小説における表現を模索している話

文學界新人賞の中間発表があったことは、この前に書きました。

一次落ちだったということもあり、どこが悪かったのか……と考えていることが多いです。

ストーリー

主題

文章

等々……

まぁ一次落ちなので、全てが水準を満たしていなかったのだろうということなのですが、最近は最後の文章という部分について、これで良いのか? と思いがちです。誤字脱字とか文法とかそういう部分だけではなく、自分は「小説」という表現方法の武器を活かせているのか、ということを考えてます。

自分の書く小説は話の長短は置いておいて、

・登場人物

・台詞回し

・カメラワーク

という三つを主な武器として扱っていることが多いです。僕の作品を好んで読んでくださる方は、情景描写を上記に加えるかもしれませんが、僕自身としては、僕の書く情景描写に技術的は反省が絶えず付き纏いますので、武器か……? と疑問符を付けざるを得ません。

三つも武器があるのは幸いなことなのですが、このいずれの武器も「小説」という表現媒体でないと得られない武器であったか、と考えてみると、決してそうとは言えません。

自分はこれらの武器を、映像作品におけるカメラワーク、漫画におけるコマ割りや見開き、音楽におけるリズムと詩といったような部分から、得ました。

小説を読んで小説から得たものというのは、ぱっと浮かんできません。日本語の読み書きはできる、という部分でしょうか。情景描写の上手さは、自分の五感と漢詩と風景のもたらすイメージから組み立てていることが多いので、小説から得たとなるとここにも疑問符を付けざるを得ません。

つまり自分は今まで、そして今も、小説を書くのに小説特有の武器を持っていないわけです。果たして本当にそうか……? と疑いたい自分もいますが、自分の小説の長所を考えた時に、別にこれって小説に限った話ではないよなぁって思えているので、そういうことなのだと思います。

自分の書く小説における、自分だけの武器とは何なのか。小説という言語における表現芸術の中で、自分が言語で表現したいことは何なのか。

そういうことを最近考え、探しています。

他の表現媒体と比べて、小説は「時間」をコントロールしやすいではないか。場面・説明・描写という文章の展開スピードと割かれるページ数は、書く文章量でコントロールできるのではないか。

小説における描写・ディテールという部分が、小説という言語を駆使した表現芸術の鍵を握っているのではないか。

そんなことを考えています。明確な、これだ! という武器はまだ全然見出せていません。影すらも見当たりません。

そういうことを考えると、私小説という自分の体験したことをベースに書く小説は、確かに自分だけの武器、となり得るということが分かります。多分、手っ取り早い方法なんだと思います。私小説を書いて、自分だけの表現・武器を手にいれるということが。告白という行為がいかに強い武器になるのか重々理解できます。

ですが僕はあえてその手法を採用したくありません。

僕は、芥川龍之介が好きです。堀辰雄が好きです。谷崎潤一郎が好きです。夏目漱石が好きです。物語の面白さとの両立させたいです。一種の信仰に近いです、この思いは。

物語としての面白さと小説における自分の武器を会得し、両立させる。

当面の課題として、存在すると思います。もしかすれば、一生の課題になるかもしれません。それでも良いと思います。マイペースにやっていきます。

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