余ったパンの食べ方

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「余ったパンの食べ方」


 就活生の時にその求人を見かけた時から、あるいは営業として採用の連絡を受けた時も、出社義務のないリモートワークができて、フレックスタイム制が導入されているウェブ制作会社に入社してライフワークバランスを保った生活を、という憧れのような考えは抜けなかった。でも、実際は四月、ゴールデンウィーク、夏季休業と一年が過ぎ去っていこうとしているのに、私はネイビーのスカートスーツを着て、毎朝オフィスに出社している。

 社用のスマートフォンに導入されているコミュニケーションツールには、社員証でセキュリティを解除したことで、私が出社したことを知らせる通知が一件表示されているだけだった。と、思えば、すぐにもう一件の通知が表示される。代表が出社しました、と。それとほぼ同時に、オフィスの暗証番号が解除され、ドアが開く。片手に近所のベーカリーで買ったらしい紙袋を提げた男性が現れる。短い黒髪をツーブロックで整えていて、白いワイシャツに黄色いネクタイを締め、ベージュのチノパンに同色の革靴を合わせている。

 私を見るとすぐに柔らかく笑う。大きな口が動いたかと思えば、朝に似合う明るい声。言葉の端々に関西らしいイントネーションやアクセントが今でも残っている。

「桐原、おはよう。今日も早いね」

 私は立ち上がり、頭を下げる。

「あ、おはようございます。代表こそ、いつも早いですよね」

「僕は早く来るのが仕事みたいなものだから。あ、今日のパンはね、食パン、ベーコンとエビのパン、塩パン、クロワッサン。これはサンドイッチ。卵、ハムとトマト二種類あるよ」

 紙袋から次から次へとパンが出てきて、横に長いデスクの真ん中に並べられる。いつの間にかカフェにあるようなトレーかごにパンがまとめられる。代表の手元にはマグカップがあり、給湯室で淹れたであろうブラックコーヒーが湯気を立てている。鼻歌を交えながら、今日のパンです、冷蔵庫にはサンドイッチがあります、とメモを作っている。黒々と輝く目が私の手を見る。

「桐原は、どれ食べる?」

 リモートワークが可能でフレックスタイム制の導入しているけれど、代表は不思議とこうして毎朝出社している。ベーカリーの紙袋を片手に。経理を受け持っている相原さんやマネージャーの笹本さんから、出社してくる社員への福利厚生と説明を受けたのだけれど、私は今まで一度もそのパンを手に取ったことはない。私が黙ってパンを見ていると、代表が声をかけてくる。

「朝食食べてきた?」

「……まだですけど?」

「何か適当に取っていいよ。あ、もしかして朝食は和食派?」

「え、いや、どっちでも良いです」

「良かった、そういうこだわりない人で。笹本も相原も和食派なんで、って言うからさぁ」

「皆さん和食派だったら、和食用意するんですか?」

「まぁ、そうだね。おにぎりとインスタントのお味噌汁とか用意するかな」

「そのメニュー、朝から仕事するっていう気は起きにくそうですね」

「あ、分かる。ちょっと気が緩んじゃうよね。それで、どれ食べたいとかある?」

「……朝はあんまり食べないんです」

「あ、そのタイプね。それじゃ、今日も一日頑張ろう。珍しく三件同時進行しているけれど、落ち着いて、焦らず、ゆっくりね。バッファはちゃんと設けているから」

 代表はクロワッサンと卵のサンドイッチを抱えて、空いている手で器用にマグカップを持つと、自分のデスクがある奥の部屋へと繋がるドアを足で開ける。コーヒーとパンの香りだけを残った。

 閉まったドアを見届けていて、三件同時進行という言葉が脳裏で回る。私が入社してから、三件も依頼が重なるということはなかった。多くて二件だったし、仮に三件目の依頼が来たとしても、最初の案件が落ち着く頃に入れ替わるような形だった。

 席に戻って、パソコンで進行表を確認すると色分けされたブロックが並んでいたり、メンバーの進捗に関する注釈が書かれていて、頭の片隅が締め付けられたように痛みを覚える。

 画面の端にコミュニケーションツールの通知が立て続けに届く。片方は代表がパンの写真を投稿した通知。もう片方は野中が出社しましたという通知だった。

 ふっと心が安らぐ。野中さんは、私や代表のように毎日出社している一人で、ずっと指導を続けてくれている営業の先輩。五つ離れていて、間には何人もの先輩社員がいるのだけれど、桐原の面倒は同じ営業である野中が見るという空気が自然と出来上がっていた。

 ネイビーより明るいブルーのスカートスーツに黒いパンプス。私よりも背の高いすらっとした女性が、ドアの向こうから現れた。何かを確かめるように小さな鼻が動いて、肩の辺りまで流れる暗いブラウンの毛先が揺れた。すぐに微笑を浮かべて、切れ長の瞳が和らぐ。代表とはまた違う、朝日のようにさらっとした声がオフィスに広がった。

「おはようございます、もう代表来てるんだね」

「野中さん、おはようございます」

「おはよう桐原。毎日ちゃんと来て律儀だね」

「リモートワークって何だか慣れなくて……」

「大学の講義とかリモートじゃなかった?」

「リモートのこともありましたけれど、身に入らないことありました」

「あー、分かる分かる。ちょっとぐらいサボっても良いでしょ、ってやつよね。あるある。私も毎日思う」

「もしかして、だから毎日出社してるんですか?」

「うん、そう。プライベートと仕事はちゃんと分けたい派だから」

 野中さんは自分のリズムを持っているのか、低いヒールが一定の間隔で軽快な音を立てる。デスクに置かれているパンの山から、クロワッサンを一つ手にする。バターが大量に使われている重そうなクロワッサンを。代表のデスクがあるドアを開けて、おはようございますと挨拶もそこそこに、今日のパンの話をして、冷蔵庫にあるサンドイッチやコーヒーの情報を得ている。私の隣に腰を下ろした時には、代表と同じようにパンと私物と思われるマグカップに熱いコーヒーが注いであった。

 一連の動きを見ながら、私はふと訊いた。

「朝ご飯は何派ですか?」

 野中さんはパソコンの画面から視線を外し、私のデスクに何もないのを知ると代表と同じような声を上げる。

「パン派だけど? え、あ、もしかして桐原、和食派?」

「あ、え、いや、あんまり食べない派です……」

 顎周りや二の腕にすぐに無駄な肉が乗ってしまうので、私はそういう手段に出ることが度々ある。今日だって、バナナとブルーベリーのスムージーとヨーグルト。軽い朝ご飯の時は、お昼ご飯や晩ご飯でストレス解消をしてしまうことがある。社会人として働くようになってから、気づけば、そういう日が多くなっている。このままだと今日のランチは、近くの喫茶店の日替わりランチとかカレーになる気がする。

 野中さんの視線が、私の頭の先から足先までを流れるように追いかける。

「おぉ、継続できてる?」

「少しは……?」

「分かる、あるよねぇ。私もやってた時期あったけれど、結局途中で誘惑に負けるんだよねぇ」

「ありますあります」

「朝しっかり食べて、お昼や夜軽く済ませるのが良いのかもしれないね」

「難しくありません?」

 語られる理想論に、私は知らず知らずの内に力が入っていた眉間を指先でほぐす。野中さんは全然気にしていない様子で言い切る。

「うん。後、やっぱり、運動だね」

 零れ落ちそうになった溜め息は胸の中へと戻っていき、代わりに後悔に染まった肯定が口を衝いた。

「いやまぁそうなんですけれど……。運動とか、してます?」

「通勤で辛うじて……? ジムに通おうとしてきたけれど、まぁ無理だったわ」

 苦々しい過去を吹き飛ばすように野中さんは高い声で笑う。

 そんなことを話しているとフルリモートで働いているフロントエンドエンジニアの先輩達が出社した通知が届いていた。おはようございます、と挨拶の後には、すぐに同時進行で動いている案件の進捗確認と今日のスケジュールが共有される。代表からの、必要であれば、すぐに自分もコーテイング作業のフォローに入る返事が表示されたけれど、フロントエンドエンジニア組からの返答は、代表は代表の仕事をしてください、という一言だけだった。

 私だったら是非お願いしますって代表の厚意に甘えているところだけれど、この人達はそういうことを一切しない。三件の同時進行で頬が青くなりそうな私と全然違う。

「この人達って、副業なんですよね……」

「よくやってるよね」

「いつも三件とか四件とかいう案件同時進行なんですかね?」

「……訊く?」

「え、訊いていいんです……?」

 私が戸惑っていると、野中さんは手早くキーボードを叩き、副業組が今現在何件の案件を抱えているのか教えて、というチャットを飛ばす。返事は、二人共、片手で足りる件数が返ってきた。

 返事が早かった和田さんは、私より前に転職してきて、年数で考えると一番近い先輩だ。フルリモート、副業可というこの会社のメリットを目一杯享受している人で、二、三年経つと私もあれくらい仕事できるようにならないといけないらしい。

「五……?」

 羨望と戸惑いが混ざった呟きは、私の口から零れていたらしい。隣に座る野中さんが気遣うように笑って優しく、軽い調子で教えてくれた。

「代表含めてそうだけれど、エンジニア組を普通の人達って考えない方が良いよ」

「いや、でも五って……」

 野中さんは三件の進行表を確認して、指を折りながら平気な顔で言う。

「本業で二だし大丈夫でしょ。逆だと大変だけれど」

「二でも……」

「笹本マネージャーがバッファあるスケジュール組んでくれる前提だし、こっちは本当に最悪な時は代表が動くからね。大丈夫大丈夫。田村さんはA型だし、和田くんは趣味と実技が完璧に一致しているからね」

「……はぁ」

 不審がる私を励まそうと野中さんは持ち前の明るさを振る舞う。

「まぁ兎に角、私達営業は私達の仕事をしたら良いよ」

 三件ある案件の中で、私達営業がしないといけない仕事はないように思えた。一つ目はクライアントからの確認の返事待ちで、それが終わればテスト環境へ移行となり、メインで動くのはエンジニア組で、私は補助として携わる程度。二つ目はデザイナーの井上さんがコーティング前に動いている段階で、私が何か口を挟める段階ではなく、これから本格的に忙しくなる。三つ目は笹本マネージャーがフレームワークの素案を切ったり、スケジュール調整をしている段階でどうなるか分からない。

 野中さんは大丈夫って言うけれど、私には何が大丈夫なのか分からなかった。というか、それはまるでサボることを積極的に肯定しているように思えて、他の人達に申しわけない。手伝いましょうか? と訊いたところで、私にはスケジュールを調整したり、フレームワークを切ったり、プログラミングをする能力は全然ない。

「そうなんですか」

 肩を落としたのを、野中さんは横目で捉えていたようだった。

「営業としてやれることがあるとすれば、次を見据えて動くことかな。一回依頼されて終わりってだけではなく、続けた依頼を受けられるような関係性を作る。これは営業じゃないとできないことだから」

「次、ですか……」

「そう、次」

 そう言って野中さんは、プロジェクト管理ツールを操作して、過去案件一覧を表示する。案件名やクライアント名が並び、納品日や工数などが記載されており、使用した技術やフィードバックや次に連絡する日時のメモ、トラブル内容などがずらっと書かれている。

「この中から使えそうなの探すとかね」

「そういうのでも仕事になるんですか?」

「なるなる。うちは記録と仕組みで回すからさ。代表とかマネージャーとか、結構見ているよ。私も確認するし。井上とかも見ているかな、使えるらしいよ。まぁ暇な時に確認してみると良いよ」

 野中さんに仕事を与えられたように思えて、私は三件の案件があるはずなのにも拘らず、早速過去の案件を確認する。その間に、コミュニケーションツールやオフラインの会議室の通知が飛んでくる。案件に関するものもあれば、そうじゃないものもある。それらの通知を横目で確認しながら、過去の案件を読み込む。

 過去の案件はどれもこちらから、複数の提案をクライアントにしている。今回の案件でも、そうした方が良いのかもしれない。テスト環境に移行しようとしている案件に追加の提案は適切ではないだろう。ということは、他の案件で複数の提案をした方が良い。

 手が空いている私が動いた方が良い。井上さんが携わっている案件で私ができることはないけれど、笹本マネージャーで携わっている案件の進行状態であれば、私でもできることがあるはすだ。笹本マネージャーや代表に確認を取った方が良いことなのだけれど、三つの案件が同時に進行している中で、新しいことを確認させてしまっては、きっと進行に影響が出る。クライアントが私の案を採用するのはどうかかは分からないけれど、ワイヤーフレームの案を二つ程度出していたら、きっと助かると思う。

 でも動く前に確認した方が良いことがある。そう思って隣に視線を送ると、野中さんはクライアントから届いたメールの対応をしているところだった。私の視線に気づいた野中さんが、あ、と声を上げる。明らかに何かをミスしたと分からせる声音。

「ごめん、私が返信しちゃったわ。テスト環境って、桐原が補助で入るやつだよね?」

「あ、気づいてなくて済みません……テスト環境の補助ってクライアントからの要望や希望といったフィードバックの管理とスマホでレイアウトが崩れてないかとかのチェックリストの確認ぐらいですか?」

「クライアントへの連絡や確認は今、私がやちゃったし、そうだね、それくらい。後は、公開までのスケジュールや段取りの確認と共有かな。まぁでも、ここらへんはエンジニア組と分担して相談しながら決めた方が早いよ。エンジニア組に分担どうするか確認するわ」

「そんなに任せて大丈夫なんですか……?」

「うん、大丈夫大丈夫」

 野中さんが再びパソコンの画面と向き合うと私もパソコンの画面に向き合う。

 過去案件のワイヤーフレームを確認すると、テンプレートとして使われている構成があるのが目についた。トップページの目立つ位置に、大きな写真と短いキャッチコピーが並んでいたり、アイコンを三つ程度横に並べて簡単な説明をつけたりしている。笹本マネージャーの段階で止まっている案件は、フリーランスのスタイリスト集団からの依頼で、結婚式の前撮りや雑誌や広告の撮影を主にしている。多種多様な業種と携わるのであれば、サイトに分かりやすさがあった方が良いだろうし、過去の案件でよく使われているパターンを使用すれば合致するだろう。

 そう思って、ワイヤーフレームを作成する。よくある構成を用いたフレームはすぐに出来上がった。笹本マネージャーに確認してもらおうとした時、作業を終えていた野中さんからコミュニケーションツール越しに、桐原、確認してほしいことがある、という通知が来ていた。隣に視線を移しても、野中さんは画面を見たまま、他の業務を行っている。

 先輩を真似て、コミュニケーションツールで返事をする。確認したいことって何でしょうか? と。笹本マネージャーから共有されている情報を確認しましょう、とすぐに返事が届いた。

 笹本マネージャーから届いている通知は目を通しているはずなのだけれど、私が気づかない間に新しく来ていたのだろうか。確認してみるが、新しい情報共有はなかった。そのことを野中さんにテキストで伝えると、もっと前のも確認してみて、この案件の要件定義書とか、と野中さんが作成した文書ファイルのリンクが送られてきた。

 笹本マネージャーが今現在ワイヤーフレームの素案やスケジュールを調整している案件のものだった。チームだけれど個人としての仕事にも繋がるような、現在と未来の両方を取りに行くイメージというクライアントの言葉を、野中さんが別の言葉に置き換えて、スタイリストごとのポートフォリオ紹介ページを設ける。プロフィール写真や活動スタイルが見えるセクションを充実させる、という方向性を見せている。プロフェッショナルの集まりでチームを形成しているけれど、会社や法人というわけではないというクライアントの姿勢には、組織図や代表あいさつなどの典型的な企業要素は省略、またはミニマルにする。あえて、会社感を出さない設計にするという形になっている。

 笹本マネージャーのメモが続いて書いてある。複数案をこちら出して、クライアントに選んでいただくというものは、プロとして意識に欠けているのではないか? 複数案を出す場合は、クライアントの想像の先を行くものを出す。

 背筋に冷たい汗が流れて、一息ついて落ち着こうとして全然失敗したように片方の頬が震える。

「あの、野中さん、今良いですか?」

 悲鳴のような大きな声ではなかったけれど、私は自分のやろうとした事の深刻さをしっかりと受け止めていて、固い声で先輩に助けを求めた。先輩は手を止めて、私の方を向く。一瞬視線が私のパソコンの画面に流れた。引き締まった赤い唇がゆっくりと動き、私の不安を取り除くように優しく尋ねられる。もう全て分かっているはずなのに。

「どうしたの桐原、何かあった?」

 さっきまで見ていた明るいブルーのスーツが目に染みたように痛みが走った。何から伝えれば良いのか分からなかったけれど、一番大事なことを真っ先に口にした。

「教えていただき、ありがとうございます」

 野中さんは私を責めることなく、慰めるように笑う。

「いや全然良いよ。笹本マネージャーで止まっている案件、ちょっと難しいからさ。ゆっくり丁寧に進めようとしているやつなんだよね」

 通知を確認すると、確かに笹本マネージャーから、この案件はクライアントとすり合わせを増やしながら丁寧に進めていくので進行の最初が遅くなります、という連絡が来ていた。そして私はその連絡に確認済み、ということを示すように返事を送っている。かしこまりました、と。

 集中して熱くなった頭が急速に冷たくなっていくのを感じる。

「営業は待つのも仕事だからね」

 野中さんの助言が、胸に染み渡る。落ち込みたかったけれど、そんな余裕は全然なかった。待つ時間が長くなれば長くなるほど、大きな渦に飲み込まれてしまいそうな予感を覚えた。

 過去の案件の一覧と再び向き合って、その日付だけに注目する。代表も言っていたけれど、案件の同時進行は多くて二件。三件目が同時で動いている頻度は多くない。三件の案件が同時に進行していること自体が、この会社にとってイレギュラーな事態だ。私が待つ間にできることは、ここにあるのではないだろうか。

「あの、野中さん。三つの案件が同時進行している時のページって作成しておいて良いですか?」

「良いけれど、そんなにないよ?」

「ないからこそ、不測の事態に備えておきたいんです」

 野中さんは明るく笑った。

「なら、お願い。必要なことは皆にも訊いてあげて」

「はい、分かりました」

 私は作業に取り掛かる前に席から立ち上がる。代表が置いてくれた塩パンを手に取って、チームのためにできる仕事に取り掛かることにした。〈了〉


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