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■誰向けの記事なのか
・和歌や短歌に興味はあるが、どこから読めばいいか分からない人
・万葉集や古典は読んだことがあるが、現代短歌には触れていない人
・文章を書いていて、言葉の密度や削ぎ落としに関心が出てきた人
■僕と現代短歌の距離
個人の歌集も良いのだけれど、「万葉集」や「古今和歌集」などの和歌を読むことが多いので、個人の歌集を読むという機会に恵まれていなかった。
現代短歌でいえば、夭折した歌人萩原慎一郎氏の歌集「滑走路」を読んだことがある程度だ。その時の感想などは評論の記事としてこちらに掲載している。
岡野大嗣氏の短歌も気になっていて、theLetterを登録し、連作短歌に触れているが、歌集としてまとまった形で読むところまでは至っていない。
近代に遡ると、与謝野晶子「みだれ髪」や、島崎藤村「若菜集」、石川啄木「一握の砂」、斎藤茂吉「赤光」などは読んできた。古典から近代にかけての流れの中で、短歌や和歌に触れること自体は珍しいことではなかった。
現代短歌の個人歌集となると、なぜか手が伸びない。
理由を考えてみると、読みたいものの方向が少し違っていたのだと思う。個人の歌人を深く知るというよりも、とある対象に対して、複数の歌人がどのように詠んでいるのか、その視点の違いを並べて見たいという意識の方が強かった。
同じ「海」でも、見る人が違えばまったく別のものになる。その差分をまとめて読みたい。そう考えたとき、個人歌集ではなく、アンソロジーという形式の方がしっくりくる。
そういう意味で、現代短歌に触れる入口は、個人ではなく「テーマ」であるべきなのかもしれない。
■「海のうた」との出会い
長野県松本市から帰る特急の車内で読む本を探していた。二時間程度で読める軽いものという、かなり曖昧な条件だけを持ってホテルを出た。
駅前の書店に立ち寄り、棚を眺めながら何となく手に取れるものを探していたところ、ある一冊が目に入った。
「海のうた」
海のない、山々に囲まれた土地から帰るタイミングで、そのタイトルは妙にしっくりきた。あの青い海原や白波の飛沫が想起され、憧憬が胸を過ぎる。
長編を読む気分ではなかったし、短編集や新書、エッセイは最後まで読み切れるか分からない。山路を進むしなのの車中はよく揺れる。ふと、「木曽路はすべて山の中である」という一文が脳裏を掠めた。
短歌であれば一首読んだところでやめることもできるだろう。まとめて読む必要はなく、途中で駅弁を食べたり、車窓を眺めたりすることもできる。
短歌は一首ごとに区切られているので、読む負担は小さい。けれど、軽いかというとそうでもなく、一つ一つの言葉が妙に引っかかる。読み進めるというより、途中で何度も止まりながら読むことになる。
小説のように流れで読むのではなく、断片ごとに受け取る読書体験だった。短いはずの言葉が、読み手の中で長く残る。その感覚が心地よかった。
■この一首が好き
左右社が出版しているこの書籍は、一ページに一首掲載されている。同世代の歌人百人。現代における百人一首のような気がする。
百首掲載されているとなると、自分が好きな短歌の一つや二つは見つかる。
僕は、以下の短歌がこの中で一番好きだ。
きみからの電話に出ずに海へ行き、骨。とおもって拾う貝殻(山中千瀬)
そこに読点を置き、そこに句点を置くのかと驚き、独特なリズムを生み出しているように見える。白い砂浜を歩き、砂浜と同化しているような色合いの貝殻を見つけた時の、あっとした驚きや気づきが、骨。というところで表現されているようで、新鮮な気持ちになった。
短い言葉でどこまで削れるか、どこで止めるかという感覚は、小説を書くときにもそのまま効いてくるように思う。
■他社の現代短歌との比較
現代短歌の書籍を探すと、まず目に入るのは体系的なものが多い。
近代から現代へとどのように変遷してきたのか、どの歌人がどの位置にいるのか、そういった流れを追いかける形で編集された本だ。文学史として読むには分かりやすいが、読む側にもある程度の前提が要求される。
短歌を「知る」ための本であって、「触れる」ための本ではない。
その点で、テーマ別アンソロジーは立ち位置が少し違う。
海、恋、仕事といった一つの対象に対して、複数の歌人の短歌が並べられる。同じテーマであっても、切り取り方や距離の取り方が全く異なることが分かる。
文学史的な連続性ではなく、視点の差異として短歌を読むことができる。この違いは大きい。前者が理解に寄っているのに対して、後者は体験に寄っている。
■個人の歌集に手が伸びにくい理由
現代短歌の個人歌集に手が伸びにくい理由はいくつかある。
誰から読めばいいのかが分からない。歌人の名前を知らない状態では、選択の基準がない。
一冊通して読む前提になる点もある。短歌自体は短いが、歌集としては一つのまとまりとして提示されるため、読者側にもそれなりの集中が求められる。
もし合わなかった場合に逃げ場がない。アンソロジーであれば、ある一首が合わなくても次に進めばいいが、個人歌集では全体のトーンが合わないと、そのまま離れてしまう可能性が高い。
こうした理由から、個人歌集はどうしても後回しになる。
これは単に読み手側の問題というより、もう少し構造的な理由があるようにも考えられる。
近代文学は、もう少しジャンルの境界が曖昧だった。島崎藤村が「破戒」や「夜明け前」という小説を書くことがあれば、斎藤茂吉が随筆を手掛けることもあれば、室生犀星が随筆を書くこともあった。芥川龍之介が俳句を詠むことがあれば、夏目漱石が漢詩を作ることだってある。
一つの形式に閉じるのではなく、言葉を扱う中で複数の表現を行き来していた。
現代では、小説、短歌、俳句といったジャンルごとにそれぞれのコミュニティが独立している。発表の場も、読者も、評価の基準も異なる。
外側にいる読み手からは、それぞれが別の世界のように見えてしまう。どこから入ればいいのか分からない、という感覚は、この分断から来ているのかもしれない。
その点で、テーマ別のアンソロジーは少し性質が違う。
歌人ではなくテーマで束ねることで、読む側は自分の興味から入ることができる。短歌の側に合わせるのではなく、読者の側から接続できる。
分断されたジャンルを、一度横に並べ直すような働きがある。
■まとめ
短歌が難しいのではなく、入口が見えにくいだけなのだと思う。
古典や近代には触れていても、現代短歌だけが空白になっているのは珍しいことではない。その空白は、読み手の問題というよりも、ジャンルの分断によって生まれている側面もある。
いきなり個人歌集に入るのではなく、テーマ別アンソロジーから入る。その方が自然に短歌と接続できる。
一つの対象に対して、複数の歌人がどのように詠んでいるのかを並べて読む。その体験が、短歌との距離を一気に縮めてくれる。
今回読んだ「海のうた」は、その入口としてちょうど良い一冊だった。