飲んでも飲まれるな

 

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「飲んでも飲まれるな」

その先左折です、というカーナビの無機質な音声が車内に広がる。先程から規則的にゆっくりと動くワイパーが、フロントガラスの雨粒を流す。

三又路の前の信号が赤に変わる。信号の前で順番に並んでいる前の車を眺めて、田中みなみもブレーキを踏んで、こう思う。

紅葉のシーズンをずらしたのにも拘らず、車は多い。駅前から比べると減っているのだが、それでも多いことに変わりはない。時期をずらし、かつ数日は雨天というおおよそ旅行には向かない日を意図的に選んだのだが、他のドライバーもこの日ならば少ないと思ったのだろう。
みなみは多数派の意見に飲み込まれてしまったと悪態をついたが、助手席からは思ったような返事は来ない。変わり映えない景色に飽きたという答えを用意していたのだが、使えそうにない。どうしたの急に、と訊かれる想定していたのに。

反応が返ってこなかった助手席に明るく声をかける。

「右、行く?」

助手席に座り沈黙を守っていた柊なぎさは、変わり映えない暗い空と紅葉が洗い流され寒寒とした枝を見せる山から視線を流し、インパネのデジタル時計を一瞥した後、静かな声が確認する。

「チェックインの時間まで余裕ある?」

感情的の機微が読み取りにくいなぎさの声は、みなみの悪態を流し心地良いものを与えてくれる。

けれども、なぎさが質問に質問で返す時、否定系であり、真っ直ぐ行きたくないという意思表示。けれども、絶対という強い否定ではないため、みなみにも反論の余地がある。

みなみもインパネが示す現在時刻に視線を向け、少し考える。

二泊三日の旅行を計画したのは、みなみとなぎさを二人であり、どういうルートで行くかレンタカーを借りる日時やどの旅館にするかチェックインの時間、旅先で何をするかなどは話し合って決めた。

宿に伝えたチェックイン予定時間が十五時ということはみなみの頭にも入っており、現在の時刻から逆算すれば余裕はあるだろう。

このまま右折して更に山道を進めば、道中見かけたダム湖のような、開けた景色が見えてくるかもしれない。もしかすれば、暗い雲の下に広がる町並みを一望できるかもしれない。気分転換には良いと思う。山を登った者にしか味わえない開けた景色は、みなみのストレスを解消してくれることだろう。しかしそれも道中と変わり映えしない景色であれば……。

チェックインの予定時刻には遅れるかもしれないが、それでも良いのではないだろうか。道に迷ったとかそういう言い訳を並べてもいいし、今から旅館に到着予定時刻を遅れるかもしれないと一報を入れても良い。

みなみは何かを言いたげな視線を、なぎさに向ける。

なぎさは楽しげに口元を持ち上げる。普段なら見ない表情だった。

大学時代から続けているこの小規模な二泊三日の旅行は、講義や人間関係といった俗世の煩わしいことから離れられることもあり、二人の心には知らず知らずの間に余裕とゆとりが生じ、高揚感に包まれていることは否定できない。連日の雨や渋滞に巻き込まれようとも、そう簡単に社会人として必要な理性的な振る舞いを思い出せない。

なぎさはサブとして持っているバッグからスマートフォンを取り出し、旅館に連絡入れておこうか、と尋ねられる。

みなみは未だに変わらない長い赤信号を見ながら、え、ちょっと待って、と躊躇いと戸惑いを露わにする。雨足は変わる気配を見せず、絶えず一定の間隔でフロントガラスを見えにくくする。ワイパーが雨粒を取り除く。

そういうふうに背中を押されると困ってしまう。なぎさは、余裕があっても止める役目だから。

みなみは考え直す。この旅は果たして、そういう無計画な旅行だっただろうか、と。ストレス解消のための旅行で、どの道中でストレスを覚えてしまい簡単に解消して良いのだろうか。
社会人にはカレンダー通りの休日以外にも休日が必要であり、有給という権利で勝ち取った休日には温泉と食事が必要であると声高く叫んでビールを飲み干した夜を思い出す。

そういう次第なので、この二泊三日の旅行に食事と温泉以外の予定は意識的に作っていない。どうしたいかは旅館に着いてから考えたらいい。

新幹線で東京を離れたにも拘らず二人を追いかけ続ける雨雲は、明日には北へと進む。瑞々しい陽射しの中に広がる景色の方が、これから見るかもしれない景色よりも素晴らしいのではないだろうか。雨に洗われた町並みは、こんなどんよりとした重さを感じさせることはないだろう。

みなみはウインカーを左へと出す。信号が青に変わり、前の車が動き出す。

「……どういう風の吹き回し?」

隣で品の良い眉を上げた気配がする。みなみは色々と順序立てて話しても良かったのだが、最も手っ取り早く自分の意思を伝えられる言葉を選んだ。

「楽しみは後に取っておくタイプだから」

同じタイプで良かったという言葉が聞こえたかと思えば、続けてすぐに注告の言葉が飛んできた。

「レンタカーの返す時間、忘れちゃ駄目だからね」

「……だったら、明日の朝に行こう」

「良いの? もう決めて?」

「じゃ、保留で。候補の一つ」

目的地までもうすぐです、とカーナビが言う。

 

北へと流れる予定の暗い雲は、いつまで経っても動く気配を見せなかった。

山の中で森に囲まれた旅館に着いた時も、二階の角部屋に案内された時も、座敷と寝室がある部屋で備え付けのクッキーとお茶を食べた時も、広縁から見下ろせる中庭にまだ色付いている楓を眺めた時も、雨は降り続いていた。勢いは激しさを増し、道中の方が雨脚はずっと穏やかだった。

二人が言葉を交わさなくても、雨だけはずっと賑やかに音を立てている。

「どうする?」

高い天井を見上げるなぎさの声は、外に出ることを諦めたような口振りだった。レンタカーを走らせれば、どこへでも行けるのだが、道中のことを思い返してみるが、この雨の中で足を運ぼうと思える所はない。

みなみの答えは車を運転していた時から決まっていた。

「とりあえず、お風呂でしょ」

みなみの返答は、もうどこにも出かけないと宣言したに等しかった。メイクを落として、長い髪を洗って、コンタクトレンズから眼鏡に切り替えて、今日という一日を日が高い時間に終わらせる。日常では味わえない贅沢な時間の使い方。加えて、夕食も朝食も自分で用意する必要はなく、部屋まで持ってきてくれるし、布団も敷いてくれる。いたせり尽せりだ。

なぎさの調子と比べて、みなみの声は明るい。キャリーケースから着替えなどを出しながら、みなみは自論を展開する。

「運っていうのは、一日の総量が決まっていると思う」

なぎさはぬるくなっているであろう茶を飲み、話の主要となる部分について確認する。

「オカルトの話?」

「信仰の話」

 

それで、とみなみは話を一日の運の総量についてに戻す。

「私達は、紅葉シーズンをずらして、雨が降ると分かっていても、この日程を二泊三日に選んだ。折角の一泊目を、旅館の中で過ごすことになるけど……。いや、だからこそ」

そこまで言うと、なぎさもみなみの言いたいことが分かったらしく、結論を口にする。冷ややかな調子で。

「つまり、私達はこれから幸運に恵まれる、と?」

「その通り!」

「これまでの不幸とはお風呂場でおさらば。心身共々リラックスして、これから訪れる幸福に身を委ねる、良い?」

まだ何かを言いたそうななぎさに、みなみは続けて再び自論を展開して半ば強引に納得させ、背中を押す。物理的にも精神的にも。

はいはい、と渋々納得した様子を見せるなぎさは前室へと続く障子を開ける。

二人揃って、一階の浴場へと降りる。畳貼りの廊下は時折、二人の体重がかかり、ぎぃっと鳴る。

中庭を見渡せる廊下の障子は全面ガラス張りとなっており、階段を降りた正面に広がっている。左手には先程通った受付があり、右手には廊下が長く続いている。

中庭を見渡せる周りには歓談できるスペースとして何脚ものソファが置かれている。一角には自販機があれば、お土産を売っている売店コーナーもある。変わった味のスナック菓子やチョコ菓子があれば、珍しい地ビールやアイスクリームがある。夜には防犯のために玄関を閉めるとチエックインの時に言われたので、もし夜に空腹を覚えた際はここで何かを飲み食いするしかない。車を走らせればコンビニまで十分程度なのだが、旅先でコンビニというのも味気ない。

廊下の突き当たりには左手は宴会場、右手は大浴場、露天風呂付きと書かれている立て看板。
女湯の暖簾をくぐると、それまで無言だったなぎさが声を上げる。十二分に考え込んでも分からなかった、と言いたげに。

「例えば」

みなみはそれが何の話に繋がるか想像できなかった。少し黙って、なぎさが話すのを待っていたが、なぎさは口を開けず、みなみからの返答を待っている。どうやら、訊きたいことがあるらしい。

「ん? 何が?」

「幸運の中身」

それはみなみにも分からなかった。でも、分からないと答えたところで、なぎさが納得するはずがない。明るく笑って、誤魔化を試みる。

「慎重派じゃない?」

「分かって安心したいだけよ」

そうだった、とみなみは思い出す。

柊なぎさという女はこういう女なのである。不確定な要素に身を流されることなく、流されまいとする、努めて。大学時代に知り合ってから、社会人を数年経験しても、この性質は変わることを知らない。しっかり者の真面目な長女タイプ。

適当なみなみと相性が良くないタイプである。それでも、こうして不思議と大学を卒業しても、別々の会社に勤めることになっても、その仲が変わることはない。割れ鍋に綴じ蓋、というやつなのかもしれない。

追求はなく、隣からは溜め息が返ってくるだけだった。なぎさの良いところは、こういうところだ、とみなみは思い出した。

みなみは風呂上がりに、売店で売られている地ビールが気になったがコーヒー牛乳を選んで、なぎさが出てくるのを待った。和服に袖を通し、ソファに腰掛け雨音に耳を傾けながら。
車が走る音も時計が秒針を刻む音も、人の話し声もしない、ただ雨が旅館の中に響いてくる音を聞く時間は、みなみの暮らしにはなかった。そんな時間を作ろうという気にすらならない。営業職というのは、プレゼンの準備や営業計画を練ったり、顧客の対応であたりと一日の間で多くの人間と接する。こうして時の流れに身を委ねる余裕などない。

この旅館を選んで良かった、と思う。明日には晴れるだろうし朝風呂に露天風呂も良いかもしれない。

有料でなおかつ時間制となっているが離れにも露天風呂がある。紅葉がまだ残っている話してくれた仲居を思い出す。それも良いだろう。二日目の晩は、そっちに浸かっても良い。

この旅館を選んだのは、それら以外にも魅力的なものがある。風呂上がりのビールを我慢するほどのものがある。なぎさは別の旅館でもと言っていたのだが、みなみがここが良いと強く希望した。夕食の時に料理長自ら狩猟した鹿や猪といったジビエ料理が味わえるから。鹿肉のステーキであったり、牡丹鍋であったりというものが、部屋に運ばれる。地ビールや地酒を合わせれば、最高の旅行になる。

部屋に戻って、夕食が運ばれ、みなみはすぐに瓶ビールを持ってきてもらうように頼んだ。なぎさも飲むと思っていたのだが、明日の朝に運転するかもしれないから、という断るには最適な理由を述べたので、みなみも無理強いはできなかった。

「思ったより、楽しみにしてる?」

「思ったよりって何よ」

「候補の一つだし、絶対ってわけじゃないよ」

「でも、可能性はあるんでしょう?」

「まぁ、可能性はね」

「二人共飲んで、朝から運転するのは嫌っていうのは避けたくない?」

そう言われるとそんな気がしてくる。

みなみとしては絶対に行きたいという予定ではなかったのだが、なぎさは思ったよりも楽しみにしているのかもしれない。こうして何度か旅行をしているが、なぎさはみなみに合わせることが多く、自分の希望を口にすることは少ない。

「ちなみにそれは、飲みたくないからという理由ではなく?」

「行きの運転ありがとうね」

なぎさは笑顔を浮かべ、冷えたビールをみなみのグラスに注いでくれる。飲みたくないという理由ではないことは、その顔から読み取れる。みなみは遠慮することなく、飲むことにした。瓶ビールに始まり、地ビールも飲み、牡丹鍋には地酒を合わせた。

 

 

田中みなみが目覚めた時、寝室の常夜灯が灯っているだけだった。軽い頭痛と喉の渇きが、みなみを眠りから目覚めさせたらしい。布団に入って、寝ていることにまず驚いた。

雨の音はしない。みなみが眠っている間にどこかへ流れてしまったようだ。風が吹き、木々が揺れる。

広縁へと続く畳には、なぎさが眠っている。なぎさ、と声をかけてみるが反応はない。

主室に置かれているテーブルの上には一階で買ったらしいミネラルウォーターが置いてある。飲み過ぎ、という置き手紙と共に。

おひつに入った白ご飯を美味しく食べたことは覚えている。広縁へ出て、火照った身体に夜風を浴びせると心地良かったことも覚えている。なぎさの、明日大丈夫なの? というそれなりに心配した声に、心配性、と言ったことも覚えている。

しかし、仲居が布団を敷いたことも、いつの間にか布団で横になっていることも記憶にない。全くの空白の時間があったが、みなみは気に留めることはなかった。なぎさが上手いことしてくれたのだろう、と思った。

ミネラルウォーターだけでは渇きは収まらず、みなみは和服の身なりを整えると、財布とスマートフォンを持って、なぎさに小さな声で礼を言い、部屋を出た。日付はもう変わっていた。
みなみの脳内と舌は、一階の売店で売っていたアイスクリームを求めている。飲んだ後には甘くて冷たいアイスを食べるのが、みなみがお酒を飲んだ時の決まりであった。

廊下に出ると、どこもかしこも静かだった。前室のある各部屋からは明かりすら漏れてこない。ぴしっと閉められ、廊下は幾つかの常夜灯が点々としているだけだった。

昼間は雨の音がそこら中から聞こえていたのだが、夜になってひっそりとしている。旅館自体が、山の中で明日の朝に備えて眠っているようだった。

素足で廊下を歩いていると、身体の重みがそのまま木を軋ませているようで、ぎぃっと音を立てる。昼の間は全然そんなことを思わなかったのだが、夜に聞くと恐ろしく思う。

真夜中の旅館を一人で歩く。一緒に来た者はもう寝静まっており、起きているのはみなみだけ。滞在者は全て寝ているのだろうか。話し声一つ聞こえてこない。何か悪いことをしているような気分を覚える。

みなみは一人廊下を歩き、階段を降り、一階へと辿り着く。一階も二階と同じように静寂に包まれている。受付もソファも宴会場と大浴場へと続いている廊下も暗い。自販機の無機質な光が眩しく見える。

売店は閉まっていた。明日は午前七時から営業するらしい。

「……あー、そういう感じ」

独りごちたみなみの声だけが、嫌に大きく響く。その音の大きさにみなみ自身が驚いた。
ここまで降りて来て、何も口にせずに戻る気にはならなかった。自販機で温かいお茶のペットボトルを買って、ソファに腰を下ろす。雲が流れた中庭には、月の光が射し込まれ二階より明るかった。みなみは不意に、太陽や月を信仰している人間の気持ちがわずかながら理解した。
雨音も車の走る音も人の話し声も時計が動く音もしない。昼間とは違う、静寂。平日の夜に味わったことがない。みなみの日々の生活には程遠い夜が、ある。

温かいお茶を飲んでいると、その熱が全身に広がり、色々と思い出す。早く横になりたい、と言ったのはみなみであったこと。布団が敷かれるまでの間、広縁の一人掛けの椅子に頬杖をつき、うとうとしていたこと。朝食を持ってくるのは一番遅い時間にしてほしい、と希望したこと。なぎさを巻き込んでばかりだったこと。
明日の朝になれば謝ろうと決心したところで、二階からぎぃっと音が降って来た。みなみは弾かれたように視線を上げる。階段に視線を投げても、人影一つない。

廊下に他の誰かが出てきたのだろう。心配性のなぎさが出て来たのかもしれない。足音にしては不規則だったが、ぎぃっと鳴れば、鳴らないこともある。駆け降りてくる様子は聞こえてこず、暗い廊下を慎重に一歩一歩を確かめているような歩調。

みなみは二階に戻るか一瞬迷った。あの暗がりの廊下で、なぎさ以外の誰かとすれ違うのは怖かった。旅館でみなみ達以外にも滞在者はいるのだから、他人とすれ違ってもおかしくないのだが、怖いものは怖い。

夢を見ていると思いたかったが、手に持っている温かいお茶が現実だと教える。月の静かな光だけが、みなみの心の拠り所のように思えた。
足音は旅館全体から聞こえているようだった。真夜中に起きてきたみなみを咎めるように。大きな音ではなかったが、一歩また一歩とみなみの背中に近づいてくる気配がある。

みなみの前に広がる窓ガラスが鏡のようで、階段が一部分が見える。まだそこまでは降りてきていないようだったが、いつまでもここに居てはいけない。

早くなっている心臓の音を聞きながら、みなみはゆっくりと息を吐く。意を決して、動き出す。ぎぃっという足音は聞こえてこない。

急いで部屋に戻りたかったが、大きな足音を立てれば居場所が明らかになってしまう。みなみは逸る気持ちを堪え、部屋へと戻る。俊敏にそれでも物音は立てぬよう細心の注意を払い、引き戸を開け、入るな否や閉めた。ほっと息を吐く。

吐いた息が微かに廊下へと流れたように、ぎぃ、ぎぃっと立て続けに廊下が音を立てる。みなみは主室へと飛び込み、寝室に敷かれている布団を頭まで被る。少し離れたところに布団を敷いているなぎさは相変わらず、寝ている。

温泉も料理も申し分なかった。なかったが、違和感はある。離れがあって、有料の露天風呂もあるような良い旅館がどうして紅葉シーズンを逃したとしても、一室空いていたのだろうか。ジビエ料理に惹かれて選んだが、所謂出る旅館なのではないだろうか。山の中、森の中、門限があり、売店も閉まる。滞在者の胃へと落ちた鹿や猪が、その肉体を探して彷徨っているのではないだろうか。辻褄は合うような気がする。

「なぎさ、……起きてる?」

情けない声で呼んでみるが、反応はない。布団を寄せて、手を取ってみるが、温かく柔らかいだけ。けれども、今のみなみにはその柔らかさと温かみだけで十分だった。

 

 

柊なぎさは重みと暑さで目覚めて、驚いた。寝起きでぼんやりとしていた頭が、急速に動き出す。

田中みなみが、自分の布団で寝ている。

その事実を確認して、起きる気配がないみなみの側をそっと離れる。まだ自分も夢の中にいるような不思議な感覚から抜け出すためにも。

広縁へと続く障子を開けて、残ったままで冷たくなっている茶を一気に飲む。椅子に腰を下ろし、寝室を見渡す。開けた覚えのない前室の障子が開けたままになっていた。

主室のテーブルに置いたはずのミネラルウォーターは減っており、置き手紙とは少し離れたところに置かれている。買った覚えのないお茶のペットボトルがある。

「……どういうこと?」

みなみの小さな寝息だけが返ってくる。

色々と考えたいことはあるが、とりあえずの推測として立てられることが一つある。みなみが酔っ払って起きて、何かした、ということだ。朝食が来るまでに起こして問いただしたい気持ちはあるが、今日もここで過ごすことを考えれば、必ずしも朝に明らかにしなければならないという必要はない。車内の雑談の一つにしても良い。

その時、なぎさの頭上から、ぎぃっという音が聞こえた。なぎさは一瞬驚いたが、すぐに昨日の雨のせいだろうと判断した。家鳴りという現象がある。温度や湿度の差によって生じた変化から元に戻ろうとする時に、こういう音が家からする。なぎさの家でも時々、する。

なぎさはみなみが起きるまでの間、昨日のみなみの言葉を思い出していた。一日の運の総量というやつだ。みなみとなぎさで何について運が良いと思うかは違う。

なぎさはこの旅行を、みなみと続けられているこの瞬間に、自らの運の良さを覚えている。
なぎさはみなみに同性の友達以上の好意を懐いている。

なぎさはみなみにはない、人を巻き込み、引っ張る力がある。大学時代に知り合い、その引力を味わった。憧れが恋へと変わるのは容易かった。卒業を機になくなると思った縁は互いに社会人となった今でも、続いている。

そういう関係のため、なぎさは自分の運が良いと思っている一方で、運が悪いと自覚している。

みなみの恋人はいつでも異性であり、みなみから見たなぎさは同性の中で最も信頼できる友達でしかない。親友という言葉を用いてもいいのかもしれない。

告白をしてみても良かったかもしれないが、今の関係が壊れてしまうのが恐ろしかった。勇気が、なぎさにはない。

もしみなみが、なぎさのように同性に恋愛感情を懐いているのであれば、きっとなぎさにはできないこと、言えないことを伝えられるのかもしれない。確証はないけれど、そう思わせるものをみなみは持っている。

みなみがどういう人が好きなのかは聞いたことはない。本人が語るには、誠実で清潔感のある人らしいが、その人に当てはまるのはきっと異性であり、同性であるなぎさではないだろう。そういうことは分かっている。

頭では分かっているのだが、心がそういうことに分かっているかどうかは、なぎさ自身想像できない。分かっている気はあるが、分かっていない気もするという曖昧な思いに落ち着くだろう。

「みなみ」

起きる気配を微塵も見せない友達の名前を呼ぶ。んー、と吐息にも似た声が、赤い唇から漏れ出る。

なぎさは、どういう言葉をかけるか一瞬迷った。零れ落ちそうになる感情を理性で押し込んで、朝食が運ばれる時間が近いことを思い出し、

「もうすぐ、朝ご飯よ」

と、声をかけた。

みなみからの返事はなかった。

なぎさは微笑を浮かべた。永遠に恋人にはならないであろう彼女の寝姿を見ながら。〈了〉

 


 

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