執務室の窓辺には一輪の花がある。窓を大きく開けると、青紫色の花が海の香りを浴び、小さく揺れた。優しい日の光を、澄んだ顔で受けている。
「あやめ、ですか」
と、戦果の報告にやってきた青葉が花を見て、一言呟いた。提督は煙草を一本飲んだ後、幸福そうに頬を緩めた。
「知っているかね?」
「菖蒲狩り君は沼にぞまどいける」
提督は楽しげに笑い、こう茶化してみせた。
「伊勢に聞かせたらどうかね?」
「提督、あの方はそれほど風流人とは思えませんよ」
「それもそうか。それで、戦果は?」
「敵艦隊、全滅です。沈んだ艦はありません。流石、提督です。それで提督、一体誰から貰ったんですか?」
青葉は深い笑みを浮かべ、提督に詰め寄って来た。報告が短いといつもこうして、提督の周辺を聞きたがる。青葉の手帳には、どれほどの艦娘の情報が集まっていることだろうか。
大体は、はぐらかしていたのだが、今日は不思議と気分が良かった。
「これは貰った物だよ」
「ずばり、名前は!」
ずいずいと踏み込んで来る青葉に、提督は気の張った強い調子で答えた。
「最上だよ。知っているかね?」
「いえ……いましたか?」
「いや……いないよ」
「でしたら、見つけたら、連れて来ますね!」
青葉はすぐに執務室から出て行った。陽気な鼻歌を残して。やはり、青葉も覚えていなかった。
最上は、提督が初めて轟沈させた少女である。他の娘が気づいた時には、既に潜水艦の雷撃を浴びていた。慢心ではなかったと信じている。それでも、最上は沈んだ。深く、寒く、暗い、海の底に。
その最上が、鎮守府の花屋で買ってきたのが、この菖蒲である。菖蒲湯のために買ってきたのだが、余ったため、提督の元に回ってきた、と最上は仄かに頬を染めて言っていた。
最上は何かといい節句を重んじて、七草粥や雛祭りや菖蒲湯や七夕祭りや菊の節句などの日には豪勢な料理を皆に振る舞い、執務室で提督と花や時期に合った俳句の話などを楽しげに語る。
潮風のせいで花はよく枯れた。その度に、最上が色々な花を持ってきた。だから、執務室は芳しい花で満ち満ちていることが多かった。
最上は澄んだ目を提督に向けて、少し照れくさそうに最後はこう言うのだ。
『やっぱり、五月雨を集めて早し最上川、が好きかな。ボクの名前が入っているからね』
『誰の句かね?』
と、提督が問えば、最上は悪戯っぽく笑い、こう答える。
『内緒だよ』
芭蕉の句だと知ったのは、最上が海と一緒になってからであった。
提督は知っている。この菖蒲だけは、他の菖蒲と違い、綺麗に包装され、最上の部屋に緊張したように置いてあった。ある花屋でこれだけ別に買ったことすらも。青葉から嬉しそうに報告された。
『提督、提督! ビックニュースです! あの、最上が、恋です!』
その青葉も、今となっては最上のことを一切覚えていない。青葉だけではなく、他の艦娘達の記憶にもない。上層部に確認を取ってみると、轟沈したり解体された娘達は、戦争から解放され、ただの少女として生きるとのことだ。
建造された時と同じように、全てを覚えている娘もいれば、微妙に覚えている娘もいれば、綺麗さっぱり忘れている娘もいる。
そういうことを知ってから、提督は、最上のことが気になった。どのように生きているのかが気になった。
提督はある日の休日、そっと執務室を抜け出し、鎮守府周辺を歩くことにした。海軍の制服から適当な恰好に着替え、ただの一般人として歩き回ってみた。
花屋はずっと遠くにあった。電車に乗り、海の匂いがしなくなるほど南までやって来た。日は沈み、辺りはすっかり夕焼けに染まっていた。
最上もいつも、こんな所まで来ていたのだろうか。ここから花を選び、買う、という時間は残っているのだろうか。
提督は駅のすぐ側の花屋に入った。ショートカットの少女に声をかけた。
「済みません」
白いエプロンをした少女が振り向く。夕焼けに染まった中性的な顔だった。
「はい、いらっしゃいませ。何をお探しでしょうか?」
少女の可憐な声を聞き、その澄み切った瑞々しい瞳を見て、提督はすぐに最上を思い浮かべた。頬の端に浮かぶ微笑の影すら瓜二つであった。
提督は驚いたように黙っていた。少女は困ったように提督の顔を見上げるばかりであった。少女は赤い顔でこう言った。
「あの、どこかで、お会いしましたか?」
提督は振り絞るように答えた。
「……いや。花を」
「そうですか、ごめんなさい。どんな花にします?」
少女が花を見る顔は、とても幸せそうであった。提督は少女を見ないように、店内の花を眺めながら、かつて、最上が買ってきた花々を見ていた。
「花は詳しくないんだ」
「誰かへのプレゼントですか?」
これはプレゼントになるのだろうか。墓前に置く気なのであろうか。そんな花をこの少女に、選ばせる気なのだろうか。
提督は歯切れの悪い調子で答えた。
「ええ、まぁ」
「女性ですか?」
「ええ」
少女は店頭に置いている紫の花を適量取り、他の花とまとめた。少女は微笑して、提督に教える。
「でしたら、あやめ、なんてどうです? この時期でしたら、菖蒲湯なんかにも使いますし、プレゼントってバレないと思います。あやめの花言葉ってご存知ですか? 愛、あなたを大切にします、消息、そんな意味があるんですよ。
それとも、王道中の王道の薔薇にします? 真っ赤な薔薇とかプレゼントされたらしびれちゃうなぁ。こっちも、愛、情熱とかそういう言葉があります。
他のも見繕いましょうか?」
提督は涙が込み上がってくるのをぐっと堪えて、答えた。それでも口の端が震え、声も震えていたと思う。
「あやめを」
「提督は寂しがり屋だなぁ。ボクがあげたのに、枯らしてしまったのかい? ……あれ? 済みません」
その声を聞いた時、提督は少女と最上を重ねた。少女を――最上を見た。やはり、この少女こそ最上なのである。が、次の瞬間、少女の影に最上は鎮まり、ただ少女がバツが悪そうに、恥しそうに手早く、あやめの花を見繕っていた。
「え、いや……いいんだよ、いいんだよ」
少女は最上なのかもしれない。が、もう、最上は、あやめと一緒に海の底で眠っている。最上の影を感じる。けれども、もう最上は、少女として生きているのである。花を愛する少女として。提督が声をかけ、思い出させるようなことはしてはいけない。
提督は少女から花束を受け取ると、晴々とした笑顔でこう言った。
「きみ、五月雨を集めて早し最上川、って知っているかね? 芭蕉の句なんだとさ」
「ありがとうございました」
少女は嬉しそう笑みを浮かべて、そう言ったのであった。〈了〉
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