旅先の 書店で探す あの本の タイトル知らず 背幅追う指
不意に短歌が詠みたくなって、詠んだ。
僕の日常に短歌というのは寄り添っているわけではない。でも、不意に、遠い日のことを思い出した時の記憶のように、蘇ることがある。
そういえば短歌という形式もあるなぁ……と。
短歌を詠んでいた時期はあるのだけれど、それほど得意でよく詠むということはなかった。でも詠まれれば、返歌をするし、お題が出されれば詠むこともある。
ただ毎回のように七七の部分の扱い方によく躓くし、どうしようと首を傾げることもある。でも返歌や題詠である以上、五七五で提出するわけにはいかない。苦心に苦心を重ねて、肩肘に力が入った短歌を詠むことが多かった。
そう考えると短歌よりも俳句の方が詠む頻度が多かったのは、必然のように思われる。
小説を書いているのだけれど、短歌や和歌や俳句を好むのは、僕の読書遍歴が芥川龍之介を中心した近代文学だからという理由はあるかもしれない。が、こういう詩歌を好むのは、この形式に短さの美を教えられ、切れ味の良さを味わったからだと思う。飲み物を飲む時、食べ物を食べる時、ふとグラスやカップやお皿が美しいと思う時の感覚に近い。
31音や17音で、そこにいる、という感覚に引き込まれる。洗練された形式の美を感じさせる。
僕は旅に行く時、鞄に一冊は本を忍ばせる。読むか読まないかは置いておいて、保険のように一冊はある。分厚い本や大きい本は重たくなるので候補から外され、薄い文庫本が選ばれることが多い。入っていることすら忘れるような文庫本。新幹線がトンネルに入ったり、飛行機やフェリーの中でスマホが使えない時、ぱらぱらと読む。
そして、旅先で本屋へ足を運ぶ。
地元で行くような大手の本屋に行くこともあれば、古書店に足を運ぶこともある。高確率で、本を買う。探していた本とか前から気になっていた本を買うのではなく、本棚の背幅を一冊一冊追いかけて、気になった本を買う。
そうして、家に着くまでに読み切る。
僕の家にある本棚に並んでいる本の中には、そういう思い出と共に並んでいる本が何冊もある。これはあそこで買った、これはあの時に買った、というように思い出せる。
僕がこれから出版する本も、そんなふうにいくつもの居場所を持ってほしい。
多くの本の中から、旅先へ行く時に鞄にしまわれるような本になってほしい。