【文アル】憧れ

食堂で食事を済ませた後、彼は中庭で一服していた。青い芝生に腰を下ろし、青空に向けて紫煙を吐き出した。少し短くなったゴールデンバットを咥えていると、図書館のドアが開き、背の高い痩身の男が姿を見せた。その姿に、彼は咥えていた煙草を堪らず落とした。慌てて靴でもみ消し、落ち着くように新しい煙草に火を点けようとする。口元に添えた指が微かに震えていた。

男のことを、彼は知っていた。

芥川龍之介。この国で最も有名な小説家の一人である。彼の名を冠した小説の賞があり、彼を始めとした多くの新人作家はその賞を欲した。が、彼はついにその賞を受賞するには至らなかった。多くの作家から、芥川龍之介の名を継ぐのは、その文学性を継ぐのはお前ではない、と否定されるかのようだった。

芥川は辺りを見渡し彼を見つけると、こちらに向かって歩いてくる。彼が煙草を咥えているのを見ると、艶めかしい声で微笑した。

「中は煙草を吸っちゃいけないんだってね」

近くで見る芥川の顔は穴が空くほど見た写真と変わらず、広い額に面長で青白い。彼は動揺を悟られないように努めた。

「……そうですよ」

「来たばかりで知らなくて、司書さんに小言をもらったよ」

そう言うと芥川は懐から新品のゴールデンバットと燐寸を取り出し、封を切り、吸う。穴の空いた黒手袋から見える指は細い。

芥川は全身の隅々にまで紫煙を巡らせるように大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。そうして、芥川龍之介です、と名乗り、恭しく頭を下げた。

「きみは?」

彼は問われた。もしこの問いが芥川から問われたものであれば、彼はすぐに太宰治と答えたことだろう。

目をそらし、沈黙を貫いたのは、太宰にとって芥川龍之介という作家が、永遠に憧れの存在だったからだ。その名を冠した賞を欲したほどに。太宰治と名乗れば、芥川は当然、その作品の数々を読むことであろう。芥川の裏返しのような一生を歩んだ太宰治の作品を。恥の多い生涯を送ってきたことを芥川に知られるのは、避けたかった。

「津島です」

芥川は太宰の隣に腰を下ろし、人懐っこい笑みを浮かべて訊く。

「津島くんは、どんな作品を書いてきたんだい?」

津島という名を、津島修治という作家を知らない芥川にとって、その次に訊くのが作品であることは当然であった。書から人間を知り、相手の懐に入るのは芥川生前からの癖のようなものだ。よく知っている。だからか、芥川の周りには多くの作家が集まった。

太宰がその輪に今更入れるのだろうか。入っても許されるのだろうか。自分は芥川の周りに並べるほどの作家なのであろうか。菊池寛や久米正雄、佐藤春夫、谷崎潤一郎、室生犀星という大作家達と同じところに立ってもいいのだろうか。

現代まで名を残す太宰治であるが、芥川龍之介の前では霞む。太宰にとって、芥川は太陽である。近づけば近づく程、この身は焦がれ、やがて海に落ちる。あのとうの昔に死んだギリシャ人のように。

「何も……」

太宰がそう答えると、芥川は寂しそうに笑った。それ以上、踏み入れるのは野暮だと思ったのだろう。二人はそれから互いに煙草を味わい、無言の時を過ごした。

太宰は芥川に訊いてみたいことが幾つもあった。芥川龍之介以降の文豪にとって、芥川龍之介の自死は衝撃的な出来事であり、既存の文学が、新しい文学として現れたプロレタリア文学に敗北を喫したように、太宰の目には映った。谷崎潤一郎との論争は芥川龍之介の自死で宙吊りのままだ。芥川が遺した詩的精神とは何か、という文学的命題は、太宰を始めとした文学青年の話題となった。その続きを知れる。しかし、そういう生前のことを訊くのは憚れる。芥川にとってそういうことを訊かれるのは、太宰が何故、心中したのか、と他人に訊かれるのと同じだ。

けれども、太宰は一つ、芥川に訊いてみたことがあった。

「先生は、また何か書かれるんですか?」

「……また?」

「俺、先生の作品を読んだことあるんです。羅生門も傀儡師も湖南の扇も……。何度も読みました。何度も。ですから、また何かを書かれるんじゃないかって……」

太宰がそう伝えると、芥川の頬がにわかに朱色を帯びるようになった。太宰に向けられたその瞳は震え、涙が溜まり、今にも零れ落ちそうだった。何かを確かめるように、芥川の唇が動いたが、隣に座る太宰には聞こえなかった。それからまた芥川の唇が動いた。今度は、太宰の耳にも聞こえた。

「……残っているんだ」

「羅生門も鼻も芋粥も秋も舞踏会も……多くの作品が残って、読まれてます」

「津島くんは、僕の作品をよく読んでいるんだね」

穏やかな芥川の声音に、太宰は驚き、誤魔化すように唐突に早口になった。

「え、いや、室生さんとか菊池さんとかも読みました」

「そっか、二人の作品も残っているんだね」

「あの、それで……」

逸る太宰とは裏腹に、芥川は落ち着いていた。煙草を吸い終え、真面目な調子で答える。

「うん、きっと書くと思うよ。僕は作家だから、きっと書くと思う。一人でも僕の作品を待っている人がいるのなら、僕は書くよ」

太宰が喜びに打ち震えていると図書館のドアが開き、菊池寛の大きな声が中庭に響いた。

「龍、いつまで吸ってんだ! 司書さんが呼んでるぜ!」

「今、行くよ」

芥川は立ち上がり、図書館へと戻る。その途中、太宰の方を振り向き、こういう言葉を送った。

「僕はまた筆を執るだろう。だから、きみも書くといいよ。そして、読ませてほしい」

「……どうしてそんなに読みたがるんですか。俺の作品なんか、先生にとってしてみたら……」

「そう卑下することはないさ。まだ書いていない作品なんだから」

背中を押す芥川の優しい言葉に、太宰は立ち上がり叫んだ。怒りや悲しみが混じった叫びは、芥川を通り越し、菊池寛の耳にも届いていることだろう。

「俺はただ、先生の文学を継げるのは俺だと! 俺しかいないと認めてほしかっただけなんす! 俺にはもう書く理由なんてないんです!」

その言葉を芥川にぶつけてもどうしもないことは太宰自身がよく分かっていた。そして、菊池寛に向けて叫んだところで、どうにもならないことは分かっていた。全ては時間という波の中に飲み込まれてしまっている。遠い昔のことで、もうどうにもならない。それでも、太宰はこの思いをぶつけるしかできなかった。

芥川がこの世に戻ってきた。その生き方を裏返し、作家として活動できるようになり、独自に花開いた太宰治という作家の立場は、もうない。芥川龍之介が再び筆を執り、作品を発表するのならば太宰治という作家は喜んで自らの意思でただの一読者になる。

太宰治という作家は、芥川龍之介の影が勝手に姿形を変えただけに過ぎない。

それでも、芥川は書けと、読ませてほしいと希うのだろうか。あまりにエゴイスティック過ぎる。太宰はその思いに応えられるほどの作家ではなかった。

「それでも書いてほしいね」

芥川はそう言い残し、図書館へと菊池寛と共に戻った。ドアは静かに閉められた。中庭に一人取り残された太宰は、何も言い返せなかった。〈了〉

 


 

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