか……」

 心はプロデューサーに愛想を尽かせたように、窓に目を遣る。車はあまりスピードを出していないのかゆっくりと走る。外灯の暖かな光が心の行く先を照らす。プロデューサーの横顔を盗み見ても、涼しい顔だ。手元に視線を移せば、ジャケットの隙間から銀のカフリンクスが見えた。普段は邪魔だから、と腕時計以外の物をつけない男である。よく見れば、普段は必ずつけている腕時計が左手首に見当たらない。

「今日、何かあったの?」

「仕事だって」

「本当?」

「志乃さん関係」

「あー、どんまい?」

「まだ大丈夫だと思う」

 信号が赤に変わり、車は止まる。プロデューサーは暇を弄ぶようにハンドルを一定のタイミングで、とん、とんと癖のように指先で叩いている。

 プロデューサーは今、志乃さん関係であると言ったが、志乃さんだとかお酒に関係することがある翌日にプロデューサーが仕事を入れることは少ない。二日酔いがどうだ、お店への謝罪やらで仕事ではなくなることがあるためだ。

 プロデューサーが明日仕事なのは、本当なのだろうか。事務所のホワイトボードにどういう予定が組まれていたのか思い出してみると、心のように終日空けているのは心とそれほど年齢の変わらない大人達で、午前や午後片方のみというのはまだ制服に身を包んでいる子達だった。その子達に、プロデューサーは付き添う気なのだろうか。となると、明日一日仕事というのも納得できる。

 心が明日、あるいは明日からの何日かを何故休みなのかは、プロデューサーも知らないわけではない。プロデューサーは笑顔で祝いの言葉を述べてくれた。それから少し経った時、プロデューサーが一つの仕事を心に持ってきた。ブライダルに関することであり、一度しか袖を通さないだろうから、とプロデューサーが言っていたことを思い出す。

 心はウエディングドレスではなく、白無垢を選んだ。心にとってウエディングドレスの方が特別だったからだ。友人の結婚式に出席した時、花嫁は皆、心の知るどんな時よりも美しい姿をしていた。女の子の永遠の夢であるウエディングドレスを、心は仕事であろうとも着たくなかったのである。同時に、自分には似合わないような予感があったのである。そこにどういう心理が働いたのか今ではもうはっきりと思い出せないし、今更思い出したくない。

 心は明日、式を挙げる。

 その前日に、ウエディングドレスが似合わないだとかそういうことを考えたくないのだ。似合う純白のドレスを、探しに行った。心より、旦那の方が気合いが入っていたのは思い過ごしではないだろう。心は、白無垢も考えていたのだが、旦那がウエディングドレスが良いと言ったのでそっちを採用した。旦那は、心が仕事で白無垢に袖を通したのを知っていたのかもしれない。

 そんな日にプロデューサーは来ない気でいるのだ。唇を尖らせて、不平や不満の一つや二つ零そうとしたが、先程から何も言わずに車を走らせる。だから、こちらから口を開けさせるような真似をするのが癪だった。プロデューサーの胸の内のどこかに、心の口から何かを言わせようとして、明日のことや明日以降のことを語ろうとしている。そんな気配を覚えた。だから、心は黙った。そして、もう本来ならばとっくに家に着いているということについても黙った。

 プロデューサーが指先でハンドルを叩く微かな音だけが車内に響く。プロデューサーは心が話す気がないのを察すると速度を上げる。

 夜に再会してから、プロデューサーから煙草の匂いがしていないことに気付いた。とん、とんとハンドルの縁を叩くのは、ニコチンが不足しているから来るものなのだろうか。

「吸えばいいじゃん」

 プロデューサーはハンドルの縁を叩いているのにようやく気付いたのか、ハンドルを両手でしっかり持つ。プロデューサーが喫煙者なことは知っているし、運転中に吸っているのを何度か見たことある。他のアイドルから注意されて、運転中は吸わないようにと言われていることも知っている。それでも、ここには心しかいないのだから、別に吸われようが困ることはない。

「今はいい」

「本当?」

 心を送り届けた後、吸うつもりなのだろうか。となるとそれまで、プロデューサーの指先から奏でられる単調なリズムを聞かないといけないのだろうか。もしかすればこれも、心の口から何か話させる策略なのかもしれない。

 心は耐えられなくなったように口を開ける。

「何かないの?」

 プロデューサーは片手を離し、ラジオか何かを流そうとしたがすぐに手を元の位置に戻した。それから、こういうことを言う。

「ない」

 心は珍しく仏頂面になり視線を外に投げる。見慣れた高いビル、明るい町並み。窓を少し開けてみると、車の走る音だけが入ってくる。

 心は明日、結婚する。夢幻ではなく、現実である。この世界の中で起きる出来事だ。だというのに、まるで夢のことのように思ってしまうのは何故なのだろうか。実感がわかない。結婚という行為と心の日常が結び付かない。

 明日、心は世界で最も美しい女性になる。今までとは違うヘアメイクをして、誰よりも輝いている女性になる。

 アイドルとして活躍している心にとってしてみれば、そんなことは日常の一部である。写真を撮られることも、沢山の人の前に立つことも常である。そのどこに非日常を感じるのだろうか。何一つ変わらない日常なのではないだろうか。

 非日常の一つに自分の名前が変わるというのもあるのかもしれない。自分の名前が変わったところで、何一つ変わらないと思っていたのだが、新しい名前でヴァージンロードを歩く。そのたった一度の現実が、明日、待っている。そこから先の生活はきっと今とは少し異なっているように思える。それほど大きな区切りになる日が明日なのだ。

 プロデューサーの口からではなく、旦那の口からも前日にも仕事をするのはどうなのかという意見が出た。それに反発したのは心自身だ。心は明日から一週間程度仕事をしない。だから、前日まで仕事をすることを選んだのだ。しかしそこには、何もしない状態で明日を迎えたくない気持ちが働いていた。何もせずに明日のことに集中してしまえば、区切りについて考えてしまう。

 恐れているのだろうか。大きな区切りを迎えることによって、何か他のことも区切られてしまうのではないかと考えているのかもしれない。本当はそんなことないのに、心の気の持ちよう一つで簡単に区切られてしまうものがあるのではないだろうか。結婚したことにより、何か今までとは違う生活が広がっているのではないだろうか。そんなことはないと思っているのに、胸の内は容易く揺らぐ。

 もし隣で運転しているのがプロデューサーではなく、将来を約束した、明日隣にいる男性だったら、心はこの胸の内を全て洗いざらい告白したことだろう。そうして清々しい気持ちで、明日の朝を迎える。

 しかし、今、心の隣にいるのは明日、来ないプロデューサーである。この男に全てを話したところで、心の胸の内は何一つ晴れないこと。この男は、明日、いないのだから。

「佐藤」

 沈黙に徹していたプロデューサーが突然、心を呼んだ。心はいつもの調子で、反射的にこう返した。プロデューサーと初めて出会った時にそう言ったように。

「しゅがーはぁと、って呼べ」

「それで良いんだ、お前がそう呼べと言った。だから、明日以降も変わらない」

 プロデューサーはそう言って、車を停めた。心は何も言わず、助手席を降りる。ドアを閉じる間際、一人で運転席にいるプロデューサーに短い言葉を送る。

「……ありがとう」

「事務所で待ってる」

 プロデューサーはそう言って、心の言葉を待たずに車を走らせる。車の窓からは微かに白い煙が漂っているのが見えた。〈了〉


 

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