小説における「説明」と「描写」について今一度見つめ直す話

小説を書いてますが、これで良いのか……? とよく考えます。考えたところで、書いて、振り返って、考えて、また書いてということを繰り返して打破するしかないわけですが、どんと思考の渦の真ん中に居座って、気にせずに書き続けるというのが難しいです。

プロットのことや登場人物の動かし方や物語の展開のさせ方や文章……色々と考えてしまいます。考えることが悪いと思いたくないのですが、そうやって色々と考えたことに囚われて、焦りや惑いを生み出してしまってはいけません。色々考えるだけ考えて、手が止まってしまうのは止した方が良いな、と思います。

腕を磨くために考えることは必要ですが、考えていること自体の方向性が合っているのかとか一つが考えが別の新しい考えを生み、別の考えに繋がり、一つの大きな迷宮が出来上がっていくように思います。こうして出来上がった迷宮に囚われてしまい、出られなくなり、焦りや惑いを勝手に生み出し、自滅していきます。

これはいけないです。立ち返るべき何か、が必要になります。単刀直入に書いてしまえば、基礎に立ち戻り、今一度学び直す必要があります。自分の考えていることが良いことなのか悪いことなのか、と判断するようなものが必要です。

色々考える中で、僕は最近、小説の「描写」について考えることが多いです。小説は言葉だけで成り立っています。言葉だけで多くのことを描かなければなりません。登場人物がどこで何をしているのか、今が何時なのか、登場人物達の会話や関係、登場人物が何を思い、考え、感情を露わにするのか……。全てを言葉で表現しなければなりません。

小説における言葉の表現は色々な役割があります。登場人物同士の対話であったり、思考であったり、感情であったり、説明であったり、描写であったり……。僕はもしかしてですが、小説における「描写」を何か勘違いしているのではないか、ということを最近考えてしまっています。

もっと突っ込んで考えますと、僕は「説明」と「描写」を勘違いしているのではないか、と。

「説明」を主とした文章や小説が悪いと考えているわけでありません。ですが、「小説における表現を模索している話」などで書いています通り、小説の真髄、僕が新たに得たいと思っている武器に「描写」があります。小説という表現媒体における、特有の武器を「描写」だと考えております。ですので、この「説明」と「描写」を勘違いしているということは、得たい武器を得られない可能性に繋がり、よくありません。

勘違いしていると思ったのは、最近書いた小説を振り返った時のことです。

真夜中の会合」という短編があり、この作品は説明に文字数を割いている箇所があります。佐藤という登場人物が、何故ここに至ったのか、ということを思い出す場面です。

物語の舞台がどうしてこの終着駅であり、佐藤が真夜中にここに来ることになってしまったのかという説明をしている箇所です。

 

 佐藤は混乱した頭で、思い出そうとする。どうしてこうなってしまったのか、と。火曜日の二十二時に、佐藤はようやく退社できた。定例となっている週半ばのプロジェクト進捗確認に関する会議資料の変更を、営業の者が希望した。それも、佐藤がマネージャーとして昇進する前に直接の部下だった山田からの連絡だった。

 顧客の課題が根本から違うことが分かったため修正が必要になった、というのである。戦略という部分から変更する必要になったのだ。戦略を変更するということは、用いるシステムを変更するということになり、今までの進捗がゼロになるということである。

 山田には色々と言いたいことはあったが、どういう言葉をかけるのが適切だったのか悩んだ。こちらも悪かったと言えばいいのか、何故そういうことになったのか、今後はどうするのか……どれも適切ではないように思えた。

 メンバーに謝罪を繰り返し、責任は顧客の希望を最後まで考えずにまとめた自分にあると言い切った男に、どういう言葉をかけるべきだったのだろう。佐藤は分からなかった。自分が山田のような立場であれば、この段階で全てを変更してほしい、と言っただろうか。沈黙を貫いたのは、佐藤自身もやらなければならないことが多く、そちらに思考を割きたかったためである。

 戦略変更により急遽会議を開催し、変更と修正と説明に追われ、一息吐く暇もなく夜は更けていく。合間合間に飲んだ珈琲は佐藤を半ば強制的に起こし、覚醒させ、活動的にさせた。定例の進捗会議は顧客への説明の後ということになり、午後一番へと予定変更ができたのは、佐藤の精神的な疲労を一つ軽減させた。最も大きな精神的な疲労である、責任を感じている山田にどういう言葉をかければ良かったのか、というものは解決できなかった。

 退社して真っ先に飲み屋へ向かったのは、頭の中の多くを占めていることをアルコールで曖昧にしたかった。良い解決策ではないと佐藤自身分かっていたが、それくらいでしか解決できそうになかった。山田と話す、という最もな解決策を選べなかった佐藤には、それくらいしかない。飲みながら、山田の言葉を思い出す。

 山田は何度か責任と言っていた。顧客と一番会っている担当者として、顧客が本当に願っている部分が何だったのか、という部分を読み違えてしまったのだ、と続けた。

 責任という部分で考えれば、本プロジェクトのマネージャーチームのメンバーである佐藤の責任もあるだろう。佐藤には自分が思っている通り、まだマネージャー業は早いのではないだろうか。上司達がフォローに入ってくれており、ゆとりあるスケジュールを組むようにしていたが、佐藤はまだ営業で仕事をしている方が良いのではないだろうか。今回の件で、営業に戻される、ということは有り得るのではないだろうか。

 一人で飲んで、それなりの量を飲んだが全然自制の範囲内だと思っている。軽い足取りで、電車に乗ったのは日付が変わる前だった、と記憶している。

 だというのに、佐藤は終電の見知らぬ駅にいる。細長い通路を通り、自分が降りたホームとは違うホームに降り立つ。ホームの真ん中に置いてある看板は、ここが沿線の端に位置する駅であり、佐藤が本来降り立つ駅は二桁は超える駅の先にあることを教えてくれる。佐藤は諦めたようにホームを離れ、改札を出ようとした。

 

同時に、僕は佐藤という男の悩みも書いています。悩みを書いてますが、僕はこの悩みを書くということを「描写」と捉えている節があり、ゆえに「説明」と「描写」を一緒くたにして考えてしまっているのではないか、と思います。この「悩み」を書くということは、あくまで「説明」であり、その「悩み」をどうするか、「悩み」によって何を引き出されるのか、まで表現した時に「悩み」」を「描写」することになるのではないか、と考えてます。

同作で、「説明」と「描写」を一緒くたに考えている箇所は他にもあります。内田という女性駅員が佐藤と出会う場面です。

 

 改札の奥から、佐藤と似た格好の黒いパンツスーツを着た背の低い女性が姿を見せた。

 黒いコートの二の腕の部分や黒い帽子の真ん中には佐藤がホームで見かけた鉄道会社のロゴが描かれている。小さな手には一本の懐中電灯が握られている。

 懐中電灯の光が、小さく上下に揺れる。佐藤が生きているのを確かめるように。

 懐中電灯の光が消え、

「あの……」

 躊躇うような、探りを入れるような、控えめな声が佐藤の耳に届いた。女性の駅員は、佐藤へと歩み寄る。改札を抜けて、佐藤の目の前で足を止める。愛嬌のある顔立ちをしている女だった。胸元に名札をつけていて、内田、という名前が見えた。

 

ここの「愛嬌のある顔立ちしている女だった」という部分です。書いている時は、僕はここを「描写」と捉えてしまっています。今でしたら、おそらくですが、これは「説明」になるではないか、と思えます。「愛嬌のある顔立ち」というのが、どういう顔立ちなのか、というのを言葉で表現すれば、「描写」になるのではないでしょうか。

「説明」の多くは要約です。何故? という問いに対する分かりやすいまとめ方です。

対して、「描写」の多くは、詳細です。何故? という問いに対して、それはそれは沢山の言葉を費やすものです。何故? という問いに対して答える必要がないのかもしれません。

次からの作品では、そういう「説明」と「描写」を意識しながら、書き進めていきたいですね……。

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