きょうもきょうとて京散歩

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表紙 中島楓
組版・デザイン RF

一 きっと、夏のせいだ

例年より長く続いた梅雨が明け、遅れを取り戻すかのように晴天が続いた。宇佐見蓮子は翻訳途中の英語の論文から目を離し、ぼうっと外を眺めていた。
研究室の窓から広がる景色は、いずれも炎が上がったかのように細かく揺らめている。
同期のゼミ生は夏休みを謳歌しているようだが、蓮子は一人、大学に足を運び、研究室に顔を出し、論文翻訳に励んでいる。
卒研に取り組む先輩諸氏の邪魔にならないように部屋の端で。
自分の専攻している分野の理解を深められるというのは小泉教授の言。しかし、まだ蓮子には早いようだ。言葉を追いかけ、日本語に翻訳することはできるが、そこから先がどうも上手くいかない。自身の専攻している分野にどう繋がるのか分からない。
「宇佐見さんは大学院に進学される予定ですか?」
小泉教授は卒研に勤しむ学生を気にかけながら、不意にこういう言葉を蓮子に投げかけた。淡白な色の薄い声音が、研究室に響く。
「へ? えっ……は? え、まだどうするかは考えてませんが」
突然の教授からの質問に、蓮子は視線を外から教授へと移し、彼の顔色を伺う。
小泉教授は真夏でも丁寧に洋装を着ていて、汗一つ見せない。ジャケットの内ポケットに何か細工でもしているのだろうか。
普段と変わらない色の白い細面で柔和な顔つきだったが、蓮子の心情を探るように茶色がかった双眸を向けている。
蓮子の返答に納得していないのか、何か考え事でもしているのか、口元に運んだ指先は一定のリズムを刻んでいる。その指も女を思わせるように細い。
蝉のけたたましい鳴き声が研究室に木霊する。後ろ髪の間を流れる汗がぬるいのは、きっと夏のせいだけではないだろう。
大学三年生という時期に、そんなことを考えなければならないとは思っていなかった。周りの学友と話しても、そんな話題一つも出ない。
早期卒業というシステムがあるので、それを用いる者はもう当然動いていると思うが、蓮子の周りでそれほど優秀で真面目で勤勉な学生はいない。早期卒業というシステムは、自由な校風を謳うためだけに存在するシステムだと言う程度だ。
先のことを話すこともあるが、四年生になると夏休みがなくなることぐらいだ。あるにはあるようだが、二年の時のように遊んでしまうと追々の卒研で泣きを見ることになるらしい。加えて、小泉教授はこの時になると非常に厳しいとも。あの顔と普段と変わらない淡々とした声音で研究の成果について問われるのは生きた心地がしない、と専らの噂だ。
蓮子の前では言わないだけで、もう彼等は進路について考えてあるのだろうか。小泉教授とその進路について相談しているかもしれない。
研究室の学生がこうまで進路について考えているのだから蓮子も何か考えているのだろう、と小泉教授は思ったのかもしれない。
しかし蓮子は、自身の進路など全然考えたこともなかった。
蓮子の考えている将来のことは、近いうちに控えている帰省ぐらいだった。しかも、日程を早めるか遅らせるかという程度だ。
小泉はようやく考えがまとまったのか、口を開ける。
「宇佐見さんは優秀ですから、もうそのようなことを考えているのかな、と気になっただけです」
「優秀な学生は夏休みに研究室に来ませんよ」
「それだけ研究熱心ということでしょう。どうですか、進んでますか?」
「全くです」
蓮子が正直に答えると小泉は苦笑のような微笑のような曖昧な表情を浮かべ、卒研に取り組む生徒の方へと視線を戻す。
その涼しげな横顔に、蓮子は訊く。
「教授は就職とか考えなかったんですか?」
「私は研究以外できませんので」
一蹴された。
小泉は蓮子が専攻している物理学の第一線で活躍する研究者である。
国内よりも、国外でその研究成果が認められているような人物で、後から国内でも名の知られるようになった。
蓮子が大学受験で志望校を迷っていた頃、諸外国のどこかで研究をしているのだろうと思っていた教授が国内の大学で研究していたと知って驚いた。
蓮子が小泉のことを知ったのはその研究内容よりも、国外で活動している時に連載していた幾つもの随筆であり小品だった。
研究発表などで国外に居る時に、とある雑誌で掲載された作品。
舌触りの良い数々の表現で物理学へと誘う小泉に、蓮子は自身の進路を委ねた。
高校から大学に入学する時はそういうふうに進路を決めて良かったかもしれないが、今でもそういうふうに選んでいいのか分からない。
大学院に進学するか就職するか、はたまた別の選択を採るかとなると難しい。
大学院に進学すると仮定して、研究テーマを設定しても、小泉教授の下位互換となってしまうのは避けたい。幾つもの積み重ねにより研究は成り立っていると分かるのだが、それはそれ、これはこれというやつだ。
一介の学生が考える研究テーマなど、その研究に一生を費やしている人間が既に通過したものだろう。蓮子が改めて研究をしてもいいのだろうか。いいかもしれないが、避けたい気持ちがある。
学問の研究に人生を捧げるような覚悟は、蓮子にはない。
小泉は蓮子ぐらいの年齢の時には研究が認められ、一線で活躍していた研究者である。蓮子とは根本的に頭の出来が違うのだ。住んでいる世界が違う住人と言っても過言ではなかった。
そんな人間に気に掛けられるのは嬉しいことだが、一方で重荷を覚えるのは確かだ。英語の論文をすらすらと翻訳できて、自身の今後の研究に役立つか否かをすぐに判断できるほど、蓮子は賢くなかった。
「……私はまだそんな先のことは考えてません」
「よく悩んでください。そして、悔いのないように選んでください」
残りの部分は帰って翻訳することを伝えて、研究室を出る。
研究室を離れて、これからどうしようかと歩いていた時、唐突に思い出した。
同じサークルに所属している学友のことを。
蓮子と彼女で、オカルトサークル秘封倶楽部を結成し活動を続けている。
彼女は、蓮子のように日本で生まれ育った学生ではなかった。海を越えた遠い国で生まれ育ち、留学生として蓮子と同じ大学に在学している。
マエリベリー・ハーンという少女なのだが、蓮子はどうも彼女の名前が呼びにくく、メリーと呼んでいる。
今日はメリーと会う約束をしていた。呼び出したのは蓮子なのだが、家に居る時は待ち合わせの時間には早かった。そのまま家に居ても良かったのだが、蓮子の遅刻癖は蓮子自身がよく知っている。
下宿先ということもあり、家主の細君から促されたから、少し早めに家を出た。
家を出る時間を早くすれば、そう簡単に遅れることはないだろう。幸い、待ち合わせ場所は大学から近い。時間を潰すには良い。図書館か研究室に顔を出せば、何かはある。
そう思って図書館に顔を出し、研究室にも顔を出すまでは良かったが、気づけば何時間か経っている。
空を見上げると、濃い入道雲が天に向かい力強く伸びている。
風でも吹いたのか雲の端が僅かに揺れた。炎が揺れ、揺蕩うようであった。
雲の隙間を掻い潜るように、微かな煌めきを蓮子の目が捉えた。
――午前十一時三七分。
金星だと思ったが違ったようだ。
約束の時間は、十一時半だった。
十分も経たない内に待ち合わせに指定した喫茶店に着けるが、らしい言い訳がそれまでに考えられるかとなると難しい。
それでも、これ以上待たせるとなると……。
蓮子は財布の重さを確認して、足早に大学を去った。
きっと今頃、メリーは色の白い顔をこれでもかと険しくさせて、形の良い眉をぐっと眉間に寄せて、蓮子が訪れるのを待っていることだろう。
蓮子は好き好んでメリーとの約束に遅れているわけではなかった。
ただ、そうなってしまうのである。
遅れた理由を考えながら、その主たる理由として自分自身の口から進路という言葉が飛び出すことに驚く。
小泉教授に問われた時も思ったが、蓮子達はもうそんなことを考えないといけない時期なのだろうか。
サークル活動と日々の講義で楽しい学生生活を送れているというのに。
メリーは進路のことを考えているのだろうか。それほど先のことは考えていないと思いたい。しかしもしかすれば、メリーは大学を卒業してからのことを、もっと前から考えているかもしれない。
蓮子が自然とそう思ったのは、メリーが留学生として大学に通っているからだった。蓮子が高校生の頃は自分の国を出て、他国で勉学に励むということは全然考えに及ばなかった。
慣れない地で数年過ごし、学び、帰国して就職する。
高校生の蓮子には考え付かない将来設計であるが、メリーがそういう将来を思い描いている可能性は否定できなかった。
遅れを取り戻そうと速くなっていた歩調は、メリーの将来を考えついた頃には更に勢いを増していた。
背中が暑い。
きっと、夏のせいだ。

二杯目のアイスティーと少し早い昼食を、マエリベリー・ハーンは大学近くの喫茶店で摂っていた。
顔を上げれば、左手には松の一枚板のテーブルが置かれ、メリーと同じ大学に通う学生が何人か集まって先ほどから語り合っている。
テーブルの向こうには、一面ガラス張りの窓があり、大通りが広がっているのが見える。車や人の往来はあるが、見知った顔はない。外は絶えずゆらめき、色のない煙が漂っているようだった。
厳しい陽射しも、学生達の熱弁もマエリベリーが座る席までは届かず、マエリベリーの周りにだけ影が出来ていた。目の前の空席の端には、陽の光が届かんとしていた。
同じサークルに所属する宇佐見蓮子に何度か連絡を入れているが反応はない。
溜め息のような、舌打ちのようなものが零れそうになって、ぐっと堪える。夏に備えてショートカットに切ってもらった金色の髪が重く感じるのは、きっと蓮子が約束の時間を守っていないせいだろう。
頼んだばかりのガラスのコップに、眉間に皺を刻む自分の顔を映り込んで、指で揉む。怒りを鎮めるようにパンをちぎって、口に運ぶ。
蓮子が遅れるのは毎度のことであるが、毎度のこととなるとやはり思うところはある。この喫茶店の代金を遅れた罰として支払ってもらおうか、とか。
蓮子とは大学に入ってからの付き合いになるが、マエリベリーは彼女の遅刻癖に理解を示そうとした。が、彼女の瞳のことを教えられると、一気に理解するのが難しくなった。
蓮子の瞳は、星を見て時刻が分かるらしい。月を見れば今自分がどこにいるのか分かると言っていた。
マエリベリーは蓮子から直接その話を聞いた時は大いに驚いたが、それからすぐに星を見て正確な時刻を言えたところから嘘を言っているようには思えなかった。
そういう目を持っているのならば待ち合わせ時刻に遅れると思えないのだが、これが毎回、遅れている。
しかも、呼び出されるのは毎回マエリベリーの方だ。
つまり蓮子は、マエリベリーを呼び出した上で、毎回遅れてやってくる。タチが悪いことこの上ない。
サラダを突き刺すフォークにやりきれない感情が籠る。
蓮子が遅れることが分かっているのならば、マエリベリーも待ち合わせの時間よりも少し遅れていいのかもしれないが、わざと遅れるのは良くないだろう。
待ち合わせの前日や当日に、今回は少し遅れてもいいだろうと思うことは思うのだが、いつも良心が勝り、結局、約束の時刻より少し早くに来てしまう。
ドアが大きな音を立てて開いた。賑々しい蝉の鳴き声が、店内に滑り込んでくる。店にいた者全員の視線が、ドアへ。
汗を拭う蓮子と目が合った。微笑と苦笑が混ざった申しわけなさそうな笑みを浮かべる蓮子に、メリーは何度目か分からない溜め息を零した。
マエリベリーは夏に蓮子を見る度に、彼女が暑そうだと思う。黒い帽子に黒いロングスカートに、黒い髪と瞳。
これでマエリベリーをぐいぐいと引っ張るのだから、蓮子と居る時は胸の奥が熱くなる。
マエリベリーの前に座った蓮子は慣れた調子で謝った。
蓮子達は、マエリベリーをメリーと呼ぶ。曰く、マエリベリー・ハーンというのが言いにくいらしい。マエリベリーは自身の名前を言いにくいと思ったことがないので、きっと舌や口の中の構造が、日本人である蓮子達とマエリベリーとでは違うのだろう。
「今度の言い訳は何?」
手に持ったフォークを蓮子の顔に向ける。
マエリベリーが蓮子にそう訊くのは、二人が集った時の定番になっていた。
蓮子は慣れてしまったのか最初の頃のように目を泳がせることなく、テーブルに肘をついて落ち着いた調子で答える。
「小泉教授に捕まってさ」
思ってもなかった名前が蓮子の口から飛び出て、メリーはアイスティーを飲む手を止めた。
「小泉、教授……大学の?」
蓮子は頼んだアイスコーヒーをストローで飲む。
からんと氷が鳴った。
「他にいる?」
「あなたの交友関係は広いから、他にいても不思議じゃないわ」
「私達の大学の小泉教授」
「どこかでお会いしたの?」
「研究室で」
「……研究室? 寄ったの?」
「うん」
「それで遅れたってこと?」
怒られる気配を察した蓮子が口早に弁明する。
「いや私だって好きで遅れたわけじゃないのよ。進路のこととか聞かれて……」
またも意外な言葉が蓮子の口から出てきた。
意外な言葉の連続に、マエリベリーはいよいよもって目を丸くした。
「随分とまぁ……」
驚嘆のような呟きが、マエリベリーの口から滑り落ちた。
早期卒業も視野に入れているのだろうか。しかしあの制度を活用する気ならば、三年の履修登録の際に申請しなければいけないはずなのだが、蓮子の口からそのことが語られたことはない。
蓮子は大学院への進学を考えているのだろう。
三年の夏休みから研究室に通い、教授の教えを受け、自身の専攻する分野への理解を深めている。どうやら宇佐見蓮子という大学生は優秀なようだ。
マエリベリーは、秘封倶楽部の必ず遅刻する方とだけ蓮子を捉えているのだが、もしかすれば見直した方が良いかもしれない。
マエリベリーの呟きを受けて、蓮子は自身が勘違いされたのを察したよう慌てて言葉を並べる。
「え、いや、全然よ。全然。全く微塵も考えてないのよ」
「でもまぁ、進学か就職かぐらいは考えているのでしょう?」
「いや、全然。まだそんなこと考えなくてもいいでしょ?」
どうやら蓮子は全然そんなことは考えていないらしい。それならば、何のために研究室に寄ったというのだろうか。考えを巡らしてみるが、マエリベリーには分からないことだった。
「メリーは何か考えているの?」
「考えてないわ」
マエリベリーも蓮子と同じように自身の進路については全然考えていなかった。蓮子と同じように就職か進学かのどちらかなのだが、留学生という立場であるため、国に帰るかどうかということも候補に入れなければならない。
すなわち、国に帰って就職か進学をするか、国に帰らずに就職か進学をするか、という四つの中からどれかを選ばなければならない。
今の段階で決められるようなものではなかった。
「そう簡単に決められないわよ」
「意外ね、もう考えていると思ってたわ」
「そう?」
「帰国するかどうかってことがあるじゃない?」
「だから、よ」
簡単に決められない事情を蓮子に見透かされたようで、マエリベリーの声は少し刺々しいものになった。けれど、蓮子は気にかける素振りなどみせず、こう言う。
「メリーの家族は、帰ってきてほしいんじゃないの?」
「しないと思うわよ、そんな心配」
マエリベリーは夏に似合わない、蓮子の前で発したことのない冷え冷えとした声で答えた。
蓮子はアイスコーヒーを一口飲んだ後、それまでの軽やかな調子とは打って変わって、真面目な調子で言った。
「そういうものなのかしら……」
「そういうものよ」
マエリベリーの声は、まだ冷たかった。蓮子は口を閉ざして、何にも言わなかった。マエリベリーも何も言わなかった。
冷めた声とは裏腹に、マエリベリーの胸には小さいけれど確かな波が広がっていた。
喫茶店の中心では、学生が輪を作ってまだ話している。
蓮子は、マエリベリーの進路と家族のことを合わせて考えていたようだが、マエリベリーはそんなふうは考えたことがなかった。
蓮子には言いにくいことであるため話していないが、マエリベリーは実の母親と父親の顔を覚えていない。マエリベリーが幼い時に亡くなった、と祖父母から聞かされている。どんな人なのかは勿論のこと、声音もマエリベリーの記憶にはない。
祖父母も、マエリベリーは大学に入学する前に亡くなっている。今は祖父母が残してくれた遺産と大学から出る奨学金や学費免除のお陰で生活できている。
マエリベリーの瞳が人とは違うものが見えるのは、そのせいなのかもしれない。
蓮子が星と月を見て時刻と場所が分かるように、マエリベリーの瞳も人と違うものが見える。
境界と呼ばれるそれ。存在しないものを追い求めるように、この青い瞳は、境界が見えるようになってしまったのだろうか。
マエリベリーには、蓮子が気にかけるような、心配する家族がいない。
境界の向こうに行ってしまったのかもしれない。
蓮子の進学や就職には、もしかすれば実家のことも検討に入っているかもしれないが、マエリベリーはそんなことはなく、徹頭徹尾自分一人の問題だった。
マエリベリーは知らず知らずの間に下がっていた視線を上げた。
蓮子と目が合った。相変わらず夏に不向きな、重たい印象を持たせる瞳だった。それでも今のマエリベリーには明るく、軽く見えた。
マエリベリーの沈んだ心を掬い上げるように、明るい声で呼びかけられる。
それから、秘封倶楽部の今日の活動について話す。
曰く、木屋町に真昼間にしか営業していないバーがある。そこに行ってみないか、と。
蓮子の話を聞いて、マエリベリーは呆れたように訊く。
「……バー?」
「そう、バー」
「木屋町に?」
「そう、木屋町に」
木屋町というのは、マエリベリー達が通う大学から離れた所にある通り。駅前の大通りから南北へと伸びる細い通りは小川挟んだ両岸には飲食街が連なっており、夜遅くまで営業している。
時には、朝になっても営業している飲食店もある、らしい。
そういう通りなので、バーがあるのは当然だし、別に真昼間だけ営業していてもおかしなことはないだろう。
と、マエリベリーは思うのだが、蓮子は違うらしい。
「……どこからの情報なのよ」
「ん? この前、見つけてさ」
「この前?」
「夏休みの前にさ、打ち上げしたじゃない? その時よ」
よくそんなことを覚えているな、とマエリベリーは感心する。
試験が終わり追試もなかった二人は、打ち上げと称して、木屋町に足を運んだ。まだ通りのどこかでは、お囃子が聞こえていた。そんな時に、蓮子は見つけたようだ。
「開いているの?」
「さぁ? 行ってからじゃないと分からないわ」
そう言って、蓮子はアイスコーヒーを飲み干した。
マエリベリーは後を追いかけるように昼食を食べ終えると、伝票を蓮子の方に滑らせる。
「まぁ、そうなるわね……」
蓮子は慣れた手付きで伝票を受け取る。
結構待ったのね、という呟きに、マエリベリーは鼻歌を歌い、外へ。
遅れる方が悪いのである。少し高い、期間限定のアイスティーを頼んでも良いだろう。
外は、マエリベリーが思っていたよりもずっと暑かった。
思わず、顔が強張った。
蓮子が会計を終えるまで、店の中で待てば良かったとすぐに後悔した。
店の中心にいた学生達の熱弁よりも甲高い蝉の鳴き声。
大通りのアスファルトはずっと厳しい陽射しを受けているせいか、薄い煙が上がっているように見える。
この国の夏は、加減というものを知らないらしい。年々暑さが増しているような気がする。風が吹くが、腹立たしいほどにぬるく、暑さを助長させるだけだ。
あれほど潤した喉が、すぐに渇くような錯覚を覚える。
厳しい陽射しは、マエリベリーの白い肌をすぐに赤くすることだろう。気休めに、とマエリベリーは帽子を深く被り直した。
マエリベリーの胸に、先程まで去来していた過去の思い出やこれからの進路のことは、もう不思議となかった。
蓮子が見つけたというバーがどのようなものなのだろうか。
帽子の内側で、マエリベリーは困ったような微笑を浮かべた。
随分と現金な性格な気がしてならない。蓮子と出会って、秘封倶楽部の一員としてこの町を歩くようになってから、昔のことを考えるのがが少なくなっていた。
支払いを終えた蓮子が出てきて、マエリベリーと同じように顔を強張らせる。
「バスでいいわね……」
「ええ……」
普段ならば電車で大通りまで出て、徒歩という選択肢を採るのだが、短い距離も歩きたくはない。電車の駅も大通りから木屋町も、少し遠い。
近くのバス停に止まったバスに飛び乗った。
蓮子の言っていたバーが営業しているかどうか分からない。
もし営業していたら、何を頼もうか。新型酒にしようか旧型酒にしようか。旧型酒の方が、お酒らしいし良いのかもしれない。しかし、昼からカクテルやビールなどを飲んでもいいのだろうか。
「ねぇ、蓮子。お昼からお酒って、良いのかしら?」
「良いのよ。良い気分にしてくれるわよ」
秘封倶楽部の昼間から酒を飲む方は、言うことが違う。
マエリベリーは、陽の高い間からお酒を飲んだことがなかった。
何かと用事があるし、お酒を飲むのは全ての用事が終わってから、と決めている。そういう用事を済ませてくると、陽が沈む。
しかし、その決まりも、今日で終わるようだ。
胸が期待で膨らむ。
きっと、夏のせいだ。

蓮子とメリーは、木屋町の通りを何度も歩いた。
大通りまで出て再び木屋町を下ったり、小路を折れ曲がって、一つ隣にある先斗町という通りに顔を覗かせたりした。
しかし、蓮子が先月見掛けたバーはどこにも見当たらない。
歩くのに疲れて、小川近くの木の影に避難する。色の濃い影が、等間隔に植えてある隣の木の下まで伸びている。
初夏の頃には色鮮やかに見えた新緑は今では一層青々としているが、陽の光を受け過ぎたせいか力なく頭を垂れているように見える。
同じく影の下に避難したメリーは、やっていないのではないか、と言うが、そうかもしれないと認める気にはならない。
自分の記憶が辿ると、バーを見つけるまでの前後は確かに思い出せるのだが、バーのところになると途端に曖昧になる。
そうなると余計と一層、これは何かあるぞ、と思わせる。
秘匿されたものを暴く。何とも秘封倶楽部らしい活動ではないか。
と思って、何度目か分からない木屋町散策を続けようとした時、メリーが、ここじゃないの、と蓮子を呼び止めた。
メリーの視線は小路にあった。
しかも、少し前に足を運んだことのある小路。ビルが立ち並んでいる隙間にできた狭い通りで、何軒かの飲食店が軒を連ねる所だった。
そこはさっきも、と蓮子が言おうとした時、先程にはなかった黒い縦長の看板が、屋根の影の下にぽつり。
記憶の中の風景と一致した。
あの時は、木屋町から駅前の大通りに帰ろうとしていた時で、陽も暮れていなかった。蓮子は既に旧型酒――ハイボールが美味しいことをこのくらいの時に知った――を飲んでいて、気分良く口笛を吹いたりしており、メリーはこれから飲もうか、という頃。
黒い縦長の看板の前に、人影。
これから店を開けるように思えた。
覚えていたら足を運ぼうと考えていた。その日はその後、蓮子とメリーは近くの居酒屋の暖簾をくぐって、気づいたら下宿先まで帰ってきていた。
二人が探しているであろうバーは、飲食店が入っているビルの地下にあった。
エレベーターで地下へ。
エレベーターが開くと、目の前にまた扉。
会員制という札がかかっていても、おかしくない重たそうな扉である。
音一つ漏れてこない。
後ろから、合っているの? と確認するメリーの不安そうな声。
間違っていたら引き返すなりすればいい。通りは同じビルにはバーや居酒屋が多い。お店を確認する振りをして、そのまま店を後にすればいい。
蓮子は、意を決して扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
若い男の声。
店内は薄暗かった。
バーの突き当たりには大きな窓があるのか、黒いカーテンが掛けられている。
右手には長いカウンターがあり、店の奥まで続き、何人かの人影がある。
他の客の会話を邪魔しないように声を潜めて話している。
カウンターの中に佇むバーテンダーと目が合い、恭しく頭を下げられ、蓮子は反射的に会釈を返した。
蓮子はそのバーテンダーに見覚えがあるような気がした。
声を聞いても思い出せないが、どこかで会っているような気がしてならない。
左手には、小さなテーブルを挟んでソファがセットで並んでいる。
蓮子達はそちらに案内された。メリーはカウンターを背にして座り、蓮子は店全体を見渡せるように、メリーの奥に座った。
時間を気にせず過ごしてもらおうと考えているのか、バーには時計がない。
ジャズなどのそれらしい音楽もかかっていない。
カウンターの最奥にも先客の姿。
手元にはロックグラスがあり、琥珀色のアルコールが注がれている。灰皿には数本の吸い殻。
何か書き物をしているようで、蓮子達やバーテンダーのことを気にする素振りはない。俯き、ペンを走らせるか細い音が続く。
どこもおかしなところがない、小ぢんまりとしたバーだった。十人が入れば満席になるような小さなバー。
おしぼりを持ってきたバーテンダーに注文を聞かれた。どうやらメニューがないらしい。
蓮子はメリーよりもお酒を飲んでいるが、どこも財布に優しい居酒屋が多い。どこのお店にもメニューはある。その中から、自分の懐が寂しくなり過ぎない程度で飲み食いを楽しむ。
そういう学生である。
これは困った。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
と、バーテンダーはカウンターに戻った。カウンターに隠れて見えなかったが、すらりとした体躯に黒いサロンエプロンを巻いている。
何を頼もうか悩み、メリーに声をかけようとした時、バーの奥から聞き慣れた、よく通る大きな声がした。
「宇佐見じゃないか」
一瞬、蓮子に視線が集まったような気がした。
「先生……?」
先程からカウンターに座っていた男が顔を上げて、蓮子を見ていた。
刈り上げた頭に広い額。太い眉に、口元と顎には髭を蓄えている。バーには似合わないような単の和服。足元に視線を落とせば、下駄を引っ掛けている。
蓮子の下宿先の主人である森その人だった。
蓮子も森も互いがこんな所で会うとは思っておらず、双方、目を丸くした。
メリーだけが驚きの渦中におらず落ち着いていて、蓮子に声をかける。
「蓮子、お知り合い?」
「私が下宿している所の家主、小説家」
蓮子は続けて森とメリーに互いのことを紹介した。
森はメリーに柔らかな調子で挨拶を済ませた後、すぐに訊く。
「お酒は嗜まれますか?」
「新型でしたら……」
森の声音にどこか腹立たしいものを覚え、蓮子は口を挟む。
「先生、私にはそういうのないの?」
「お前はどうせハイボールだろ?」
愛想の欠片のない言葉に、蓮子は煽るような微笑を返す。
「先生の奢りでしたら、別にメリーと同じものでも良いですよ」
「俺が嫌だよ」
「奥さんに言いますよ」
森のことはよく知っている。蓮子がそう切り出すと、森はロックグラスを傾けて、舐めるように飲んだ。
「……お前とマエリベリーさんに同じ酒を奢るのが嫌なだけだよ」
「奢ってくれるんですね」
「今日だけな」
森はバーテンダーに旧型酒を三つ注文して、蓮子のことをバーテンダーに言う。
「宇佐見だよ」
バーテンダーは準備をしながら、森に応じる。グラスの置く音や氷の砕く音が、店内に小さく、波のように広がる。淀みなく広がる波の中に、バーテンダーの意外そうな、どこか困惑したような声が混じった。
「宇佐見さん、ですか……。宇佐見さん……あの?」
「そう、あの、宇佐見」
森とバーテンダーのやり取りに、メリーが小声で訊いてくる。
「あなた、また何かしたの?」
「私じゃないと思うけど……多分」
「多分……?」
「きっと、家の誰かよ」
「あなたは本当……」
呆れ果てるメリーに、蓮子は笑うしかなかった。
蓮子は京都の大学に通うとなった時、一人暮らしを考えていた。
大学には寮も備え付けられているのだが、折角ならば一人で暮らしてみたかったのである。
しかし、中々蓮子の希望に見合う物件は見当たらない。家賃が希望より高かったり、ユニットバスであったり、交通の便が悪かった。
物件探しが難航していた折、家の者から、京都に大学時代の同期が住んでいるので、その宅にお世話になったらどうか、と提案された。大学近くに家を建てたはず、らしい。
それだったら大学の寮に住んだ方がいいのではないかと言ったが、寮は最終手段にした方がいい、と教えられた。
話は蓮子の物件探しと同時進行で進められ、家賃は不要という条件となった。
同期の家は、大学の最寄り駅から電車で一本、一駅隣の大通りから少し離れた所にある。
家主は蓮子のことを気にかけることは全くなく、家主の細君が家事の全てを担ってくれるため、蓮子が家事を行う必要はない。二階にある八畳の洋間が、蓮子にあてがわれる予定。
そんな条件となり、蓮子は下宿を了承した。
二階建ての一軒家。蓮子が想像していたよりも、大きく、広い家だった。
そこに住まうのが森夫妻だった。
蓮子は家族にそんな知り合いがいることは知らなかったが、家に森の本がサイン入りで何冊も並んでいることを思い出すと、どうやら親しい関係のように思われる。
森や細君の口から、あの宇佐見という言葉が度々出ることがあり、森夫妻の方でも宇佐見という女性は覚えられているようだ。
大体が笑い話であり、蓮子は居た堪れない気持ちになったが。
誤算があったとすれば、森は事前の情報通り、蓮子のことを気にかけることはなかったし、家に居ることが少ない人だった。
細君の方はそういう人ではなかった。
学業については何も言われないが、それ以外のことはよく話してほしいと希(こいねが)われる。蓮子もそれくらいならば、と話すことが多い。
森は酒が出てくるまでの間、煙草を吸って待っていた。と思えば、蓮子の方に身体を向けて訊く。
「なんでここに?」
「お昼にしかやってないのが、気になったので」
蓮子がそう言った時、カクテルとハイボールを持って来たバーテンダーが答えた。
「気にかけていただきありがとうございます。うちはお昼にしかやらないようにしてるんですよ」
「でも、バーっていうと、大概、夜じゃない?」
メリーの尤もらしい質問に、バーテンダーは苦笑を浮かべる。
「僕も夜の方がらしいと思うのですが、そんなお店多いでしょう? だったら、思い切って、逆をしようって。木屋町と先斗町の境界にあるバーなんて、普通に新規参入したら大変ですからね」
「俺が言ったんだよ。落ち着いて仕事ができる環境が欲しいって」
森の言葉に反感を覚えたのは蓮子だった。
「家だと煩くて、仕事ができないってことですか?」
「そうは言ってないだろ……。家だと、薫さんがな。俺を気遣うだろう。それがな……。いやぁ、まぁ、ありがたいけれど、うん、まぁ……」
小説家として活動を続ける森であるが、細君に言い包められたり詰め寄られたりすることは多々あった。禁酒や禁煙の勧告であったり、食事が不要の連絡がなかった時など。言い返している場面はほとんど見たことがない。
「それじゃ、森さんが仕事をするための環境ってことですか?」
メリーが確かめるように訊くと、森は微笑を浮かべて答える。
言葉を扱うことを商いとしている森の変わり身は慣れたものだった。そういう姿を細君にも見せればいいのだが、森は決してそんなことをしなかった。
「まぁ、そんな所ですよ。人間の集中力は、九〇分程度。息抜きして、また書いて、少し経てば閉店。悪くないんですよ、これが」
「良かったんですか?」
蓮子のバーテンダーへの質問には色々な意味が混ざっていた。けれど、その良かったの多くは、それで儲けが出ているのか、が占めていた。
ここで酒を飲む全員が、木屋町のバーの多さを知っているし先斗町のことも知っている。
真昼間に極々短いだけの営業時間。
何時まで営業しているのか分からないが、店名を考慮すれば三時間程度だろう。そんな営業時間で儲かるのだろうか。
「良くなかったら、開けてませんよ」
バーテンダーはそう笑って答えて、カウンターへと戻る。その答えが、蓮子の問い掛けへの全てとでもいうように。
蓮子には、それで良いのか全然分からなかった。幾ら考えても、蓮子は自身が納得するような考えに辿り着けそうにない。
学生にはまだ早い。そう言われているよう気もする。
答えを求めるかのように、ハイボールに口を付ける。
今まで飲んだどのお酒よりも美味しい。
深みがある、とでも言うのだろうか。
「……美味しい」
自然と、そんな言葉が蓮子の口から滑り落ちた。メリーも同じように、
「美味しいわね」
と驚いたように呟く。
何をどうすれば、この味わいを生み出されるのだろう。
良いウイスキーを使ったのだろうか。バックバーに並んでいるどのボトルなのだろうか。それとも、バーテンダーの技術の賜物か。
きっと、その両方だろう。
二杯で幾らになるのだろうか。
連綿と考えた蓮子は慌てて、森の方に目を遣った。
森はそれまで二人と話していた雰囲気が嘘のように、二人の介入を拒むかのように、ペンを走らせる。
原稿用紙を捲る音とペンを走る音だけが、バーに響いていた。
メリーも蓮子も目当てのバーを見つけ、話せることは色々とあったかもしれない。
それこそ、喫茶店での会話の続きを繰り広げても良かったことだろう。進路のことを今一度考え直しても良かっただろう。新しい何かが得られるかもしれない。
しかし、目の前で仕事に取り組む森の姿とその微かなに伝わってくる音、そして美味い酒を前に、そういう現実を改めて考えたくはなかった。
この贅沢な時間に、身を委ねておきたかった。
蓮子が何かを言おうとメリーに目を遣ると、メリーは自身の唇に指を添えた。
蓮子は声を殺して、笑った。
どれほど時間が経っただろうか。
森の仕事が終わり、バーは閉店となった。
バーテンダーはカウンターに座る客から会計を初め、一人一人をエレベーターの前で見送る。
蓮子達の番になって、エレベーターの前へと見送られる。
この時初めて、明るい照明の下で、バーテンダーを見た。
黒いシャツの胸元には名札が付いており、小泉の文字。
蓮子はその細面と女のように細い指を見て、小泉教授を思い浮かべた。
エレベーターは、一階で何人かの者を下ろしているのか、まだ来ない。
蓮子は堪らず、尋ねた。
「……お兄さんとか、おられますか?」
バーテンダーはそれまでの笑みとは違った恥ずかしそうな微笑みを浮かべる。
「ええ、兄貴が一人。ご存知ですか?」
「小泉教授ですよね?」
「そうなんですよ。あの、教授です。……そんなに似てます?」
バーテンダーは細い指で困ったように頬を掻いた。小泉教授と比べて表情豊かであり、暖かみを感じる。
けれども、その顔立ちは確かに小泉教授を思わせるものだった。
「似てます。笑った顔は見たことありませんけど」
蓮子が笑うと、バーテンダーは吹き出して笑った。
「昔はよく笑ってたんですよ。森さんもご存知だと思いますし、それこそ宇佐見さんの家の方もご存知だと思います」
あの宇佐見という呼び方を、森だけではなく小泉兄弟にまでされているとなると途端に不安を覚える。
小泉教授まで、あの宇佐見と呼ばれていた家族のことを知られているのは、恥ずかしいものがある。
今後、どういう顔で彼の下で指導を受ければいいのだろうか。
実家に帰省した時に色々と聞いた方が良いのかもしれない。しかし、蓮子が聞いて、ちゃんと話してくれるだろうか。
急に現実へと帰され、蓮子は溜息をついた。
「私の家族は何をしたんですかねぇ……」
バーテンダーは蓮子の気苦労を励ますように笑った。
エレベーターが戻ってきた。
メリーに肩を軽く叩かれ、蓮子はエレベーターへと乗り込む。
「またお待ちしております」
バーテンダーはドアが閉まるまで頭を下げていた。
エレベーターは地上へと動き出す。
それまで会話に混ざって来なかったメリーが、蓮子のバーテンダーの会話を聞いていた感想を口にする。
「京都って狭いのね」
「こんなに狭いとは思わなかったわ」
森と小泉は同門の出である。
宇佐見も同じ大学を卒業して東京へと引っ越した。
宇佐見は蓮子と同じように物理学を専攻していたような気がする。ということは、森よりも小泉と関係が深い可能性は有り得る。
その頃は小泉は研究に没頭していて、宇佐見と馴染みは薄い。そう思いたい。思わせてほしい。
蓮子は森の家で世話になっており、小泉から多くのことを学んでいる。
どういう縁でそんなことになったのだろうか。
その縁に全力で甘えている蓮子であるが、この先もその縁に甘えることになるのだろうか。
甘えられるのならば甘えたいところだが、その甘えに頼り続けてしまうわけにはいかないような気がする。その縁に甘えられるのは、大学に在学しているまでの間だろう。
大学院に進学すれば、まだその甘さに頼ることはできるかもしれないが、そんな理由で進学を選びたくない。
メリーなどは自分の国から飛び出して、縁も何もない地で学び、暮らし、これからのことについて考えなければならない。
そう思った時、不意にメリーの家族のことが気になった。
蓮子は毎年、夏と冬には必ず実家に帰っているが、メリーは一度もそんなことはない。そして、メリーの口から一度も家族の話を聞いたことがないことも合わせて思い出した。
一人で異国の地で生活しているのだ。
口にすれば、郷愁の一つや二つ感じざるを得ない。話さないようにしているのだろう。
素直な尊敬が、蓮子の口から零れた。
「メリーは、強いわね」
「急にどうしたの? もう酔っ払ったのかしら?」
「至ってしらふよ」
エレベーターのドアが開いた。
ビルのどこかに蝉が止まっているのか、耳を塞ぎたくなるような鳴き声。
時々、鴨川を通った風が小路を通り抜けるが、川岸の暑さをそのまま市内に運んでくるようだった。
ビルの影の中で、メリーが蓮子の顔を見て笑う。アルコールに濡れた声で、普段よりも少し大きな声だった。
「赤いわよ」
「メリーも赤くなってるわよ」
「夏のせいよ」
「それじゃ、仕方ないわね」
蓮子はビルの影から顔を出す。
陽は随分と高い所に昇っており、大学で見た時に比べて眩しさが増しているように見える。青空も負けじと痛いほどに明るく澄み渡っている。
この空のどこかに星があるのだが、弱々しい光は太陽と青空に呑み込まれてしまったかのように、姿を消されてしまった。
これでは、何時か分からない。
きっと、まだ真昼間だろう。
真昼間に随分と高いお酒を飲んだ。
振り返ると、一階で止まったままのエレベーター。看板はいつの間にか店内にしまわれていた。
この地下で、真昼間にだけバーが営業していると言っても誰も信じないだろう。
バーを出たばかりの蓮子も、店内のことが全て幻のような気さえした。
バーでの出来事は、夏の日差しで全てが溶かされた氷のようだった。
氷は瞬く間に液体となり、汗となり、蓮子の頬を伝い落ちた。
アスファルトの上で一点の染みとなる。
「……不思議な体験をしたわね」
「貴重な体験じゃなくって?」
「不思議よ」
秘封倶楽部の二人は、それから今日という一日を雑多な大学生の日常で汚されないように、各々帰路に着いた。
蓮子が玄関を開けても、細君の声は返ってこなかった。
応接間と兼用になっているリビングに顔を出しても、細君の姿はない。冷房の冷たい風が吹いているだけだ。
夏の間はカーテンを閉め切っていて仄かに暗く感じるが、カーテンの奥からは突き抜けてくる強い陽の光が感じ取れる。
リビングの奥は暖簾が掛かっており、冷風を受けて時々、擦れ合う。
その奥には台所。
甘い香りと鼻歌が漂ってくる。
台所には小さな置き時計が置いてあり、刻々と時刻を刻む音も聞こえてくる。
暖簾をくぐると、蓮子よりも小柄な細君の後ろ姿が目に入った。
小さく結ばれたはずのエプロンの結び目が大きく見える。少し癖のある黒々とした髪のように見えるが、所々に白いものが光っている。
時計に目を遣ると、まだ二時を少し回った頃だった。
「ただいま戻りました」
「あら、お帰りなさい。ごめんなさいね、ちょっと手が離せなくて」
細君は眼鏡の奥から涼しい目で蓮子を一瞥すると、すぐに火元に視線を戻した。
帰宅が遅い森を気遣ってかは、軽食を用意しているらしい。
丸い皿に、ドーナツが一つ二つ三つと置かれていく。
「康明さん、お仕事に行ったみたいだけど……蓮子ちゃん、どこかで見かけなかった?」
見かけたことは見かけたし、会って話してもいるのだが、細君に話していいのか分からない。
森がバーに赴く理由を考えると、黙っておいた方が良いのだろう。しかし、黙っておくとなると、忠言を送られるのは森だろう。
蓮子はどう答えればいいのか分からず、困ったような苦しい微笑を浮かべる。
細君は洗い物をしながら、確かめるように訊く。
「蓮子ちゃん、お昼からお酒を飲むのは、あまりおすすめはできないわよ」
蓮子の微笑の内に漂う旧型酒の香りを嗅ぎ取ったようだ。
頬が赤いだけならば、夏のせいにできたのだが。
蓮子は正直に答えた。
「小泉さんにお会いしまして……」
細君は洗い物を終え、蛇口をぎゅっと閉めると、蓮子の方へ振り向く。
蓮子の答えが意外だったのが、その顔には驚きの色が浮かんでいた。柳のような眉を少し寄せて、困惑の色も浮かべている。
蓮子が大学以外で小泉教授と会うことはないといっても過言ではない。
もし仮に会ったとして、杯を共にするというのは避けたい。
小泉教授や蓮子の酒癖が良くないというのではなく、小泉教授はお酒をそんなに飲まない。それに飲むと一層寡黙になる。こちらから話を振っても、短く答えるだけで続かない。
蓮子が辛くなるだけだ。
「小泉さんって、弟さんの方よね? お兄さんの方がお昼から飲むなんて有り得ないし……」
「ええ、まぁ、弟さんの方です」
「ってことは、康明さんもいたのね」
独り言のような声音。細君の頭の中で何がどう繋がったのか分からない。
それから細君は明るい微笑を浮かべて、
「冷めないうちに食べちゃいましょうか」
と、言う。
蓮子の言葉を待たずに、出来上がったばかりのドーナツを盛り付けた皿を持って、リビングへと向かう。
足取りは、軽い。
短い問答の間で、細君は森の所在は勿論のこと、これからのことも分かったようだ。
蓮子は心の中で森に謝った後、せめてもの言い訳を並び立てるように、細君の後ろを追いかける。
「でも、仕事もしてて……」
「知ってるわよ。別に出掛けるのが悪いわけじゃないのよ。問題は、それからよ。それから」
穏やかな調子だったが、これが立腹する手前の細君だと蓮子は知っている。
何が悪かったのか明らかにした後、どうすれば良かったのか詰めてくる。感情的になって責め立ててくるようなことは、しない。
森と知り合い、交際を続けていく間に得た細君らしい能力のような気がしてならない。
細君の怒りは至極真っ当なもので、家に連絡も入れずに飲みに行ったりするのが許せないのである。
仕事に出かけてくる、と言って森が外に行くのを、蓮子も何度か見かけたことがある。そのまま食事の頃になっても帰ってこないことがあることも、知っている。
そういう日しかないのであれば、納得できるかもしれないが、帰ってくる日もある。
食事の用意をしたり、洗濯をしたり、風呂の用意をしたり、日々の家計簿を書き付けるのは細君であるため、そういう生活を続けられると困る。
森としては、そういう日々の計算をしなくても生活ができるほどに蓄えはあるし稼いでいるのだから気にしなくていい、と考えているのだが、細君としてはそういうわけにはいかない。
森の細君は主人に全てを任せて家のことをしない、と噂されるのは堪ったものではない。
日々のことを二人分用意しないと気が済まない。蓮子が来てからは、三人分用意してくれる。
「蓮子ちゃんが帰ってきてくれて助かったわ」
細君はそんなことを言いながら、蓮子を座らせ、皿をテーブルに置いて、冷蔵庫に冷やしていたグラスを取り出し、アイスコーヒーを用意する。
暖簾の向こうから細君が再び現れた時、エプロンを外していた。細君は肌の露出を嫌っており、真夏でも手首まで隠れるシャツを羽織り、丈の長いスカートを穿く。
丸盆を持つ手は、蓮子よりも細くやつれている。骨と皮に、僅かばかりの肉が乗っている。そんな肉体を人に見せるのを、細君は拒んでいる。
冷たいコーヒーを目の前に置かれ、蓮子はすぐにドーナツを齧る。
出来立て熱々で、湯気が立つ。口の中を火傷しそうになって、冷たいコーヒーに手を伸ばす。
細君はわざわざドーナツを小皿に分け、フォークで小さく刻んで食べる。
一口食べ終えて、蓮子は細君に帰省について話す。
「今年の帰省は、ちょっと早めに帰ろうと思います」
「良いじゃない。ご両親も早く蓮子ちゃんの顔を見たいでしょうし」
細君の怒りは落ち着いたのか、普段の穏やかな声音に戻っていた。
森と宇佐見が知り合いであり、細君と宇佐見も知り合いである。
小泉兄弟と宇佐見も知り合いである。
細君の口振りから、小泉兄弟と細君も知り合いと考えて間違いない。
蓮子だけが、その輪の外にいる。
身内に腹立たしいものを覚え、この怒りを早くぶつけたかった。
「小泉さんと知り合いって知ってましたか?」
「……どなたが?」
「家の者が」
蓮子がそこまで話すと、細君は蓮子の心情を気遣うように声を潜めて尋ねてきた。
「え、もしかして、知らなかったの?」
がりっと音を立ててドーナツを齧り、反射的に大きな声を出した。
「今日、教授の弟さんとお会いして、初めて知りました。酷くないですか?」
「それは酷いわね……」
「だから、怒りに帰るんですよ」
「怒ってもねぇ……」
蓮子に同情するような調子。
そんなことない、と否定しようと思ったが、宇佐見の家系は揃いも揃って、怒られることには慣れている。
家の者に怒られたところで、また怒られたな、と思う程度だろう。そういう家系なのだ。
しかし、蓮子は怒りたい。徒労に終わるだろうと分かっていても、怒りをぶつけて、満足したかった。
しかし……。
細君の言葉に同意するように、蓮子は溜息をついてテーブルに顔を伏せた。
それまで冷房の稼働音に負けて聞こえてこなかった蝉の鳴き声が、すぐ近くで聞こえる。通りの木から、庭の背の低い木や壁に移り飛んできたのだろうか。
「誰も話してくれないなんてなぁ……」
拗ねるように呟き、細君を見上げる。細君は微笑を浮かべて、小分けにしたドーナツを食べている。
細君と森が悪いと言いたいわけではない。そういうことは宇佐見が話していることだろうと思っていただろうし、そう言われると蓮子は何も言えなくなる。
何故、家の者は蓮子にそのことを言わなかったのだろうか。
小泉教授の下で学ぶようになったのは、今年度から始まったようなことではなく、蓮子の一つの目標でもあった。言い出せる機会は、去年の帰省や年末年始の時でも良かったのではないか。
「話してくれないんじゃなくて、話せなかったんじゃない?」
細君のフォローするような言葉に、蓮子は素っ気なく答える。
「そんなことないですよ」
「本当に、そう思う?」
念を押されるように訊かれ、蓮子は困った。
言わなかった相手のことを色々と考えるのは、答えのない問題を解かされているようで、あまり良い気分になれない。
しかも、今回は身内だ。
しかし、細君に訊かれると、蓮子の知らない宇佐見を知っているであろう細君に訊かれると、強く言えない。
まるで、宇佐見と小泉の間で何かあったかのような、そんな言い方だ。
「いや、まぁ、色々あったんだろうなって分からなくはないですけど……。何かあったんですか?」
「何もなかったわよ。二人共、そんなことより学問に夢中だったから」
あっさりと教えられ、蓮子は顔を上げてすぐに、ならば何故と思ったが、やがて答えらしきものに辿り着いた。
長々と考えていた自分が馬鹿みたいだ。
呆れたような調子で細君に尋ねる。
「だったら……。あー、いや、だから、か。多分、知らないですよね……?」
細君は苦笑を零して、頷いた。
森や細君や小泉の弟は、小泉と宇佐見のことを認識していたが、小泉と宇佐見は互いのことを知らない。
宇佐見の方は昔は取っ付きにくい人だったらしいと聞いているし、小泉は小泉でこの時から研究や学業に忙しかったと聞いている。
周りから見れば接点はあったに違いないが、当事者同士からしてみれば全然そんなことはなかった。
ただそれだけの話だった。
蓮子は二人に羨ましさを覚えていた。
周りのことが見えなくなるほど夢中になれるものがあり、一人はそれを研究する職に就いている。
この家の主人である森も、学生時代に小説家としてデビューし、在学中に幾つかの賞を受賞した人間である。
森も小泉も学生の頃から自身の才能を遺憾なく発揮し、活動を続けている。
大学卒業が近くなって、就職か進学かということで迷ったことなどないのだろう。
もうその頃には、自分のしたいことやできることが明らかになっていた。
羨ましいと思う一方で、少し勿体ないような気もある。もしかすれば多くの可能性があったのではないか、と思う。
小説家や研究者という以外の道も選べたはずだろう。そんな他の道には目も暮れなかったのだろうか。
きっとそういう他の道を選ばなかったからこそ、今の森や小泉がいるのだと思う。
蓮子は岐路に立ち、優柔不断でいる。
進学したいと思っているが、これはきっと自分がどういう職に就きたいか考えられないために生じているもののような気がする。こういう職業が向いているのではないか、と道を示されれば、それが合っているような気さえする。しかし果たして、そんなふうに就職先を選んでいいのだろうか。
新卒というのものは、大学四年生の時しか用いることのできない。なんとなくで就職先を決めてしまってはいけない。
細君のように専業主婦という生き方もあるかもしれないが、そうなると相手を見つけるところから始めなければいけず、これも就職や進学と同じぐらい難しいだろう。
そういう進路選択を、卒研と同時に進めなければならない。しかも厳しいと噂の小泉教授の指導の下で。
大学三年生までそんなことはなかったのに、四年生になると途端にやらなければいけないことが増えるのはどうにかしてほしい。しかもその間も、普通の講義はあるし秘封倶楽部の活動もある。忙しいことこの上ない。
三年の段階で、就職か進学かを選んでおくだけでも楽になるかもしれない。
しかし、蓮子は未だ決められなかった。
可能であればそういうことは無縁で、まだ大学生という身分を謳歌したい。進学という道を選べば、大学院に籍を置くことはできるが、今のような余裕とは無縁だろう。
蓮子が大学院に進学したとして、メリーも大学院に進学するとは分からない。
まだ京都の町を、メリーと共に歩きたかった。
蒸し暑い夏が終われば、秋を迎える。
外に出掛けやすい時分になる。
蓮子の進路は巡り巡って、結局は保留という何とも情けないところに落ち着こうとしていた。
まだ決めるのは早過ぎるのだ。冬になってから決めても、まだ全然余裕は残されているに違いない。
大学院への進学と就職活動で並行して動くとなれば、夏はあまりに動くのに向いていない。
今はただ、秘封倶楽部の活動について考えておきたい。
秋になってから、どうしようか考えたい。
きっと遅くないだろう。
そう信じている。

 

二 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか

マエリベリーが蓮子に教えられたことが多い。
その中の一つに、秋の過ごし方がある。
この国は、秋の上に言葉を置くことがある。
食欲の秋であったり、スポーツの秋であったり、芸術の秋であったりというように。
秘封倶楽部の秋の活動も、その言葉に漏れることはなかった。
結成最初の秋は食欲の秋。
蓮子もマエリベリーも初めて京都で秋を迎えた時分である。
花より団子の二人であり、日に日に色を濃くしていく楓や銀杏を見上げるよりも、新しいカフェや期間限定のスイーツに目を奪われがちだった。
暴食の限りを尽くし、何故か蓮子の体重だけが秋の暮れに数キロ増えた。
二年目の秋はスポーツの秋。
といっても、蓮子もマエリベリーもスポーツに明るくない。新しいスポーツを始めるには、秋はあまりに短かった。
マエリベリーとしては、別に新しいスポーツができるようになっても全然構わなかったのだが、蓮子としてはそんな気分ではない。
新しい何かを習得する暇や余裕が蓮子にはなかったといってもいい。
蓮子には急務があった。
スカートに乗った余分な脂肪を一刻も早く落とさなければならず、昨年のように悠長な秋を過ごすわけにはいかなかったのである。
京都という町は、北も西も東も山に囲まれている。
その山にはいずれも道標が立てられており、京都一周トレイルと呼ばれるコースがある。
山の最寄りには、電車やバスが走っていたりもする。
行きも帰りも難しくなく、揃えるものもそれ用のシューズ程度だったので、二年目の秋は山に登ってばかりいた。
マエリベリーはこれがスポーツなのか疑問に思っていたが、蓮子の気迫に何も言えなかった。
そうして、春を迎える頃に蓮子の体重はようやく元に戻り、今年で三年目の秋。
――芸術の秋。
だから、マエリベリーと蓮子の二人は、手早く昼食を摂って、大きな赤い鳥居の側にある美術館に来ていた。ここの後に二つの展示を巡る予定だ。
この辺りは、大学に入学する時に来たぐらいで、美術館があるなんて知らなかった。あの時は改修工事中だっただろうか。
通りを向こう側に目を向ければ、図書館があり、また別の美術館もある。あの美術館には行かないらしい。
二人の足取りは、雨雲に追いつかれないように次第に足早になった。
マエリベリーは夏の間に何度かショートカットにしていたが、この頃になると肩まで伸ばしていた。曇天の中を流れる金色の髪を、箒星のようだと言ったのは蓮子だったか。
柔らかな白を基調にした美術館は真新しく、明るかった。
受付を終えて、二階の展示会に向かおうと階段を登っていた時、美術館を包むように広がる大きな窓が濡れていることに気づいた。
夏の頃に京都を襲った激しく叩きつけられる雨ではなく、霧のように細い雨だった。
やむかどうかは分からないが、もしやまないのではあれば傘を持ってきていないので困った。
蓮子はこれくらいの雨だったら帽子が濡れることを気にしないで動くことだろう。
マエリベリーは雨に濡れたくなかった。
だからか、展示されている絵画を一点一点注意深く見ていた。
蓮子は本当に鑑賞しているのか疑わしくなる早さで見て、やはり見ていなかったようで戻ってくることもあれば、回廊の中心に並んで置いてあるソファに腰掛けて休んだりしている。
マエリベリーは何点もの絵画を見て、とある絵画の中心に立った。
この絵画に至るまで、マエリベリーは柔らかな光を見ていた。
連作もあった。どこかの屋敷の池や街を流れる川面や睡蓮。どこかの街で暮らす少女達や労働者達もある。
筆の動きや流れを前面に押し出し、光を表現しようとする画家達の作品を見ていた。
マエリベリーの目の前にある、その絵画は、そんな柔らかな作品ではなかった。
まず作品名が長かかった。それまでの光の歴史に一石を投じるようだった。鑑賞した者に否が応でも哲学めいたものを考えさせる。
三人の女達の一生を描いたかのような、絵画。
それまでの、光を追いかける画家達の作品とは違う、異質と言えるような作品。
展示会は、その女達の絵画で終わることなく、続く。
続いているが、それまでの展示と比べると多くない。何作か絵画を展示しているだけだ。そのどれもが、輝かしい光の絵画とは違う、あの長いタイトルの絵画に近しい作品群だった。
西洋美術史の転換点にマエリベリーは立っているようだった。ここから西洋の絵画は、マエリベリーや蓮子でも耳にしたことある画家が登場したり、分かりにくい多面的な表現を見せてくる。
そうして展示は終わりを迎え、マエリベリー達を現実に帰そうとする。
マエリベリーは蓮子がそうしたように、道順を戻り、あの長いタイトルの絵画の前へと戻ってきた。
マエリベリーも蓮子もこの絵画が示しているように、どこか行かなければならない。
来年には四年生となり、自分の専攻分野を一層深めるために大学院に進学するか、就職するか選ばなければならない。
あるいは全然別の道か。
マエリベリーの学ぶ相対性精神学は、蓮子の専攻している学問と比べると新しい分野である。
相対性精神学には、マエリベリーの瞳に映る結界や境界が大いに関係している。
結界を暴く行為は、本来であれば禁じられている。結界省と呼ばれる行政曰く、均衡を崩す恐れがあるということらしい。
結界を暴くことで、夢と現の境界が曖昧になり複数の現実を持つようになる、という話も聞いたことがある。
複数の現実を手にした人間は、何をどう現実と認識していいのか分からなくなる、ということもある。
数多な現実が増えることで、普遍的な人間の心理状態や精神状態が認識できなくなる、らしい。
つまり、結界を暴くことで人間の精神の均衡が崩れる。
そういう現象が生じ、精神ぼ均衡が崩れた人間が増えると、それまでの心理学や精神医学で扱える範囲や分野では手に負えない部分が増えた。
そうして新しく相対性精神学と呼ばれる学問が増設された。心理学と精神医学がより細分化され、両者の中間の位置しているともいえる。
結界が関わっていることもあり、結界省の面々が、この研究分野の発展に目を光らせている部分があるようで、研究のストップを命じられることがあるらしい。
結界との距離が近過ぎると、そうなるらしい。
結界省曰く、マエリベリー達に求められるものは、普遍的な人間の精神の解明であり、結界を暴くことではない。
しかし、結界の存在により、人間の精神が……と思うのだが、結界省曰く、それはそれ、これはこれというやつらしい。
研究内容に行政が口を挟み、研究に制限が生まれるのならば、大学院の進学よりも就職した方が良いのかもしれない。
マエリベリーは境界が見えるが、普通は見えない。マエリベリーが星を見て時間が見えないように。
マエリベリー以外の人間に、結界や境界は見えない。ゆえに、無意識の間に、人間は結界に触れたり、境界を飛び越える。
マエリベリーの目があれば、そういう結界や境界を無意識の間に飛び越えることを制することができるのではないだろうか。
結界省に就職することができれば、この瞳の強さが遺憾なく発揮されるかもしれないが、危険な橋なことこの上ない。
自分の正体を隠して行政で働くなど、どこかの映画にありそうな物語だ。
マエリベリーはそれほどアクティブではない。
静かに、のんびり暮らしたい。
働くことなく日々の生活を楽しめればいいのだが、そういうわけにはいかない。
蓮子の下宿先の主人である森のように小説を書いて一山当てることができれば、そんな生活を送れるかもしれない。
蓮子に森のことを紹介されてから書店で度々、森の名前が目につくようになった。書店の色々な所に、森の名前を見た。それでも、ああして日々仕事をしている。
創作活動で一山当てるというのは、マエリベリーが思っているよりも遥かに難しいことなのかもしれない。
学生生活を四年で終えるのではなく、五年六年と続けようと言っていた知り合いを思い出す。
マエリベリーはその時、そういうことをせずに四年で卒業した方が良いのではないか、と言ったが、今にして思うとそういう選択もありなのかもしれない。
積極的留年、意識的な休学。そんなことを言っていたような気がする。
学費や生活費に困らないのならば、それでいいのかもしれない。
が、マエリベリーはそういうわけにはいかない。五年、六年と大学生を続ける余裕はない。大学生を続ける余裕はないのだが、大学院生を続ける余裕はあると思えるのは、きっと奨学金のお陰だろう。
今は楽観的に思っているだけで、日に日に減っていく貯金を前にすれば、大学院進学を選ばなければ良かった、と後悔するのかもしれない。
生活のことを考えると、大学を卒業して就職した方が良い。
しかし、そうなると就職先の問題が出てくる。大学四年生という一年全てを、就職活動に注ぎ込まなければならないのは避けたい。
並行して、卒論も書かねばならない。
大学四年生というのは、マエリベリーが思っているよりも過酷になりそうだ。
そしてそれは、蓮子にも同じことが言える。蓮子は大学院に進学する気だが、院試に合格しなければならず、もし受かってなければそこから就活することになるだろう。あるいは、院試の勉強と並行して就活をする気なのかもしれない。
とすれば、秘封倶楽部の活動は、今年の冬で終わってしまうのではないだろうか。
肩を軽く叩かれ振り返ると、蓮子の姿。
思っているよりも見ていたようだ。そろそろ、とその瞳が語っている。
マエリベリーは微笑を返して、展示会の出口へと向かう。
マエリベリーは背中で、絵画に描かれる女の声を耳にしたような気がした。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか……。
マエリベリーは、その哲学めいた問いに答えることはなかった。
雨は、まだ降り続いていた。
勢いは変わることなく、断続的に煙のように降り続いている。蓮子とマエリベリーは、いつやむか分からない雨から逃げるようにバスに飛び乗り、別の展示へと向かう。
大通りを走り、また別の大きな神社へと差し掛かる。敷居の外にまで伸びている楓はその先まで真っ赤に染め抜かれており、朱色の鳥居の前まで何人もの観光客が写真を撮っている。
彼等を背に、バスは別の大通りを曲がり、走る。
雨雲はどこまでも広がっていて、雨はやむことはなかった。
大通りの途中でバスを降り、アーケードの中を少し歩くと、蓮子の影はビルの中へと消えた。
ここで合っているのか不安になったが、ビルの前には確かに、浮世絵美術館とある。
間違っていないらしい。
今度の展示は、浮世絵のようだ。
館内は、先の美術館と比べると広くない。ビルの一角で手軽に気軽に浮世絵を親しめるようにしているようだった。何枚かの浮世絵が飾ってあり、日本語の他に英語の説明もある。
ここでも蓮子の鑑賞のスタイルは変わらない。足早に全てを見て、気になった所に戻る。そんなことを繰り返す。
マエリベリーは何枚かの浮世絵を見ながら、先の美術館での展示を思い出していた。
これらの浮世絵が西洋の画家に与えたものは大きいらしい。
意識して鑑賞してみると、雨の描き方や遠近の扱い方など似通ったものが感じられる。
鑑賞していたが、マエリベリーの心は浮世絵の前と全然違うところにあった。
マエリベリーの心は秋を通り越し、冬にいる。
そうしていずれ聞かされるであろう秘封倶楽部が活動を終える時の中にいる。
秘封倶楽部は、大学のサークルである。
大学の卒業が近づけば、活動の終わりも近くなる。必然であろう。
活動が終わるということは、それは蓮子と過ごせる日が少なくなるということであり、蓮子と別れる時が来ることを意味している。
そういう日が近づていることを、蓮子は知っているのだろうか。
好きなように浮世絵を見て回る蓮子を捕まえ聞いてみたかったが、私語を慎まなければならない美術館では聞けそうにない。
マエリベリーにとって、蓮子の存在は大きい。
秘封倶楽部というサークル活動でどうしてマエリベリーが選ばれたのかは分からないが、そのお陰で大学生活が充実したのは事実だ。
蓮子はマエリベリーにないものを多く持っていて、その一つに行動力がある。
人を巻き込み、引っ張る。そういうことができる。だからか、小泉兄弟がいて、森夫妻がいて、マエリベリーがいる。
そういう蓮子を羨ましくないといえば嘘になる。
蓮子を羨ましく思う気持ちと、この胸にあるものは別だ。マエリベリーは、何度も別れというものを経験している。父母や祖父母との別れと比べて、蓮子との別れは計り知れないものがある。
だから、嫌だった。しかし嫌だと思ったところで、マエリベリーにはどうすることもできない。時が過ぎるのに逆らうことはできず、流されていくしかできない。
訪れる別れに備え、準備を続けるしかない。
次に回る美術館の後で、蓮子に来年の秋について尋ねてみよう。
この国には、秋という言葉の上に別の言葉を置くことが多い。
まだあるだろう。
まだ、蓮子と過ごしていない秋の過ごし方があることだろう。
浮世絵の鑑賞は長くなかった。
蓮子とマエリベリーの二人は、北へと向かう。
雨はまだ降っていたため、バスを使うことも考えたが、地下街を通って、小路に連なるお店の軒を伝い歩き、事なきを得た。
三つ目の展示会は、かつて銀行だった建物で開催されているらしい。
道中、蓮子がそう教えてくれた。
旧銀行だった建物は、他に建っている建物と違い、立派な門扉と煉瓦造りで二人を迎える。
中の空気は乾いているようで、埃っぽい感じがする。
照明はこれまで巡ってきた美術館と比べると少なく、薄暗い印象を懐く。
館内は板張りの広く長い廊下が続いており、蓮子とマエリベリーの足音がカツカツと響いた。
階段があったが危険のため立ち入ることができず、視線で階段を追い掛けると吹き抜けになっており、高いところ広い窓がある。
晴れていれば、そこから陽の光が館内への注がれるのだろう。
廊下の左右には売店があり、展示会に関する書籍やポスタカードなどが売られている。
呼び込みの声に気にかけず廊下を通り抜けると、木のドアが一つ。
ドアを開けると、ぎいっと微かな音を立てる。
中庭が広がっていた。
小さな喫茶店が、芝生の向こうで営業している。
屋根が続いている廊下の向こうには、真新しい建物がある。
博物館はこちらです、という立て看板もある。
博物館は旧銀行に負けない高さと広さを有していた。
白く明るい館内は、旧銀行を通ってきたマエリベリーには眩しく映った。
一階には受付の他にも、常設の展示が開催されており、この街の歴史や周辺の祭を紹介していた。
他の階では、古いモノクロの映画が上映されていることもあるようだ。
二人が見ようとしている展示は肉筆美人画特別展という所にあるようで、エレベーターで上へ。
先の美術館で見ていた浮世絵と同じように見えるのだが、先の浮世絵は版画という手法を用いており、また違うらしい。
肉筆美人画の説明が続き、先の浮世絵の所で見かけた絵師の名前もあった。
この頃になると、マエリベリーも蓮子と同じように一点一点注意深く見るようなことはなく、心持ち早足で見て、気になる美人画で足を止めるという鑑賞スタイルになっていた。
肉筆美人画の数々は西洋の写実的なものと違い、皆同じような顔に見えたが、そういうふうに描かれているものらしい。素朴に感じる。味わい深いというものだろうか。
そうして全ての展示を見て周り、二人はまた旧銀行と博物館を繋ぐ廊下に戻った。
雨は上がっていたが、色の暗い雲は辺りに広がっていて、また降り出しそうな気配。
雨がやんでいる間に各々帰路に着いてもよかったのだが、マエリベリーが拒んだ。
どうする? と言いたげな蓮子の瞳に、少し歩きましょう、と言った。
夏の頃はあれほど暑そうに思えた蓮子は、周囲に秋色が満ちてくると全然そんなふうに見えない。
むしろ、黒い瞳や髪が木の端や染め抜かれた楓と同じ色のように見えて、秋に取り残されるような気さえした。
きっと、マエリベリーの思い過ごしだ。
色々なことを考えて、頭が疲れているのだろう。
甘いものが恋しくなる。
二人は微かな晴れ間を狙って、旧銀行を出て、北へと上る。
街路樹の銀杏はどれも黄色く、風が吹けば雫が落ちてきた。
初めて京都で秋を迎えた時、蓮子と共に足を運んだ喫茶店が近くにある。
こんなところで喫茶店を営業しているのか、と驚いた。
何の変哲もないマンションの一室で、ひっそりと営業されている喫茶店だった。
どうしてその喫茶店を思い出したかのいうと、その喫茶店が、とある小説の題名を店名として掲げており、その小説がとある画家の一生を描いているからだった。
マエリベリーはこの時になっても、やはり、あの絵画に囚われていた。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか――

メリーがその喫茶店の名前を口にした時、蓮子は少なからず驚いた。
他の喫茶店より静寂に包まれていて、話しづらい喫茶店だったから。
三つの展示会をはしごした感想を言い合うと思っていたので、店に迷惑になるのではないか、とわずかながら不安を懐いた。
しかし、季節のフルーツが挟んであるケーキセットが美味しかったり、モンブランが上品な甘さをしていたり、チキンサンドイッチやクロックムッシュが小腹を満たすのに最適だということも知っている。
蓮子の腹の虫は、あの喫茶店の美味しさを覚えていた。
空腹を覚え、少し早足になる。
昼食を食べてから三つの展示会を巡り続け、一度も休憩していない。本来ならば一つ目の展示の後で近くの喫茶店で話し合う予定だったのが、雨に背中を押された。
おやつの時分には少し遅い。
空腹を覚えるのは当然で、普段よりも一つ二つ食べても許されるだろう。
今日は色々な絵画を鑑賞して、頭は糖分を欲している。
腹回りや背中や二の腕に肉が増えることはない。そう、信じている。
その喫茶店は、初めて足を運んだ時と変わらず、マンションの二階で営業していた。
階段の前に小さな看板を出していなければ、気づけないほど日常の中に溶けこんでいる喫茶店。
ドアの前には営業時間が書かれた紙が貼られており、鍵はかかっていない。
店内は初めて来た時と同じように静かで、一人客が多く、各々店内に置かれている本を読んだり、持ち込んだ本をに視線を落としている。
コの字型のキッチンスペースを囲むように大きなコの字型のカウンターが壁に引っ付いている。
カウンターには何冊もの本が並んでおり、翻訳された小説もあれば原書もあったり、美術館で見かけた書簡集なども置かれている。
蓮子とメリーの二人は他の客を邪魔しないように店内の最も奥に腰掛けた。
蓮子がモンブランとプリンとホットコーヒーを頼んだが、メリーはダージリンを頼むだけだった。
一年生の秋に蓮子だけの体重が増えたのは、こういうところが原因なような気がしてならない。
注文した物が届くよりも早く、蓮子は素直な感想を口にした。他の客を邪魔しないように微かに声量を落として。
「いやぁ、どれもよく分からなかったわね」
「そう? 私はどれも楽しく鑑賞できたわよ」
メリーは蓮子のような鑑賞態度とは違い、一作一作をじっと見ていた。
展示会の最中に小さな声で、何をそんなに見ているのかと訊いた時、筆の運びや色合いと教えてもらったが、蓮子にはよく分からなかった。
「なんだかどれも朧げで各々の印象を描いているようで……。私はやっぱり、明暗のはっきりしている方が好きよ」
「来年はそれを観に行く予定かしら?」
「来年は別の秋にしましょうよ。絵画は懲り懲りだわ」
蓮子は疲れたように息を吐くとメリーは微笑を浮かべる。
「飽きっぽい蓮子らしいわね」
蓮子が絵画の鑑賞に向いていないのは、この瞳が時折邪魔をするためだった。
絵画に描かれた月は否応なく蓮子にその場を教え、星はその時を教える。
蓮子の頭では月と星を認識できなくても、この瞳は的確に見抜くのだ。
だから芸術の秋は今年というか今日で終わりにしたい。
秋には他の楽しみ方があるのだ。
「次は読書の秋かな……」
「先に楽しんでも良いわよね?」
「それじゃ、今年は芸術と読書の秋かしら?」
「それじゃ来年はどうするのよ?」
「それはそれ、これはこれよ」
「便利ね、その言葉」
「でしょ? メリーも使っていいわよ」
蓮子達の席の周りに置いてある本は、先の美術館で展示されている画家達の本が多かった。
その中に、喫茶店と同じ名前の本がある。店の者が手書きで書いたポップも。
メリーの手が喫茶店と同じ名前の本に伸びたので、蓮子は隣に置いてある書簡集を手に取った。
一つ目の展示会で、メリーは熱心にその絵画を見ていたことを思い出した。蓮子は何だか野生的な死の香りを感じ取って、あまり好きになれそうにない作品を。
「気に入ったの?」
「そういうわけじゃないわよ。ただ……」
「ただ?」
「考えさせるタイトルをしていたじゃない」
「我々はどこへ行くのか……だっけ?」
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか、よ」
「随分と哲学的よねぇ……。そんなタイトルつけなくてもいいのに」
「私達らしいじゃない?」
「そんな真面目に考えてないわよ」
「そう?」
「……多分」
メリーにそう言われ、自信なく答える。
今年の夏の最後に、小泉教授から言われた言葉が蘇る。
進学か就職かで迷っている蓮子に、小泉が具体的な月日や数字を出して、どのように動いた方がいいのか教えてくれたのである。
八月に院試があり、九月には合否発表がある。
蓮子は自身の在籍している大学の院に進学する予定の、所謂内部進学を予定している学生。そのため、過去問も入手しやすく、院生からのアドバイスもある。面接も小泉を初めとした見知った顔の者達で行うのでそう緊張する必要はない。らしい。
大体、五月頃から院試対策に取り組めば良いとのことだ。十年分ぐらいの過去問が全て解ければ、十分だろうと小泉は教えてくれた。聞いたことがない年数の過去問に、蓮子は絶句した。蓮子の反応を見て、小泉は、六割程度取れれば、合格ラインに届くとも教えてくれた。
蓮子達内部進学組は、他の大学から小泉の研究室に進学を考える外部進学組と少ない椅子の取り合いになる。先輩の院生からは、専門の勉強も大事になるが英語で足切りになる可能性が高いので、英語の勉強も怠るな、と忠告された。
院への進学には内部推薦があるらしく、これに選ばれると面接が免除される。蓮子としては内部推薦に選ばれれば、合格まで確約してほしいが、そういうわけにはいかないのだろう。
就活を院試と並行に行うつもりならば、今の段階からぼんやりとでも希望する職種を選び、三月頃の企業にエントリーシート提出をどうか、と教えてくれた。蓮子が暑さで体調を崩したり実家に帰省していた――小泉のことを尋ねると、誰? と言われたのには驚いた――頃に、外資系などのインタータンに参加した学生もいると知って、目を白黒させたのは記憶に新しい。
蓮子の大学生活は、三月は就活に染まり、五月からは院試対策と混ざり合う。明暗のはっきりと分かれた絵画が好きなように、多くの色が混ざり合うのは蓮子の好みではない。
また、蓮子は可能な限り、学生でありたかった。モラトリアム期間は長ければ長い方が良い。
社会に出るのは、まだ早い。そう思っているのはきっと、蓮子だけではないだろう。
蓮子は社会に出て働くというより、この世界のことが知りたい。
この世界の力について知りたい。
宇宙を含めた世界について知りたい。
世界にはかつて、三つの力があった。電弱、強い力、重力。
蓮子が生まれるよりずっと前の時代には、電弱というのは、電磁気力と弱い力というのに分けられていたようだが。
この電磁気力と弱い力を統一したように、他の力にも統一の考えを押し広げていき、どれほどの年月を要しただろうか。大統一理論というのが、かつてあった。
統一が難しかったのは、重力のせいだと言っても過言ではない。重力だけが、一般相対性理論の言葉で表現されているためだ。
用いる言語が違えば、統一はできず、どちらかないし双方の理論を見直す必要がある。
その理論の見直しに、超弦理論と呼ばれるものがあり、小泉や蓮子の研究している分野である。
超弦理論は、一般性相対性理論で記述される重力を、量子学的な記述しようとする学問であり、重力の量子化に成功した。
これも蓮子達が生まれるより前の出来事であり、その時は歴史的偉業だったらしい。
この偉業により、場の力は超弦によって統一された。
蓮子が専攻している分野はそんな分野のことであり、大学を卒業して全然関係ない職に就くというのは想像しづらい。
「蓮子、冷めるわよ?」
メリーにそう声をかけられ、いつの間にか頼んだ品物が置かれていることに気づいた。メリーは紅茶を片手に文庫本に目を通している。
遠い未来のことを考えるのをやめて、ケーキを片手に本に目を通す。
展示会では生前売れない画家として紹介されていた彼だが、弟に金のことを頼んだり、自分の作品が売れるにはどうすればいいのかよく悩んでいる。
彼の描く向日葵と別の画家が描く睡蓮は、多くの人を呼び、その絵の前に立ち止まらせた。
そういう画家である彼は生前では売れない画家であったというのは、蓮子からしてみれば意外だ。
この画家とメリーが気になった作品の画家と関係があったのも意外だ。
「……意外ね」
漏れた感想は、メリーの耳に届いたように訝しむような視線を向けられた。
「どうしたのよ急に」
「この画家とメリーが好きな画家が関係があったってこと」
「別に好きなわけじゃないわよ……。蓮子、やっぱりしっかり展示見てなかったのね。二人のことはちゃんと書いてあったわよ」
「え、嘘。どこに?」
鞄から美術館で貰った資料を手に取ってみるが、どこにもその記載はない。
展示してある絵画の名前が並んでいる資料にも、そんなことは書いてなかった。
メリーの指が、このあたりよ、と教えてくれる。終盤に飾られていた絵画の所のようだ。
蓮子はその辺りの絵画は、メリーの言った通り、あまり見ていなかった。蓮子の趣味と合いそうになかったから。
「この辺り、難しそうで」
「そうね、私もこの辺りから絵画っていうのが分からなくなってくるわ……」
画家が作品で何を表現したかったか、作品を鑑賞しても書簡集を読んでも、蓮子には全然分からない。
我々はどこへ行くのか、と問うた画家も、同じような気持ちだったのかもしれない。
多くの表現技法が生み出され、多くの作品が描かれ、芸術というのが果たしてどこへ行くのか。
どこかへ行こうする芸術は何者なのか、そしてどこへ帰るのか……。
一つの問いに、思考は連綿と紡がれる。
嫌いなことではないが、可能であればもっと別のことに思考を割きたい。
統一された力をどう扱い、宇宙をどのように発見していくのか、などということに。
そういうことを考える癖が出来ているあたり、蓮子の道はやはり就職ではないようだ。
本を元の場所にしまい、蓮子はメリーに力強く宣言する。
「メリー、私、決めたわ」
「一体どうしたのかしら? 今後の活動のこと?」
「院に進学するわ」
「……まだ迷ってたの?」
蓮子の力強い宣言を裏切るように、メリーは呆れたような弱々しい声で訊いてきた。
メリーの中の蓮子はもう院への進学を決めているようだが、そんなに気楽に決められれば苦労しない。
「当たり前じゃない。新卒っていうカードは一回しか使えないんだから」
「それだけ?」
「そうよ」
「もっと他に悩むこととかないの……その、就職先とか?」
「沢山ないから……」
院進を宣言した同じ口から発せられたとは思えない覇気の乏しい声が、蓮子の口から出た。
「そんなことないんじゃない?」
「理系だから……と就職が不利になる世界がこの世には存在するのよ」
全然関係ない就職先も選べるかもしれないが、物理学科の学生を採用するかとなると難しくなるだろう。加えて、蓮子の専攻している研究は、実用性が低い。採用数が限られている枠に、そんな学生を採用したいか、と考えると……。
「蓮子は進学かぁ……」
「その口振りから、メリーは就職かしら?」
「まだ悩んでいるけれど、私はそんな進学してまで学びたいことないのよねぇ」
メリーの専攻している相対性精神学というのは、蓮子の専攻している分野よりも新しく、若いと教えられている。
結界というのがいつ頃生じたのかまだ分かっていないが、そういう現象と繋がりがある学問である。
蓮子が統一された力で世界を考えているように、メリーの修める学問は人間精神の統一を考えているのではないか、と思う。
人間精神の統一が明らかになれば、結界により均衡の崩れもなんのそのだ。
世界に存在する力が統一され、人間の精神も統一されれば、一体どうして均衡が崩れようか。
完璧な世界の出来上がりである。
夢のある学問に蓮子は感じるが、メリーはそうとは思っていないらしい。
「面白そうと思うわよ、人間の精神も」
「結界が関わるじゃない。研究をしようにも結界省の顔色を伺わないといけないわけ」
「それは嫌ね……」
「時々聞くのよ。研究がストップになったって」
「結界省から止められたってこと? 学問の自由を侵害してるじゃない」
「私も詳しくは知らないけれど、噂であるのよ。そんなことが。でも、結界省は管轄外なので、って」
蓮子達が力の統一で四苦八苦していた頃と同じように、結界と人間精神について論じられいたことがあるのだろうか。一つの学問として大学生である蓮子達が結界について知れるようになったのには、多くの時間を要したことなのかもしれない。
メリーの学問はその内、人間精神を離れ、結界そのものに近づくような気がしてならない。物理学者が力から宇宙について考えたように。
しかし結界となると行政が黙っていないだろう。
結界の境界が見える女性学者が、政府を敵に回し、世界の秘密を暴く。
大作映画にありそうな設定だ。見てみたい。
「映画みたいね」
突拍子のない蓮子の発言に、メリーは笑って訊く。
「人の話、聞いてた?」
「聞いたわよ。メリーが結界の秘密を暴くんでしょ?」
「その時は一人でやってちょうだい」
「私一人だったら、何もできないわよ」
「秘封倶楽部の最後の活動は、この世の結界を暴いておしまいかしら?」
「オカルトサークルらしい終わり方じゃない。する?」
「しないわよ、そんな危ないこと。蓮子はしたいの?」
この世界の結界を暴けるのならば暴いてみたい。そして、その先に何があるのかも気になる。
気にならないと答えてしまえば嘘になる。
蓮子は正直に小さな声で答えた。
「……ちょっとは」
「流石、不良サークルのリーダーは違うわ」
「メリーはこの世の秘密を暴いてみたくないの?」
「ないけど」
「秘封倶楽部の一員なのに?」
「私は平穏で安らかに暮らしたい秘封倶楽部の一員なのよ」
そんな他愛のない話に花を咲かせていると、雲の切れ間から陽の光が注がれたのか、店内は茜色に染められた。
蓮子は目を細め、窓を見上げると伝票を手にして、メリーを静かに促した。
メリーは意外そうに笑った。
「別でもいいのよ?」
「遅れたから」
「てっきり忘れていると思ってたわ」
小言を言われながら、外へ。
街路樹の銀杏の向こうから、西日が射し込む。
あれほど分厚く町を支配していた雲は流れ、今では陽の周りに何条かの細く薄い雲が見えるだけだ。
「晴れて良かったわね」
雨が上がらなかったら、蓮子は困った。
雨に濡れた足で、森の家に入るのは好まないし可能であればすぐに風呂に入りたい。
「雨の中、帰るのは嫌なのよねぇ。すぐお風呂に入りたいけど、そういうわけにはいかないし」
「下宿って、そういうところ不便そうね?」
「多分、二人が長いのよ。先生はお風呂で色々考えるし、奥さんは半身浴でのんびり派だし。そこに鉢合わせるなると、まぁ……」
「一人暮らしはしないの?」
「料理は勝手に出てくるし、洗濯も掃除もしてくれるしなぁ……。一人暮らしは全部自分でしないといけないでしょ?」
「洗濯以外は何とかなるわよ」
「本当?」
「配食サービスとかあるし、掃除はロボット任せよ」
「……その手があったわね」
メリーは蓮子が思っているより、余裕のある一人暮らしをしているようだ。
高校最後の年にそういう情報を集めていれば、一人暮らしも全然可能だったのかもしれない。と思ったが、家賃を思い出し、我に返った。
「家賃がね……。電気代とかもあるし、水道代もあるし……」
そう蓮子が漏らした時、メリーは大声を上げた。
「支払ってないの?」
「違うの、メリー。違うのよ。聞いて。受け取ってくれないの」
「受け取ってくれないってそんなことある?」
「あるのよこれが」
大学に入学して間もなく、森の家に下宿するようになった頃、蓮子は家庭教師のアルバイトをしていたことがあった。
給料を、家賃として森と細君に渡したことがあるのだが、寿司になったり、蓮子が欲しかった書籍になったり、実家への帰省の際の交通費になった。
「院生になっても、下宿する気?」
忠告のようなメリーの言葉に、蓮子は素直に答えた。
「さっき決めたことだから、まだ話してないわよ」
「あなたって本当にズレてるわよね」
「メリーは真面目ねぇ……」
院生になっても、下宿を続けるのかどうかと問われると、きっと下宿するだろう。
大学院生は大学生よりも時間と金を必要とする。生活にゆとりがなければ続けられない。研究が上手くいかない。
一人暮らしをする新しい物件を見つける時間よりも、研究に集中したい。
森夫妻にはまだ話していないが、きっと許されるだろう。
許されないとすれば、どうしたものか。
院への進学を心に決めたが、済まさなければならないことがいくつもある。
森夫妻のこともそうだし、秘封倶楽部のこともその一つになると思う。
蓮子は院へ進学し、メリーは就職する。
となれば、秘封倶楽部の活動は、終わりを迎える。
秘封倶楽部は大学のサークルであり、蓮子とメリーしか所属していない。
蓮子が勉学に集中する五月頃から、秘封倶楽部の活動は停滞するだろうし、メリーは説明会やら何やらで忙しくなることだろう。
大学卒業の頃には、秘封倶楽部は自然と消滅しているかもしれない。
そんな未来が近づこうとしている。
そんな未来を描くと、急に胸に穴が空いたような感覚に襲われる。
秋は寂しさの季節だと表現したのは、昔の中国の詩人であっただろうか。
この胸の穴は、きっとその、寂しさというやつだ。
夜へと近づく京の町は、寒々と感じる。
旧銀行を通り過ぎ大通りに出て、オフィス街を下る。
コートの襟を少し立てた者とすれ違う。地図を片手に歩く若者達とすれ違う。
皆、一様にどこかへ向かおうとしている。
蓮子もそのうちの一人だ。
空は辺り一面、夕焼けで、星も月も見えない。
どこにも蓮子に、時と場所を教えるものが広がっていない。
蓮子はメリーの手を取った。
蓮子と同じように冷えた手であったが、冷たさの内に少しながらの温かみを感じる。
「蓮子?」
不意なことに、メリーから気を掛けられる。
「……私達は、どこへ行こうというのかしらね」
感傷的な言葉のような気がした。
きっと、秋のせいだ。きっと、昼に見たあの絵画のせいだ。きっと、院へ進学することを決めたせいだ。きっと……。
数多のきっとの中で、蓮子はそのことを考えないようにしていた。
メリーと離れるということなどは。
握った手を包み込むように、メリーが手を握り返していた。
少し震えているように感じたが、さっき吹いた風のせいだろう。
「大丈夫よ。どこにでも行けるし帰ってこれるわよ。蓮子、知ってる? 京都って案外、狭いのよ」
強かなメリーの言葉は、蓮子の胸の内に生じた寂しさを吹き飛ばすほどだった。
安堵したように蓮子は笑った。
「そうね。ありがとう、メリー」

下宿先で夕食を摂り、そのまま風呂に入った。
湯船に浸かって、森とどう話すのかそんなことばかりを考えていた。
食事の時でも、色々と考えていたのが細君と森にも伝わったようで、体調を問われることがあった。
風呂から上がり、細君に森の所在を尋ねると、書斎にいると教えられた。
仕事でもしているのだろうかと思いながら書斎を訪れると、全然そんなことはなかった。
森の書斎は和室で、部屋の真ん中には大きな黒檀の机が置いてある。
居間やキッチンと比べると少し暗く圧迫感を覚える。
きっと、机を囲むように並んでいる本棚や畳に積まれ、足の踏み場だけは残されているであろう本の山のせいだろう。
机には原稿用紙や万年筆や毛筆が並べられ、読書灯の周りには何冊もの本が乱雑に積まれている。辛うじて作られたスペースに丸盆と灰皿。丸盆の上には、ビールの瓶と冷えたグラスが置いてある。
窓が開いているのか、虫の鳴き声と共に夜風が入ってくる。
森は蓮子が入ってくるのを見るとビールを飲む手を止めて、蓮子の座れる場所を作る。
畳の上に置かれた本の山を崩すと座布団が出てきて、蓮子の前に置かれる。
机の奥に戻ると、蓮子を気遣うように微笑を零す。
「何かありそうって顔だな」
「そんな顔してるように見えます?」
「……あぁ、見える。悩める大学生をしてるよ。お前」
風呂上がりに鏡で自分の顔を見ていたが、そんなふうには見えなかった。しかし、森にそう言われるとそんな気がする。
事実、今の蓮子は悩める大学生をしている。院進は決めたが、そこに至るまでにやらなければならないことがある。
「大学院に行こうと思うんです」
蓮子が切り出すと、森はそれまでの微笑を崩すことなく少し驚いたように言う。
「まだそんな時期じゃないと思うが?」
「教授に急かされまして」
「小泉に?」
「ええまぁ」
「それで、院か?」
何かを確かめるような森の問い掛けに、蓮子はすぐに本音を口にした。
「いや、そういうわけじゃないんです。もっと研究がしたくて。それで、もう少し、この家に置かせていただけないでしょうか?」
「良いぜ。好きに使えよ」
森の答えは早く、簡素だった。
だが、その答えに違和感を覚えたのは誰でもない蓮子自身だった。どうしようもない疑問が、蓮子の口から滑り落ちた。
「……どうして?」
「何がだ?」
「断ってもらっても良いんですよ」
「断ってほしいのか?」
森は蓮子の疑問を跳ね返すように笑う。断ってほしいのかと改めて問われると、そんな気は全然なかった。
ならば、どうしてそんなことを言ってしまったのかというと、蓮子にもよく分からなかった。ただ、ただそうして森の厚意に甘え続けるのは、良くないような気がしてならなかった。
蓮子の周りにいる大学院生は、研究は勿論のこと生活の上でも苦労している。
幾つかの奨学金を借り、アルバイトをしながら一人で暮らしたり寮で暮らしたり実家で生活を続けている。
そういう院生に比べて、蓮子は生活上の苦労を知らずにいる。
実家の仕送りだけで生活を続けられる。そのまま院生になってしまって良いのだろうか。
「そういうわけじゃないんです。ただ……ズルくありませんか?」
「ズルいって何がだ? 実家からの仕送りがあって、人の家に世話になっていることが、か?」
「えぇ、まぁ……」
「思い過ごしだ。苦学生になったらなったで、お前は恵まれた奴を口汚く罵ろうとするよ。あるいは、羨ましく思うさ」
否定しようと思ったが、否定できなかった。隣の芝は青く見えるというわけではないと思うのだが。
「お前は、不安なだけだよ。何の成果もない学生が恵まれた環境にいていいのだろうか。そう思っているんじゃないか?」
「そう、かもしれません……」
「俺は、良いと思う」
森に認められても、蓮子は釈然としない。森と蓮子は宇佐見で繋がっており、完璧な外部者ではないからだろう。
「私が宇佐見だからですか?」
「宇佐見じゃあろうとなかろうと、関係ない。恵まれた環境は大事ってことだよ。何をするにもまずは自分の生活を整えないと何もできない。何らかの縁であろうと使えるものは使った方がいい。あの小泉だってな」
「教授がですか?」
学生の頃から研究を続け、研究以外何もないと思っていた小泉が、使えるものを使っていると思うと不思議な気持ちを懐く。
森は紫煙を吐き出すと、小泉との過去を話す。
「あいつ、よく仕事で海外に行くだろう。何ヵ国かの後、連絡が来た。編集を紹介してほしいってな。訳を聞くと、書き溜めた原稿があるから使えないか、と。俺はこういう仕事をしている手前、まぁ知り合いが多い。何名かの編集は原稿を欲したよ。若き天才研究家が、何を考えているのか、ってな。研究以外できることはないって言っている奴が何を考えているのか、その人間性は少なからず注目される。結果、書き溜めた原稿は雑誌で連載され、何冊か本を出せるようになった。講演や講義も、だ。だから、お前も使えるものは使っていいんだよ」
そんな天才と比べられてもと蓮子は思ったが、小泉のように才能に溢れた人間でも使うものを使わないと生きていけない世の中なのだろう。そう思うと、蓮子の悩みなど途端にちっぽけなものように感じられた。
「奥さんは良いって言うんでしょうか……?」
森の承諾は容易く得られたが、蓮子の暮らしは細君に支えられていると言っても過言ではない。掃除から洗濯から食事まで、家の世話は全て彼女に任せている。
森が良くても、細君に拒まれる可能性が残っている。
森は空いたグラスにビールを注ぐと、一気に飲み干した。
「……宇佐見、この家広いだろう?」
「ええ、まぁ広いですね」
一階は二人の仕事場として活用されており、夫妻と蓮子の寝室は各々別で二階にある。
それでも部屋が余っているようで、蓮子は寝室の他に自室も用意された。
二人で暮らすにはあまりに広く、贅沢な家のように思われた。
森の声が、沈んだ。
「本当ならな、四人で暮らす予定の家だったんだ。でもまぁ、二人は産まれてこなかった」
蓮子は息を呑んだ。
そんなこと、誰も話さなかった。森は勿論のこと、細君も、蓮子の家の者も誰も話してくれなかった。
森の告白は続く。
「何が悪かったのか、何も分からない。もしかすれば、誰も何も悪くなくて、そういう次元の話ではないのかもしれない。……それでも、二人のことは、少なからずあいつにのしかかった。そんな折りに、宇佐見から連絡があった。お前のことで。二人で暮らすより三人で暮らした方が、きっとまだ良いだろう……」
蓮子は言葉を失い、ただただ頭を下げた。森の自嘲めいた言葉が頭上から降ってくる。
「顔を上げろよ。ただの酔っ払いの昔話だ、忘れろ。明日には俺も覚えてないから」
蓮子は顔を上げ、訊く。
「もし覚えていたら、どうしたらいいですか?」
「どうもしなくていい。普通にこれまで通り暮らしたらいい。それが一番だよ」
随分と無茶なことを言うものだ。
蓮子の調子は、森に誘われたように低く沈んだ。
「でも、奥さんは……」
「時間が解決してくれたよ。お前は試験に集中しろ」
話を蓮子の進路へと戻され、素直な感触を口にする。
「合格できますかねぇ……」
「勉強するしかないだろ」
「正論やめません?」
「お前のとこ、内部推薦とかないのか?」
「ありますけど、面接免除だけですよ」
「それじゃ、筆記だけに集中できるじゃないか」
「推薦される前提で進めてます?」
「……良くないのか成績。小泉に教わってるんだろ?」
「いや、悪くはないです。悪くはないんですが……良いというわけでもなくて。いやまぁ良いんですが」
単位も取れているし、成績の平均は三を下回ったことがない。もう少し学業に打ち込めていれば、四に届く可能性もあったかもしれない。
自分で言うのもあれだが優秀な学生だと思う。ただだからといって、内部推薦を受けられるかとなると難しくなる。受けられると思うが、推薦に選ばれるかどうかは分からない。
「良かったらやればいいじゃないか」
「先生も教授も自分の優秀さを利用するんですね」
「早期卒業してる奴と一緒にしないでほしいね」
「は?」
素っ頓狂な声が蓮子の口から出た。
早期卒業というシステムがあることは知っているし蓮子の通う大学にも導入されている。が、誰も使わないとばかり思っていた。
自由な校風を謳う大学側が用意した、名ばかり制度の一つだと思っていた。
一年早く自身の研究に時間を注ぎ込めるメリットがある。
しかし、卒論を半年かそれくらいで用意しないといけないとなることや四年生の時に必要な単位を三年生の時に取らなければいけないなど時間が足りないデメリットの方が多いのではないだろうか。
早期卒業の申請は三年生の履修登録の際にしかできず、つまりその段階で将来設計をできているということだ。
「え、いや、できるんですか?」
「やった奴がお前のところの教授なんだよ」
「……なんでやったんですか?」
「訊かなかった。というか、平然と、まぁやるだろうなって納得したしな。その話を聞いた時」
「先生と教授って中々に情が薄いですよね?」
「分野が違うからな。そうそう話せる間柄じゃない」
今年の夏に進路を問われた意味がようやく分かった。
もしあの時、院進すると答えていれば、早期卒業するという流れで話が進められたのだろうか。
冷たい汗が背中を伝う。
そんな小泉と比べると四年で卒業した森は蓮子に近いような気がする。気がするだけで、森は森で学生と作家という二足の草鞋を履いているし、そっちの方が難しいのではないか、と我に返る。
森が煙草を揉み消し、蓮子に訊く。
「それで、相談は終わりか?」
「後、一つ……」
まだ訊きたいことはあった。
訊いてみたいのだが、森で解決できるとは思えなかった。森の学生時代は本人も度々話すように作家業と共にある。大学を最後に別れる友達のことを気に掛ける余裕が、森にはあったのだろうか。
「先生は学生の時に友達いましたか?」
「……それは流石に失礼じゃないか? 小泉も宇佐見もいるんだぜ?」
「友達なんですか?」
「俺はそう思ってる……まぁ他は就職とか結婚とかで離れたりしたけどな」
「やっぱり、そういうものですよねぇ」
この大学でのサークル活動を始めたのは、蓮子である以上、そのサークル活動の終わらせ方を決めるのも蓮子の役目のような気がする。
しかし秘封倶楽部は蓮子とメリーの二人しかいない。となれば、メリーと話してどうするか決めた方が良いような気がする。
メリーと離れたくないと思うが、大学を卒業してしまえば今のように会うのは難しいことだろう。
メリーがどこに就職するか分からないし、もし国外となれば一層難しくなる。
メリーを引き留められるほど、蓮子のエゴは強いのだろうか。
昼間に観に行った展示会の画家達を思い出す。共同生活が上手くいかなかった画家達のことを。
蓮子とメリーは同じところで住まうわけではないので、あの画家達のようなことは生じないだろう。
けれども、蓮子とメリーの道はこの先同じではない。蓮子は大学院に進学し、研究に一生を注ぎ込むだろう。メリーは大学を卒業し、どこかへ就職し働くことだろう。
秘封倶楽部の活動は、きっともう少しで最後だ。
浮かない顔をしていたのだろうか。
森は優しい言葉をかけてくれる。
「お前が京都に居るなら、そういう心配はきっと杞憂に終わるさ」
「そうですか?」
「どこかへ行っても、帰ってくる場所があるのは良いことだよ。迷わず帰ってこれるから」
「私はそのどこかへ行ってしまう側ですよ、きっと」
「だったら、ちゃんと帰ってこれる場所を作った方が良い。俺は家庭があるし、小泉は……あいつは後進育成中か」
そういう場があれば、蓮子の胸に生じた穴は埋められるのだろうか。去年や一昨年の秋には覚えなかったこの寂寞(せきばく)が、埋まるのだろうか。一過性のものであってほしいが、冬を迎えて埋まるとは考えにくい。冷たい風が通り抜けるばかりだろう。
蓮子の院進もメリーの就職もこの春に始まるわけではない。
一年先の未来である。
しかし、もう、一年先の未来であった。
メリーの目を頼りに結界を飛び越えて、どこかへ行ってみたいなどと考えたが、きっと蓮子の気の迷いが生み出した妄言の類だ。そういうことをするぐらいならば、院進を決めた時のように覚悟を決めた方が良い。
別れの覚悟を決めるには、まだあまりにも早過ぎた。
秋が終わり、銀杏や楓の葉が落ち、通りを色鮮やかに染め、やがて冬が訪れる。それから、春が来て、心苦しい夏に支配される。
時は長いようで短かったが、蓮子の決意を揺るがすには十分に長かった。
この決意は、きっと蓮子一人で決めていいようなものではないだろう。
メリーと二人で話し、決めなければならないことだ。
「これから帰るのが遅くなると思います」
「ああ分かった。薫さんには、俺から言っておく」
書斎を出ようとして、背中に声をかけられた。
「宇佐見、後悔しないようにな」
夏の研究室で、小泉からも似たような言葉をかけられたことを思い出した。森の言葉の響きが、小泉のそれと似ていた。
書斎に戻って、訊こうか迷ったが、蓮子は振り返ることなく書斎を出た。

 

三 裸の付き合い

空の桶が水色のタイル張りの床に落ち、高い音を響かせる。
マエリベリーは広い湯船の中から、鼻唄を零しながらのんびりと身体を洗う蓮子の細い背中を見ていた。
マエリベリーと蓮子の二人しかいない風呂場は、とてつもなく広い。備え付けられているサウナ室で横になるなんてこともできるかもしれない。
天井は家の風呂場と比べものにならないほどに高く、もうもうと湯気が昇る。
マエリベリーが背中を預ける壁には、かつて見た浮世絵の山がそっくりそのままペンキで描かれている。
蓮子に教えてもらったことだが、どこの銭湯もそんなふうにペンキで描いているようだ。
実際、どこの銭湯にも、こうして同じように山が描かれており、番頭曰く縁起物らしい。
蓮子とマエリベリーは、街路樹の葉が落ち、細い枝を晒す頃になると銭湯に足を運ぶことが増えた。
一昨年も去年もそんなことをしている。
それも、昼間に。
試験とフィードバックに頭痛を覚える二人は、手軽に気軽にリフレッシュを求めた。
銭湯が選ばれたのは安く、大学から帰る頃には営業しており、家に帰るまでにしっかりと身体を温められ、リフレッシュをして帰ることができたから。
しかしこうなると、秘封倶楽部のアクティブ派の蓮子は、大学側の銭湯だけでは満足しなくなった。というか、大学近くの銭湯が休みの日だった時に足を運ぶ銭湯を増やす必要があった。
銭湯に通うようになったのは一年生の時。すなわち秋に増えてしまった蓮子の体重を減らす時期であり、大学近くの銭湯に通うだけでは消費カロリーは増えず、足を伸ばして、汗を流さねばならなかった。
そうして何軒もの銭湯が開拓され、翌年もその次の年である今年も、こうして銭湯に通うのが日課になった。今年は一昨年や去年と比べて院試対策や就活があり、一層頭痛を覚えるようになった。
マエリベリーは冬のインターンシップで京都を離れる時などは、その土地の銭湯を探したりもした。
開店間もない銭湯には客が少ないことがあり、今のように蓮子とマエリベリーの二人しかいないことも多々ある。
今年のマエリベリーは、この銭湯通いに、ある安堵を見出していた。
蓮子が院試の対策を講じるように、マエリベリーも就職先を見つけるために動かなければならなかった。
マエリベリーの就活スタートは、少し遅いようだった。真面目に就活に取り組んでいる学生は、夏の間に長期のインターンシップに参加していると教えられた。
登録した就活のサイトから、何通もメールが送られてくるのに辟易した。自己分析であったり業種や職種を調べたり、インターンシップに参加したりとやることが一気に増えた。講義も専門性が増し、人間精神や心理という答えの見えないものに時間が費やされるようになった。
デジタル機器も筆記具も持ち込む必要がない銭湯が、マエリベリーにとって新鮮な癒しの場となっている。
が、頭はそういうわけにはいかず、就職先をどうするか、と絶えず考えている。
それでも、外部の情報や誘惑を半ば強制的に遮断できる環境は良い。
自分が社会に出て働いているのが想像できれば就職先も見つけやすくなるかもしれないが、全然想像できない。
漠然と、自身が学んだ分野を活かせるであろう職種を選んでいるが、それが自分に適しているかどうかとなると、また難しい問題だった。
多くの大学生がそういうことで悩んでいるのを就活のサイトは知っているらしく、アドバイスを送ってくれるが、自己分析、キャリアプランを立てて、年数で区切って……というもので、マエリベリーにはまだ早い考え方のような気がしてならない。
大学の先輩に訊いてみると、学んだことを活かすという考え方ではなく、給料や福利厚生などといった自分の希望を明らかにしてからでもいいのでははいか、と教えられた。
休みが少なく薄給の仕事に就きたいのか、と続けて問われて、そういう仕事には就きたくない、と答えた覚えがある。
公務員という選択肢があったのだが、マエリベリーの場合、国籍の問題が生じる。受験資格に、この国の国籍を取得している必要があるのだが、マエリベリーの在籍年数での取得は難しかった。
そのため必然的に、公務員以外の就職先を探さねばならない。選択肢が少なくなったのは嬉しい気もするが、そんな理由で選択肢が少なくなるとは思わなかった。
自分の国に戻れば、自分の国で公な職に就ける可能性があるのだが、そういう理由で帰国したくない。
働くために生きているように思えてしまう。
それに、帰国してしまえば、蓮子と疎遠になってしまいそうで恐ろしい。
いつまでも蓮子の背中を追いかけるのはおかしいことだと分かっているのだが、もうしばらくこの背中が見える所にいたい。
本人にはそんなこと、幼い子供のように思われそうで言いたくないが。
蓮子が院への進学を決めて何年もの過去問と向き合っている秋の暮れ、マエリベリーも就職のことを考えるようになった。
帰国することなく日本で就職先を探すと話した時、蓮子は目を見開いて、その大きな瞳の端に涙を浮かべて喜んでくれた。
そんな表情を見せると思っていなかったマエリベリーは、大いに驚いた。驚きを通り越して、不安や恐怖を懐いたような気もする。
秋は寂しい季節らしい。
マエリベリーにはよく分からない感覚だった。
冬が近づこうとして人肌が恋しくなっているだけではないか、と考えたりしたのだが、時の流れに思いを馳せると、自分も秋の寂しさを味わっていたような気もする。
秋の寂しさが、秘封倶楽部を感傷的にするのだろう。
火照った身体を冷ますように浴槽の縁に腰掛けていると、蓮子が湯船に浸かり、湯が溢れた。
空の桶が波に乗り、洗い場まで流される。
この頃の二人の話題は専ら院試と就活対策で、夏や秋の頃のように秘封倶楽部の活動を楽しむ余暇はなかった。
だからか、マエリベリーもそしておそらく蓮子も、今後、秘封倶楽部をどうしていくかということは示し合わせたかのように話さなかった。
それを口にするのは、きっと、来年の秋だろう。
そんな予感があった。
大浴場にマエリベリーの気遣うような柔らかな声が響く。
「院試の勉強は順調?」
蓮子は頭に乗せたタオルの角度を気にしながら、肩を落とす。
「過去問から専門の傾向は分かるけれど、英語が問題ね。高度で柔軟な思考が問われて困るわ。そっちは?」
興味本位で、蓮子が悪戦苦闘している過去問を見たことがある。マエリベリーには何も分からない問題の数々だった。
蓮子は少なからず理解しているようで、おそらく、多分、きっと、という言葉を並べたり並べなかったりしながら解き方を説明してくれる。それでも全然分からないが。
「こっちはそんなに本格的じゃないわ。春休みはどうか分からないけど」
「そうなの?」
「三月から、採用情報が明らかになって、説明会とか応募スタートって感じ」
「本格的になるわね。職種、絞ったの?」
「一応はね」
「どこ?」
「医療保健よ」
マエリベリーがその職種を選んだのは単純に自身の学んだ分野を活かせそうと思ったからに過ぎない。
結界に関することは結界省の担当であるが、結界に近づいてしまった精神の均衡を崩された人間のケアは、結界省の担当ではない。
病院や医者の務めであるが、結界による精神の均衡の崩れと社会的なことによる精神の均衡の崩れは微妙に違い、線引きも曖昧であり診断が難しい。
そこで、そういう結界による精神の問題を扱う者が重宝される。
大学を卒業してすぐにそういう者になれるのではなく、それ相応のカリキュラムを受けたり、実務経験を積み上げ、結界省と繋がりのある組織が作成した試験に合格して、そういう結界と精神の問題を扱う者としての資格を得られ働くことができる。
蓮子が大学院に合格し、マスターを手にする頃にはマエリベリーもそういう何か専門性を得た社会人になっていることだろう。双方の未来を楽観的に想像し過ぎだろうか。
「良いじゃない、そのままキャリアアップとかも考えているわけ?」
「どうかしらね。蓮子は院に進学してドクターまで考えているわけ?」
「まぁ今、目指すところはそこになるかしら。どうなるか分からないけどね」
「小泉教授の卒論指導って怖いんでしょう?」
「メリーの耳まで入ってるのね……」
「そんなになの?」
「テーマ決めの段階から、過去の卒論とか研究論文とかをすらすら話すし、新規性を求めるなら難しいかもしれませんとか、かしら?」
「卒業させたくないのかしら?」
尤もらしい疑問がマエリベリーの口から零れた。
教授としては留年生よりも卒業生が多い方が嬉しいと思うのだが、小泉はそう考えていないのだろうか。
蓮子が小泉を擁護するかのように教えてくれる。
「ほら、教授って有名じゃない? 私達はこれから社会に出たり、研究のために学会に出たりするわけじゃない。そこで落胆を味わわせるのが嫌みたい」
「でも卒論でそんなに変わるものなの?」
「さぁ、どうなんでしょうね。天才の考えることは分からないわ」
蓮子は大学院への進学を考えているが、面接免除の推薦を受けようとしている。この推薦を受けるには条件があるらしく、成績優秀者でなければならず、その数値を満たしている蓮子に驚いた。普通に講義を聞いていれば大体は何とかなるらしいので更に驚いた。
「一年研究が早くできるからって早期卒業を選ぶ変人なのよ、教授って」
「……あれなのかしらね、自分もできるからみんなできるって考える方なのかしらね」
「あー、有り得そう。だって、私にも早期卒業の話持ち掛けようとしたのよ?」
「あれって三年の履修登録の時に申請しないと受理されないやつよね?」
「そう。だから、当然、申請してると思って……。言われなかったけどね。本当、困った人だわ。お陰で卒業後のことをもう考えないといけなかったし大変よ」
マエリベリーが三年生の夏から卒業後の進路を考えるように意識したのは、蓮子の一言だったし、その蓮子は小泉教授の勘違いから考えざるを得なかったわけだ。
貴重な時間を多くの思案に割かれてしまったことを考えると、蓮子の言うように困った人間である。
普段であれば、蓮子のそういう一言を仲裁するような言葉を並べるのだが今回ばかりは頷かざるを得ない。
頭上で結んだ団子の髪が、揺れる。
そんなことを話していると蓮子が湯船から出て、脱衣所へ。マエリベリーは少し経ってから湯船を出た。
着替えている間もドライヤーで髪を乾かしている間も、身体中を湯気が包んでいた。
蓮子はマッサージチェアに座り、気持ち良さそうな声を上げる。その隣には、コーヒー牛乳の空瓶。
風呂上がりからのコーヒー牛乳とマッサージは蓮子にとってセットらしい。かつて力説された。
マエリベリーはその時の蓮子の言葉を、水を口にして、まだ微かに濡れた髪をタオルで乾かしながら適当な相槌を打っていた。だから、どうしてか覚えていない。
身体がほぐれて良い気持ちなのだろうという程度しか覚えていない。多分、そんなことを言っていたと思う。
そうして二人が銭湯を出た頃、外は少し暗くなっていた。
灰色の重たそうな雲が町全体を包み、風に吹かれた小雪が舞っていた。
アスファルトの上に落ちた雪は、瞬く間の溶け、一点の染みとなる。
マエリベリーは慌てることなく、マフラーや手袋を身につけ、鞄にしまっていた折り畳みの傘を開き、通りへ。
蓮子は帽子を万能だと信じている人間で、ちょっとやそっとのことでは傘を持ってこない。
やむまで待とうと言ったり、走れば大丈夫と言う。だから自然とマエリベリーは晴れの日でも鞄に傘を忍ばせるようになった。
銭湯から最寄りの駅までは距離がある。途中商店街がありアーケードを通るが、それも途中までで後は屋根のない大通りになる。
いつまで待っても蓮子は来ない。
振り向けば、蓮子は暖簾の向こうに戻っていた。
意を決したような、よし、という呟きが聞こえる。
「蓮子、冷えるわよ」
マエリベリーはそう言って、小さな傘を彼女の方へ分けた。微かについた雫が流れ、蓮子の手の甲へ。蓮子の驚きに満ちた声の後、確かめるように問われる。
「濡れるわよ?」
「大丈夫よこれくらい」
「誰に似たのかしらね一体」
「蓮子よ」
「気のせいよそれはきっと」
「そうかしら?」
「そうよ」
「じゃ、一人で帰るわね」
「嘘よ嘘。私のせいです」
「分かればいいのよ」
二人で入る傘は、思ったよりも小さかった。半身が雪に濡れる。
「ちょっとメリー、傘さすの下手じゃない?」
「傘をさすのに上手い下手もないのよ」
蓮子が持ち手を取ろうして傘が傾くし、歩きにくい。
「私がさした方が良いわよこれ」
「私の傘なんだけど?」
「ちょっと交代しましょうよ」
傘の主導権を交代したが、そもそも傘が小さく二人が濡れないようにするのは無理なことだった。
二人の肩に雪が落ちて、笑った。
蓮子がマエリベリーの歩調に合わせようとして、マエリベリーが蓮子の歩調に合わせようとして合わないこともあって、雪に見舞われる。
銭湯で温まった身体でなければ、とっくの間に冷え切っていたことだろう。
そんな折、マエリベリーは唐突に堪えれきなくなって訊いた。
「秘封倶楽部、どうするの?」
そう訊いてすぐに後悔した。
胸の奥に痛みを覚えた。
蓮子は突然問われても動じることなく、こう答えた。いずれそう問われることを分かっていたかのように。
「そんなことを考えるのは、まだ早いわよ」
蓮子は足を止めることはなかった。
マエリベリーも足を止めることはなかった。
二人は少しずつ、人の気配がしない商店街に差し掛かろうとしていた。
「そうかしら?」
「忙しくなるけど、終わったわけではないのよ」
「本当にそう思っていて?」
「本当よ。それにね」
蓮子は一度、言葉を切って、すぐにこう付け足した。
「秘封倶楽部は、私達だけだから秘封倶楽部なのよ。だから来るべき別れは、もっとずっと、ずっと先。だから、心配しなくてもいいのよ」
蓮子は達観していた。
マエリベリーは声を荒らげなかった。
それでも、足は止まった。
蓮子はマエリベリーの足が止まったことに気づかず、小さな傘の外に出た。
信号が青の歩道を、蓮子は一人で歩む。
マエリベリーは、蓮子のように達観できなかった。きっと蓮子よりも多い別れを体験しているのにも拘らず、そうなれなかった。
そうなることが正しいような気もするが、そうなれなかった。
溢れ出てくる蓮子との思い出が、達観を拒んだ。正しいとか正しくないとか、そういう話ではないのだ。
ただただ、マエリベリー自身が整理できないだけだ。そんな気がする。
一日、また一日と過ぎ去っていく時の中で、マエリベリーが受け止めるようになっていくしかない。まだその時ではなかった。
そして、この時になって、ようやく、意識的に離れ離れになるのが蓮子が初めてだと気づかされた。
ひとりぼっちになるのが、怖かった。
蓮子の姿は、商店街の中にあった。
信号は、赤に変わっていた。
通りを車が走り、蓮子の姿は見えなくなった。
「……メリー?」
蓮子の心配した声だけが聞こえる。
「寒くなってきたから先に帰るわね」
マエリベリーの声は、震えていた。
蓮子の返事は待てなかった。

信号が赤になり、車が両脇に停車した頃、メリーの姿はなかった。
蓮子は商店街の中を歩み帰路に着くのではなく、メリーの後ろ姿を追いかけた。白い息だけが風に乗り、商店街の方へと流れる。
走って通りに戻っても、メリーの姿は見えない。
小路を曲がり、別の通りに入ったのだろうか。小路に顔を出したりしてみたが、メリーの後ろ姿はない。
熱くなった頬にぶつかる雪は、冷たい。
メリーの前では動じないように努めて答えたが、もうそんなことを訊かれるとは思ってなかった。
小泉教授のせいだ、と他人のせいにしたくなる。誰かのせいにしたところで何も変わらず、むしろ一層、蓮子の胸に苦いものが広がる。
ああいう言葉が、伝えたかったのではない。ああいうふうな言葉を伝えるのは、きっとまだ先だろう。来年の今頃にああいう言葉を投げかけることができれば、良かった。
どうしてあんな冷徹な言葉が口から滑り落ちたのかといえば、あれはあれで蓮子の本音であったかただ。
そんなふうに心配する必要はない。
が、メリーが求めていたのは、違った。どういう言葉を掛ければいいのか分からないが、ああいう言葉ではないのは確かだ。
しかし、秋のあの日、蓮子の不安や寂しさを吹き飛ばしてくれた言葉と何が違うというののだろうか。また出会えることに変わりはないのに。
銭湯の前を通り抜け、小路に目を向けて、見知った背中を見つけた。
薄紫の小さな折り畳み傘は、さっきまで蓮子も入っていたものだった。
蓮子は荒れた息を整えることなく、優しく声をかける。
「メリー、そっちからだと遠回りよ」
メリーの足が止まり、返事が返ってくる。
「……いいのよ、そういう気分だから」
弱々しく震えた声。
蓮子は直接尋ねることはできず、こういう問いをメリーに差し出した。
「傘、入っても?」
メリーは振り向き、持っていた傘を、蓮子の方へと放り投げた。
傘は緩やかな放物線を描き、宙を舞う。
メリーの瞳は赤くなっていた。と思えば、たちまち涙で満ち、白い頬を伝い、結ったマフラーへと落ちる。
メリーは声を荒らげることはなく、静かに蓮子を問いただす。
「私だけなのかしら、離れたくないと思うのは。あなたにとって、そんなものかしら、私って」
メリーはメリーで、来るべき別れの時に備えようとしている。
蓮子のように、いずれまた会えると分かっていても、そうとは言えない。分かっていたとしても、そう言えるほど強くない。その会えない時間を考え、言えないのだメリーは。
しかし、蓮子は言ってしまった。
蓮子のエゴが、メリーを激しく傷つけたのは言うまでもない。
秘封倶楽部は、蓮子とメリーしかいない。
どのように終わらせるのかは二人で話し合って決めるべきだろう。
そう思っていた。
そうする気だった。
メリーもそう思って、助け舟を出してくれた。
しかし事実は、蓮子が一人でそういう言葉を吐き、片付けようとした。歩み寄ろうとう素振りすら見せずに。
違う、と発した言葉は震え、舞い散る雪に吸い込まれたのかメリーの耳には届かなかった。
「……違うのよ、メリー」
「何が違うっていうのよ」
「私もどうしたらいいのか分からないのよ」
「嘘はよして!」
メリーが叫んだ。悲鳴のような調子に、蓮子はメリーから目を逸らし、堪らず慄いた。
「飾りっ気のない正論で、自分は正しくて、人の気持ちを踏み躙って。そんなのあんまりだわ! ひとりになりたくないのは、私だけなのかしら!」
メリーは吐き捨てるように叫んで、蓮子の前から走り去った。
メリーの慟哭を受け、蓮子は彼女の背中を追いかけられなかった。
蓮子には実家があり、小泉の指導があり、森夫妻に囲まれて生活している。一人になったことがなく、院に進学しても、その環境に変わりはない。
しかし、メリーは違う。
メリーには、帰国して就職先を探す機会があった。けれども、メリーはこの国に残った。就職先のことを考えれば、帰国した方が良いのは既に聞かされたことだ。それでも、メリーはこの国で就職することを決めた。
メリーがこの国で、しかも京都で就職先を探すと聞いた時、蓮子は涙を零しそうになった。それくらい嬉しく、思わずメリーを抱きしめた。
大学で学んだことを活かせる職種が多そうだから、とメリーは言っていたが、それが理由の全てではないだろう。
あの時はそんなものなのかと思っていたが、今ならば他にも理由があると分かる。
きっと、蓮子がいるからだ。
蓮子が院への進学を決めて、京都にいると分かったからこそ、メリーも残ることにしたのだ。
四年に差し掛かろうという大学生活の中で、蓮子と出会ったからこそ、そういう選択が採れたのではないだろうか。一人にならないかもしれないと分かったからこそ、メリーは……。
一人の友達のために、母国に帰らないことが蓮子には可能だろうか。母国に帰れば今よりもずっと沢山で魅力的であろう働き口があるのに、蓮子ならば生まれ育った地に帰らないという選択が採れるだろうか。
きっと、蓮子にはできない。確率の高い方を選ぶに違いない。
蓮子はメリーの後を追いかけ、感謝と謝罪の言葉を送りたかった。
しかし、メリーの影を追いかけようとしても、涙で前が見えない。
どこにいるのか分からなかった。今の蓮子に、京都の町はあまりに広く感じた。
蓮子は震える指で、メリーに精一杯の連絡を送る。

――必ず迎えに行くから待ってて。

返事は、すぐに返ってきた。

――春に向かいに来て。

 

メリーと会わなかった冬は、長かった。一昨年や去年よりも長いような気がした。
会える機会はいくらでも作れたのだが、会わないようにした。
どういう顔で会い、話せばいいのか分からなかったのもあるが、メリーの方から春まで待ってほしいと希われ、そういうことになった。
そういう約束を破ってもよかった。しかし、その約束は破ってはいけないだろうと思い、律儀に守り続けた。その結界は飛び越えてはいけないと思った。
メリーとの仲は、森と細君の関係を時間が修復したように、きっと時が解決してくれるだろうと信じたし、そうなると信じておきたい。
蓮子はメリーと会わない間、院試の勉強と卒研の準備に集中した。メリーはメリーで就活の準備や卒論の準備に集中していることだろう。そう思える自信が、蓮子とメリーの間にはあった。
京都の各地で梅の花が開くようになった真昼間、大学の食堂で見慣れた顔と再会した。
春がいつから始まり、いつまで終わるのか蓮子は知らないしメリーも知らないだろう。が、きっと今は春と呼ばれる時分に違いない。カレーを待つ最中に食堂で働く者に訊くと、今は春だと教えてくれた。
蓮子は足取り軽く、彼女の前を目指す。
これからどこかの会社の面接に行くのか説明会に参加するのかリクルートスーツに黒いパンプスを合わせる彼女は、他の就活生と変わらない。襟が大きく見えるのは小さい顔のせいかもしれないが。
夏の頃は短く切っていた髪は初めて会った時のように長くなっていた。箒星のように煌めく金色の髪と青い瞳は、初めて会った時と同じように蓮子の目を奪った。
メリーは日替わり定食を食べながら、心持ち強張った表情で手帳に視線を落とす。
蓮子はカレーを乗ったトレーを、メリーの前に置いた。
メリーは視線を上げると、あっと驚いて、申しわけなさそうに眉を下げた。
「あの時はひどいこと言って、ごめんなさいね」
「お互い様よ。だから、この話はこれで終わり」
「そんな簡単でいいの?」
「いいのよ」
「あんなに悩んだのに呆気ないわねぇ……」
「そういうものなのよ」
そう言って話を別の所に移そうと思ったが、蓮子はメリーに感謝してもしきれないものがあり、再び話し始めた。
「ありがとうね、メリー。帰国した方が色々あるんでしょう? 仕事」
メリーは少し考え込んで、柔らかな調子で答える。
「……ないと言えば嘘になるかしら。でもいいのよ。この町、色々なことがあるし。それに」
「それに?」
「蓮子が、いるからね」
微笑するメリーが大人びて見えるのは、きっとその装いのせいだろう。しかしこうして真正面から言われると恥ずかしいものがある。一方で、胸の不安が解消される不思議な感覚を味わっていた。
蓮子は視線をカレーへと落として、適当にライスと混ぜながらこれまた適当に言葉を並べる。
「まぁ、そりゃ、ね。秘封倶楽部ですから。私とメリーだけのね。そりゃどっちかがいなくなったら、駄目なのよ。そうでしょう?」
メリーは笑顔で頷くと食事を終え、席を立つ。蓮子は急ぐことなくメリーの姿を目で追った。
「行ってらっしゃい。良い結果、待ってるわ」
「まだ早いわよ。そっちはそっちで頑張ってね」
聞き慣れたような聞き慣れていないようなヒールの音が、食堂に響く。
蓮子は後を追いかけることなく、どこか満ち足りた顔で残っているカレーに手をつける。
院試の過去問や今年の傾向を考えながら、説明会から帰ってくるメリーと行う花見のことなどを考えたりした。
今年はどこで催そうかなどということを。息抜きと神社仏閣を巡ったり、鴨川の様子を見に行ったりしてもいいのではないだろうか。そうして、今年の花見会場の目星をつけてもいいかもしれない。
〈了〉


 

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