【デレマス】古本屋とジャズ

 新調した名刺は減り続けるが連絡は一つも来ない。携帯を確認してみるが、履歴に残っているのは事務所や見知った名前ばかりだ。デザインが悪いのだろうか。

 手渡した時に名刺だけ真新しいのはどうなのか、薄汚れた皺のシャツの袖やジャケットのすれやほつれが見えてしまい不快感を与えてしまっているのではないかと思い、スーツとシャツを新調してみたが似合っていないような気がする。採寸をしたのだから似合うと思うのだが着慣れていない。姿勢が悪いからではないかと事務員の千川ちひろから言われたが、背中が丸まっている自覚症状はない。

 このプロダクションで働くようになって数年、プロデューサーがアイドルにならないかと声をかけたのは大学時代の後輩の知り合いや前職のツテを使ったモデルに声をかけてという、いずれも既に一度は社会に出て働いたことのある女性達だった。プロデューサー自身ではそんなふうに仕事をしていて悪くないように思うのだが、社長はプロデューサーの仕事振りを好ましく思っていない節があるようで、ピンと来た女の子に声をかけみてもいいと言われた。けれども、プロデューサーの周りにそんな女の子は見当たらない。そういう女の子は既に別のプロダクションに所属している。

 クラクションが響き、プロデューサーは我に返り足を止めた。赤信号に変わっていたらしい。

 社長の言葉を聞いた時、プロデューサーは、はぁ……と短い返事を返すことしかできなかった。社長の言葉のどこにもプロデューサーの業績を否定するような文句はなかったし、よく働いていると褒められている。それでも、と付け加えられたのが先の言葉である。プロデューサーがこのプロダクションで働くようになったのは、職を辞した時に社長から声をかけられたこともあり、プロデューサーの中で社長の言葉は公私を分け隔てなく大きな意味を持っている。時々プロデューサーの理解を越えたことを言うが。今回もその一つだ。

 しかし、社長の言うことは間違っていないような気がする。まだ何者にもなったことがない女の子をアイドルとしてスカウトする。プロデューサーに欠けている部分だ。新しい何かに挑戦するあるいはさせるということを、プロデューサーは得意ではない。不安定極まりないところに歩むのを好ましく思っていないためである。

 そうなるとプロデューサーと社長の性は合わないと思うのだが、定職に就いていない時分に拾われた恩があり、性が合わないという部分だけで離れられない。これで薄給や休日も不確かならば辞する勇気も湧いてくるのだが、そこらへんは他のプロデューサーや事務員が支え合って上手く回している。プロデューサー自身も肩代わりすることもある。

 プロダクションとして傾くことなく回っているからこそ、こんなことを思うのだろうか。よりプラスになるようなことを。他の女の子にアイドルになる機会を。まだ見ぬ世界への一歩を踏み出してほしい、と。そんなプロデューサーの思いを、社長は分かっていてあんなことを言ったのだろうか。あるいは社長自身もプロデューサーの思っているようなことを思っていたのだろうか。

 何とも分からない。しかし、減り続ける名刺から連絡が一つも来ない理由は分かる。時期が悪い。新卒の子は既に入社しているし、高卒の子は大学へ入学している。

 ソメイヨシノは散り、大きく円やかな八重桜が、濃い光を受けて輝く頃である。葉の隙間から日が落ち、木漏れ日が広がる。

 社長の言っているようなピンと来る女の子ならば、もう既に将来の進路に向けて歩んでいる時期なのである。そんな子がアイドルになために連絡を入れるとは考えにくい。

 しかし成果が何一つないまま事務所に戻るのは心苦しい。自分はピンと来るような女の子を探せないと告白しているようなものである。段々と、せめて一人だけでもと焦るようになっている自分がいる。同時に、焦ったところでどうにもならないと思っている自分もいる。自分が焦ってしまえば、ピンと来る女の子を見逃してしまいそうな気配を覚える。

 そんなことを考えていると、頭へ水滴が落ちてきた。見上げると暗い色をした雲が空一面に広がっていた。信号はまだ赤だ。プロデューサーは踵を返し、屋内に避難する。しかし近くの喫茶店は既にプロデューサーのような考えを持っている人がなだれ込み、あるいは行列を作っている。

 屋根は少しずつ雨が降ってくる間隔が早くなっている。他のどこで雨を凌げるところがないかと周りを探した時、雨音の隙間から何かの音が聞こえてくる。音は幾つも繋がり続け、一つの音楽を奏でているようだった。音の正体はどこかでコントラストバスであり、どこかで弾いているのだろう。もしその奏者が女の子だったら、思い切って声をかけてみるのも良いのではないだろうか。

 プロデューサーは本降りになる前に奏者の所に走る。大通りを離れると音はより鮮やかに聞こてくる。コントラバスだけだと思っていたのだが、ピアノの音やドラムの音も聞こえてくる。このどこかにスタジオでもあるのだろうか。あるならば、そこで話しをするついでに雨宿りでもしよう。

 音を追いかけていると、暗い雲はもう空一面を覆っていた。強くなる雨音の間を縫うように、路地の隙間から音楽が聞こえる。路地のどこにもスタジオがある気配は感じない。静かな住宅街が広がっているが、ドラムの音は確かにこの先から聞こえる。プロデューサーは足音を忍ばせ、一軒一軒確かめるように歩む。路地の中に、一軒の古書店が暖簾を垂らしていた。音楽はそこから漏れているものだった。硝子戸越しに店内の様子を確認しようとしてみたが、本棚や積み重ねられた分厚い本の背表紙しか見えない。店番をしている店員がいるのは辛うじて見える。

 これらの本の中からプロデューサーで読みたいであろう一冊の本を買う頃には、雨はやんでいるかもしれない。濡れた髪や顔をハンカチで拭き、古書店に足を踏み入れる。曲は別の曲に変わっていた。

 店内には天井に届くであろう高い本棚が三つ四つ並び、本棚に区切られた通路は一方通行のように狭く、コの字を描いている。本棚には本以外に古い絵葉書やレコードの姿もあった。本に隠されたようにレジがおり、髪の長い少女が読書に耽っている。

 店員だろうか。少女はプロデューサーという客が来ても、微かに俯き、本から目を離さない。長い前髪が目にかかり、プロデューサーの姿が見えないのだろうか。プロデューサーが一声かけてみても、流れ続ける軽快なピアノの音に阻まれ、少女は顔を上げない。

 少女の脇には何冊もの本が積み上げられており、蓄音機があった。ピアノとコントラバスとドラムの心地良い旋律が、雨音の中を駆ける。

 少女はプロデューサーより早く雨の気配を察知したに違いない。雨が降ると訪れる客も少なくなるため、音楽をかけても良いだろうと思った。プロデューサーは少女の読書の時間を邪魔しているのではないだろうか。プロデューサーは何も見なかったことにし、このまま音を殺して外に出た方が良いのではないだろうか。そうすれば、少女は何も知らず、読書をするのではないだろうか。

 しかし、雨はようやく本格的に降り始めたところである。雨の音を掻き消すために流れ続けるトリオの音楽は、プロデューサーが引き戸を開けば、烈しい雨音に負けてしまうだろう。となれば、少女は現実に帰ってくる。プロデューサーを見付けてしまう。そうなってしまってはいけないような気がする。少女の貴重な時間を潰してしまう。プロデューサーはそんなことをしたくて、この店に入ったわけではない。ただ一時の雨を凌ぎたく、飛び込んだだけなのだ。

 プロデューサーは去ることもできず、棚差しされた本の背表紙を一つ一つ追いかける。

 プロデューサーはこの本棚に並べられた本をどれも読んだことがないような気がする。読んだことがあるような気がするのだが、もう遠い過去の思い出の中にしまわれており、内容までは思い出せない。本を本格的に読むようになったのは高校に入学してからだった。アルバイトをして、自分で自由に使えるお金ができ、安くで買えることもあり文庫本を買うようになった。

 古い本、所謂教科書にも選ばれる小説は読めなかった。プロデューサーはその時、そういう小説に目を通すと瞬時に勉強しなければならないという頭に切り替わり、この小説で作者が言いたいこととは何か、この小説は歴史の中でどのような評価を受け、どのような影響を与えたのか、この小説を書いた作者はというようなことを考えてしまい、小説に集中できなかった。プロデューサーは歴史や国語が得意ではなかった。人並みの成績を維持していたが、そういう事実や人間の感情や考えよりも、プロデューサー自身の身の回りのことの方を考える方が得意だったのである。

 中でもプロデューサーが特に関心を寄せ、知ろうとしたのが水であり雨であり風呂であり温泉であり露天風呂であり銭湯であった。だから大学進学について真剣に考える高校三年より前から自然と勉強をしていた。沢山知りたかったのは勿論のこと、自分が決して勉強できる人間ではないと分かっていたからである。その時から小説を読む日が少なくなり、いつしか読まなくなった。

 勉強ばかりの日々が続いたからだ。大学は化学が強い大学に進学し、院には進学せず、企業の研究職に就職した。入浴剤やシャンプーやボディーソープを開発している会社である。そこで自分よりずっと頭が回り、深く考えられる人間達に出会った。彼等との時間は楽しかったが、プロデューサーの考えと合わないことがあり、いつしか孤立し、営業職に異動になったが、退職した。各地の温泉宿を回り売り込むのは楽しかったが、何故自分は彼等の開発した物を置いてもらおうとしているのかと虚しくなったのである。

 少女は黙々と文字を追い、頁をめくる。プロデューサーは一冊の本に夢中になる少女が羨ましく思えた。同時に、昔の自分を見ているようで微笑ましい気持ちになった。

 プロデューサーが何か軽く読めそうな小説を探そうとしてみるが、この古書店は人文系の本を主に置いているようでプロデューサーが求めるような本は置いていないのかもしれない。ないのであれば立ち去ってもいいのだが、何も買わずに立ち去りたくはない。しかし買ってしまえば、客として少女の前に姿を現してしまう。

 背表紙を追いかけているとプロデューサーの求めるような小説は棚の一部にまとめて置いてあった。しかしそのどれもが既にプロデューサーが読んだことのある本で、家にも置いてある本だった。きっと、誰かが引っ越しの時にでもまとめて売りに来たものなのだろう。

 プロデューサーはいよいよ堪えられなくなり、申しわけなさそうに声を上げる。

「済みません」

 少女は弾かれたように両肩を上下に揺らし、本から顔を上げた。少女は今の今まで見られていたのかと察したのか白い頬を赤くする。何と言えばいいのか分からないのか黒々とした前髪の奥に潜む目を伏せ、沈黙に徹する。プロデューサーもプロデューサーで、何か言葉を返してくれるだろうと思い、何も言えなくなった。プロデューサーは少女は二人して言葉を奪われた。

 二人の間を、それまでピアノとドラムを支えるように弾き続けられた低いコントラバスの音色が迸る。奏者の巧みな指がそれまで控えて合わせるだけだった低音が強かに前に出てくる。その音色を引き立たせるように微かにドラムとピアノの音が聞こえる。コントラバスの響きを落ち着くべきところに落ち着かせようと導いている調子だ。奏者も二人のことを分かっているのか、慌てることなくしかし決して僅かな導きにも委ねることなくたくましく音を奏でる。

 蓄音機の向こうから大きな拍手が響いてきて、プロデューサーと少女は我に返ったように同じ言葉を口にした。

「あの」

 二人はまた黙ったが、ドラムの柔らかい音に背中を押されプロデューサーが口を開けた。

「本を探しているんですが」

「どういう本なのでしょうか?」

「面白い小説を」

「少々お待ちください」

 少女はそう言うと立ち上がり、プロデューサーの横を通り、本棚の前に立つ。少女は少し迷ったように、棚差しされた古書の表題を細い指で追いかける。ある本を前で指がとまり、一冊、また一冊と本を抜き取り、平積みされた本の上に重ねていく。プロデューサーは少女が選ぶ本など見ていなかった。

 プロデューサーは、少女の横顔に目を奪われた。重たい前髪から想像できなかったほど、魅力的な顔立ちをしていた。濡れた大きな瞳は一心不乱に本棚に向けられ、一冊を選ぶ時に口元に微かながら弧が描かれる。

 少女はプロデューサーがこの古書店を去れば、先程と同じようにレジの奥で本を読むのだろうか。客が訪れても、声をかけられるまで読書に耽るのだろうか。そんな一生を歩むつもりなのだろうか。ここでそんな一生を歩ませていいのだろうか。少女にはもっと輝ける所があるのではないだろうか。

 長い前髪を整えれば、きっと、彼女はもっと沢山のことに触れられるのではないだろうか。

 プロデューサーの緊張を少女に伝わるように、雨音を吹き飛ばすように、レコードの向こうでドラムが烈しく叩かれる。社長の言葉が蘇る。社長の言ったことは今でもよく分からない。それでも、ここで少女と離れてしまうのはいけないような気がする。気がするというのではなく、ほとんど確信めいた思いが渦巻いている。

 ここで少女と離れてしまってはいけない。

 プロデューサーは意を決して、少女に声をかける。

「アイドルになりませんか?」

 少女はプロデューサーの言葉など聞こえていないのか、無言で本を選ぶ。が、少しして、プロデューサーが何かを言っていると気付いたのか顔を向ける。

「はい?」

 いつの間にか、少女の前には沢山の本が積み重ねられていた。

 少女はこの時になってようやく、自らとプロデューサーの間に流れるジャズの音が流れ続けていることに気付いたのか、プロデューサーを前を通り抜け、アームをレコードから離す。

 静かな古書店にプロデューサーは立ち竦む。

 雨も上がったようで雲の隙間から陽が射し、硝子戸の向こうから声が聞こえてくる。少女はプロデューサーの言葉を待っているのか、何も言わない。少女の視線の先にはプロデューサーはいない。自らが選んだ何冊もの本があるように思う。

 プロデューサーは現実に帰ってきたように、少女に何も言えなくなった。再び同じようなことを言えば、少女の耳に届いてしまう。少女はプロデューサーの言葉を受け、アイドルになるだろうか。きっとならない。他のプロデューサーが声をかけても同じだろう。少女は長い髪で表情を悟られないようにして、何事もないように読書を続ける。そういう少女だ。

 プロデューサーは薄い財布を取り出し、少女が選んでくれた何冊もの小説の値段を考えながら、全ての客がそうするように持ち合わせを確認する。プロデューサーは苦い表情を浮かべ、少女にこう告げる。

「また後日来ます」

 プロデューサーはそう言って、古書店を去った。ガラス戸越しに少女の姿を探すと、少女は読書を再開していた。

     ※

 少女は店を去った男の丸まった背中を追いかける。雨は上がったようで、店の前を通り過ぎる人々の手には丸められた傘があり、少し濡れていた。

 少女は店の前に出て空を見上げたが、青空がずっと向こうまで広がっている。もう雨が降ることはないだろう。

 レジの奥に戻ろうとした時、男のために選んだ本が本棚の上に積まれている。少女はそれらの本をまとめて持ち上げると、レジの横に置いた。男は面白い小説が読みたいと言っていた。それはきっと、雨のせいだろうと少女は思った。雨の日にこんなお店に来る人間は、薄暗い雰囲気を吹き飛ばすように面白い小説を求めている。少女は数少ない経験からそんな統計を導いている。

 しかしこうして少女が選んだ面白い小説が、男にとっても面白い小説なのかどうかということは分からない。

 男は後日にまた来ると言っていた。財布も確認していた。男はあまり本を買わない生活をしているのだろうか。買うことが多いが、カードで支払うことが多いのだろうか。

 となると、少女が選んだ全ての小説を買うのは難しいかもしれない。後日やってきた男はきっとこう言うことだろう。この中でも特に面白いのかどれですか、と。少女はもし訊かれてもいいように、自らが選んだ本を読み始めた。

 男のために選んだ小説を、少女は既に何度か読んでいた。この古書店にある本を、少女はどれも面白いと思っている。ある歴史書もそうだし、ある理学書もそうだし、ある経済書もそうだ。少女の思う面白いというのは、自分の知らないことに触れられるというものだ。

 ならば、男から面白い小説をと言われ選んだこれらの小説は、自分の知らないことに触れられる小説なのかと問われると、違うような気がする。少なくとも、少女は既にこれらの小説を一度は読んでおり、自分の知っている小説である。しかし、それでも、これらの小説の内で展開される物語に心が踊ることがあれば、驚くこともあり、悲しむこともある。

 文字を追い掛け、物語を積み上げていくと、その物語の内で動く登場人物に、登場人物の感情に、少女の胸は動かされる。そういう小説の数々を少女は選んだ。きっと男も面白いと思えるような小説のはずだ。

 しかし、男は翌日も翌々日も姿を見せない。翌日や翌々日は少女も男のことを思ったが、きっと忙しいのだろうと思うだけだった。背中は丸まっているが、良いスーツを着ていたし、濡れた革靴にも艶があった。きっとあの男は、こんな所に来るような人ではないのだ。もっと別の所で東奔西走しているに違いない。

 ここに男が来たのは雨が降っていたからだ。一時の雨を凌ぐために、この古書店を選んだに過ぎない。現に男は雨がやむとすぐに出ていった。少女が選んだ本が買えないとわざわざ理由を添えて。

 しかし、少女の耳は男が去る前に何かを言ったことを覚えている。それがどういう言葉だったのか少女は分からない。けれども、男は何かを伝えようとして言葉にしたのだけは分かる。少女はそんな男の一言を聞き逃してしまった。少女が雨の日に聞くジャズの音に阻まれて。

 少女が雨の日にレコードをかけるようになったのは、晴れの日と比べて客の出入りが少ないからである。晴れの日と同じように店番ついでに読書をしていても良かったのだが、規則的な雨の音が少女の読者の邪魔をしていることに気付いたのだ。だから棚にあるレコードをかけるようになった。そうすると心が落ち着く。昔、叔父がそうやってお気に入りの音楽を流してくれた記憶が蘇る。その音楽を聞きながら本を読んでいた古い記憶が蘇る。

 時々驚くほどに刺激的な音楽が流れ出すこともあるが、店内にあるレコードから奏でられる音楽どれも柔らかく雨の音を掻き消し、少女に無上の読書の時間を与えてくれる。

 だというのに、その音色により男の言葉を聞き逃した。普段ならば、そんな言葉気にかけず読書に熱中するのだが、もし男が本に関する何かを言い、少女が聞き逃し、男が去ってしまったのであれば、少女は男の貴重な読書の時間を奪ってしまったことになる。本来であれば買うはずだった本を、少女が聞けなかったため買えなかった。

 そういう読書の時間を奪われる苦しみを、読書の機会を奪われる苦しみを、少女も知っている。

 それからの日々、少女は雨の日でもレコードをかけずに読書に耽るようになった。男は来ない。また来ると言った男はまだ来ない。訪れた時に言葉を聞き逃さないように耳を大きくして待っているのだが、男は来ない。

 次第に少女の頭から男の姿が消え去り、ただ男のために選んだ面白い小説だけが残った。いつしか、またあの時の雨の時と同じようにレコードの針を落とし、音楽をかけて読書に耽る日々が戻ってきた。

     ※

 プロデューサーは久方ぶりに雨水を思った。灰色の雲がプロデューサーの気分を回復させる。事務所の窓に落ちる雨音に耳を傾ける日々が増えた。天気予報を見て、空を眺めて、雨が降りそうな気配を感じると仕事をさっさと終わらせる。何もない状態で雨を待つ。

 プロデューサーはもう一度少女に会いたかった。会って、話がしたい。

 記憶を探り、あの古書店の位置を思い出そうとしたが、大通りから離れた所にあるのまでは覚えているが、小路をどう歩き、どこで曲がりと細部までは思い出せない。実際に歩けば思い出せるだろうと思ったが途中で迷った。

 あの時と同じように雨の日に出かけてみたが、ジャズの音はどこからも響いてこない。となるとプロデューサーは少女に関する手掛かりを全く失ったことになる。本のことを思い出そうとしたが、全く思い出せない。ただの少女のあの目ばかりを思い出す。魅力的な目をした少女だった。あの横顔を思い出し、胸を射抜かれ、本のタイトルもぼんやりと思い出せる。

 もし再び会える時が訪れたら、今度こそはっきりと伝えよう。断られても構わない。たった一言、伝えたい。

 少女は気付いていないかもしれないが、少女には十分過ぎるほど良いものを持っている。あそこで一生を終えるには勿体ない。

 思いは高まるが、少女とはあの日以降会えていない。熱い思いを冷ますかのように雨が続き、窓を流れる雨粒を追いかける時間が増えた。

 プロデューサーが水に興味を持ち、疑問に思ったのは雨が始まりだった。何故、水が頭上が降ってくるのか分からなかった。両親に尋ねて、雨というものを教えてもらい、色々な水に触れるようになった。水に触れると、水の音を聞くと逸った心が落ち着くことがある。プロデューサーはそのことに気付いてから、何かあると黙って水の流れに追い掛けたり、眺めるようになった。

 そんなことを考えていると、少女は何故、レコードをかけていたのだろうと思う。雨音だけで十分ではないだろうか。プロデューサーは十分だと思うが、少女は雨音だけでは満足できなかっただろう。

 少女とプロデューサーの波長は合わないのではないだろうかとすら思える。少女もプロデューサーも無意識の間にそのことに気付いたから、会わずにいる。しかし二人の波長のことと、少女がアイドルになることとは同じではない。もしかすれば、少女からしてみれば同じなのかもしれない。

 しかし、少女はプロデューサーのことを知らない。どこでどういう仕事をしている男なのか知らないことだろう。ただ、スーツを着た男が店に来た。その程度の認識に違いない。

 少女は今もそんな男を待っているのだろうか。後日来るという嘘のような約束を信じて待っているのだろうか。少女はプロデューサーが何か言ったことを気付いている。その内容までは知らないが。

 プロデューサーが後悔しているように、少女も後悔しているのではないだろうか。あの男は何を伝えようとしたのか、と。

 プロデューサーの都合の良いように考え過ぎだろうか。月日が流れ、少女はプロデューサーのことを忘れ、あの時と同じようにジャズのレコードをかけて、読書に耽っているのだろうか。もしそうであるならば、またこの雨の中のどこかからコントラバスの音色が聞こえてくるのではないだろうか。

 雨は小降りになろうとしていた。プロデューサーは事務所を飛び出し、記憶を頼りに古書店に走る。傘をささなかったのは、雨音に紛れてしまう恐れがあったからだ。

 覚えている限りの道を辿り、そのどこかに胸に響く懐かしい低い音色が聞こえれば、その音色に導かればいい。丁度、ソリストの熱を落ち着かせるところに落ち着かせるように。

 大通りから小路に入り、また別の小路に入り、曲がり、再び大通りに戻ってきたかと思えば、また小路に戻る。足を止め、耳を傾け、アスファルトを叩く雨粒の間に流れる変わった音を探す。低いけれど、強かで美しいリズムを見つけ出そうとする。しかし、見当たらない。もう小降りになっているので、レコードのアームを離してしまったのだろうか。

 プロデューサーはその時、雨音の中に違う音を聞いた。細い神経を感じさせ、聴衆が知らず知らずの間に黙らせ、全神経をそのピアノの音を聞き漏らさない注意を惹き付ける演奏。プロデューサーはその演奏を耳にした瞬間、迷わずそのピアノの音を追いかける。

 水たまりを踏み、ピアノの音がプロデューサーの耳から離れても、コントラバスとドラムがプロデューサーの足を向かうべきところに向けてくれる。

 そうして雨が上がった頃、プロデューサーは路地の隙間で営業している一軒の古書店を見つけた。店内から新しい曲は聞こえてこない。

 肩で息を繰り返し、荒くなった呼吸を落ち着かせるとガラス戸を開ける。新しい音楽をかけようとしていたのか、あの時の少女は棚の前でレコードを選ぼうと指を伸ばしている。

 プロデューサーは少女がそんな所に居ると思っておらず即座に緊張で身体を固くした。少女はプロデューサーが来店したことなど気にせず、一枚のレコードを選ぶとレジに戻る。

 レジの周りには何冊もの本が積み重ねられている。その本の中には、プロデューサーが知っている本も埋もっている。

 静かな古書店の記憶が蘇る。あの本の中のプロデューサーが知っている本は、どれも少女が選んでくれた面白い小説だ。

 プロデューサーは少女に言う。静かな古書店にプロデューサーの力強い声に満たされる。

「アイドルになりませんか?」

 少女は自らがそんなことを言われていると思っていないのか、沈黙を貫いている。手に持っていたレコードはかけられることなく、居心地の悪い沈黙が続く。

 少女の弱々しい声が沈黙を破る。長い黒髪の向こうにある青い瞳が全然事が分からないようにプロデューサーを見上げている。

「……はい?」

 プロデューサーはこの時、ようやく自分が名乗り出ていないことを思い出し胸元から名刺を一枚取り出し、少女に向ける。少女は名刺の文字を一文字ずつ追い掛けた。少女はまた口を閉ざし、訥々と言う。

「ありがとうございます。私は鷺沢文香と申します。プロデューサー……大変なお仕事ですね。ですが、ここは古書店です。望むようなお仕事も本も置いていないと思います」

 プロデューサーは文香の前に積み上げられた小説の数々に視線を落とした。プロデューサーはあの時、もしあのまま雨が降り続いていれば、これらの小説を買っただろうか。全てを買うのは難しいかもしれない。それでもこの中の一冊を買っただろうか。何者なのか知りもしない少女が選んだ面白い小説を。買わなかったと思う。ここに足を運んだのはただの雨宿りだったからだ。

 文香もプロデューサーと同じように積み上げられた小説の数々を眺める。文香はその小説の中から一冊を本を取り出し、顔を上げる。作者の名前は知っているが、どういう作品なのかまでは知らない小説だった。

「私は面白い小説を探していると言われて、非常に困りました。私はあなたの名前、どういう職業に就いているのか、年齢、趣味……何も知りませんでした。もしあなたがどこかの学校で教鞭を執っていたら、この小説はきっと面白くないと思うことでしょう。現実ではこんなことは起こり得ないと途中で冷めてしまうからです。私達は、お互いのことを何も知りません」

 プロデューサーは文香の言葉がどういう意味なのかすぐに分かった。文香はアイドルになる気はない。文香の言う通り、プロデューサーも文香も互いのことを知らなさ過ぎる。何者なのか分からない男からアイドルになりませんかと言われたところで断るのは当然だ。そのことは既に分かっていたのにも拘らず、プロデューサーは早くも挫けそうだった。

 しかしそれでも、文にはっきりとアイドルにならないと言われないだけでも助かった。そう言われてしまえば、プロデューサーは本だけを買い、去ってしまう。

 プロデューサーは文香の手にある小説を手に取った。

「僕はこの小説がどういう話なのか知りません。作者のことは辛うじて名前を授業で、という程度です。ですが、今、この小説は、あなたが選んでくれたという情報があります。僕達は互いのことを全く知りません。名前もさっき知った程度の関係です。ですが、あなたは僕よりもずっと本を読み続け、沢山の本のことを知り、沢山の面白いを知っていると信じています。ですからこの小説も面白いと信じています」

 小説を引き合いに出したが、文香はもっと大きい選択を迫られている。名前と所属事務所しか知らないような男のことを信じるなど不可能なことだ。少女にこの場でそんな選択を選ばせるのはあまりに酷なことだと思う。プロデューサーが目の前に立ち、引き下がることもできない。かけようと思っていたレコードは、しまわれている。

 プロデューサーはこの場で文香の決断を待つ気はなかった。雨の間の晴れ間に安らぎを覚えるように、音楽の静寂を楽しむように、本の最後の頁の空白に安心するように、文香にも余韻が必要だ。今この場でプロデューサーの熱意に押され、アイドルになりますと言ってしまえば、きっと文香は早いうちに、やはり自分は向いていないと気付いたが引けず後悔ばかり募らせてしまうだろう。

 プロデューサーには少女の面白いという感覚が信用の手助けになっている。が、少女はどうだろうか。何も知らないままだ。プロデューサーは自らの失態を恥、深く頭を下げた。謝った後、伝える。

「僕が、鷺沢文香さんにアイドルになってほしいのは、あなたが本を選んでいる横顔が良い表情をしていたからです。今この場で、僕の言葉に対する返事をしなくても構いません。むしろ、してほしくないです。考えてほしいんです。考えてから決めてほしいんです。誰かに相談してもいいです。誰でもない鷺沢文香さん自身が、アイドルになるということを。そうやって考えた結果、できないと思うのでしたら、断ってください。僕のことなど忘れてください。そうして考えて、アイドルになりたいと思われるようでしたら、ここに電話してください。僕が鷺沢文香さんを支えます。誰よりもあなたのことを考えて、あなたに合う仕事、あなたの可能性を伸ばす仕事を探し出します」

 プロデューサーはそう言って、数冊の本を買って古書店を出た。

 それからしばらくしたある日、事務所で梅雨を待ちに待っているプロデューサーの携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきた。読みかけの小説を閉じ、電話に出た。〈了〉

 


 

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